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2016/10/18

憂鬱な青春   梅崎春生 / 底本沖積舎版「梅崎春生全集」第七巻(詩篇・エッセイ)全電子化注完遂

本作を以って底本(沖積舎版「梅崎春生全集」第七巻の詩篇及びエッセイは、ここブログ・カテゴリ「梅崎春生」で全部の電子化注を終わることとなる。




   憂鬱な青春

 

 私は子供の頃、作文が下手であった。小学校中学校と、作文がにが手であった。今でこそこつもわかり、多少上手にもなったが、当時は文を綴るということがどういうことなのか、うまく見当がつかなかったのである。子供の頃作文が上手なことと、後年小説書きになることとは、一般的に無縁なことなのか。今想起すると、若年の折作文上手だったのは、たいてい早熟児だったようだ、早熟児の特徴は、一に人真似がうまいというところにある。私はいろんな点において晩熟であるらしい。今私の手元に当時の綴り方作文が若干残っているが、取り出して読んでもはなはだしく稚拙で、恥かしいようなものだから、他人に読まれては困るので、私の死後は直ちに焼却される手筈になっている。(義経だって屋島の戦で死を賭して弱弓を取り戻した。その心意気と同じだ)

 私は年少時、本(小説類)が読めなかった。うちが厳格であったのと、あまり家計が豊かでなかったからだ。収入はあったのだろうが、うちには男ばかりの六人兄弟がいる。私には今二人の子供がいるが、この二人のかわりに男の子が六人いて、ごしごしと大飯を食われては、さすがの私も音を上げて、好きな酒もやめねばならなくなるだろう。私は今になって、当時の親父(おやじ)や御袋(おふくろ)の労苦に強い同情を感じている。

 だから私は、小説類を読みたくてしようがなかったが、思いのままには読めなかった。(読めなかったから、それではというわけで、後年書き手の方に廻ったのか。まさか!)友達から借りて来てかくれて読みふけったり、日曜日には図書館に行って、手当り次第借り出して読んだりしていた。手当り次第だから、どんなものだったか、今はよく覚えていない。いわゆる「純文学」というようなものじゃなかったように思う。私ほまだ中学生の頃までは、文学づいていなかった。平凡で、身体の弱い、目立たない中学生であった。

 いつだったか、戦後、小説を書き始めた頃、故郷に帰ったら、街で中学の同級生とぱったり出会った。その級友が言った。

「お前と同姓同名の小説家が、近頃売り出しているよ。同姓同名とは、めずらしいねえ」

 こういう場合、あれはおれだよ、とはちょっと言いにくいものである。うやむやにごまかして、その場は別れた。今でも彼は、同姓同名の異人だと思っているかも知れない。

 私は中学では、あまり学業の成績が良くなかった。入学した時は、上から数えて四分の一のところにいたが、卒業の時は二百名の中九十何番に下っていた。頭はそう悪くないのだが、勉強が好きでなかったのだ。つまり怠け者(今でもその傾向多分にあり)だったのである。私は長崎高商か大分高商に入り、サラリーマンにでもなろうかと漠然と考えていた。家計の関係もあって、大学には行けないことを知っていたからだ。

 ところが卒業の年の正月になって、台湾で会社を経営していた伯父が、学資を出してやるから、高等学校を受けないか、と言って来た。そこでそれから、受験準備に取りかかった。受験までの三箇月、私はほんとによく勉強した。私の一生をふり返って、あんなに勉強した時期はない。今後ももうないだろうと思う。なにしろ九十何番なのだから、人一倍勉強しないことには、合格出来そうにもない。

 その頃の日記が私の手もとにあって、これがまたセンチメンタルな日記で(これも焼却の予定になっている)その一節に、もし五高に入れたら詩の勉強をしたい、などと書いてある。高等学校に行けると思ったとたん、若干文学づいたものであろう。

 それで昭和七年、首尾よく第五高等学校文科に入学が許可された。試験はあまり出来なかったから、すれすれで入学したに違いない。そこで詩を書き始めた。同級に霜多正次などがいて、それらの刺戟もあったのだろう。当時の五高には「竜南」という雑誌が年三回発行され、文芸部委員には三年生に中井正文や土居寛之、二年生に河北倫明や斯波四郎がいて、私がせっせと詩を投稿するけれど、なかなか載せて貰えない。上出来な詩じゃなかったからだろうと思う。

