甲子夜話卷之二 29 松英公、隅田川扇流の御話
2―29 松英公、隅田川扇流の御話
天祥寺雄峰和尚の吾松英君の【諱、篤信、肥前守】物語とて語しは、若き頃、中秋月明の時、隅田川の上流に船を浮め、金銀の扇を數枚河水に投じて、月光の映じて流行を觀賞したりと云。今の世とは其韵趣殊なる事見るべし。
■やぶちゃんの呟き
「松英公」「しやうえいこう」。肥前平戸藩第九代藩主であった静山の曽祖父に当たる同藩第六代藩主松浦篤信(まつらあつのぶ 貞享元(一六八四)年~宝暦六(一七五七)年)の法尊号。ウィキの「松浦篤信」によれば、『江戸浅草に生まれる。幼名は数馬』。元禄九(一六九六)年、兄で第五代藩主であった松浦棟(まつらたかし)の長男長(ながし)が『早くに死去したため、棟の養嗣子となった』。同年五月に『将軍徳川綱吉に拝謁』、元禄十一年に『江戸城の菊間詰めとな』り、同年中に『従五位下肥前守に叙任』した。宝永元(一七〇四)年、『養父棟とともに初めてお国入りする許可を得』、宝永六年、『養父棟とともに江戸城の柳間詰めに戻され』ている。正徳三(一七一三)年、『養父棟の隠居により、家督を相続する。藩政においては「田畑割御定法」を制定して農村再編を図り、さらに向後崎番所を設置するなどして藩政改革を図ったが、あまり効果は無かった。養父棟と違って』十一男八女の『子女に恵まれ』、享保一二(一七二七)年閏一月二日、病気を理由に家督を長男有信に譲って隠居した。享年七十四、『法号は松英院殿。墓所は墨田区の天祥寺。後に平戸市の雄香寺に改葬された』とある。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれであるから生まれる三年前に亡くなっている。
「扇流」「あふぎながし」。
「御話」「おんはなし」。
「天祥寺」墨田区吾妻橋にある臨済宗向東山天祥寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏の都内の詳細な寺社案内サイト「猫のあしあと」の同寺の記載によれば、現在の台東区松が谷にある臨済宗大雄山海禅寺が兼帯する寺院として寛永元(一六二四)年に創建、当初は向東山嶺松院と号していたとされる。元禄六(一六九三)年、『本所中之郷の下屋敷に隠居していた肥前平戸』藩四代『藩主松浦鎮信が』この寺を『譲り受け、深く帰依した盤珪』禅師を招いて中興開山とし、当地に中興したと伝えている。『近隣に同宗の松嶺寺があり、まぎらわしいということから、中興開基松浦鎮信の法名天祥院殿慶厳徳祐大居士より』、享保元(一七一六)年に「天祥寺」に改号したとされる。
「雄峰和尚」不詳。静山生前当時の天祥寺住持であろう。
「吾松英君」わが先祖松英(しょうえい)公(ぎみ)。
「諱」「いみな」。本名。
「浮め」「うかめ」。
「金銀の扇」金銀の箔で全面を覆った扇を開いたもの。
「流行」「ながれゆく」。
「其」「その」。
「韵趣」「ゐんしゆ(いんしゅ)」(本来は「うんしゆ」が正しい音読みである)「韵」は「趣」と同義で畳語。雅なる興趣。風雅。
「殊なる事」「ことなること」。高雅に在り方の格別に異なること。
« 甲子夜話卷之二 28 上野御本坊にて、狐、樂を聽く事 | トップページ | 甲子夜話卷之二 30 以前の大的の事 »