甲子夜話卷之二 38 某家の家老、吉原町遊女のもとにて政務を辨ずる事
2―38 某家の家老、吉原町遊女のもとにて政務を辨ずる事
過にし頃、奧州を知れる某侯の家老、新吉原の遊女のもとに通ひ、後は甚しくなりて、用人奉行抔をも皆勸誘して、もし隨はざる者あれば、己が權に據て陵辱しければ、皆畏怖して隨ひ行けり。又甚しきは、一宿のみか居續して、十日にさへ及り。從へる用人奉行の輩も同じく居續ければ、其邸より官に申し出べき願書なども、皆遊宴の所に持來り、かむろ取次てかの家老に達せしとなり。竟に主君の咎めをうけて逼塞せり。これぞ寛政始の事なりけり。總て寛政にて維新の令を下されざりし前は、世上の弊風これに類すること夥しきことなりき。
■やぶちゃんの呟き
「某家」不詳。識者の御教授を乞う。
「過にし」「すぎにし」。
「奧州を」ママ。「奥州の」に読み換える。
「新吉原」当時世界最大の都市であった江戸の膨張の中、幕府は明暦二(一六五六)年十月に幕府は当時、現在の日本橋人形町に当たる当時は海岸に近かった元は葦屋(よしや)町(これが「よしはら」「よしわら」の語源)と呼ばれる地にあった「吉原」の移転を命じ、浅草寺裏の日本堤へ移転していた。
「己が權に據て」「おのがけんによりて」。
「陵辱」「凌辱」に同じい。暴行。
「居續」「ゐつづけ」。「流連」とも書き、遊里で幾日もの間、泊まり続けて遊ぶこと。対語
は「一夜切(いちやぎ)り」。
「及り」「およべり」。
「輩」「やから」。
「其邸」その江戸家老の屋敷。
「申し出べき」「まうしいづべき」。
「持來り」「もちきたり」。
「かむろ」「禿」。「かぶろ」と読むのが本来であるが、近世以後では「かむろ」と清音でも呼んだ。太夫(たゆう)・天神など上位の遊女が、傍に置いて使う一三、四歳くらいまでの遊女見習いの少女。この段階では男はとらない。
「取次て」「とりつぎて」。
「逼塞」「ひつそく(ひっそく)」。武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑)より重い。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された。
「寛政始」「かんせいはじめ」。「寛政」は一七八九年から一八〇一年。主に倹約を旨とするタイトな経済政策を打ち出した「寛政の改革」は松平定信が、老中在任期間中の一七八七年から一七九三年にかけて、主導して行ったから、まさに「寛政の」初めに相当する。
「寛政にて維新の令を下されざりし前」「寛政の改革」よりも前。一般には賄賂が横行したとされる「田沼時代」。老中の田沼意次が幕政を主導していた明和四(一七六七)年から天明六(一七八六)年までの凡そ二十年間(或いはそれより前の宝暦期(一七五一年から一七六四年)から天明期(一七八一年から一七八九年)ともされる)。田沼意次が幕閣に於いて政権を握ったのは安永八(一七七九)年)のことであり、特に天明元年を契機としたとされる。江戸幕府が重商主義的政策を採った時代である(以上はウィキの「田沼時代」に拠った)。「維新」は「維(こ)れ新たなり」の意で、「詩経」「大雅」の文王の「周は旧邦と雖も、其の命、維れ、新たなり」に基づく語で、「総ての事柄が改められ、完全に新しくなることを言う。
「弊風」「へいふう」。悪しき風俗。