フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 諸國百物語卷之四 十 淺間の社のばけ物の事 | トップページ | 甲子夜話卷之二 37 妖僧、山鹿氏と對接の事 »

2016/10/30

谷の響 二の卷 十五 山靈

 十五 山靈

 

 この中村某といへる人、天保九戌の年の荒歳に東濱なる奧内村に勤番して有けるが、百姓ども山に入りて檜樹の皮を剝ぎ取る故、こを制せん爲め山中を見分に巡り、往々(ゆきゆき)てツホケ森と言ふに至れり。この山ことに檜樹多ければ登らんとなしたるに、引路(あない)の者の言へるは、この山に山神の住ませ玉へる故に登る時は必ず風雨起りて人を傷むることままあれば、登る事は停(とゞま)り玉へとありけれども、吾私に登るにあらず、公命なれば山神とても豈(いかで)難を加ふべき、とく導(あない)せよと言へど只(たゞ)に平伏(かしこまり)て、私どもは千乞(どうぞ)おゆるし下さるべしと言へるに、血氣盛んの時なれば以將(いで)さらば獨登らん、さりとは言ひ甲斐なき奴ばらと呵(しか)りちらして辿往(たどりゆ)くに、檜樹森々(いよやか)に繁滋(しげれ)る中、皮を剝たるものもまゝあれば、然(さ)ては渠等(きやつら)犯せる罪のあるからに吾を欺騙(だませ)るものなるべし。さればよく見屆けて縡(こと)を立つべしとて、すでに廿町ばかりも登りしに、海潮(うしほ)の涌が如く響きわたりて一山鳴動し、忽ち暴風(はやて)起りて葉を裂き樹を折り、見る見る大雨盆を傾くるが如く雷鳴地軸に徹し、片時も耐居ることならねば急いでもとの處へかけ下りしに、引路(あない)の者ども途の半に迎へ出て有つるに、これに助けられて三丁ばかり下りしに、雨の痕(あと)も漸々にうすく村近くなりて一滴のあとだになく、粉埃(こなほこり)起(たつ)てありしかば、渠らが欺かぬ由をしりしなりと語りけるとなり。

 又、この人笹子(たけのこ)を取らんとその隣家(となり)なる齋藤某と二個同伴(ふたりつれ)にて、岩木山の裾野なる小杉澤に往きけるに、その頃大人(おほひと)【深山に住む者 方言大人と云。】の兄弟と渾名(あだな)せる山中自在の老人(おやじ)ありて大膽なる人なるが、この日も往きてとある片蔭に憩み煙草を吹て居たりしが、元より知遇(しれ)る人なれば倶に休みて語らひたるに、老父が言ふ、必ず赤倉の澤へは登らざれ、風雨の難のみならずことによれば過傷(けが)する事も間々あるなり。こなたの澤には笋子も多ければ其處にて取るべし。諄々(かへすかへす)赤倉へは登るべからずと示(おしへ)しに、謝儀(れい)を演(のべ)て喩(をしへ)のまゝに辿り行きしに、齋藤が言へるは、かの老父自らよき獲物せんとて吾等を欺騙(だま)せるものならん。いでその赤倉に往きて取るべしとて、路を改(かへ)て登りしに、いかにも大きなる笋子さはなれば、然(さて)こそとて笑ひ合ひつゝすでに一背負も取得たる頃、俄然(にはか)に山中震動して黒雲足下(あしもと)に起りて溪澗(たに)を封(ふさ)ぎ、迅雷(いかづち)宇宙(そら)に轟き驟雨(おほあめ)砂石を流して、その凌然(すさま)じきこと言ふべくもあらず。二個(ふたり)は大に驚惶迷亂(おどろきあはて)、倉卒(にはか)に笋子を荷負(にない)て嶮岨(さかしき)も厭はで十四五丁も脱去(にげ)たりしに、かの老父傍(かたへ)の藪蔭より聲をかけ大にあざみ笑ひ、己が言を聽ずして濡鼠となるは好き氣味なれど吾にまで雨に遇はせたりとて、夫より倶に下りしが二丁許にして雨の痕(あと)更になければ、誠に山戒の守るべく犯すべからざるを知れり。こは天保初年の事なりとてこの中村は語りしなり。

