北條九代記 卷第十 甲乙人等印地停止
○甲乙人等印地停止
同四月二十一日、鎌倉内外(うちと)の甲乙人等(かふおつにんら)數十人、比企谷(ひきがやつ)の山の麓に群集し、未〔の〕刻よりして向飛礫(むかひつぶて)を打ちける程に、所々の溢者(あぶれもの)ども、兩方に行集(ゆきつど)ひ、意恨(いこん)もなく怨(あた)もなくて、分(わか)ち、はじめには只、飛礫(つぶて)を打合(うちあ)ひ、漸々、人衆の重(かさな)るに任せて互(たがひ)に矢を放ち、是(これ)に中(た)りて死傷する者、兩陣に數多(あまた)出來りれば、愈(いよいよ)引退(ひきの)かず。親屬朋友(しんぞくほういう)、その敵(てき)を討たんと構へ、暮方に成りては、武具を帶(たい)し、馬に乘りて、偏(ひとへ)に軍陣(ぐんぢん)に異らず。閧(とき)の聲、矢叫(やさけび)の音、入亂(いりみだ)れて戰ふ。手負(ておひ)、死人(しにん)、おほかりければ、夜𢌞(よまはり)の輩(ともがら)、數百人を率(そつ)して走向(はせむか)ひ、「こはそも何事ぞ。意恨にもあらず怨(あた)にもあらず、見えたる事もなくして兩陣を張り、手柄にもあらぬ武篇(ぶへん)を勵(はげま)し、人を殞(そん)して、騷動せしむる條、亂(らん)を招く曲者(くせもの)にあらずや。京都にして、童部共(わらんべども)の小石を投げて、印地(いんぢ)するだに宜(よろ)しからず。鎌倉邊には、古今、未だ此事なし。頗(すこぶ)る狼藉(らうぜき)の至りなり」とて、張本三人を召捕(めしと)りて禁籠(きんろう)せらる。今より以後、關東の事は申すに及ばず、京都にても、堅く禁遏(きんあつ)すべき由を、六波羅に仰遣(おほせつかは)さる。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年四月二十一日の記事に基づく。標題の「甲乙人等印地停止」は「かふおつにんら、いんぢ、ちやうじ」と読む。「甲乙人」は、中世日本の頃から使われ始めた語で「年齢や身分を問わない全ての人」の意。そこから転じて、「名を挙げるまでもない一般庶民」のことを指すようになった。現在の民事事務や裁判に於いて複数の当事者を示す場合に「甲」「乙」と使用するのと同じように、参照したウィキの「甲乙人」によれば、もともとは『特定の固有名詞に代わって表現するための記号に相当し』、また、現代に於いて事例例文などで『不特定の人あるいは無関係な第三者を指すために「Aさん」「Bさん」「Cさん」と表現するところを、中世日本では「甲人」「乙人」「丙人」といった表現した』とあり、『そこから、転じて正当な資格や権利を持たず、当該利害関係とは無関係な第三者として排除された人々を指すようになった。特に所領・所職を知行する正当な器量(資格・能力)を持たない人が売買譲与などによって知行することを非難する際に用いられた。例えば、将軍から恩地として与えられた御家人領が御家人役を負担する能力および義務(主従関係)を持たない者が知行した場合、それが公家や寺院であったとしても「非器の甲乙人」による知行であるとして禁止の対象となった。同様に神社の神領が各種の負担義務のない者が知行した場合、それが御家人であったとしても同様の理由によって非難の対象となった』とし、特に「凡下百姓(ぼんげひゃくしょう:鎌倉幕府が御家人を「侍」とし、郎党・郎従を始めとして名主・農民・商人・職人・下人などを一括して「凡下」と呼び、幕府の職員でも雑色(ぞうしき:雑役に当たった下級役人)以下の者は「凡下」として扱われた。但し、有力武士の郎党・郎従の中でも官位を持つ者は例外的に「侍」として扱われることになっていた)」または「雑人雑人(ぞうにん:原義は「身分が低い者」であるが、用法としては「一般庶民」を指す場合と、主家に隷属して雑事に従事して動産として売買・譲渡の対象とされた「賤民」を指す場合とがある。