 二年生になって、やっと掲載されるようになった。そして文芸部の委員になることが出来た。委員になれば、おおむねお手盛りといった形で、毎号掲載ということになる。その頃の「竜南」も若干手もとに残っているが、これも大体焼却予定になっている。義経の弓のたぐいで、義理にも上出来とは申せない。つまりまだ詩魂が熟していなくて、幼稚なのである。

 詩に打込んでいたわけでなく、れいの怠け癖から、三年になりがけに、とうとう落第した。何かの週刊誌に、斯波四郎がつづけさまに落第して私の下級生になったように書いてあったが、そんなことはない。私も落第したから、いつも私が下級生である。同級生になる可能性はあったが、その瞬間に彼は退学させられたのである。しかし、落第ということは身にこたえた。伯父が学資を出して呉れなくなるおそれがあったからだ。病気にかかったとかなんとか、母がごまかして、やっと継続することになって、私はほっとした。で、今度は勉強に打込むようになったかというと、そうでもない。も一度落第すると、学資を断たれる確実な予感があったが、どうしても学業に打込む気分にはなれなかった。勉強に励んで何になるか、というような漠然たる気持があって、それが私を怠けさせた。といって、詩人で立ちたいとか小説家になりたいという気持も、別になかった。もちろんその自信もなかった。

 学生生活とは本来、もっとたのしく生甲斐があるものだが、私にはそれがなかった。学生生活を振り返ると、いつも私にはじめじめした感じがつきまとう。青春期にあり勝ちな憂鬱症、それがずっと私には続いていたような気がする。も少しひどければ、はっきりした神経衰弱として、治療の対象になっただろうが、病気と名付けるほどひどくはなかったので、かえってそれが私を不幸にしたらしい。私は今でも、青春を豊かにたのしんでいる青年男女を見ると、やり切れないような羨望と共に、かすかな憎しみを感じるのである。

 落第する前のクラスはあかるくて、遊び好きの連中が多かったが、あとのクラスは何だか暗くて、あまり私にはなじめなかった。落第したひがみもあったのかも知れぬ。木下順二などがいたが、彼はその頃秀才で(今も秀才だろうが)文学に関心は持っていないように見えた。前のクラスの連中が卒業してしまうと、私ほますます孤独で、学校に通うことが辛かった。

 私は京大の経済に行くつもりであった。しかし卒業前になって、東大英文に入っていた霜多正次から手紙が来て、東大に来ないか、東京で同人雑誌をやる計画がある、と言って来たので、私の心は動いた。英文はつらい、国文の方が楽だという霜多の説で、たちまち東大国文に受ける決心がついた。何だって私は楽な方が好きである。その頃の東大文学部は無試験で、国文がだめでも第二志望に廻れる。その点も私は気に入った。

 そしてやっと五高を卒業した。卒業試験の成績が悪く、私を卒業させるかさせないかで、教授会で三十分も揉めたということをあとで聞いて、私はぞっとした。あそこで落第していたら、私の一生はどうなったか判らない。別の惨めなコースをたどっていたに違いないと思う。丁度その卒業試験の時、東京では二・二六事件が起った。その三月、私は上京し、あこがれの(というほどでもないが)角帽を頭に乗せることに成功した。

 それで学問にいそしむ気になったかというと、その正反対で、高等学校では三分の二以上出席しないと落第する決めがあったが、大学にはそれがない。それをいいことにして、暫(しばら)く出席しないでいたら、何となく出るのが恥かしいような気分になって、とうとう大学にいる問、試験日の他は、一日も出席しなかった。何でもきっかけというやつが大切で、そのきっかけを失ったばかりに、私は学の蘊奥(うんのう)を極めるチャンスを失った。今思っても残念である。だから私は大学は出たけれど、その智能程度は高校卒並みにとどまっていると言っていいだろう。

