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2016/10/12

諸國百物語卷之三 十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事

    十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事

Himejijyou

 はりまを御取りなさるゝ池田三左衞門どの、御わづらひ、すでに大事におよぶとき、ゑい山よりあじやりをしやうじ、天守にて、いろいろのきとう、七日七夜なさるゝとき、七日めの夜半のころ、とし卅ばかりなる女、うすげしやうをして、ねりのきぬをかづき、あじやりにむかつて、

「なにとてさやうに、かぢし給ふぞ。とてもかなわぬ事也。はやはや、やめ給へ」

と云ひて、護摩のだんへあがり、あじやりをにらみて、たちゐければ、あじやり、もとよりたつとき僧にて、

「なに物なれば、女人のかたちにて、それがしにむかつて、ことばをかわす」

と、いろいろもんどうしければ、そのとき、かの女、にわかに、たけ二丈ばかりの鬼神(きじん)となりてみせければ、あじやり、そばなる劍をぬきもつて、すでにつかんとし給へば、かの鬼神、いひけるは、

「われは此くにゝかくれなき、ごんげんなり」

とて、あじやりを、けころし、かきけすやうに、うせ給ふと也。池田の家の侍しう、かたり侍る。

 

[やぶちゃん注:舞台は最大最強の心霊スポットたる姫路城天守閣である。ウィキの「姫路城」の、「伝承」パートだけでもそれは知れる。以下に引いておく。「刑部明神(おさかべみょうじん)(長壁明神とも)」の項。『姫路城の守護神。もとは刑部氏の氏神であった。大天守最上階に祀られている他に、旧中曲輪の長壁神社や播磨国総社にも祀られている。輝政の時代には城内の八天堂に祀られていた』(ここに『姫路城に隠れ住むといわれる日本の妖怪』で『様々な伝説がある』「長壁姫(おさかべひめ)」の項があるが、その詳細解説は別ソースから引き、最後に回す)。「開かずの間」の項。大天守三階から四階へと『続く階段の下にある小部屋』。『本来は倉庫として使われていた可能性が高い』。「にの門の十字紋瓦」の項。『にの門の破風の上には十字架を描いた瓦があり、羽柴秀吉築城時にキリシタンであった黒田孝高を評価して作らせたものであるとされている』。「姥が石(うばがいし)」の項。『羽柴秀吉が姫山に』三層の『天守を築城の折、城の石垣として使う石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた貧しい老婆がこれを知ると、石臼を秀吉に差し出した。秀吉は老婆の志に大変喜んだ。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したという。石垣は孕み(脹らみ)や、これが悪化して崩落する事が恐れられているため、「姥=老女=孕まない(妊娠しない)」事にかけた言い伝え。実際に乾小天守北側の石垣には石臼が見られるが、この石垣は秀吉時代に構築されたものではない。他にも古代の石棺を石垣として使用している』。「棟梁源兵衛の自害」の項。『築城後まもなく、城下に「お城が東南に傾いている」との噂が立った。奉行も噂を放置できなくなり、天主から下げ振りを降ろして測定したところ、実際に城が傾いていることが分かった。この事に責任を感じた棟梁の源兵衛は、鑿をくわえて城から飛び降り自殺したという伝承がある。しかし史実にはそのような記述はなく、清水門そばにある石碑は源兵衛の墓だと伝わっていたが、この石碑は寛永元年に本多忠政が船場川を改修した際に建立された船場川改修の碑である。城が東南方向に傾いているのは古くからいわれていたことで「昭和の大修理」では実際に城が傾いていることが確認された。原因は軟弱な地盤の上に築城したため、礎石が構造物の重量で沈下したためであった』。御存知、「播州皿屋敷」の項。『浄瑠璃などの元となったと言われるが、原型となった話は現在の姫路城ができる以前のものと言われる。本丸上山里内に「お菊井戸」が残る』。最後に天守に巣食う最強の女怪「長壁姫」について、ウィキの「長壁姫」によれば、『姫路城に隠れ住むといわれる女性の妖怪である。小刑部姫、刑部姫、小坂部姫とも』書く。『姫路城の天守に隠れ住んでおり、年に』一度だけ『城主と会い、城の運命を告げていたと言う。松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、長壁姫がこのように隠れ住んでいるのは人間を嫌っているためとあり』[やぶちゃん注:「甲子夜話卷之三十」に載る「姫路城中ヲサカベの事」。]