甲子夜話卷之二 40 田沼氏在職中の有樣幷陪臣驕奢の事
2―40 田沼氏在職中の有樣幷陪臣驕奢の事
先年、田沼氏老職にて盛なる頃は、予も廿許の頃にて、世の習の雲路の志も有て、屢彼第に往たり。予は大勝手を申込て、主人に逢しが、その間大底三十餘席も敷べき處なりき。他の老職の坐敷は、大方一側に居並び、障子などを後にして居るが通例なるに、田沼の坐敷は兩側に居並び、夫にても人數餘るゆへ、後は又其中間にいく筋にも並び、夫にても人餘り、又其下に居並び、其餘は坐敷の外通りに幾人も並居ることなりき。その輩は主人の出ても見えざるほどの所なり。其人の多きこと思ひやるべし。さて主人出て客に逢ときも、外々にては、主人は餘程客と離れて坐し、挨拶することなりしが、田沼は多人席に溢るゝゆへ、ようようと主人出坐の所二三尺許りを明て、客着坐するゆへ、主人出て逢ふときも、主客互に面を接する計なり。繁昌とはいへども、亦不禮とも云べきありさまなり。さて何方も佩刀は坐敷の次に脱て置ことなるが、如ㇾ此きの客ゆへ、坐敷の次には、數十腰か知れず刀を並べて、海波を畫けるが如くなりし。此外にも、今にいかゞと臆中に殘りしは、公用人三浦某と云しを用、賴に約して主人の逢日に往て、取次を以て三浦へ申入ければ、答るには、只今御目にかゝるべし。然どもそれへ出候ときは、御客の方御とりまきなさるゝゆへ、中々急に謁見叶難く候間、何卒密に別席に御入り有たし迚、予を隱處へ通し、密に逢たりし。陪臣の身として、我等をかく取扱こと世に希なることなるべし。予は大勝手の外は知らず。中勝手、親類勝手、表坐敷等、定めて其體は同じかるべし。當年の權勢これにて思ひ知るべし。然ども不義の富貴、信に浮雲如くなりき。
■やぶちゃんの呟き
「田沼氏在職中」遠江相良藩初代藩主で老中として重商主義の「田沼時代」と呼ばれ、権勢を揮った田沼意次(享保四(一七一九)年~天明八(一七八八)年)の老中(格)在職は、明和六(一七六九)年八月に側用人から老中格に異動(側用人兼務・侍従兼任)で、明和九(一七七二)年一月に老中に異動し、天明六(一七八六)年八月二十七日に老中依願御役御免となって失脚(雁之間詰)まで。翌年には蟄居となっている(ウィキの「田沼意次」に拠る)。
「陪臣」直参の旗本・御家人に対して、諸大名の家臣を言う。
「予も廿許の頃にて」「廿許」は「はたちばかり」。静山の生年は宝暦一〇(一七六〇)年であるから、数えなので安永八(一七七九)年頃となる。意次は数え六十一である。
「世の習」「よのならひ」。世の常のことなれば。
「雲路の志も有て」「うんろのこころざしもありて」より高い官職に就いて、出世したいという希望も人並みにあって。
「屢」「しばしば」。
「彼第」「かのだい」。田沼意次の上屋敷。
「大勝手」不詳。辞書類にはない。但し、後の描写を見る限りでは、対面の間、それも大座敷のそれである。
「申込て」「まうしこみて」。
「主人」意次。
「逢し」「あひし」。
「その間」「そのま」。
「大底」凡そ。
「三十餘席も敷べき處」三十人分の座布団をゆったりと「敷べき」(しくべき:敷くことが出来るほどの)座敷の間。
「居るが」「をるが」。座るのが。
「兩側に居並び、夫にても人數餘るゆへ、後は又其中間にいく筋にも並び、夫にても人餘り、又其下に居並び、其餘は坐敷の外通りに幾人も並居ることなりき」異様に座敷が広いことに驚いているのではなく、その広い座敷でも足りずに、座敷の外の廊下にまで一回の来客がはみ出して座るほど、雲霞の如く、対面を望む者らがやって来ているのを静山は驚いたのである。「兩側に居並び」とは、以下に見るように、まず、主人意次の出座する位置のすぐ直近に、左右に一人分ほどの間を空けて座り、その後ろに、その空隙の背後にやはり左右に展開して座り、更にまた、その間隙の後ろに幾「筋」にも並んで、「夫」(それ)でも座れない者がいて、その方々は、なんとまあ、座敷の外廊下にこれまた何名も坐っているという有様だったと呆れているのである。十九歳の凛々しい青年清(きよし)の、素直な驚いた顔が思い浮かぶようだ。
「その輩」「そのともがら」。廊下にはみ出た連中。
「主人の出ても見えざるほどの所なり」主人がその大座敷に対面のために出座しても、それが見えない、それに気づけないほどの、とんでもない遠い場所にいたのである。
「出て」「いでて」。
「逢とき」「あふとき」。
「多人席に溢るゝゆへ」「多く人、席にあふるるゆゑ」。歴史的仮名遣は誤り。
「ようようと」ようやっと。辛うじて。
「二三尺」六十一~九十一センチメートルほど。
「明て」「あけて」。空けて。
「面」「おもて」。
「計なり」「ばかりなり」。
「繁昌とはいへども」人が引きも切らずご機嫌伺いに来て「繁盛している」とは言ってもそれは。