 そんなわけで、私は高校時代の同級の友人はいるが、大学の同級の友人はいない。辛うじて井沢淳がいるだけである。これも大学の卒業試験の時に知合ったので、私は講義に出席していないから、ノートを持たない。誰かの紹介で井沢の下宿を訪ね、どんな参考書を読めばいいか、教えを乞いに行った覚えがある。後年井沢を知っている人にそのことを話したら、井沢なんかに教えを乞うようじゃよくよくのことだ、と呆れていたところを見ると、井沢もあまり秀才の方じゃなかったらしい。

 で、同人雑誌は昭和十一年六月に出したが、同人は十人ぐらいで、題は「寄港地」というのである。その第一号に私は「地図」という二十枚ぐらいのものを書いた。その頃改造社から出ていた雑誌「文芸」の同人誌批評欄で、手もとにないからはっきりした文句は忘れたが「ぴらぴらした擬似のロマンティシズムを捨てよ」という風に批評された。まあその程度の作品で、言葉だけででっち上げた、下手な散文詩みたいな小説であった。悪評されてくさったかというと、そうでもなく、大雑誌が私の作品をとり上げて呉れたことに、むしろ喜びを感じた。他愛のないものである。「寄港地」は二号でつぶれた。

 学校にも出ないし、雑誌もつぶれたし、あの頃の私は一体何をしていたのだろう。暇を持て余して、貧乏ばかりしていた。学資は人並みに貰っていたが、私という男は生れつきけちなくせに、へんに浪費的なところがあるのである。もっとも世の浪費家という奴は、たいていけちな反面を持っているものだ。下宿にごろごろして小説本を読んだり、浅草に行って割引きから映画やアチャラカ芝居を見たり、乏しい銭をはたいて安酒を飲んだり、また悪い病気にかかって苦労したり。

 それにあの鬱状態が、私には周期的にやって来た。鬱状態の時には、被害妄想も伴った。下宿の廊下の曲り角に女中たちがあつまって、私の悪口を言っている。下宿人たちも私の悪口を言っている。夜中に私は女中を呼んで、そんなにおればかりをいじめないで呉れと、涙ながらに頼んだこともある。またその妄想で腹を立て、下宿の雇い婆さんを殴って怪我をさせ、四泊五日の留置場入りをしたこともあった。今だからこそあれは妄想だったと判るのだが、当時は本気であった。

 こういう状態は、生来の私の身体の虚弱さからも来ているのだろうが、学資を貰いながら学校に出ていないという自責、また将来に対する不安からも生起したに違いない。(もちろん外の状況もあるけれど)

 そんな具合で二年が過ぎ、こんなことではだめだ、やはりおれは小説を書かなければ、と思い立って、二箇月ぐらいかかって六十枚の小説を書いた。「風宴」というのである。駒込千駄木町のアパートでそれを書いたが、これは書くのに苦労した。本郷の霜多正次の下宿の娘が病気で死んだ。それをヒントにしたもので、筋は大体きまっているが、どんな具合に書いたらいいのか判らない。だから苦しまぎれに、私は先ず最後の部分を書き、それから中程を書き、それに冒頭の部分をちょんとくっつけた。逆に書いて行ったようなものである。私は今までにずいぶん小説を書いたが、こんな書き方をしたのはこの一篇だけである。最初からすらすら書き流すには、まだ腕が未熟だったのであろう。

 書き上げたものの、雑誌を持たないから、発表のあてがない。友人に「文芸」の編集者を知っているのがいて、そこへ持って行って貰ったが、間もなくつき返されて来た。だから意を決して自分で「早稲田文学」に持ち込んで行った。編集は浅見淵で、もちろん私は初対面である。

