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2016/11/30

谷の響 四の卷 二十 天狗人を攫ふ

 

 二十 天狗人を攫ふ

 

 弘化午の年、新寺町玄德寺の住職京師に昇り本山【本願寺なり。】の學寮にありしとき、最上のもの四人同道にて本山參りを致し、其うち一個(ひとり)の者四月二日に御剃刀といふを頂くとて出けるが、その日黃昏(くれあひ)に及べども來らず。同行のものいと不審(いぶかり)て人を雇ひて探索(たづねもとむ)れども、遂に踪跡(ゆくえ)しれずして三日を過たりしに、本山より其者を最上の寮へ遣はしていへるには、此もの發狂せしと見ゆるなればよくよく介抱すべしとて、醫師を添へられて送りたるに衆々(みなみな)いと愕然(おどろ)き、種々(いろいろ)劬(いたは)れども顏色靑ざめて物も得言はず、たゞ慴(ふるえ)怕(わなゝ)き動(やゝ)もすれば駈出んとするを、手を捕り足を押へて停留(とゞめ)置にき。されど日數ふるまゝに看病のものも勞疲(くたびれ)て耐へ得ざれば、本山の下知にて寮に居合せたるもの代々に晝夜とも傍にあらしめて扱ひさせたるに、十四五日ばかり過て漸々正氣なりければ、そのありし事址(こと)ども尋ぬるにいらへけるは、御剃刀を頂き廊下を通れる時、五十あまりの老人と覺しき修驗(やまぶし)のいと尊ふとげなるが一個(ひとり)來りて、我に善き廰堂(ざしき)を見すべし此方へ來よといふて、手を採ると覺えしが卽便(そのまゝ)飛鳥の如く走りて何處といふ差別も分らざりしに、修驗のいへるにはその着たる肩衣を取り棄てよと言へるから直(すぐ)に脱ぎすてたりしに、又暫くして懷中のものも棄てよとありければ、是は私先祖より傳へ來れる佛像にて、臺座の缺損(いたみ)を修覆せんためわざわざ大衢(みやこ)まで持來りしことなれば免許(ゆるし)玉はれと言ひしかど、更に諾(うべな)はずして彌(いよいよ)棄よと言ひしから、私も手を折りて萬般(さまさま)に願(ね)ぎたりしかば、さらば己れを棄つべしとてそのまゝ頸筋を摑(つかま)へて杳(はるか)に抛(なげ)られたりと覺しが、夢の覺たる意氣(こゝち)にて四邊(あたり)を觀望(みまは)せば、※廰(ざしき)の結構言はん方なく障子を開て見れば樓閣(にかい)とおぼしき故、梯子を索(たつ)ねて下りて見るに又※廰(ざしき)ありて初のごとし[やぶちゃん字注:「※」=「濵」より(さんずい)を除去したもの。]。こは何處にてあらんとその下を望觀(のぞみみ)るに、男か女かわからねど色淸らかにいと尊とげなる人の白き裝束を服し玉ひたるが獨御在(はし)て、私を囘視(かへりみ)玉ひて人を呼で過傷(けが)ばしさせぬやうに計ふべしと宣(のり)玉ひしを聞けるが、何とやらん凌懼(ものおそろ)しく身の毛逆立樣に覺しが、又昏迷(たふれ)てそのあとは知らずなりしと語りしなり。

 こはこれ嚮(さき)の修驗は天狗にて、その投墮されたる處は萬惶(もつたい)なくも内裡の御層樓(さんかい)にて、白き御裝束を穿(め)し玉ひたるはいといとかしこかれど今上皇帝にわたらせ玉ひしとなり。然るに檢非違使の御方にてこれを禁綱(いましめ)按察(ぎんみ)あれど、狂氣して何の辨へもあらざればそが懷中を査(あらた)め視るに、御剃刀頂戴の時御ながれを下さるよしにて其土器(かはらけ)が有しかばへ是必(さだめて)一向宗の徒(もの)なるべしとて本山へ屆けられしとなり。さるに此係りの醫師の話に、龍顏を上より拜する時は必ず死するものなり。されど狂氣の中は幾年も活延(いきの)べけれど、本性となりては活助(たすかる)ものなし。疾く國元へ下すべしとて、卒(にはか)に整點(したく)させて寮を退去(さらせ)けるとなり。こは此玄德寺も介抱してその者より直に聞たるとて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「攫ふ」「さらふ」。

「弘化午の年」弘化三年丙午(ひのえうま)。一八四六年。

「新寺町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「玄德寺」既出既注であるが、再掲する。底本の森山氏の補註に『弘前市新寺町にある浄土宗法源寺塔頭であった大会山玄徳寺。文禄四年』(一五九四年)『南津軽郡浪岡に開創、慶安三年』(一六五〇年)『弘前に移転したという。今はない』とある。法源寺は同町の真教寺の真西に専徳寺という寺を挟んで現存するから(先のYuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」にはこの「遍照山法源寺(弘前市新寺町・大浦城の移築門)」もある)、この法源寺の周辺(グーグル・マップ・データ)にあったのであろう。それにしても、まさに新寺町というだけに現在も軒並み、寺が密集している。

「本山【本願寺なり。】」通常は単にこう書いた場合、京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町にある、浄土真宗本願寺派の本山龍谷山(りゅうこくざん)西本願寺を指す。

「最上」出羽国最上郡地方のことであろう(底本の森山氏もそう推定されておられる)。最上郡は現存する群であるが、古くのそれは遙かに郡域が広く、本書の記載に近い幕末時点では、出羽国に属し、全域が新庄藩領であった。ウィキの「最上郡」を参照されたい。

「四月二日」グレゴリオ暦では四月二十七日。

「御剃刀」「おかみそり」。元来は戒師が出家する者に戒を授けて髪を剃ることを指すが、ここは現行「帰敬式」と呼ばれている、宗祖親鸞の「教え」に基づき、仏・法・僧の三宝に帰依することを誓う儀式と思われる。東本願寺の公式サイト内の「帰敬式」によれば、受式すると仏弟子としての名前である「法名」(釋○○あるいは釋尼○○)が生前に授与されるとある。

「最上の寮」或いは天理教の「おやさと(親里)」のように、西本願寺には各地方(国・郡)に分けられた宿泊所(或いはそれを含む大きな奥羽レベルでの宿所で、さすれば、弘前の修行僧が一緒であるのも納得がゆく)があったものかも知れない。

「劬(いたは)れども」「勞はれども」。「劬」には「疲れる」の外に「労わる」の意がある。

「駈出ん」「かけいでん」。

「停留(とゞめ)置にき」「とどめおきにき」。二字へのルビ。

「ふる」「經る」。

「勞疲(くたびれ)て」二字へのルビ。

「代々に」「かはるがはるに」。

「傍」「そば」。

「過て」「すぎて」。

「漸々」「ようよう」。漸(ようや)く。

「事址(こと)」二字へのルビ。

「尊ふとげ」「たふとげ」。

「廰堂(ざしき)」二字へのルビ。

「此方」「こなた」。

「卽便(そのまゝ)」二字へのルビ。

「飛鳥」「ひてふ」。

「何處といふ差別も分らざりしに」何処(いづこ)へ参るかということさえも判らずに。周りが全く見えぬほどの速さで連れ行くその途中に。

「肩衣」「かたぎぬ」。ここは袈裟の意。

「大衢(みやこ)」二字へのルビ。「衢」は訓「ちまた」で、人が大勢集まっている、賑やかな通りの意から、町中、ここは「おほやちまた」で京都を指す。

「免許(ゆるし)」二字へのルビ。

「棄よ」「すてよ」。

「萬般(さまさま)に」二字へのルビ。「さまざまに」。いろいろと。

「願(ね)ぎ」「ねぐ」「祈ぐ」で、本来は神仏に向かって祈る・祈願するの意。仏像の破却はどうか御容赦あれと冀(こいねが)い。

「己れを」「おのれを」。お前を。

「覺たる」「さめたる」。

「意氣(こゝち)にて」二字へのルビ。

「觀望(みまは)せば」二字へのルビ。

「※廰(ざしき)の結構言はん方なく」(「※」=「濵」より(さんずい)を除去したもの)その座敷の間の入り口の様子の驚くべき広さと豪華さは謂いようもないほどで。

「開て」「あけて」。

「樓閣(にかい)」二字へのルビ。

「梯子」「はしご」。階段。

「索(たつ)ねて」読みはママ。手で支えてつつ。

「初のごとし」「はじめ」。先に見た座敷と、これまた同じような、豪華絢爛なる広座敷があった。

「何處」「いづく」。

「獨御在(はし)て」「ひとり、おはして」。

「呼で」「よんで」。

「過傷(けが)ばしさせぬやうに計ふべし」「けが(を)ば、しさせぬ樣にはからふべし」。怪我などを、致さぬように、はからってやるがよい。

「聞けるが」「ききけるが」。

「凌懼(ものおそろ)しく」二字へのルビ。

「逆立樣に覺しが」「さかだつやうにいおぼえしが」。

「昏迷(たふれ)て」二字へのルビ。

「嚮(さき)の」最初の。「嚮」は「向」に同じい。

「投墮されたる」「なげおとされたる」。

「萬惶(もつたい)なくも」二字へのルビ。「勿體なくも」。畏れ多くも。

「裡」「うち」。内裏。

「御層樓(さんかい)」「ごさんかい」三層構造の内裏の最上階の謂いか。但し、これが二条城ということにあるが、同城の天守は、取付矢倉が付属する層塔型五重五階の天守であったものの、これは寛延三(一七五〇)年に落雷で焼失、それ以降は再建されていない。それとも、江戸後期に三層階の建物が禁裏の中にあったものか。識者の御教授を乞う。

「穿(め)し」「召す」。「着る」の尊敬語。

「今上皇帝」恐らくは孝明天皇である。先代の仁孝天皇は弘化三年一月二十六日に崩御しているからである。

「檢非違使」「けびいし」。禁裏内の警察機構の長であるが、この当時のそれは有名無実と思われ、捕縛は判るが、以下のような尋問・聴取も任されていたかどうかは、甚だ疑問と思うが、如何?

「禁綱(いましめ)按察(ぎんみ)あれど」それぞれ二字へのルビ。

「辨へ」「わきまへ」。

「御ながれ」不詳。次に「土器(かはらけ)」とあるから、酒席で貴人や目上の人から杯を受けて、これに注いで貰う酒。辞書によれば、古くは飲み残しの杯を渡されてそのまま飲んだとあることを指すか。肉食妻帯を宗旨として許す真宗は酒を飲むことは禁じていないと思われる。或いは、酒に見立てた水盃かも知れぬが、まあ、識者の御教授を乞う。

「有しかば」「ありしかば」。

「是」「これ」。

「此係り」「このかかはり」。これに関わった。

「龍顏」天皇の顔。

「中は」「うちは」。

「本性」正気に戻ること。

「活助(たすかる)」二字へのルビ。

「疾く」「とく」。早く。

「下す」「くだす」。

「整點(したく)させて」二字へのルビ。私はピンとこない熟語である。

「こは此玄德寺も介抱して」これはこの、当時、修行僧として西本願寺に修学した、現在の住持も、彼の介護を輪番で担当して。

「直に」「ぢかに」。]

北條九代記 卷第十 一院崩御 付 天子二流 竝 攝家門を分つ

 

      〇一院崩御  天子二流  攝家門を分つ

 

同二月十七日、一院後嵯峨〔の〕法皇、崩御あり。寶算(はうさん)五十三歳、初(はじめ)、御位を後深草院に讓り給ひて後も、なほ、院中にして政事(せいじ)を聞召し給ふ事、二十餘年、世聞、物靜(ものしづか)にて、天下四海、穩(おだやか)なりければ、宸襟(しんきん)、御物憂(う)き事もおはしまさず。御遊(ぎよいう)、歌の會、諸方の御幸(ぎよかう)に月日を送らせ給ふ。御(ご)果報、いみじき天子にて渡(わたら)せ給ふ。この分にては何時(いつ)まで存(ながら)へさせ給ふとも、愈(いよいよ)、めでたき御事なるべしと雖も、人間(にんげん)愛別の歎(なげき)、四大離散の悲(かなしみ)は誰(たれ)とても遁(のが)まるじき習(ならひ)なれば、忽(たちまち)に無常の風、荒く吹きて、有待(うだい)の花、萎落(しぼみおち)させ給ひ、鼎湖(ていこ)の雲、治(をさま)りて、蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふこそ悲しけれ。御遺勅ありけるは、「これより後の皇位は、新院後深草院と、當今龜山院と、御兄弟の二流、代々(かはるがはる)卽位あるべし」と仰せ置(おか)れしと、世には申し傳ふれども、實(まこと)には北條時宗、朝廷を分けて、二流とし、其勢(いきほひ)を薄くし奉らんが爲に、かの二流、代々(かはるがはる)、御治世あるべしと、計(はからひ)申しけるとぞ聞えし。是より以前、後鳥羽院、承久の亂の時、西園寺公經卿(さいおんじのきんつねのきやう)、志を鎌倉に通(かよは)し、左京大夫北條義時に心を合せて、京都の手術(てだて)を計(はか)られしかば、天下、静(しづま)りて後に、義時、其志を感じて西園寺を推擧し、禁中の事を執賄(とりまかな)はせ參らせしかば、公經卿より、子孫、榮え、官位高く昇進し、大相國(だいしやうこく)に經上(へあが)り、太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)、後嵯峨院の中宮となり、この御腹(おんはら)に後深草、龜山兄弟を生み參(まゐら)せらる。是等も皆、關東の計(はからひ)に依(よつ)て、この西園寺を執(しつ)せらる〻所なり。又、往初(そのかみ)は、攝政關白になり給ふは近衞殿、九條殿、只、二流なりけるを、四條〔の〕院仁治三年に良實公、關白になり給ふ。是(これ)、二條殿の御先祖なり。後嵯峨〔の〕院寛元四年に實經公、關白となり給ふ。是、一條殿の御先祖なり。後深草院建長四年に兼平公、攝政となり給ふ。是、鷹司殿の先祖なり。今に傳へて五攝家とは申習(まうしなら)はしける。是も鎌倉最明寺時賴入道の執權せむより、攝政關白の御家を數多に分けて權威を磷(ひすろ)げ參らせける所なり。今、又、相摸守時宗、執權の世に當(あたつ)て、天子の御位をも、二流に分ち奉り、變る變る、王位を繼がせ奉る事、偏(ひとへ)に皇孫、兩岐にして、王威(わうゐ)を恣(ほしいま〻)にさせ奉るまじき方便(てだて)なり。只、西園寺の家のみ、殊に當時は天子の御外戚となり、淸華(せいくわ)の家には肩を竝(なら)ぶる人なく、權威、高く輝きて、朱門金殿、甍(いらか)を磨き、榮昌(えいしやう)、大にす〻みて、紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)、軒(のき)を合せたり。如何なる王公大名といへども、禮を厚く、敬を盡し、その心を取りて、崇仰(そうがう)せらる。出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける。

 

[やぶちゃん注:標題中の「攝家門を分つ」の「門」は「かど」と訓じている。

「同二月十七日」文永九年(ユリウス暦一二七二)。前章後半の「二月騒動」(同年一月)を受けているので「同」となる。グレゴリ暦換算では三月二十七日。

「寶算(はうさん)」天皇の年齢を言う場合の尊称。

「宸襟(しんきん)」天子の御心(みこころ)。

「御(ご)果報」仏教的な前世からの御果報、の謂い。

「有待(うだい)」「うたい」とも読む仏語。「人間の体」の意。衣食などの助けによって初めて「待」(頼みとして期「待」されること)が「有」(保たれて「有」る)ものであるところから、かく言う。

「鼎湖(ていこ)」中国の伝説上の皇帝で五帝の第一とされ、漢方の始祖的存在である黄帝の亡くなった場所で盛大にして豪華な葬儀もそこで行われたという地の後の称。皇帝はここから龍に乗って登仙したともされるから、この「雲、治りて」はその情景を後嵯峨院の葬送の儀が滞りなく行われたことに擬えたものであろう。

「蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふ」「蒼梧」は湖南省寧遠県にある山で、中国古代の五帝の一人である舜の墓があるとされる地であるから、ここも前の「鼎湖、雲、治りて」との対句表現で後嵯峨院が、春霞とともに(前に示した通り、旧暦二月十七日でグレゴリ暦換算では三月二十七日である)白玉楼中の人となって永遠に去ったことを示す。

「承久の亂の時」ユリウス暦一二二一年。

「西園寺公經」(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)は第四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・幕府第五代将軍藤原頼嗣曾祖父となった稀有な人物で、姉は藤原定家の後妻で定家の義弟にも当たる。既注であるが再掲しておく。源頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから鎌倉幕府とは親しく、実朝暗殺後は、外孫に当る藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されたが、事前に乱の情報を幕府に知らせて幕府の勝利に貢献、乱後は幕府との結びつきを強め、内大臣から従一位太政大臣まで上りつめ、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。『関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く』、『その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している』(平経高は婿道家の側近であったが反幕意識が強かった)。『なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった』(引用を含め、ウィキの「西園寺公経」に拠った)。

「大相國(だいしやうこく)」太政大臣。

「太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)」公経の子西園寺実氏の長女大宮院(おおみやいん)姞子(きつし)。

「四條〔の〕院仁治三年」四条天皇の一二四二年。

「良實公、關白になり給ふ」弟に第四代鎌倉将軍藤原頼経を持った二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)は、西園寺公経の推挙で同年一月二十日に関白宣下を受けている。但し、公経が死去とともに朝廷は実父(次男)でありながら、仲の悪かった九条道家に掌握されてしまい、不本意ながら、父の命で寛元四(一二四六)年一月に関白を弟一条実経に譲った。ところが寛元四(一二四六)年の宮騒動で父道家は失脚し、道家の死後(建長四(一二五二)年)、再び勢力を盛り返して、弘長元(一二六一)年には再び関白に返り咲いた。その後、文永二(一二六五)年に再び弟の一条実経に関白職を譲ってはいるものの、以後も彼は内覧として朝廷の実権を掌握し続けた。

「後嵯峨〔の〕院寛元四年」一二四六年。前注参照。

「後深草院建長四年」一二五二年。

「兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)は関白近衛家実四男。

「磷(ひすろ)げ」既出既注。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意で「擦れて薄くする」「力の集中を弱らせる」の意。

「變る變る」「代わる代わる」。

「兩岐にして」二流に分岐させて(内部で対立を起こさせて朝廷のコアの部分をも弱体化させ)。

「淸華(せいくわ)の家」狭義の「清華家(せいがけ)」は公家の家格の一つで、最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する格式の家系を指す。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることの出来る当時の七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指す。

「榮昌(えいしやう)」栄華。繁栄。

「紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)」紺色で美しく彩色したかのように見える豪華な軒や、宝玉を彫琢して作られた階(きざはし)。孰れも貴人の絢爛たる豪邸を指す。

「その心」西園寺家当主の御心。

「を取りて」に取り入って。

「崇仰(そうがう)」崇(あが)め奉り、ありがたく拝み申し上げること。

「出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける」西園寺家に出入りするというだけのことで、その人々までも、他の人々はそれだけでも「眉目」(みめ:面目・名誉の意)として、羨ましく思うたのであった。]

谷の響 四の卷 十九 食物形を全ふして人を害す

 

 十九 食物形を全ふして人を害す

 

 安政二乙卯の年のことなるが、上十川村の百姓某といへる者、腹の内にかたまりありていたくなやみけるが、醫藥もしるしなくほとほと死なんとして家内の者にいへりけるは、吾死して腹中にこの病をたくはへたらんにはうかぶよしなし、すみやかに腹をさいて塊物(かたまり)を取除くべしとてつひにむなしくなりにけり。さるにそのあくる日、屍を葬場へかついでひそかに腹をさいてそのこゞりを取出しこれをといて見るに、世にサモタチといふ茸の笠の徑(わた)り二寸餘りなるもの一ひらありて、この茸少しのきずもなく形狀そのまゝにてありしとぞ。斯ばかりの茸たゞに呑むべきよしもなく、又きりわらで食ふべきこともなき筈なるに、いとあやしきことなりとて、これが療治せる桑野木田の醫師島田某の語りしなり。又この醫師の話に、蕨に中(あて)られて苦しむもの、大かたは一本のまゝの蕨をはくことありき。こもきりたゝでくふべきものにあらざれど、數人を見るにみなしかありしなりと言へりき。

 さて、これによりて思ひ出ることあり。さるは文政の年間、同町に田中屋淸兵衞といへる豆腐屋ありしが、主淸兵衞なるもの性好んで鯡の子を食(くら)へつること數十年なりしに中(あて)られたることなかりしが、ある日これに中られいたく腹をなやみ、四日の間夜晝のわかちなく苦しみて、わづかの飮食も呑ともくだらず藥もしるしなさゞりしに、病て四日といふ夜に至りげつといふて吐下(はきくだ)せるものあり。こをとりて見るに一枚(ひとひら)の數の子の少しも缺損(かけいた)まぬ其まゝのものにて有りしとなり。病人はこの物を吐いてよりちとばかり落ちつきたる樣子なれども、精氣盡きたりけん其明方に失せにけりとなり。

 又これも同じ事なるが、文政の末年近隣なる高瀨屋三郎右衞門と言へるもの、小章魚(たこ)を食ひてこれに中てられ、又夜晝のわかちなく苦しみけるに病みて七日といふに、當れる小章魚の脚の八九寸なるもの一すぢを吐き出せり。これ亦痛みなく生のまゝにてありしなり。さるにこの人年六十にあまりて常によわき生れつきゆゑか、二日目に空しくなりぬ。又天保の年間、井桁屋小太郎といへるもの何にくひあてられしや、こも食ひたるものをそのまゝに吐きいたせる話ありしが、病みて三日にして失せたりき。こを醫師にたづぬれど、うへのぶべきあげつらひもあらざりしなり。さりとはあやしきことなり。

 

[やぶちゃん注:第一例(第一段落の主記載のもの)については、腹部を剖検して出ているところから、内臓に出来た巨大ポリープ(死因がそれならば癌であって播種していたのかも知れぬ)の可能性が高いように思われる。一部のポリープは素人が肉眼で見ても茸によく似ているからである。その後の蕨の例、数の子の例及び蛸の足の例は孰れもよく判らない。特に後者は二例とも死亡しており、気にはなる(数の子や蛸それ自体がその死因ではないと思われるが)。数の子のケースは実は鯡の卵巣ではなく、フグ類のような何らかの強い毒性を持った魚の卵巣、或いは深海性のワックス(高級脂肪酸)を多量に含んだ魚類の内臓や身の過食などが想起はされるものの、不明である。識者の御教授を乞う。

「全ふ」「全(まつた)う」が歴史的仮名遣としては正しい。

「安政二乙卯の年」安政二年は乙卯(きのとう)でグレゴリオ暦では一八五五年。

「上十川村」青森県黒石市上戸川(かみとがわ)村。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「ほとほと」殆んど。

「うかぶよしなし」死んでも浮かばれぬ。余程、痛みが激しかったのであろう。

「こゞり」「凝り」。凝り固まったもの。しこり。

「といて」「解いて」。内臓との癒着が激しかったことから、かく表現したものか。

「サモタチ」秋田県生まれの永田賢之助氏の紹介になる秋田の茸の詳述サイト内の「サワモダシ(俗称)」を見ると、標準主要種を「ナラタケ」としつつ、『近似種にナラタケモドキ、ヤチヒロヒダタケがある。これらをいっしょくたにサワモダシと呼んでいる』と記されてあり、『サワモダシは消化が良くないので食べ過ぎないこと。また、生だと中毒を起こすので料理には注意が必要サワモダシの幼体に似ているのが猛毒ニガクリタケ』と注意を喚起してある(下線やぶちゃん)。なお、

「ナラタケ」は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ亜種ナラタケ Armillaria mellea nipponica

「ナラタケモドキ」はナラタケ属ナラタケモドキ Armillaria tabescens

「ヤチヒロヒダタケ」はナラタケ属ヤチヒロヒダタケ Armillaria ectypa

で、

猛毒で死亡例も多い「ニガクリタケ」はハラタケ目モエギタケ科モエギタケ亜科クリタケ属ニガクリタケ Hypholoma fasciculare

である。「サワモダシ」と「ワモタチ」は音が近似しているように私は感じるので(特に東北方言ではこの二語は実はかなり似て聴こえるように思うのである)、これを最有力候補として掲げておく。

「二寸」六センチメートル。

「一ひら」「一枚」。「ひら」は薄く平らなものの数詞。

「斯」「かく」。

「きりわらで」「切り割らで」。

「桑野木田」現在の青森県つがる市柏(かしわ)桑野木田(くわのきだ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。五所川原の南西。

「蕨」「わらび」。シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ Pteridium aquilinumウィキの「ワラビ」によれば、『牛や馬、羊などの家畜はワラビを摂取すると中毒症状を示し、また人間でもアク抜きをせずに食べると中毒を起こす』。また、『ワラビには発癌性のあるプタキロサイド(ptaquiloside)』が約〇・〇五~〇・〇六%含まれる』。『また、調理したものであっても大量に食べると全身が大量出血症状になり、骨髄がしだいに破壊され死に至る。しかし、ワラビ中毒がきのこ中毒のように問題にならないことから判るように、副食として食べている程度ならば害はない。またアク抜き処理をすればプタキロサイドはほとんど分解される』とあり、一九四〇年代に、『牛の慢性血尿症がワラビの多い牧場で発生することが報告され』、一九六〇年代には、『牛にワラビを与えると急性ワラビ中毒症として白血球や血小板の減少や出血などの骨髄障害、再生不能性貧血、あるいは血尿症が発生』『し、その牛の膀胱に腫瘍が発見された。これが現在のワラビによる発癌研究の契機となった』とある、更にウィキの「ワラビ中毒」によれば、『人でも適切にアク抜きをせずに食べると中毒を起こす(ビタミンBを分解する酵素が他の食事のビタミンBを壊し、体がだるく神経痛のような症状が生じ、脚気になる事もある)。また、調理したものであっても大量に食べると体じゅうが大量出血症状になり、骨髄がしだいに破壊され死にいたる。しかし、ワラビ中毒がきのこ中毒のように問題にならないことから判るように、副食として食べている程度ならば害はない。一方、ワラビ及びゼンマイはビタミンBを分解する酵素が含まれる事を利用して、精力を落とし身を慎むために、喪に服する人や謹慎の身にある人、非妻帯者・単身赴任者、寺院の僧侶たちはこれを食べると良いとされてきた』ともある。ダブるが、後者の最後の部分が面白く、示しておきたかったので敢えて引いた。

「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。平尾は今まで「年間」を「ころ」と和訓している。

「同町」これは前提示の町を指すのではなく、筆者平尾魯僊の実家のあった紺屋町(現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ))と「同」じ「町」の謂いである。

「主」「あるじ」。

「性」「しやう」。生まれつき。

「鯡の子」「にしんのこ」。条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii の卵巣である数の子。当時(江戸以前)のそれは、現在のそれとは異なり、の腹から取り出した卵塊を天日干しした「干し数の子」(水で戻して食する)である。私が小学生の頃までは、干し数の子が乾物屋の前で山積みされて、えらく安い値で売られていたのを思い出す。ウィキの「数の子」によれば、『日本以外の地域では近隣のアジア諸国、およびニシンの漁獲量が多い北米、ロシア、欧州などの地域でも、カズノコを食用にする習慣は一般的ではない。それらの地域では日本に輸出を開始する以前はカズノコを廃棄していた』とある。なお、数の子の有毒化というのは聴いたことがなく、同ウィキには、『数の子にはコレステロールが含まれているが、そのコレステロールを消し去るだけのEPA(エイコサペンタエン酸)が含まれている。コレステロール値が減少する結果も出ている。また痛風の原因となるプリン体は、ごくわずかしか含まれていない』とある。魚卵=尿酸値上昇とする馬鹿の一つ覚えは、やめたが、いい。私は好物である。

「食(くら)へつる」ママ。「くらひつる」。

「呑ともくだらず」「のむとも下らず」。大小便の排泄が停止しているようである。排便がないのはいいとしても、小水が出ていないとなると、これは重篤な腎不全が疑われ、それが彼の直接の死因なんではあるまいか?

「しるしなさゞりしに」「驗成さざりしに」。効果が全く見えなかったところが。

「病て」「やみて」。

「文政の末年」一八三〇年。文政は十三年十二月十日(グレゴリオ暦では翌一八三一年一月二十三日に天保に改元されている。

「近隣なる」これも紺屋町である。

「小章魚(たこ)」「こたこ」或いは「ちさきたこ」。「たこ」は「章魚」二字へのルビ。

「これに中てられ」何らかの細菌性食中毒(サルモネラ菌や腸炎ビブリオ)は別であるが、蛸の生食による蛸自体の病原性中毒は知られていないと思う。

「痛みなく」腐っておらず、しかも噛み砕いたりした損傷、切ったり調理したり痕が全く見られない、という謂いであろう。

「常によわき生れつきゆゑか」死因は別にありそうに私には思われる。

「天保の年間」一八三〇年から一八四四年。

「井桁屋小太郎といへるもの何にくひあてられしや、こも食ひたるものをそのまゝに吐きいたせる話ありしが、病みて三日にして失せたりき。こを醫師にたづぬれど、うへのぶべきあげつらひもあらざりしなり」確かに。何食ったか分らんわ、吐いたものがどんあもんだっか分らんわ、死ぬまでの三日間がどんな症状だったかも分らんでは、これ、「うへのぶべきあげつらひもあらざりしなり」(以上の事例で述べたような議論する素材も何もなく、如何なる判断も推理も出来ない)に決まっとるがね!

「さりとはあやしきことなり」最初の巨大ポリープ以外は、後に行けば行くほど、実は、「そうはいってもさ、これってさ、なんか、えらい怪しいなあ? もしかして、これらの何人かは、食中毒じゃあなくて、誰かに毒殺されたんじゃあ、ねえの?」って呟きたくなる私(藪野直史)がいるんですけど。]

谷の響 四の卷 十八 奇病

 

 十八 奇病

 

 安政元甲寅の年、藤崎村の左四郎と言へる者、ゆゑなくして兩眼つぶれたりき。醫藥さらにしるしなけれど痛むことなく、又手足言舌常のごとく食もかはらでありけるが、十日餘りにして言舌まわらずなれるが、その日のうちに死せりとなり。こは卒中病の中心にありたりしものと、療治したる御番醫佐々木氏の語りしなり。

 又、佐々木氏の話に、覺仙丁【舊覺仙院町なるよし、今は訛りて覺仙丁と云。】なる鎌田甚齋と言へる人、ゆゑなふして右の手をなやみけるが、瘡櫛(ねぶと)の如きもの一つ出てしだいしだいに腫れあがり、こぶしを付たるごとくなれど醫藥もしるしなくして破(やぶれ)もやらず、三四年のうちに冬瓜の大きさばかりになりたりき。さるにこの腫物は大指の根におこりて掌中文の外へわたらず、又腕首及差指へもわたらず。これをさぐり見るにかたくして頭骨(あたま)にふるゝが如く、重さ錢二十貫ばかり手にのせたるごとしとなり。この人かふきの生付にて、いたくなやめるときはこの腫物を抱へながら市中をかけめぐり、すこしくおこたるをまつてかへれりとなり。かゝる大きなるものゆゑ常に右手をふところにして左手をして抱へてありしが、ある日あやまりて臺所の板の間へ腫物をしいて倒れしが、忽ち破れて膿血二升ばかり出たりしが、さして腫物は小さくもならず。しかして一二年の後、癆症とおぼしくつひにやせおとろへて、いぬる丙辰の年身まかりしかどその腫物はかわることなしとなり。實に一奇病なるべしと語りけり。扨、この腫物は大指のもと二寸にたらぬところ、斯く大きく腫あがりしからにめきめきいたくのびて、四五分より七八分までありしとなり。

 

[やぶちゃん注:第一症例は恐らく、藩医佐々木の言うように(「卒中病の中心にありたりしもの」)、恐らくは脳の中心部で発生した脳卒中(脳梗塞(脳の動脈の閉塞或いは狭窄のために脳虚血をきたして脳組織が壊死或いはそれに近い状態になる症状の広義な呼称)の内、急性で劇症型のもの)であって、最初に脳の後頭葉にある視覚中枢が侵されて失明し、その後に左脳の側頭葉前方にあるブローカ中枢(言語野の一つ)がやられて失語、そこから梗塞が脳幹へと急速に進み、呼吸を掌る脳橋(中脳と延髄の間で小脳の前方)や延髄がやられて死に至ったものかとも思われる。

 第二症例は何だろう? 悪性腫瘍(皮膚癌か骨肉腫のようなもの)の一種で、一、二年後にはひどく瘦せ衰えている点からは、最後はこれが全身に播種して死に至ったものか? それとも鎌田の死因とこの腫れ物は直接の関係はないか(本文では「癆症」(労咳=結核)「とおぼしく」と記してもいる)? にしても、腫瘍が異様に重く(「重さ錢二十貫ばかり」(後注参照)を手に載せたような感じ)、異様に硬い(外側から触れると頭骨に触れるような感じがある)というのはどうか? 当初はガングリオン(Ganglion Cyst:結節腫)を考えたが、調べてみると、これにより該当しそうなものとして、手足の指に発生する良性腫瘍で「腱鞘巨細胞腫 (けんしょうきょさいぼうしゅ)」というのがあり、親指の付け根に生じ、少しく大きくなったとする点では、この症状と一致するようには見える(「古東整形外科・内科」公式サイト内の腱鞘巨細胞腫。外見所見及びレントゲン写真有り)。但し、これは腫れるものの、痛みはあまりないともあり、最大でも四~五センチメートルと、この叙述より小さい。本記載では最後に転倒して腫れ物の一部が破れ、多量の膿と血が噴き出したとし、しかも、腫れ物自体のコアの部分の大きさはそれほど小さくならなかったという叙述からすると、この「腱鞘巨細胞腫」に毛嚢炎等が併発したものであったものか? 専門医の御教授を乞うものである。

「安政元甲寅」(きのえとら)「の年」一八五四年。

「藤崎村」現在の弘前市藤崎町(ふじさきまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「覺仙丁【舊覺仙院町なるよし、今は訛りて覺仙丁と云。】」現在の青森県弘前市覚仙町(かくせんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「覚仙町によれば、元禄一三(一七〇〇)年から享保六(一七二一)年に『かけて町名が覚勝院前之町・覚勝院町・横鍛冶町と変わり、平行して修験の正学坊が学勝院から覚勝院と変わり、寛政年間に現在の町名である覚仙町の町名が固定したもの(弘前侍町屋敷割・町絵図・分間弘前大絵図)』とある。

「鎌田甚齋」不詳。

「ゆゑなふして」「故無くして」。歴史的仮名遣はおかしい。「のうして」という音変化からの慣用表記か。

「瘡櫛(ねぶと)」「根太」で「固根(かたね)」とも称し、背部・腿部・臀部などにできる毛囊炎。黄色ブドウ球菌の感染によって毛包が急性炎症を起こしたもので、膿んで痛む。 前に出た「癰(よう)」「癤(せつ)」も基本的には同じい。但し、ここでは、それに似たものであって、以下の所見からはただの毛囊炎とは到底思われない。

「こぶしを付たる」「拳をつけたる」。

「冬瓜」「とうがん」。スミレ目ウリ科トウガン属トウガン Benincasa hispida。品種によって異なるが、果実は大きいもので短径三〇、長径八〇センチメートル程にもなり、重さは二 ~三キログラムから一〇キログラムを超える巨大果まである。以下の叙述からすると、左手で抱えなければならないほどであり、しかし掌には及んでいないとする以上、直径十センチほどか。

「この腫物は大指の根におこりて掌中文」(てのひらのもん)「の外へわたらず、又」、「腕首及」び人「差指へもわたらず」というのは先に示した「腱鞘巨細胞腫」の属性とよく一致するようには見える。

「ふるゝ」「觸るる」。

「重さ錢二十貫ばかり」この叙述が実はちょっと解せない。銭一貫文というのは永楽銭千個を穴に紐を通して一繋ぎしたもので「千匁(もんめ)」、現在の三・七五キログラムで七十五キログラムにもなってしまう。しかし乍ら、永楽銭は慶長一四(一六〇九)年までに幕府令によって使用が禁止されており、その後は「永銭一貫文」は「鐚(びた)銭四貫文」(鐚銭とは原義は「粗悪な銭」で、ここでは寛永鉄銭)とするようになっているから、これで単純換算するなら、十八・七五キログラムで、これならば、まあ、辛うじて掌に載せ得る重さではあるが、やはり重過ぎ、誇張が疑われる。

「かふき」かぶき者。遊侠。伊達(だて)者。

「生付」「うまれつき」。

「おこたる」「怠る」。痛みがおさまる。

「二升」拳大・冬瓜大の腫れ物が潰れて出る膿血としては異様に多過ぎる。やはり誇張が疑われる。

「いぬる丙辰の年」本「谷の響」の成立は万延元(一八六〇)年で、その直近の「丙辰」(ひのえたつ)年は安政三(一八五六)年となり、本話柄は刊行の四年前の出来事ということになる。

「二寸」六センチメートル。親指の分岐する手首の辺りからの距離であろうから、腫瘍は第二関節(老婆心乍ら、言っておくと指先に近い方が第一関節である)にあったものと思われる。

「腫あがりしからに」腫れあがってきて、その後には。

「めきめきいたくのびて」みるみるうちにひどく腫れがひどくなって。

「四五分より七八分まで」一センチ二ミリ~一センチ五ミリから二センチ一ミリ~二センチ四ミリ。]

譚海 卷之二 雲州松江の城幷源助山飛火の事

雲州松江の城幷源助山飛火の事

○雲州松江の城は堀尾山城、繩張(なはばり)せしとぞ。則(すなはち)松江の湖水に臨て美景の地なり。城下の足輕町をさいか町と云(いふ)。白潟(しらかた)と云(いふ)濱べにて、橋より北の町を末沼町と云。その際(きは)に山あり、源助山といふ、兀山(はげやま)なり。往昔(むかし)源助といふもの所帶せしが、強訴(がうそ)の事により死刑に所(しよ)せられ、其(その)庽たゝりをなすゆへ塚に封じ鎭め祭りしとぞ。されど雨夜陰晦(あまよいんくわい)の時は、飛火(とびひ)となりて湖上を往來(ゆきき)す。源助山の飛火とて、はなはだ恐るゝ事也。湖水の廣井さ二里已上に及ぶ、その際(きは)に飛火出現すといふ。

[やぶちゃん注:「堀尾山城」出雲松江藩第二代藩主堀尾山城守(やましろのかみ)忠晴(慶長四(一五九九)年~寛永一〇(一六三三)年)。なお、彼には男子がなく、従兄弟の宗十郎を末期養子に立てることを望んだものの認められず、堀尾宗家は断絶、翌寛永十一年、若狭小浜藩より京極忠高が入部している。

「足輕町」江戸時代の武士の最下層に位置づけられた足軽は、居住地も城下郭外に置かれた。

「さいか町」現在の松江市雑賀町。(グーグル・マップ・データ)。町名は中世日本の鉄砲傭兵・地侍集団の一つである雑賀衆(さいかしゅう)に由来する。紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍達で構成された集団で、高い軍事力を持ち、特に鉄砲伝来以降は数千挺もの鉄砲で武装し、海運や貿易も営んでいたが、天正一三(一五八五)年の豊臣秀吉による紀州征伐で解体された。その後、残党が松江城の築城に関わった豊臣政権の三中老の一人堀尾吉晴(忠晴の祖父)により、松江へ迎えられ、松江城守備のための鉄砲隊をここに住まわせたとされる。

「白潟」この宍道湖東端で大橋川に湖水が流れ入る、(グーグル・マップ・データ)。松江市灘町一帯。

「末沼町」これは現在の松江大橋北詰一帯の島根県松江市末次本町(すえつぐほんまち)のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。因みに、ここは後に、かの小泉八雲が松江中学に赴任した当初、住んでいた地である。私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江』のパートなどを参照されたい。

「源助山」こういう山は現在は知られていないが、「源助柱(ばしら)」なら、かなり有名で、現在の松江大橋南詰に碑がある。小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八では(リンク先は私の電子化注テクスト)、吉晴の治世、一向に架橋が成功しないため、人柱として生き埋めにされたのが「源助」だったとし、しかも彼は雜賀町に住む足軽人足であったともいうから、本話柄の前半との親和性が認められる。

「所せられ」「處せられ」。

「庽」不詳。私はこれは「厲」(音「レイ」)の誤字ではないかと疑っている。「災いを齎す悪鬼・疫病神・祟りを成す物の怪」の意であるが、その音を「靈(霊)」に通じさせたのではないか?