 また小館某の二男なる人、その同伴(とも)五六人と山中投宿にて筍子を取らんと、嵩(だけ)【岩木鳥海山の半腹、温泉のある處、俗に只嵩とのみ稱へり。】より鳥海山の方へ登りしが、何地にか迷ひ往きけん亂柴(むづし)を僂洩(くぐ)り嶄絶(なんしよ)を匍匐(はらば)ひ、難を凌いで漸々(ようよう)に坦地(ひらち)に出たるが、その傍なる溪澗(たに)を見れば篠(しの)竹の彌(いや)蕃(しげ)りに茂りたれば、さてはよき地(ところ)なりとて個々(おのおの)篠叢(さゝやぶ)に入り、少々時(わつかのあいだ)にしていとよき筍を多く獲りつれば、卒(いざ)晝飯を喫はんとかの坦地(ひらち)に戾りて憩(やす)らひしが、圍(まはり)二尺二三寸より三四尺なる木の今伐りたりと見ゆるもの、何處ともなく飛來りて礫を打つが如くなれど、人には中らで頭の上僅か一尺ばかり離れて足下(あしもと)一二尺の前に墮ち、又甚しきはこの木の長さ七八尺のものなどは、地に墮る勢ひに二箇三個に折れたるもあれど、人かげもなく木を伐る音も聞えねば、これぞ大人の業(わざ)ならんと咸々(みなみな)怕(おそれ)をなして飯も食ひ得ず、早卒(にはか)に其地(ところ)を立退きしに忽ち雷鳴天地を轟かして大雨盆を傾くるが如くなるに、いよいよ怖れて北(にげ)走りしが、硫黃岱【嵩の温泉より二十丁許り上にあり。】の上に出たれど、猶雨は止まざるに風且(また)起りて吹飛ばさるゝが如くなれば、玆にも耐得で馳(はせ)下り本湯【嵩温泉の涌壺なり。】といふ處に來る頃、風雨しばらく和ぎしに僉々(みなみな)放心(あんど)して徐行(しづか)に嶽に戾りしが、その途中より又雨のあと更になく嵩にては風も吹かずと言へり。山神の掲焉(いちゞるき)こと惶るべきなりと、木村某なる人小館より聞しとて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「山靈」「さんれい」と読んでおく。ウィキの「山霊」によれば、『山に宿るとされる神霊の総称』で、『古来日本の山の多くは山岳信仰の対象として聖なる山として祀られており、そうして山には様々な神々や霊が宿るとされていた。また山は霊界に最も近いところとも言われ、死者の霊が集うとも言われていた。そうした神々や霊の総称を山霊と呼ぶ』。『山霊は聖地たる山に人が入ることを良しとせず、山中に踏み入る人に対して警告を発する意味で、怪しげな音を立てたり、不気味な声を出したり、笑い声をあげたりする。時には人間への報いとして、怪火を出現させて畏怖を与えることもあるという』私も電子化注を行っている松浦静山の「甲子夜話」にも、『山霊のことが語られている』(「甲子夜話」は膨大で元を点検する暇がない。見付け次第、追加する)。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之六」に載る「相州大山怪異の事」を指していよう。】『その昔、関東のとある山でのこと。麓の茶店に登山途中の』二『人の男が立ち寄り、休憩をとった』。二『人は先を急いでいる様子だったが、足は進んでいないようで、しかも時は既に夕刻だった。このままでは山に登りきる頃には夜更けになってしまう』。『店の主人や客たちは、夜の山に入るのは良くないと、明日改めて山に登ることを勧めたが、男たちは今夜中に頂上をきわめたいと言い張り、彼らの制止を聞かずに店を去って山へ入って行った』。『間もなく凄まじい雷鳴が轟き、大雨が降り始めた。やがて雷雨はやんだが、店の主人たちは何か異変が起きたに違いないと、次の日に男たちを探して山へ入った。すると案の定、頂上へと続く途中の木に、男たちの身につけていた着物などが引っ掛かっていた。男たちの姿は影も形もなかった。一同は、彼らは山霊にやられたに違いないと、畏れながら話し合ったということである』とあって、この「甲子夜話」の話では二人が二人とも殺害され、遺体も消えている。二人とも直近にあって落雷の直撃を同時に受け、肉体が断裂し、獣に食われてしまったとも考えることは可能である。