 後に浅見さんが書いたものによると、私は紺餅の着物にセルの袴をきちんと穿いていたそうだが、私には記憶がない。セルの袴なんか持っていた覚えがないから、誰かに借りたのかも知れない。会見中私は膝をくずさなかった由で、その頃の私は割合礼儀正しく、几帳面だったのだろう。固くなっていたとも考えられる。幸いその作品は浅見さんのめがねにかなって、昭和十四年八月号の「早稲田文学」に掲載された。反響はほとんどなかった。次の号の「早稲田文学」の時評で、無気力な生活を描いて暗過ぎる、といったような批評が出ただけである。一所懸命書いたものだけに、私はいささかがっかりした。そこで次作を書く元気をうしなって、今松竹撮影所にいる野崎正郎と毎晩のようにつながって映画ばかり見て歩いていた。実際あの頃はよく映画を見て、眼も肥えていた。野崎はその後松竹に入ったが、私も助監督になろうと思い、砧の東宝撮影所に試験を受けに行ったことがある。試験官が私に言った。給料は如何ほど望むや。私答えて曰く。自分が生活出来るだけ欲しい。試験官たちは顔をつき合わせて相談していたが、それなら東宝本社で働いたら如何。私曰く。本社はいやです。実際の製作にたずさわりたいのです。

 そうですか。では後ほど、というわけで私は帰って来たが、後ほどおことわりの手紙がやって来た。食えなくてもやりたい、という熱意がなくては、あの仕事はだめらしい。それに助監督というのは、かなりの重労働らしいから、もし採用されたとしても、私は肺か何かをおかされて、中道で倒れるかやめるかという羽目になっていただろうと思う。

 

 大学には四年いた。

 講義に出ないで試験だけ受けようというのだから、どうしても三年ではむりである。四年ぐらいはかかる。

 自分で勝手に一年伸ばしたのだから、学資を続けて呉れとは言いにくい。自分でやるからと返上して、アルバイト生活に入った。半年はどうにか苦学生(?)生活を続けたが、卒業論文も書かねばならぬし、とうとう六箇月目に伯父に泣きついて、学資を復活して貰った。

 それから就職試験の季節に入る。

 私は実にたくさんの就職試験を受けた。各新聞社、放送局、出版社、それに前記撮影所など。皆落っこちた。どうも私は試験に弱い。

 ただひとつ、毎日新聞だけは通った。十四人採用の中に入っていたけれども、それには条件があった。十四人の中、上位成績の七人だけが本社勤務、下位七人は地方支局詰め。残念なことには、私はその下位七人の組に入っていたのだ。私は思い悩んだ。

 第一に私は差別されるのがいやだったし、地方落ちするということもおっくうで面白くなかった。何が何でも東京にとどまっていたい気持が強かった。それで結局ことわってしまったが、あの時思い切って入社して置けば、私も今頃はなんとか部の次長ぐらいにはなっているだろう、あるいは新聞記者出身の作家として、豊富な経験を生かして、多彩な活動を続けているかも知れない。もっとも新聞記者というのも激職だから、私の健康がそれに耐え得たかどうか。

 卒業論文は「森鷗外論」。当時は森鷗外にひかれていたのであるが、なにしろ日時がすくないのと、学問に弱いという欠点のため、お粗末な出来ばえであった。でもこれは、私が今までに書いた唯一の論文である。学校に保存されたらかなわぬので、卒業と同時にすぐ取り戻した。そんなところは抜け目がない。その論文は終戦後まで手もとにあったが、その後取り紛れて、どこかに見えなくなってしまった。

 一年先に大学を卒業した霜多正次が、東京都教育局に勤めていて、私は彼の手引きでそこへもぐり込んだ。教育局教育研究所というところである。教育には縁のない私だから、仕事に熱が入らず、いつも外様(とざま)あつかいにされていた。暇といえば極端に暇な配置で、その頃はそんな言葉はなかったが、今の言葉で言えば「税金泥棒」に近かったと思う。当時を回想する度に「都民の皆さま」に悪いような気持になる。

 今関西で精神病院長をやっている森村茂樹にさそわれて「炎」という同人雑誌に参加、「微生」という小説を発表した。勤め人生活のつらさを書いたものだが、これも反響は全然なし。もうこの頃は文学も、国策の線に沿わなくてはならないことになっていたから、私の書くようなのは問題なんかになりはしない。都庁から出ている「都職員文化」という雑誌にも、短篇一つを書いた。

 