鎌倉時代には「凡下」と同義的になった)に『称せられた一般庶民は、無条件で所領・所職を知行する正当な器量を持たない人々、すなわち「非器の甲乙人」の典型であるとされており、そのため鎌倉時代中期には』「甲乙人」という『言葉は転じて「甲乙人トハ凡下百姓等事也」(『沙汰未練書』)などのように一般庶民を指す呼称としても用いられた。その一方でこうした表現の普及は、庶民――特に商業資本が金銭の力を背景に所領・所職を手中に収めていこうとする現実』――『に対する支配階級(知行・所領を与える側)の警戒感の反映でもあった。また、武士・侍身分においては』、「甲乙人」と『呼ばれることは自己の身分を否定される(=庶民扱いされる)侮辱的行為と考えられるようになり、悪口の罪として告発の対象とされるようになっていった』とある。
「同四月二十一日」前条の冒頭を受ける。文永三(一二六六)年四月二十一日。ユリウス暦では五月二十七日、グレゴリオ暦に換算すると六月三日。谷戸の多い鎌倉ではそろそろ蒸し暑くなってくる時期である。
「比企谷(ひきがやつ)の山の麓」現在の妙本寺のある附近。この一件の起こる六年前の文応元(一二六〇)年に「比企の変」で滅ぼされた比企能員の末子で生き残って僧となり、日蓮に帰依していた比企能本(よしもと 建仁二(一二〇二)年~弘安九(一二八六)年)が父や一族の菩提を弔うため、日蓮に屋敷(妙本寺のある位置は旧比企邸)を献上、かの地に法華堂を建立しているが、これが妙本寺の前身であり、妙本寺はこの年を創建としている。
「未〔の〕刻」午後二時前後。
「向飛礫(むかひつぶて)を打ちける」「石合戦(いしがっせん)」「礫(つぶて)合戦」などと称する恐らく元来は「追儺」「鬼やらい」と同じく、悪霊や疫病(えやみ)などの災いを石に込めた呪力で村落共同体から追い出す、一種の民俗社会に於ける遊技的呪的行事であったものであろう。或いは幕末の「ええじゃないか」や、原始社会で時に発生したと思われ、現代の特定の宗教集団の中で或いは未開民族社会や貧困な下級階層の集団内於いてもストレス現象のはけ口としてしばしば見られる集団ヒステリー様の現象と根は同じと見てもよいと私は思う。祭りで事故で死者が出てこそ「祭り」であるとどこかで思っている民族社会的人間は私は結構、多いと思っている。ウィキの「石合戦」によれば、『武家の合戦を模して、二手に分かれて石をぶつけ合うこと』現在でも五月五日に『行事として行われる』地域が現存し、本文に出るように「印地」「印地打ち」とも言う(辞書類では、五月五日に大勢の子供が集まって二手に分かれて石を投げ合い、合戦の真似をした遊び。中世では大人が互いに石を投げ合って勝負を競ったが、近世以降は子供の遊びとなったとある)。『かつては、大人達が行い、「向かい飛礫(つぶて)」と呼ばれていた。頑丈な石を投げ合うため死亡者・負傷者が出る事も少なくなく、大規模な喧嘩に発展することも多かった。そのため、鎌倉幕府』第三代『執権北条泰時などは、向い飛礫を禁止する条例を発布し』ている。『水の権利・土地争いなどを解決する手段として』、非合法な手荒な解決法として『石合戦が採用されるケースもあった』。後のことであるが、武田信玄は実際の戦闘部隊に『石礫隊(投石衆)を組織しており、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を挑発して誘い出すなど、実戦で活躍したと伝わる』ともあり、『逸話としては、一説に依れば、織田信長も、幼少時代にこの石合戦を好み、近隣の子供らを集めて良く行った(模擬実戦として最適であった)とも言われている。また、徳川家康は少年たちによる石合戦を見に行き、少人数の側が勝つと言い当てた。これは少人数ゆえに仲間が協力し合っている点を瞬時に見抜いたからだと言われている』と記す。
「溢者(あぶれもの)ども」社会から脱落して放浪し、徒党をなす悪党染みた連中。乞食や流浪の芸能者、差別された賤民なども含まれる。
「意恨(いこん)」「遺恨」。
「怨(あた)」恨み。怨恨。
「漸々」「ぜんぜん」。だんだん。
「人衆」「にんじゆ」と読んでおく。人数(にんず)。
