諸國百物語卷之三 十三 慶長年中いがの國ばけ物の事
十三 慶長年中(ねんぢゆう)いがの國ばけ物の事
慶長のころ、いがの國さるさぶらひのやしきに、ふしぎなる事あり。暮がたになれば、げんくはんのまへを、うつくしき女、ねりのきぬをかづきあるくこともあり。又、くびなくて、どうばかり、あるく事もあり。ある時は、ひるじぶんに、だい所のやねより、女と大きなる坊主と、けぶりだしより、のぞく事もあり。又、やせをとろへたる女、白きかたびらをきて、かみをさばき、四五人づれにて、おどる事も有り。かやうに、いろいろすさまじき事おゝくして、此屋敷に、すむ人なし。今はさやうの事もなけれども、むかしの事きゝつたへて、人すまずと也。
[やぶちゃん注:「慶長」一五九六年から一六一五年まで。慶長二年、「慶長の役」(豊臣秀吉の朝鮮・明連合軍との第二次攻防戦)始まるも、翌年八月十八日(グレゴリオ暦一五九八年九月十八日)の豊臣秀吉の死去により二ヶ月後に撤退。慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)、関ヶ原の戦い。慶長八年二月十二日(一六〇三年三月二十四日)、徳川家康が征夷大将軍に就任し開幕、慶長十年、家康が隠居して秀忠が第二代将軍に就任、慶長二十年五月八日(一六一五年六月四日)、豊臣秀頼と淀殿が自刃して「大坂夏の陣」が終結、豊臣氏滅亡。
「いがの國」伊賀国は旧東海道の一国で、現在の三重県北西部に相当。畿内から東海道への出口として重要視され、古代末期より平氏の勢力下にあって、中世には大内・千葉・仁木(にっき)・畠山・滝川・筒井氏らが領有、江戸幕府になって慶長一三(一六〇八)年に藤堂高虎が伊勢津藩藤堂家初代藩主となった。高虎は浅井氏・阿閉氏・磯野氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏と次々と主君を乗り換えた男であり、私はこの怪異の背景にはそうした奸臣への批判も含まれているのではなかろうかなどと邪推したりもする。
「げんくはんのまへ」「玄關の前」。
「ねりのきぬをかづきあるく」「練(ねり)の衣(きぬ)を被(かづ)き步く」。高貴な婦人などが、異例にお忍びで外出する際、顔を見られぬよう、上等な薄絹の着物を頭から被って歩くさま。
「くびなくて、どうばかり、あるく」「首無くて、胴ばかり、步く」。
「ひるじぶんに」「晝時分に」。
「だい所のやねより」「臺所の屋根より」。
「けぶりだし」「煙(けぶ)り出し」。台所の煮炊きの煙や蒸気を外へ出すための屋根に空けた開閉式の窓。
「のぞく」「覗く」。
「白きかたびら」「白き帷子(かたびら)」。裏を付けていない白い単衣(ひとえ)。
「かみをさばき」「髮を捌き」。髪を結わず、しかもわざと手で捌いて散らし、おどろおどろしく広げ。
「おどる」「踊る」。]