甲子夜話卷之二 33 秋田にて雷獸を食せし士の事
2―33 秋田にて雷獸を食せし士の事
出羽國秋田は、冬は雪殊に降積り、高さ數丈に及て、家を埋み山を沒す。然に雷の鳴こと甚しく、夏に異らず。却て夏は雷鳴あること希にて、其聲も强からず。冬は數々鳴て、聲雪吹(フヾキ)に交りて尤迅し。又挺發すること度々ありて、其墮る每に必獸ありて共に墮つ。形猫のごとしと。これ先年秋田の支封壱岐守の叔父中務の語しなり。又語しは、秋田侯の近習某、性强壯、一日霆激して屋頭に墮。雷獸あり。渠卽これを捕獲煮て食すと。然ば雷獸は無毒のものと見えたり。
■やぶちゃんの呟き
「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』(下線やぶちゃん。前者は「甲子夜話卷之八」の8の「鳥越袋町に雷震せし時の事」を指す)。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata)『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。
「數丈」「すじやう」。一丈は三メートル。秋田の現在の年間降雪量二メートル七十一センチで世界でも指折り豪雪地で、一部では世界ランキング第八位とする。しかし、「數丈」は大袈裟過ぎ(私は不定数を示す「数」は一単位の六倍前後と考えているからである)。
「及て」「およびて」。
「埋み」「うづみ」。
「然に」「しかるに」。
「鳴こと」「なること」。
「却て」「かへつて」。
「希」「まれ」。
「數々」「しばしば」。
「鳴て」「なりて」。
「尤迅し」「もつともはやし」。
「挺發」「テイハツ」と音読みしておくが、意味不明。「挺」は「先に抜け出て進む・一群ら抜きん出る」意で、「發」は「爆発」の意で、これは落雷現象のことを指していると私は読む。だからこそ直後で「其墮る毎に」(そのおつるごとに)と続くのである。
「必」「かならず」。
「獸」雷獣。
「秋田の支封壱岐守の叔父中務」「支封」(しふう)とは支藩の意か。秋田藩(久保田藩)の支藩には岩崎藩があり、これは元禄一四(一七〇一)年に久保田藩第三代藩主佐竹義処(よしずみ)が弟の壱岐守義長に新田二万石を蔵米で分知したことに始まる藩で、「甲子夜話」執筆前となると、第五代藩主佐竹義知(よしちか)か、第六代藩主佐竹義純(よしずみ)である。その静山の「叔父」でもある「中務」(なかつかさ)とは、同佐竹家血縁の家臣の系列の人物か。少し後の主家久保田藩の第十代藩主佐竹義厚(よしひろ)の家臣団の中に「佐竹中務」の名を見出せるからである。
「語し」「かたりし」。
「近習」「きんじふ(きんじゅう)」或いは「きんじゆ(きんじゅ)」。主君の傍近くに仕える者。
「霆激」「ていげき」。稲妻が一気に激しく打つこと。
「屋頭」「やがしら」。棟木のことか。
「墮」「おつ」。
「渠」「かれ」。彼。
「卽」「すなはち」。
「捕獲」「とらへ」と訓じておく。
「然ば」「しかれば」。