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2016/10/15

譚海 卷之一 官醫池永昌安辨財天信仰の事

○官醫(くわんい)池永昌安、浪人の時より富有(ふいう)成(なり)けるが、辨財天を信じ、諸方の靈跡至らぬ所もなく、勇猛に誠心なりしかば、辨財天、夢中に見へ給ふ事、多時(たじ)也。則(すなはち)、託(たく)してのたまはく、我(われ)、三國に遊ぶといへども、敬信いまだ汝がごときものを見ずとて、種々問答に及び、祕訣、ことごとく附屬し玉ふよし、覺(おぼえ)て、後(のち)、記したるもの一卷にして、靑山出泉寺に納め有(あり)。宇賀神の說は權敎(ごんけう)なるよしを糺(ただ)して、直(ただち)に最勝王經の說により辨財天の像を造立(ざうりふ)し、自身の齒をぬきて其腹中に五寶とともにこめ、體髮(たいはつ)をとりて天女のみくしを飾り、夢中相承(そうしやう)の如く拵たりとぞ。五寶のうちにも、珊瑚(さんご)、こはくの類、おほくは、をじめに作りたる穴あるものにて、用(もちゐ)がたきよし、無孔(むこう)の珠(たま)を用(もちゐ)る事也とぞ。瑠璃(るり)は世界になきもののよし、びいどろ(硝子)を用(もちゐ)る事とぞ。其後、無上(むじやう)の願(ぐわん)を發(おこ)し、最勝王經所說を、ことごとく、まんだらにしたて、狩野探信(かのうたんしん)をして畫(かか)しめたり。大幅(だいふく)の懸物(かけもの)數十幅(ふく)に至り、金泥(きんでい)などは擂盆(らいぼん)にてすりて用(もちゐ)たり。七千兩の金(きん)を費(ついへ)するに成(なり)たり。大發願(だいほつぐわん)まんだらの最中(さいちう)、官醫の命も下(くだ)りける事とぞ。後に此(この)曼陀羅、威成院權僧正に寄附しけるとぞ。

[やぶちゃん注:「池永昌安」不詳。

「富有(ふゆう)」「富裕(ふゆう)」。但し、同義の「富祐」なら「ふいう」。

「辨財天」彼が裕福であるのは弁財天(サラスヴァティー)がもともとは財宝神であることと通ずるし、彼が医師という特異な才能・技能の所持者であることは技芸神であるこことも通ずる。後に出る弁財天の「祕訣」(底本では『訣』の右に『曲』と訂正注するが、私は採らない。「秘訣」でよいと思う。「曲」では字面上では音楽神としての弁財天に限定されしまいそうになるからである)とは、またそうした蓄財の秘訣や医術の技能のそれを指すのである。

「勇猛に誠心なりしかば」「勇猛に」はここでは一種の強調表現で、「一途に弁財天への信仰の誠(まこと)を不断に貫いてきたから」の謂いであろう。

「辨財天、夢中に見へ給ふ事、多時(たじ)也」昌安の睡眠中の夢の中に弁財天が御姿を現わさるること、これ、頻繁であった。

「託(たく)してのたまはく」昌安の夢中に出現した弁財天が彼に昌安して託宣するのである。以下、「我(われ)、三國に遊ぶといへども、敬信いまだ汝がごときものを見ず」がそれである。「三國」仏教では日本・唐土・天竺の三つの国。転じて全世界の意。

「附屬し玉ふ」ここでの「附属」とは「ふしょく」とも読み、本来は、師が弟子に仏教を伝え、その布教を託すことを指す。昌安への弁財天の秘伝伝授に、そのニュアンスを含ませてあるのであろう。底本では『屬』の右に『與』と訂正注するが、これも私は採らない。

