諸國百物語卷之三 十四 豐後の國西迎寺の長老金にしう心のこす事
十四 豐後の國西迎(さいかう)寺の長老金(かね)にしう心のこす事
ぶんごの國、西迎寺と云ふてらの長らう、七十ばかりにてわづらひ、すでにまつごにおよぶとき、
「われ往生せば、七日の内は、そのまゝをき、それすぎ候はゞ、火そうにせよ」
と、いひごんして、あひはてらければ、弟子ども、いひごんのごとくに、もくよくをさせ、棺にいれをきたる所に、三日めの夜半のころ、棺のうち、がさがさとなるおとして、棺のふたをもちあげ、長らう、くろきづきんをかぶり、棺のうちより、はい出で、座敷へあゆみゆかれしを、弟子これをみて、ふしぎに思ひ、やうすをうかゞひ見ければ、ゑんさきへいで、庭のいぬいのすみを、ゆびさす。弟子もおそろしくて、だい所へ、にげいりぬ。そのまに、長らうは、又、もとの棺のうちへはいられける。そのあくる夜も、やはんのころ、さきの夜のごとくせられければ、弟子ども、よりあひ、だんがうして、かの庭のいぬいのすみをほりてみければ、いかにもうつくしきつぼを、ほり出だす。うちをみれば、金子千兩いれをかれたり。さては此かねにしうしんをのこされけるゆへとて、みな人、ひばうしけると也。
[やぶちゃん注:「豐後の國西迎(さいかう)寺」不詳。似た名称ならば、現在の大分県速見郡日出町(ひじまち)に浄土真宗の西教(さいきょう)寺という寺はある。話柄が話柄なだけに、ここだと断定する訳では無論、ない。念のため。
「すでにまつごにおよぶとき」「既に末期に及ぶ時」。
「われ往生せば、七日の内は、そのまゝをき、それすぎ候はゞ、火そうにせよ」何故、この長老はこうした「いひごん」(遺言)をしたのだろう? 彼はその七日の間に、死してもその金を何とか出来る思ったのだろうか? とすれば、この後の怪異や「みな人」の「ひばう」(誹謗)したことよりも、もっと救い難い執心ではないか? そこを筆者は確信犯でかく言い添えたのであろうか?
「あひはてらければ」「相ひ果てられければ」。「相ひ」はここでは動詞に付いて語調を調え、意味を強める接頭語に過ぎない。
「もくよく」「沐浴」。清拭。湯灌。
「がさがさとなるおとして」「ガサガサと鳴る音して」。
「くろきづきん」「黑き頭巾」。墨染の僧衣(僧帽)であろう。浄土真宗(一つの同定候補とした先の西教寺は真宗である)では現行でも死出の旅路を認めず、特別の死に装束をしないから、この装束自体は異様なものではない。
「はい出で」「這ひ出で」。歴史的仮名遣は誤り。
「ゑんさきへいで」「緣先へ出で」。
「いぬい」「戌亥(乾)」西北。西方浄土からずれているところが面白い。埋める時に長老の心中に執心への懺悔の無意識が働いたものかも知れぬ。
「だんがう」「談合」。
「金子千兩」時代設定が示されていないが、莫大な額である。相応に危ないことをしない限りは手に入らぬ額である。江戸時代の中後期であっても地方の一寺院の普通の住持(尋常普通の住持だったからこそ、このことの知れて衆人から激しく誹謗されたのである)の秘匿する額としては著しく破格であろう。]