○鎌倉騷動 付 北條教時別心 竝 將軍家御歸洛
中務(なかづかさ)大輔北條教時は、名越遠江守朝時の六男なり。北條家、繁榮して、一家一門とだにいへば、所領俸祿に預り、榮耀(ええう)に誇り、貴顯に至り、他門の輩(ともがら)は自(おのづから)、譜代相傳の忠義を運び、拜趨(はいすう)の禮を正しくす。將軍家、是を目覺しく思召し、如何にもして北條家を傾(かたぶ)け、御心の儘に世を治めばやと、企て給ひ、内々、諸人の心を挽(ひ)き見給ふ所に、教時、如何なる故にやありけん、將軍家に心を寄せ奉り、御前近く親(したし)み參らせ、密々の談話を致されけり。此事、既に、端(はし)、顯(あらは)れしかば、鎌倉中、騷動し、何とは知らず、大事出來りと云ふ沙汰して、近國の御家人、蜂の如くに起り、六月二十四日の早天(さうてん)より、鎌倉に競集(きそひあつま)り、寺社民屋に込入(こみい)り、猶、その外は居(ゐ)餘りて小路に馬を立て、辻々に塞充(ふせぎみ)ちたり。七月朔日に至りては、諸方の御家人等(ら)、兵具を帶(たい)し、旌(はた)を靡(なびか)し、關を破りて馳來り、又は間道を𢌞(まは)りて押集(おしあつま)る。夜畫の境もなく、引もちぎらず、皆、鎌倉に集りて雲霞の如し。何事と聞定(きゝさだ)めたるにはあらで、鎌倉の民俗、騷立(さはぎた)ちて、資財を取隱(とりかく)し、雜具(ざふぐ)を持運(もちはこ)び、男女、さまよひて、老いたる親、稚(いとけな)き子の手を引き、抱き抱へて山深く籠るもあり。舟に乘りて他國へ渡るもあり。武士は甲冑を帶して、東西に走違(はせちが)ひ、相摸守の門外に集り、又は政所の南の大路に馬を寄せて閧(とき)の音(こゑ)を擧げたり。何所(いづく)に敵ありとも知らず、誰人の逆心とも聞分(き〻わけ)たる方はなし。相摸守は少卿(せうけいの)入道蓮心、信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)を使者として、將軍家へ兩三度の往返(わうへん)あり。「か〻る騒動の候らん折節は、その以前の將軍家、何(いづれ)も先(まづ)、執權の亭へ入御し給ひて、世の中の變を窺はせ給ひて候。若(もし)、或は然るべき人々營中に參候(さんこう)して守護し奉りし例(ためし)も候。此度に於いては其儀なく、打顰(うちひそま)りておはしまし候御事は、憚(かゞかり)ながら、世の人、以て恠(あやし)み奉り候。急ぎ、此方(こなた)へ入御ましまして、世の有樣をも御覽ぜらるべき歟」と申遣(まうしつかは)されしかば、年月日比(ひごろ)御所に有りて朝(あした)に馴昵(なれむつ)び、夕(ゆふべ)に親しみ、諂(へつらひ)ける者共、色を失ひ、慄周章(ふるひあはて)て、我も我もと、御所を逃げ出でたり。周防(すはうの)判官忠景、信濃〔の〕三郎左衞門尉行章(ゆきあきら)、伊東刑部左衞門尉祐賴(すけより)、鎌田次郎左衞門尉行俊(ゆきとし)、澁谷左衞門次郎淸重等(ら)計(ばかり)こそ、御所中には居殘りけれ。歳(とし)寒しくて而(しかうし)て後に松栢(しようはく)の貞(てい)は知る、といへり。日比は媚諂(こびへつら)ひ、身に代り、命に替(かは)らんと申しける者共、皆、闕落(かけおち)して跡を隱し、行方なく散失(ちりう)せぬるも嗚呼(をこ)がまし。同四日、午刻(うまのこく)計(ばかり)に、「すはや、こと起り、軍(いくさ)、初(はじま)り亂れ立ちぬるぞや」と訇(の〻し)りて、鎌倉中の騷動、斜(な〻め)ならず、中務權大輔北條教時朝臣は、將軍家に心を寄せ奉り、甲胄の武士數十騎を率(そつ)して、藥師堂の谷の亭より懸(かけ)いでて、塔の辻の宿所に至り、鬨の聲を揚(あげ)しかば. その近隣、彌(いよいよ)、騷立ちて、ありとあらゆる軍兵共、鎧、腹卷(はらまき)、太刀、長刀よと犇(ひしめ)き、馬に打乘り、旌(はた)差上げ、東西南北に走𢌞(はしりめぐ)れども、誰人を大將として、何方へ押掛(おしか〻)るとも、更に見えたる事も、なし。