祖父遺品の絵葉書から――「野外で開く我等の現地分會の集ひ(訥河縣龍河嶺分會)」
[やぶちゃん注:右に中国語で「在野外召開之我們的分會常務會(訥河縣龍河嶺分會)」とあり、表は上部に右書きで「郵政明信片」、中央の区切り線中央に右書きで「滿州帝國協和會中央本部・滿州事情案内所發行」とある。「明信片」は中国語で「葉書」の意。
「訥河」(とつが)は現在の中華人民共和国黒竜江省チチハル市にある県級都市である訥河市に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。その中の「龍河嶺」とは、恐らく現在の「龍河鎮」、ここであろう(同前)。なお、満州国が建国(一九三二年(昭和七年)三月一日)後、チチハルには一九三六(昭和十一)年に市政が施行されている。
「滿州帝國協和會」満州国における官民一体の国民教化組織「満州国協和会」。ウィキの「満州国協和会」によれば、『満州事変以後、中華民国からの分離独立や王道政治に基づく新国家建設の理念を説いた于沖漢らの自治指導部が協和会の起源である』。『満州国建国に至り、自治指導部は解散したが、このうち合流していた大雄峯会(主に資政局に流れた)の中野琥逸』(こいつ)『と満州青年連盟の山口重次、小澤開作、于沖漢の子于静遠、阮振鐸らが奉天忠霊塔前で「満州国協和党」を結成、軍司令部の石原莞爾と板垣征四郎から設立準備金』二万円『が拠出され、さらに結党宣言と綱領を監督した板垣・石原のブレーン宮崎正義の「ソ連や中国国民党と同じく、政府が補助金を出すべきだ」との提案により年額』百二十万円『が国庫から支弁されることになり』、『協和党という名称に反対した愛新覚羅溥儀の意向』『もあって溥儀を名誉総裁とする満州国協和会に改組された』。『協和会の基本的単位は「分会」で、地域毎に設立された。そして、各地方行政機関ごとに本部が設置され、これらの分会を統括した』(下線やぶちゃん)。『開設されなかった立法院に代わり、分会代表が参集した連合協議会が実質的に民意を汲み取る機関として期待され、石原に至っては協和会を関東軍に代わる「将来の主権者」として設定し、協和会による一党独裁制を志向していた。しかし、協和党から協和会への改組当初』『より小磯國昭らが山口や小澤ら旧協和党の古参を排除して関東軍と日系官吏による「内面指導」を強化して教化団体化を図り、特に協和会中央本部の甘粕正彦や古海忠之らと協和会東京事務所を根城にする石原一派の対立』『からはその存在意義は変質して日中戦争を機に国家総動員体制を担い』始めるに至った。その後、協和会青年訓練所・協和義勇奉公隊・協和青少年団を次々に創設し、一九四〇年(昭和十五年)からは『分会と連携して全住民や各家庭に浸透させる隣組を設置』、翌年四月には『各県長や各省長が地方の協和会の本部長を兼任することになり、政府行政と完全に一体化した』が、これはまさに日本本土の『道府県支部長を道府県知事が兼任した大政翼賛会と同じである』とある。]
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