「この中村某」前話「谷の響 二の卷 十四 蟇の妖魅」の最後の最後に名が出る人物。如何にも前話の採集と本話のそれが共時的であったことを窺わせる書き出しである。

「天保九戌の年の荒歳」天保九年は正しく「戊戌」(つちのえいぬ)で西暦一八三八年。「荒歳」は「こうさい」で凶作の年のことを指す。底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『天保年間、津軽領内は三年から十年まで、五年を除いて七年連続の凶作であった。八年には餓死者四万五千人、隣国秋田への流散者一万人といわれた』とある。

「東濱なる奧内村」同じく森山氏の補註によれば、『青森市奥内(おくない)。青森から北へ十キロ、陸奥湾に臨む。この西方丘陵部がヒバの美林地帯である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「檜樹の皮を剝ぎ取る」檜 の樹皮は「檜皮葺」として屋根に葺 く以外にも、腰壁(主に窓の下端をから床までの室内側の装飾壁)にしたりする高級木材で、火繩の原料の一つともなった。

「ツホケ森」不詳。但し、先の現行の地図を見ると、奥内の西方丘陵部には「源八森」という山、青森寄りには「田沢森」、その南西には「土筆山森山」、その西方の五所川原市には「長者森山」という名称の山や森を見出せる。識者の御教授を乞うものである。

「傷むる」「いたむる」。傷つける。

「吾私に登るにあらず」「われ、わたくしに登るに非ず」。「私は物見遊山に登るのではないぞ。」。

「豈(いかで)難を加ふべき」「どうして私に危害を加えることなんぞが出来ようか、いや、出来ぬ!」。「千乞(どうぞ)」二字へのルビ。

「以將(いで)さらば獨登らん、さりとは言ひ甲斐なき奴ばら」「よし! 分かった! それなら私独りで登るわ! さりながら、何と甲斐性のない臆病者どもがッツ!!」

「森々(いよやか)に」二字へのルビ。何とも豊かに。

「繁滋(しげれ)る」二字へのルビ。

「剝たる」「はぎたる」。

「欺騙(だませ)る」二字へのルビ。

「さればよく見屆けて縡(こと)を立つべし」「そういう魂胆だったのであれば、よくよく状況を見届けて、報告ときゃつらへの処断の方法を厳しく立てずんばならず!」。

「廿町」二キロメートル強。

「涌が如く」「わくがごとく」。山の中であるのだが、あたかも海の大波が押し寄せてくるような地響きを立てて異様な怪音が木霊するのである。

「耐居る」「たへゐる」。

「下りしに」「くだりしに」。

「半」「なかば」。

「迎へ出て有つるに」「むかへいでてありつるに」。

「三丁ばかり」僅か三百二十七メートルばっかし。

「漸々に」「ようように」次第に。

「うすく」「薄く」。小降りとなり。

「渠らが欺かぬ由」「かれら(彼等)があざむかぬよし」。彼らが私を騙したのではなかったこと、山神が実際にいかったのだということ。

をしりしなりと語りけるとなり。

「岩木山の裾野なる小杉澤」現在の弘前市百沢字東岩木山地内に「小杉沢湧水」が現存する。この周辺である(グーグル・マップ・データ)。サイト「おもリ湧水サーベイ」の「小杉沢の湧水」で限定位置と現地の画像が確認出来る。