「重(かさな)る」増えてくる。
「偏(ひとへ)に」ただもう、全く。
「矢叫(やさけび)」原義は和弓に於いて、矢を射当てたと際に射手が声を挙げること。或いは、その叫び声、「やごたえ」「やごえ」などとも言うが、戦場では、戦いの初めなどに於いて、遠矢を射合う際、両軍が互いに発する鬨の声も差す。
「夜𢌞(よまはり)」幕府の公的な夜警の武士。但し、「數百人を率(そつ)して走向(はせむか)」ったとあるからは、かなりの高位の武将である(但し、後に掲げるように「吾妻鏡」には「數百人を率して」とは、ない。現実をよりドラマにする筆者の手技である。
「見えたる事もなくして」これといって憎み、戦い、傷つけて果ては死に至らしめるだけの、動機も原因も全くないのにも拘わらず。
「手柄にもあらぬ」やっても手柄にもなりもしない。しかし、これは「武士」階級ならではの台詞であって、彼らの心の底、心理的な鬱憤やストレスを推し測ろうとする意識が全く以って欠落していると言わざるを得ない。
「武篇(ぶへん)」「武邊」が正しい。意味のない武闘・戦闘。乱闘。
「勵(はげま)し」異様に昂奮し。
「人を殞(そん)して」他者を傷つけ。
「亂(らん)を招く曲者(くせもの)にあらずや」「そもそもが、その何の根拠もない喧嘩による負傷や殺人が遺恨や怨恨の火種となって大きなる紛争や争乱を招くのじゃ! お前らは、まさにそういう、不埒千万な曲者そのものではないかッツ!!」
「京都にして、童部共(わらんべども)の小石を投げて、印地(いんぢ)する」恐らくは私が先に書いた、汚穢を石の打擲によって民俗社会の安全空間から排除する原義が殆んど失われた、下層民の子らの馬鹿遊びであろう。但し、「吾妻鏡」の本文は子供のそれとは書いてない。
「鎌倉邊には、古今、未だ此事なし」狼藉者らを説き伏せるのに、この武士はこんなことを言っているのだけれど、本当にそうかなぁ?
「張本」張本人。最初に石合戦を始めた首謀者。「最初はあいつだ!」みたいなシュプレヒコールの波が三人に集まってゆくその映像が、また、こわいね、私には。
「禁籠(きんろう)」禁錮。牢に押し込めること。意外であるが、余り見かけない熟語である。
「禁遏(きんあつ)」禁じて止めさせること。
以下、「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年四月二十一日の条。
○原文
廿一日甲申。霽。甲乙人等數十人群集于比企谷山之麓。自未尅至酉尅。向飛礫。爾後帶武具起諍鬪。夜𢌞等馳向其所。生虜張本一兩輩。被禁籠之。所殘悉以逃亡。關東未有此事。京都飛礫猶以爲狼藉之基。固可加禁遏之由。前武州禪室執權之時其沙汰被仰六波羅畢。况於鎌倉中哉。可奇云々。
○やぶちゃんの書き下し文
廿一日甲申。霽る。甲乙人等(ら)、數十人、比企谷山の麓于に群(ぐんじゆ)集し、未の尅より酉の尅に至るまで、向ひ飛礫(つぶて)す。爾(しか)る後(のち)、武具を帶び、諍鬪(じやうとう)を起こす。夜𢌞(よまは)り等(ら)、其の所へ馳せ向ひ、張本の一兩輩を生け虜り、之れを禁籠せらる。殘る所、悉く以つて逃亡す。關東に、未だ此の事、有らず。京都の飛礫(つぶて)は猶ほ以つて狼藉の基(もとゐ)たり。固く禁遏(きんあつ)を加へるべきの由、前武州禪室、執權の時、其の沙汰を六波羅へ仰せられ畢んぬ。况んや、鎌倉中に於てをや。奇とすべしと云々。
●「前武州禪室」北条泰時。
●「奇とすべし」しばしば参考にさせて貰っている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注の参考(そこでは原文「可奇」を『奇(あや)しむべし』と訓じておられる)ではここを、『京都から鎌倉へ挑発者が入り込んでるのでは』と訳しておられる。この直後に宗尊親王の更迭が起こる辺りからは、そうしたニュアンスも感じられなくはない。]
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