「雨夜陰晦」ひどく暗い雨夜(あまよ)。]

甲子夜話卷之三 10 林子幼年の頃の風鳶を鬪はせし有樣

 

3―10 林子幼年の頃の風鳶を鬪はせし有樣

蕉軒云ふ。風俗の時に從ひ移易すること、其一を言はん。某が幼年のとき、每春風鳶の戲を今に囘想すれば、信に盛を極しと云べし。そのときは擧世一般のことゆへ、誰も心付く者も無りし。其頃は實家の鍛冶橋の邸に住しが、南は松平土佐守、北は松平越後守にて、土州の嫡子、越州の弟、某と鼎峙して、各盛事を盡したり。且又、互に風鳶をからみ合せ、贏輸せしときは、附の者、伽の子共など計には無して、家中の若輩皆集りて、力を戮せ、人々戲には無ほどの氣勢にて、一春の間は誠に人狂するが如し。風巾の大なるに至りては、紙數百餘枚に至れり。其糸の太さ拇指ほどもありき。風に乘じて上る時は、丈夫七八人にて手に革を纏ひ、力を極めてやうやくに引留たり。或時手を離さゞる者あるに、誤りて糸をゆるめたれば、其者長屋の屋脊へ引上られ、落て幸に怪我なかりしが、危事なりとて、家老より諫出て止たりしこともあり。流石土州は大家のことゆゑ、種々の形に作り成したるもの數多ありしが、扇をつなぎたる數三百までに及べり。又鯰の形に作たるを、某が爭ひ得しに、其長さ、頭より尾までにて邸の半ありける。風箏なども奇巧を盡し、鯨竹唐藤の製は云までもなし。銅線などにて其音の奇なるを造れり。世上皆此類にて、枚擧するに遑あらず。天晴風和する日、樓に上りて遠眺すれば、四方滿眼中、遠近風巾のあらぬ所は無き計なり。今は小兒に此戲するも少く、偶ありても、小き物か、形も尋常なるのみなり。高處に眺矚しても數るほどならでは見ず。かく迄世風も變るものかと云ける。

■やぶちゃんの呟き

 最初に告白しておく……私は凧を揚げたことがない……揚がった凧を見上げた至福の思い出がない……ただ唯一の記憶がある……幼稚園の頃だ……新聞紙の長い脚を附けた奴凧をずるずると地面に引き摺りながら……泣いている独りぼっちの私だ…………

「林子」「蕉軒」前に注した林家第八代林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「蕉軒」は「述斎」とともに彼の号の一つ。既に述べた通り、彼の実父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、初名は松平乗衡(のりひら)、養子後の本名は林衡(はやしたいら)。寛政五(一七九三)年、満二十五の時に林錦峯(はやしきんぽう)の養子となって林家を継いだ。これは岩村藩上屋敷での幼少時の思い出である。

「風鳶」底本では「たこ」とルビする。凧。当時は「いかのぼり」とも称した。

「移易」「いえき」。移り変わること。

「某」「それがし」。

「戲」「たはむれ」。

「信に盛を極しと云べし」「まことにさかんをきはめしといふべし」。

「擧世一般」「きよせいいつぱん」。世を挙げて、ごくごく当たり前のこと。

「誰も心付く者」その(これから述べるような、一種狂的(ファナッティク)な)驚異的な流行りの実体を奇異に感じたり、批判をしたりする者。

「無りし」「なかりし」。

「鍛冶橋」現在の東京駅南西直近。

「住しが」「すみしが」。

「松平土佐守」時制から見て、土佐藩第九代藩主山内(松平)土佐守豊雍(とよちか 寛延三(一七五〇)年~寛政元(一七八九)年)か? 明和五(一七六八)年、家督継承。

「松平越後守」同じく時制的に見て、美作津山藩第五代藩主松平越後守康哉(やすちか 宝暦二(一七五二)年~寛政六(一七九四)年か? 宝暦一二(一七六二)年、家督継承。

「土州の嫡子」前注から、豊雍嫡男で、後の第十代土佐藩となる山内豊策(とよかず 安永二(一七七三)年~文政八(一八二五)年)か? であれば、乗衡より五歳年下である。

「越州の弟」当主が松平康哉であるとすれば、ウィキの「松平康哉によれば、康哉には直義・長賢・長裕・金田正彜という弟がいるものの、生年見て、直義(宝暦四(一七五四)年生まれ)ではないであろう(乗衡より十四歳も年上だからである)。

「鼎峙」「ていじ」。]鼎(かなえ)の脚のように三方に相い対して立つこと。鼎立。

「各」「おのおの」。

「盛事を盡したり」凧揚げを盛んに競い合ったものであった。

「贏輸」「えいしゆ」(「えいゆ」は慣用読み)。勝負。

「附の者」「つきのもの」。所謂、藩主子息の家臣から選ばれた子守役。

「伽の子共」「とぎのこども」。遊びや話し相手として特に選ばれた子ども(家臣の子弟らから選ばれた)。

「計には無して」「ばかりにはなくして」。その子らの者だけでは、これ、なくして。

「戮せ」「あはせ」。「合はせ」。

「戲には無ほどの氣勢にて」「たはむれにはなきほどのきせいにて」。遊びとは思えぬばかりに、大真面目にエキサイトして。

「人狂するが如し」「ひと、きようするがごとし」。まるで人々、これ、凧に関わっては誰もが狂ったかのようになったものであった。

「風巾」「たこ」。

「拇指」「おゆび」。親指。

「上る」「あがる」。

「丈夫」屈強の成人男子。

「纏ひ」「まとひ」。滑り止めと、摩擦による擦過傷を防ぐために革を手に巻いたのである。

「引留たり」「ひきとめたり」。

「屋脊」音なら「ヲクセキ」であるが、ここは「やね」或いは「むね」と訓じたい。

「引上られ」「ひきあげられ」。

「落て」「おちて」。

「幸に」「さひはひに」。

「危事」「あやふきこと」。

「諫出て」「いさめいでて」。

「止たりし」「やみたりし」。

「流石」「さすが」。

「數多」「あまた」。

「扇をつなぎたる數三百までに及べり」本物の扇を数珠繋ぎにした凧があって、その扇の数たるや、何と三百面にも及ぶ長大なものであった。

「鯰」「なまず」。

「邸の半」「やしきのなかば」。私の実家の屋敷地の半分もの大きさ。

「風箏」底本では「ふうさう」とルビする。これは以下の素材から見て、唸り凧、音を発するような構造や笛に類した仕掛けを施したものと思われる。現代中国語では凧は「風箏」と呼ぶことが多い。

「鯨竹唐藤の製」前者から「鯨竹」は判る。凧の鯨骨や鯨の髭や竹を凧の支え構造や唸りの装置に附属させて作製した凧であろう。「唐藤」は不詳。唐藤空木(フジウツギ科フジウツギ属トウフジウツギ Buddleja lindleyana)があるけれども、これ、草体から見て、凧の素材にはならないように見える。私の推測だが、或いはこれ、「唐籐」(からとう)で、籐椅子などの素材とする、熱帯性の蔓性植物である単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連Calameae に属するトウの類の静山の誤記ではあるまいか? あれなら、強靱で軽く、凧の素材や唸りの装置にもってこいであるように思われるのだが?

「云までもなし」「いふまでもなし」。

「此類」「このたぐひ」。

「枚擧するに遑あらず」「まいきよするにいとまあらず」。数え上げるに、きりがない。こういっている儒学者述斎の少年のような目の輝きが見えるようだ……私にはその喜びの記憶がない分、かえってそれを強く感ずるのである……

「天晴風和する日」「てん、はれ、かぜ、わするひ」。晴天で風はあるが、決して強風ではない(私には分らないけれど、凧を揚げるに最も相応しい風具合を述斎は言っているのであろう)穏やかな日。

「樓」「たかどの」。見晴らし台。

「遠眺」「えんてう(えんちょう)」。遠望すれば。

「四方滿眼中」四方、これ、見渡す限り。

「遠近」「をちこち」。遠きも近きも。

「計」「ばかり」。

「此戲するも少く」「このたはむれするもすくなく」。

「偶」「たまたま」。

「小き」「ちさき」。

「高處」「たかきところ」。

「眺矚」「てうしよく(ちょうしょく)」。「矚」は「注意して見つめる」の意。隅々まで眺めて、よく観察してみること。

「數るほどならでは見ず」「數る」は「かぞふる」。底本では「かぞゆる」とルビするが、採らない。上げられている凧は、これ、数えられるほど、少ししか、見えない。ちょっと淋しそうな少年乗衡が、ここに、いる…………

諸國百物語卷之五 二十 百物がたりをして富貴になりたる事 / 「諸國百物語」電子化注完遂!

 

     二十 百物がたりをして富貴(ふつき)になりたる事


100hukki

 京五條ほり川の邊に米屋八郎兵衞と云ふものあり。そうりやう十六をかしらとして、子ども十人もち、久しくやもめにてゐられけるが、あるとき、子どもに留守をさせ、大津へ米をかいにゆかれけるが、子どもに、

「よくよく留守をせよ、めうにち、かへるべし」

と、いひをかれける。その夜、あたりの子ども、七、八人、よりあひ、あそびて、古物がたりをはじめけるが、はや、はなしの四、五十ほどにもなれば、ひとりづゝ、かへりてのちには、二、三人になり、咄八、九十になりければ、おそれて、みなみな、かへり、米屋のそうりやうばかりになりけり。惣領、おもひけるは、

『ばけ物のしやうれつ見んための古物がたりなるに、むけうなる事也。さればわれ一人にて、百のかずをあわせん』

とて以上、百物かたりして、せどへ小べんしにゆきければ、庭にて毛のはへたる手にて、しかと、足を、にぎる。そうりやう、おどろき、

「なにものなるぞ、かたちをあらはせ」

といひければ、そのとき、十七、八なる女となりて、いふやう、

「われは、そのさきの此家ぬしなり。産(さん)のうへにてあひはて候ふが、あとをとぶらふものなきにより、うかみがたく候ふ也。千部の經をよみて、給はれ」

と云ふ。そのとき、かのそうりやう、

「わが親はまづしき人なれば、千ぶをよむ事、なるまじきぞ。ねんぶつにて、うかみ候へ」

と云ふ。かの女、

「しからば、此せどの柿の木に金子をうづめをき候ふあいだ、これにてよみて、給はれ」

とて、かきけすやうに、うせにけり。夜あけて、親八郎兵衞、かへりけるに、よいの事どもかたりきかせければ、さらば、とて、柿の木の下をほりてみれば、小判百兩あり。やがて、とりいだし、ねんごろにあとをとぶらひける。それより、米屋しだいにしあわせよくなり、下京(しもぎやう)一ばんの米屋となりけるとなり。

 

    延寶五丁巳卯月下旬

         京寺町通松原上ル町

             菊屋七郎兵衞板

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「百物語して福貴□成事」。文中の『ばけ物のしやうれつ見んための古物がたりなるに、むけうなる事也。さればわれ一人にて、百のかずをあわせん』は底本では二重鍵括弧はなく、本文続きであるが、特異的にかくした。

「京五條ほり川」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「そうりやう十六をかしらとして、子ども十人もち、久しくやもめにてゐられけるが」「惣領十六を頭(かしら)にとして、子供、十人持ち、久しく鰥夫(やもめ)にて居るらけるが」。本篇ではこの貧しかった当時の米屋の父に尊敬語を用いている。正直、五月蠅く、ない方がよい。

「かいにゆかれけるが」「買ひに行かれけるが」。行く先が大津であるのは、問屋ではなく、名主や庄屋から直接に仕入れ買いに行ったようである。

「めうにち」「明日(みやうにち)」。歴史的仮名遣は誤り。

「古物がたり」「ふるものがたり」。

「しやうれつ」不詳。仮名表記と文脈に合うものは「勝劣」(百話で出現する物の怪の恐ろしさ具合が優れて恐ろしいか、或いは、意外にも大したことのない劣ったものであるかを見極める)であるが、これではあまりに余裕があり過ぎ、また「從列」「生列」(百話に合わせて物の怪が百鬼夜行となって列を成して次々と生まれ出現してくる)という語と造語してみても何だか締りがなくて弛んでしまう気もする。しっくりくる熟語があれば、是非、お教えいただきたい。差し換える。

「むけう」「無興」。

「せど」「背戸」。裏口の方。

「小べん」「小便」。

「そのさきの此家ぬしなり」「この今よりも以前の、そなたの住まうところの、この家の女主人で御座いました。」。

「産(さん)のうへ」異常出産のために子とともに亡くなったのであろう。夫も直前か直後に亡くなり、それ以前の子もなかった後家であったものか。

「あとをとぶらふものなきにより」「後(世)を弔ふべき者無きにより」。

「うかみがたく候ふ也」「成仏出来ずにおるので御座います。」。

「延寶五丁巳卯月下旬」延宝五年は正しく「丁巳」(ひのとみ)でグレゴリオ暦一六七七年。旧暦「卯月」はグレゴリオ暦で五月一日、同月は大の月で五月三十日はグレゴリオ暦五月三十一日に相当する。第四代将軍徳川家綱の治世。

「京寺町通松原上ル町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菊屋七郎兵衞」板木屋七郎兵衛(はんぎやしちろべえ 生没年不詳)。「菊屋」とも号した。京で出版業を営み、後に江戸にも出店した地本(じほん)問屋(地本とは江戸で出版された大衆本の総称で、洒落本・草双紙・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などがあった。草双紙の内訳としては赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻が含まれる)。主に鳥居清信の墨摺絵や絵本などを出版している(ここはウィキの「板木屋七郎兵衛」に拠った)。

「板」板行(はんぎょう)。版木を刻して刊行すること。

 

 これが、本「諸國百物語」の擱筆百話目である。さて……今夜、あなたのところに起こる怪異は一体、何であろう……何が起きても……私の責任では、ない……ただ私の電子化に従って読んでしまったあなたの――せい――である…………

御無沙汰御免

回線業者の変更に伴い、昨日昼前から現在までネットと繋がらず、諸氏に御迷惑をおかけした。只今、無事接続した。これより「諸國百物語」第百話の公開作業に入る。くどいが、怪異出来は自己責任で――

2016/11/29

諸國百物語卷之五 十九 女の生靈の事付タリよりつけの法力

 

     十九 女の生靈の事付タリよりつけの法力(ほふりき)

 

 相模の國に信久(のぶひさ)とて高家(かうけ)の人あり。此奧がたは土岐玄春(ときげんしゆん)といふ人のむすめ也。かくれなきびじんにて、信久、てうあひ、かぎりなし。こしもとにときわといふ女あり。これも奧がたにおとらぬ女ばうなりければ、信久、をりをり、かよひ給ふ。ときはは、それよりなをなを、奧がたに、よく、ほうこういたしける。あるとき、奧がた、うかうかとわづらひ給ひて、しだひにきしよくおもりければ、信久、ふしぎにおもひ、

「もしは、人のねたみもあるやらん」

とて、たつとき僧をたのみて、きとうをせられければ、僧、經文をもつて、かんがへて申しけるは、

「此わづらひは人の生靈、つき申したり。よりつけといふことをし給はゞ、そのぬしあらはれ申べし」

と云ふ。信久、きゝ給ひて、

「よきやうに、たのみ申す」

とありければ、僧、十二、三なる女を、はだかにして、身うちにほけ經をかき、兩の手に御幣をもたせ、僧百廿人あつめて法花經をよませ、病人のまくらもとに檀をかざり、らうそく百廿丁とぼし、いろいろのめいかうをたき、いきもつかずに經をよみければ、あんのごとく、よりつきの十二、三なる女、口ばしりけるほどに、僧は、なをなを、ちからをゑて、經をよみければ、そのとき、ときは、檀のうへにたちいでたり。僧のいわく、

「まことのすがたをあらはせよ」

との給へば、ときは、ゑもんひきつくろひ、うちかけをしていで、うへなる小そでをばつとしければ、百廿丁のらうそく、一どにきへけるが、火のきゆると一度に、奧がたも、むなしくなり給ふ。信久、むねんにおもひ、かのときはをひきいだし、奧がたのついぜんにとて半ざきにせられけると也。

 

[やぶちゃん注:「信久」不詳。本話柄の時代設定は最後の私の注を参照されたい。

「高家(かうけ)」由緒正しき家系の家。

「土岐玄春」不詳。医師っぽい名ではある。

「てうあひ」「寵愛」。

「こしもとにときわといふ女あり」「腰元に常盤(ときは)といふ女有り」。歴史的仮名遣は誤り。

「をりをり、かよひ給ふ」しばしば常盤の部屋にお通いになっておられた。これは必ずしも秘かにではなく、正妻も承知の上のことであったかも知れぬが、話柄の展開上は、不倫事としないと全く面白くない。

「これも奧がたにおとらぬ」美人の、である。

「うかうかと」心が緩んでぼんやりしているさま、或いは、気持ちが落ち着かぬさまを指し、ここは心身の状態がすこぶる不安定なことを言っていよう。

「しだひにきしよくおもりければ」「次第(しだい)に氣、色重りければ」。次第次第に病「ねたみ」「妬み」。

「たつとき」「尊き」。

「きとう」「祈禱(きたう)」。歴史的仮名遣は誤り。

「僧、經文をもつて、かんがへて」僧が経文を唱えてて、それに対する病者の様子(反応)などを以って勘案してみた結果として。

「よりつけ」「依付(よりつけ)」。患者に憑依している物の怪を、一度、別な「依代(よりしろ)」と呼ばれる人間に憑依させ、それを責め苛み、而して正体を白状させた上で調伏退散させるという呪法。

「そのぬし」「其の主」。憑依して苦しめている物の怪。この場合は実際に現世に生きていて生霊を飛ばしている(意識的にか無意識的には問わない)人物。

「十二、三なる女」依代には若い処女の少女が向いているとされた。

「身うち」全身。

「ほけ經」「法華經」。

「御幣」「ごへい」。

「檀」密教で呪法に用いる護摩壇。

「らうそく」「蠟燭」。

「めいかうをたき」「名香を焚き」。

「いきもつかずに」息をしないかの如く、一気に。

「あんのごとく」「案の如く」。

「口ばしりける」その生霊が憑依して不断の調伏の祈禱によって依代から逃げ出すことも叶わず、苦しんで思わず、生霊自身が依代の少女の口を借りて、苦悶の言葉を吐き始めたのである。

「そのとき、ときは、檀のうへにたちいでたり」私は正直、この箇所は、上手くない、と思う。せめて、

 

 其の時、女の樣なるものの苦しめる姿(かたち)、朧(おぼ)ろけに檀の上に立ち出でたるが如く、幽かに見えたり

 

としたい。さすればこそ、「まことのすがたをあらはせよ」が生きてくると言える。さらに言っておいくと、迂闊な読者の中には、下手をすると、ここに実際の腰元の常盤がどたどたと登ってきてしまうというトンデモ映像を想起してしまうからでもある。

「ときは、ゑもんひきつくろひ、うちかけをしていで、うへなる小そでをばつとしければ、百廿丁のらうそく、一どにきへけるが、」ここも「常盤」を出してしまっては、B級怪談である。ここは例えば、

 

 かの面影(おもかげ)に見えし女、衣紋(えもん)引き繕ひ、打掛(うちかけ)をして出で、上なる小袖を、

「ばつ!」

としければ、百二十丁の蠟燭、一度に消えけるが、

 

としたい(複数箇所の歴史的仮名遣は誤り)。「打掛」帯をしめた小袖の上に羽織る丈の長い小袖で、武家の婦人の秋から春までの礼服であったが、江戸時代には富裕な町家でも用いられた。この蠟燭が一斉に消えるシーンは圧巻! 撮ってみたい! いやいや! それ以上に本話が語り終えたその時、九十九本目の蠟燭が消されることにも注意されたい! 残りは一本! いよいよ怪異出来(しゅったい)まで残り、一話!

「むねんにおもひ、かのときはをひきいだし」「無念に思ひ、かの常盤を引き出だし」。

「ついぜん」「追善」。

「半ざき」「半裂き」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に、『罪人の手足に二頭、または四頭の牛をしばりつけ牛を走らせて、体を裂く処刑。室町時代の処刑法の一つ』とする。こういう注を高田氏はわざわざ附しているということは、本話の時制を室町時代まで遡らせているということになる。]

2016/11/28

谷の響 四の卷 十七 骨髮膿水に交る

 

 十七 骨髮膿水に交る

 

 文政の年間、岩木川の渡守佐左衞門といへるものゝ妻、1疽(ようそ)と言腫物腰に出ていたくなやみけるが、二十日許りにて破れたるが、膿水に交りて髮毛及骨のくだけたる如きもの數日のうち出でたりしが、しだいしだいに痛もいえて本復せしとなり。伊香某こを評してこの病は女子にまゝあることにて、橘南溪が東西遊記にのせたる婦人胎中の子、死して不墮胎腐らんとして腫物となり、骨髮膿水と共に出るといへるものなりしと言へるはさる事なるべし。[やぶちゃん字注:「1」=「疒」+(「やまいだれ」の中に)「邕」。]

 又、己が近所に熊谷又五郎といへる人、黴毒(かさ)の爲に久しくわづらひしが、二年ばかりも過ぎて股にて有けんその瘡が出で、そのやぶれより骨の碎けたるもの多く出でたり。その後股は膝の如く二つに折れて有りしとなり。かさの骨にすみつくものにして、世間にまゝあれどみな難治の病なりと御番醫佐々木氏の言はれしが、果してこの人いえずしてつひに身まかれり。こは弘化年中のことなり。又、文政の年間己が家につかはれし三介といへるもの、ある夜龜甲町にて2(むか)骨を犬にかまれたるとていたくなやみ、勤ならずとて親元に行き療治せしが、彌增いたみてすでに死ぬべきほどに見得たるに、十日ばかりありてこの疵にはりたる膏藥に骨のくだけたるごときもの三ひらついて出たるに、そはみな犬の齒にてありしと言へり。ねんひは知らざれども、夫よりしだいしだいにいえて本にふくせるなり。醫師は龜甲町の吉村某氏なり。[やぶちゃん字注:「2」=「月」+「行」。]

 

[やぶちゃん注:第一段落の症例は、手塚治虫(私はアトム世代で特異的に手塚先生を尊敬しており、「鉄腕アトム」は全作、「ブラック・ジャック」はその殆んどを所持している)の「ブラック・ジャック」で助手となっているピノコで知られる(但し、ピノコのケースは女性患者が寄生性二重体症で、双生児の片割れを自分の体内に持ち続けて成人となった症例であり、ピノコはその嚢胞に封入された双子の胎児(女性)のばらばらになったものを人工的に少女に仕立てたものである。なお、ピノコのように人体の全パーツが殆んど揃って出てくることは実際にはない。ここの症例は、あくまで患者の婦人の卵巣に生じた一般的な良性卵巣腫瘍の中の一つである)、胚細胞性腫瘍の一種である「奇形膿腫」、正式には「卵巣成熟囊胞性奇形腫」、別名「皮様囊腫」、産婦人科医が「デルモイド」(dermoid cystと呼称するものである。これは良性卵巣腫瘍では実は最も多いものであり、その点、本文で伊香(「いか」と読むか)という医師が「女子にまゝあること」と言っていることとも符合する。なお、卵巣はその機能的性質上、ヒトの体内の中でも最も多彩な腫瘍(良性・悪性ともに)を作り出す臓器である。参考にさせて貰ったサイト「産婦人科の基礎知識」の「良性卵巣腫瘍」の「一般的な卵巣腫瘍について」によれば、この『奇形腫を取り出してメスで切ってみると』、『中から黄色い脂肪、髪の毛、骨や歯、時には皮膚の一部がどろどろと出てきます。 初めて見ると髪の毛などが入ってますのでとてもインパクトがあります。一般的に中に入っている髪の毛は数本ではなく大量で、hair ball といって、お風呂の排水溝に詰まった髪の毛の塊のようになって出てくることも多いです』とある。ここでも腫瘍が潰れた際に最初に出てきたものを「髮毛」とする。

 第二例に出る腫瘍は「黴毒(かさ)」、則ち、「梅毒」の、第三期(末期)に特有な肉芽腫であるゴム腫と思われる。ゴム腫は内臓・骨・筋肉・皮膚などに発生するゴム様の弾力のある大小の結節で、一般には顔面、特に鼻・唇・前額部・頭蓋骨に好発するものであり、大きさは粟粒大から鶏卵大以上にもなる。中央部は凝固壊死を起こして灰黄色を呈するが、その周囲は灰白色の結合組織層が取り巻いている。これはその壊死した中央部の組織や、その周囲の結合組織を、骨と見間違えたものではなかろうか? 直後にその腫れ物のあった大腿部の骨が「膝の如く二つに折れて」いたとあるから、大腿骨などが骨髄まで変性してしまい、骨自体が崩壊していた(即ち、腫れ物から出た骨は実際の自分の骨が変性して潰れ砕けたもの)のかも知れない。

「骨髮膿水に交る」「こつぱつ、のうすいにまぢる」と読んでおく。

「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。

「岩木川の渡守」恐らくは最も知られた現在の五所川原市西部の岩木川右岸の寺町と左岸の小曲(こまがり)との間にあった「五所川原の渡し」であろう。

1疽(ようそ)」(「1」=「疒」+(「やまいだれ」の中に)「邕」)「癰疽」に同じい。漢方では十五センチ以下の中型の腫脹で、上皮が薄く、光沢があって、腫脹した頂点が黄色く化膿しているものを「癰」、それ以上で三十センチほどまでを「疽」と称し、こちらは上皮が硬く、光沢がなく黒っぽいものと区別するようである。

「言」「いふ」。

「腫物」「はれもの」と訓じておく。

「及」「および」。

「骨」「ほね」。

「橘南溪が東西遊記にのせたる婦人胎中の子、死して不墮胎腐らんとして腫物となり、骨髮膿水と共に出るといへるものなりしと言へる」前にも出た、江戸後期の医師橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)が天明二(一七八二)年から同八年にかけて断続して日本各地を巡歴した際に見聞した奇事異聞を基に編纂・板行した紀行「西遊記(せいゆうき)」及び「東遊記」を併せた称。刊行は寛政七(一七九五)年から同十年。私は所持するものの、今、俄かにはどこの部分にあるのか判らない。発見次第、当該部を電子化する。

「弘化年中」一八四四年から一八四七年.

「龜甲町」既出既注。再掲しておくと、森山氏の補註に、『かめのこまち。城の北門外堀に面した町並みで』四神の『北方玄武になぞらえて亀甲を町名にした』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の行政地名では「かめのこうまち」と読んでいる。

2(むか)骨」(「2」=「月」+「行」。)向う脛(づね)、脛骨の部分を指すか。

「勤」西尾家での「つとめ」。

「彌增」「いやまし」。或いはこれで「ますます」と訓じているのかも知れぬ。

「三ひら」「三枚(ひら)」。「ひら」は薄く平らなものの数詞。

「犬の齒にてありし」これは実際には犬の歯牙とは思われない。向う脛を深く咬まれ、脛骨の前面の上部組織が損壊し、更に犬の唾液の中に一般的に常在する嫌気性グラム陰性桿菌のカプノサイトファーガ・カニモルサス(バクテロイデス門フラボバクテリア綱フラボバクテリア目フラボバクテリア科カプノサイトファーガ属カプノサイトファーガ・カニモルサス Capnocytophaga canimorsus))等に感染、激しく化膿したものではなかろうか(ウィキの「カプノサイトファーガ・カニモルサスによれば、「カプノサイトファーガ・カニモルサス感染症」は『主にイヌやネコなどによる咬傷・掻傷から感染し、発熱、倦怠感、腹痛、吐き気、頭痛などの症状を伴う。重症例では劇症の敗血症や髄膜炎を引き起こし、播種性血管内凝固症候群(DIC)や、敗血性ショック、多臓器不全に進行して死に至る事があ』り、『免疫機能の低下』している被害者が『重症化に繋がりやすい』とある(なお、この学名は『「イヌによるかみ傷」』(ラテン語の“canis”(犬)+ “morsus”(嚙み傷)に由来し、『犬の咬傷によって感染することから名づけられた』とある)。その後、損傷して化膿した嚢胞内に咬傷の際に欠損した脛骨の一部が吸収され、それが三個の犬の歯に見えたのではないかと私は推測する。老犬でもない限り、咬みついた犬の歯が患部に残ったり、また、それが大分経ってから、体外に出るというのは考え難いからである。

「ねんひ」年日。]

 

甲子夜話卷之三 9 長谷川主馬、農家の松を買置たる事

 

3-9 長谷川主馬、農家の松を買置たる事

表御右筆組頭勤る長谷川彌左衞門と云るが父は、主席と云て、御書物奉行を勤めたりしとなり。その人風雅人にて、殊に和哥を好み、人ももてはやす程なりしとなん。或時近在へ郊行して、農家に老松一株枝幹蟠りて數畝を覆ひ、いかにも風致の勝れたる有しを見て、その主人呼出し買取べしと云。主人おかしく思ひ、此大木移栽もならず、いかゞの事にやとて、口より出るまゝに、十數金ならば賣るべしと答ければ、卽ち懷袋より金を數の如く出して與へ歸りける。その蹤跡もなければ、奈何なることよと訝りしに、一日主馬來り、僕從に酒食敷物など持せ、松陰に坐し、終日觀賞諷詠して歸れり。それより春秋の天氣晴和なる時は、折々來りて、いつも同じさまにて有しとなり。かゝる淸韵高致の人、今は有べしとも思はれず。古人はかく迄もありしやと、昔忍ばしくぞ思はるれ。

■やぶちゃんの呟き

「主馬」「しゆめ(しゅめ)」。

「買置たる」「かひおきたる」。

「表御右筆組頭」「おもてごいうひつ(おもてごゆうひつ)くみがしら」と読む。「表右筆」は若年寄支配の幕府書記役。将軍身辺に関わる重要な機密文書作成業務を担当した「奥右筆」に対し(綱吉の代から設置)、それより有意に格下とされた、老中の奉書や幕府の日記記述、朱印状・判物の作成、幕府より全国に頒布する触書(ふれがき)の浄書(一件で約四百枚前後を作成せねばならなかった)、大名の分限帳・旗本等の幕臣名簿管理業務などの、一般公文書の作製を担当した役職を指す。表右筆は定員二、三名の組頭(役高三百俵で四季施代(しきせだい:「仕着せ代」とも書く。衣服代として諸役に与えられた別手当)銀二十枚)と三十名前後の表右筆(役高百五十俵で四季施代銀二十枚)から構成されていた(以上はウィキの「表右筆他を参考にした)。

「勤る」「つとむる」。

「長谷川彌左衞門」「川崎市教育委員会」公式サイト内の川崎区宮本町稲毛神社にある、享保一四(一七二九)年の銘文を持つ「手洗石」に出る「田中仙五郎」(=長谷川安卿(やすあきら ~安永八()年)なり人物ではあるまいか? 同解説に、この仙五郎は『御金奉行を勤めていた幕臣長谷川市郎左衛門安貞へ』延享三(一七四六)年に養子に入って、安卿を名乗り、『書物奉行などを勤めた人物である』とあるからである(下線やぶちゃん)。没年が確認出来たのは、久保田啓一氏胃の論文「川越市立図書館蔵『芙蓉楼玉屑』(続)――解題――」に拠る。そこには、安卿は『文雅の士として名高く、特に和歌を冷泉為村に学んで関東冷泉門の重だった存在であった』とあり、まず、彼と考えてよい。

「云るが父」「いへるがちち」。と称する者の父親は。

「云て」「いひて」。

「御書物奉行」「おしよもつぶぎやう」は寛永一〇(一六三三)年に設置された、江戸城の紅葉山文庫の管理・図書収集・分類整理や保存、文書類の依頼調査等を担当した。定員は通常は四名であったが、三~五名の増減があった。若年寄支配で、役高二百俵・役扶持七人扶持、本丸御殿の「焼火之間(たきびのま)」に詰めた(「焼火之間」とは中央に巨大な囲炉裏が切ってあったことに由来する。この隣りには先に紹介した表右筆より格上の奥右筆が詰めた御右筆部屋があった)。著名な書物奉行としてはかの青木昆陽がいる。配下に同心がおり、元禄六(一六九四)年)で四人、以降、増員されて、江戸後期には二十一人も持っていた(ウィキの「書物奉行他を参考にした)。

「郊行」「こうぎやう」と音読みしておく。郊外へ物見遊山すること。

「枝幹蟠りて」「えだ・みき、わだかまりて」。

「數畝」本邦の面積単位では「畝」は「せ」と読み、一畝(せ)は一アール(百平方メートル)と殆んど相同値。不定数で六アール前後となるが、三アール程度と考えてよいか。ともかくも伏龍の如く異様に低く枝を張った巨大な大松であることには変わりがない。

「買取べし」「かひとるべし」。買い取ろう。

「云」「いふ」。

「此大木移栽もならず、いかゞの事にや」主人の心内語。『これはかくも大木なれば移植することなど到底、不可能、さてもどうする積りなのか?』。

「口より出るまゝに」「出る」は「いづる」と訓じておく。戯れに、文字通り、「売り」言葉に「買い」言葉で。

「十數金」十数両。

「答ければ」「こたへければ」。

「懷袋」二字で「ふところ」と当て訓しておく。

「蹤跡もなければ」「蹤跡」は「事(ここは売買の成立)が行われた後(あと)」で、その後、一向に主馬から移植或いは伐採などの話がなく、誰もやって来ないので。

「訝りしに」「いぶかりしに」。

「一日」「いちじつ」。ある日。

「僕從」「ぼくじゆう(ぼくじゅう)」。従者。

「持せ」「もたせ」。

「淸韵高致」「せいいんかうち」「淸韵」は原義は「清々しい響き」、「高致」は「高尚な趣き・至高の境地」の意。四字で、「すこぶる清々しく美しい高尚なる風流心」の謂いであろう。

谷の響 四の卷 十六 肛門不開

 

 十六 肛門不開

 

 又、この成田の話に鍛冶町の某といへるものゝ娘、肛門なくして兩便とも前陰より出るとなり。今に世にある人にて、交りし者の語れるとなり。又、この人の知合某なる人、天保のはじめ一男兒をうめり。こも肛門なくして兩便陰莖より出けるから、醫師を請ふて肛門をひらかしむれど、兩三日をすぐればまたとぢてしるしをなさず、つひに二年ばかりにして死せりとなり。

 

[やぶちゃん注:前話「十五 半男女」の提供者と同じで、やはりまたしても連関の強い下ネタである(特に第一例)。

 まず、前話で注した通り、ここに出るのは「鎖肛(さこう)」或いは「直腸肛門奇形」と呼ぶ先天性疾患の一つで、やはり先に引いた「日本小児外科学会」公式サイト内のタイトル「鎖肛(直腸肛門奇形)」を見ると(総てのページでリンクも引用も事前連絡を要求しているのでリンクも直引用も行わない。タイトルで検索されたい。図もあって分かり易い。一部は前話注とダブらせてある)、思ったよりも発生頻度は高く、新生児の数千人に一人位の割合で発生し、消化管に関わる先天性異常の中では最も多い疾患であり、生後約一ヶ月までの新生児期に緊急手術も必要になる病気とする。直腸や肛門は胎児初期に於いては膀胱等の泌尿器系と繋がって一つの「腔」を形成しているが、妊娠二ヶ月半頃までにそれぞれが各器官に分化して発育形成され、女児の場合は分離した直腸と尿路の間に膣や子宮が垂下してくるのであるが、この発生途中で異常が生じると、女児では直腸と子宮や膣との間に繋がった通路(瘻孔(ろうこう))が生じることがあると記す。ここで、この娘の証言が真実であるとすれば、この第一例の娘の状態と、疾患的には一部は一致する(小児科学会の記載は膀胱や尿道は挙げていないが、尿道と膣はごく接近しており、先天的奇形疾患としてここにも瘻孔形成があったとしても不自然とは思われない)。

 但し、第一例のような尿道と膣と肛門が完全癒着して、鳥類のような一つの総排泄腔となるような奇形が仮にあったとしても、その女児が何事もなく成人し、しかも性交渉まで可能であるというのはどうも不審なのである。百歩譲ってそうした重度の奇形が実際にあったとしても、第二例のように幼少で死亡してしまう(便は雑菌が多く、二次的な感染症を惹起し易いし、瘻孔の位置によっては、子宮や膣に重大なダメージや疾患を引き起こしかねないのではないか?)のではあるまいかとも私には思われるのである

 しかもこの話、その娘本人が、ある時、肉体関係を持った男にあからさまに語った、とする如何にもな噂話なのであって、これ、いわば、典型的にして常套的なアーバン・レジェンド(都市伝説)の構造に酷似し、事実では実はないのではないかと私には深く疑われるものなのである。

 ただ、第二例の男児のケースは、高位型(膀胱の後部までしか直腸が来ていない)或いは中間位型(尿道後部まで直腸が来ている)と呼ばれる「鎖肛(直腸肛門奇形)」で、それぞれが膀胱或いは尿道が直腸と瘻孔を形成している実際の症例記載と考えられる。その場合、本文に出る通り、実際に大便は陰茎から排泄されるのである。

「鍛冶町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「某といへるものゝ娘」ここまで出せば、この娘、ある程度までは候補を限定出来よう。少なくとも「あの娘かも」といった噂は直きに出来上がる。とすれば、これは彼女に振られた男が遺恨を持って流した、根も葉もない流言、極めて悪質なセクシャル・ハラスメントとも考え得るのである。

「知合」「しりあひ」。

「天保のはじめ」天保は一八三〇年から一八四四年。

「兩三日」「りやうさんにち(りょうさんにち)」と読む(或いは「にち」は「じつ」)。二日か三日。これは正常位置の肛門辺りから乱暴に切開して直腸を穿孔するのであろうから、傷口が塞がるようなもので、癒着も起こり、直腸に穴を開ける以上、より重度の感染症や組織壊死を引き起こすから、この施術を複数回行ったとするなら、この子、二年ももったこと自体、奇跡と言えよう。]

谷の響 四の卷 十五 半男女

 

 十五 半男女

 

 文政八九年の頃のよし、弘前の禪寺正光寺に納所して居たる者、元は松前の生れの由にて二十一二の年なるが、顏貌(かたち)みにくからず又言葉つき立居ふるまひ婦女子(をみな)とひとしかれば、世の人これを半男女と評して交合したるものもまゝありとの風説なり。さるに、己が知れる成田某と言ひし人、これも二十一二の若盛りの頃にて隣松寺に納所して有し時なれば、この者をためし見んといろいろ心を盡して、つひに交合(まじは)ることを得たりき。そのさま女子に替ることなく、又彼も感ずるは常にことならず。しかるにこの陰處はきんの下肛門の上にありて、さねなきまでなり。又陰莖も尋常なれど、おこることよわければ女子に交合ることなりがたしと言へり。又肛門には穴なくたゞ形のみ有るから、大便はこの陰處より出るといへり。その後一兩年すぎて古郷へ反りしが、いと氣味わろきものなりと此成田が語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「半男女」古典的には「ふたなり(二形)」や「はにわり(半月)」などと呼称したから、これもそう訓じている可能性があるが、平尾の風雅な当て和訓に馴染んでくると、私は「なからなんによ」と読みたくはなる(但し、世間でかく呼んでいたとなるとそれでは長過ぎる感もある。実は南方熊楠の「鳥を食うて王になった話」(大正一〇(一九二一)年から翌年の『現代』連載)で「二 半男女」と章を設け、こうしたヘルマフロディトス(半陰陽。後述)を詳述しているのであるが、その「半男女」に熊楠は「ふたなり」とルビしている。呼称の謂い易さから考えて、ここもやはり、そう読むのが無難であろう)。

 さて、これは医学的には先天性の生殖器奇形で、男女両性の生殖器を持つ「半陰陽(Hermaphroditism)」のように一見、見えるのであるが、しかし、観察上の叙述を読むと、どうも私は違うのではないかと強く感じるのである。

 この青年は、その「陰處」(これも私は敢えて「ほと」(女性器の古称)と訓じたい。音読みではどうも陰湿でお洒落な響きでないからである)「は」、「きん」(金玉=睾丸)の下」(後部)にあって、さらにその後ろに「肛門」(実はらしき場所・痕跡)があるとし、「さね」(陰核=クリトリス)は存在しない「までなり」(様態を成す)とある。確かに実際の「半陰陽」では実際、睾丸のすぐ後ろに女性器が続いているケースがかなり多く見られる。