 ここまで書いて読み返して見ると、どうも私は大切なところを抜かして書いている。つぼを外して書いているという気持が強い。何となくごまかしたところもあるが、意識的に省略したところもあるのだ。私は雑文は不得手でないが、自分の過去をありのまま書くのはにが手だ。雑文ならうそが混ぜられるけれども、自伝だの履歴書だのというものは、デフォルメがきかない。デフォルメがきかないから、この小文はつぼを外すことでおぎないをつけている傾向がある。ほんとは自分の過去などは、小説の材料に取って置きたいのである。

 それからどうなったかというと、ある事情があって教育局を辞(や)め、川崎の軍需会社に入った。その会社も面白くなくて、病気と称して休んでいるうちに、海軍から召集令状が来た。昭和十九年五月のことである。昭和十七年にも召集令状が来て、その時は即日帰郷になった。陸軍の対馬砲兵隊である。(あとで聞いたら、大西巨人も私と一緒に引っぱられ、終戦まで対馬で苦労したそうだ。)そんなことがあったから、今度もおそらく即日帰郷だろうと楽観して、別段荷物も処分せず、のこのこと佐世保に出かけて行った。

 その予想は甘過ぎた。見事に合格してしまった。甘過ぎたのはそれだけでない。海軍の実体に対する予想もそうであった。海軍は陸軍と違って紳士的だから、居心地もよかろうと思っていたら、これがとんでもない間違い。入団早早にしてそれが判り、たいへんなところに来たと思ったが、もう遅い。つらいからと言って、退団を願い出るわけには行かない。

 入団の翌日、いろいろと区分けがあり、一部の兵隊(訓練を受けなくてももう兵隊だ)は即日海兵団を出発して行った。行先はサイパンである。これが六月二日で、米軍がサイパン攻撃にかかったのは、二週間後の六月十四日だ。すると彼等は途中で撃沈されたか、到着したとしても直ちに玉砕したに違いない。その区分けも大ざっばなもので、私もその組に入る可能性は充分にあったのである。私は戦慄した。

 終戦までに、そんなたいへんなことになる機会が、私には幾回かあったけれども、どうにか右へはらい左にしのいで、復員にこぎつけることが出来た。要領なんてものでなく、やはり運がよかったのであろう。

 

[やぶちゃん注:昭和三四(一九五九)年十二月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。本篇を以って底本に載る全エッセイの電子化注を終えた。以下、既注のものは原則、挙げていないが、ここに書かれてある梅崎春生が編集委員となった熊本第五高等学校の交友会誌『龍南』(梅崎春生は「竜南」と書いているが、旧字表記が正しい)に載せた詩群は既に電子化注している。本カテゴリ「梅崎春生」及びその一括ワード縦書版「藪野直史編 梅崎春生全詩集」(こちらなどでダウンロード可能)を管見されたい。また、以下に出る同誌の先輩諸氏の若書きのそれらも、私が詩で初出形復元に活用させて戴いた「熊本大学附属図書館」公式サイト内の「龍南会雑誌目次」から、画像でその総ての初出現物を読むことが出来る。

「中井正文」(まさひみ 大正二(一九一三)年~)は広島県廿日市市生まれのドイツ文学者・作家。東京帝国大学独文科卒。女学校教員をしながら小説や詩を書き、昭和一九(一九四四)年に「寒菊抄」で直木賞候補となった。戦後に広島大学助教授となり、昭和五一(一九七六)年定年退官、現在、同大名誉教授。同人誌『広島文藝派』主宰。現在の百三歳。

「土居寛之」土居寛之(どいひろゆき 大正二(一九一三)年平成二(一九九〇)年)はフランス文学者(参照したウィキの「土居寛之」には『大分県杵築出身、東京生まれ』とあるが、意味不明である)。東京帝国大学仏文科卒、外務省嘱託を経て、昭和二五(一九五〇)年に埼玉大学助教授、昭和三八(一九六三)年に東京大学教養学部教授となった。その後、東洋大学教授から福岡大学教授となり、昭和六〇(一九八五)年退官。サント=ブーヴやアミエルなどを研究した。

「河北倫明」(大正三(一九一四)年~平成七(一九九五)年)は福岡県生まれの美術評論家。京都帝国大学哲学科卒。文部省美術研究所に勤務し昭和二八(一九五二)年の国立近代美術館事業課長を皮切りに、同次長から京都国立近代美術館館長となった。昭和六一(一九八六)年退官後、京都造形芸術大学学長。

