甲子夜話卷之二 21 神祖御遺跡を松前氏追崇せし事
2―21 神祖御遺跡を松前氏追崇せし事
十餘年前、松前氏の領知せし蝦夷の地御手入、東西の地より奧迄を追々に召上られ、松前氏には新に奧州の梁川を賜へり。是時、松前氏思ようは、祖先の傳領かく成行くは、全く神祖御恩澤の滅盡したるなれば、神祖尊靈の御怒にやとて、所在の神祖の御遺跡に代拜の人を遣し、又敬賽のこと抔ありて殊に崇重し奉り、其罪を謝せしと云。此こと世に知者も無かりしが、此冬、舊領の地方悉く故の如く下し賜との大命ありて舊知に復せり。此に至りて神祖を敬禮し奉りしことを人々知れりと云。或人の語しままを記す。
■やぶちゃんの呟き
「神祖」家康。
「御遺跡」日光東照宮であろう。
「松前氏」静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのが文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜であり、松前藩が東蝦夷地を幕府に一時的に没収された最初は寛政一一(一七九九)年三月二十一日で、当時の藩主は第九代松前章広(あきひろ 安永四(一七七五)年~天保四(一八三三)年)。この時は代わりに武蔵国埼玉郡内に五千石が与えられたが、享和元(一八〇一)年七月二十一日に幕府は東蝦夷地支配の永続化を決定、武蔵国内の領地五千石も収公された上、文化四(一八〇七)年三月十二日には章広はその所領を西蝦夷地から陸奥国伊達郡梁川藩(やながわはん:現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡の梁川城跡に陣屋を置いたに九千石で移封されてしまう(ここはウィキの「松前章広」に拠る)。ここはその文化四年のそれを指し、十四年前で「十餘年前」は自然である。なお、ウィキの「松前藩」によれば、この移封はの淵源は、十八世紀半ばに『ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた』ことに発し、『松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は』、天明五(一七八五)年『から調査の人員をしばしば派遣し』、寛政一一(一七九九)年『に藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち』一月十六日『に東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを』七年間の限定で上知(あげち:大名や旗本が領知である知行地を官に返還すこと)『することを決め』、八月十二日『には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に』五千石『を与え、各年に若干の金を給付することとした』。享和二(一八〇二)年五月二十四日に七年とした『上知の期限を迎えたが、蝦夷地の返還は行われな』われず、逆に上記の通り、文化四年に『西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川に』転封されたのである。『なお、この際に藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた(一説には密貿易との関係が原因に挙げられているが、当時の記録には道広が遊女を囲ったとする風聞に関する記事が出ており、放蕩説が有力である)』とある(下線やぶちゃん)。ここに書かれた内容のブラックな裏が透けて見える。
「追崇」「ついすう」。「ついそう」とも読む。ある人物を死後に崇(あが)めること。
「御手入」「おていれ」。天領として召し上げられ。
「追々に」順々に。前に示した通り、正しい表現である。
「新に」「あらたに」。
「思ようは」「おもふよ(や)うは」。歴史的仮名遣は誤り。
「成行くは」「なりゆくは」。
「滅盡したるなれば」「滅盡」は「めつじん」。悉く消滅し尽くしたのであるから。
「御怒」「おんいかり」。
「敬賽」「けいさい」。神仏を敬い祀ること。
「崇重」「すうちよう」。尊び重んじること。
「知者」「しるもの」。
「此冬、舊領の地方悉く故の如く下し賜との大命ありて舊知に復せり」「故」は「もと」。松前藩は梁川藩移封の僅か九ヶ月後の同年十二月四日に旧領に復している。ウィキの「松前章広」によれば、『復領は、ロシアからの脅威が低くなったという名目で行われたが、内実は父・道広の伝手から将軍徳川家斉の父・一橋治済に接近、老中水野忠成への莫大な賄賂攻勢を行い、家斉に請願した結果であることが、「水戸烈公上書」や「藤田東湖見聞偶筆」に記されている』とある(下線やぶちゃん)。ここでも、ここに書かれた内容のよりブラックな裏が透けて見えるではないか。
「此に至りて神祖を敬禮し奉りしことを人々知れり」この復領劇によって松前藩主松前章広殿が神君家康公を心から敬い奉つられた(その結果としてこのような短期の驚くべき幕府の処置が行われた)ことを庶民は知ったのである。
「語し」「かたりし」。
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