「大人(おほひと)【深山に住む者 方言大人と云。】」同じく森山氏の補註によれば、『山に住む巨人で怪力をもち超人的垂所業をすると信じられた。津軽では開墾』を『手伝ってくれた話、一夜のうちに薪を運んでくれた話、相撲を好むことなど』、『大人(おおひと)の話が多い、山の神の人格化した伝承と思われる』とある。ウィキの「山男」によれば、『日本各地の山中に伝わる大男の妖怪。中世以降の怪談集、随筆、近代の民俗資料などに記述がある。山人(やまびと)、大人(おおひと)などの呼称もある』とし、かく地方の山人(大人)伝承を載せるが、そこに「青森県・秋田県」の項があい、『青森県の赤倉岳では大人(おおひと)と呼ばれた。相撲の力士よりも背の高いもので、山から里に降りることもあり、これを目にすると病気になるという伝承がある一方、魚や酒を報酬として与えることで農業や山仕事などを手伝ってくれたという』。『弘前市の伝承によれば、かつて大人が弥十郎という男と仲良しになって彼の仕事を手伝い、さらに田畑に灌漑をするなどして村人に喜ばれたが、弥十郎の妻に姿を見られたために村に現れなくなり、大人を追って山に入った弥十郎も大人となったという』。『当時の村人たちはこの大人を鬼と考えており、岩木町鬼沢(現・弘前市)の地名はこれに由来する』(この附近であろう(グーグル・マップ・データ))。『現地にある鬼神社は、村人が彼らの仕事ぶりを喜んで建てたものといわれ、彼らが使ったという大きな鍬が神体として祀られている』。『三戸郡留崎村荒沢の不動という社には、山男がかつて使用したといわれる木臼と杵があり、これで木の実を搗いて山男の食料としたという』。『秋田県北部でも山男を山人(やまびと)または大人といい、津軽との境に住むもので、煙草を与えると木の皮を集める仕事を手伝ってくれたといわれる』と載るのが、森山氏の注の具体例として判る。

「憩み」「やすみ」。

「吹て」「ふきて」或いは「ふかして」。

「赤倉の澤」同じく森山氏の補註によれば、『岩木山中の難所。登山口から北方に当り、気性変化激しく』、『神秘的な場所と考えられ、行者の修行場となっている』とある。先の「小杉沢」の北辺りと思われる。

「登らざれ」「登ってはいかんぞ!」。

「過傷(けが)」二字へのルビ。

「間々」「まま」。

「こなた」この(小杉沢)辺り。

「諄々(かへすかへす)」「返す返(がへ)す」。「諄(くど)いが」。「諄諄」は「諄々(じゅんじゅん)と」で今も生きているように、「相手に解るようによく言い聞かせるさま」を言う。

「大きなる笋子さはなれば」如何にも大きな筍がさわに生えていたので。「さは」は「沢山にある」の意で「澤」の意ではないので注意。

「一背負」「ひとせおひ」。

「取得たる」「とりえたる」。

「迅雷(いかづち)」二字へのルビ。

「驚惶迷亂(おどろきあはて)」四字へのルビ。

「十四五丁」一・六キロメートル前後。

「あざみ笑ひ」「あざむ」は「淺む」でもとは清音「あさむ」。近世以後に「あざむ」と濁音化もした。「意外なことに驚く・呆れ返る」或いは「蔑(さげす)む・侮(あなど)る」の意で、ここは両方の意を掛ける。『言わんこっちゃない、儂(わし)の言ったことを信じず、守らず、或いは、大方、儂が筍を独り占めしようと騙したとでも思ったのであろうが』といった微苦笑である。図星!