 しかし、これ、実は彼の「陰處」(ほと)は陰核も陰唇も陰毛も全く描写されておらず(あるのは、彼との性交中の体感は女性との性交の感じと全く変わらなかったということ、彼も女性のようにエクスタシーを感じているように見えたという、必ずしも「冷静」ではない観察的報告だけである)、女性生殖器の陰門の形状というよりは、これ、〈単なる穴〉である。

 さらに前面には「陰莖も尋常」についているとする(但し、「おこることよわければ」(勃起しても、極めて弱いために)女性との性交渉は成立し難い、コイツスは不可能であると附記している)。

 問題は実はその後の部分であって、また、「肛門には穴」が「なく」、「たゞ」、「形のみ有る」とあることである。これは――通常の肛門のある臀部の位置は、凹んだようになっているだけで、肛門が全く開口しておらず、肛門の形成が途中で停止したような感じの痕(あと)のようなものあるだけである――という意味でしか私には採れない。そうして、これは肛門が何らかの事態によって閉塞してしまった痕だというのではなくて、生まれつき、肛門が開孔していないと読むべき箇所である。

 しかも次の部分では、肛門が開いていないために、「大便はこの陰處」(ほと)「より出ると」本人自身が言った、という事実が示されるのである(この告白は若衆道(但し、この場合は一見、特異であるが)の関係性から見ても、真実を語っていると考えてよい)。

 彼は満で二十か二十一で、それまでそうした形で大便の排泄を普通に行ってきており、何らの異常を生じていないとするならば、この一見、女性器に見える開口部こそが、本来の肛門部からずれて生じた先天的な肛門形成異常と読む方が自然であるように私には思われる。半陰陽の女性器に直腸が繋がってしまっている状態で、二十年もの間、何らの感染症や不具合が起こらなかった(大便には多数の有害細菌が含まれるから、半陰陽の女性器部分から大便の排泄が行われ続ければ、そこが何らかの病変を起こす可能性が高いと私は考えるからである)というのは私にはちょっと不審だからである(但し、次の「十六 肛門不開」の第一事例の娘(成人してコイツス経験有り)は小便も大便もともに性器(その叙述に従うなら「前陰」で狭義の「膣」或いはその前方部分であるが、どうもこれは本人が関係を持った男に語ったとする噂話で、いわば。典型的常套的なアーバン・レジェンド(都市伝説)の構造を持っており、やや怪しいものである)から出るとし、第二例は生まれた男児に肛門がなく、陰茎から大便を排泄したとし、人工的に肛門を開いても二、三日ですぐ塞がってしまったとある。但し、この男児は生後二年目に亡くなっている。当然であろう)。私は医師ではないから、大方の識者の御叱正を俟つものではあるが、これは「鎖肛(さこう)」或いは「直腸肛門奇形」と呼ぶ先天性疾患の一つで、「日本小児外科学会」公式サイト内のタイトル「鎖肛(直腸肛門奇形)」を見ると(総てのページでリンクも引用も事前連絡を要求しているのでリンクも直引用も行わない。タイトルで検索されたい。図もあって分かり易い)、思ったよりも発生頻度は高く、新生児の数千人に一人位の割合で発生し、消化管に関わる先天性異常の中では最も多い疾患であり、生後約一ヶ月までの新生児期に緊急手術も必要になる病気とする。直腸や肛門は胎児初期に於いては膀胱等の泌尿器系と繋がって一つの「腔」を形成しているが、妊娠二ヶ月半頃までにそれぞれが各器官に分化して発育形成されるが、この発生途中で異常が生じると、男児の場合、直腸と膀胱や尿道との間に繋がった通路(瘻孔(ろうこう))が生じることがあるとあり、このケース(私が想定した通り、この青年が「半陰陽」ではなく、男性であった場合)とほぼ合致するように私には読めるのである。

「文政八九年」西暦一八二五、一八二六年。

「正光寺」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市西茂森町。曹洞宗松種山正光寺。文禄元年創建、慶長年間』、『弘前に移る』とある。現在は弘前市西茂森(にししげもり)。寺はここ(グーグル・マップ・データ)。現在でも西茂森地区は寺院が非常に多い。

「納所」「なつしよ(なっしょ)」。ここは狭義の、禅寺に於いて金銭などの収支を扱う部署・部屋、或いはそうした会計実務を担当した僧侶を指す。

「松前」現在の北海道南部の渡島総合振興局管内にある渡島半島南西部の松前町(ちょう)。

「顏貌(かたち)」「かほかたち」。

「婦女子(をみな)」三字へのルビ。

「己が」「わが」。

「成田某」「二の卷 十四 蟇の妖魅」の話の登場人物と同一のような気がする。あれも尼僧との交接で猥褻絡みであったからである(但し、その尼僧は何と蟇蛙の化けたものだったというオチがつく)。

「隣松寺」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市西茂森町、曹洞宗幡竜山隣松寺。由来不詳なるも』、『慶長年間』、『弘前に移り、末寺八ケ寺を支配した。津軽四代藩主信政の生母を葬り、寺領百石を寄付した』とある。現在は同じく弘前市西茂森(にししげもり)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。]

諸國百物語卷之五 十八 大森彥五郞が女ばう死してのち雙六をうちに來たる事

 

     十八 大森彥五郞が女ばう死してのち雙六(すごろく)をうちに來たる事

 

 丹波のかめ山に、大もり彥五郞とて、三百石とる、さぶらひあり。此人の女ばう、かくれなきびじんなりしが、產(さん)のうへにてむなしくなり給ひければ、彥五郞もなげきかなしび給ひけれども、かひなし。この內儀に七さいのときよりつかわれしこしもと女ありしが、この女、ことになげきて、七日のうちにはじがいをせんとする事、十四、五度におよべるを、やうやうなだめをきて、はや三とせをすごしける。一もんより、あひいけんして、彥五郞に又、つまをむかへさせけり。のちの內儀は女なれども、よくみちをわきまへたる人にて、はじめの內儀をよびいだし、ぢぶつどうにてまいにちゑかうせられければ、はじめの內儀も、くさばのかげにては、よろこび給ふと也。はじめの內儀ぞんじやうのとき、かのこしもとと、つねづね、すご六をすきてうたれしが、あひはてられても、そのしうしんのこりけるにや、よなよな、きたりて、こしもとゝすご六をうつ事、三ねんにおよべり。あるとき、こしもと、申しけるは、

「よなよな、あそびに御座候ふ事、すでに三ねんにおよべり。われ、七さいのときより、ふびんをくわへさせ給ふて、かやうにせいじんいたし候へば、いつまで御奉公をいたし候ひても、御をんはほうぢがたく候へども、今は又、かはりの女らうも候へば、もしもかやうに、夜な夜な、御出で候ふ事、しれ申し候はゞ、ねたみにきたり給ふかとおもひ給ふべし。今よりのちはもはやきたり給ふな」

と申ければ、

「まことにそのはうが申すごとく、此すご六にしうしんをのこしたるとは人も、いふまじ。今よりのちは、まいるまじ」

とて、かへられけるが、そのゝち彥五郞ふうふの人に、こしもと女、物がたりしければ、

「さては、さやうにありつるか」

とて、すご六ばんをこしらへ、かの內儀の墓のまへにそなへて、ねんごろにとぶらひ給ひけると也。 

 

[やぶちゃん注:本話柄は、邪悪な悪心を持った者が一人として登場しない非常に清澄にして透明なる美しい怪談で、コーダ近くに相応しい。

「大森彥五郞」不詳。

「雙六(すごろく)」これは盤双六で、古くエジプト或いはインドに起こったとされ、中国から奈良時代以前に本邦へ伝わった室内遊戯。盤上に白黒一五個ずつの駒を置き、筒から振り出した二つの骰子(さいころ)の目の数によって駒を進め、早く敵陣に入った方を勝ちとする。中古以来、成人男子の賭博(とばく)として行われることが多くなり、江戸末期まで続いた。発音は「双六」の古い字音に基づく「すぐろく」の転訛したものである。

「丹波のかめ山」現在の京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった亀山城。丹波亀山藩藩庁。

「產(さん)のうへにて」子は残されていないから、異常出産で母子ともに亡くなったものと思われる。

「じがい」「自害」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『殉死。当時、恩義ある人、義理ある人の死に際して殉死の風習があったため、これに対する、つよい禁制が出されていた』とあるが、ウィキの「殉死」によれば、『主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。中世以降の武家社会においては妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。主君が病死等自然死の場合に追い腹を切る習慣は、戦国時代になかったが、江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、世間から讃えられると一層真似をする者が増えた。遂には近習、特に主君の寵童(男色相手を務める者のうち、特に主君の寵愛の深い者)出身者、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった』。第四代将軍徳川家綱から第五代綱吉の『治世期に、幕政が武断政治から文治政治、すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行』し、寛文三(一六六三)年の武家諸法度寛文令の改訂『公布とともに殉死の禁が口頭伝達され』、寛文八(一六六八)年に起った宇都宮藩での「追腹一件(おいばらいっけん:同年二月十九日に藩主奥平忠昌が江戸汐留の藩邸で病死したが、忠昌の世子長男奥平昌能は忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対して「未だ生きているのか」と詰問、杉浦が直ちに切腹した事件)では『禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けている』。この後、延宝八(一六八〇)年に『堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている』。天和三(一六八三)年の武家諸法度天和令に於いて、『末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた』とある。「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世、延宝五(一六七七)年四月に刊行されたものであはあるが、ここまでの話柄の時制は、それよりも遙かに前であるものの方が圧倒的に多かった。従って本件が家光以前であれば、必ずしも高田氏のそれは有効な注とは言えない。

「一もん」「一門」。大森一門。大森氏の主家。

「あひいけんして」「相ひ意見して」。後妻を迎えて世子を設け、家系を存続させることが侍としての本義であるといった説得をして。

「はじめの內儀をよびいだし、ぢぶつどうにてまいにちゑかうせられければ」「初めの內儀を呼び出だし、持佛堂にて每日囘向せられければ」。後妻となった女性は、なんと、亡き先妻のためにわざわざ持仏堂を設け申し上げ、そこに先妻の御位牌をお迎え申して捧げ奉り、そこでまた、毎日、欠かさずに回向をなさったので。

「くさばのかげ」「草葉の蔭」。

「ぞんじやう」「存生」。

「そのしうしんのこりけるにや」「その執心、殘りけるにや」。その双六にて遊ぶことへ、強い執心が残っていたものか。ゲーム・アプリにうつつを抜かして致死事故を起こす現代人には、これを以って笑う権利など、ない。

「ふびんをくわへさせ給ふて」「不憫を加へさせ給ひて」。お可愛がり下さいまして。

「かやうにせいじんいたし候へば」「斯樣に成人致し候へば」。

「御をんはほうぢがたく」「御恩報じ難く」。

「かはりの女らう」「代はりの女﨟」。二代目の高貴なる女主人。後妻である現在の内儀を指す。

「しれ申し候はゞ」家内や近隣に者どもに知れてしまわれ遊ばされては。

「ねたみにきたり給ふかとおもひ給ふべし」彼らは皆、貴女さま(先妻)が後妻に対して妬みを以ってその執心から化けて出て来られているにではなかろうか、と思うに違い御座いませぬ。それでは貴女さまにとっても、また、心から貴女さまを追善なさっておられる今のご内儀さまにとっても、心外で無用な心配を引き起こすこととなるのでは御座いますまいか? といったこの腰元の誠意溢るるニュアンスであることをおさえておかねばなるまい。

「彥五郞ふうふの人に」彦三郎夫婦二人に対して。]

 

 

2016/11/27

谷の響 四の卷 十四 閏のある年狂人となる

 

 十四 閏のある年狂人となる

 

 福館村某の妻、閏月のある年はかならず狂人となりて經年やまず、明る正月より本にふくして全く常の人なりき。さてその狂のおこれるときは家に居ることなく、何處となくへめぐりて野山及林の内或は祠なとに伏し、飢るときは何方へも往て食を乞ひ、いろいろのたわごとをいふて歌ひつ舞ひつ啼つ笑ひつして、おかしきこともいと多かり。されど遠くは走らず、一二里の近きあたりにのみさまよへり。はじめ狂病の起りしとき、子供ら及夫(をつと)なる者もさまざま制せる由なれど、つやつや聽かで狂ひ出にしかば、つなぎ置くこともならず、又人のわづらひをなすにもあらねば今はたゞよるべきと思はるゝ家々の人を賴みおきて、時々謝儀を贈りしとなり。所の人これを福館村の閏馬鹿とよべり。嘉永七寅年も閏年ありて、專ら狂ひ歩行しを岡本三彌といへる人、したしく見てその由緣をきけるとて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「閏のある年」ウィキの「閏月」より引く。『太陰暦は、空の月の欠けているのが満ちそして再び欠けるまでを「一か月」とし、それを』十二回繰り返すことで十二ヶ月、即ち。『「一年」としている。しかしこの月の満ち欠け(平均朔望月=29.530 589日)による12ヶ月は約354.3671日であり、太陽暦の一年(約365.2422日)とくらべて約十一日ほど『短いので、この太陰暦をこのまま使い続けると暦と実際の季節が大幅にずれてしまう。このずれは11×3=33日』、つまり、三年間で一ヶ月分ほどになる。『そこで日本の太陰太陽暦ではこの太陰暦の』十二ヶ月に約三年に一度、一ヶ月を加え十三ヶ月とし、『季節とのずれをなるべく少なくする調整をする。この挿入された月を閏月という。これは二十四節気の節気と中気を、一年』十二ヶ月『それぞれの月に割り当てるが(立春を一月の節気、雨水を一月の中気とするなど)、暦をそのまま使い続けると二十四節気とは次第にずれが重なってくる。そのずれで中気が本来割り当てられた月のうちに含まれなくなったとき、その月を閏月としたものである。閏月の挿入の有無が太陰太陽暦と太陰暦との違いである。閏月の月名は、その前月の月名の前に「閏」を置いて呼称する。例えば「四月」の次に挿入される閏月は「閏四月」となる。また閏月が加わることにより、年末に立春を迎えることがある(年内立春)』とある。また、『閏月をどの時期に入れるかについては、同じ時代でも地域によって食い違うことがあった。例えば日本では古来より西日本では伊勢暦、東日本では三島暦が主に用いられたが、時として閏月を挿入する時期が異なっていたので、日本国内で日付の異なる暦を使っていた事がある』ともある(引用部下線はやぶちゃん)。これから考えると、彼女の精神が不安定になり、放浪癖が生ずるのは概ね三年に一度ということになるが、寧ろ、彼女は事前に来年が閏月が配される年だということを、暦売りなどが販売する暦で知り、それによってある意味、自律的に精神変調をきたしたのであろうと考えた方が自然な気がする。或いは、彼女は独自に、一年間分の、暦などよりも正確な体内時計を保持しており、暦を見ずとも、その季節の大きなズレ(閏月を配さねばならぬ)を生体認識していたとも考え得る(その場合、外界の自然の微妙な変化や気温や湿度の変化も判断材料としていた可能性もある)。そうして、その現実の自然界と形式上の時間の時差幅がある一定値を越えた際、それが何らかの理由で彼女の精神に作用し、そうした放浪現象を惹起させていたと考えることは、私には強ち、非科学的とは思われないのである。

「福館村」底本の森山氏の補註によれば、『南津軽郡常盤村福館(ふくだて)。津軽平野の中央部の農村』とある。現在は南津軽郡藤崎町(ふじさきまち)福舘。ここ(グーグル・マップ・データ)。東北方向に山岳部がある外は、八キロ圏内(後注参照)ならば、平野部が殆んどである。

「祠なと」ママ。「やしろなど」。

「飢る」「ううる」。

「何方」「いづかた」。

「往て」「ゆきて」。

「啼つ」「なきつ」。「泣きつ」。

「及」「および」。

「つやつや」一向に。

「狂ひ出にしかば」「くるひいでにしかば」。

「つなぎ」「繫ぎ」。

「人のわづらひをなすにもあらねば」これといって他者に危害を加えたり、困惑させるような問題行動を起こすわけでもないので。

「よるべき」立ち寄るであろう。彼女の放浪時の行動半径が一~二里(四~八キロメートル)圏内に限定されているからである。また、彼女は東北辺縁の山岳地帯には入り込まなかったのであろう。

「嘉永七寅年」同年は甲寅(きのえとら)で、この年は七月(大)の次に閏七月(小)がある。グレゴリオ暦一八五四年。なお、同年は十一月二十七日(グレゴリオ暦一八五五年一月十五日)に安政に改元している。

「步行しを」「あるきしを」。

「岡本三彌」。「三の卷 九 奇石」の情報提供者。]

谷の響 四の卷 十三 祈禱の禍牢屋に繫がる

 

 十三 祈禱の禍牢屋に繫がる

 

 又、この嘉之といふものその後大赦にあひて家にかへりしが、かゝるわるかしこきものなれば、日蓮宗の尊き由緣を語りて人を欺く。時々病家に雇はれて祈禱などして施物をうけ、活(よ)わたりの補助(たすけ)になせるとなり。さるにいぬる安政二乙卯年のよし、ある人の内に病人ありけるが、こを請ひて祈禱を賴みければ、一坐經文を誦して後いふ、この病人に狐がつきてあるなればそれそれの供物をとゝのへ供ふべしとあるに、主の曰く、この病人には狐のよるべき由つやつや有らず、さりとはいぶかしきことなりと言へば、さらば其證(しるし)を見すべしとてふたゝび祈りたるに、あやしきかなこの病人その振舞さながら狐に等しきことの多かれば、家内の者もあきれてみやるばかりなるに、程なく祈禱もをへてほこりかにいふに、主いよいよあやしみてこは必ず汝がつけたる狐なるべし。元來この病者狐につかるべきほどのわるあばれはせぬものなるに、斯有(かゝる)怪しき動止(ふるまひ)するは其まゝにすておかれずといふに、嘉之もいかでさる邪法をなさんとて互に言ひつのり、果は高聲に罵りあひたるに、家内こぞつてなだめたりしとなり。さるにこの事何より聞え上げしや、又他に犯せる罪ありしや、程なく嘉之牢屋につながれ、明くる辰の年の三月御ゆるしを蒙りしとなり。

 

[やぶちゃん注:小悪党鍛冶屋町嘉之、再登場!

「禍」「わざはひ」と訓じておく。

「その後大赦にあひて家にかへりしが」前話「十二 賣僧髮を截らしむで辛くも拘引から逃れているのであるが、その後に観念して戻り(その場合、恥ずかしいから髪が結えるまで延びるのを数ヶ月は待ったに違いない)、神妙にお繩となって牢入りしたか(としても逃亡したから罪は重くなっている)、或いは、観智が追放されたように、期間を区切った追放刑辺りとなったものが、大赦によってしばらくして解除されたか。ただ前話の、

観智主犯の〈狂言神託詐欺事件〉が「天保元庚寅の年」でグレゴリオ暦一八三〇年

で、本話の、

〈狐憑き騒擾事件〉が「安政二年乙卯」(きのとう)でグレゴリオ暦一八五五年

で二十五年ものスパンがある。結構、永く牢屋にいたか、逃げ回っていたか、していた可能性もあろう。そして最後に「程なく嘉之牢屋につながれ、明くる辰の年の三月御ゆるしを蒙りしとなり」とあるから、彼が牢から解き放たれたのは、

翌安政三年でグレゴリオ暦一八五六年

ということになる。解き放ちが早かったのは、嘉之の行為を詐欺として立件することはこの場合、難しかったからであろう(この言い争いの時点で祈祷料や謝礼の授受を受けていなかったら尚更である)。所謂、正式な僧でもないのに、祈禱を行っては患者を治療しているという部分でのみ問題となって入牢となったのものと思われ、であれば短期に出獄してもおかしくはない。

「施物」「ほどこしもの」。彼には彼の矜持があったであろうが、こうなると、正直、情けない乞食坊主か、僧形の芸能者と変わらぬようだが、彼は弘前に居んで、流浪はしていないようで、前回の〈狂言神託詐欺事件〉があっても、懲りずにこんなことで生計を立てているところを見ると、彼の所属していた日蓮宗講中では、それなりの信頼度があったものかも知れない。

「こを請ひて」この嘉之に頼んで。

「一坐經文を誦して後いふ」「一坐」して、徐ろに「法華経」の「經文を誦して」、その「後」、やおら言うことには。

「つやつや有らず」全く以って一向にそのような様子はない。

「さりとはいぶかしきことなり」この家の主人は病人の狐憑きを完全否定している。これは後で主人が「元來この病者狐に」憑依されたような「わるあばれは」(狐のような獣染みた悪暴れは)今日の今日まで「せぬもの」、したことがなかったのだ、だから絶対に狐など憑いていない、と述べていることを根拠とするのである。後で再注するが、この主人は実は狐憑きについては個人的詳しい知見を持っていたことが窺われるのである。だから、全否定出来たのだ。

「祈禱もをへてほこりかにいふに」嘉之は「祈禱も終(お)へて」(歴史的仮名遣は誤り)如何にも「誇りか」(偉そうに・自慢げに・『どうだ! やっぱり狐憑きだたろう!』とったしてやったりといった感じで)「言ふに」。ここは、精神科医と患者の悪しきラポート(rapport:臨床心理学用語。セラピストとクライエントとの間の心的状態)状態の典型である。即ち、本人を前に「狐憑き」と診断することによって、患者本人がその診断者の言を受け入れてしまい、その「狐憑きを演じてしまう状態」で説明が出来る(少しだけ脱線しておくと、精神科医は一般には長く同一の病院には務めず、二、三年で勤務先を変えるケースが多い。それは、一部の患者の中に、その精神科医に対し、過度の信頼感情を持つラポート状態を形成してしまい、せっかく進んだ治療がそこで停滞してしまう患者が生じてくるからである。治癒してしまうと患者はその先生と逢えなくなってしまうので、患者はそこで、医師を信頼する、離れたくないが故に、自ら治療進行を鬱滞させてしまうことがあるしばしばあるのである)。

「斯有(かゝる)怪しき動止(ふるまひ)するは其まゝにすておかれず」と売り言葉に買い言葉で応じたところ、「嘉之も」『いかでさる邪法をなさん』「とて互に言ひつの」っているとある。ここには略された台詞があるように思われる。即ち、この病人の主人は、

・嘉之が「狐憑き」と診断するまでは病人には「狐憑き」の兆候は微塵も見えなかった。

ところが、

・嘉之が「狐憑き」と病人の前で断じ、憑いた「狐」に「正体を現わせ!」とい言上げするような祈禱を行った結果、狐のような動作を病人がした。

ということは、

・祈禱者である嘉之自身が狐を憑けた。

という結論を導いているのである。これは先に述べた通り、精神医学的にも私は正しい推論と言えると考えている。そして、このような冷静な判断を下せるこの主人は以前に「狐憑き」の病人を実見したことがあり、「狐憑き」についても相応の知見や、その療治の手立て・手づるを持っていると考えるのが自然なのである。

 さらにここで主人は、「斯有(かゝる)怪しき動止(ふるまひ)するは」と言っている。これは、

――ここに至って病人に「狐」を「憑かせる」という怪しい振る舞いに及んだ上は、貴様は祈祷師でも巫医でも何でもない! さればこそ、お前をお払い箱にして、まずはお前の「憑けた狐」を我が知れる修験者に落させねば、ともかくもこのままでは「すておかれ」ぬわ!

というようなことを言いつつ、嘉之を指弾しているのである(と私は考える)。だからこそ、その意外な展開に「嘉之も」『いかでさる邪法をなさん』、

――どうしてそのような妖しい邪法をこの病人施してよいものかッツ!

と怒って応じているのである。ここはそのような補助を台詞に補ってみて、初めて私は腑に落ちるのである。大方の御叱正を俟つものではある。

「果は」「はては」。]

谷の響 四の卷 十二 賣僧髮を截らしむ

 

 十二 賣僧髮を截らしむ

 

 又、天保元庚寅の年のことにて有けん、甲斐國身延の者のよしにて觀智といへる日蓮宗の旅僧來り、博識高德にして妖魅につかれたる者など祈禱して癒えざるなしといふ風説專ら高かりけるが、この時下土手町なる竹内四郎左衞門子息岩木山にのがれて二三年も過ぎたる頃なるが、法花の講中のものども此話を觀智に語りければ、觀智の言へるは、祈禱の功力にて親に對面さするはいと易き事なりと言はれしに、鍛冶町に住める嘉之といへる者、四郎左衞門の家にゆきてしかじかのよし語りけるに、さすがに親子の恩愛深くしきりに顏の見まほしくて、嘉之の言の信しきにほだされて、幣物をおくりて祈禱を賴みければ、觀智ははやく承知して講中の者の僧まさりなるを四五人語らひ、いろいろの供物を飾り一七日の間たんせいをこらして祈りたり。四郎左衞門夫婦も日々參詣し、俱に題目を唱へはやく六日もすぎぬれど、少しもしるしとおぼしきことの有らざれば、奈何はせんとかの嘉之に尋ぬれば、嘉之けつそりとしてやがて明る日はきわめて對面あるべければ、心を專らにして題目を唱ふべし、必ずうたがふことなせそとなぐさめける。

 されど明日の祈りも覺束なく、皆々集り相談すれば對面さすべき道のあらざれば、嘉之が髮をきりてよりの者に持せ、明る朝まだほのくらきに祈禱にかゝり、四郎左衞門夫婦も今日こそとて常より早く參詣したるが、やゝはげしく祈れるとき、託(より)に立たるものこの髻(もとゝり)を觀智にわたして言けらく、山神に仕奉りて片時も出べきすきまなく、さりとて祈禱の功力もかしこかめれば、卽ち髻を切りて志にむくふるなり。是にて愛念をはらされよ、折あらば對面の期もありぬべしといふて、其まゝたをれ伏せにけり。四郎左衞門夫婦暫く泪に沈みしが、この髻を手にとりてつらつら見るに、疑はしき事もあれどせんすべなければ、そをふところにして厚く禮をのべて皈りしとなり。左有(さる)にこの話誰いふとなく世上に廣まり、日蓮宗のしやまんなるをとりどりの沙汰ありければ、役所より御詮義ありて嘉之は牢屋に曳かるべかりしを早くも逃走り、觀智坊主は直に碇ケ關口まで追ひ拂はれ、講中の者は勿論本寺まで御叱りを蒙りしとなり。四郎左衞門この事を語りて、若し驗(しるし)あらんには改宗なすべき誓約ありしと言へり。あはれあはれ拙くもはからひしものなりかし。

 

[やぶちゃん注:ここでも日蓮宗が槍玉に上っている。やはり確信犯らしい。

「賣僧」「まいす」。仏法をネタに金品を不当に得る破戒僧。「売(マイ)」は宋音で、元来は禅宗で僧であると同時に商売をしている者を指した語。

「天保元庚寅の年」グレゴリオ暦一八三〇年。「庚寅」は「かのえとら」。

「甲斐國身延」山梨県南巨摩郡身延町と早川町の境にある身延山。「身延山」は日蓮宗総本山久遠寺の山号でもある。

「下土手町」現在、弘前市の中心部をなす土手町(どでまち)があり、ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「下」とは弘前城との関係から、現在のそれの南東部と採っておく。

「竹内四郎左衞門子息岩木山にのがれて二三年も過ぎたる頃なるが」底本の森山氏の補註によれば、『竹内四郎左衛門の倅金兵衛が、文政年間の初夏ころ、下男をつれて岩木山神社』(いわきやまじんじゃ。ここ(グーグル・マップ・データ)。山頂まで実動距離で六キロメートルはあり、高低差は一二〇〇メートルにも及ぶ。物見遊山の素人が登るルートではない)『に詣でた後、下男の止めるのを振り切って岩木山に登り、とうとう姿を消してしまった。家では人を雇って山中をくまなく探したが、中腹の錫杖清水』(しゃくじょうしみず:ここ。リンク先の道標を見ると、ここからでも山頂まで一時間十分とある)『という所で、金兵衛の笠と手拭を見つけただけで終った。世間では搗屋(竹内家の屋号)のアンサマは赤倉のオオヒト』(本「谷の響 二の卷 十五 山靈」の本文及び私の「大人」の注を参照されたい)『にさらわれたといい、久しく語り草となった』とある。ということは、この金兵衛岩木山失踪事件は文政一〇(一八二七)年から翌年か翌翌年の初夏に発生した〈神隠し〉であったことになる(文政は文政一三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)に天保に改元している)。

「功力」「くりき」。仏法の功徳(くどく)の力。効験(くげん)。

「鍛冶町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「信しき」「まことしき」と訓じておく。真実らしさ。

「ほだされて」情に惹かされ、必ずしも自分の考えにはない行動をとってしまい。

「幣物」「へいもつ」狭義には「幣(ぬさ)」であるから「神前に捧げる供物・幣帛(へいはく)」であるが、ここは広義の「贈り物・進物・聘物(へいもつ)」の意。

「はやく承知して」二つ返事で承諾して。

「僧まさりなるを」ここは、僧侶ではないが、相応に経典や日蓮の著書などを読んで、ちょっとした僧にも匹敵しそうな連中を(従僧に仕立て上げ)、の謂いと採る。

「一七日」これは「いちしちにち」或いは「ひとなぬか(ひとなのか)」などと読み、初七日の如く、仏教の法式(祈願祈禱等を含む)上の基本単位日数で、七日間を指す(だから直後に「六日もすぎぬれど」と続くのである)。十七日と読み違えないように注意されたい。

「たんせいをこらして」「丹誠を凝らして」。

「けつそりとして」ママ。「げつそりとして」であろう。

「皆々集り相談すれば對面さすべき道のあらざれば、嘉之が髮をきりて」その相談、というより謀議の中心にいるのは売僧(まいす)の観智である。

「よりの者」緣者。この場合は口が堅くなくてはまずいので親族で尚且つ、彼の所属している日蓮宗講中の者。

「持せ」「もたせ」。ここでも命じているのは観智である。

「託(より)に立たるもの」「より」とは「依代(よりしろ)」で、所謂、霊を憑依させて語らせる役として特別に選んで立たせていた(設定しておいた)者。しかも、これ、すべて主犯の観智と共同正犯の嘉之を中心として台本が作られたヤラセの演出であり、託宣があったわけでも、金兵衛の魂(生霊)が憑依したわけでも何でもないのは言うまでもない。

「言けらく」「いひけらく」。言うことには。「けらく」は連語で、過去の助動詞「けり」のク語法(くごほう:用言の語尾に「く」を付けて「~(する)こと・ところ・もの」という意味の名詞を作る語法(厳密には一種の活用形))。

「仕奉りて」「つかへたてまつりて」。もともと既に金兵衛は山の神霊(大人(おおひと)・山神・天狗など)に攫われたと認識されていたのであるから、ショボくさい発言である。

「出べき」「いづべき」。

「かしこかめれば」「畏かめければ」であるが、活用はおかしい。「かしこかれければ」で採っておく。畏れ多いので。

「むくふるなり」「報(むく)ゆるなり」。歴史的仮名遣は誤り。「報ゆ」はヤ行上二段活用で、断定の助動詞「なり」は活用語の場合は連体形接続。

「はらされよ」「晴らされよ」。

「其まゝたをれ伏せにけり」「その儘、倒(たふ)れ伏せにけり」歴史的仮名遣は誤り。実にニグサい大根芝居である。

「泪」「なみだ」。

「この髻を手にとりてつらつら見るに、疑はしき事もあれど」如何にもこの数日前に髪結いに行ったような感じのする綺麗なもので、鬢付け油もごく新しいわ、元結も真新しかったりする、わけだよな!

「皈りし」「かへりし」「歸りし」。

「しやまん」「邪慢」で「じやまん(じゃまん)」であろう。仏教用語で「徳がないのに、あると偽って奢り昂ぶること」を指す。しかし、だったらその意味から「奢慢(しやまん)」でもいいかな? とも考えたことを言い添えておく。

「とりどりの沙汰ありければ」特に目立っていろいろな不評や悪しき噂が流れていたので。このケースも、髻があまりにも綺麗過ぎるとか、嘉之がほっかむりをして病み伏せっていると称して表に出ようとしないとか、如何にも怪しげな事実が数日の内に浮上してきたのであろう。詮議の結果、デッチアゲらしいことが推定出来たのである。

「曳かるべかりしを」今にも拘引されんとしたところが。

「逃走り」「にげさり」と訓じておく。なお、この小悪党の日蓮信徒鍛冶町の嘉之は性懲りもなく、またまた次の「十三 祈禱の禍牢屋に繫がる」でも似たようなケチ臭い悪事を働いてとうとう牢屋入りするのである。

「直に」「ただちに」。

「碇ケ關口」森山氏補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。「口」は関所外に強制退去させられたことを意味していよう。

「本寺」江戸幕府は仏教教団を統制管理するために「本末(ほんまつ)制度」を設けており、各宗派の寺院を重層的な上下、本山と末寺の関係に置き、支配構造内でも統制システムを強化、それによって各宗派に対する統制を測った。原則、無本寺寺院を認めず、寺院相互の本末関係を固定化し、不祥事によっては有無を言わせず連帯責任を負わねばならないように構築を行った。これは江戸初期に既に始動しており、ウィキの「本末制度」によれば、寛永八(一六三一)年には、『新寺の創建を禁止し、翌年以降、各本山に対して「末寺帳」の提出を義務づけた。これによって、各地方の古刹が幕府の命によって、形式的に特定の宗派に編入されることとなった』。『幕府は、江戸に設置された各宗派の「触頭(ふれがしら)」を通じて、自らの意向を宗派の末寺に対して周知徹底させることが可能になった』とある。この場合は、先の身延山久遠寺である。

「拙くも」「つたなくも」。ここは誓約證文まで書いてしまい、危うく改宗させられそうになった四郎左衛門(夫婦)のことを評した語である。]

 

谷の響 四の卷 十一 題目を踏んで病を得

 

 十一 題目を踏んで病を得

 

 天保の末年の頃にやありけん、石戸谷某と言へる人の子息、いたく日蓮宗を信ずるからに、時々近所にゆきてもたゞに他宗をそしり、法華をほむる話のみなりしが、野村安次郎といへるいたづらなる人ありて、しかも淨土宗にてありけるから、この石戸谷の倅の事を兼て小面憎く思ひて居たりけるが、ある日亦この咄しに及びしかば、野村がいふ、日蓮上人は奈何なる有かたき事あるかは知らず、法然上人と紙に書いて地上に置いてこを踏まんとするに、脚なえ眼くらみて其まゝたふるゝ也。日蓮上人と名を書いたるものは、いくたびふみてもたゝりがましきことちりばかりもあらざればなりといふに、この倅のいふは、そは不殘(みな)とらへ處なき虛妄説(うそこと)なり。我今法然の名を踏んで示すべしとあれば、野村がいふ、いたづらごとして罰は中りなばくゆるとも詮なし、止ねやみねとあざ笑へば、倅いたくいきまきて、實にしかあらんには是非ともふんでためさんといふに、野村は兼ねてはかりしことなれば、さらば己も日蓮の名を踏んでためさんと、互にかけになりて俱にその名を書いて取替し、各々したゝかにふみおへて其まゝひらき見てあるに、二枚とも日蓮上人とあれば野村がいふ、さてさておそろしき奇瑞を見ることよ、今正しく法然上人と書たるものが、土足にかくる際にのぞんで日蓮とかわりぬること見らるゝごとくなれば、いかで日蓮ごときの屑をならぶべきものかは。是にて法然上人の尊きことを覺悟して、とく淨土宗に改宗すべし、あな尊やあな有かたや南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛とおどり上りていひたるに、名たゝる法華の信心者も野村が一計にへきえきして、色を失ひ物もえいはで反られしに、其夜より何となくなやましきとておきもあがらですぎつるが、後には癆症(らうしやう)きみになれりとて、彼が黨なる法花(ほつけ)の仲間どもが數人寄りつどひ、祈禱すること數多にして四五十日にてやうやうにいえけるとなり。

 さて、この時に至りても己が心病とも知らずして、かく全くいひぬるは、日蓮上人の御慈悲ふかく又法花經のたつときなりし業とて、講中のものまでもほこりがましく語れるは、いかに不善(さが)なきものながら、いとおかしき尊みやうと、この野村の語りて笑ひしなり。[やぶちゃん字注:「かく全くいひぬるは」の「いひ」の右には底本では編者によって『(癒)』と補正注が附されてある。]

 

[やぶちゃん注:「題目」不審。以下の叙述を見る限り、石戸谷は題目、則ち、「南無妙法蓮華経」と書いた紙を踏んだのではなく、宗祖たる「日蓮上人」という文字を書いた紙を踏んだのである。これは大きな違いである。言えることは、これを笑い話として記すことの出来る筆者平尾は日蓮宗の信徒ではないということである。調べてみると、平尾魯僊の墓は前に出た、現在の弘前市新寺町にある月窓山栄源院貞昌寺(引用済みであるが、底本の森山氏の補註に『永禄三年藩祖為信の命により開創。弘前築城と共に弘前に移る。寺領六十石、領内に末寺庵百余を支配した』とある)、ここは浄土宗である。ここ(グーグル・マップ・データ)。ちょっと納得。彼も日蓮嫌いだったのかも(かくいう私も日蓮嫌いの親鸞好きではある)。

「天保の末年」「天保」は十五年までで、グレゴリオ暦では一八三〇年から一八四五年(通常は末年を一八四四年とするが、天保十五年は旧暦十二月二日に弘化に改元しており、これはグレゴリオ暦で一八四五年一月九日に相当するので、九日分が一八四五年に含まれる)。

「石戸谷」の読みは「いしとや」「いしどや」「いしとたに」「いとや」「せきどや」「せきとや」など。ネットの姓氏サイトを見ると、この姓は青森と秋田に特異的に多い。

「小面憎く」「こづらにくく」。顔を見るだけでも不快で憎らしく。

「有かたき」「有り難(がた)き」。

「脚なえ眼くらみて」「脚(あし)萎え、眼(まなこ)眩みて」。「萎え」はここでは、痙攣状態を起こすことであろう。

「虛妄説(うそこと)」三字へのルビ。

「いたづらごとして罰は中りなばくゆるとも詮なし」「惡戲事して罰(ばち)は中(あた)りなば悔ゆるとも詮(せん)なし」。

「止ねやみね」「やみねやみね」。

「實に」「げに」。

「己」「われ」。

「かけ」賭け。

「取替し」「とりかへし」。

「いかで日蓮ごときの屑をならぶべきものかは」『儂(わし)が「法然上人」と確かに書いたはずのものが、これ、「日蓮上人」の文字に変じた! これこそ、まさに「法然上人の尊(たっと)」きことの証しじゃて! 法然御聖人さまの仏法の玄妙なる力であると、これ、極まったわ! さればじゃ! どうして、日蓮如き屑糞坊主と並び称してよいものカイ! 阿呆んだらッツ!』

「有かたや」「ありかたや」。「有り難や」。

「名たゝる法華の信心者」「名たゝる」は「名立たる」で世間でも知られた熱狂的な。石戸谷個人、一人を指している。

「へきえき」「辟易」。

「色を失ひ物もえいはで」真っ青になって物も言えなくなり。まずいのは彼が「日蓮上人」という文字を踏みつけても何も起こらなかったことではあるが、実はそれ以上に、以下の展開を見る如く、「日蓮上人」の名を踏んでしまったという事実が、石戸谷に深刻なASD(急性ストレス障害:Acute Stress Disorder)を発症させているのである。

「反られしに」「かへられしに」。「歸られしに」。この「られ」は自発か。

「何となくなやましきとておきもあがらですぎつる」「『何となく惱ましき』とて起きも上がらで過ぎつる」。その日から忽ち、不定愁訴を訴えて、急激に悪化しているからこれはPTSD(心的外傷後ストレス障害:Post Traumatic Stress Disorder)ではなく、ASDなのである。

「癆症(らうしやう)きみ」「きみ」は「氣味」。「癆症」(ろうしょう)は「肺結核」(労咳(ろうがい))のことを指すのであるが、恐らくは、急性ストレス障害に加えて、宗祖の名を踏みつけたことによる罪障感から激しい心因反応(踏みつけて何も起こらなかったが、すぐに何か起こるに違いない、命が立たれるかもしれないと即時的思った部分をASDとし、このやや時間が経ってから考えて生じた不安障害をPTSDと区別してもよい)が起こり、食欲不振から瘦せ衰え、まるで見かけ上は労咳患者のようになってしまったというのである。