、本「諸国百物語」によれば、『天主閣で播磨姫路藩初代藩主池田三左衛門輝政の病気平癒のため、加持祈禱をしていた比叡山の阿闍梨の前に、三十歳ほどの妖しい女が現われ、退散を命じた。逆に阿闍梨が叱咤するや、身の丈』二丈(約六メートル)『もの鬼神に変じ、阿闍梨を蹴り殺して消えたという』この最後の部分はウィキの記述が本原典に忠実でなかったため、私が以上のように書きなおしたものである。言っておくと、私はウィキの投稿(記事修正)も行っている。また、ある伝承では名剣士『宮本武蔵は若いころ、足軽の「滝本又三郎」として木下家定時代の姫路城に奉公していたと』し、『ある夜、天守に住む妖怪退治を命じられた武蔵は灯りを手に上り、妖怪を追い払った。天守最上階では刑部明神が姫の姿で現れ、武蔵に妖怪退治の礼として銘刀・郷義弘を授けたと』も伝えるが、これは後述する「老媼茶話(ろうおうさわ)」を『もとにした話ともいわれる』。『長壁姫の正体は一般には老いたキツネとされるが』、『井上内親王』(聖武天皇第一皇女)『が息子である他戸親王との間に産んだ不義の子』、『伏見天皇が寵愛した女房の霊』、『姫路城のある姫山の神などの説もある』。『姫路城が建つ姫山には「刑部(おさかべ)大神」などの神社があった(豊臣秀吉は築城にあたり刑部大神の社を町外れに移した)。この神社が「おさかべ」の名の由来である。ただし初期の伝説や創作では、「城ばけ物」』(本「諸國百物語」等)などと呼ばれ ており、『名は定まっていなかった』。『この社の祭神が具体的に誰であったかは諸説あり不明だが、やがて、城の神であり、城主の行いによっては祟ると考えられた。これに関しては次のような事件がある。関ヶ原の戦い後に新城主となった池田輝政は城を大規模に改修したのだが』、慶長一三(一六〇八)年に新天守閣が完成する頃になると、さまざまな怪異が起こり、その三年後には遂に『輝政が病に臥してしまった。これが刑部大神の祟りだという噂が流れたため、池田家は城内に刑部神社を建立し刑部大神を遷座した』とある。『この刑部明神が多くの誤伝を生み、稲荷神と習合するなどして、天守閣に住むキツネの妖怪という伝承が生まれたとする説もある』。民俗学研究所編「綜合日本民俗語彙」では、『姫路から備前にかけての地域ではヘビがサカフと呼ばれることから、長壁姫を蛇神とする説が唱えられている』。「老媼茶話」(三坂春編(みさかはるよし)の奇譚集。寛保二(一七四二)年序)では『猪苗代城の妖姫「亀姫」の姉とされ、泉鏡花の戯曲』「天守物語」でもその設定を採用している。本「諸國百物語」等を見ても、どうも『性別もはっきり決まっていなかった(男女含むさまざまな姿で現れた)が、やがて女性と考えられるようになった。これには「姫路」からの連想があったと考えられる』。『前橋市での伝承では』、寛延二(一七四九)年に『姫路藩より前橋藩へ転封した松平朝矩は、姫路城から長壁神社を奉遷し、前橋城の守護神とすべく』。『城内未申の方角(裏鬼門)に建立した。大水害で城が破壊され川越城への移転が決まったところ、朝矩の夢枕に長壁姫が現れ、川越へ神社も移転するように願ったという。しかし朝矩は、水害から城を守れなかったと長壁姫を詰問し、長壁神社をそのままに川越へ移った。その直後に朝矩が若死にしたのは長壁姫の祟りといわれる。前橋では現在、前橋東照宮に長壁姫が合祀されている』とある。鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」では『「長壁(おさかべ)」とされ、コウモリを従えた老姫の姿で描かれている。一方で』、前掲の「老媼茶話」では『十二単を着た気高い女性とされ、小姓の森田図書が肝試しで天守閣に駆け登ったところで長壁姫と出会い、「何をしに来た」と訊ねられて「肝試しです」と答えると、その度胸と率直さに感心した長壁姫は肝試しの証拠品として錣(しころ:兜につけて首元を守る防具)をくれたという』。井原西鶴の「西鶴諸国ばなし」では、長壁姫は八百匹もの『眷属を操り、自在に人の心を読みすかし、人の心をもてあそんだと、妖怪として人間離れした記述が為されている』。北尾政美による黄表紙「夭怪着到牒」(ばけものちゃくとうちょう:天明八(一七八八)年板行)にも『「刑部姫」の表記で登場しており、同書では刑部姫の顔を見た者は即座に命を失うとある』とある。挿絵の右キャプションは「はりまの國池田わつらひの事」。本挿絵は周囲の枠を恣意的に除去し、汚損を含む一部の外縁(左下の雲形の一部)を恣意的に除去し清拭した。今までもそうした箇所があるが、今回は、刑部姫に敬意を示す(ウィキの記載訂正もその意向に従った仕儀である)とともに、真に百物語の怪異を、この私の電子化注に呼び込まんとする確信犯の仕儀でもある、と述べておこう。