逃惑(にげまど)ふ女、童(わらべ)の啼叫(なきさけ)ぶ聲、老いたる親の手を引きて、馬に蹴られじと落行(おちゆ)く者、又。その間に盗人(ぬすびと)有りて、物を奪取(うばひと)りて走行(はしりゆ)く。打伏(うちふ)せ、切倒(きりたふ)し、物の色目も見分かず。相摸守時宗、この由を聞きて、東郷八郎入道を遣して、教時へ仰越(おほせこ)されけるやう、「當家の事は、往昔(そのかみ)、遠州時政より草創して、神(しん)に通じ、天に契(かな)ひて、天下の執権、數代に傳(つたは)れり。泰時、時賴、相續して、正道の政治をいたす。驕(おご)れるを誡(いましめ)て直(なほき)に歸(き)し、德澤(とくたく)を四海に施して、仁義を萬姓(ばんせい)にす〻め、國家長久の謀(はかりごと)を逞(たくましく)して、上下安泰の道を專(もつぱら)とす。これに依つて、一門既にこの餘風に與(あづか)り、俸祿、その身に相應して、分際(ぶんざい)に從ひて榮耀(ええう)に誇れり。他門他家の輩、誰(たれ)か傾(かたぶ)け侍らん。然るに、將軍家、更に国家の政道に御心を掛けられず、和歌の道は本朝の風儀なれば、最(もつとも)稽古し給ふに足りぬべし。只、その隙(ひま)には蹴鞠(しうきく)、博棊(ばくぎ)を事とし、酒宴に長(ちやう)じ、女色(ぢよしき)に陷(おちい)り給ひ、諸人の憂(うれへ)を思召し知(しら)ず、威勢、輕忽(きやうこつ)にして、武德、磷(ひすろ)ぎ、令命(れいめい)、改變して、法式、猥(みだり)がはし。是(これ)を歎き參らせて、屢(しばしば)、諫言を奉れば、却(かへつ)て嘲哢貶挫(てうろうへんざ)し給ひ、益(ますます)、恣(ほしいま〻)なる事、天下の亂根(らんこん)に非ずや。猶、剩(あまつさ)へ佞奸(ねいかん)の不覺人(ふかくじん)を集め、北條の家門を滅(めつ)し、時宗が一族を亡(ほろぼ)さんとの御計(おんはからひ)、之(これ)、何の事ぞや。其(それ)に貴殿、心を寄せられ、非道の結構、頗る人外の所行と申すべし。獅子身中の蟲とは、か〻る事の喩(たとへ)ならんか。年來、時宗に遺恨の事も候はゞ、追(おつ)て如何にも承り、然るべき義に於いては、兎も角も、分別あるべし。此度(このたび)を幸(さいはひ)とし給はゞ、比興(ひきよう)の企(くはだて)、誰(たれ)か、心ある人、一味すべき。早く志を改めて、此方(こなた)へ来り給へ」と申し遣されしかば、中務大輔教時、大に恥しく、軈(やが)て東郷〔の〕入道に打連れて、相州の亭に参り、「全く野心を存ずるにあらず。若し、此一門に敵對すべき人もあるかと、引見(ひきみ)ん爲に、かくは振舞ひ候なり。枉(まげ)て御免を蒙り候はん」とて一紙の誓狀(せいじやう)を參らせらる。時宗は、是迄には及び候まじき者をとて、何の心を殘されたる色もなし。去程(さるほど)に、將軍宗尊親王は、同日の戊(いぬの)刻に女房の輿(こし)に召され、御所を出でて、越後入道勝圓(しようゑん)が佐介(さかいの)亭に入御し給ふ。北の門より赤橋を西に赴き、武藏大路を經て、京都に還上(かへりのぼ)らせ給ふ。相摸〔の〕七郎宗賴、同六郎政賴、遠江〔の〕前司時直、越前〔の〕前司時廣、彈正少弼(せうひつ)業時(なりとき)、駿河〔の〕式部大夫通時(みちとき)以下の武士都合十九人、雜兵(ざふひやう)、下部(しもべ)四百餘人供奉し奉り、同七月二十日には京都に著御(ちやくぎよ)あり。