諸國百物語卷之四 十一 氣ちがいの女をみて幽靈かと思ひし事
十一 氣ちがいの女をみて幽靈かと思ひし事
ある人、あづまより、みやこへのぼるとて、みちにて、日くれ、雨にあひて、とまりはぐれて、かなたこなたとする所に、かしこに、柴のかりや一けんありけるを、たちより、
「一やのやどをかし給はれ」
と云ふ。ていしゆ、たちいで、
「やすき事也」
とて、よびいれ、たき火などにあたらせけるが、夜もやうやう四つじぶんのころ、ていしゆの女ばう、わづらふと見へしが、その夜にむなしくなりにけり。ていしゆ、たび人をたのみ、
「われは寺へまゐり、出家をたのみまいるべし。そのあいだ、るすをたのみ申す」
とて、ていしゆは、たちいでぬ。たび人、すさまじくおもひけれども、ぜひなく、るすしてゐたりけるが、なにとやらん、おそろしく、身のけもよだつばかりにおもひける折ふし、なんどのかたより、としのほど、廿あまりなる女、いろしろくかねくろぐとつけたるがいでゝ、たび人を見て、にこにこと、わらふ。たび人、これを見て、氣もたましひも、うせはてゝ、身をすくめてゐたりし所へ、ていしゆ、かへりければ、たび人、うれしくて、
「さてさて、ふしぎの事こそ候へ。御内儀はいまだ御はてなされずと見へたり。たゞ今まで、なんどのくちより、それがしを見て御わらひなされ候ふ」
とかたりければ、ていしゆもおどろき、なんどにいりてみれば、女ばうはべつの事もなく、しゝてゐたり。ふしぎにおもひ、あたりをみれば、となりに氣のちがいたる女、有りしが、いつもきたりて、たゝずみゐけるが、その夜もうらの口にたちゐければ、かのたび人を、まねき、
「これにては、なかりけるか」
とて、みせければ、また、たび人、氣をとりうしなひけると也。
[やぶちゃん注:「あづま」「吾妻」。広義の関東の意。
「柴のかりや一けん」「柴の假屋一軒」。粗末な柴で作った掘立小屋が一軒。実際にはこの建物は隣りの家もあるから、二軒あるのだが、背後にでも隠れて見えなかったのであろう。
「四つじぶんのころ」「四ツ時分の頃」。定時法で午後十時頃。
「すさまじくおもひけれども」心気に於いてもの凄い感じではあったけれども。
「るすしてゐたりけるが」「留守(役)をして居たりけるが」。
「なんど」「納戸」(「なん」は唐音)。本来は衣類・家財・道具類を仕舞い置く部屋で屋内の物置部屋を指すが、中世以降は寝室にも用いられた。ここは後者で「寝間(ねま)」である。
「いろしろくかねくろぐとつけたるがいでゝ」「(顏の)色白く、鉄漿(かね)黑々と附けたるが出でて」。「鉄漿(かね)」はお歯黒のこと。
「女ばうはべつの事もなく、しゝてゐたり」「女房は別の事も無く(蘇生したような様子も全くなく)、(さっき看取ったままに)死して居たり」。
「ふしぎにおもひ、あたりをみれば」「不思議に思ひ、邊りを見れば」。
「となりに氣のちがいたる女」「隣りに氣の違ひたる女」。
「いつもきたりて、たゝずみゐけるが」「何時も來りて、(裏口のところで)佇みけるが」。納戸を抜けたすぐ奥にあったのであろう。ここは掘立小屋であるから、これらの配置は我々が想像する以上に狭い空間内にあると考えねばならぬ。そうした閉塞空間なればこそ、その向こうに今一軒の隣家があり、そこに狂人の娘が住んでおり、毎日のように、その裏口に立っては覗き、時に部屋の仲間で入り込んで来るなどという事情は、まず、何も知らぬ旅人には想定外の事実である。さればこそ、「かのたび人を、まねき、/「これにては、なかりけるか」/とて、みせければ、また、たび人、氣をとりうしな」ったというのも頷けるわけだが、本話、貧者の茅屋・その亭主の妻の頓死・死者と留守居をする旅人・隣家の白い亡霊のような狂人娘の恐るべき笑みという暗く悲しい現実の事象の積み重ねなのに、そうして、死者が蘇生したのではなくて実はそれは隣りの気違いの娘だったのだということを亭主が説明なしで見せて確認させてしまった結果、旅人が遂には気絶昏倒してしまうという筋書きが、登場人物全員に失礼乍ら、読者にとっては面白さの際立つショート・ショートの体(てい)を成している。]