「己が言を聽ずして」「われがげんをきかずして」。

「濡鼠」「ぬれねづみ」。

「好き氣味なれど」「よききみなれど」。「いい気味じゃが」。

「吾」「われ」。

「夫より」「それより」。

「二丁許」たった二百十八メートルほど。

「誠に」「まことに」。

「山戒」「さんかい」と音読みしておく。山の戒め・山入りの禁忌(タブー)。

「天保初年」天保元年はグレゴリオ暦一八三〇年。

「小館」「こだて」「おだて」「こたち」と読める。ネット検索で実は「小館」姓が現在、最も多い都道府県はまさに青森県だそうである。

「嵩(だけ)【岩木鳥海山の半腹、温泉のある處、俗に只嵩とのみ稱へり。】」「俗に只嵩とのみ稱へり」とは「当地では俗にただ、「嵩(だけ)」とのみ、呼び習わしている」の意。「岩木鳥海山」の「鳥海山」はかの山形県と秋田県に跨がるあれではないので注意。森山氏の補註によれば、『岩木山の山頂部に三峰があり、中央は岩木山、北は巌鬼山』(がんきさん)、『南を鳥海山と呼ぶ』とある(外輪山の一部)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「温泉」とは次の話柄にも出るが、現在の、青森県弘前市の岩木山鳥海山の南西の麓にある嶽(だけ)温泉。(グーグル・マップ・データ)。

「何地」「いづち」(但し、先行例では皆「いつち」と清音)。「何地にか」で「どこかで」。

「亂柴(むづし)」二字へのルビ。前条に「亂柴蕃殖(むづしばら)」(四字へのルビ)と出て注した。再掲すると、底本の森山氏の補註によれば、『津軽方言で雑柴や荊棘』(いばら)『が混茂している原野をいう。本文の文字は表意の当て字である』とある。

「僂洩(くぐ)り」二字へのルビ。「僂」は「屈(かが)む」の意、「洩」は「出る」の意か。

「嶄絶(まんしよ)」二字へのルビ。「嶄」(音「ザン」)は「高く険しい」意。難所。

「篠(しの)竹」小振りの竹類の総称。

「少々時(わつかのあいだ)」三字へのルビ。「わつか」はママ。

「喫はん」「くはん」「食わん」。

「二尺二三寸」六十六・六六~六十六・九九センチ。

「三四尺」九十一センチから一メートル二十一センチ。

「飛來りて」「とびきたりて」。

「中らで」「あたらで」。当たらずに。

「一尺」三十・三センチ。

「一二尺」三十・三~六十・六センチ。

「七八尺」二・一二~二・四二メートル。

「二箇三個」漢字表記の違いはママ。

「大人」「おほひと」。先に山を知り尽くした老人の比喩に出たものが、ここでは真正の変化(へんげ)・妖怪・山霊(やまれい)の意で使われてある。

「其地(ところ)」「そのところ」「ところ」は「地」一字へのルビ。

「北(にげ)走りしが」「北」は、人が背をそむき合って反対方向を向いている象形文字で、原義は「背(そむ)く」。そこか「逃げる」「負ける」の意が生じた。

「硫黃岱【嵩の温泉より二十丁許り上にあり。】」「いわうたい(いおうたい)」と読むか。「岱」は中国の五岳の長、神聖な泰山の別称であるが、ここは「山」「峰」「ピーク」の謂いのようである。現在の所定地は不明であるが、嶽温泉の二十町上(二キロ百八十二メートル程)手とあるから、「湯の沢」北東に登った写真中央(鳥海山南西直近尾根附近か(グーグル・マップの航空写真データ)。

「耐得で」「たへえで」。

「本湯」「もとゆ」か。

「涌壺」「わきつぼ」か。同温泉の古い源泉か。恐らく「湯の沢」のどこかにあるような気はする。

「掲焉(いちゞるき)こと」「掲焉」は音で「ケチエン」或いは「ケツエン」と読み、著しいさま、目立つさま、の意である。

「惶る」「おそる」。]

« 諸國百物語卷之四 十 淺間の社のばけ物の事 | トップページ | 甲子夜話卷之二 37 妖僧、山鹿氏と對接の事 »