左近〔の〕夫夫將監時茂(ときもち)朝臣の六波羅の亭に入り給ふ。事柄、穩便の有樣、御痛(おいたは)しきまでにぞ見奉りける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻五十二の文永三年六月二十三日・二十六日、七月一日・三日の記事、及び、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」「将軍記」に基づき、北条教時が宗尊親王の謀叛に加担していたという部分は「日本王代一覧」に拠り、本条は「吾妻鏡」に出る、時宗が教時の行状を諫めたという記事についても、『その諫言が宗尊親王の行状悪しきことや教時の行為を人外の所行とするものであったと具体的に』追加を加えている、とある。
「北條教時」「中務(なかづかさ)大輔北條教時」(嘉禎元(一二三五)年~文永九(一二七二)年)名越流の北条朝時(第二代執権北条義時次男)の子で、「名越(なごえ)教時」とも称した(古記録では姓の由来の鎌倉の地名の方の「名越」は「なごや」と読むことが多い)。母は北条時房の娘。康元(一二五六)年から文永二(一二六五)年まで引付衆、文永二(一二六五)年から死の年まで評定衆を務めている。北条得宗家への敵愾心が強くあり、文永九(一二七二)年に得宗家転覆を企てて謀反を起こすが、第八代執権となっていた時宗の討伐軍によって討ち取られた(二月騒動)。享年三十八で時宗より十六歳年上であった。彼は弘長三(一二六三)年一月に彼は中務権大輔となっている。
「別心」二心(ふたごころ)。背かんとする気持ち。
「北條家、繁榮して、一家一門とだにいへば、所領俸祿に預り、榮耀(ええう)に誇り、貴顯に至り、他門の輩(ともがら)は自(おのづから)、譜代相傳の忠義を運び、拜趨(はいすう)の禮を正しくす」この部分は広義の北条一族(得宗家ではない)の、幕府内に於ける一般的普遍的優先待遇を述べている。
「挽(ひ)き」慫慂して。
「寺社民屋に込入(こみい)り」寺社の境内地や民家の敷地内にまで入り込み。
「關を破りて」各地の関所には火急の事態に対処するための情報が行き渡らず、通過を制止しようとする防備の地侍の役人らと、「いざ鎌倉」の血気にはやった、より地方から馳せ参じた武士集団とが小競り合いを起こし、無法な関所破りも行われたということであろう。関所を守る方も、鎌倉に向かおうとする者らも、そもそもが鎌倉で何が起こりつつあるのか判らぬのだから、こうした周縁の現場が混乱するのは当然である。
「民俗」民草(たみぐさ)。
「相摸守」北条時宗。
「政所の南の大路」当時の幕府の南の大路となれば現在の若宮大路の二の鳥居附近と考えてよかろう。
「少卿(せうけいの)入道蓮心」武藤景頼(建仁四・元久元(一二〇四)年~文永四(一二六七)年)。評定衆。北条時宗の父時頼の得宗家に忠実な幕臣。時頼の死去に伴って出家し、「心蓮」(表示は錯字であろう)と号した。
「信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)」二階堂行忠(承久三(一二二一)年~正応三(一二九〇)年)は二階堂行盛の子で後の政所執事。娘は安達長景室。ウィキの「二階堂行忠」によれば、『政所執事は代々主に二階堂行盛の子孫が世襲している。最初は二階堂行泰が継ぎ、その後その子行頼、行実が政所執事を継ぐがそれぞれ早死にする。その後政所執事を継いだ行泰の弟の二階堂行綱の家でもその子頼綱が政所執事を継いで』二年後に『死去したため、政所執事の職には当時評定衆であったその叔父・行忠が』六十三歳『という高齢で就任することにな』ったとある。