「黨なる」「ともなる」と訓じておく。

「いえける」「癒えける」。

「この時に至りても己が心病とも知らずして」この野村安次郎、石戸谷の様態を精神障害、「おのがこころのやまひ」(と訓じておく)とはっきり断じているところ、まあ、悪戯が過ぎてはいるものの(しかしその巧妙さには、やはり悪知恵、巧みな知力を感じさせる)、この判断を見る限り、かなり鋭い男ではないか。

「かく全くいひぬるは」この「かく」は後の「ほこりがましく」かく「語れるは」の位置にある方がよい。取り敢えず「かく」を「こんな惨憺たる心身の変調から辛うじて回復したにも拘わらず」の謂いでとり、「全くいひぬるは」は、「性懲りもなく言っておるその内容はと申せば」としておく。

「日蓮上人の御慈悲ふかく又法花經のたつときなりし業」これが石戸谷以下の日蓮信徒グループが口を揃えて言っている感懐である。「業」は「わざ」で、ここは「御蔭」「まことの仏法の仕儀」の謂い。「日蓮上人」の文字を踏んだ仏罰から、〈ぶらぶら病〉となり、死にかけたけれども、また同時に、「日蓮上人の」深い「御慈悲」と、「法花經の」尊き神妙なる法力によって生還し得たのは無常の幸い。至福であった、というのである。馬鹿は死んでも治らねえ、と吐き捨てたい野村が眼前に見える。

「講中」広く信仰上の志を同じくする者によって作られた集団の構成員。ここは石戸谷の属する日蓮宗徒の集まり。そうした中には、冷静に考えれば、彼の病いは気からであったことを肯(うべな)う者がいてもおかしくないはずなのに、という口振りである。

「いかに不善(さが)なきものながら」どんなに性根が悪くなく、それをまっこと信じて受け入れてという素直さは認めはするものの。

「いとおかしき尊みやう」「いやもう、なんともはや、馬鹿馬鹿しい尊(たっと)みようで! フフフ」。野村安次郎よ、そこまで言うか!? やっぱ、この男、頭はいいが、好きになれねえな。]

谷の響 四の卷 十 戲謔長じて酒殽を奪はる

 

 十 戲謔長じて酒殽を奪はる

 

 これは寛政の年間、紺屋町のもの共四五人茸をとるべしとて酒肴をもたらし鬼澤の山へ行き、各々心々に散らかりて茸をまきて居たりけるが、安田屋七左衞門といへるもの元よりおどけなるものから、人の見ぬうち其酒肴をとある木蔭に穴を掘りてかくしおき、知らず顏して有けるがやがて晝にもなりつれば、いざにおきし酒汲んで興をそえんと一つ所に寄りかたまりて辨當持を促せしに、置きし處になかりしとて彼方此方を尋ねさがし、しばしあれども見得ざればいかゞなれるといぶかるに、七左衞門のいへりけるは己れ八卦をおいてそが有處を示すべし、その御最花におのおのより茸二枚つゝをうくべしとて、さまざまのたわゝざをなし、それの處を掘りて得べしとあるに、又いつものくせよと笑ひておしへし處を掘りたれど、さらに見るべきものなければ、七左衞門うち驚き自ら立居て此處か彼處かと心まとひて數ケ處掘れど、形代(かたしろ)だにもあらざるに皆人あきれてつぶやきたるが、御藏町の彌兵衞といふものいと腹立て、面白くもなきわるしやれして己ばかりか人にまでひたるき思ひをさすたわけ者よとのゝしりけるに、こが元となりて互にわめき爭ふほどにつひに打あひたゝきあひして、鬢(びん)も髻(たぶさ)もとけみだし、人のさへるもうけがはずして眞赤になりてもみ爭ふから、皆人かゝりやうやうにおしわけてしづめたれど、興も盡き腹もすきていと馬鹿らしく力もなくて、わづかとりし茸を携へ、鬼澤村の茶屋に來り酒と飯とをあがなひて、やうやうにうゑをしのぎはつみなくして反りしなり。こはこの七左衞門が穴を掘りてかくせるを見るものありて、又これを奪ひしものなりき。さりとは惡きひが事ながら、又おかしきいさかいなり。

 さて、かゝるたわけしことは往昔もありける。そは兼好がつれづれ草に、御室にいみじき兒(ちご)のありけるを、いかてさそひ出してあそばんとたくむ法師どもありて、能あるあそび法師ともなどかたらひて、風流のわり子やうの物念頃にいとなみいでて、箱ふぜいのものにしたゝめ入れてならびの岡に便りよき處にうづみおきて、紅葉(もみぢ)ちらしかけなんどおもひよらぬさまして、御所へまゐりて兒(ちご)をそゝのかしいでにけり。うれしくおもひてこゝかしこあそびめぐりて、有つる苔のむしろになみゐて、いたうこそこうじにたれ、あはれ紅葉をたかん人もがな、しるしあらん僧だち祈り心みられよなんといひしろひて、埋みたる木のもとにむきて數珠をすり、印ことことしくむすび出てなとして、いらなくふるまひて木の葉をかきのけたれどつやつや物も見得ず。處のたがひたるにやとて、ほらぬ處もなく山をあさりけれどもなかりけり。うづみけるを人の見おきて、御所へまゐりたるまにぬすめるなりける。法師どもことはなくて聞にくゝいさかひ、はら立て反りにけり。あまりに興あらんとすることは、必ずあいなきものなり云々とあげたるは、よくこの事にかなへり。今もこれに似よれるはまゝありぬべし。いとよからぬことなり。

 

[やぶちゃん注:「戲謔」戯れ。悪戯。おどけ。

「長じて」調子に乗り過ぎて。

「酒殽」「酒肴」に同じい。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鬼澤」弘前市鬼沢(おにざわ)。岩木山東北山麓の裾野附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。地区の南西に山(黄金山)があり、確かに茸、採れそう。

「散らかりて」散開して。

「まきて」「卷く・捲く」と思われる。ある地域の周りを取り囲み、包囲するように茸を狩るのである。最初に散開して、そのように特定の中心位置に向かって狩って行けば、迷うこともなく、皆、全員が最後に落ち合える訳で、頭のいい、やり方ではある。そこに酒肴を置いてもいたのである。

「ものから」接続助詞で、ここは順接の確定条件。~なので。~だったから。

「いざに」ママ。この「に」は文法嫌いの私には説明出来ぬ。

「辨當持」「べんたうもち」。ここは特に下男というのではなく、仲間内の弁当担当の者であろう。

「己れ」「われ」。

「八卦をおいて」ここは単に占いをしての謂い。

「有處」「ありどころ」。

「御最花」「おはつほ」と読む。本来は「御初穂」。元は神前に供える初物を指し、「初穂」は「先穂」「早穂」「最花」などとも書く。最初に穫れた稲穂を神に感謝して供えた民俗祭儀に基づくもので、後にその他の供物や代わりの金銭(初穂料)をも指すようになった。ここは、神の託宣を得る占いをするその供物としての謂いだが、悪戯だけでなく、この七左衛門、ちゃっかりしているところが、如何にも不快な奴である。私なら、後で真っ先に殴る。

「二枚つゝ」ママ。「二枚づつ」。

「うくべし」「受くべし」。受け取ろうぞ。

「たわゝざ」「たはわざ」で「戲(たは《ぶ)れの》業(わざ)」という造語であろうが、とすれば、歴史的仮名遣は誤りである。

「それの處を」そこを。

「又いつものくせよと笑ひて」この時、他の連中は七左衛門のいつもの、しょうもない悪戯と判っていながら、付き合っているのである。こいつ、よほどのオオタワケである。

「自ら立居て」占いのポーズをするのに座っていたのを、慌てて立ち上ってそこここにしゃがみ込んでは掘り、また立ち走っては、しゃがみ掘って。

「形代(かたしろ)だにもあらざるに」影も形もないという事態に。

「つぶやきたるが」ぶつぶつ不平を漏らしていたが。

「御藏町」現在の青森県弘前市浜の町。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「わるしやれして」「惡洒落して」。悪い冗談ごとを成して。

「己」「おのれ」。

「ひたるき」「饑るし」。であるが、通常は「ひだるし」と濁る。「空腹だ・ひもじい」の意。

「たわけ者」「戲(たは)け者」。歴史的仮名遣は誤り。愚か者。

「鬢(びん)」頭の左右側面の、後ろに撫でつけて揃えた髪。

「髻(たぶさ)」「髷」に同じい。髪を頭上に集め束ねた所。もとどり。

「さへる」「障へる」。制止する。

「はつみなくして」不詳。「彈(はづ)み無くして」で、「勢いも元気もすっかり失せてしまって」の謂いか?

「反り」「かへり」。「歸り」。

「さりとは」「これは、まあ、その」。

「惡きひが事」(隠した七左衛門の、勿論、それをこっそり奪った部外者の誰かの、その行為は)孰れもすこぶる性質(たち)の悪い悪事。

「往昔」「むかし」。

「兼好がつれづれ草に、御室にいみじき兒(ちご)のありけるを……」以下は「徒然草」第五十四段。敢えて西尾が引いた伝本とは異なるものを引いた。

   *

 御室(おむろ:現在の京都市右京区御室にある真言宗大内山(おおうちさん)仁和(にんな)寺。開基の宇多法皇が居られた事蹟からかく呼ぶ。後の「御所」の同じ)に、いみじき兒(ちご:美童の稚児。僧侶の同性愛の対象であった。)のありけるを、いかで誘ひいだして遊ばんとたくむ法師ありて、能(のう:芸能の才や技。)ある遊び法師(:僧形で音曲や舞いなどをして金品を得た芸能者。)どもなどかたらひて、風流(ふりう:稚児が喜ぶように洒落た感じに意匠を施した)の破子(わりご:白木で折り箱のようにして造作し、中に仕切をつけて、被せ蓋をした弁当箱。)やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、手箱(てはこ)樣(やう)の物にしたためいれて、双岡(ならびのをか:仁和寺近くの三つのピークが並んでいる岡。因みに、この二番目の麓に兼好の墓がある)の便(びん)よき所に埋(うづ)みおきて、紅葉(もみぢ)散らしかけ、思ひよらぬさまにして(:どうみても人為が加わった場所とは見えぬようにして。後を見ると紅葉を散らしただけでなく、苔なども移植して自然に見せているようである。)、御所へ參りて、兒をそそのかし、いでにけり。 嬉しと思ひ、ここかしこ、遊び巡りて、ありつる(:先の埋めたところの。)苔のむしろに並みゐて、

「いたうこそ困(こう)じにたれ」(:えろう疲れたことじゃ。)

「あはれ、紅葉を燒かん人もがな」(:ああ、こうい所(とこ)で紅葉を焚いて酒を温めてくれる人はおらんかいなぁ。)

「驗(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」(:効験(こうげん)あらたかななる貴僧方よ、何かそうした我らが願いを叶えて下さるよう、一つ、御(おん)祈禱など試みられい。)

など言ひしろひて(:言い騒いで。)、埋(うづ)みつる木(こ)の本に向きて、珠數(ずず)をしすり、印形(いんけい)ことごとしく(:如何にも大袈裟に。)結びいでなど振舞(ふるま)ひて、木(こ)の葉をかきのけたれど、つやつや(:丸っきり。)物も見えず。ところの違(たが)ひたるにやとて、掘らぬところなく山をあされども、なかりけり。埋(うづ)みけるを、人の見おきて、御所へ參りたる間(ま)に盜めるなりけり。法師ども、言葉なくて、いと聞きにくくいさかひ、腹立ちて歸りにけり。

 餘りに興あらんとすることは、必ず、あいなき(:無効な。)ものなり。

   *

なお、「あはれ、紅葉を燒かん人もがな」という台詞は、白居易の詩「寄題送王十八歸山仙遊寺」(王十八の山(やま)に歸るを送り、仙遊寺に寄せて題す)、の「林間煖酒燒紅葉」(林間に酒を煖(あたた)めて紅葉を燒(た)き」を踏まえたもの。

「いかて」ママ。「如何(いか)で」。何とかして。

「たくむ」「企む」。

「箱ふぜいのもの」「箱風情の物」。より大きな装飾を施した豪華な箱型の入れ物。

「したゝめ」食物や肴を調整して。

「なとして」ママ。「などして」。

「いらなく」大袈裟に。わざとらしく。

「ことはなくて」ママ。「言葉無くて」。

「聞にくゝいさかひ」「きき難く諍(さか)ひ」僧侶であるにも拘らず、聴くも無惨なる下卑た様子で言い争い。

「反り」「かへり」。前出。

「似よれるは」「似寄れるは」似通った出来事は。]

谷の響 四の卷 九 人を唬して不具に爲る

 

 九 人をして不具に爲る

 

 寛政のころ、紺屋町に百澤屋忠吹郎といへる湯屋ありて、そこの婆々なる人長わつか四尺ばかりにしていと小さかなるが、産付(うまれつき)おどけなるものなるから、年々の盆には必ず踊りに出けるとなり。ある年、踊のかへさ夜いたく更けて鷹匠町を戾れるに、後方より同町の染屋の悴平太郎といへる長五尺六七寸もあるべき大男歌をうたひて來れるに、元よりしれるものにしあればいざやびつくりさしてんと、五十石町の淫地(やち)が草むらに身をかくしてぞ待れける。平太郎は何心なく來りしが、草むらの内よりキヤツくといふてむなさきへはねかゝるに、平太郎ふてきものにてことゝもせず、其まゝひつつかみて淫地(やち)の中へどうとなげつくるに、呍(うん)と苦聲(さけび)しまでにて音もあらざれば、何者ならんと月の明りにすかし見れば、股引をはき胴着をきたる小さきものゝ片息になりてうめき居たるに、助けおこしよく見れば湯屋の老母にてありけるに、いと驚き言譯して連れかへらんとすれど、腰間(こし)が痛みて步行得ずとあれば、背負ひて宿にかへりけり。さるに其腰いたくなやみしだいしだいに重りて已に死ぬべく見へつれば、いろいろ藥を盡し神に祈り佛に願きて、百日近くにしてわづかにいゆることを得たりしかど、しかと腰をのばすことならずといへり。いたづらのこはきは、身をそこねることまゝあることなり。愼み戒むべし。

 

[やぶちゃん注:「して」「だまして」。「騙して」。現代中国語では「虚勢を張って人を脅かす」「大げさに言って人をだます」の意とする。私はここで生まれて初めて見た漢字である。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「湯屋」私の趣味で「ゆうや」と読んでおく。

「長」「たけ」。背丈。

「わつか」ママ。「僅か」。

「四尺」一メートル二十一センチ。

「鷹匠町」「たかじやうまち」。現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。城の南西直近である。

「五尺六七寸」百七十~百七十二センチ強。言わずもがな乍ら、当時としては非常に背が高い。異様に背の低い老婆との組み合わせは、やや作為を感じさせる話柄ではある。

「五十石町」「ごじつこくまち」。現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。城の西部直下の御堀沿い。鷹匠町は北でこの町に接している。

「淫地(やち)」底本の森山氏の補註によれば、『ヤチは湿地のことをいう津軽の方言』とある。堀端なので納得。

「ふてきもの」「不敵者」。

「苦聲(さけび)しまでにて」二字へのルビ。

「股引」「ももひき」。本来は男子用のズボン様の下肢の着用着。後ろで左右の股上が重なり、脚部が細い。近世以降、半纏と組み合わせて商人や職人が用いた。季語は「冬」で、女性が穿いているつると、なおの事、冬っぽい青森とはいえ、やや不審。次注参照。

「胴着」「どうぎ」。胴衣。腰までの丈(たけ)の綿入れの衣服。普通は防寒用として冬に上着と肌着の間に着るものである。前の股引と併せて、夏の盆踊りの季節の着用着としては不審である。或いは、この老婆、高い確率で先天性の腰椎奇形が疑われ(ここでもそれゆえに投げられて打撲した後の予後がひどく悪いものと思われる)、夏場でも血行が悪く、体が冷えたために着用していたのかも知れぬ。また、この、夏らしからぬ、女らしからぬ異例の服装ゆえに平太郎は獣か化け物と誤認したとは言えぬか? 〈悪戯の脅(おど)かし〉以前に、その異様なそれにこそ、激しく投げ飛ばされることとなる不幸な素因があったのではあるまいか?

「片息」「かたいき」で「肩息」の方が意味をイメージし易い。ひどく苦しそうに息を吐くことを指す。

「腰間(こし)」二字へのルビ。

「步行得ず」「あるきえず」と当て訓しておく。

「願きて」ママ。「ぐわん祈(き)て」などを考えたが、案外、「ねがひ來て」(この場合の「きて」は「行って」の意味とする)か。

「いたづらのこはきは」「こはき」は「強き」「怖き」の両様が想起される。「強き」ならば「度が過ぎたもの」で意が通る。両用で採る。]

諸國百物語卷之五 十七 靏のうぐめのばけ物の事

 

     十七 靏(つる)の林(はやし)うぐめのばけ物の事


Turunohayasi

 寛永元年のころ、みやこのひがしに靏(つる)の林と云ふ廟所(びやうしよ)有り。此ところへ、よなよな、うぐめと云ふばけ物、きたりて、あか子のなくこゑするとて、日くるれば、とをる人なく、此あたりにはせどかどをかためて人出で入りせず。ある人、これをききて、

「それがし、見とゞけん」

とて、ある夜、あめふり、物すさまじきおりふし、靏の林にゆきて、うぐめをまちゐける所に、あんのごとく、五つじぶんに、しら川のかたより、からかさほどなる、あをき火、宙を、とび、きたる。ほどちかくなりければ、人のいふに、たがわず。あか子のなくこゑ、きこへければ、かのもの、やがて、刀をぬき、とびかゝつて、きつておとす。きられて、たうど、おちたる所を、つゞけさまに二刀さし、

「ばけ物、しとめたり。出あへ、出あへ」

と、よばはりければ、あたりの人々、たいまつをとぼし、たちより見ければ、大きなる五位鷲にて有りけるとなり。よしなき物にをそれたり、とて、人々、大わらひして、かへりけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「靏の林うふめの事」。実録風疑似怪談落し咄。呵々大笑してエンディング。私なら、これを鷺鍋にして皆して食ってしまってオチにする。「耳嚢 巻之七 幽靈を煮て食し事」が、まさに、それ。

「靏(つる)の林(はやし)」不詳。「靏」は「鶴」の異体字。「鶴の林」或いは「鶴林(かくりん)」とは、釈迦の涅槃の折り、釈迦を覆っていた沙羅双樹の木の葉の色が、瞬時に白く変じ、白鶴のようになったことを指すが、これはこれで実在地名らしい。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『不詳。室町期「鶴の本」と言った所か?』とするが、その現在位置は記されていない。識者の御教授を乞う。

「うぐめ」一つの属性として怪鳥(けちょう)の一種ともされた妖怪産女(うぶめ)。今まで搦め手的にしか引いていないので、ここはウィキの「産女」を本格的に引いておく。『産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する』。『死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある』。先の高田氏の「江戸怪談集 下」の注に本「産女」の異称として「唐土鳥(とうどのとり)」を挙げるが、事実、唐代の「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で』「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」『とされる。日本では、多くは血に染まった腰巻きを纏い、子供を抱いて、連れ立って歩く人を追いかけるとされる。『百物語評判』(「産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形、腰より下は血に染みて、その声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり」)、『奇異雑談集』(「産婦の分娩せずして胎児になほ生命あらば、母の妄執は為に残つて、変化のものとなり、子を抱きて夜行く。その赤子の泣くを、うぶめ啼くといふ」)、『本草綱目』、『和漢三才図絵』などでも扱われる。産女が血染めの姿なのは、かつて封建社会では家の存続が重要視されていたため、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされる』。『福島県南会津郡檜枝岐村や大沼郡金山町では産女の類をオボと呼ぶ。人に会うと赤子を抱かせ、自分は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるという。オボに遭ったときは、男は鉈に付けている紐、女は御高僧(女性用頭巾の一種)や手拭や湯巻(腰に巻いた裳)など、身に付けている布切れを投げつけると、オボがそれに気をとられるので、その隙に逃げることができるという。また赤子を抱かされてしまった場合、赤子の顔を反対側へ向けて抱くと噛まれずに済むという』。『なお「オボ」とはウブメの「ウブ」と同様、本来は新生児を指す方言である』。『河沼郡柳津町に「オボ」にまつわる「おぼ抱き観音」伝説が残る』(以下、その伝承)。『時は元禄時代のはじめ、会津は高田の里袖山(会津美里町旭字袖山)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、柳津円蔵寺福満虚空蔵尊に願をかけ丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織袴に身を整えて、いつものように旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、なぜか早坂峠付近にさしかかると、にわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ』平地二里、山道三里の『道中で、ましてやこの刻、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことが続いて大分限者(長者)になり、のちにこの地におぼ抱き観音をまつった』)(以上で河沼郡柳津町の「おぼ抱き観音」伝承は終り)。『佐賀県西松浦郡や熊本県阿蘇市一の宮町宮地でも「ウグメ」といって夜に現れ、人に子供を抱かせて姿を消すが、夜が明けると抱いているものは大抵、石、石塔、藁打ち棒であるという』(同じ九州でも長崎県、御所浦島などでは船幽霊の類をウグメという』)。『長崎県壱岐地方では「ウンメ」「ウーメ」といい、若い人が死ぬ、または難産で女が死ぬとなるとも伝えられ、宙をぶらぶらしたり消えたりする、不気味な青い光として出現する』。『茨城県では「ウバメトリ」と呼ばれる妖怪が伝えられ、夜に子供の服を干していると、このウバメトリがそれを自分の子供のものと思い、目印として有毒の乳をつけるという。これについては、中国に類似伝承の類似した姑獲鳥という鬼神があり、現在の専門家たちの間では、茨城のウバメトリはこの姑獲鳥と同じものと推測されており』、『姑獲鳥は産婦の霊が化けたものとの説があるために、この怪鳥が産女と同一視されたといわれる』。『また日本の伝承における姑獲鳥は、姿・鳴き声ともにカモメに似た鳥で、地上に降りて赤子を連れた女性に化け、人に遭うと「子供を負ってくれ」と頼み、逃げる者は祟りによって悪寒と高熱に侵され、死に至ることもあるという』。『磐城国(現・福島県、宮城県)では、海岸から龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が現れて陸地に上がるというが、これは姑獲鳥が龍燈を陸へ運んでいるものといわれる』。『長野県北安曇郡では姑獲鳥をヤゴメドリといい、夜に干してある衣服に止まるといわれ、その服を着ると夫に先立たれるという』。『『古今百物語評判』の著者、江戸時代の知識人・山岡元隣は「もろこしの文にもくわしくかきつけたるうへは、思ふにこのものなきにあらじ(其はじめ妊婦の死せし体より、こものふと生じて、後には其の類をもって生ずるなるべし)」と語る。腐った鳥や魚から虫が湧いたりすることは実際に目にしているところであり、妊婦の死体から鳥が湧くのもありうることであるとしている。妊婦の死体から生じたゆえに鳥になっても人の乳飲み子を取る行動をするのであろうといっている。人の死とともに気は散失するが戦や刑などで死んだものは散じず妖をなすことは、朱子の書などでも記されていることである』。『清浄な火や場所が、女性を忌避する傾向は全国的に見られるが、殊に妊娠に対する穢れの思想は強く、鍛冶火や竈火は妊婦を嫌う。関東では、出産時に俗に鬼子と呼ばれる産怪の一種、「ケッカイ(血塊と書くが、結界の意とも)」が現れると伝えられ、出産には屏風をめぐらせ、ケッカイが縁の下に駆け込むのを防ぐ。駆け込まれると産婦の命が危ないという』。『岡山県でも同様に、形は亀に似て背中に蓑毛がある「オケツ」なるものが存在し、胎内から出るとすぐやはり縁の下に駆け込もうとする。これを殺し損ねると産婦が死ぬと伝えられる。長野県下伊那郡では、「ケッケ」という異常妊娠によって生まれる怪獣が信じられた』。『愛媛県越智郡清水村(現・今治市)でいうウブメは、死んだ赤子を包みに入れて捨てたといわれる川から赤子の声が聞こえて夜道を行く人の足がもつれるものをいい、「これがお前の親だ」と言って、履いている草履を投げると声がやむという』。『佐渡島の「ウブ」は、嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛の形で赤子のように泣き、人に追いすがって命をとる。履いている草履の片方をぬいで肩越しに投げ、「お前の母はこれだ」と言えば害を逃れられるという』。『波間から乳飲み児を抱えて出、「念仏を百遍唱えている間、この子を抱いていてください」と、通りかかった郷士に懇願する山形大蔵村の産女の話では、女の念仏が進むにつれて赤子は重くなったが、それでも必死に耐え抜いた武士は、以来、怪力に恵まれたと伝えられている。この話の姑獲女は波間から出てくるため、「濡女」としての側面も保持している。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、両者は異なる妖怪とされ、現在でも一般的にそう考えられてはいるが、両者はほぼ同じ存在であると言える』。『説話での初見とされる『今昔物語集』にも源頼光の四天王である平季武が肝試しの最中に川中で産女から赤ん坊を受け取るというくだりがあるので、古くから言われていることなのだろう。 産女の赤ん坊を受け取ることにより、大力を授かる伝承について、長崎県島原半島では、この大力は代々女子に受け継がれていくといわれ、秋田県では、こうして授かった力をオボウジカラなどと呼び、ほかの人が見ると、手足が各』四『本ずつあるように見えるという』。『ウブメより授かった怪力についても、赤ん坊を抱いた翌日、顔を洗って手拭をしぼったら、手拭が二つに切れ、驚いてまたしぼったら四つに切れ、そこではじめて異常な力をウブメから授かったということが分かった、という話が伝わっている。この男はやがて、大力を持った力士として大変に出世したといわれる。大関や横綱になる由来となる大力をウブメから授かった言い伝えになっている。民俗学者・宮田登は語る。ウブメの正体である死んだ母親が、子供を強くこの世に戻したい、という強い怨念があり、そこでこの世に戻る際の異常な大力、つまり出産に伴う大きな力の体現を男に代償として与えることにより、再び赤ん坊がこの世に再生する、と考えられている』。『民俗学者・柳田國男が語るように、ウブメは道の傍らの怪物であり少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授ける。深夜の畔に出現し子を抱かせようとするが、驚き逃げるようでは話にならぬが、産女が抱かせる子もよく見ると石地蔵や石であったとか、抱き手が名僧であり念仏または題目の力で幽霊ウブメの苦艱を救った、無事委託を果たした折には非常に礼をいって十分な報謝をしたなど仏道の縁起に利用されたり、それ以外ではウブメの礼物は黄金の袋であり、またはとれども尽きぬ宝であるという。時としてその代わりに』五十人力や百人力の『力量を授けられたという例が多かったことが佐々木喜善著『東奥異聞』などにはある、と柳田は述べる。ある者はウブメに逢い命を危くし、ある者はその因縁から幸運を捉えたということになっている。ウブメの抱かせる子に見られるように、つまりは子を授けられることは優れた子を得る事を意味し、子を得ることは子のない親だけの願いではなく、世を捨て山に入った山姥のような境遇になった者でも、なお金太郎のごとき子をほしがる社会が古い時代にはあったと語る』。『柳田はここでウブメの抱かせる子供の怪異譚を通して、古来社会における子宝の重要性について語っている』とある。

「寛永元年」一六二四年。第三代将軍徳川家光の治世。

「せどかどをかためて」「背戸(せど)、門(かど)を固めて」。「背戸」は家の裏口。

「五つじぶん」午後八時頃。

「しら川」これは現在の白川(滋賀県大津市山中町の山麓を水源として西へ流れ、京都府京都市左京区に入って吉田山北東部鹿ヶ谷付近で南西に転じ、南禅寺の西側で現在は琵琶湖疏水を合わせているそれ)と考えられるから、この謎の「靏の林」は鴨川以東、白川以西と考えるのが自然で、現在の平安神宮から京都大学附近を想定してよいかと思う。

「からかさ」「唐傘」。これは「あをき火」の玉の大きさを指しているから、実は五位鷺(ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax)の靑白い色がそう見えたのである。サギが羽ばたいているならば、唐傘大と表現してもおかしくない。但し、天候(雨降り)と時刻(午後八時)から考えると、それが視認出来たといのはやや無理がある気はする。なお、ゴイサギの大型個体の屹立した後姿というものは全く以って人に見え、それは恰も蓑を着て川漁をする漁師のようでもあり、或いは、山野に遁世している隠者が瞑想しているかのようでもある。私はそうした姿を何度も目撃した。殊の外私の好きな、禅僧か哲学者が佇んで何か考え込んでいるみたような不思議な姿なのである。

「あか子のなくこゑ」実はゴイサギの鳴き声。ウィキの「ゴイサギ」によれば、『夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方がある。昼も夜も周回飛翔をして、水辺の茂みに潜む。夜間月明かりで民家の池にも襲来して魚介類・両生類を漁る。主につがいや単独で行動する。都市部の小さな池にも夜間飛来し、金魚や鯉を漁ることもある』とある。ゴイサギの鳴き声は例えば、これ! うひゃ! 赤ん坊と言えぬこともないが、ドラキュラの断末魔のようで、夜間のこれは流石の私も聴きたくない。ヤバシヴィッチ!

「たうど」前出の「江戸怪談集 下」の脚注には、『どうど。落ちる音を「うぐめ」の異称唐土鳥(とうどのとり)に語呂合わせして、しゃれた』とある。この洒落にはこの注を読まなければ気づかなかった。高田先生に感謝。

「たいまつをとぼし」「松明を點し」。

「よしなき物」つまらぬもの。]

2016/11/26

谷の響 四の卷 八 存生に荼毘桶を估ふ

 

 八 存生に荼毘桶を估ふ

 

 高杉村の福次郎と言へるもの、酒を飮むときは人と爭ひを起してよからぬ者のよしなるが、安政改元の二月の下旬、紺屋町桶匠專四郎と言へるものに立寄て、そが店に荼毘桶あらざるを見て價(かは)んことを言へるに、專四郎の曰、先に賣りて未だこしらえざれば外より求め玉はるべしといふに、そはわろしとて持てる傘にて專四郎が肩骨をしたゝかに叩きたれば、專四郎由緣(いはれ)なきことゝて腹を立て、互に打合はんとするをあたりの者共來りて取しづめたるに、專四郎時にのりて言へるは、親父なるもの病みてうせぬれば玆なる荼毘桶をわざわざ買ひに來れるに、うちきらせりとの挨拶心に不中(あたらず)とて、ぢだんだふんでわめきけるに皆々もて餘し、專四郎が分家なる桶匠より急に荼毘桶を取寄せ彼が求めにあてたりしに、親父の死せりといふは元よりの僞妄(いつはり)にて、此桶匠に荼毘桶のなきを幸ひに起せる喧嘩なれば、かく桶をおしつけられて詮方なく、とまれかくまれ言ひのがれて逃げ出さんとするなれど、言葉の惡(にく)さにゆるされずしていとやかましくあらがへるに、役筋の人來かゝりて鬪爭(いさかひ)の樣子を問ひきはめ、福次郎にこの荼毘桶を背負せ町役人夫五六人にかたく守らせ、高杉村の庄屋へ有りし仕方を書きたる御用狀を添えてつかはしたるに、庄屋これを見てきもをつぶし、彼が親彦四郎と言へる老父を呼てかくと語りけるに、彦四郎・福次郎が妻もいたくおとろき詮方を知らず、偏に庄屋の世話而已をたのみけれど、庄屋もひとりに測り得ずして手代に相談するに、手代も亦一己(ひとり)にけつしかたくして御代官所へ訴へしに、役筋の屆けなれば其まゝに放下(すて)おかれずと福次郎を役所に呼び上げ、常の不行狀よりかゝる扱いを引出せるわる者とていたく呵り、速かに上書(かきつけ)をもて申上ぐべしとあれど、この上書には筆のたてかたなかりしとて書くべきものにもあらざれば、奈何(いかゝ)すべきとくるしみしに、さすが子を思ふ親の心とてとん智をおこし、彦四郎の家は親なるもの六十の歳記(とし)をこゆれば荼毘桶を用意することは累代の家法にしあれば、兼て悴に言付けたるからに今般(こたび)あかなひ得たるものなりと言はゞいかなるべきと言ひけるに、村役どもそはいとよき言譯(いひわけ)なりとて、やがてその旨を書いて上げたりしがそのまゝになりて、ゆゑなくおさまりしとなり。こは己が親しく見たる事なりき。

 

[やぶちゃん注:「存生に」「ぞんしやうに」。生きているうちに。

「荼毘桶」「だびをけ」或いはこれで「かんをけ」と当て読みしているかも知れぬ。死者を入れる座棺の火葬用の棺桶。本邦では仏教の普及とともに、平安以降に既に皇族・貴族・僧侶・浄土宗の門徒衆などで火葬が広まっている。それでも近代に至るまで土葬の方が一般的であったのは、火葬自体に時間と労力・費用がかかったからとも言われる。

「估ふ」「かふ」。買う。

「高杉村」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市高杉(たかすぎ)。弘前の西郊八キロの農村。』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「酒を飮むときは人と爭ひを起してよからぬ者のよしなる」この時も一杯入ってたんだろうねえ。

「安政改元の二月の下旬」嘉永七年十一月二十七日(グレゴリオ暦一八五五年一月十五日)に内裏炎上・地震・黒船来航などの災異の起こったことを理由に安政に改元している。この改元日から見て、しかし、この「二月の下旬」とは嘉永七年の二月の下旬と読むしかない。従ってグレゴリオ暦では一八五四年となる。同旧暦の二月は大の月で二月三十日は一八五四年三月二十八日である。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「立寄て」「たちよりて」。

「曰」「いはく」。

「時にのりて言へるは」文字通り、売り言葉に買い言葉で、エキサイトしてい放ったは。

「玆なる」「ここなる」ここで売っている。

「うちきらせり」売切れちまった。

「心に不中(あたらず)」「納得出来ねえ!」。他でもない、お前(めえ)さんの作った荼毘桶を買ってやろうというのに、その応えは、如何にも不誠実ってえもんだ! といった難癖をつけているのである。

「ぢだんだふんでわめきける」「地團駄踏んで喚きけるに」。

「言葉の惡(にく)さにゆるされずしていとやかましくあらがへる」のは福次郎である。捻くれたやくざ者にありがちな、訳の分からぬ、所謂、〈ためにする〉喧嘩である。

「役筋」後の展開から見て、町同心である。

「町役」町奉行の支配下にあって町政に携わる町人身分の役職。

「有りし仕方」事件の経緯。

「彼が親彦四郎と言へる老父」福次郎が死んだと嘘をついた実父である。

「呼て」「よびて」。

「おとろき」ママ。「驚き」。

「詮方を知らず」どうしたらよいか判らず。

「偏に」「ひとへに」。

「而已」「のみ」。

「手代」ここは庄屋の使っていた使用人の上級の者。庄屋は何か商売をしていたのかも知れぬ。

「一己(ひとり)」二字へのルビ。

「けつしかたくして」「決し難くて」。

「呵り」「しかり」。

「上書(かきつけ)」福次郎、普段からの悪行三昧であったによって、形式上、藩主の裁可を受けるべく(実際には代官或いは町奉行が処断を決めたのであろうが)、公式の事件詳細を記した上申書。

「申上ぐべし」「まうしあぐべし」。

「筆のたてかたなかりし」父が死んだという訳のわからぬ不忠極まりない嘘から始まって、意味不明の怒りやそこから乱暴狼藉に及んでいるという状況自体、事件の中身全部が不届き千万で、確かに私でも筆の執りよう、上申書の書きようが、これ、ない。

「べき」可能。

「奈何(いかゝ)」読みはママ。

「とん智」「頓智」。

「歳記(とし)」二字へのルビ。

「荼毘桶を用意することは累代の家法にしあれば、兼て悴に言付けたるからに今般(こたび)あかなひ得たるものなり」「あかなひ」はママ。「購(あがな)ひ」。火葬の棺桶を生前に用意するのが家法であるとか、私も還暦を越え、お迎えも近いものと覚悟致し、以前から息子に死ぬ前に荼毘桶は事前に購入してちゃんと準備しておくようにと言いつけ、今回、それに基づいて息子が購入したものであるという、これ全部が、これまた、嘘っぱちなのである。でなくては「頓智」とは言わぬ。

「村役」郡代や代官の下で村の民政を預かり、領主に対して年貢・公事(くじ)納入の責任を負っていた百姓身分の者。この庄屋もそうであろう。]

谷の響 四の卷 七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す

 

 七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す

 

 又これも文化の末年(すえ)なるよし、茂森町を通りし葬式ありてそれが手傳なる一人の童子、しきりに屎催の氣あればとて、持てる龍頭を傍なる家の雪隱をかり用をすまして出けるが[やぶちゃん字注:この「の雪隱をかり」の右側には編者による『(ママ、脱文アルカ)』の注記がある。]、この葬式はとく往きて見得ざるに又後より來れる葬式あればこれにまじりて往きたるが、介錯(せわ)する者に見咎められて是非なく龍頭をそこなる家の檐によせかけ逃去りたるに、この家の主いたく忌み惡み密に隣家(となり)の檐に係けたるに、そこの主腹立てつぶやきながらもとの處によせかけたれば、又かけ戻しよせもどし互にかまびすしくいさかひけるが、はてはねじあい叩きあへるに兩家の者ども救ひに出て十四五人の人數となり、組みつほぐれつひとかたまりとなりて挑(いと)みあひしに、とりおさへることなり兼ねてたゞに見物するばかりなれば、往來のものも足をとゞめざるはなく、しだいしだいに多く簇(む)れつとひて街道をふさぎ、往來止まるまでに至りけり。かゝる折柄通りの役筋來かゝりていたく制してとりしづめ、樣子つばらに吟味をおへてゆかれしが、日をへて後に一人は七日一人は三日、戸塞(しめ)の法に行はれて御免を得たりしとなり。この二件(ふたくだり)己が老父の兼てかたりし事なりき。

 

[やぶちゃん注:「龍頭」「西田葬儀社」のブログの葬儀のしきたりという記事によれば、これは「たつがしら」と訓ずるらしい。それによると、『最近では見る事も聞くことも少なくなりました』が、『野辺の送りと言われる葬列に中の役割で、2メートルくらいの竹の先に龍の頭と胴をつけたもの』とあり、『これを葬列の中で4本使っているそうです。調べてみると、地域によって呼び方も変わり地域の風習によって様々のようです』とし、ここれは『悪霊や野犬、動物から故人を守るためにされていたようです』とする。また、『中国では、龍は再生の神の象徴とされていて、亡くなられた方の魂にもう一度生まれ変わってほしいという願いを込められて、これまでされて伝わってきたようです』とも記しておられる。画像も紹介されている。こちら

「文化の末年」文化は一八〇四年から一八一八年までで、第十一代徳川家斉の治世。

「茂森町」現在の青森県弘前市茂森町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「手傳」「てつだひ」。親族ではなく、恐らくは小遣いを貰って雇われた児童であろう。

「屎催」「くそもよほし」と訓じておく。うんちをしたくなったのである。

「持てる龍頭を傍なる家の雪隱をかり用をすまして出けるが」編者の言うように脱文があるようである。「持てる龍頭を傍なる家の檐(ひさし)に立てかけ、その家の雪隱(せつちん:廁)を借り、用をすまして出けるが」といった塩梅か。

「介錯(せわ)する者に見咎められて」龍頭が一本多く(前の引用によれば葬列では通常四本とある)、その龍もまた、或いは造形や色などが他の四本と異なって目立ったのかも知れぬ。恐らく、手間賃は葬列の最後に支払われるのに違いない。

