私の小説作法 梅崎春生
「小説」というものは、それがつくられるためにいろいろと複雑な個人的(また社会的)な条件があり、また単に技術だけで製作されるものではないから、その「小説作法」なるものは「ラジオの組立て方」とか「ダンス教習法」などとは根本的に異なる。かんたんに伝授出来るわけのものでない。また伝授される側からしても、研鑚(けんさん)これ勉めてついに免許皆伝にいたる、という筋合いのものではない。
もし「小説」が、剣術あるいは忍術に類するものであれば、世の小説家は絶対に「小説作法」なるものを書かないであろう。その「小説作法」を皆が読み、その奥義を会得することによって、やがて師をしのぐ作品をどしどし書かれては、今度は師の方が上ったりになるからである。それでは困る。私だってそうやすやすと上ったりになりたくはない。しかし小説というものは、現在においてはそういう仕組みのものではなく、伝授不可能なものが大部分を占めているので、私も安心して「私の小説作法」が書ける。
現在においては、と今書いたが、将来小説はどうなって行くか。それは私も予想出来ないけれども、あるいは将来において、小説の実質がすべて技術的なもので充たされる、ということも考えられないでもない。つまり小説が、創作されるという形から、合成されるという形に変って行き、その小説製造者も個人から集団ということになって行く。現在の映画製作のような機構になって、小説が合成されるだろうということを、私はかつて考えたことがある。
そうなれば個人の作家というのはなくなって、あいつは筆がなよやかだから濡れ場のところを分担させようとか、こいつは間抜けた才能があるからギャグ効果を受け持たせようとか、それぞれの技術と才能において小説に参加する。もうそうなると小説も「作法」などというなまやさしいものでなくなってくる。そういう大小説になると、個人としての批評は細微の点までつけなくなるので、批評家たちも集団を組んで、批評文の合成をもってこれに対抗する。
そうなればそんな大小説も大評論も、読者個人個人の鑑賞の手にあまるから、誰も読まなくなってしまう。誰も読まないとなると、小説も評論も企業として成立しなくなり、そこで文学は終焉(しゅうえん)する。文学者たちはみんな失業し、六月間失業保険の支給を受けたのち、それぞれニコヨンなどに転落して行く。寒空の道路工事場でスコップの手を休め、水洟(みずばな)をすすり上げながら、昔日の小説家の幸福をうらやむということになるかも知れない。
しかし私が生きている間には、まだそんな事態は来ないだろう。来たらたいへんだ。来るということを考えたくない。
小説というものは大体十九世紀が頂点で、以後徐々に下降して行く傾向にある。小説家の幸福もその線に沿って下降して行く。個人の豊かな結実、その豊かさがだんだん減少し、貧弱になってゆく。他の人間、他の職業人と同じく小説家自身もだんだん細化され分化されて行く。一方社会機構はその細分化された人間を踏み台にして、ますます複雑化されふくれ上って行く。個人としての小説家は、もうその弱々しい触手をもってしては、厖大(ぼうだい)なる社会機構をとらえることは出来ない。機械の中の一本の釘となり、硬直した姿勢で、釘としての役目を果たすことで精いっぱいになってしまうだろう。
破局的なことばかり書いたが、幸い現在はまだそこまで押しつまっていないので、小説家が自由業として成立する。現在小説家という職業は、身分的に言ってもあやふやなものであるが、仕事の内容もあやふやであって、明確にされていない部分が非常に多い。小説を書こうという衝動、発想、それらと現実との関係、現実を再編成して第二次の現実をつくり出す方法や技術、その間における作家の責任、その他もろもろのことが、ほとんど明確に規定されることなく、作家の個人個人の恣意(しい)(?)に委せられている。だから小説家は自分の方法をもってそれぞれ作品をつくっているわけであるが、自分の方法と言ってもあいまいなもので、精密な設計図として内部にあるのではなく、大ざっばな見積りとしてしかないのである。いや、見積りという程度のものもなくても、小説作製は可能である。自分の内部のものをむりに明確化し図式化することは、往々にしてその作家の小説をだめなものにしてしまう。むりに見積らない方が賢明であるとも言える。自分の内部の深淵、いや、本当は深淵でなく浅い水たまりに過ぎないとしても、それをしょっちゅうかき廻し、どろどろに濁らせて、底が見えない状態に保って置く必要がある。底が見えなければ、それが深淵であるか浅い水たまりであるか、誰にも判りゃしない。自分にすら判らない。自分にも判らない程度に混沌とさせておくべきである。その混沌たる水深が、言わば作家の見栄のよりどころである。作家という職業は虚栄心あるいはうぬっぼれが強烈でなければ成立しない職業であって、それらを支えているものがその深淵であり、あるいは深淵だと自分が信じているところの水たまりなのである。一朝ことあってその水たまりが乾上り、自分が小説を書く技術だけの存在になったと自覚した時、その作家は虚栄心を打ちのめされて絶望するだろう。絶望したとたんに、作家以外のものに変身するだろう。たとえ小説作製は相変らず継続して行くとしても。