「覺(おぼえ)て」昌安は夢の中で伝授された、それらを逐一、記憶して。

「靑山出泉寺」不詳。現存しないか、或いは、原典の誤記かも知れぬ。

「宇賀神の說は權敎(ごんけう)なるよしを糺(ただ)して」ウィキの「弁財天」によれば、弁財天信仰は『中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも言われる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身は蛇や龍とされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず』、『それが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである』。『宇賀弁才天は』八臂(はっぴん)像(八本の腕を持つ像)の『作例が多く、その持物は』「金光明経」に説かれた八臂弁才天の持ち物が『全て武器であるのに対し、新たに「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなっている』。『弁才天には「十五童子」が眷属として従うが、これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれ、平安風童子の角髪(みずら)に結った姿をとる。十六童子とされる場合もある』とあり、こうした得体の知れぬ禍々しい蛇神の習合と信仰を昌安は「權教」(ごんきょう:真実の教えに導くために「方便」として示された、人々が受け入れ易くした仮の教え(対語は「実教」))であるとして敢然と「糺した」のである(「糺す」は「真偽や事実を厳しく問い調べる」の意)。

「直(ただち)に」「ぢきに」と訓じてもよい。そうした権教批判を行ってすぐに、いまわしい蛇なんぞとは違う、自分の見た真の弁財天の形相(けいそう)を、の謂いである。

「最勝王經」四世紀頃に成立したと考えられている仏教経典の一つである「金光明経(こんこうみょうきょう)」を、唐の義浄がインドから持ち込んで新たにオリジナル漢訳した「金光明最勝王経」のことであろう。同経では四天王を始めとして弁才天や吉祥天・堅牢地神などの諸天善神が国を守護すると説いている。ウィキの「弁財天」の「像容」よれば、『原語の「サラスヴァティー」はインドの聖なる河の名である。サラスヴァティーには様々な異名と性質があり、弁才天も音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神など幅広い性格をもつ。像容は』八臂像と二臂像の二つに大別され、八臂像は「金光明最勝王経」の「大弁才天女品(ほん)」の所説によるもので、八本の手には・弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索(けんさく:投げ繩)を持つと説かれる。『その全てが武器に類するものである。同経典では弁才・知恵の神としての性格が多く説かれているが、その像容は鎮護国家の戦神としての姿が強調されている』。一方、二臂像は『琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え』、「大日経」では『妙音天、美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。ただし、胎蔵曼荼羅中に見える』二臂像は、『後世日本で広く信仰された天女形ではなく、菩薩形の像である』とあるから(下線やぶちゃん)、ここで昌安が造立したそれは八臂弁財天像であったととらねばならぬ。ウィキの画像をリンクさせておく。

「五寶」仏語。五種の代表的な宝。「陀羅尼集経」では金・銀・真珠・珊瑚・琥珀とし、真言宗では金・銀・真珠・瑠璃・水晶又は琥珀とするなど、命数の対象物は微妙に異なる。ここでは以下の叙述を見る限りでは、金・銀は当然として後の三つは珊瑚・琥珀・瑠璃(硝子)と昌安は考えているように読める。なお、他に「四宝(金・銀・瑠璃・玻璃)」や「七宝(金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ:シャコガイ或いは白色系の珊瑚)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)(「無量寿経」)/金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい:不明。赤色系の宝玉とも)(「法華経」)」の命数もある。

「體髮(たいはつ)」自分の頭髪。

「みくし」「御髮(みぐし)」。

「夢中相承(そうしやう)の如く拵たり」夢の中で対面した師弁財天の貴い尊容そのままに、弟子たる昌安がその教えを受け継いだ証しとして造立した、というのであろう。

「おほくは」「多くは」。

「をじめ」「緖締」。携帯用の袋や巾着(きんちゃく)などの口に回した緒を束ねて締めるための器具。多くは球形で玉・石・角・練り物などで作る。緒止(おど)め。

「用(もちゐ)がたきよし、無孔(むこう)の珠(たま)を用(もちゐ)る事也とぞ」「五宝」として用いるには孔(あな)空きのものなど以ての外、孔の開いていない全き物を用いねばならぬ、というのであろう。意図はよく判る。