「密に」「ひそかに」。

「係けたるに」「かけたるに」。寄せ掛けておいたところが。

「主」「あるじ」。

「ねじあい叩きあへるに」腕を捩じ上げたり、叩き合ったりしているうちに。

「挑(いと)みあひしに」読みはママ。双方ともに本格的な暴力沙汰に発展してしまったが。

「とりおさへることなり兼ねて」双方を宥めて取り押さえること、これ、し難くなってしまい。

「たゞに」ただただ周囲の連中は。

「多く簇(む)れつとひて」ママ。通行人が滞って渋滞し、また沢山の野次馬が群れ集う結果と相い成り。

「役筋」以下で「吟味をおへてゆかれしが」とあるから、藩の町同心である。

「いたく制して」強く双方に注意して、喧嘩を止めさせ。

「つばらに」詳(つまび)らかに。子細に。

「戸塞(しめ)の法」「としめのはう」。これは所謂、江戸時代の刑罰の一つであった「押し込め」のごく軽いものではあるまいか? 「押し込め」は武士・庶民の別なく科せられた一種の軟禁刑で、「公事方御定書」によれば、他への外出を許さず、戸を建て寄せておく、とある。これには「百日押込め」「五十日押込め」「三十日押込め」などがあり、これらは、拝領屋敷を借金の質に入れたり、過失による失火などに対して科せられている。本来は喧嘩両成敗が鉄則であるが、考えてみると、そもそもが最初に餓鬼が立てかけられた方の主人がその龍頭を自身番にでも届け出れば何事もなかったのであり、その差か。にしても倍以上の七日は大き過ぎ、或いは、この折りの喧嘩が大きくなって、三日の方の主人やその家人が相応の怪我でもしたものかも知れぬ。

「御免」それで許された。

「兼てかたりし事なりき」以前より、ことあるごとに、たびたび繰り返し語って聴かせてくれたの謂いか。底本では「兼て」の横にママ注記を打つが、私はあまり不審には思われない。]

北條九代記 卷第十 將軍惟康源姓を賜る 付 大元使を日本に遣 竝 北條時輔逆心露顯

 

      ○將軍惟康源姓を賜る  大元使を日本に遣す

        北條時輔逆心露顯

 

同七年十一月、將軍惟康、從三位に叙し、左中將に任じ、源姓(げんしやう)を賜ふ。位署(ゐしよ)、既に鎌倉に到著す。將軍家、御拜賀の御爲に、鶴岡八幡宮に參詣あり。路次の行列は先蹤(せんしよう)にまかせられ、供奉の輩(ともがら)、銛(きら)を研(みが)き、花を飾り、奇麗の出立(いでたち)、傍(あたり)を耀(か〻やか)し、見物の貴賤、巷(ちまた)に盈(み)ちたり。近年、太平の驗(しるし)なりと、諸人喜ぶ事、限りなし。異故(ことゆゑ)なく下向ありて、その夜は殿中に舞蹈(ぶたう)、酒宴、既に曙に及べり。大名、諸人、上下共に榮樂萬歳(えいらくまんざい)を歌ひ、數獻(すこん)、酣興(かんきよう)を盡されけり。

この年、蒙古の使者、趙良弼等(ら)、本朝筑前國今津に著岸し、牒狀(てふじやう)を呈す。兎にも角にも日本を討取(うちと)るベしとの祕計なるべしと、公家武家共に憤(いきどほり)思召しければ、中々、返狀にも及ばず。博多(はかたの)彌四郎と云ふ者を差添(さしそ)へて歸遣(かへしつかは)されしかば、蒙古の王、既に彌四郎に對面し、通事(つうじ)を以て、樣樣、問答し、種々に饗(もてな)しつ〻、寶物(はふもつ)を與へて日本に送歸(おくりかへ)す。

北條重時には孫武藏守長時の二男、治部大輔義宗、鎌倉より上洛し、六波羅の北の方に居て式部大輔時輔と兩六波羅となり、西國の事を取行(とりおこな)ひけり。京都鎌倉の間(あひだ)は櫛(くし)の子(こ)を引くが如く、飛脚、每日に往來し、九國二島(じとう)の事に於いて纖芥(しんがい)計(ばかり)も隱(かくれ)なし。諸国、自(おのづから)、是(これ)に伏(ふく)して、天下の政理(せいり)好惡(かうあく)の沙汰、更に口外に出す者なし。狼藉亡命の輩(やから)、山野の間にも身を隱すに賴(たより)なく、一夜の宿も借す人なければ、自(おのづから)、皆、亡びて、在々所々、萬戸(ばんこ)樞(とぼそ)を閉ぢず、千門開けて、女、童(わらは)、商人(あきんど)までも手を指す者もあらざれば、淳朴厚篤(じゆんぼくこうとく)の世の中なりと、上下、心易くぞ思ひける。

然る所に同九年正月に、惟康、從二位に叙せられ、中將は元の如し。同二月十五日、鎌倉より早馬を立てて、六波羅の北の方、北條義宗の許へ告來(つげきた)る事あり。義宗、俄(にはか)に軍兵(ぐんぴやう)を催し、六波羅南の方、式部大夫時輔が館(たち)に押寄(おしよ)せて、時輔を初(はじめ)て、家中の上下、一人も殘らず討亡(うちほろぼ)す。思(おもひ)も寄らざる俄事(にはかごと)に、侍、中間原(ちうげんばら)、周章彷徨(あはてうろた)へ、物具(もの〻ぐ)取りて差向ふまでもなく、逃落(にげお)ちんとのみする程に、草葉を薙(な)ぐが如く、皆、打伏(うちふ)せ、切倒(きりたふ)し、死骸は此處彼處(こ〻かしこ)に臥亂(ふしみだ)れ、紅血(こうけつ)は縦橫(じうわう)に川を流せり。邊(あたり)近き民屋(みんをく)の男女、こはそも何事ぞとて騷立(さわぎた)ちて逃惑(にげまど)ひしかども、手間も入らず、打靜(うちしづま)り、義宗、靜(しづか)に馬を入れられければ、今は左(さ)もあれ、この後、又如何なる事かあるべきと、足を翹(つまだ)て手を握り、危(あやぶ)みけるも多かりけり。かの時輔は相摸守時賴の長男にて、鎌倉相州時宗の兄なりしが、関東の執權は我こそと思はれしに、舍弟時宗に家督を取られ、年來、鬱憤を含み、逆心を企て、内々その用意ある由、誰(たれ)とは知らず、時宗に告申(つげまう)しける故に、先(まづ)、義宗を上洛せしめ、事の有樣を伺はせ、叛逆の事、忽に露(あらは)れて、時輔、既に討たれたり。鎌倉にも、北條朝時の孫左近〔の〕大夫公時(きんとき)、同じく朝時の六男中務〔の〕大輔教時等(ら)、時輔に一味同心して、時宗を討たんと計りける。此事、今は隱(かくれ)なく露れしかば、公時、教時、一所に寄合(よりあ)うて、「京都の事に何如(いかゞ)、心許(こころもと)なし」と、その左右を待ちりる間(あひだ)に、時宗の討手(うつて)、透間(すきま)なく込掛(こみか)けて、一人も泄(もら)さず討取(うちと)つたり。近隣、大に騷ぎしかども、事、速(すみやか)に落居(らくきよ)しければ、頓(やが)て音なく靜りけり。天運の命ずるに依らずして、非道の巧(たくみ)を企つる者は、天必ず、罸(ばつ)を施し、鬼(き)、既に罪をうつが故に、亡びずと云ふことなし。運を計り、命を待つとは、君子の智德を云ふなるべし。中御門〔の〕左中將實隆、この謀叛に與(くみ)せられたりと聞えしかば、出仕を留められ、暫く籠居(ろうきよ)しておはしけり。關東より如何に申付けられんも知難(しりがた)しとて、その方樣(かたさま)の人は、易(やす)き心もなかりしかども、武家の人々、何程の事かあるべきとて、宥免(いうめん)の沙汰に及びしかば、軈(やが)て殿上(てんじやう)の出仕をぞ致されける。

 

[やぶちゃん注:内容の相異に鑑み、特異的に段落を設けた。

「北條時輔」(宝治二(一二四八)年~文永九(一二七二)年)は時頼の長男。既注であるが、再掲しておく。母は時頼側室の、出雲国の御家人三処(みところ)氏の娘、讃岐局で、三歳年下の異母弟時宗は時頼の次男ながら、母が時頼正室の北条重時の娘、葛西殿であったことから嫡男とされた(元の名は時利であったが、十三歳の正元二(一二六〇)年正月に時輔と改名しているが、これは父時頼の命によるものと考えられており、それは時宗を「輔(たす)く」の意が露わであった)。文永元(一二六四)年十月、十七歳で六波羅探題南方となる(この二ヶ月前に十四歳の時宗は連署に就任している)。文永五年、時宗が執権を継ぐが、これに内心不満を抱き、蒙古・高麗の使者との交渉に於いても時宗と対立した。文永九(一二七二)年二月十一日に鎌倉で反得宗勢力であった北条時章(名越流北条氏初代北条朝時の子)・教時兄弟が謀反を理由に誅殺されると(本章では時制順序が逆に見えるような書き方になっているので注意)、その四日後の十五日、京都の時輔も同じく謀反を図ったとして執権時宗による追討を受け、六波羅北方の北条義宗(先の第六代執権北条長時嫡男。赤橋流北条氏第二代当主)によって襲撃され、誅殺された(二月騒動)。享年二十五。吉野に逃れたとする説もある。

「同七年十一月」文永七(一二七〇)年であるが、「十一月」は「十二月」の誤り。この十二月二十日に惟康は源姓賜与されて臣籍降下し、正三位(「從三位」も誤り)・左近衛中将となった。征夷大将軍宣下は文永三(一二六六)年 七月に済んでいる。

「位署(ゐしよ)」官位・姓名の下賜が記された公文書。

「路次」私の趣味で「ろし」と清音で読んでおく。途中の沿道。

「先蹤(せんしよう)」先例。

「銛(きら)を研(みが)き」「銛」は刀剣類の鋭いことで、武家将軍の武具の鋭利にして厳かであることを形容していよう。

「異故(ことゆゑ)なく下向ありて」何の想定外の事態も発生することなく、滞りなく拝賀の式が済んで御所へお戻りになって。

「榮樂萬歳」雅楽の唐楽に隋の煬帝作とも唐の則天武后の作ともされる祝祭舞曲としての「万歳楽」があるが、ここは皆で歌っているところからは、当時一般で歌われた言祝ぎ歌の一つか。識者の御教授を乞う。

「酣興(かんきよう)」「酣」は「たけなわ」で「酣」自体が「酒を飲んで楽しむこと」や「ある事象の経過の中の最も盛んな時点」(後に「それを少し過ぎた時点」に転じた)を指す。ここは「感興の限り」の意でよい。

「この年」となると、文永七(一二七〇)年になるが、誤りで、元使として趙良弼らがモンゴル帝国への服属を命じる国書を携えて百人余りを引き連れて到来したのは、翌文永八年の九月十九日である。なお、これは既に五回目の使節団(前章の私の「菅原宰相長成」の注を参照)であり、そこを筆者は完全に省略してしまっているために、前条から見ると二度目のように見えてしまう。二度目から四度目の使節団とそれに対する幕府の処置については、ウィキの「元寇」を参照されたい。

「趙良弼」(一二一七年~一二八六年)は元のジュルチン族(女真人)出身の官僚。ィキの「趙良弼」によれば、『字は輔之。父は趙、母は女真人名門出身の蒲察氏で、その次男。本姓は朮要甲で、その一族は金に仕え、山本光朗によれば現代の極東ロシア沿海地方ウスリースク近辺に居住していたと考察されている。曾祖父の趙祚は金の鎮国大将軍で』、一一四二年『からの猛安・謀克の華北への集団移住の前後に、趙州賛皇県(河北省石家荘市)に移住した。漢人住民に「朮要甲Chu yao chia)」を似た発音の「趙家(Zhao jia)」と聞き間違えられたことから、趙姓を名乗るようになったとされる』。『金の対モンゴル抵抗戦では』、一二二六年から一二三二年の間に『趙良弼の父・兄・甥・従兄の』四人が戦死、『戦火を避けて母と共に放浪した。金の滅亡後』、十三『世紀のモンゴル帝国で唯一行われた』一二三八年の『選考(戊戌選試)に及第し、趙州教授となる』。一二五一年には『クビライの幕下へ推挙された』。『クビライの一時的失脚の時期には、廉希憲と商挺の下で陝西宣撫司の参議とな』るが、一二六〇年、『クビライに即位を勧め、再び陝西四川宣撫司の参議となる。渾都海の反乱では、汪惟正、劉黒馬と協議の上で関係者を処刑した。廉希憲と商挺はクビライの許可もなく処断したことを恐れ、謝罪の使者を出したが、趙良弼は使者に「全ての責任は自分にある」との書状を渡し、クビライはこの件での追及はしなかった。廉希憲と商挺が謀反を企んだと虚偽の告訴を受けた時には、その証人として告発者から指名されたが、激怒して恫喝するクビライに対してあくまでも』二人の忠節を訴えて『疑念を晴らし、告発者は処刑され』ている。一二七〇年に『高麗に置かれた屯田の経略使となり、日本への服属を命じる使節が失敗していることに対して、自らが使節となることをクビライに請い、それにあたり秘書監に任命された。この時、戦死した父兄』四人の『記念碑を建てることを願って許可されている』。ここに出る日本への五度目の使節団として大宰府へ来たり、四ヶ月ほど滞在し、返書は得られなかったものの、大宰府では返書の代わりとして、取り敢えず、日本人の使節団がクビライの下へと派遣することを決し、趙良弼もまた、この日本使らとともに帰還の途に就いている(この十二名から成る(「元史」の「日本傳」では二十六名)日本側の大宰府使節団は文永九(一二七二)年一月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問したが、元側は彼らの意図を元の保有する軍備の偵察と断じ、クビライは謁見を許さず、同じく再び高麗を経由して四月に帰国している。ここはウィキの「元寇」に拠る)。一二七二年には第六回目の『使節として再び日本に来訪し』、一年ほど『滞在の後』、帰国、この時、『クビライへ日本の国情を詳細に報告し、更に「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきが良いでしょう」と日本侵攻に反対し』ている。彼は『宋滅亡後の江南人の人材育成と採用も進言している』。一二八二年に病いで隠居、四年後に亡くなった。

「博多(はかたの)彌四郎」あたかも、この男一人が趙良弼に従って渡元してフビライに会見したかのように書いてあるが、大間違いである。前注に示した通り、この時は大宰府から日本人使節団が送られたのであり(但し、そこに博多弥四郎なり者がいなかったかどうかは断言出来ない)、ここにも混乱がある。これは思うに、第三回と第四回の元側の使節団に関わった日本人と混同している可能性が高い。ウィキの「元寇」を見ると、第三回は文永六(一二六九)年で、正使は第一回と同じヒズル(黒的)とし、高麗人の起居舎人潘阜らの案内で、総勢七十五名の使節団が対馬に上陸したものの、使節らは日本側から拒まれたため、対馬から先に進むことが出来ず、日本側と喧嘩になった際に、対馬の島民であった「塔二郎」と「弥二郎」という二名を捕らえ、これらとともにに帰還している。『クビライは、使節団が日本人を連れて帰ってきたことに大いに喜び、塔二郎と弥二郎に「汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ」と述べた』。『クビライは塔二郎と弥二郎に、多くの宝物を下賜し、クビライの宮殿を観覧させたという』(下線やぶちゃん)。『宮殿を目の当たりにした二人は「臣ら、かつて天堂・仏刹ありと聞いていましたが、まさにこれのことをいうのでしょう」と感嘆した』と言い、『これを聞いたクビライは喜び、二人を首都・燕京(後の大都)の万寿山の玉殿や諸々の城も観覧させたという』。そして、元側の第四回使節団は、文永六(一二六九)年の九月に、まさにその捕えた「塔二郎」と「弥二郎」らを、首都燕京(後の大都)から『護送する名目で使者として高麗人の金有成・高柔らの使節が大宰府守護所に到来』、『今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した』とあるからである。この「北條九代記」の「彌四郎」と、この「彌二郎」、如何にも似ている名ではないか? 書かれてある「蒙古の王、既に彌四郎に對面し、通事(つうじ)を以て、樣樣、問答し、種々に饗(もてな)しつ〻、寶物(はふもつ)を與へて日本に送歸(おくりかへ)す」という内容と事実が合致してもいるのである。

「北條重時には孫武藏守長時の二男、治部大輔義宗、鎌倉より上洛し、六波羅の北の方に居て式部大輔時輔と兩六波羅となり、西國の事を取行(とりおこな)ひけり」これは、かの「二月騒動」の直前で文永八(一二七一)年十一月二十七日のことである。冒頭は、かの連署を勤めた故「北條重時には(=からは)孫」に当たるところの、の意。北条「義宗」(建長五(一二五三)年~建治三(一二七七)年)は第六代執権北条長時嫡男で赤橋流北条氏第二代当主。ここに出る通り、二月騒動の京方での征討を任されて、美事に時輔方を滅ぼした。ちなみにこの二月騒動の年に嫡子の久時が生まれており、五年後の建治二(一二七六)年)には鎌倉に戻り、翌年、評定衆に任ぜられるたが、その直後に享年二十五の若さで没している。

「櫛(くし)の子(こ)を引くが如く」「子」は「歯」に同じい。櫛の歯は一つ一つ、何度も何度も鋸で挽いて作るところから、物事が絶え間なく続くことの喩えである。

「九國二島(じとう)」九州及び壱岐・対馬の二島。

「纖芥(しんがい)」細かな芥(ごみ)。転じて、「ごく僅かな」ことの喩え。

「天下の政理(せいり)好惡(かうあく)の沙汰、更に口外に出す者なし」天下の正しき御政道について、その良し悪しを論(あげつら)うような議論をする者は、これ、一人としていなかった。

「狼藉亡命の輩(やから)」乱暴狼藉を働いた不届き者や、ある種の乱や犯罪或いは生活上の困窮などから、本来の一族や支配地から抜け、逃亡した者ども。

「賴(たより)なく」頼りとするような者もおらず。

「借す」「貸す」。江戸時代まで「貸借」の両字は互換性があった。

「在々所々」あちらでもこちらでも。どこでも。

「萬戸(ばんこ)」総ての家屋屋敷。

「樞(とぼそ)を閉ぢず」枢(くるる)を落して戸締りなどする必要がないほどの安全であることを言う。

「女、童(わらは)、商人(あきんど)までも」か弱い女子どもは勿論、大金を持っている商人に対しても。

「手を指す者」悪事をせんと手を出す者。

「淳朴厚篤」かざりけがなく素直であり、人情にあつく誠実なこと。

「同九年正月に、惟康、從二位に叙せられ、中將は元の如し」文永九(一二七二)年一月五日。

「同二月十五日、鎌倉より早馬を立てて、六波羅の北の方、北條義宗の許へ告來(つげきた)る事あり」既に述べた通り、実はこの四日前の二月十一日に、まず鎌倉で名越時章・教時兄弟が得宗被官である四方田時綱ら御内人によって誅殺され、前将軍宗尊親王側近の中御門実隆のお召しが禁ぜられて事実上の軟禁となった。そこから時宗は早馬を仕立て前年末に六波羅探題北方に就任していた北条義宗に対し、同南方の北条時輔の討伐命令が下されたのである。

「中間原(ちうげんばら)」身分の低い家来ども。雜兵(ぞうひょう)ら。「ばら」は「輩」で、人を表わす語に付いて二人以上同類がいることを示す複数形の接尾語。

「周章彷徨(あはてうろた)へ」四字へのルビ。

「物具(もの〻ぐ)取りて差向ふまでもなく」武器を執って攻めてきた者らに立ち向かう余裕もまるでなく。

「手間も入らず」瞬く間に。

「今は左(さ)もあれ、この後、又如何なる事かあるべき」「今現在は、かくもあっと言う間に方がついて静かにはなったれど、この後(あと)、また、一体、どんな兵乱が起こるのであろうか?」。民草の恐れ戦く心内語である。

「足を翹(つまだ)て」爪先立って。これからずっと先をおっかなびっくり覗くような姿勢、心が不安定で穏やかでないことを譬えるのであろう。

「忽に」「たちまちに」。

「左近〔の〕大夫公時」北条(名越)公時(嘉禎元(一二三五)年~永仁二(一二九五)年)は年生まれ。二月騒動で誅殺された名越時章(ときあきら)の子。弓と鞠に優れ、御鞠奉行となり、文永二(一二六五)年には引付衆となっていた。この時、父と叔父教時が時宗方に討たれたが、この公時は叛意なしと認められて縁座を免れ、しかも翌年には評定衆に昇り、その後も引付頭人・執奏を勤めているから、以下の「一人も泄(もら)さず討取(うちと)つたり」は嘘。恐らく筆者は父時章と誤認したのであろう

「中務〔の〕大輔教時」既出既注

「落居(らくきよ)」落着。

「鬼(き)」悪しき企みを罰せずにはおかぬ恐ろしい鬼神。

「運を計り、命を待つ」自己に与えられた運命を冷静に認識し、且つ、天命を心穏やかにして待つ。

「中御門〔の〕左中將實隆」前将軍宗尊親王の側近。それ以外の事蹟は不詳。ここ以下のロケーションは京都。

「その方樣(かたさま)の人」実隆の一家の者たち。

「武家の人々」幕府方。

「何程の事かあるべき」何をしたというほどのこともなく、また、そのような権力や人脈も持ち備えている大物でもなかろうからに。

「宥免(いうめん)」赦免。]

譚海 卷之二 弓つるの音幷二またのおほばこ鏡面怪物の事

 

弓つるの音幷二またのおほばこ鏡面怪物の事

○狐狸のたぐひは弓(ゆ)つるの音を殊に嫌ふ也。小兒などの寢おびれたるをまじなふにも蟇目(ひきめ)の音よし、但(ただし)弓(ゆみ)なき時は竹に弦(つる)かけて引(ひき)ならしてもよき也。又ある弓術の書の傳に、車前(をうばこ)の實の二また成(なる)あらば、蔭ぼしにして大切にとり收(をさめ)をくべし、それを燈心(とうしん)のかわりにして燈(ひ)を點ずる時は、恠物(あやしのもの)かたちをかくす事あたはずと、ひきめの書にありといへり。また八月十五夜明月に向(むかひ)て、水晶にて取(とり)たる水を持(もち)て、鏡のおもてに恠物の顏を書(かき)、鏡をとぎあげをさめをく、うちみる時は常の鏡の如くなれども、向ふ時は人の顏そのかける恠物のかほに成(なり)うつりてみゆるといへり。

[やぶちゃん注:目次の「怪物」(これも私は「あやしのもの」と訓じておく)の「怪」はママ。

「おほばこ」「車前(をうばこ)」(歴史的仮名遣は前者が正しい)車前草。相撲取り草。ほれ! 小さな時、やった、あれだよ! 地味なぶつぶつした花のついた柄を根本から取って、二つ折りにし、二人で互いに引っかけて引っ張り合い、どちらが切れないかを競ったあの「おおばこ相撲」の、シソ目オオバコ科オオバコ属オオバコ Plantago asiatica だよ! ウィキの「オオバコによれば、風媒花で、春から秋かけて一〇~三〇センチの『長さの花茎を出し、花は花茎の頂に長い緑色の穂に密につき、白色もしくは淡い紫色の小花が下から上に向かって順次咲く』。萼(がく)は四枚、花冠はロート状で四裂する。『雌性先熟で、雌しべが先にしおれてから、長くて目立つ白い雄しべが出る』。『果実は蒴果(さくか)』(雌しべの中が放射状に複数の仕切りで分けられ、果実が成熟した時は、それぞれの部屋ごとに縦に割れ目を生じるもの。スミレなどがそれ)『で楕円形をしており、熟す』と、『上半分が帽子状に取れて、中から』四~六個『の種子が現れる』。『種子は果実からこぼれ落ちるほか、雨などに濡れると』、『ゼリー状の粘液を出し、動物など他のものに付いて遠くに運ばれる』とある。また、『オオバコの成熟種子を車前子(しゃぜんし)、花期の全草を天日で乾燥したものを車前草(しゃぜんそう)と』呼称し、これはれっきとした『日本薬局方に収録された生薬で』あり、『葉だけを乾燥させたものを車前葉(しゃぜんよう)という。成分として、花期の茎と葉に、配糖体のアウクビン、ウルソール酸を含み、種子にコハク酸、アデニン、コリン、脂肪酸を含む』。『種子、全草とも煎じて用いられ、服用すると咳止め、たんきり、下痢止め、消炎、むくみの利尿に効用があるとされ』。『また、葉も種子も熱を冷ます効用がある』とある。

「鏡面怪物」所謂、魔鏡であるが、これでは何故、それが魔境になるのか、よく判らぬ。作鏡の際に鏡面構造自体に作為を施した確信犯のそれについては、ウィキの鏡」を参照されたい。

「弓(ゆ)つるの音」邪気を払う呪(まじな)いとして弓の弦を鳴らす「絃打(つるう)ち」「鳴弦(めいげん)」である。古くは天皇の入浴・病気や皇子の誕生などの際に行われ、後には(教え子諸君は授業の「源氏物語」の「夕顔」でもやったように)貴族や武家に於いて、日常の夜間警護などでも鳴らされた。

「小兒などの寢おびれたる」小児の「夜泣き」や「夜驚症」(所謂、「寝ぼけ」の激しいものであるが、夢遊病様状態を呈する場合もある)のことであろう。

「蟇目」は朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったもの。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際、この穴から空気が入って独特の音を発し、それが妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。ここは従って、弓弦(ゆづる)の音ではなく、飛ばす、その鏑矢の発する音を指しているので注意が必要。

「車前(をうばこ)の實の二また成(なる)あらば」オオバコの実はかなり小さいし、その二股になった奇形種子を探すのは、かなり大変。しかし、そういう稀なものだからこそ、強い呪力を持つと考えたんだろうなぁ。

「ひきめの書」そうした鳴弦や蟇目と同様の呪力を持つものとして参考に添えられているのであろう。なお、検索中、古式の蟇目の正式な作法について詳細に記した驚くべき古記録蟇目書」(PDF)なるものを発見した! 必見!! 必ダウンロード!!!

「水晶にて」水晶で出来た容器。これしかし、水晶自体で鏡面を怪物の顔に削らない限りは、魔鏡にはならぬと思うのだが?]

甲子夜話卷之三 8 御鷹匠頭内山七兵衞の事

 

3-8 御鷹匠頭内山七兵衞の事

御鷹匠頭の内山七兵衞は質朴の人なり。此人に感じ入たることあるは、常々鳥肉は嫌と稱して、人前に於て喫することなし。人も亦實事と思へり。其實は嫌にてはなし。組の者野先へ出る每に、必御鷹の得たる鳧雁を持贈ることなり。夫を防んとて、天性好まぬことに、わざと仕成したるにて有ける。

■やぶちゃんの呟き

「御鷹匠頭」既出既注であるが、再掲しておく。定員二名で千石以上の旗本の世襲とされた。江戸後期は戸田家と内山家のみで、幕末には戸田家一家に限られた(次注の安田寛子氏の論文参照)。

「内山七兵衞」静山と同時代人とすれば、安田寛子氏の論文「近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(PDF)に出る内山善三郎(通称・内山七兵衛)であろうかと思われる。なお、この内山家の先祖の一人である可能性が高い、内山七兵衛永貞(通称の一致、及び一時期の鷹匠頭としての内山家の嗣子が本名に「永」の字を用いていることが確認出来る)という人物が第五代将軍徳川綱吉の治世にいるが、この人は何と、かの数学者関孝和(寛永一九(一六四二)年~宝永五(一七〇八)年)の実兄であり、この兄弟、かの上野寛永寺根本中堂の造営という綱吉政権の大事業に深く関与していたことが、鈴木武雄論文「駿遠静岡における関孝和と内山七兵衛永貞の消息(PDF)で明らかにされている。

「嫌」「きらひ」。

「喫する」「きつする」。食する。

「組の者」自分の支配の鷹匠及び鷹狩の下役の者ども。

「野先」私の趣味で「のづら」と訓じておく。

「必」「かならず」。

「鳧雁」「ふがん」と読む。鴨と雁(かり)。孰れも鳥綱カモ目カモ亜目カモ科マガモ属 Anas の仲間。同属の内で体が小さく、首があまり長くなく、冬羽では雄と雌で色彩が異なるものをかなり古くから「鴨」と称し、そうでない大型種を「雁」と区別したりするが、これは科学的な鳥類分類学上の群ではない。

「持贈る」「もちおくる」。鷹匠頭である内山に、である。上司である彼に目を懸けて貰うため、将軍より分配下賜された獲物を、これまた、贈答として部下が彼に差し出すのである。これは違法ではないが、如何にもな、賂(まいない)ではある。

「夫を防んとて」「それをふせがんとて」。

「仕成したる」「しなしたる」。そういう嘘の嗜好をわざと流して、これ見よがしな賂の贈答を一切受けぬようにしたのであった。

諸國百物語卷之五 十六 松ざか屋甚太夫が女ばううはなりうちの事

 

     十六 松ざか屋甚太夫(ぢんだゆふ)が女ばううはなりうちの事

 

 京むろ町、中立(なかだち)うり邊に、うとくなる後家ありけるが、子をもたざりけるゆへ、いもうとの子を養子してそだてけるに、せいじんして、みめかたち、うつくしかりければ、あなたこなたより、こいしのびける。そのあたりに、松ざかや甚太夫と云ふ人あり。此内儀、りんきふかき女ばうにて、甚太夫、ほかへいづれば、人をつけてあるかせける。甚太夫、あまりうるさくおもひて、いとまをいだしける。そのあとへ、かの後家のむすめをよびけるが、ほどなく、くはいにんして産所にゐけるに、七夜(しちや)のよの事なるに、座敷のつま戸、きりきりと二度なりしを、内儀は、おいち、と、いひけるが、ふしぎにおもひ、みければ、十八、九の女ぼう、白きかたびらに、しろき帶をして、かみをさばき、ほそまゆをして、かの、おいちを見て、にこにこと、わらふとおもへば、又、きつと、にらみける。おいち、おどろき、

「わつ」

といひてめをまわしければ、人々、おどろき、よびいけなどして、やうやう氣つきける。そのゝち、三十日ばかりすぎて、おいち、ねていられたる所へきて、

「いつぞやは、はじめて御めにかゝり候ふ。さても、うらめしき御人や、うらみを申しにまいりたり」

とて、せなかを、ほとほと、たゝき、うせけるが、それより、おいち、わづらひつきて、つゐに、あひはてけると也。はじめの女ばうのしうしんきたりけると也。

 

[やぶちゃん注:「うはなりうち」「後妻打(うはなりう)ち」。行動としては、中世から江戸時代にかけて行われた民俗風習の一種で、夫がそれまでの妻を離縁して後妻と結婚した際(一般には先妻との離別から一ヶ月以内に前夫が後妻を迎えた場合)、先妻が後妻に予告をした上、後妻の家を襲うものを指す。ウィキの「後妻打ち」に詳しい。但し、ここはその生霊版であり、このタイプは既に「卷之一 八 後妻(うはなり)うちの事付タリ法花經(ほけきやう)の功力(くりき)」で登場し、同系統の話柄は本「諸國百物語」の他の話柄にも多数、内包されている。

「松ざか屋甚太夫」不詳。現在の「松坂屋」は尾張名古屋が本拠地で、ルーツも伊勢商人であるから、無関係であろう。

「京むろ町、中立(なかだち)うり」現在の京都府京都市上京区中立売通。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「うとく」「有德」。裕福。

「りんき」「悋気」。嫉妬心。

「人をつけてあるかせける」見守り役をつけて歩かせ、女と接触しないように警戒させた。

「いとまをいだしける」「暇を出だしける」。離縁した。

「くはいにん」「懷妊」。

「産所」「さんじよ」。出産をするために拵えた場所。出産の際の血の穢れを忌んで特別に作った。産屋(うぶや)。

「七夜(しちや)」お七夜(おしちや)。子供が生まれて七日目の祝いの夜。

「つま戸」「褄戸」。開き戸。

「きりきり」枢(くるる)の軋るオノマトペイア。

「内儀は、おいち、と、いひけるが」内儀の名は「おいち」と言ったが。わざわざ名を挿入形で示すのは特異点。しかし、どうも流れが乱れてしまい、よろしくない。最初の一文で出しておくべきだった。

「白きかたびらに、しろき帶をして、かみをさばき、ほそまゆをして、かの、おいちを見て、にこにことわらふとおもへば、又、きつと、にらみける」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では「ほそまゆをして」(細眉をして)に注して、『細い眉を描いて、以上は、すべて呪詛する女の姿である』とある。『以上』とあるが、以下の表情を急激に変ずるのも、まさに、呪術のそれである。

「よびいけ」「呼び生け」。既出既注。気絶したり、仮死状態になったり、危篤の際に行う、民俗習慣としての名を叫んで離れ行こうとする霊魂を呼び返して蘇生させる「魂(たま)呼び」である。

「ねていられたる」「寢て居(ゐ)られたる」。歴史的仮名遣は誤りで、敬語があるのもおかしい。

「ほとほと」前出の「江戸怪談集 下」の脚注では、『打ち叩く音の形容。「丁々(ちょうちょう)ホトホト」(『書言字考用集』)』とある。「とんとん」ではなく、「パン! パパン!」ぐらいをイメージしたほうがよいオノマトペイアである。

「はじめの女ばうのしうしんきたりける」「初めの女房の執心、來りける」。冒頭に述べた通り、これは離別後に死んだとは書いてないから、先妻の妬心の強気によって生じた生霊による「後妻打ち」なのである。]

2016/11/25

本日閉店

本日髪結に参るに依つてこれにて閉店 心朽窩主人敬白

譚海 卷之二 雲州家士寺西文左衞門事

 

雲州家士寺西文左衞門事

 

○雲州の太守淨免院殿と申せし比(ころ)、寺西文左衞門といふ家士あり、弓術に勝(すぐれ)たるもの也。秋の比(ころ)松茸をとりに同僚と山に遊び、歸路に及(およん)で供の小者(こもの)角平(かくへい)と云(いふ)一人みへざるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、いづれも聲を立(たて)角平が名を呼(よび)けるに、遙かなる山奧にて時々答(こたふ)るやうに聞(きき)なせり。又呼べは答る事なし、只(ただ)此(この)文左衞門聲をたてゝ呼(よぶ)とき斗(ばかり)答る聲のせしかば、漸(やうやう)みなみな不審を立(たて)、とかく文左一人呼(よび)みられよとて、外の人々はよばするに、文左衞門一人聲をつゞけて角平々々とよぶ時、段々答るこゑ近く成(なり)て、終に其所に出きたれり。扨もいかなる事にて、遠方には後れ居たるぞと尋(たづね)ければ、角平申けるは、御跡へさがり便用を達し候所へ、誰ともなく高貴の人數輩(すはい)まいられ招き候ゆへ、其前へかしこまりたる時、我等あたまを牢(かた)く押へてうごかされず、色々詫(わび)候へども承引致されず候所、皆樣の御聲にて呼(よば)せられ候ゆへ、答へ申さんとすれば猶あたまをおさへて、答へせずに居よと申され候ゆへ、力無く居候内(うち)、文左衞門樣の御聲にて呼せられ候時、件(くだん)の貴人迷惑いたされ候樣子にて、答へいたせと申され候ゆへ、聲を立(たて)いらへ致(いたし)候。文左衞門樣きびしく呼せられ候時、此人申され候は、文左衞門が呼るゝにはこまりたり、答せよと申され、又申され候は扨々文左衞門がつる音は今も耳にあるやうにてこゝろよからぬ事哉(かな)、彼(か)れにかく呼るゝこそこまりたれとて、度々よばせられ候時、今は力およばずゆるし返すぞとて放され候ゆへ、うれしくてやうやう追付(おひつき)奉りぬとかたりぬ、不思議成(なる)事也(なり)。此人弓術勝れたるゆへ加樣(かやう)の妙もあり、狐狸などの此小者をたぶらかさんとはかりたる事にや。

[やぶちゃん注:「雲州の太守淨免院殿」底本の竹内利美氏の補註に、『「続藩翰譜」によると、天明以前の松前藩主にこの法名を持つものはいない』とある。

「寺西文左衞門」不詳。

「外の人々はよばするに」ママ。原典の「外の人々はよばずするに」の脱字か。

「便用」小便であろう。

「牢(かた)く」「堅く」。

「つる音」弓を射た際の弦(つる)音。]

甲子夜話卷之三 7 津輕領三馬屋渡の事

 
3-7 津輕領三馬屋渡の事

鳥越邸の隣家川口久助は、當御代替のとき陸奧國の巡見に赴し人なり。一日、予陸奧より蝦夷に渡る海路のさがしさを問ければ、答に津輕領の三馬屋より船出し、松前に着とき、船出せし日は風殊に強く吹て浪高かりしまゝ、日和惡かるべしと言に、船子の言に、此渡りに潮道三處あり。潮急にして濟ること難し。日和なれば船潮の爲に流漂て渡ることを得ず。因てこの如き風力にて濟と言しが、いかにも沖へ出、かの急潮の所に至りては、さしも大なる船のさかしまに湧かへり、流行く巨浪に堪かぬべくありしが、強風に吹ぬかれて、その浪を凌、三處の難所を濟り着たり。舟中の苦は云計なしと。かの急潮の所は、たつぴ、中の汐、白上といふなり。又松前の白上山に登り、海面を臨見るに、三の潮道、海面に分り見えて、その潮行のところ、海より隆くあがりて見ゆ。いかにも海底に危石嶮嚴のあるゆへ、海潮もこの如きやと云り。西の國の海路には見聞せざる事なり。

■やぶちゃんの呟き

「津輕領三馬屋渡」底本の目次は「三馬屋」に『みうまや』とルビする。これは青森県東津軽郡の北西、津軽半島最北端に位置する三厩(みんまや)である。現在の行政地名は東津軽郡外ヶ浜町三厩。ここは蝦夷地へ渡る際の本土側の湊(みなと)であった。サイト「発祥の地コレクション」の「三厩村名発祥の地」によれば、ここは義経北行伝説の一つに挙げられる地で、現在の三厩港の西側にある義経寺の東に松前街道に面して「厩石(うまやいし)」と呼ばれる岩があり、その付近には「義経渡道之地」や「三厩村名発祥の地」という石碑が建っているとされ、以下、そこの「厩石の由来」の説明板が電子化されてある。以下に引かさせて頂く(コンマを読点にし、アラビア数字を漢数字に代え、一部の表記を変更した)。『文治五年(一一八九年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高舘で藤原秦衝に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた! 藤原秀衡の遺書(危険が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ,自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが,荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩、日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるように一心に祈願した。丁度満願の晩に、白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい」と云って消えた。翌朝厳上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました』。なお、その後にサイト編者によってここ三厩は『江戸時代になり蝦夷地の開発が進むにつれて、三厩は奥州街道の本州側の最終宿場町として重要な拠点となり、本陣・脇本陣が設置され、三厩湊は蝦夷地への中継地・風待ち場となり、また蝦夷地からの物資を取り扱う廻船問屋が軒を連ねる賑わいとなった』と記されてある。

「鳥越」不詳。江戸切絵図を精査すれば、判るとは思うが、その時間的余裕が私にはない。悪しからず。発見された方はお教え願えると、嬉しい。

「川口久助」地理学者で「西遊雑記」「東遊雑記」等の紀行や江戸近郊の地誌「四神地名録」で知られる古川古松軒(ふるかわこしょうけん 享保一一(一七二六)年~文化四(一八〇七)年)のウィキに、古川は天明七(一七八七)年に『東北地方を目指して旅立ったが、米価騰貴のため江戸の実子・松田魏丹宅に滞在し、時期を見計らっていた。翌年春、何らかの理由で水戸藩長久保赤水の知遇を得、急拵えで絵図を作り見せたところ、赤水も古松軒の実力を認め、以降親しく交流』、『赤水から水戸藩または柴野栗山を通じて』、『幕府巡見使の随員に採用され、巡見使藤波要人、川口久助、三枝十兵衛に従い』、『奥羽地方及び松前を巡』って、「東遊雑記」を著した、とある(下線やぶちゃん)。その旅程は同年五月六日に『江戸を出発、奥州街道を北上して陸奥国に入り、出羽国を通って』七月二十日に『松前に到着』(松前は現在の北海道南部の渡島総合振興局管内にある松前町で、渡島半島南西部に位置する)、八『月中旬まで滞在した後、陸奥国太平洋側を巡り、水戸街道経由で』十月十八日、『江戸に帰着した』とある。まず、この幕府巡見使川口久助が本記の人物であり、本内容も、その際の体験と断じてよい。

「當御代替のとき」天明七年は前年の徳川家治に死(天明六年八月二十五日)を受け、四月十五日に徳川家斉が正式に第十一代将軍となった年である。

「赴し」「おもむきし」。

「予」静山。

「さがしさ」「嶮しさ」「險しさ」で「嶮(けわ)しさ・嶮岨(けんそ)さ」或いは「危難」の意。

「問ければ」「とひければ」。

「答」「こたへ」。

「着とき」「着く時」。ここは三厩を船出して松前に着くまでの謂い。先の引用から松前到着は天明七(一七八七)年七月二十日で、これはグレゴリオ暦で九月一日に当たり、台風などの天候不順も疑われる。