「はりまを御取りなさるゝ」播磨国一国を領地として知行なさっておられる。

「池田三左衞門」「姫路宰相」と称された播磨姫路藩初代藩主池田輝政(永禄七(一五六五)年~慶長十八年一月二十五日(一六一三年三月十六日))。「三左衞門」は通称。ウィキの「池田輝政」によれば、姫路城で急死するが、『死因は中風(『駿府記』)、また好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)も遠因とされる(『当代記』)』。享年五十。『輝政の死は秀吉の呪いとも噂された』とある。

「ゑい山」比叡山。歴史的仮名遣は誤り。

「あじやり」「阿闍梨」。梵語「ācārya」の音写である「阿闍梨耶(あじゃりや)」の略。「教授・軌範・正行」などと訳す。弟子たちの模範となる高僧の敬称であるが、特に密教に於いて、修行を完遂し、伝法灌頂(でんぽうかんじょう:密教を修行した優れた行者にこの「阿闍梨」の位(称号)を許すために行う灌頂。密教灌頂の中で最も重要な秘儀とされる「伝教灌頂」「授職灌頂」とも呼ぶ)を受けた僧及び伝法灌頂の職位を受けた天台・真言の僧のことを指し、ここはただの徳の高い偉い僧なんぞでは、後が「もとより、たつとき僧」の屋上屋で面白くも糞くもない。断じて、後者でとるべきであると私は思う。

「しやうじ」「招じ」。

「きとう」「祈禱(きたう)」。歴史的仮名遣は誤り。

「なさるゝとき」「成さるる時」。休みなく修法(ずほう)した、その最後の七日目の夜の折り。

「うすげしやう」「薄化粧」。

「ねりのきぬをかづき」「練(ねり)の衣(きぬ)を被(かづ)き」。練り絹で織った上等の薄い着物を被(かぶ)って。

「かぢ」「加持」。加持祈禱。密教の修法。祭壇や護摩壇を設置し、護摩を焚き、真言陀羅尼などを誦して印を結ぶこと。神仏の加護を求める行法を修して病気平癒や災禍の除去・悪霊調伏などの現世利益を祈ることを指す。

「かなわぬ」「叶(かな)はぬ」。歴史的仮名遣は誤り。

「なに物なれば女人のかたちにて、それがしにむかつて、ことばをかわす」変生男子(へんじょうなんし)説に基づき、仏教では女性としての存在そのものが仏法や悟りの障りと理解されたことに基づく、今から見れば甚だしい女性差別に基づく侮蔑の語である。いや、寧ろ、ここにはこの阿闍梨の無意識の女犯(にょぼん)の内実が滲み出てしまっていると読むべきであろう。だからこそ、この阿呆阿闍梨、簡単に蹴り殺されてしまうのだと私は大真面目に思っているのである。

「もんどう」「問答(もんだふ)」。歴史的仮名遣は誤り。

「つかん」「突かん」。

「ごんげん」「權現」。一般には、仏教に於いて、仏が衆生を救うために神や人などの仮の姿を以ってこの世に顕われること、或いは、実体化することを指し、狭義には、仏教側からの本地垂迹説に基づき、仏が衆生を救うため、神道の神々の姿をとって現れたとする考え方に基づくものを指すことが多い(神道側からの神が仏と成って仮に現われたとする逆本地垂迹説は、ずっと後の言説である)。姫路城の「權現」となれば、やはり先に出た、刑部明神で、ウィキの「長壁神社」によれば、現在の兵庫県姫路市立町及び平目地場内に二社併存する長壁(おさかべ)神社、『刑部親王(光仁天皇の皇子)を主祭神に親王の王女という富姫を配祀する』とするそれを指す。刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。国司の角野氏がこの』二人を『守護神として姫山に祀って以来、代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い尊敬を受けた』。天正八(一五八〇)年頃に『羽柴秀吉が姫路城の改築を始めると、縄張り内に位置するために城下に移された後』、『播磨国総社である射楯兵主神社の境内に摂社として祀られたが、江戸時代になって』、『池田輝政が姫路城に入城した際に輝政が病に倒れると、当神社を移祠した祟りであろうと噂され、城内へ戻されて八天堂として再建立された』。寛永一六(一六三九)年に『藩主が松平氏に変わると再度城下へ移され、慶安二(一六四九)年に『榊原氏に変わると』、『城内の社殿を再建し、城内と総社境内の二社併存とな』ったとある。

「侍しう」「侍衆」。「衆」の歴史的仮名遣は「しゆう」「しゆ」が本来は正しい。]

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