甲子夜話卷之二 39 旗下の小出氏、家紋の事
2―39 旗下の小出氏、家紋の事
小出龜之助とて【二千石】當時御使番なる人、予も相識にて武邊者なり。此人の家紋、額の中に二八と文字あり。予其故を問に曰。我が先祖、某の處【地名忘】に於て首十六を獲て、其邊なる祠の額に積て實檢に及べり。神祖功勞を賞給ひて、其狀を家紋にせよと命ぜらるゝより、この如しと云へり。
■やぶちゃんの呟き
「旗下」「はたもと」。旗本。
「小出氏、家紋」サイト「戦国大名探究」の「小出氏」の本文及び画像を参照のこと。なお、この「額」(がく)の中に「二八」の家紋は小出氏でもその分家の家紋のようである(ウィキの「小出氏」に拠る)。樹堂氏のサイト「古樹紀之房間(こきぎのへや)」の「諏訪神の越後分祀と小出氏」の「2額紋」の項で本条への考察に関わる記事が出る。沼田頼輔著「日本紋章学」で本条について、『沼田博士は、「扁額は神社寺院に掲げる神聖なものだから、あの玉垣・千木堅魚木を紋章に選んだのと同じ意味で用いたもので、これに二八の文字を記したのは、二十八宿の頭文字をとったものらしい」とコメントして、「信仰的意義に基づいたものと考えられる」と推論』し、『額紋を用いた姓氏は』「寛政重修諸家譜」に『藤原為憲系の小出氏と、同じく藤原氏支流に属する小出氏とがある。そして、その同氏同紋であることから推測して、両氏は同じ祖先から出たものであろう」と記され』あてあるとある。『これら沼田博士の記事に拠ると、旗本の小出氏は尾張系の小出氏の後裔となるから、信濃出身で藤原為憲系と称した小出氏は、用いた家紋から、実際には神官系(諏訪の古族後裔)であったことが明らかになって』くるとある。
「小出龜之助」「【二千石】當時御使番」不詳。識者の御教授を乞う。本流のどこで分岐したかだけでも結構。「御使番」(おつかいばん)は江戸幕府(諸藩にもあった)の職名で、古くは「使役(つかいやく)」とも称した。元は戦国時代に戦場に於いて伝令や監察・敵軍への使者などを務めた役職で、これがそのまま、江戸幕府や諸藩に継承されたものである。
「相識」「あひしき」。知れる人物。
「武邊者」勇猛果敢で武道・武術に長けた人物。
「予其故を問に曰」「予、その故(ゆゑ)を問ふに曰はく」。
「我が先祖」家康と関わったとすれば、小出秀政・小出秀家・小出吉英などの名が挙げられよう。
「某の處【地名忘】」「なにがしのところ【地名、忘れたり。】」。
「獲て」「とりて」。
「其邊」「そのあたり」。
「なる」にあった。
「祠」「やしろ」。
「積て」「つみて」。
「實檢」首実検。
「神祖」徳川家康。
「賞給ひて」「ほめたまひて」。
「其狀を」「そのかたちを」。
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