谷の響 二の卷 五 蟹羽を生ず
五 蟹羽を生ず
官醫佐々木某なる人、幼弱(ことも)の時湯口村なる菅公庿(てんじんぐう)へ參詣(まゐり)てその歸るさに、小さき澤蟹數十を購(あがな)ひ水鉢に入れて翫弄(もてあそ)びしが、六七日の間に不殘(みな)脱(にげ)出で有處をしらずなりぬ。然るにその年の七月頃、厨下(だいどころ)の床の下より一箇(ひとつ)二箇(ふたつ)或は六箇七箇ばかり日々出たりしを見れば、盡(みな)蟬の如き薄き羽を生じて何處(いづく)ともなく飛去りしが、夾(はさみ)も脚もそのまゝにて有しとぞ。こは天保初年のことなりとて、この佐々木氏語りしなり。住むところによりては、蟹もかく變ずるものにこそあれ。
[やぶちゃん注:「幼弱(ことも)」読みはママ。
「湯口村」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『中津軽郡相馬村湯口(ゆぐち)。弘前市の西郊二里ばかりの農山村』とある。現在は青森県弘前市湯口である。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「菅公庿(てんじんぐう)」不詳。現在、弘前市湯口には石戸神社 という神社があるが、調べる限りでは菅原道真は祀っていない。
「澤蟹」節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ
Geothelphusa dehaani。日本固有種で、青森県からトカラ列島(中之島)まで分布するとされる。偶然の配列であるが、前話のヒトの寄生虫症との関連のある生物である。ウィキの「サワガニ」によれば、肺気腫や気胸を引き起こす肺臓ジストマの一種(以下の二種による寄生虫症)の中間宿主で、生食或いは加熱不十分な状態で食用とした場合に発症することがあるので注意が必要である。まず一種は、前話の注に出した、同種に寄生する扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科
Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウ(ウェステルマン肺吸虫)Paragonimus
westermani)で、「ウェステルマン肺吸虫症」を引き起こす。『成虫は肺に寄生し、血痰と胸部異常陰影が特徴。確定診断には血痰あるいは糞便から虫卵の検出』。なお、同種はやはり、よく食用にされる『モクズガニも中間宿主』であるので、やはり注意が必要である。次に宮崎肺吸虫(同じく
Paragonimus 属のミヤザキハイキュウチュウParagonimus
miyazakii)による「宮崎肺吸虫症」である。『幼虫は腸壁を突き破って、胸腔あるいは皮下まで移動するが、肺まで到達できない。胸膜炎、自然気胸、皮下腫瘤、好酸球増多などの症状がみられる。虫卵を検出することができないので、血中抗体測定法で診断』する。
「天保初年」天保元年はグレゴリオ暦一八三〇年。]