「不禮とも云べきありさまなり」大名や相応の地位の武家の者が対面することを考えた時(静山はこの二十当時、既に従五位下壱岐守で肥前国平戸藩第九代藩主であった)、無礼と言ってもよいほどの呆れた仕儀であった。
「何方も」「どなたも」。
「坐敷の次」「座敷の次の間」。手前の小部屋。
「脱て置こと」「ぬぎておくこと」。
「如ㇾ此きの」「かくのごときの」。前に述べたように異常なほどに多人数の。
「數十腰か知れず」六十本前後とも知れぬほどの多数の。
「海波を畫けるが如くなりし」「海波」は「かいは」。盛り上がったり、下がったりする、巨大な海の波濤を立体に描いたような有様であった。
「此外」「このほか」。
「今にいかゞと臆中に殘りしは」今でも『あんなことは如何なものか』とすこぶる疑問に思うこととして、私の記憶の中に、はっきりと刻み残されてあることは。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月の執筆開始であるから、静山は既に四十二年以上も前の記憶であるから、よほど、以下に書かれたようなやり方が、静山にとっては、武家というよりも人道に悖(もと)る不快にして卑怯なやり口と、今も感じていることがよく判る。
「公用人」「こうようにん」。大名や小名の家で幕府に関する用務を取り扱った役。
「三浦某」三浦庄司(みうらしょうじ 享保九(一七二四)年~?)は相良藩士で「田沼時代」の政策立案に深く関わった人物。備後国福山藩(現在の広島県福山市)領蘆田郡府川村(同府中市)出身。田沼家用人三浦五左衛門の養子となり、田沼意次が老中であった頃の公用人として権勢を振るった。天明六(一七八六)年六月のこと、田沼は全国の農民・町人らから、御用金を取り立て、それを資本として諸大名に貸し付けを行おうとしたが、この立案には三浦が介在していた。ところが、これが諸大名の激しい反発を浴び、撤回を余儀なくされてしまい、これこそが田沼失脚の原因となってしまう。その結果、この三浦は田沼家から暇を出された(この頃、田沼の用人であったことから、彼の兄山本藤右衛門や弟の弁助も福山藩主阿部正倫に重用されていたが、この田沼失脚により追放されている。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「云しを用」「いひしをもちひ」。
「賴に約して」この三浦庄司に依頼し、面会の約束をして。
「逢日」「あふひ」。
「往て」「ゆきて」。
「申入ければ」「まうしいれければ」。用心のために、再度、面会確認の申し入れをしてみると。
「答るには」「こたふるには」。
「只今御目にかゝるべし。然どもそれへ出候ときは、御客の方御とりまきなさるゝゆへ、中々急に謁見叶難く候間、何卒密に別席に御入り有たし迚、予を隱處へ通し、密に逢たりし」「本日、只今(ただいま)より、御出座なされ、お目にかかることとは思われまする。しかしながら、大座敷へお出でなされた時には、瞬時に大勢の御客方が主人を取り巻きなされます故に、なかなかすぐには、これ、謁見は叶(かな)いがたいものにて御座いますればこそ、(貴方様は従五位下壱岐守にて肥前国平戸藩第九代藩主であらせられ、幸いにして意次様のお気に入りで御座いまするよって(ここは私の推定敷衍訳))何卒(なにとぞ)、「密」(ひそか)に別に拵えましたる静かな御座敷にお入りあられたい(「有たし(ありたし)」)「迚」(とて)、私を「隱處」(いんきよ:蔭の別座敷。)へ通し、密(ひそ)かに一対一で親しく、逢う手筈を調えたりした(「逢たりし」(あひたりし))。結果として静山は優遇されたわけだが、それを彼はすこぶる道義に反すると考えたのである。恐らくは、その大広間には清よりも年上で、しかも官位も石高も上の大名がいたからであろう。しかも、順序を守らずに、如何にも優先してやった的な慇懃無礼な特別扱いに、逆に腹を立てているのであると私は思う。それを意次自身ではなく、以下に見る通り(「陪臣の身として、我等をかく取扱」(とりあつかふ)「こと世に希なることなるべし」)、たかが雇われの陪臣風情が独断でやっていると清には推定出来たのである。確かにますます無礼千万な輩(やから)ではある。
「予は大勝手の外は知らず。中勝手、親類勝手、表坐敷等、定めて其體は同じかるべし」私は意次邸の大広間(とこの時の別座敷)しか行ったことはなく、他は知らぬ。しかし、中座敷(中位の大きさの座敷か)・意次が彼の親族や姻族と対面する座敷、或いは表座敷(この場合は玄関に近い方の、主に小人数の急の客と面会する客間・応接間として使う座敷)なども、その状態は恐らくはこの大座敷と似たり寄ったりの有様であったに違いない。
「當年の」当時の。
「權勢」「けんせい」。
「信に」「まことに」。
「浮雲」「うきぐも」。儚いものの譬え。意次の後の失脚の事実を指す。