「瑠璃(るり)」昌安はこの現実「世界になきもの」と言っているが、実在はする。サンスクリット語では「バイドゥーリヤ」で、「吠(べい)瑠璃」とも漢訳され、「青色の宝石」として仏典に頻出するもので、仏教で尊崇する神聖な宝として概ね金・銀に次ぐ第三位のそれとされた。現行ではアフガニスタンのバダクシャーンに産地があったラピスラズリ(lapis lazulilazurite:青金石(せいきんせき):「瑠璃」「ラズライト」とも称し、群青色をした古来より珍重された鉱物。方ソーダ石の一種で十二面体の結晶形が明らかなものも稀れに産するが、普通は緻密な塊を成す。接触変成作用を受けた石灰岩中に黄鉄鉱・透輝石などとともに産する。アフガニスタンのものが昔から有名で、旧ソ連地域・チリ・イタリア・アメリカなどからも産するが、日本からの産出は未だ報告されていない。宝飾品として好まれるものはラピスラズリに黄鉄鉱が混じったもので、磨くと、濃い青地に金色の斑点が輝いて美しい。岩絵の具で昔から使われてきた本来の「群青」はラピスラズリを粉末にしたものである。学名の「ラピス」はラテン語の「石」の意、「ラズリ」は青を意味するペルシア語に由来する。[松原 聰])であろうとされている。西暦紀元以後は「青色のガラス製品」も「瑠璃」と呼ばれるようになった(以上は「青金石」も含めて小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「まんだら」「曼荼羅」。先のウィキの「弁財天」の「像容」には『密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中に』『バチを持って奏する音楽神の形をとっている二臂像は琵琶を抱え』た『その姿が見え』ているとあるが、ここははっきり「最勝王經所說を、ことごとく、まんだらにしたて」と述べている以上、二臂像ではなく、あくまで八臂弁財天像でなくてはならぬ。

「狩野探信」かく号する狩野派画人は実は、かの狩野探幽の長子と、狩野探牧の長子と二人がいるが、本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の見聞記で、後者は天明五(一七八五)年生まれで、寛政七(一七九六)年では未だ十一歳であるから、前者となる。この狩野探信(承応(じょうおう)二(一六五三)年~享保三(一七一八)年)は狩野探幽の長男で、父の跡をうけて鍛冶橋狩野家を継ぎ、御所や江戸城の障壁画の制作に参加、正徳五(一七一五)年には法眼(ほうげん)の位を授かっている。ただ気になるのは、この記事が書き始めの安永五(一七七七)年に書かれたものとしても、探信の死はそれよりも五十九年も前である。一見、本条は昌安なる人物が筆者津村淙庵に直に語ったように書かれてはいるものの、淙庵の生年は元文元(一七三六)年頃であり、末尾の箇所に「官醫の命も下りける事とぞ」という伝聞過去の助動詞「けり」と、連語「とぞ」(格助詞「と」+係助詞「ぞ」。でここは文末に用いて「一般にいわれている」又は「伝聞したことである」の意を表す)から、実は古い事績を掘り起こして書いた内容であることがここに至って判明するのである。

「大幅(だいふく)の懸物(かけもの)數十幅(ふく)」これは、とんでもなく破格に大きな曼荼羅である。しかし、残念なことに次の「覺樹王院權僧正の事」で寄付した寺が焼けて全焼して今に伝わらぬそうである。

「金泥(きんでい)」「こんでい」と読んでもよい(最初に断わってあるのだが、本底本にはルビはなく、総て私が推定した読みである)。金粉を膠(にかわ)の液で泥のように溶かしたもので日本画や装飾、また、写経にも用いた。

「擂盆(らいぼん)」擂鉢。

「七千兩の金(きん)」享保(探信の最晩年と比定)小判一両は現在の凡そ八万円とする換算説があるので、実に五億六千万円相当の金ということにある!

「威成院權僧正」不詳。但し、「威成院」というのは実在した寺のようで「近世文藝叢書」の(グーグル・ブックス)で『威成院の良昌僧都』と出る。識者の御教授を乞う。]

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