「吹て」「ふきて」。

「日和惡かるべし」「ひよりあしかるべし」。川口が船頭に言った台詞。「船出するには、日和が如何にも悪かったようだなあ。」。

「言に」「いふに」。

「船子」「ふなこ」。船頭。

「此渡りに潮道三處あり」「このわたりに(は)しほみちみところあり」。この渡海のルート上には三通りの悪しき潮の流れがある。

「濟る」「わたる」。渡る。

「日和なれば」日和がよいと却って。

「潮の爲に」風よりもその三つの潮の流れが、これ、ひどく強く船に作用するために。

「流漂て」「ながれただよひて」。

「因てこの如き風力にて濟」「よつてこのごときふうりよくにてわたる」。だからこそ、逆に、このような悪しく見える風の折り、その潮に負けぬ強い風力によって渡るのだ、と船頭は言うのである。目から鱗。

「出」「いで」。

「急潮」「はやしほ」と訓じておく。

「湧かへり」「わきかへり」。船がピッチングすることを指すのであろう。

「流行く」「ながれゆく」。

「巨浪」「おほなみ」と訓じておく。

「堪かぬべくありしが」「たへ兼(か)ぬべくありしが」耐えかねる(沈没しそうな)ほどの有様であったが。

「吹ぬかれて」「ふきぬかれて」。

「凌」「しのぎ」。

「濟り着たり」「わたりつきたり」。

「云計なし」「いふばかりなし」。

「たつぴ」現在の本土側の青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜にある津軽半島の最北端の津軽海峡に突き出た岬、竜飛崎(たっぴざき)に由来する呼称であろうが、「龍が飛ぶ」はまさに速い潮に相応しい。

「中の汐」「中の潮」で、津軽海峡の三つの速い潮流の中央のそれを指すのであろう。

「白上」以下に出る蝦夷の松前の東にある「白上山」、現在の白神岳(北海道松前郡松前町。標高三五一メートル)及びその南端の白神岬に由来するものであろう。蝦夷側の本土から渡海する際の最後の急流である。

「臨見るに」「のぞみみるに」。

「潮道」「しほみち」。

「海面に分り見えて」海水温やプランクトンの違いによって、その三筋の海流の色が、肉眼でくっきりと分かれて見えるのである。

「その潮行のところ」ややおかしいが「そのしほ、ゆくのところ」と訓じておく。

「隆く」「たかく」。

「あがりて見ゆ」盛り上がっているように見えた。実際には潮の色の違いから、そのように見かけ上、見えたのであろう。

「危石嶮嚴」海底の暗礁が高く盛り上がっていること。海流が盛り上がって見えたことからの憶測であり、誤り。海図を確認したが、そのような海底からそそり立つように突き出た暗礁はない。但し、海底地形が潮流と関係していることは疑いないとは思われた。

「云り」「いへり」。

諸國百物語卷之三 十二 古狸さぶらひの女ばうにばけたる事 (アップし忘れを挿入)

百日目の計算が合わないので、調べて見たところが、以下を掲載し損なっていた。今日、公開して補う。これで百話目はきっぱり今月の晦日となる。僕の公開を日々御一緒に読まれてこられた方々、当日の怪異の出来(しゅったい)は自己責任として、覚悟されたい――❦ふふふ…………



     十二 古狸さぶらひの女ばうにばけたる事

 

 尾州にて二千石とるさぶらひ、さいあいの妻にはなれ、まいよ、この妻の事のみ、をもひ出だしてゐられけるが、ある夜、ともしびをゝき、まどろまれけるに、かのはてられたる内儀、いつものすがたにて、いかにもうつくしう、ひきつくろひ、さぶらひのねやにきたり、なつかしさうにして、よるの物をあけ、はいらんとす。さぶらひ、おどろき、

「死したるものゝ、きたる事、あるべきか」

とて、かの内儀をとつて引きよせ、三刀(かたな)さしければ、けすがごとくに、うせにけり。家來のものども、かけつけ、火をとぼし、こゝかしこと、たづぬれども、なに物もいず。夜あけて見れば、戸の樞(くるゝ)のあなに、すこし、血、つきてあり。ふしぎにおもひ、のりをしたいて、たづねみれば、屋敷のいぬいのすみ、藪のうちに、あなあり。これをほりて見ければ、としへたる狸、三刀(かたな)さゝれて、死しゐたりと也。

 

[やぶちゃん注:「尾州にて二千石とるさぶらひ」尾張藩で当初(本「諸國百物語」は江戸初期の設定話が多い)、二千石取りであった家臣をウィキの「尾張藩」で調べると、代々で国老中・名古屋城城代・江戸家老などを勤めた渡辺秀綱に始まる渡辺半十郎(新左衛門)家、毛利広盛に始まる毛利氏、土岐肥田氏分流で城代家老を勤めた肥田孫左衛門に始まる肥田氏、小田原北条氏家臣大道寺政繁次男の城代家老を勤めた大道寺直重に始まる大道寺氏などがいる。

「さいあいの妻にはなれ」「最愛の妻に離れ」死別による別離である。

「死したるものゝ、きたる事、あるべきか」この侍は(その判断は結果的に正しかったわけだが)死霊の存在を鼻っから否定している点で当時としては特異点である。

「なに物もいず」「何物も居(ゐ)ず」。歴史的仮名遣は誤り。

「戸の樞(くるゝ)のあな」この場合は、戸締まりのために引き戸の桟(さん)から敷居に差し込んで留める装置の、下の敷居に空けてある孔のこと。

「のり」血糊(ちのり)。

「したいて」「慕ひて」(歴史的仮名遣は誤り)。後を辿って。

「いぬい」「戌亥(乾)」。歴史的仮名遣は「いぬゐ」が正しい。北西。]

2016/11/24

私は

私は今は最早、「何をしたか」ではなく、「今何が出来るか」、という火急的痙攣行為状況以外に、感ずることは出来ない――

北條九代記 卷第十 蒙古牒書を日本に送る

 

      ○蒙古牒書を日本に送る

 

文永五年十二月、京都富小路(とみのこうぢ)新院の御所にして、一院五十の御賀あり。伶人、舞樂を奏し、終日の經營、善、盡し、美、盡せり。軈(やが)て御飾(おんかざり)を落し給ひ、法皇の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ふ。この比(ころ)、六合(りくがふ)、風、治(おさま)り、四海、浪、靜(しづか)にして、萬民淳化(じゆくわ)の惠(めぐみ)に歸して、京都邊鄙(へんぴ)、悉(ことごと)く太平の聲、洋々たり。一院、新院、今は叡慮も穩(おだやか)にて、姑射仙洞(こやせんとう)の綠蘿(りよくら)を分けて、洛中洛外の御幸(ごかう)、鳳車(ほうしや)の碾(きし)る音までも治(をさま)る御世(みよ)の例(ためし)とて、最(いと)徐(ゆるやか)にぞ聞えける。

斯る所に、蒙古大元の、狀書を日本に送り、筑紫の宰府(さいふ)に著岸(ちやくがん)す。卽ち、關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる。當今(たうぎん)、勅を下し、菅原(すがはらの)宰相長成(ながなり)に返簡(へんかん)を書(か〻)しめ、世尊寺(せそんじの)經朝(つねもとの)卿(きやう)、是を淸書す。然れども武家内談の評定あり。蒙古の書面、頗る無禮なりとて、返狀に及(およば)れず。昔、隋の大業三年に、日本朝貢(てうこう)の使者、国書を擎(さ〻)げて來れり、其文章に、「日出處(にちしゆつしよの)天子無ㇾ恙(つつがなき)耶(や)。日沒處(にちもつしよの)天子致ㇾ書(しよをいたす)」とあり。天皇、御覽(みそなは)れ給ひて、「天に二(ふたつ)の日なく、國に二の王なし。日沒處の天子とは何者そや」とて大に無禮を咎め給ひけり。今蒙古の狀書にも又、是、無禮の文章あり。返狀に及ばざる、誠に理(ことわり)ぞ、と聞えける。

 

[やぶちゃん注:特異的に二段に分けた。なお、前段は以下に示す通り、実際には行われていないことを見て来たかのように綴っている、本書でも痛恨の大きな瑕疵部分であり、後半も何だか、ヘンだぞ!(後注参照)

「牒書」「てふしよ(ちょうしょ)」本邦ではかつての奈良・平安時代には官府間に交わされる往復文書を指したが、ここは正式な返答を求めた(国外からの)公式文書の謂いである。

「文永五年」ユリウス暦一二六八年。

「京都富小路」

「新院」後深草院。

「一院五十の御賀あり」この後の「一院」後嵯峨院五十の慶賀のパートを筆者は「日本王代一覧」(慶安五(一六五二)年に成立した、若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めにより林羅山の息子林鵞峯によって編集された歴史書)及び「五代帝王物語」(鎌倉後期に書かれた編年体歴史物語。作者は未詳)によって記しているらしいが(湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)に拠る)、一九七九年教育社刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記(下)」には、この部分の現代語訳の直下に、『(事実は蒙古の国書が伝えられたため行われなかった)』とある。

「軈(やが)て」そのまま。まもなく。

「御飾(おんかざり)を落し給ひ、法皇の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ふ」あたかも、この五十の慶賀の式の場かその直後に出家し、法皇となったかのようにしか読めないが、これも誤りである。後嵯峨上皇はこれより(そもそもこの慶賀は行われていないのだから、こう書くこと自体が無意味なのであるが)二ヶ月前の文永五(一二六八)年十月に出家して法皇となっている

「六合(りくがふ)」天と地と四方。天下。

「淳化(じゆくわ)」手厚く教え、感化すること。邪念を取り去ること。

「姑射仙洞(こやせんとう)」上皇・法皇の御所。仙洞御所。「姑射山」(こやさん)は元は中国で不老不死の仙人が住むという藐姑射(はこや)山のことを指した。「仙洞御所」というのは、それを語源とした長寿を言祝ぐ尊称なのである。

「緑蘿(りよくら)を分けて」色鮮やかな生き生きと繁茂する蔦を父子で仲良く分け合って。

「鳳車(ほうしや)」前出の増淵訳では、割注で『屋根の頂に金銅の鳳凰を付けた牛車』とある。ここは上皇や法皇がお出かけになる際に乗用されるそれを指す。

「碾(きし)る」「軋る」。

「筑紫の宰府(さいふ)に著岸す」増淵訳の割注によれば、筑紫の大宰府に元(高麗王経由で使者は高麗の役人潘阜ら。前章参照)からの書状が届いたのは同文永五(一二六八)年一月であった。

「關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる」めんどくさいルートであるが、仕方がない。

「當今(たうぎん)」当時の今上天皇である亀山天皇(後深草上皇の実弟であるが、父後嵯峨法皇が弟を寵愛、彼を「治天の君」としたことに実は強い不満を抱いていた。後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との、幕府の目論み通りの対立が生じる大元の端緒は実はここに始まっている)。

「筑紫の宰府(さいふ)に著岸す」増淵訳の割注によれば、筑紫の大宰府に元(高麗王経由で使者は高麗の役人潘阜ら。前章参照)からの書状が届いたのは同文永五(一二六八)年一月であった。

「關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる」めんどくさいルートであるが、仕方がない。

「當今(たうぎん)」当時の今上天皇である亀山天皇(後深草上皇の実弟であるが、父後嵯峨法皇が弟を寵愛、彼を「治天の君」としたことに実は強い不満を抱いていた。後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との、幕府の目論み通りの対立が生じる大元の端緒は実はここに始まっている)。

「菅原(すがはらの)宰相長成(ながなり)」菅原(高辻)長成(元久二(一二〇五)年~弘安四(一二八一)年)は文章博士・侍読などを務めた。一応、菅原道真の末裔である。なお、この後の第四回の使節団が来た際(文永六(一二六九)年九月)、彼が起草したモンゴル帝国への服属要求を拒否する返書案がウィキの「元寇に現代語訳で載るので引いておく。

   《引用開始》

「事情を案ずるに、蒙古の号は今まで聞いたことがない。(中略)そもそも貴国はかつて我が国と人物の往来は無かった。

本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の情は無い。ところが由緒を顧みずに、我が国に凶器を用いようとしている。

(中略)聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と(国書で)称していながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。

およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本今皇帝(亀山天皇)の日嗣を受けるに至るまで(中略)ゆえに天皇の国土を昔から神国と号すのである。

知をもって競えるものでなく、力をもって争うことも出来ない、唯一無二の存在である。よく考えよ」

   《引用終了》

叙述から見て、「北條九代記」の筆者は、第一回の使節団と、この第四回を一緒くたにしているように私には感じられて仕方がない。

 

「返簡(へんかん)」返書。

「世尊寺(せそんじの)經朝(つねもとの)卿(きやう)」(建保三(一二一五)年~建治二(一二七六)年)は代々書家で名はせた世尊寺流九代の公卿で歌人。摂津守・左京権大夫などを経、正三位に至る。能書家として知られ、種々の書役を務めている。

「武家」鎌倉幕府。

「返狀に及れず」返書は幕府の意向で拒否することとしたのである。

「隋の大業三年」「大業」は「たいぎよう(たいぎょう)」で、隋の煬帝の治世の年号。西暦六〇七年。

「朝貢(てうこう)」外国人が来朝して朝廷に貢ぎ物を差し上げること。

「日出處(にちしゆつしよの)天子無ㇾ恙(つつがなき)耶(や)。日沒處(にちもつしよの)天子致ㇾ書(しよをいたす)」とあり。天皇。御覽(みそなは)れ給ひて、「天に二(ふたつ)の日なく、國に二の王なし。日沒處の天子とは何者そや」とて大に無禮を咎め給ひけり」先の湯浅氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、この後段部分も「日本王代一覧」「五代帝王物語」や「将軍記」(本書の筆者と目される浅井了意の作)に拠っているとされ、「八幡愚童訓」(鎌倉中後期に成立したと思われる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起)『(甲本)には、趙良弼が持参した牒状の内容が記されている』と注されてあるのだが(私は「八幡愚童訓」を所持しないので牒状の内容は確認出来ない)、この「北條九代記」記載、なんか? おかしくね? 逆だべよ! ウィキの「遣隋使」の「二回目」(まさに六〇七年)から引いておく。遣隋使の第二回は「日本書紀」に記載されており、推古一五(六〇七)年に『小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている』。『倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという』(下線やぶちゃん)。『なお、煬帝が立腹したのは俀王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている』。『小野妹子(中国名:蘇因高』『)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している』。『百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている』。『裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』に』以下のように、ある。

『「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」』

『「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境内安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』』。

『これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある』。『なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される』とある。「八幡愚童訓」を見る機会があれば、また加筆する。]

谷の響 四の卷 六 鬼に假裝して市中を騷がす

 

 六 鬼に假裝して市中を騷がす

 

 こも文化の末の頃、紺屋町に飴賣の三太と言へるものあり。七月の盆躍に鬼の形姿(かたち)にいでたゝんとて、身體に紅がらをぬり面をおそろしくいろどり、角をうゑたる髢(かつら)をかむり虎の皮の犢鼻褌(ふんどし)をしめたるが、元より長(たけ)高く肥太りて、眼と口はまことに大きく鼻はひしげたるものなれば、實の鬼とも見られたり。さるに此三太、下土手町の四ツ角にて酒に醉ひ喧嘩をしいだし、やうやうに逃げたれば後より追手の來りせまりて、鍛冶町の桶屋某が檐下(のきした)に有りし荼毘桶の中にかくれて、追ひかけし者はかゝるべしとはしらざれば、たつぬる隈もあらずして手をむなしくして反りけり。

 三太はやゝ心落付思はず荼毘桶の中にありて眠りけるが、早くも夜の明はなれてあたりの桶屋ども業をいとなむ音に目をさまし、脱(にげ)出んとしてそと蓋(ふた)をあけ、あたりを見れば往來の人多くして出るによしなし、又しばししてあけて見てもいよいよ往來多ければ、すきをうかゞはんため四五度もふたをあけたりしが、この時向ひなる桶屋の妻小兒にいばりをさせながらふと此方を見れば、荼毘桶のふたおのづとあかりていとおそろしき鬼の首をさし出せるに膽をつぶし、家内の若者どもに斯くと知らすれば、若者ともゝいぶかりながら氣を付けて見て居るに、果して鬼の首の出でたれば皆々おどろき、ひそかに近所の若者どもと示し合せ、手々に棒をひつさげ引出して打殺さんとて、十四五人のものこの荼毘桶を取りかこみ手をおろさんとひしめきけるを、三太は内にて樣子を聞ききてんの才を出し、わつと一聲大音に叫び大手をひろげて出でたれば、さすがの者どもこの一聲に氣を呑まれて思はず後へ逃げされり。

 三太は玆ぞと脱出たるに、それが通りの親方町・元寺町にて赤鬼は出にしとて往來何となくさわぎたるに、この鍛冶町の若者ども棒杠木(ちぎりき)にて追ひ來り、鬼や見ざりし赤鬼や來らざりしと口々にわめきたるに、いよいよ大騷ぎとなり大勢つどひて追ひかくれば、鬼はいたく苦しみて寺小路なる叔母がもとに會釋もなくのかのかと入りたるに、叔母も家内も仰天し一步一趹(こけつまろびつ)外面(とのも)へ逃出し、鬼よ鬼よとわなわなしけるに、いよいよ人がむれ來つれば役筋の人押とゝめ、驚く鬼をひつとらへて高手小手にくゝりあげ、元寺町にあづけて吟味をなしたるに、鬼はおそれて有し事ともを聞え上げたるに、役筋の人も腹をかゝへるばかりなり。されどさしたる科もあらざれば、市中をまわして御ゆるしになりしとなり。

 

[やぶちゃん注:「谷の響」では珍しい徹底した滑稽譚で、まことに市井の人々の姿や声が生き生きと写されていて、素晴らしい話柄となっている。最後にお役人さえ腹を抱えて大笑いするのが目に見えるようではないか。

「文化の末の頃」文化は一八〇四年から一八一八年まで。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「飴賣」「あめうり」。

「盆躍」「ぼんをどり」。

「身體」こで「からだ」と訓じておく。

「紅がら」「紅殻」。ベンガラ(オラン語:Bengala)。インドのベンガル地方で産したことから。当て字で、「弁柄」とも書く。赤色顔料の一つ。酸化鉄を主成分とする鉱物顔料。

「面」「おもて」。顔面。

「髢(かつら)」「髢」(音「ダイ・テイ」)は本来は訓で「かもじ」と読み、婦人の髪に副え加える入れ髪を指す。

「鍛冶町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「荼毘桶」「だびをけ」或いはこれで「かんをけ」と当て読みしているかも知れぬ。死者を入れる座棺の火葬用の棺桶。

「たつぬる隈」ママ。「隈」は「くま」。探すべき暗がり。物蔭。

「反りけり」「かへりけり」。「歸りけり」。

「落付」「おちつき」。

「思はず荼毘桶の中にありて眠りけるが」ここで、しかも棺桶の中で寝るというのが、馬鹿三太でしょうが!

「明はなれて」「あけはなれて」。すっかり明け切って。

「業」「わざ」。仕事。

「脱(にげ)出ん」「にげいでん」。

「そと」そっと。

「いばり」小便。

「此方」「こなた」。

「あかりて」「あがりて」。「上がりて」であろう。

「膽」「きも」。

「きてん」「機轉」。

「玆ぞ」「ここぞ」。

「脱出たるに」「にげいでたるに」。

「それが通りの」そこが通りの並びにある。

「親方町」現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。鍛冶町に接した北側。

「元寺町」現存。親方町に接したさらに北のここ(グーグル・マップ・データ)。

「杠木(ちぎりき)」二字へのルビ。「杠」は「梃(てこ)」や「ゆずりは(ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum)」の訓があるが、それ以外に「旗竿」や「一本橋」の意があるので、ここは普通の棒よりもやや長めのそれを指すものと採る。

「寺小路」現在の弘前市元寺町小路(もとてらまちこうじ)であろう。(グーグル・マップ・データ)。先の元寺町の北部の東に接しており、話柄展開上の三太の逃走ルートとしても全く滞りがない。

「一步一趹(こけつまろびつ)」四字へのルビ。

「役筋の人」町同心か、その配下の岡っ引きや辻番の者。

「押とゝめ」「おしとどめ」。押さえつけ。

「高手小手」「たかてこて」。両手を後ろに回して首から肘・手首に繩をかけ、厳重に縛り上げること。

「科」「とが」。

「市中をまわして御ゆるしになりしとなり」ここがダメ押しの大笑いである。鬼の完全装備の恰好で雁字搦めにされた飴売りが、ただただゆっくらと御城下を「見せしめ」に引き回しにされるのである。それが彼への唯一の処罰であって、その後は解き放しとなったのである。弘前の街にこだまする庶民の笑い声が本当に楽しい。このコーダこそが、「谷の響」中の喜劇的特異点、「凸」である。]

谷の響 四の卷 五 狂女寺中を騷かす

 

 五 狂女寺中を騷かす

 

 文化十二三年の頃、弘前の禪寺常源寺の檀家夫なるものゝ老母、生付かたましくやぶさかなるものなるが、いとすくやかにして病めることなく、若年より一度も寺に參詣(まいり)たることなかりしなり。さるに六十有餘になりて初めて病つき、次第次第におもりて死期(ご)近くなりければ、後世のほどおそろしくや思ひけん、この檀那寺なる住職によりて血脈をこはれしに、和尚も不便におもひて明日こそしたゝめ遣すべしとてうべないけり。去に其夜八ツのころしきりに玄關の戸にさわる音の聞えければ、和尚あやしみこはきはめて其の老母なるべし。さこそ後生も苦しからん、いざ法をさづけて得道なさしむべしとて、弟子の小僧二人と一個(ひとり)の旅僧のかゝれるを呼起し、しかしかの由縁を言ひ聞かせみな法衣に改めて居るうち、又もあらあらしく戸を押動してやまざれば、今宵するうち少時(しばし)待てよとて、佛前に燈明を點じ香をたきてしづかに經文を誦したるに、いやましあらく戸にあたるからに、旅僧も小僧もいたくおそれ、すゝみて戸をあくることをなし得ず。

 かゝるからに和尚自ら鍵をはづしてあけたるに、白きものを着たる女のおどろに髮をふりみだし、欵(わつ)とさけんではしり入り其まゝ佛前の燈明を吹き消し、花瓶香爐を投ちらし座敷墓所の差別なく猛り狂ひてかけまわりしに、小僧も旅僧もたえ入りて和尚もしばしは腰を拔かしてありけるが、さすがは老僧なれば氣をしづめて高やかに經をよみあげ居たりしが、このさわぎに臺所に寢たる納所僕(やつこ)も眼をさませば、幽靈は未た狂ひて膳棚をちらし飯をまきちらして有けるに、僕は元より不惕(ふてき)の者にしあれば飛かゝりて取押へ、火を燈してよく見るに某町なる狂女にてありければ、みな苦笑してやみたりしはいと笑止なる事共なり。程すぎて此和尚、青海源助といひる人に語りしとて、この源助の咄なりき。

[やぶちゃん注:怪談風実録で真相明かして呵々大笑の大団円というやつで、この独特のオチは、ブットビの公案みたようで、禅寺なればこそという気も私はする。

「文化十二三年」一八一五、一八一六年。

「常源寺」複数回既出既注。再掲しておく。底本の森山氏の補註によれば、『弘前市西茂森町。曹洞宗白花山常源寺。永禄六年開基という。寺禄三十石』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)

「夫」「をとこ」と訓じておく。

「生付」「うまれつき」。

「かたましく」「かたまし」は「かだまし」とも濁音化し、「奸し・姧し・佞し」などと書いて、動詞「奸(かだ)む」の形容詞形である。「心が拗(ねじ)けている・性質が素直でない」の意。

「やぶさかなるもの」思い切りの悪い、じくじくした捻(ひね)くれ者。

「すくやかにして」健やかで。

「六十有餘になりて初めて病つき」現在時制を「文化十二三年」としているから、彼女は宝暦五(一七五五)年以前の生まれである。

「死期(ご)」「しご」。

「後世」「ごぜ」。

「血脈」「けちみやく」と読みたい。在家の信徒の内でも受戒者として認めた者にのみ授ける法門相承の系譜。死後、棺に納める。

「こはれしに」「乞はれしに」。

「したゝめ」「認め」。

「うべないけり」「諾(うべな)ひけり」。歴史的仮名遣は誤り。同意した。

「八ツ」午前二時頃。

「さわる」ぶつかる。打ち当たる。

「和尚あやしみこはきはめて其の老母なるべし。さこそ後生も苦しからん、いざ法をさづけて得道なさしむべしとて」『和尚、怪しみ、「此(こ)は、極めて、其の老母(が血脈を待ち切れず來る)なるべし。さこそ(:それほど切羽詰まって)後生も苦しからん(:死後の仏罰の苦しきものと、これ、怖れ戦いておるに違いあるまい)。いざ、法(:血脈)を授(さづ)けて得道(とくだう:悟りを開くこと)なさしむべし。」とて』。

「一個(ひとり)の旅僧のかゝれるを」たまたま、修行行脚の途次、ここ常源寺を通り「かゝ」って、一宿を乞うて寝ていた一人の旅僧を。

「呼起し」「よびおこし」。

「しかしかの由縁」「しかしか」はママ。彼女についてのしかじかの理由。

「押動して」「おしうごかして」。

「今宵するうち少時(しばし)待てよ」「今宵、これより直ちに血脈を授けて遣わすによって暫し待たれい!」。

「欵(わつ)」何度も注しているが、これは恐らく「欸」の原文の誤記か、翻刻の誤りである。これでは「約款」の「款」の異体字で、意味が通らない(「親しみ」の意味があるが、それでもおかしい)。「欸」ならば、「ああつ!」で「怒る」「恨む」、或いはその声のオノマトペイアとなるからである。

「たえ入りて」「絶え入りて」。気絶して。小僧はまだしも、この旅僧、修行が足りんぞ!

「納所僕(やつこ)」「なつしよやつこ」で一語と採る。「納所」(なっしょ)は、狭義には禅寺に於いて金銭などの収支を扱う部署・部屋、或いはそうした会計実務を担当した僧侶を指すが、ここでは広義の、寺務雑務を取り仕切っていた下僕の者を指している。

「幽靈」平尾は上手い。読む者は、かの不信心の老母自身か、或いはそれが急逝し、亡霊となって今、暴れ回っているなんどと錯覚して読んでいるわけだから、ここはこれがホラーの修辞では正しい語彙選びと言えるのである。

「未た」ママ。

「不惕(ふてき)」不敵。

「靑海」姓としての読みは「あおうみ」「あおみ」「おうみ」「おおみ」「せいかい」「せいみ」「せいがい」等。

「いひる」ママ。「いへる」の原典の誤り。]

谷の響 四の卷 四 大毒蟲

 

 四 大毒蟲

 

 往ぬる戊午の年の七月、花田某と言へる人邸裏(せと)を廻りけるに、何やらん小さき蟲ひとつ飛び來りて口の上に着きたるが、乍(さな)がら針にてさゝるゝごとくなれば、そのまゝ手にて拂ひ除けしに、忽疼痛(いたみ)たへがたく見る見る頰へ腫れまはり、又拂ひ除けし手にてあたまをなづるに、薄荷(はつか)の汁を着けたるごとくざらめく氣味あり。又指の先もかくのごとくなれば、奈何(いか)なる事をとあやしみ、井に水をつりて二三度あみたるうち、熱おこりめまひしてそのまゝ絶朴(たふれ)て前後をしらず。家内こを見ておとろきさわぎ、御番醫佐々木某に療治をたのみければ、佐々木氏至りて見るに氣絶して更に正體なく、面は元より肩背のあたり紫色になりていくべき樣子あらざれば、さまざまに手をつくしてやうやうにいへたりき。こは佐々木氏の物語なり。いかなる毒蟲にやあらん、かの本草にのせたる班猫にもおさおさ勝れるものぞかし。

 

[やぶちゃん注:底本では「班猫」の「班」の右に『(斑)』と編者の訂正注が附されてある。

 しかし、この虫は何だろう?

 

最初に唇の上を「針」で刺されたような感じがした

その直後に頬まで腫れあがった

払いのけた手に附着した虫の毒液か、分泌されたか潰すことにによって飛び散った体液が、「薄荷」(ハッカ)のような強い揮発性を感じさせた

その直後に急激な発熱が起こり、昏倒、気絶した

その後、顔面から肩や背中まで腫脹が広がり、皮膚が紫色に変色したこと

 

という経過を見てまず言えるのは、

 

①③からは、ある種の刺咬性昆虫でしかも強毒性の毒液を持っているものである可能性が高い

 

ことと、或いは、より正確に推理するならば、

 

それほど強毒性の昆虫毒ではなかったかも知れないが、②④⑤から、たまたま、この刺された人物がその成分(毒液か体液)に対して強いアレルギー体質の持ち主であって、重度のアナフラキシー・ショックを起こした

 

と断ずることは出来ると思う。

 さて、ではその昆虫であるが、針で刺す強毒性のもので直ちに激しい痛みと腫脹などの症状が出、小型種で、この時期(盛夏。次注参照)となると、昆虫綱膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinae でも小型種である、ホオナガスズメバチ属 Dolichovespula の内で最も攻撃性が強い

キオビホオナガスズメバチ(黄帯頬長雀蜂)Dolichovespula media

(本種は働き蜂で十四~十六ミリメートルしかない)が候補とはなるであろう。

 ただ、当該種の毒成分が揮発感を感じさせるものかどうかは私は知らない。私はスズメバチに刺されたことはないが、昔、自宅の庭に出来たスズメバチ(恐らくはスズメバチ亜科スズメバチ属コガタスズメバチ Vespa analis)の巣を除去した際(夕刻に水を巣に撒き、布に灯油を含ませたものを棒の先につけて焼却した)、眼を狙われ、その毒液が遮光用コーティングの施された眼鏡のレンズに多量にかかったことがある。直ぐに水洗いしたが、毒液によってコーティングは完全に溶解していた。あれが、眼に入っていたら、と思うと、尻の穴までむずむずするほど、今でもキョワい。しかし、その毒液自体に触れてみなかったことは、今、ここに注しながら、残念にも思っているのである。

 なお、他の種(例えば、体液が毒性(知られた主成分はカンタリジン(cantharidin)。エーテル・テルペノイドに分類される有機化合物の一種で、カルボン酸無水物を含む構造を持つ毒物。昇華性がある結晶で、水には殆んど溶けず、皮膚に附着すると痛みを感じ、水疱性皮膚炎を発症させる)を持つ鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae のツチハンミョウ類や、多食(カブトムシ)亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科アリガタハネカクシ亜科 Paederus 属アオバアリガタハネカクシPaederus fuscipes 等)も考えてみたが、どうも上記のを総てクリアー出来るものを想起し得なかった。他により相応しい生物種があれば、是非、御教授戴きたい。

「往ぬる戊午の年の七月」万延元(一八六〇)年成立であるから安政五(一八五八)年戊午(つちのえうま)。底本の森山氏註が『安政四年』とするのは誤り。安政五年七月は一日が八月九日で、盛夏である。

「邸裏(せと)」裏庭。

「忽」「たちまち」。

「疼痛(いたみ)」二字へのルビ。

「御番醫」弘前藩雇いの医師。

「本草」ここは広義の本草書でよかろう。

「班猫」編者注にあるように「斑猫」が正しいが、ここで平尾が言っているのは、中国の「本草綱目」などの本草書で挙げる強毒性のそれを含む昆虫類で、実はこれは真正の「ハンミョウ」類(鞘翅目食肉(オサムシ)亜目オサムシ科ハンミョウ亜科Cicindelini Cicindelina 亜族ハンミョウ属ハンミョウ Cicindela japonica)ではない、

鞘翅(コウチュウ)目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ(土斑猫)類

であることを認識することが肝心である。但し、これを話し出すと非常に長くなるので、私の和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 斑猫のテクスト注を参照されたい。]

谷の響 四の卷 三 水かけ蟲

 

 三 水かけ蟲

             

 水カケと言へる蟲は、深山の溪流にまゝあるものにして、その形髮毛の如く、長さ六七寸あるは八九寸にして、色はうす赤くせはしくうごけるものにあらずと言へり。又この蟲大口魚(たら)の肉の中にもまゝありて、こも又髮毛にひとしかれど、溪澗(さは)になれるものよりは色赤く長さは三寸ばかりとなり。俱に大毒ありて人をがいするといふめれば、よく心しろひすべきことなり。こは又溪澗(さは)の水のみにあらず井戸の水にもあることなり。

 さるは往(い)にし文政の年間(ころ)、紺屋町の新割町に住める三上の隱居といへる人、ある日湯屋に浴(ゆあみ)し、かわきたればとて水を乞ひて飮けるに、口の中に髮毛の有るやうに覺えければ、水を吐いて探り見るに、その髮毛のいとなめらかなればあやしく思ひ、手にあげてつらつら見るに、いとゆるやかにぬめりまわりてありしかば、これなん水かけと言ふ蟲ならめと、そばなる人にも見せておそれあへりと、己が父に語りしことありき。かゝればこの蟲は井の中にもあるものなれば、水はこして用ふべきものなり。

 

[やぶちゃん注:前の「二 中の蟲」との内容の相同性が強い。「水かけ蟲」及び「水カケ」と言う呼称は、現在、使用されていない模様で、不詳乍ら、これは「水蔭蟲」「水陰蟲」「水影蟲」で、髪の毛のように細く、水の中で隠れるように潜む、或いは、動いても、それあ水の光り(影)の反射のように誤認され易い虫の謂いではないかと推理する。私はこの体長と体色及び髪の毛に酷似しているという点、動きが極めて緩やかである点(ヒル類ならば、かなり活発に動き、また、これだけの大きさになると、ヒル類では頭部と尾部の大きさが異なって髪の毛のようには見えない)から、やはり前条で最初に出した、昆虫類に高い頻度で寄生する脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)綱  Gordioidea の一種と同定出来ると考える。ウィキの「ハリガネムシ」によれば、『水生生物であるが、生活史の一部を昆虫類に寄生して過ごす』。『オスとメスが水の中でどのように相手を捜し当てるかは不明だが、雄雌が出会うと巻き付き合い、オスは二叉になった先端の内側にある孔から精泡(精子の詰まった囊)を出し、メスも先端を開いて精泡を吸い込み受精させる』。『メスは糸くずのような卵塊(受精卵の塊)を大量に生む』。一~二ヶ月『かけて卵から孵化した幼生は川底で蠢き、濾過摂食者の水生昆虫が取り込む。幼生は身体の先端に付いたノコギリで腸管の中を進み、腹の中で「シスト」の状態になる』。『水生昆虫のうち、カゲロウやユスリカなどの昆虫が羽化して陸に飛び、カマキリやカマドウマなどの陸上生物に捕食されると寄生し』、二 ~三ヶ月『の間に腹の中で成長する』。『また、寄生された昆虫は生殖機能を失う。成虫になったハリガネムシは宿主の脳にある種のタンパク質を注入し、宿主を操作して水に飛び込ませ、宿主の尻から脱出する』。『池や沼、流れの緩やかな川などの水中で自由生活し、交尾・産卵を行う』。『寄生生物より外に出る前に宿主が魚やカエルなどの捕食者に食べられた場合、捕食者のお腹の中で死んでしまう』『が、捕食者の外に出ることができるケースもある』。『カワゲラをはじめとする水生昆虫類から幼生および成体が見つかることがある。また、昆虫だけではなくイワナなどの魚の内臓に寄生する場合もある』とある(下線やぶちゃん。但し、タラは海産魚であり、ハリガネムシが寄生することはあり得ない。されば本条のそれは別の海産魚類に寄生する種の誤認である。後注参照)。ただ、本条では、この虫を「大毒ありて人をがい(害)するといふ」とし、後の例では近くにいた「人にも見せておそれ」合ったとして、「かゝればこの蟲は井の中にもあるものなれば、水はこして(濾して)用ふべきものなり」とまで危険動物として注意喚起をしている。しかし思うにこれは、その形状が隣国(現在の秋田・岩手)辺りで吸血するとして知られ、怖れられていた環形動物門ヒル綱顎ヒル目ヒルド科 Haemadipsa Haemadipsa zeylanica 亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica を想起させ(私は似ているとは全く思わないが)、また、本書の「二の卷 四 怪蚘」に語られる人体寄生の寄生虫類(線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫(カイチュウ)科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoides 等)によく似ている(これは色は別として似ていると言っても、まあ、よかろう)ことから、これらを一緒くたにして(特に後者と)、このハリガネムシが人体に寄生するそれらになると誤認したからではないかと考えるものである。

「長さ六七寸あるは八九寸」体長十八~二十一センチメートル、個体によっては二十四~二十七センチメートル程。

「大口魚(たら)の肉の中にもまゝあり」三字へのルビ。一般に青森で「タラ」と言った場合は、条鰭綱新鰭亜綱側棘鰭上目タラ目タラ科タラ亜科マダラ属マダラ Gadus microcephalus、或いはタラ亜科スケトウダラ属スケトウダラ Theragra chalcogramma を指すと考えてよかろう(本邦では他にはタラ亜科コマイ属コマイ Eleginus gracilis も広義の「タラ」に含まれるが、形状がやや異なり(前二種と異なり、下顎より上顎が前に突き出ており、下顎にある髭(ひげ)がごく短い)、当時、本種を一緒に認識していたとは私は思わない)。さて、タラ類に寄生するものとしては、かの、ヒトにアニサキス症を発症させる線形動物門双腺綱回虫目回虫上科アニサキス科アニサキス亜科 Anisakinae のアニサキス属 Anisakis やシュードテラノーバ属 Pseudoterranova などが知られるが、それだけでなく、実はタラの寄生虫は非常に多く、市販の切り身などでも完全除去は難しいとされるほど、多くの寄生虫が寄生している(タラ類のそれらは、「水産食品の寄生虫の検索データベース」のタラ類」を参照。但し、耐性のない方はタラが食えなくなることもあるので各項の「詳細」をクリックするのは自己責任で)。孰れにせよ、平尾が「タラ」を挙げていることによって、細長い虫を十把一絡げにして、全く異なる種を一緒くたに同一生物と考えていることはこれで判然とする。なお、ここで平尾はタラのそれを、「色赤く長さは三寸(九センチメートル)ばかり」と記しており、これはちょっと大き過ぎる(最大長でも四センチメートルほど)ものの、色はシュードテラノバ属シュードテラノーバ・ディシピエンス Pseudoterranova decipiens によく一致する

「心しろひ」「心知らふ」(気遣いする・注意する)の転訛した語が名詞化したものか。

「文政の年間(ころ)」一八一八年~一八三〇年。

「紺屋町の新割町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)ならばここ(グーグル・マップ・データ)で、ウィキの「紺屋町弘前市)によれば、ここの東部に明治初年に「紺屋町新割町」があったとある。なお、同ウィキに、この紺屋町は寺山修司の出生地とされている、とある。奇体な虫とテラヤマ、彼なら喜びそう!