「斯波四郎」(しばしろう 明治四三(一九一〇)年~平成元(一九八九)年)は山口県阿東町(現在の山口市)生まれの作家。五高理科甲類中退後、明治大学新聞高等研究科で学び、東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)に入社、昭和一六(一九四一)年には従軍記者となり、後に週刊誌『サンデー毎日』に配属された。戦後の昭和三四(一九五九)年、『早稲田文学』五月号に掲載された「山塔(さんとう)」で第四十一回芥川賞を受賞、当時同賞選考委員で師でもあった丹羽文雄から高く評価された。

「蘊奥(うんのう)」学問・技芸などの奥深い部分。奥義。極意。

「井沢淳」(いざわじゅん 大正五(一九一六)年~昭和五一(一九七六)年)は大阪生まれの映画評論家。ペンネームは「純」。朝日新聞社に入社し、昭和二〇(一九四五)年から映画欄を担当、昭和三八(一九六三)年以降は『キネマ旬報』誌などで活躍した。著書に「映像という怪物」など。

「地図」昭和一一(一九三六)年六月の創刊号『寄港地』に発表された梅崎春生の最初の本格小説。私のブログ版及びPDF縦書版がある。私は梅崎春生の初期作品の中でもとりわけ好きな作品の一つである。

「割引きから映画」意味不明。識者の御教授を乞う。

「アチャラカ芝居」昭和初期に流行した、ふざけた滑稽な仕草で客を笑わせるドタバタ喜劇の通称であるが、具体的には、古川緑波(ロッパ)・大辻司郎・渡辺篤・清川虹子らの役者、菊田一夫らの作家による、一夜漬けの脚本・舞台を「アチャラカ芝居」「アチャラカ・ナンセンス」と称した。演目はレマルクの「西部戦線異状なし」を捩った「東部戦線異状なし」、歌舞伎「絵本太功記」のパロディ「エヘン太閤記」いったものであった。

「風宴」以下に出る通り、『早稲田文学』昭和一四(一九三九)年八月号に初出。戦後の単行本「飢ゑの季節」(昭和二三(一九四八)年八月号)にも再録されている。青空文庫のこちらで電子化されている。

「セル」梳毛(そもう)和服地の一つで、オランダ語の「セルジ」(serge)の略語。「セルジ」。を「セル地」と誤解して「地」を略したもの。平織り薄手の毛織物で、本来は梳毛糸(羊毛繊維を梳(くしけず)って短いものを取り除き、長い繊維を平行に揃えた長い高級糸)を原料とする(但し、絹や人絹などを交ぜたものもある)。合せ着用の和服地。

「野崎正郎」「次郎物語」(昭和三五(一九六〇)年・松竹)で知られる映画監督(というか、私はそれしか見ていない。生没年などは不詳)

「森村茂樹」(大正五(一九一六)年~昭和五四(一九七九)年)は精神科医で地域医療と社会福祉を推進した教育者。兵庫県西宮市に兵庫医科大学を創設し、理事長・学長・病院長を歴任した。ウィキの「森村茂樹によれば、『小学校から中学、高校と文学関係の創作活動に取り組み、医学でなく作家を志したこともあった。森村茂樹のペン』・『ネームは「志摩亘(しまわたる)」。第三高校の同窓生富士正晴が』昭和二二(一九四七)年、『神戸に創刊した同人雑誌「VIKING」に』昭和二四(一九四九)年(年)に『入会』、昭和三〇(一九五五)年『に退会するまで、評論や詩、小説などを投稿している。未発表の作品も多い』とある。

「炎」詳細不詳。サイト「文学賞の世界」の改造社「文藝推薦」作品昭和一五(一九四〇年度の検討作品のリスト内に、前の森村茂樹の作品「翳」というのが挙がっているが、その掲載誌は『炎』である。

「微生」『炎』(昭和一六(一九四一)年六月刊)に初出。戦後の、梅崎春生の処女作品集「櫻島」(昭和二三(一九四八)年大地書房刊)に再録されている。これも近い将来、電子化する。]

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