「打顰(うちひそま)りておはしまし候御事は」ただただ、何事の御下知も渡御の意向も示されず、ひたすら、こと異様にひっそりと静まり返ってお籠り遊ばしておらるることは。
「慄周章(ふるひあはて)て」三字へのルビ。
「周防(すはうの)判官忠景」島津忠景(仁治二(一二四一)年~正安二(一三〇〇)年)。鎌倉幕府御家人で薩摩国知覧院(現在の鹿児島県南九州市)の地頭。ウィキの「島津忠景」によれば、『学芸に優れ』、『宗尊親王の近臣として廂衆・門見参衆・御格子上下結番・昼番衆等の御所内番役に選ばれ』、『親王や二条為氏ら主催の和歌会・連歌会に度々列席し、『弘長歌合』では源親行と番えられ、これに勝っている』。『成熟期鎌倉歌壇における代表的な武家歌人と目される。そのためか』、『宗尊親王からの信任が非常に厚く』、「吾妻鏡」をみると、『親王の私的な行動にまで供奉しているのがしばしば見受けられ、兄・忠行はもとより本宗家の忠時・久経らと比較しても顕著な活躍を示しているのがわかる。蹴鞠にも造詣が深』、弘長三(一二六三)年には蹴鞠の『奉行にも選任され』ている。この親王更迭の翌年の十二月に叙爵し、『晩年は六波羅探題に転出し、京都で活動していたと推測される』とある。
「信濃〔の〕三郎左衞門尉行章(ゆきあきら)」二階堂行章(嘉禎元(一二三五)年~文永一一(一二七四)年)。「ゆきあき」とも。父二階堂行方は宗尊親王の御所中雑事奉行(或いは御所奉行)を勤めている。「吾妻鏡」には寛元二(一二四四)年から文永三(一二六六)年)まで、先の第五代将軍藤原頼嗣と、この第六代将軍宗尊親王の供奉・随兵の一人として名を連ねている。後の文永七(一二七〇)年に引付衆に列している。
「伊東刑部左衞門尉祐賴(すけより)」「曽我物語」で討たれた伊東祐経の後裔。この祐頼は木脇伊東氏を名のり、この後の元寇に際しては、伊東家からは当時、今の宮崎県日向の地にあった祐頼が出陣して活躍している。
「鎌田次郎左衞門尉行俊(ゆきとし)」詳細事蹟不祥。
「澁谷左衞門次郎淸重」詳細事蹟不祥。
「歳(とし)寒しくて而(しかうし)て後に松栢(しようはく)の貞(てい)は知る」「論語」子罕篇にある「子曰、歳寒、然後知松柏之後凋也」(子曰く、「歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るるを知るなり。」と)に基づく故事成句。「ひどく寒くなってきて初めて、松や柏(かしわ)が他の植物の葉が枯れ落ちる中、一向に枯れずにその生き生きとした緑葉を保っていることが判る」の意で、「火急の時に至って初めて人の真価が判る」ことを譬えた語。
「行方なく」「ゆくゑなく」と訓じておく。
「嗚呼(をこ)がまし」全く以って嘆かわしく馬鹿げたことである。
「午刻(うまのこく)」午後零時頃。
「藥師堂の谷」現在の覚園寺のある谷。
「塔の辻の宿所」現在の由比ガ浜通りの中間地点の鎌倉市笹目町であるが、覚園寺のある谷戸からは真反対の位置であるが、或いは騒擾を激化させることを目的として、幕府を突っ切って対角線上に移動した確信犯か。「宿所」とは幕府の警固のための番屋のようなものか。
「腹卷(はらまき)」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。
「長刀」「なぎなた」。
「東郷八郎入道」「吾妻鏡」には、ここにしか出ない人物で不詳であるが、ここでこの叛逆事件が、かくも収まったことを考えると、東郷八郎入道なる人物は時宗側近であると同時に、教時とも昵懇の間柄であったことが推定される。