「かわきたれば」咽喉が「渇きたれば」。

「飮けるに」「のみけるに」。]

諸國百物語卷之五 十五 伊勢津にて金の執心ひかり物となりし事

 

     十五 伊勢津にて金の執心ひかり物となりし事

 

 いせの津、家城(いへしろ)村と云ふ所にばけ物のすむ家ありて、三十年ほど、あき家となりて有り。そのむかし、此家のぬしふうふ、ともに、とんびやうにて、あひはて、子なかりしゆへ、あとたへたる家也。あるときは、ひかり物いで、又、あるときは、火もゆる事もあり、又、あるときは、男女(なんによ)のこゑにて、

「そちがわざよ」

「いや、そのはうのわざにて、かやうに、くるしみを、うくる」

などゝ、いふ事も有り。あるとき、京より、はたちばかりなる、こま物あき人、このざいしよへくだりけるが、所のもの、此ばけ物のはなしをしければ、かのあき人、

「それがし、こよい、まいりて、ばけ物、見とゞけん」

と云ふ。所のもの、

「むよう也。れきれきのさぶらひしうさへ、一夜、たまらずにげかへり給ふ」

と云ふ。かのあき人はふた親をもちけるが、かうかうなる人にて、をやをはぐくまんために、十一のとしより、はうばうと、かせぎあるきけれども、その身、まづしくて心のまゝならざりしが、物になれたる人なりければ、

「とかく此ばけもの、見とゞけ申さん。よの中に、心のほかに、ばけ物は、なきもの也」

とて、その夜、かの處にゆかれしが、あんのごとく、子の刻ばかりに、井のうちより、鞠ほどなる火、ふたつ、いでけるが、屋のうち、かゞやき、すさまじき事、云ふばかりなし。そのあとより、かしらにゆきをいたゞきたる老人ふうふ、いでゝ、かのあき人にいひけるは、

「われは此家のあるじなるが、あるとき、ふうふともに、とんびやうにてはてけるが、これなる井のうちに、おゝくの金銀をいれをきたり。此かねに、しうしんをのこしける故、うかみかね、六どうのちまたにまよふ事、すでに三十ねんにあまれり。この家にすむ人あらば、この事をかたりきかせ、あとをとぶらひもらはんとおもへども、おそれて、よりつく人もなし。御身は、心かうなる人、そのうへ、親にかうかうなる人なれば、このかねを御身にあたゆる也。よきやうに親をもはぐくみ、又、われをも、とぶらひ給はれ。來たる八月五日が三十三年にあたりて候ふ」

とて、かきけすやうに、うせにけり。あき人、よろこび、井のうちを見れば、金銀はかずもしれず有り。みな、ひきあげて、そのかねにて、その屋敷に寺をたて、僧をすへ、いとねんごろにとぶらひければ、そのゝちは、ひかり物もいでざりしと也。それより、あき人は此かねにて、ふた親のみやこにかへり、心のまゝにやしなひけると也。

「ひとへに、あき人、をやにかうかうなるゆへ也」

と、人みな、かんじけると也。

 

[やぶちゃん注:「そちがわざよ」の後には句点があるが、例外的に除去した。

「金」「かね」。金銭。

「いせの津、家城(いへしろ)村」正しくは「いへき」。現在の三重県津市白山町南家城(いえき)。(グーグル・マップ・データ)。

「此家のぬしふうふ」「この家の主夫婦」。

「とんびやう」「頓病」。急死・突然死に至る病いの総称。

「そちがわざよ」「お前のせいじゃが!」。

「いやそのはうのわざにてかやうにくるしみをうくる」「いんや! あんたがあんなことしたによって、かくも無惨に苦しみを受くることなったじゃ!」前の台詞を老人の、こちらを老妻のそれと私は、とる。

「こま物あき人」「小間物商人(あきんど)」。

「れきれきのさぶらひしう」「歷々の侍衆」。名立たる剛勇を誇るお武家衆。

「一夜、たまらず」一晩も経たぬうちに、あまりの恐ろしさに耐えきれず。

にげかへり給ふ」

「かうかうなる人」「孝行なる人」

「をやをはぐくまんために」「親(おや)育まんために」。歴史的仮名遣は誤り。

「はうばうと」「方々と」。

「物になれたる人なりければ」いろいろと苦しく辛い思いをしてそうした異常な事態には慣れていた人であったので。

「よの中に、心のほかに、ばけ物は、なきもの也」知られた「紫式部集」の二首を引いておく。

 

     繪に、物の怪のつきたる女の、

     みにくきかたかきたる後に、鬼

     になりたるもとの妻を、小法師

     のしばりたるかたかきて、男は

     經讀みて物の怪せめたるところ

     を見て

 亡き人にかごとをかけてわづらふもおのが心の鬼にやはあらぬ

 

     返し

 ことわりや君が心の闇なれば鬼の影とはしるく見ゆらむ

 

 

前書は、前妻(こなみ)の鬼女となった死霊(和歌より)、その「後妻(うわなり)打ち」に遇って醜く病み衰えた後妻、その霊を調伏している最中の僧を描いた絵を見て詠んだ歌の意であり、和歌の「かごと」は「託言」、「口実・言い訳・誤魔化し」の謂いである。調伏の呪法を乞うて施術させているのは、描写外の、というよりも、絵師の視点位置にいる夫であるから、実はこの一首の「心の鬼」(多くの評釈では「疑心暗鬼を生ず」の意で専ら解されているが、私はもっと強烈で輻輳し痙攣化したコンプレクス(心的複合)状況を指すと捉えている)を持っている「鬼」=「物の怪」とは「夫である男」であるのは言うまでもない。後の返歌は式部附きの女房のものであるが、この「君」は式部を指し、式部の中に人の知ることの出来ない、深い心の闇(トラウマ)が隠されているからこそ、そうした「人の心の産み出す、実は人の心からのみ生ずるものである、おぞましき鬼」がはっきりと見えるのですね、と応じているのである。

「子の刻」午前零時。

「かしらにゆきをいたゞきたる」白髪の形容。

「うかみかね」「浮かみ兼ね」。成仏することが出来ずにおり。

「六どうのちまたにまよふ」「六道の巷に迷ふ」。

「心かうなる人」「心剛なる人」。

「三十三年」三十三回忌。死の年から数えで、三十三年目(没後満三十二年目)には、仏教では、生前にどのような所業を行った者でもこの三十三回忌を終えることによって罪無き者とされ、成仏=極楽往生するともされる。そこで、三十三回忌をもって供養を終えるのが一般的なのである。

「ふた親のみやこにかへり」二親の健在にいます京の都へ帰って。]

2016/11/23

谷の響 四の卷 二 氷中の蟲

 

 二 氷中の蟲

 

 安政四丁巳の年の六月廿七日、己が少女(むすめ)雪を估ひて食ひたるが、その雪の中に蟲があるとて見せたるに、八九分ばかりの蟲の細き絹糸のこときなるが、さすがにかたき氷雪の中にありて、活動(はたらき)自在をなして氷面にとほれり。いと希しきものなれば茶碗に入れて置くに、少時(しばし)にして雪とけて水となるに、この蟲のびちゞみすることいとすくやかにしてしかも龍蛇の勢ひをなせり。色は少しくうすあかなれど、小さければ首尾も眼口も俱にあきらかならず。實(げ)に物の性の測るべからざること斯の如くなれば、雪に住める蠶、火に生れる鼠あるといふもむなしきことにはあらじかし。世の人自ら見ぬをもてうたがふべからず。

 

[やぶちゃん注:これはまず、昆虫類に高い頻度で寄生する虫として知られる、脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)綱 Gordioidea の一種が疑われる。ウィキの「ハリガネムシ」によれば、『水生生物であるが、生活史の一部を昆虫類に寄生して過ご』し、『卵から孵化した幼生は川底で蠢き、濾過摂食者の水生昆虫が取り込む。幼生は身体の先端に付いたノコギリで腸管の中を進み、腹の中で「シスト」』(幼生が厚い膜を被って休眠状態に入ったような状態になることを指し、「被嚢」「嚢子」「包嚢」などと訳される)『の状態になる。「シスト」は自分で殻を作って休眠した状態』にあり、これだと摂氏マイナス三〇度の冷凍下でも死なない、とあり、さらに、『ヒトへの寄生例が数十例あるようだが、いずれも偶発的事象と見られている。ハリガネムシを手に乗せると、爪の間から体内に潜り込むと言われることがあるが、全くの俗説で、成虫があらためて寄生生活にはいることはない』とあり、仮に、誤飲したとしても危険度は低いと思われる。但し、吸血性の環形動物門ヒル綱顎ヒル目ヒルド科 Haemadipsa Haemadipsa zeylanica 亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica の幼体の可能性も疑われる。同種は山地の森林に棲息し、特に湿潤な渓流沿いの苔の多いところなどに多数見られ、私も山でしばしば遭遇した(幸か不幸か、咬傷・吸血を受けたことはないが、引率していた山岳部の生徒が吸血されたことはある)。万一、ヤマビルを誤飲し、それを嚙み潰すことなく、口腔内で吸着されたりすれば、これは危険である。ただ、本種は分布域が岩手・秋田県以南の本州から四国、九州であり、本事例の現場はギリギリな感じはする。また、仮にこれがヤマビルであって、それを誤飲して嚥下した結果、体内で生き延び、吸血し続けることは考え難く、そのような事例も知られていないものと思われる。別に人体に寄生(主に鼻腔内)して長く生き延び、巨大化するまで寄生し続けることもままあるヒルド科 Dinobdella 属ハナビル Dinobdella ferox という厄介な人体寄生種がいるが、これは南方種で、本邦では奄美大島・九州南部・本州の一部に分布域が限られており、これは同定候補から外れる。なお、次の条の「三 水かけ蟲」も参照のこと。

「安政四丁巳の年の六月廿七日」安政四年は正しく「丁巳」(ひのとみ)。西暦一八五七年で、グレゴリオ暦では八月十六日(この年は前に閏五月があるため)。

「估ひて」「かひて」。以前の条に岩木山の雪渓の雪を採りに行き、雪崩(なだれて)て圧死する話が出た(「三の卷」の「三 壓死」)。市井で一般にも売られていたことがこれで判る。

「八九分」二・四~二・七センチメートル。

「雪に住める蠶」私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 雪蠶」の本文及び迂遠な注を参照されたい。

「火に生れる鼠」「竹取物語」でも馴染みであるが、ウィキの「火鼠」から引いておく。『中国に伝わる怪物の一種。火光獣(かこうじゅう)とも呼ばれる』。『南方の果ての火山の炎の中にある、不尽木(ふじんぼく)という燃え尽きない木の中に棲んでいるとされる。一説に、崑崙に棲むとも言われる』。『日本の江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では中国の『本草綱目』から引用し、中国西域および何息の火州(ひのしま)の山に、春夏に燃えて秋冬に消える野火があり、その中に生息すると述べられている』。体重は約二百五十キログラム(!)の大鼠で、毛の長さは五十センチメートルあり、絹糸よりも細いという。『火の中では身体が赤く、外に出ると白くなる。火の外に出ているときに水をかけると死んでしまうという』。『火鼠の毛から織って作った火浣布(かかんふ)は、火に燃えず、汚れても火に入れると真っ白になるという特別な布だったという』。この「火浣布」とは実際には、鉱物性繊維の「石綿」であると私も思う。「隋書西域志」によると、『史国に「火鼠毛」が産するという。史国とは昭武九姓の』一『つで、現在のウズベキスタンのシャフリサブスにあった都市国家である』。日本の「竹取物語」で、『かぐや姫が阿倍御主人に出した難題が「火鼠の皮衣(ひねずみのかはぎぬ、~のかはごろも)」である』が、「竹取物語」では、『火鼠の皮衣は天竺(インド)産であるとされている。「火鼠の皮衣、この国になき物なり」』と記す。このような生物は、無論、いない。平尾がこれを信じていたというのは、やや残念な気がする。]

谷の響 四の卷 一 蛙 かじか

 

谷のひゝき 四の卷

 

          弘府 平尾魯仙亮致著

  

 一 蛙 かじか

 

 中村澤目の溪中(さは)にある蛙は、山城の井手の蛙と同じものにて、常の蛙より小さく細く、色皂(くろ)くしてその聲の淸亮(すゞし)きことは蛙の聲とは聞えぬまでなり。往ぬる文政の年間(ころ)、御畫師今村氏御近習の人の命(おほせ)によりてこの中村の溪澗(さは)に至り、數百隻(ひき)を捕得て獻りしに、下久保なる御游館(ちやや)の池に放され、時々御成遊ばして聞かせ玉ひしが、漸々逃うせて三十日もたゝぬに一疋も居らずとなり。蛙は元地へ返るといふこと宜なり。さてこの蛙は、中村溪目の溪澗のうち、流れのいと淸き處に多く住めりと今村氏の語りしなり。

 因(ちなみ)にいふ、橘南溪が北窓瑣談といふ册子に、かじかといふもの近きころ人のまれまれにやしなひたのしむものなり。聲さやかにてこま鳥に似、ひろき座しきなとにおきてよきものなり。かたちはすこし蛙に似て色くろくやせたり。北山矢瀨の邊の谷川の流れ淸きところにすむとぞ。

 

  谷川にかしかなくなるゆふまくれこいし流るゝ水の落あひ

 

といふ古歌ありといふ。誰人の歌にやといへり。このかしかといへるものは、前件(くだり)なる蛙によく似たり。

 

[やぶちゃん注:和歌の前後は空けた。

「中村澤目」底本の森山泰太郎氏の補註に、『中村川(西津軽郡鯵ケ沢町の東を流れ、舞戸で日本海に注ぐ)に沿う山間地帯をいう。中村・横沢・芦苑』(あしや)『(いずれも鯵ケ沢町に属す)などが主な部落である』とある。現在は鯵ケ沢町の鯵ケ沢街道に沿った、それぞれ中村町・浜横沢町・芦苑町となっている。ここを拡大して南北に動かすとと、三つの町名が現認出来る(グーグル・マップ・データ)。

「山城の井手の蛙」底本の森山氏の補註に、『京都府綴喜』(つづき)『郡にある町。歌枕で、古来山吹の名所また蛙の鳴くことで詠まれている』とある。これは、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri で、ここで西尾が記しているものも大きさ色から、同種に同定してよい。AKIRA OOYAGIカジカガエルの美声Japanese Stream Frog songで、その蛙とは思われぬ、何とも言えぬ美声が聴け、姿も確認出来る。既に「古今和歌集」で、

 

 かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花の盛りにあはましものを 読人不知

 

と歌枕として「井手」の川辺の桜とともに詠まれ、小野小町の「小町集」でも、

 

 色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花

 

などとあり、鴨長明の「無名抄」の第十七話の「井手の山吹、幷かはづ」の一節にも、

   *

井手のかはづと申すことこそ、樣(やう)あることにて侍れ。世の人の思ひて侍るは、『ただ蛙(かへる)をば、かはづといふぞ』と思ひて侍るめり。それも違ひ侍らず。されど、かはづと申す蛙は他にいづくに侍らず。ただ、この井手川にのみ侍るなり。色黑きやうにて、いと大きにもあらず。世の常の蛙のやうにして、現(あら)はに踊り步(あり)く事などもいと侍らず。常には水にのみ棲みて、夜更くるほどに、かれか鳴きたるは、いみじく心澄み、物あはれなる聲にてなん侍る。春夏のころ、必ずおはして聞き給へ」と申し侍りしかど、その後、とかくまぎれて、いまだ尋ね侍らず」となん語り侍りし。この事心にしみて、いみじく思え侍りしかど、かひなくて、三年(みとせ)にはなり侍りぬ。また、年長けては步びかなはずして、思ひながら、いまだかの聲を聞かず。かの登蓮(とうれん)が雨もよに急ぎ出でけんには、たとしへなくなん。

   *

と出る。文中の「登蓮」(?~養和元(一一八一)年?)平安後期の僧で歌人。「平家物語」によれば、もとは筑紫安楽寺の僧で、近江の阿弥陀寺に住んだ。俊恵の家で開かれた歌会歌林苑のメンバーとして知られる。

「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。

「御畫師今村氏」弘前藩お抱え絵師で西尾が若き日(二十歳の頃)に学んだ今村慶寿か。

「獻り」「たてまつり」

「下久保」藩主がしばしば出向く以上、弘前圏内のはずだが、不詳。。

「游館(ちやや)」二字へのルビ。茶屋。

「橘南溪が北窓瑣談といふ册子」前に出た江戸後期の医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の遺著である文政一二(一八二九)年刊の随筆。その「卷之二」に以下の一章がある(吉川弘文館随筆大成版を参考に漢字を正字化して示し、和歌の前後は空けた)。

   *

一かじかといふもの、近き頃、人の稀々に養ひ樂しむものなり。聲さやかにて駒鳥に似、廣き座敷なとに飼置てよきものなり。形は小き蛙に似て、色黑く瘦たり。北山、矢瀨、小原(おはら)邊(へん)の谷川の流れ淸き所に住むとぞ。

 

   谷川にかじか鳴なるゆふまぐれ小石流るゝ水の落合

 

といふ古歌ありといふ。誰(たれびと)の歌にや。

   *

平尾も引く、この一首の出所。作者は不詳。識者の御教授を乞う。

「前件(くだり)」「まへくだり」。]

譚海 卷之二 圓光大師香合幷淀屋茶碗の事

 
圓光大師香合幷淀屋茶碗の事

○京都町人に若松屋宗甫と云(いふ)者、茶の湯を嗜み古器を翫(もてあそ)ぶあまり、圓光大師所持の香合(かうがふ)を求めえたり。螺鈿にて一箇浮身是何物と云(いふ)七字を蒔(まき)たる宋朝の名德の所持ゆへ、大師一生祕藏してもたれけるとぞ。其(その)價(あたひ)銀三拾六貫目なりとぞ。又大坂淀屋三郎右衞門所持に、淀屋五郎と云(いふ)茶わん有(あり)、是は豐臣太閤祕藏ありし器にて、數人に傳來し證狀明白にして無二の名器也。淀屋微祿せし後、此茶碗淨るり太夫豐竹島太夫金五百兩にて買得たり。さばかり名器成(なり)しかども、すいほうの手に落たるゆへ、已來(いらい)稱する人なし、價も又減じたりとぞ。

[やぶちゃん注:「圓光大師」法然の大師号。

「香合」香を入れる蓋つきの容器。木地・漆器・陶磁器などがある。茶道具及び仏具の一種でもある。

「淀屋」大坂で繁栄を極めた豪商の一族。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へと発展するのに大きく寄与した商人である。米市以外にも様々な事業を手掛け、莫大な財産を築いたが、その財力が武家社会にも影響することとなったことから、主家は幕府より闕所(財産没収)処分にされている。後で「大坂淀屋三郎右衞門」と出るが、初代淀屋常安及び二代目淀屋言當(げんとう/ことやす)は孰れも通称を三郎右衛門と称した。参照したウィキの「淀屋」によれば、『闕所処分を受けたのは、その時期から』五代目淀屋廣當(よどやこうとう/ひろまさ 貞享元(一六八四)年?~享保二(一七一八)年)『の時代であったと考えられている』とあり、本「譚海」が寛政七(一七九五)年自序であることを考えると、「淀屋微祿せし後」(零落(おちぶ)れた後)と明記しているのを見ると、この「淀屋」と考えてよいようである

「若松屋宗甫」不詳。名は「そうほ」と読んでおく。

「一箇浮身是何物」「一箇の浮身(ふしん)、是れ、何物ぞ」。禅語であろう。「一箇のこの私という儚い肉体とは、恁麼(そもさん)、何物なるか?!」。

「名德」名僧。

「銀三拾六貫目」とある換算サイトの換算値で計算すると、現在の四千八百万円相当となった。

「淨るり太夫豐竹島太夫」先に示した本「譚海」の成立(寛政七(一七九五)年自序)から考えると、初代(生没年不詳:初代豊竹若太夫(後の豊竹越前少掾)の門弟で、享保二(一七一七)年に豊竹座に初出演、その後、亡くなるまで江戸で活動した)か?

「金五百兩」同前の換算値で四千万円。

「すいほう」「粋方」か(としも「すいはう」で歴史的仮名遣は誤り)。侠客。その手のやくざ者の謂いであろう。前の島太夫の手から、後に、そうした連中に渡ってしまった、ととっておく。

「稱する人」これは「賞する人」で褒める人の謂い。]

甲子夜話卷之三 6有德廟、大統を重んじ私親を顧み玉はざる事

3-6有德廟、大統を重んじ私親を顧み玉はざる事

德廟には御歷代の御忌日などは、至て重く御取扱ありて、御鷹など、其役の者遣ふこともならざりしとぞ。然るに享保十一年六月、淨圓院樣御逝去のとき、三十五日過させらるゝと、直に御鷹匠頭へ、御鷹仕込に組の者野先へ出すべしと仰出され、尤鷹の捕りたる雲雀差出すに及ばずとの命なりしとなり。大統を尊重し玉ひ、私親を顧み玉はざる盛慮かくの如の御事也。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」第八代将軍徳川吉宗。

「大統」「たいとう」ここは実質支配者であった徳川将軍の系統の意。

「私親」「ししん」と音読みしておく。プライベートな楽しみであろう。

「御歷代の御忌日」歴代の忌日は徳川家康が四月十七日第二代秀忠は一月二十四日第三代家光は四月二十日第四代家綱は五月八日第五代綱吉は一月十日、第六代家宣は十月十四日、第七代家継は七月三日である。

「御鷹など、其役の者遣ふこともならざりしとぞ」言わずもがな、殺生を忌んで、である。

「享保十一年六月」西暦一七二六年で同旧暦六月は一日がグレゴリオ暦六月三十日である。

「淨圓院」(明暦元(一六五五)年~享保十一年六月九日(一七二六年七月八日)は、紀州藩第二代藩主徳川光貞の側室で徳川吉宗の生母(俗名は由利・紋)。

「三十五日」五七日忌で、忌明けの「七七日忌」四十九日で十四日ある。何故、待てなかったのかを私なりに考えると、彼の先代の将軍の忌日は正月に二回、四月に二回、五月に一回で、この六月に前に集中している。しかも浄円院の忌明けは旧暦の八月十日(グレゴリオ暦九月五日)以降となり、直にすぐ家宣の忌日十月十四日がきてしまう。そうでなくても諸政務の隙を縫って狩場に出て鷹狩をするのは、必ずしも容易なことではなかったのではあるまいか。さすれば、好きな鷹狩がこの年は二月か三月に一度出来たか、或いはそれが出来なかったとすれば、前年後期から実に半年以上、鷹を飛ばせなかった可能性もある。そうした我慢しきれない感じが「三十五日過」ぎという中途半端なところで、堪えきれずに出ちゃったという感じが私にはするのであるが、如何? 因みに鷹狩は家康が好んだが、綱吉の代の「生類憐れみの令」によって行われなくなり、元禄九(一六九六)年十月には幕府の職制上の「鷹匠」さえも廃職となっている。それを享保元(一七一六)年八月に、この吉宗がやっと復活させたのでもあったのである。

「直に」「ただちに」。

「御鷹匠頭」「たかじやうがしら」。定員二名で千石以上の旗本の世襲とされた。

「野先」「のづら」と訓じておく。

「尤」「もつとも」。

「鷹の捕りたる雲雀差出すに及ばず」やはり、忌中なれば、殺生戒を配慮したのである。

北條九代記 卷第十 惟康親王御家督 付 蒙古大元來歷

 

      ○惟康親王御家督  蒙古大元來歷

 

惟康(これやす)親王は、前將軍宗尊親王の御息(おんそく)、御母は近衞(このゑの)攝政太政大臣藤原兼經公の御娘(おんむすめ)宰子(さいこ)とぞ申しける。文永元年三月に御誕生あり。去ぬる文永三年六月二十三日、鎌倉騷動の時、宗尊親王、既に京都に歸上(かへりのぼ)らせ給ひ、若君は相摸守政村の亭に入り給ひしかば、時宗、政村が計(はからひ)とて、僅か三歳にならせ給ふ若君を取立(とりた)て參らせ、關東の柱礎(ちうそ)、鎌倉の君主とし、諸將諸侍、更に前代に相替らず、拜禮崇敬(はいらいそうきやう)して、仰ぎ奉る。同年七月二十四日、京都より勅書を下され、征東大將軍に任じ、從四位上に叙せられしかば、鎌倉の躰(てい)、安泰静謐になりて、上(かみ)齊(と〻のほ)り、下(しも)治(をさま)り、田畠(でんはた)登(みの)り、市店(してん)賑(にぎは)ひ、萬民(ばんみん)德風(とくふう)に歸し、四海逆浪(げきらう)の音なし。

この比(ころ)、異朝には北狄(ほくてき)の蒙古(もうこ)起り、中華を隨へて大元國(だいげんこく)と號す。抑(そもそも)、蒙古の祖先を尋ぬるに、一人の寡婦ありて、閑窓(かんそう)の内に起臥(おきふし)しける所に、夜每に光明ありて、その腹を照す。遂に感じて孕みつ〻、月盈ちて一乳(にう)に三子を生ず。中にも季子(きし)孛端義兒(ばいたんぎに)、聰惠利根(そうゑりこん)なり。子孫既に蕃滋(ばんじ)して一部となり、遼(れう)、金(きん)の世に至り、漸々、部族昌(さか)えて韃靼(だつたん)に從へり。也速該(やそがい)が時に及びて、塔々兒部(たつたつにぶ)の長に鐵木眞(てつぼくしん)といふ者あり。也速該、死して、世を取り、西夏を攻取(せめと)り、諸部を隨へ、自(みづから)、成吉思可汗(せいぎしかつかん)と名を改め、雲中、九原の地を犯奪(をかしうば)ふ。金の熙宗(きそう)皇帝の時、九十餘郡を攻伐(こうばつ)す。兩河(か)山東(さんとう)數千里の人民、殺さる〻もの、幾千萬とも數知らず。鐵木眞、既に大軍を以て燕京(えんけい)を亡(ほろぼ)し、高麗を降(かう)ぜしめて、六十六歳にして病死せり。即ち、廟を立てて太祖皇帝と號す。第三の子、窩濶台(くわかつたい)、その嗣(よつぎ)として、太宗皇帝と稱す。陜西(せんせい)、封丘(ほうきう)、汴城(べんじやう)を打隨(うちしたが)へ、遂に金國を攻滅(せめほろぼ)し、宋國、次(つい)で滅(めつ)す。その間(あひだ)、太宗、定宗、既に殂(そ)し、憲宗、位に卽(つ)き、その弟、忽必烈(こつびれつ)、相次(あひつい)で世を治め、是を世宗(せいそう)皇帝と稱す。この時、至元元年に都を燕京に立てて、國號を大元と云ふ。是乃(これすなはち)、大易(たいえき)、「大哉乾元(おほいなるかなけんげん)」の義に依りて名付けたる所なり。大元一統の世となりて、高麗國(かうらいこく)の王子倎(てん)、既に蒙古大元に隨ふ。是(これ)を案内として、この日本へ書簡を贈り、蒙古大元に隨ひ、貢物(みつぎもの)を奉るべき由を企(くはだて)しかども、高麗王、申しけるは、「日本は海路杳(はるか)に隔ちて、急速(きふそく)には通じ難し」とありければ、その事、止みにけり。

 

[やぶちゃん注:読み易くするために、特異的に後半の「蒙古大元來歷」を改行した。鍵括弧の位置(底本では「大易大哉乾元」となっている)を恣意的にずらした。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は惟康親王の征夷大将軍就任が、「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年六月二十三日及び「将軍記」に依り、後半の蒙古の由来部分は「中朝歴代帝王譜」(七冊・寛永一九(一六四二)年林道春(羅山)跋・写本)及び「日本王代一覧」「五代帝王物語」に基づくされる。湯浅氏はここに注記されて、『『吾妻鏡』の記録は文永三年七月二十日で終わり、『北条九代記』では以下、『日本王代一覧』『将軍記』を主な拠りどころとする。しかし、典拠の明らかでない記述もあり、本話での蒙古の由来については『五代帝王物語』に蒙古国の成立までの簡単な説明があるが、『北条九代記』の方がより詳細である。蒙古の祖先季子(きし)孛端義児(ばいたんぎに)の出世譚については、『中朝歴代帝王譜』に「阿蘭、寡居、夢に白光、天窓より中に入る。化して金色の神人と為り、趨り来て榻に臥す。阿蘭、驚き覚め、遂に娠有り、一子を産む。即ち孛端又児也」(巻十二「孛端又児」)という同様の記述がある。また、蒙古が高麗国をとおして日本に書簡を送ろうとした件は『日本王代一覧』に拠る』と解析しておられる。

「惟康親王」(文永元(一二六四)年四月二十九日~嘉暦元(一三二六)年)は鎌倉幕府第七代征夷大将軍(征夷大将軍宣下は文永三(一二六六年)七月二十四日)。ウィキの「惟康親王より引いておく。『相模国鎌倉に生まれ』、『宗尊親王が廃されて京都に送還されたことに伴い』、数え三歳で『征夷大将軍に就任した。初めは親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、征夷大将軍に就任したのちに臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。今日では宮将軍の一人として惟康親王と呼ばれることが多いが、実は将軍在職期間の大半を源惟康すなわち源氏将軍で過ごしていた』。『これは、当時の蒙古襲来(元寇)という未曽有の事態に対する、執権・北条時宗による政策の一環であったとされ、時宗はかつての治承・寿永の乱あるいは承久の乱を先例として、将軍・源惟康を初代将軍・源頼朝になぞらえ、時宗自身は北条義時』の再来と自称する『ことで、御家人ら武士階級の力を結集して、元に勝利することを祈願したのだという』(下線やぶちゃん)。実際、弘安二(一二七九)年の正二位への昇叙や弘安一〇(一二八七)年の右近衛大将への惟康親王の任官は、『いずれも源頼朝を意識してのものであり、北条氏がその後見として幕府の政治を主導することによって、同氏による得宗専制の正統性を支える論理としても機能していた。特に源氏賜姓と正二位昇叙はいずれも時宗政権下で行われており、時宗が源氏将軍の復活を強く望んでいたことが窺える』。弘安七(一二八四)年に時宗は僅か満三十二歳で『死去するが、その後も安達泰盛や平頼綱が時宗の遺志を受け継ぎ、頼綱政権下の』同一〇(一二八七)年に『惟康は右近衛大将となって「源頼朝」の再現が図られた。しかし、わずか』三『ヶ月後に辞任し、将軍の親王化を目指す頼綱の意向によって、幕府の要請で皇籍に復帰して朝廷より親王宣下』(同年十月四日)『がなされ、惟康親王と名乗ることとなった』。『これは、北条氏(執権は北条貞時)が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望み、惟康の追放の下準備を意図したものであったらしく』、惟康は二十六歳となった正応二(一二八九)年九月、将軍職を解任され、京に戻されてしまう。「とはずがたり」に『よれば、鎌倉追放の際、まだ親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分の低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。悪天候の中を筵で包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた親王は泣いていたという。その様子をつぶさに見ていた後深草院二条は、惟康親王が父の宗尊親王のように和歌を残すこともなかったことを悔やんでいる』とその悲哀を述べている。同年十二月に出家、三十七年後、享年六十三で亡くなった。

「宰子」既出既注。

「文永元年三月」前注の通り、「四月」の誤り。

「文永三年六月二十三日、鎌倉騷動の時、宗尊親王、既に京都に歸上(かへりのぼ)らせ給ひ」「六月二十三日」は以下に綴られる通り、惟康が北条政村亭に移された日時で、宗尊の鎌倉出立は七月四日、帰洛は同二十日である(この帰着が「吾妻鏡」最後の記事である)。

「この比(ころ)、異朝には北狄(ほくてき)の蒙古(もうこ)起り、中華を隨へて大元國(だいげんこく)と號す」元は一二六〇年にモンゴル帝国初代皇帝チンギス・カン(太祖)の孫でモンゴル帝国の第五代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が一二七一年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立するので、「この頃」とは一二六〇年、本邦の文応元年頃と読める。

「一人の寡婦ありて、閑窓(かんそう)の内に起臥(おきふし)しける所に、夜每に光明ありて、その腹を照す。遂に感じて孕みつ〻、月盈ちて一乳(にう)に三子を生ず」ウィキの「チンギス・カン」によれば、『チンギス・カンの生まれたモンゴル部はウイグル可汗国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり』、十一『世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長した遊牧民であった』。『チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼、すなわち灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの』十一『代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま』三『人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である』とある(下線やぶちゃん)。

「季子」末子。

「孛端義兒(ばいたんぎに)」前注のボドンチャル。

「聰惠利根(そうゑりこん)」聡明にして才気煥発であること。

「蕃滋(ばんじ)」子孫が繁栄すること。

「一部」強大な一部族。

「遼」九一六年から一一二五年にかけて内モンゴルを中心に中国北辺を支配したキタイ(契丹)人ヤリュート(耶律)氏の王朝。

「金」一一一五年から一二三四年にかけて中国北半を支配したジュルチン(女真)族の王朝。遼・北宋を滅ぼして西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は、初め、会寧(上京会寧府。現在の黒竜江省)、後に燕京(中都大興府。現在の北京)。

「韃靼(だつたん)」蒙古の別称。狭義にはモンゴル系部族の一つで、八世紀頃から東モンゴリアに現われ、後にモンゴル帝国に併合された。宋ではモンゴルを「黒韃靼」、トルコ系部族オングートを「白韃靼」と称し、ずっと後の明では滅亡後に北方に逃れた元の遺民を「韃靼」と称した。広義のそれは「タタール」と同義。

「也速該(やそがい)」イェスゲイ。ウィキの「イェスゲイ」によれば、『モンゴル帝国が広大な領域を支配する帝国に成長した後、チンギスから数えて第』五『代のカアンであるクビライは』、一二六六『年に中国の習慣により』、『初代皇帝チンギス・カンの父であるイェスゲイに「烈祖神元皇帝」と追諡』(ついし/おくりな)した。事蹟はリンク先を参照されたい。

「塔々兒部(たつたつにぶ)」教育社増淵勝一氏の現代語訳では『タタルーブ(蒙古の東)』と割注する。

「鐵木眞(てつぼくしん)」テムジン。チンギス・カンの本名。

「西夏」宋代の一〇三八年にチベット系タングート族拓跋(たくばつ)氏の李元昊(りげんこう)が中国北西部の甘粛・オルドス地方に建てた国。国号は「大夏」。都は興慶府で、宋・遼・金と和平と抗争を繰り返したが、一二二七年に蒙古のチンギス・カンに滅ぼされた。西夏文字を制定し、仏教を保護奨励したことで知られる。

「諸部」諸部族。

「成吉思可汗(せいぎしかつかん)」チンギス・カン。漢字表記は現行では「成吉思汗」。

「雲中」山西省大同市地方の古名。古来、北方の遊牧民族に対する拠点で、唐代にはここを「雲中県」と称し、「雲州」あるいは「雲中郡」の行政中心としたのを始まりとする。

「九原」現在の内モンゴル自治区バヤンノール市及び包頭市一帯の古名。

「金の熙宗(きそう)」(一一三五年~一一五〇年)は先の金の第三代皇帝。ウィキの「熙宗(金)」によれば、『奢侈に走って酒に溺れるなどの暴政を繰り広げたため』、『側近を仲間に引き入れた従弟の迪古乃(海陵王)によって殺害された』とある。

「兩河(か)」河南と河北。

「高麗」九一八年に王建が建国して朝鮮半島を統一、一三九二年まで続いた国家。首都は開京(後の開城。なお、「高麗」は朝鮮を表す「コリア」の語源である)。ウィキの「高麗によれば、一二五九年に当時の崔氏政権が『打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族がモンゴルの大カアンの侍衛組織であるケシクの要員に加わるようになっ』て、高麗国は『モンゴルの行中書省の征東等処行中書省に組み込まれ』た。『モンゴルはこれまでの契丹や女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれ』、一二七〇『年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、モンゴル支配に抵抗する人々が三別抄の反乱を起こした。反乱者は属国だった耽羅島(済州島)の政権を滅ぼして徹底抗戦し、また、鎌倉幕府に救援を求め、共同してモンゴルを撃退するよう要請したが、文永の役直前の』一二七三『年には、日本派遣軍の司令官となる』忻都(きんと)や洪茶丘(こうさきゅう)『などが率いる派遣軍に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライは日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し』、一二七四年と一二八一年に『二度の日本侵攻(元寇)を行った。このため旧高麗領の多くが、前線基地として兵站の補給と軍艦の建造を命令され、供出と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた』。一方、「高麗史」には、『忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる』。忠烈王は『クビライの娘忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)』『と結婚してハーンの娘婿(駙馬、グレゲン)となった。初期には高麗王室も一定の影響力を保っていたが、次第に征東行省(第一次と第二次征東行省では高麗王は次官だったが、第三次では排除された)は高麗朝廷の人事にも関与する様になり、高麗領は元の支配下へ組み込まれた』。一二七八年以降は『一切の律令制定と発布はモンゴルの権限とされ』、その後の『王はモンゴルの宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿刺訥失里」(アラトトシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)と、モンゴル風の名も持っていた。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した』とある。

「六十六歳」チンギス・カンは一一六二年生まれで、一二二七年に亡くなっている。増淵氏はこれを六十一歳の誤りとされているが、不審。

「窩濶台(くわかつたい)」チンギス・カン三男で第二代モンゴル帝国皇帝オゴタイ(「オゴデイ」とも表記 一二二九年~一二四一年)。ウィキの「オゴデイ」によれば、彼にはジョチとチャガタイという二人の『有能な兄がいたが、ジョチは出生疑惑をめぐるチャガダイとの不和から、チャガタイは気性が激しすぎるところからチンギスから後継者として不適格と見なされていた。オゴデイは温厚で、一族の和をよくまとめる人物であったため、父から後継者として指名された』とある。

「陜西(せんせい)」現在の陝西省。中国のほぼ中央に位置し、秦の都咸陽、前漢及び唐の都長安があった。

「封丘(ほうきう)」現在の河南省新郷市封丘(ふうきゅう)県附近か。

「汴城(べんじやう)」現在の河南省東部ある開封(かいほう)市。中国でも最も歴史が古い都市の一つで、北宋の首都として栄え、十一世紀から十二世紀にかけては世界最大級の都市であった(ウィキの「開封市」に拠った)。

「宋國、次(つい)で滅(めつ)す」宋は趙匡胤(きょういん)が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した国で、現行の歴史では、金に華北を奪われて南遷した一一二七年以前を「北宋」、以後を「南宋」と呼び分けている。南宋は、一二七六年、モンゴル帝国第五代皇帝フビライ(オゴタイの弟ツライの子)の重臣で南宋討伐軍総司令官であったバヤン将軍に臨安を占領され、滅亡した。

「定宗」モンゴル帝国第三代皇帝グユク。オゴデイの長子。

「殂(そ)」皇帝が死ぬことを指す字。

「憲宗」モンゴル帝国第四代皇帝モンケ。チンギス・カンの四男トルイの長男。

「卽(つ)き」即位し。

「その弟、忽必烈(こつびれつ)」モンゴル帝国の第五代皇帝クビライ(一二一五年~一二九四年)。チンギス・カンの四男トルイの子で、モンケの同母弟。但し、兄モンケとは意見が合わず、南宋攻略に焦ったモンケが自ら出陣、陣中で疫病(赤痢)に罹って病死すると、モンケの子が幼かったためにクビライを含む三人の弟達の後継者抗争が起こったが、結果として彼が次期皇帝に地位を奪取し一二六〇年に即位した(その辺りはウィキの「クビライ」の「カアン位をめぐる争い」を参照されたい)。彼が日本への侵攻を企んだ。

「至元元年」一二六四年

「大易」「易経」。

「大哉乾元(おほいなるかなけんげん)」「易経」の冒頭の「乾」の孔子の作るところの「彖傳(たんでん)」の文に出る一節からの引用。

   *

彖曰、大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。大明終始、六位時成。時乘六龍以御天。乾道變化、各正性命、保合大和、乃利貞。首出庶物、萬國咸寧。

(彖(たん)に曰く、大いなるかな、乾元、萬物、資(と)りて始む。乃ち、天を統(す)ぶ。雲、行き、雨、施し、品物(ひんぶつ)、形を流(し)く。大いに終始を明らかにすれば、六位時に成る。時に六(りく)龍に乘りて以つて天を御(ぎよ)す。乾道(けんだう)、變化し、各々性命(せいめい)を正)ただ)し、大和(たいわ)を保合す。乃ち、利貞なり。首(しゆ)として庶物(しよぶつ)に出でて、萬國、咸(ことごと)く寧(やす)し。)

   *

意味は、「天空の道! これ、なんと、大きいことか!」。なお、短い(正安四年十一月二十一日(ユリウス暦一三〇二年十二月十日から乾元二年八月五日(一三〇三年九月十六日)の正味九ヶ月)ので知らない人が多いが、本邦のこの後の鎌倉時代の元号「乾元(けんげん)」も同源である。

「王子倎(てん)」第二十四代高麗王であった元宗(一二一九年~一二七四年:在位:一二五九年~一二七四年)の初名。ウィキの「元宗高麗王によれば、『太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになるが』、一二五九年に『の高宗とモンゴル皇帝であったモンケが死去したため、帰国して即位した』。『その後、帝位争いの末に即位したクビライに臣従して、国王の権力強化と親モンゴル政策を採る』。『ところが、この親モンゴル政策に重臣はこぞって反発し、元宗は一時廃位されかけたが』、『モンゴルの力を借りて重臣たちの排除を図る。この時』、ここまで百年ほど続いてきた『高麗の武臣政権に終止符が打たれた』。一二七〇『年には反モンゴルの姿勢をとるゲリラ集団・三別抄の解散を図ったが、逆に三別抄は王の弱腰政策に怒り、高麗に対してまで反乱を起こさせることとなった。さらにはモンゴルから日本遠征の大規模負担を負わされて国民に重税を強いることとなるなど、失政を続け』、『文永の役直前に病死した』とある。

