佐渡怪談藻鹽草 法螺貝の出しを見る事
法螺(ほら)貝の出(いで)しを見る事
眞如院文教法印、物語に、
「予八九才の頃、下黑山村に伯母の侍りて、折々遊びに罷りし。或年の五月ころ、明の氣色も、曇がちにて、外へも出ず。夕方より何とやらん、物音噪がしかりしに、翌日の朝、まだ日の闇(くら)きに、前なる稻場へ出て見れば、山などのかたぶきし所に、大き成(なる)割れの見へし。其あたりに、見なれぬ鷄の、二つつれ立(たち)て、あるき侍れば、珍(めづ)ら敷(しく)おぼへ、走り寄(よせ)て見れば、さはなくて、山伏のもてる、ほらの貝の中より、身の出て這(はひ)𢌞りしなん有ける。人にも見せなんとおもひて、急ぎ伯母にかくと語りいへば、人々いざなひ、かけ來りし。物音にや驚きけんやらん、二つともに、地の割(われ)たる所へ落入(おちいり)、二度出ざりし。此(この)所は海邊より三里斗りも侍(はべる)らん。山にもかゝる物の住(すみ)侍るにこそ、珍ら敷(しき)事に覺(おぼえ)し。其後、貝の出たる事も聞(きゝ)侍らず」
と語られし。
[やぶちゃん注:山に棲む法螺貝の怪は前条「堂の釜崩れの事」で詳しく注しておいた。そちらを必ず参照されたい。
「眞如院」「しんによゐん」。現在の佐渡市相川下寺町に現存する真言宗の医王山真如院(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「文教法印」不詳。
「下黑山村」現在の佐渡市下黒山は小佐渡の南の半島部の中央の殆んど平地のない山稜一帯の完全な内陸にある。後に「海邊より三里斗り」とあるように、現在の同地区の中心部から直線で計測すると、本土側の海岸線までは七キロ以上、真野湾方向の最短距離でも四・五キロを越える。
「明」「あけ」。曙。
「噪がしかり」「さはがしかり」。
「稻場」「いなば」。稲を刈り取った後に干すための場所。稲架(はざ/はさ)が普及以前に用いた。
「鷄」「とり」。鳥。
「二つつれ立(たち)て」二羽連れ立って。
「さはなくて」そうではなくて。鳥ではなくて。
「ほらの貝の中より、身の出て這(はひ)𢌞りしなん有ける」これは前後の描写から、完全に軟体部が抜け出たのではなくて、螺口から外套膜を張り出して貝殻をおっ立てるようにして、極めて活動的に移動していたことを示す。だからこそ鳥の地を歩くように見えたのである。]
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