小説家というものは、判らないからこそ小説を書くのである。判ってしまえば小説なんか書かない。小説家は何時もそんな逃げ口上めいた言い訳を持っている。デーモン、いやな言葉であるが、そんなもの持ち出して来る。自分の内部の水たまりに、そんな主が棲息しているかどうか、ひっかき廻しても幸いにどろどろに濁っているので、自分にも判然しない。判然しないけれども、そうだと信じさえすれば、それは棲息しているのと同様である。いてもいなくても、要は信じること。他のことは何も信じないでもいいが、これだけはこの職業では信じなくてはならない。自分は才能は貧しくとも、芸術家としては一流でなくても、ほんものかにせものかという点では、断じてほんものであるという自覚、これが大切である。
この私の考え方はやや古風な考え方であって、私以前の文学者の心得みたいなものなのであるが、まだこれはすぐに廃(すた)る考え方ではないから、今から文学に志そうとする人も、これを一概にしりぞけない方がいいだろう。昭和初年の文学青年たちは、みんなそれを信じることによって生きて来た。あの頃文学に志すことは、現今と違って、ほとんど現在を捨てることと同義であった。自分の水たまりに棲むものが、竜であるか、あるいはドジョウであるかミジンコであるか、一生かかっても判らないことだ。その判らないことの上に、文学者の意識なり生活なりが成立する。その成立の状況もいろいろあやふやなものがあって、内部の水たまりが乾上ったのに、乾上ったという自覚症状がなく、そのまま継続している場合もあれば、水たまりはそのままでも、ドジョウそのものは腹を上にして死んで浮き上っているという場合もある。複雑多岐であって、そこらのかねあいがむずかしい。
とにかくそういう個々の立場から、小説家たちはそれぞれ自分の方法で、現実の一片を切り取ってそのまま書くとか、すこし変形して書くとか、架空の材を使って書くとか、いろいろのことをやる。れいのドジョウとのかかわりの上において、あるいはかかわったつもりの上において、小説というものが作られる。「私の小説作法」という題で、私は自分の事は語らず、なんだか見当違いの事ばかり書いてしまった。書き直す時日もないのでこのまま出すが、まことにだらしなく申し訳がない。
[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年二月号『文芸』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。
「ニコヨン」日雇労働者を指す俗語。昭和二四(一九四九)年に東京都職業安定所が失業対策事業として定めた日雇労働者の定額日給が二百四十円で、それが当時の百円札で二枚(二個)と十円札四枚に相当したことに由来する。現行では放送コードその他により「差別用語」「死後」扱いに近く、由来自体が理解されないことから、「日雇い(労働者)」と言い換えられることが多いようである。
「デーモン」demon。悪鬼・鬼・悪魔。この demon は元来はギリシャ神話で神々と人間との中間にあると考えられた悪魔を指し、後のキリスト教に於ける神に対する悪魔は devil と区別される。
「ドジョウ」泥鰌。狭義の本邦産のそれは動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 条鰭綱 Actinopterygii 骨鰾上目 Ostariophysiコイ目 Cypriniformes ドジョウ科 Cobitidae ドジョウ属 Misgurnus ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus。
「ミジンコ」「微塵子」は単一種を指す種名ではなく、淡水・汽水・海水中でプランクトンとして生活する微小甲殻類の総称俗称で、主に
・鰓脚綱枝角(ミジンコ)目(動物界節足動物門 Arthropoda 甲殻亜門 Crustacea 鰓脚綱 Branchiopoda 葉脚亜綱 Phyllopoda 双殻目 Diplostraca 枝角亜目 Cladocera)に属する異脚下目 Anomopoda・櫛脚下目 Ctenopoda・鉤脚下目 Onychopoda・単脚下目 Haplopodaに分類される多種多様な種群
・甲殻亜門顎脚綱 Maxillopoda 貝虫(かいちゅう)亜綱 Ostracoda ミオドコーパ上目 Myodocopa ミオドーコ目 Myodocopida の、主に淡水産の貝虫類の中でも橈微塵子(カイミジンコ)と呼ばれる多種多様な種群
・甲殻亜門顎脚綱 Maxillopoda カイアシ亜綱 Copepoda キクロプス目 Cyclopoida キクロプス(ケンミジンコ)科 Cyclopidae キクロプス(ケンミジンコ)属
Cyclops に属する剣微塵子(ケンミジンコ)類
・枝角亜目異脚下目ミジンコ科 Daphniidae ミジンコ属
Daphnia のミジンコ Daphnia
pulex などに代表される多種多様なミジンコ類
を指すが、概ね、我々が形状としてイメージするそれは最後の名にし負うところの、ミジンコ Daphnia pulex である。]