「當家」ここは広義の得宗家に限らぬ北条家を指す。
「遠州時政」第一代鎌倉執権北条時政の官位は遠江守(正治二(一二〇〇)年四月一日叙任)。
「直(なほき)に歸(き)し」正道に戻させ。
「德澤(とくたく)」恵み。恩沢。御蔭。
「四海」本邦の国中。
「萬姓(ばんせい)」総ての臣民。
「餘風」時政の施した恩恵。
「分際(ぶんざい)」身分や地位。
「最(もつとも)」(貴人としては)言うまでもなく、何にも増して。
「足りぬべし」(その道を究めることは)貴人としての相応の意義は充分にあるであろう。
「博棊(ばくぎ)」博奕(ばくち)を目的とした将棋。
「諸人の憂(うれへ)を思召し知(しら)ず」民草の、公儀の政(まつりごと)が正常に行われていないことに対する深い心痛。
「威勢、輕忽(きやうこつ)にして」権威も軽るはずみで信ずるに足る重みもなく。
「磷(ひすろ)ぎ」底本頭注に『すれて薄くなり』とある。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意。
「令命(れいめい)」「命令」に同じい。
「法式」公的な儀式・礼儀などの規則。
「猥(みだり)がはし」すっかり乱れた状態に見受けられる。
「是(これ)を歎き參らせて、屢(しばしば)、諫言を奉れば」主語は直接の話者である時宗。
「嘲哢貶挫(てうろうへんざ)」嘲弄しつつ斥(しりぞ)け貶(けな)すこと。
「佞奸(ねいかん)」口先巧みに従順を装いながら、心の中は悪賢く、ねじけていること。
「不覺人(ふかくじん)」とんでもない不心得者。
「非道の結構」道理に外れた企み。
「獅子身中の蟲」元は仏教用語で、百獣の王とされる神獣獅子の体内に寄生し、遂には獅子を死に至らせる虫の意。仏徒でありながら、仏法に害をなす者の意。転じて、組織・集団の内部に居ながら、害をなす者や恩を仇(あだ)で返すような、破滅的元凶となる存在を指す。
「年來」「としごろ」。永年。
「然るべき義に於いては、兎も角も、分別あるべし」その内容が私にも得心出来るものであった場合には、どのようにでも貴殿の納得出来るよう、考えもし、処理も致そう。
「此度(このたび)を幸(さいはひ)とし給はゞ」今回の双方にとって心ならざる事態を、却ってよき方へと転じようとお思いになられるのであるならば。
「比興(ひきよう)の企(くはだて)」この場合の「比興」は「卑怯」に同じい。このようなつまらぬ、どう考えても不都合にして、正道から外れた卑怯な謀略。
「東郷〔の〕入道に打連れて」東郷の入道に導かれてともにうち連れて。
「相州」相模守北条時宗。
「此一門」広義の北条一族。
「引見(ひきみ)ん爲に」そうした叛逆を意図する悪しき輩(やから)の気をわざと惹いてみんがために。
「枉(まげ)て御免を蒙り候はん」「どうか、御勘気をお鎮め遊ばされて、お許し頂きとう、御座いまする。」。
「誓狀」神仏に誓った誓約の起請文。
「是迄には及び候まじき者をとて」「者」は漢字を当てただけで、詠嘆の主助詞「ものを」。そんな大それた誓文までお出しにならずともよいのに、の意。
「何の心を殘されたる色もなし」一向に勘気や、気にかけて疑う様子も、これ、なかった。
「去程(さるほど)に」そうこうしているうちに。意想外にも。
「戊(いぬの)刻」午後八時頃。
「女房の輿(こし)に召され」襲撃を畏れたことよりも、正式の輿を動かすに足る人員が逃げ出してしまったことによって、まるでいなかったことによるものであろう。
「越後入道勝圓(しようゑん)」初代連署北条時房の長男北条時盛(建久八(一一九七)年~建治三(一二七七)年)。因みに、彼も北条氏の内部抗争の結果、幕府内での有意な地位を追われていた人物であった。詳しくはウィキの「北条時盛」などを参照のこと。
「佐介(さかいの)亭」ルビはママ。佐助ヶ谷のことか。但し、そうすると、以下の御所退去は、その佐助ヶ谷への時盛邸へのルートとして相応しく、後にそこを帰洛ルートとするのは、やや解せない(結果としてはそうなるとしても、である)。あたかもそれでは、また、時盛邸から御所に戻って、改めて帰洛したかのように読めてしまうからである。「吾妻鏡」を読む限り、この時盛の佐助邸への移送が、御所を出た最後である。
「北の門」御所の北門。現在の鶴岡八幡宮の源氏池の外側やや南西にあったと思われる。
「赤橋」八幡宮の太鼓橋のこと。
「武藏大路」八幡宮前の向かって左側の通りの旧名。そこを突っ切ると、寿福寺の前に出、左折すれば佐助ヶ谷へ向かう。
「相摸〔の〕七郎宗賴」北条宗頼。北条時宗の異母弟。以下、幕閣側の護送役である北条一門の面々であるので詳細には注しない。
「同六郎政賴」北条政頼。前記の宗頼の兄。
「遠江〔の〕前司時直」北条時直。金沢流北条氏の祖金沢実泰の子である実時の子。彼は幕府滅亡直後に瀬戸内で降伏、罪を許されて本領を安堵されるたが、程なく病死している。生年は未詳であるが、推定では享年は百歳となる(以上はウィキの「北条時直」に拠る)。
「越前〔の〕前司時廣」北条時広。北条時房次男北条時村の子。
「彈正少弼(せうひつ)業時(なりとき)」北条業時。連署であった北条重時の四男。
「駿河〔の〕式部大夫通時(みちとき)」北条通時。北条政村の子。
「左近〔の〕夫夫將監時茂(ときもち)朝臣」北条時茂北条重時の三男。
以下、「吾妻鏡」の文永三(一二六六)年七月四日の条を抄出する。引用は、直前にある北条教時の騒擾(引用後に後述)の記事及び途中と後にある、佐介の亭を出て帰洛する将軍の供奉人等のリストを省略してある。
〇原文
四日甲午。申尅。雨降。今日午尅騷動。中務權大輔教時朝臣召具甲冑軍兵數十騎。自藥師堂谷亭。至塔辻宿所。依之其近隣彌以群動。相州以東郷八郎入道。令制中書之行粧給。无所于陳謝云々。
戌刻。將軍家入御越後入道勝圓佐介亭。被用女房輿。可有御皈洛之御出門云々。
供奉人(以下、中略)
路次。出御自北門。赤橋西行。經武藏大路。於彼橋前。奉向御輿於若宮方。暫有御祈念。及御詠歌云々。
供奉人(以下、中略)
〇やぶちゃんの書き下し文
四日甲午。申の尅、雨、降る。今日、午の尅、騷動す。中務權大輔教時朝臣、甲冑の軍兵數十騎を召し具し、藥師堂谷の亭より、塔の辻の宿所に至る。之れに依つて、其の近隣、彌々成(も)つて群動す。相州、東郷八郎入道を以つて、中書の行粧ぎやうさうを制せしめ給ふ。陳謝するに所無しと云々。
戌の刻、將軍家、越後入道勝圓が佐介(さすけ)の亭へ入御す。女房輿を用ゐらる。御歸洛有るべきの御出門と云々。
供奉人(以下、中略)
路次(ろし)は北門より出御、赤橋を西へ行き、武藏大路を經(ふ)。彼(か)の橋の前に於いて、御輿を若宮の方に向け奉り、暫く御祈念有りて、御詠歌に及ぶと云々。
供奉人(以下、中略)
なお、この時の宗尊親王の詠歌は、
十年あまり五年までも住み馴れてなほ忘られぬ鎌倉の里
ともされる(但し、現在では本歌は、帰洛の際、藤沢の本蓮寺(モノレール目白山下駅近く)に泊った折りに詠まれたものとされている)。満十歳で鎌倉に迎えられ、青春時代を過ごした鎌倉、今、妻に裏切られ、社会的にも(既にして傀儡将軍ではあったが)お払い箱とされる二十四歳の彼の想いは、いかばかりであったろう……。]