『是(これ)を案内として、この日本へ書簡を贈り、蒙古大元に隨ひ、貢物(みつぎもの)を奉るべき由を企(くはだて)しかども、高麗王、申しけるは、「日本は海路杳(はるか)に隔ちて、急速(きふそく)には通じ難し」とありければ、その事、止みにけり』この「高麗王」は前の元宋宗である。以下、ここまでの経緯とその後の状況をウィキの「元寇から引く。一二六四年(文永元年)、『アムール川下流域から樺太にかけて居住し、前年にモンゴル帝国に服属していたギリヤーク(ニヴフ)族のギレミ(吉里迷)がアイヌ族のクイ(骨嵬)の侵入をモンゴル帝国に訴えたため、モンゴル帝国がクイ(骨嵬)を攻撃し』ているが、『この渡海作戦はモンゴル帝国にとって元寇に先んじて、初めて渡海を伴う出兵であった』。以降、二十年『を経て、二度の日本出兵を経た後の』一二八四年(弘安七年)、元は『クイ(骨嵬)への攻撃を再開』、一二八五年(弘安八年)と一二八六年(弘安九年)には実に約一万人の『軍勢をクイ(骨嵬)に派遣している』(これは現在の日本人にはあまり知られているとは思われないので前後に下線を引いた)。『これらモンゴル帝国による樺太への渡海侵攻は、征服を目的としたものではなく、アイヌ側からのモンゴル帝国勢力圏への侵入を排除することが目的であったとする見解がある』。『この数度に亘る元軍による樺太への渡海侵攻の結果、アイヌは元軍により樺太から駆逐されたものとみられる』。『元は樺太の最南端に拠点としてクオフオ(果夥)を設置し、蝦夷地からのアイヌによる樺太侵入に備えた』。『以後、アイヌは樺太に散発的にしか侵入することができなくなった』。『なお、樺太最南端には、アイヌの施設であるチャシとは異なる方形土城として、土塁の遺構がある白主土城(しらぬしどじょう)があり、これがクオフオ(果夥)であったと思われる』。さて、『クビライが日本に使節を派遣する契機となったのは』、一二六五年(文永二年)、『高麗人であるモンゴル帝国の官吏・趙彝(ちょうい)等が日本との通交を進言したことが発端で』、『趙彝は「日本は高麗の隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。また、漢・唐の時代以来、或いは使いを派遣して中国と通じてきました」』『と述べたという。趙彝は日本に近い朝鮮半島南部の慶尚道咸安(かんあん)出身であったため、日本の情報を持っていたともいわれる』。そこで『クビライは趙彝の進言を受け入れ、早速日本へ使節を派遣することにした。なお、マルコ・ポーロの「東方見聞録」では、『日本は大洋(オケアノス)上の東の島国として紹介されており、クビライが日本へ関心を抱いたのは、以下のように日本の富のことを聞かされ』、『興味を持ったからだとしている』。『「サパング(ジパング、日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から』千五百マイル(約二千二百五十キロメートル)『離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も』二ドワ(約四センチメートル)『の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。将軍の一人はアバタン(アラカン(阿剌罕))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」』。『また、南宋遺臣の鄭思肖も「元賊は、その豊かさを聞き、(使節を派遣したものの)倭主が来臣しないのを怒り、土の民力をつくし、舟艦を用意して、これに往きて攻める」』『と述べており、クビライが日本の豊かさを聞いたことを日本招諭の発端としている』。『他方、クビライによる日本招諭は、対南宋攻略の一環であったという説もある。モンゴル帝国は海軍を十分に持っていなかったため、海上ルートを確保するためもあったという見解である』。但し、『クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」』『と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」』『と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服を自らの悲願とする意志を表明している』。『クビライは使節の派遣を決定すると』、翌一二六六年(文永三年)『付で日本宛国書である「大蒙古國皇帝奉書」を作成させ、正使・兵部侍郎のヒズル(黒的)と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団を日本へ派遣』することとし、『使節団は高麗を経由して、そこから高麗人に日本へ案内させる予定であった』。同年十一月、『ヒズル(黒的)ら使節団は高麗に到着し、高麗国王・元宗に日本との仲介を命じ、高麗人の枢密院副使・宋君斐と侍御史・金賛らが案内役に任ぜられた』。『しかし、高麗側は、モンゴル帝国による日本侵攻の軍事費の負担を懼れていた』。『そのため、翌年、宋君斐ら高麗人は、ヒズル(黒的)ら使節団を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内すると、対馬をのぞみ、海の荒れ方を見せて航海が危険であること、貿易で知っている対馬の日本人は頑なで荒々しく礼儀を知らないことなどを理由に、日本への進出は利とならず、通使は不要であると訴えた』。『これを受けて使節は、高麗の官吏と共にクビライの下に帰朝した』。『しかし、報告を受けたクビライは予め「風浪の険阻を理由に引き返すことはないように」と日本側への国書の手交を高麗国王・元宗に厳命していたことや』、『元宗が「(クビライの)聖恩は天大にして、誓って功を立てて恩にむくいたい」と絶対的忠誠を誓っていながら、クビライの命令に反して使節団を日本へ渡海させなかったことに憤慨』、『怒ったクビライは、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、日本側から要領を得た返答を得てくることを元宗に約束させた』。『命令に逆らうことのできない元宗はこの命令に従い、元宗の側近』『らを日本へ派遣』せざるを得なくなるのであった。]

北條九代記 卷第十 宗尊親王御出家 付 薨去

 

      ○宗尊親王御出家  薨去

 

 將軍宗尊(そうそん)親王は、京都に還御ありけれども、關東幕府の職を止められ、非道邪曲の御行跡(ごかうせき)、重疊(ぢうでふ)し給ふ故なれば、後嵯峨上皇も、暫くは御對面の儀もおはしまさず。上皇よりの勅使として、中御門左少辨(させうべん)經任(つねたふ)を關東へ遣され、親王御上洛の御事を謝し給ふに、武家、別義、是なきに依(よつ)て、世の中、無事に治(をさま)りて、諸人安堵の思(おもひ)を致しけり。同年十月に、宗尊親王は、六波羅を出でて、承明門院の舊跡、土御門萬里小路(まてのこうぢ)の家に住み給ふ。幽(かすか)なる御有樣、往昔(そのかみ)にもあらず思召しけるが、同じき九年六月に御飾(おんかざり)を下(おろ)し給ふ。法名をば、覺惠(かくゑ)とぞ申し奉る。同十一年七月、御年三十三歳にして薨去し給ひけるとぞ聞えし。去ぬる建長四年より文永三年に到るまで、將軍の職十五年、一朝にして花散りて、威勢空(むなし)く地に落ちけるこそ、痛(いたは)しけれ。

 

[やぶちゃん注:「将軍記」「増鏡」七「北野の雪」(『東に、何事にか、煩しき事出できにたりとて、將軍 宗尊親王 七月八日、俄なるやうにて、御上りありけり。かねては、始めて御上りあらん時の儀式など、二なくめでたかるべき由をのみ聞きしに、思ひかけぬ程に、いとあやしき御有樣にて、御上りあり。御下りの折、六波羅の北の方に建てられたりし檜皮屋に、落ちつかせおはしましぬ。この頃、東に世の中おきてはからふ主は、相模の守時宗と、左京の権の大夫政村朝臣なり。時宗といふは、時賴朝臣の嫡子政村とは、ありし義時の四郎なり。京の南六波羅は、陸奥の守時茂、式部の大輔時輔とぞ聞ゆる』)「日本王代一覧」に基づく。なお、最後に再度述べておくが、本書では鎌倉幕府第六代征夷大将軍である宗尊親王(仁治三(一二四二)年~文永一一(一二七四)年:先の後嵯峨天皇第一皇子。母方の身分が低かったために皇位継承の望みはなかった。なお、彼は実は皇族で初めての征夷大将軍着任者であった)を一貫して「そうそん」と音読みし、現行の我々のように「むねたか」とは訓じていないが、前に述べた通り、音読みは本邦ではその人物への強い敬意を示すので、おかしくも何ともない。

「中御門左少辨(させうべん)經任」中御門経任(「つねただ」とも 天福元(一二三三)年~永仁五(一二九七)年)は後嵯峨上皇の有力な側近の一人で、若くして院の伝奏を務めた。参照したウィキの「中御門経任」によれば、弘長二(一二六二)年に左衛門権佐、『次いで右少弁も兼ねるが、当時の慣例では蔵人出身者が弁官に転じる順序であったところ、蔵人を経ずに直接右少弁に任ぜられたことから、当時の朝廷では、上皇の側近偏重人事であるとして物議を醸した』。なお、翌年には五位蔵人にも任ぜられて三事兼帯となっている。『その後も実務官僚として後嵯峨・亀山両院政で活躍し』、文永六(一二六九)年に『参議に昇進すると、その年から権中納言、従二位大宰権帥兼務と毎年のように昇進を重ねた』。建治三(一二七七)年、権大納言に昇進、弘安六(一二八三)年)に息子『為俊を右少弁に推挙して辞任し』ている。『彼の実務官僚としての才覚は抜群のものがあり』、弘安四(一二八一)年の『弘安の役直前という国家存亡の機に際しても、「敵国降伏」を祈念する勅使として伊勢神宮に派遣されている』。『ところが、その昇進の背景には後嵯峨上皇の寵愛とその後継者である亀山天皇の信任があったことでも分かるように、非常に強引なものであり』、『世間に多くの騒動を伴った。まず、左衛門権佐就任時には彼の異母兄・吉田経藤が官職を抜かされた屈辱から出家し、従二位叙位の際にも縁戚に当たる姉小路忠方が出世争いに敗れた衝撃からこれも出家、更に権大納言就任は四条隆顕(後深草院二条の叔父)を蹴落とす形であった』。さらに弘安九(一二八六)年に、『恩人である後嵯峨法皇が崩御した』が、『同じく寵臣であった北畠師親(親房の祖父)が出家したにもかかわらず、彼はそのまま官職に留まり続けたため、異母弟の吉田経長(経藤の同母弟)から糾弾を受けた』。しかも、『その翌年に伏見天皇が即位して後深草上皇が院政を始めると、これまで亀山上皇側近として後深草上皇らと対立関係であったにもかかわらず、上皇に召されて側近となっ』てさえいる。『当時、後嵯峨法皇崩御、皇統の移動(大覚寺統から持明院統)という事態に対して、出家もせず相手側陣営に奔った公卿達は少なくなく、むしろ大半がそうであった。だが、経任ほどの破格の寵愛を受けてきた人間までが平然とそうした振舞いに出た事(勿論、彼がそれだけ能力に長けていて、敵味方問わずに必要な人材であるという朝廷内の認識があったからであるが)に対する人々のやり切れない思いが経任への怒り・非難として向けられた』。しかし、この後、経任系中御門家は三代で没落、『代わって従兄弟の経継系統が主流となって明治維新まで続く』こととなった。後深草院二条が著した「とはずがたり」では、『経任に対しては誹謗中傷にも近い非難の言辞が書き連なられている。また歴史物語である』「増鏡」では弘安四(一二八一)年の『勅使の記事について、経任に随従した二条為氏が帰途の際に元軍敗退の報を聞いて詠んだとされている「勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつつ」という和歌の記事しか記載されていないが、一説にはこの歌は経任が詠んだにもかかわらず、忠義と愛国の情に満ちたこの歌を変節漢の経任が詠んだという事実そのものに不満を持つ』「増鏡」の著者自身の手に『よって著者を為氏にと書き改められたのではという説が』ある、とある。

「武家、別義、是なきに依(よつ)て」幕府征夷大将軍が空席になっているわけであるが、宗尊の子惟康(これやす)親王を擁している(但し、宗尊帰洛時で未だ満二歳)から、何ら、問題ないと応じているのである。

「承明門院」源在子(ありこ/ざいし 承安元(一一七一)年~正嘉元(一二五七)年)。後鳥羽天皇の妃で土御門天皇の生母。彼女は鎌倉時代史の中でも波乱に富んだ生涯を送った人物である。ウィキの「源在子」より引いておく。藤原顕憲(藤原盛実の子)の子能円と藤原範子との間に生まれ、『父の能円は平清盛の正室(継室)平時子の異父弟であった関係から平氏政権では法勝寺の執行に任ぜられている。母の範子は高倉天皇の第四皇子の尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母を務めた』。寿永二(一一八三)年の『平家が西国に落ちた際に能円が平家に同行したため』、母『範子は源通親と再婚』、後に通親が在子を養女にしたことから、彼女は源氏姓を名乗っている。『村上源氏中院流出身の公家である通親は、平氏政権では平家と良好な関係を築き』、『着実にその地位を固めていた』。しかし、治承五(一一八一)年に『院政を敷いていた高倉上皇が崩御、続いて清盛が死去し、後白河法皇の院政が復活するとそれまで良好であった通親と平家の関係は微妙なものになっていく。平家が都落ちした際には通親は後白河法皇とともに比叡山に逃れ、平家と対決することになる。平家は安徳天皇を伴って都落ちしたため、後白河法皇の院宣により尊成親王が践祚した』。『その後、通親は在子の母の範子と結婚したが、範子は新帝後鳥羽天皇の乳母であるため、通親は新帝の乳母父の地位を得ることになった』。文治元(一一八五)年に平家が壇ノ浦で滅亡、建久元(一一九〇)年には後鳥羽天皇が元服、摂政九条兼実の娘九条任子が中宮となるが、通親は引き続いて、『白河法皇の側近として院政を支え』た。しかし、建久三(一一九二)年に『後白河法皇が崩御すると、前年に関白に転じていた兼実は源頼朝への征夷大将軍任命に賛成し、朝廷内では頼朝の支援を受けた兼実が実権を握りつつあった。通親にとって兼実は強力な政敵であった』。『この頃、通親の養女の在子は後鳥羽天皇の後宮に入っ』た。建久六(一一九五)年八月に兼実の娘の『中宮の任子が昇子内親王を出産』するが、一方で同年十二月に、在子も『為仁親王(後の土御門天皇)を出産』している。『将来、天皇の外祖父として実権を握る足掛かりを得た通親は』、『これを機に丹後局ら反兼実派の旧後白河側近と連携』、『兼実の失脚を謀』り、『兼実は関白の地位を追われ中宮任子は内裏から退出させられた(建久七年の政変)』。建久九(一一九八)年、後鳥羽天皇は為仁親王に譲位し、院政を敷いた。『新帝土御門天皇の外祖父である通親』(三年前に権大納言に昇任)は、『これを機に院庁別当を兼任することになった。在子は正治元』(一一九九)年に『従三位准三后に列せられ』、建仁二(一二〇二)年には院号宣下を受けて「承明門院」となった。『建久七年の政変で兼実を失脚させ、新帝の外祖父となった通親の権勢は揺るぎないものと思われたが、正治元』(一一九九)年には『兼実の子九条良経が左大臣に昇進し、正治』二(一二〇〇)年には『土御門天皇の弟の守成親王(後の順徳天皇、母は在子の母範子の父方の叔父藤原範季の女藤原重子(修明門院))が皇太弟とされた』。「愚管抄」によると、『在子は母範子が死去した後、養父である通親と密通したため、後鳥羽上皇は修明門院重子を寵愛するようになったとし、美福門院の例に似ており、上皇と重子の間には皇子も多く誕生したという』。『なお、「美福門院の例」とは『古事談』で述べられている崇徳天皇が鳥羽天皇の実子ではなく崇徳の母待賢門院が鳥羽の祖父白河法皇と密通してできた子であり、それを知った鳥羽が美福門院を寵愛するようになった話である』。『しかし、在子の母範子が死去したのは正治』二(一二〇〇)年で、重子が順徳天皇を生んだのは』、その三年前の建久八(一一九七)年であり、矛盾する。美川圭は「愚管抄」の『この記事について、後鳥羽が重子を寵愛するようになったのを在子の密通のせいにするのは著者慈円の曲筆と主張し』、また、この文面からは、あろうことか、『土御門の父が通親であるとも解釈できることを指摘している』(以上、下線やぶちゃん)。建仁二(一二〇二)年十月に通親は死去、承元四(一二一〇)年十一月に『後鳥羽上皇の意向により』、『土御門天皇が皇太弟守成親王に譲位』それを見届けたかのように、建暦元(一二一一)年十二月に在子は出家している。しかし、承久三(一二二一)年の承久の乱によって、『配流された後鳥羽・土御門の両上皇と生別。土御門上皇が承久の乱の前年に通親の孫娘通子との間に儲けた邦仁王(後の後嵯峨天皇)は在子の土御門殿で養育され』た。『承久の乱によって在子は実家が没落』、『苦しい生活を強いられ』ることとなったのである。しかし、後の仁治三(一二四二)年、『四条天皇の崩御により』、彼女の孫となる『邦仁王が践祚した。後半生は不遇であった在子であったが、晩年には孫の皇位継承を目の当たりにすることができた』のであった。享年八十七歳、この条の時制は文永三(一二六六)年であるから、在子は九年前に亡くなっている。

「土御門萬里小路(まてのこうぢ)」現在の京都府京都市下京区附近万里小路町附近(グーグル・マップ・データ)。

「幽(かすか)なる御有樣」ひっそりと隠棲なさっておられる御様子。

「九年六月」教育社の増淵氏の現代語訳割注によれば、「二月」の誤り。文永九年は西暦一二七二年。

「御飾(おんかざり)を下(おろ)し給ふ」落飾(出家)なされた。

法名をば、覺惠(かくゑ)とぞ申し奉る。

「建長四年」西暦一二五二年。

「將軍の職十五年」数えで数えている。]

諸國百物語卷之五 十四 栗田左衞門介が女ばう死して相撲を取りに來たる事

 

     十四 栗田左衞門介(くりたさへもんのすけ)が女(によ)ばう死して相撲(すもう)を取りに來たる事


Onnayuureisumou

 加州の御家中に栗田左衞門介とて、ちぎやう八百石とる侍あり。内儀は同じ家中のむすめにて、かくれもなきびじんなりしが、ろうがいをわづらひて、むなしくなりけるが、左衞門、ふかくかなしみて、かさねてつまをももたず、三年をすごしけるが、しんるい、よりあひ、しゐてつまをむかへさせければ、尾張より新田(につた)六郎兵衞とて五百石とりのむすめ、十七さいになるをよびむかへけるが、三十日もすぎて。左衞門、當番にて城へあがりける。内儀はこたつにあたりてねころびゐ給ふに、としのころ十八、九ばかりなる女らう、はだにはしろき小そで、うへにはそうかのこの小そでをきて、ねりのかづきにてまくらもとにきたり、

「そのはうさまは、なにとて、これには、ゐ給ふぞ」

と云ふ。内儀、おどろき、

「さやうにをゝせ候ふは、いかなる御かたぞ」

と、たづね給へば、

「われは此家のあるじにて候ふ」

と云ふ。内儀、きゝて、

「さやうの事もぞんじ候はで、ちかきころ、これへ、ゑんにつき參り候ふ。御はらだちは御尤にて候ふ。さりながら左衞門どのは、さぶらひともおぼへざる事にて候ふ。そのはうさまのやうなる、うつくしき女らうをもちながら、又ぞや、つまをかさね給ふ事、かへすがへすもくちをしく候ふ。明るさう天にかへり申さんとおもひ候へども、女の事にて候へば、しばしのうちは、心ゆるし候へ」

と、申されければ、

「いかにもゆるゆると御しまい候ひて御かへり候へ。さてさて、まんぞく申したり」

とて、かへられけるをみれば、かきけすやうに、うせにけり。さて、左衞もんは城よりかへりければ、内儀、

「われにはいとまを給はれ」

との給へば、

「にわかに、さやうにの給ふは、いかなる事にて候ふぞや。しさいをかたり給へ」

といへば、

「そのはうさまは、さぶらひにあひ申さぬ事の候ふ。本妻ありながら、又、われをよびむかへ給ふ事。さりとてはひきやう也。へんじもはやく、いとまを給はれ」

との給へば、左衞門、きゝて、

「これは、おもひもよらぬ事をおゝせ候ふものかな。はじめより申し入れ候ふごとく、三年いぜんに女にはなれてより此かた、そのはうよりほかに、つまとては、もち申さず」

とて、せいごんたてゝ申されける。そのとき、内儀、ゆふべかやうかやうの女らう、きたり給ふよし、のこらず、物がたりし給へば、左ゑもん、きゝて、

「さては、三年いぜんの、つまのゆうれいなるべし。べつのしさいは有るべからず。此うへは、われにいのちを給わるとおぼしめし、とゞまり給へ。いとまはいだし申すまじ」

と、いわれければ、内儀、ぜひなく、とゞまり給ひける。そのゝち、左ゑもんのるすの夜、またはじめの内儀、きたりて、

「さてさて、いぜん、かたく、やくそくなされ候ひて、今に御かへりなきこそ、うらめしく候ふ」

と申されければ、内儀、きゝ給ひ、

「そのはうさまは、今は此世にましまさぬ御身のよし。なにとて、さやうにしうしんふかく、まよい給ふぞ。とくとく、かへり給へ」

との給へば、はじめの内儀、申されけるは、

「ぜひぜひ御歸りなく候はゞ、相撲をとり候ひて、そのはう、まけ給はゞかへり給へ。それがしまけ候はゞ、かさねてまいるまじ」

と、いふよりはやく、とびかゝる。内儀も、こゝろへたり、とて、くみあひ、うへをしたへとかへす所へ、左ゑもん、かゑりければ、ゆうれいはきへて、うせにけり。そのゝち、左ゑもん、るすなれば、きたりて、すもふをとる事、五たび也。内儀はこれを物うき事に思ひ、しだひに、やせおとろへて、わずらいつき給へば、ほどなく、むなしくなり給ふ。今をかぎりのとき、左ゑもんに申されけるは、

「内々申しまいらせ候ふゆうれい、そのゝちたびたび出で給ひ、われをなやましけるを、おそろしくはおもひけれども、一たびいのちをたてまつらんと、けいやく申すうへは、ぜひなく思ひくらし、今、かく、あひはて申す也。ねんごろにあとをとぶらひ給ふべし。此しだい、われらがをやにかたり給ふな」

とて、つゐに、はかなくなり給ふ。左ゑもんはかなしみて、野べのおくりをいとなひつゝ、かきをき、したゝめ、内儀のおやにおくり、その身は出家し、しよこくしゆぎやうに出でけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「女のゆうれいすまふをとる事」(歴史的仮名遣は誤り)。

「栗田左衞門介」不詳。

「相撲」私も調べて驚いたが、ウィキの「相撲」によれば、「日本書紀」雄略天皇十三年(四六九年)には.『秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じて褌を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲であり、これが記録上の「相撲」という文字の初出でもある』とある(下線やぶちゃん)。また、言わずもがな乍ら、『相撲は神事としての性格が不可分である。祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは』一勝一敗『で決着するようになっている。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもある。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていった』ことは今、忘れられつつある。先般、旅した隠岐の島後(どうご)では今も土地の神事相撲が盛んであるが、そこでも最初は本気でやり、今一番は勝った力士が業と負けるという由緒正しき仕儀が守られているのである。ここで「後妻(うわなり)打ち」の如くに行われるそれも、そうした神事システムの文脈で考えるなら、相撲勝負を後妻が受諾した瞬間から、その掟に組み込まれてしまっており、後述するように後妻が生気を吸い取られて、死に至ることは既にして決していると読むべきであって、後妻が勝って大団円という図式は民俗社会ではありえないことに気づかねばならぬと私は思うのである。なお、ウィキの「女相撲」によれば、興行物としての「女相撲」の歴史は江戸中期の十八世紀中頃からの流行とあり、当初は事実、女同士の取り組みで『興行したが、美人が少なく』、『飽きられたため、男の盲人との取り組みを始めて評判になった。大関・関脇などのシステムは男の相撲に準じており、しこ名には「姥が里」「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」などの珍名がみられる』とし、『江戸時代中期、江戸両国で女性力士と座頭相撲の座頭力士(つまり男の盲人)とを取り組ませたとされ』、延享二(一七四五)年の「流行記」の「延享二年落首柳営役人評判謎」には『「一、曲淵越前守を見て女の角力ぢやといふ、その心は両国ではほめれど、一円力がない」との記述がある』とあり、大坂でも明和六(一七六九)年、『女相撲興行が始められ』、「世間化物気質」には『「力業を習ひし女郎も、同じ大坂難波新地に女子の角力興行の関に抱へられ、坂額といふ関取、三十日百五十両にて、先銀取れば」とあり、その人気が伺える』。また「孝行娘袖日記」の明和七(一七七〇)年版には、『「とても、かやうな儀は上方でなければ宜しうござりやせぬ。御聞及びの通り、近年女の相撲などさへ出来ましたる花の都」とある』という。『女性と盲人との相撲が江戸で評判となり、安永年間』(一七七二年~一七八一年)から寛政年間(一七八九年~一八〇一年)にかけて、『女相撲に取材した黄表紙、滑稽本が流行した。寛政年間には、羊と相撲をとらせる女相撲もおこなわれた』。『しかし安永の頃から女相撲の好色なひいきが申し合わせて興行人・世話人に金銭を与え、衆人環視の中で男女力士に醜態を演じさせることが再三あったため、寺社奉行から相撲小屋の取り払いを命じられることになった』。文政九(一八二六)年になると、『両国で女性と盲人との相撲が復活し』たものの、『女同士の相撲の興行については、興行者にも企図する者があったものの、その後の禁止で復活を果たせず、結局』、嘉永元(一八四八)年に『至り、名古屋上り女相撲の一団が大坂難波新地にて興行を復活させることになった。このときそれまで女力士が島田、丸髷姿であったものを男髷に改めた』。この興行は「大津絵節」で『「難波新地の溝の川、力女の花競べ、数々の盛んの人気、取結びたる名古屋帯、尾張の国から上り来て、お目見え芸の甚句節、打揃ひつつ拍子やう、姿なまめく手踊に引替へて、力争ふ勢ひの烈しさと優しさは、裏と表の四十八手」とうたわれるほどの人気となり、華美なまわしのしめこみと美声の甚句節手踊りが観客のこころをとらえ、幕末の興行界で異彩をはなった』とあるが、本「諸國百物語」は遙か以前の延宝五(一六七七)年の刊行であり、見世物として完成された、こうした「女相撲」の趣向の影響は認められない

「加州」加賀藩。

「ちぎやう」「知行」。

「かくれもなきびじん」「隱れもなき美人」。美人として広く世間で知れ渡っていることを指す。

「ろうがい」「労咳」。肺結核。

「しゐて」「強ひて」。歴史的仮名遣は誤り。

「新田六郎兵衞」不詳。

「こたつにあたりてねころびゐ給ふに」「炬燵にあたりて寢轉び居たまふに」。

「女らう」「女﨟」。高貴な婦人。

「はだにはしろき小そで、うへにはそうかのこの小そでをきて」「肌には白き小袖、上には總鹿子(そうかのこ)の小袖を着て」。「總鹿子」は布を小さく摘まんで括(くく)った絞り染め。全体に白い小さな丸が紋として表わされる。

「ねりのかづきにて」「練絹(ねり)の被(かづ)き」。「被き」は高貴な婦人がお忍びの際に顔を隠すためなどに上から被ることを専用とした着物のこと。

「そのはうさま」「其の方樣」。亡者といえど、生前、高貴な婦人なれば、言葉遣いが丁寧である点に注意。

「あるじ」女主人の意。直ちに栗田左衛門介の正妻を意味する。

「ゑんにつき參り候ふ」「緣に付き參り候ふ」。縁あって正式に栗田左衛門介に嫁入りして参った者にて御座いまする。

「はらだち」「腹立ち」。

「つまをかさね給ふ事」後妻の彼女に、夫が既に正妻があることを言わずに、しかも正妻として迎えた不届き(現在の重婚罪)を批判しているのである。

「明るさう天」「あくる早天(さうてん)」。この夜の終わって、明日の明け方早く。

「女の事にて候へば、しばしのうちは、心ゆるし候へ」夫に告げずに実家に戻る訳には行かぬから、暫しの猶予を求めたのである。

「御しまい候ひて」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『持物道具などかたづけて』とある。

「まんぞく」「滿足」。

「さぶらひにあひ申さぬ事の候ふ」「侍に相ひ申さぬことのさふらふ」。侍らしからぬ、不届きなるところが御座いまする。

「ひきやう也」「卑怯なり」。

「へんじもはやく」「片時も早く」。一刻も早く。

「女にはなれて」先妻と死別して。

「せいごんたてゝ」「誓言立てて」神仏に誓って。

「べつのしさいは有るべからず」「別の子細はあるべからず」。「そなたが私の正妻としていることには何らの支障も、これ、あろう筈もない!」。

「さやうにしうしんふかく」「左樣に執心深く」。

「物うき事」(夫に秘めているが故に一層、)心にいとわしく切なく思い。夫に心配させるまいという遠慮から、先妻の幽霊と組んず解れつの修羅の相撲を取るという地獄を語らぬ、孤独なる苦悶なのである。笑いごとなどではなく、話柄は遂にカタストロフへと一気に進むのである。

「しだひに、やせおとろへて、わずらいつき」「次第(しだい)に、瘦せ衰へて、患ひつき」(複数箇所の歴史的仮名遣の誤りがある)。現代の精神医学なら、重度のノイローゼか、或いは統合失調症の初期幻覚とも見做せるが、陰気のみで出来た亡者と組み合うということは生きた人間としての陽気を確実に喪失していくことと同義であるから、民俗社会的にも腑には落ちる。

「一たびいのちをたてまつらんと、けいやく申すうへは」武士の妻として、である。

「いとなひつゝ」「營ひつつ」。「営みつつ」に同じい。葬儀を執り行いながら。

「かきをき、したゝめ」「書き置き、認め」。恐らくは妻の願いを破って、死に至った理由を具さにしたためたのであろう。彼女が語ることを禁じたのは、あくまで「武士」としての夫の名誉を守るためであったからである。しかしそれは今となっては無用なのであった。彼はこの直後に「出家し」、諸国修行に旅立ったからである。後妻の健気さは勿論ながら、先妻の妬心の執心に浅ましさはあるにしても、しかしどうしても先妻を憎む気には私はなれぬ。私は本話柄の全体に、ある種の哀感を禁じ得ないのである。]

2016/11/22

北條九代記 卷第十 鎌倉騷動 付 北條教時別心 竝 將軍家御歸洛

 

      ○鎌倉騷動  北條教時別心  將軍家御歸洛

 

中務(なかづかさ)大輔北條教時は、名越遠江守朝時の六男なり。北條家、繁榮して、一家一門とだにいへば、所領俸祿に預り、榮耀(ええう)に誇り、貴顯に至り、他門の輩(ともがら)は自(おのづから)、譜代相傳の忠義を運び、拜趨(はいすう)の禮を正しくす。將軍家、是を目覺しく思召し、如何にもして北條家を傾(かたぶ)け、御心の儘に世を治めばやと、企て給ひ、内々、諸人の心を挽(ひ)き見給ふ所に、教時、如何なる故にやありけん、將軍家に心を寄せ奉り、御前近く親(したし)み參らせ、密々の談話を致されけり。此事、既に、端(はし)、顯(あらは)れしかば、鎌倉中、騷動し、何とは知らず、大事出來りと云ふ沙汰して、近國の御家人、蜂の如くに起り、六月二十四日の早天(さうてん)より、鎌倉に競集(きそひあつま)り、寺社民屋に込入(こみい)り、猶、その外は居(ゐ)餘りて小路に馬を立て、辻々に塞充(ふせぎみ)ちたり。七月朔日に至りては、諸方の御家人等(ら)、兵具を帶(たい)し、旌(はた)を靡(なびか)し、關を破りて馳來り、又は間道を𢌞(まは)りて押集(おしあつま)る。夜畫の境もなく、引もちぎらず、皆、鎌倉に集りて雲霞の如し。何事と聞定(きゝさだ)めたるにはあらで、鎌倉の民俗、騷立(さはぎた)ちて、資財を取隱(とりかく)し、雜具(ざふぐ)を持運(もちはこ)び、男女、さまよひて、老いたる親、稚(いとけな)き子の手を引き、抱き抱へて山深く籠るもあり。舟に乘りて他國へ渡るもあり。武士は甲冑を帶して、東西に走違(はせちが)ひ、相摸守の門外に集り、又は政所の南の大路に馬を寄せて閧(とき)の音(こゑ)を擧げたり。何所(いづく)に敵ありとも知らず、誰人の逆心とも聞分(き〻わけ)たる方はなし。相摸守は少卿(せうけいの)入道蓮心、信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)を使者として、將軍家へ兩三度の往返(わうへん)あり。「か〻る騒動の候らん折節は、その以前の將軍家、何(いづれ)も先(まづ)、執權の亭へ入御し給ひて、世の中の變を窺はせ給ひて候。若(もし)、或は然るべき人々營中に參候(さんこう)して守護し奉りし例(ためし)も候。此度に於いては其儀なく、打顰(うちひそま)りておはしまし候御事は、憚(かゞかり)ながら、世の人、以て恠(あやし)み奉り候。急ぎ、此方(こなた)へ入御ましまして、世の有樣をも御覽ぜらるべき歟」と申遣(まうしつかは)されしかば、年月日比(ひごろ)御所に有りて朝(あした)に馴昵(なれむつ)び、夕(ゆふべ)に親しみ、諂(へつらひ)ける者共、色を失ひ、慄周章(ふるひあはて)て、我も我もと、御所を逃げ出でたり。周防(すはうの)判官忠景、信濃〔の〕三郎左衞門尉行章(ゆきあきら)、伊東刑部左衞門尉祐賴(すけより)、鎌田次郎左衞門尉行俊(ゆきとし)、澁谷左衞門次郎淸重等(ら)計(ばかり)こそ、御所中には居殘りけれ。歳(とし)寒しくて而(しかうし)て後に松栢(しようはく)の貞(てい)は知る、といへり。日比は媚諂(こびへつら)ひ、身に代り、命に替(かは)らんと申しける者共、皆、闕落(かけおち)して跡を隱し、行方なく散失(ちりう)せぬるも嗚呼(をこ)がまし。同四日、午刻(うまのこく)計(ばかり)に、「すはや、こと起り、軍(いくさ)、初(はじま)り亂れ立ちぬるぞや」と訇(の〻し)りて、鎌倉中の騷動、斜(な〻め)ならず、中務權大輔北條教時朝臣は、將軍家に心を寄せ奉り、甲胄の武士數十騎を率(そつ)して、藥師堂の谷の亭より懸(かけ)いでて、塔の辻の宿所に至り、鬨の聲を揚(あげ)しかば. その近隣、彌(いよいよ)、騷立ちて、ありとあらゆる軍兵共、鎧、腹卷(はらまき)、太刀、長刀よと犇(ひしめ)き、馬に打乘り、旌(はた)差上げ、東西南北に走𢌞(はしりめぐ)れども、誰人を大將として、何方へ押掛(おしか〻)るとも、更に見えたる事も、なし。逃惑(にげまど)ふ女、童(わらべ)の啼叫(なきさけ)ぶ聲、老いたる親の手を引きて、馬に蹴られじと落行(おちゆ)く者、又。その間に盗人(ぬすびと)有りて、物を奪取(うばひと)りて走行(はしりゆ)く。打伏(うちふ)せ、切倒(きりたふ)し、物の色目も見分かず。相摸守時宗、この由を聞きて、東郷八郎入道を遣して、教時へ仰越(おほせこ)されけるやう、「當家の事は、往昔(そのかみ)、遠州時政より草創して、神(しん)に通じ、天に契(かな)ひて、天下の執権、數代に傳(つたは)れり。泰時、時賴、相續して、正道の政治をいたす。驕(おご)れるを誡(いましめ)て直(なほき)に歸(き)し、德澤(とくたく)を四海に施して、仁義を萬姓(ばんせい)にす〻め、國家長久の謀(はかりごと)を逞(たくましく)して、上下安泰の道を專(もつぱら)とす。これに依つて、一門既にこの餘風に與(あづか)り、俸祿、その身に相應して、分際(ぶんざい)に從ひて榮耀(ええう)に誇れり。他門他家の輩、誰(たれ)か傾(かたぶ)け侍らん。然るに、將軍家、更に国家の政道に御心を掛けられず、和歌の道は本朝の風儀なれば、最(もつとも)稽古し給ふに足りぬべし。只、その隙(ひま)には蹴鞠(しうきく)、博棊(ばくぎ)を事とし、酒宴に長(ちやう)じ、女色(ぢよしき)に陷(おちい)り給ひ、諸人の憂(うれへ)を思召し知(しら)ず、威勢、輕忽(きやうこつ)にして、武德、磷(ひすろ)ぎ、令命(れいめい)、改變して、法式、猥(みだり)がはし。是(これ)を歎き參らせて、屢(しばしば)、諫言を奉れば、却(かへつ)て嘲哢貶挫(てうろうへんざ)し給ひ、益(ますます)、恣(ほしいま〻)なる事、天下の亂根(らんこん)に非ずや。猶、剩(あまつさ)へ佞奸(ねいかん)の不覺人(ふかくじん)を集め、北條の家門を滅(めつ)し、時宗が一族を亡(ほろぼ)さんとの御計(おんはからひ)、之(これ)、何の事ぞや。其(それ)に貴殿、心を寄せられ、非道の結構、頗る人外の所行と申すべし。獅子身中の蟲とは、か〻る事の喩(たとへ)ならんか。年來、時宗に遺恨の事も候はゞ、追(おつ)て如何にも承り、然るべき義に於いては、兎も角も、分別あるべし。此度(このたび)を幸(さいはひ)とし給はゞ、比興(ひきよう)の企(くはだて)、誰(たれ)か、心ある人、一味すべき。早く志を改めて、此方(こなた)へ来り給へ」と申し遣されしかば、中務大輔教時、大に恥しく、軈(やが)て東郷〔の〕入道に打連れて、相州の亭に参り、「全く野心を存ずるにあらず。若し、此一門に敵對すべき人もあるかと、引見(ひきみ)ん爲に、かくは振舞ひ候なり。枉(まげ)て御免を蒙り候はん」とて一紙の誓狀(せいじやう)を參らせらる。時宗は、是迄には及び候まじき者をとて、何の心を殘されたる色もなし。去程(さるほど)に、將軍宗尊親王は、同日の戊(いぬの)刻に女房の輿(こし)に召され、御所を出でて、越後入道勝圓(しようゑん)が佐介(さかいの)亭に入御し給ふ。北の門より赤橋を西に赴き、武藏大路を經て、京都に還上(かへりのぼ)らせ給ふ。相摸〔の〕七郎宗賴、同六郎政賴、遠江〔の〕前司時直、越前〔の〕前司時廣、彈正少弼(せうひつ)業時(なりとき)、駿河〔の〕式部大夫通時(みちとき)以下の武士都合十九人、雜兵(ざふひやう)、下部(しもべ)四百餘人供奉し奉り、同七月二十日には京都に著御(ちやくぎよ)あり。左近〔の〕夫夫將監時茂(ときもち)朝臣の六波羅の亭に入り給ふ。事柄、穩便の有樣、御痛(おいたは)しきまでにぞ見奉りける。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻五十二の文永三年六月二十三日・二十六日、七月一日・三日の記事、及び、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」「将軍記」に基づき、北条教時が宗尊親王の謀叛に加担していたという部分は「日本王代一覧」に拠り、本条は「吾妻鏡」に出る、時宗が教時の行状を諫めたという記事についても、『その諫言が宗尊親王の行状悪しきことや教時の行為を人外の所行とするものであったと具体的に』追加を加えている、とある。

「北條教時」「中務(なかづかさ)大輔北條教時」(嘉禎元(一二三五)年~文永九(一二七二)年)名越流の北条朝時(第二代執権北条義時次男)の子で、「名越(なごえ)教時」とも称した(古記録では姓の由来の鎌倉の地名の方の「名越」は「なごや」と読むことが多い)。母は北条時房の娘。康元(一二五六)年から文永二(一二六五)年まで引付衆、文永二(一二六五)年から死の年まで評定衆を務めている。北条得宗家への敵愾心が強くあり、文永九(一二七二)年に得宗家転覆を企てて謀反を起こすが、第八代執権となっていた時宗の討伐軍によって討ち取られた(二月騒動)。享年三十八で時宗より十六歳年上であった。彼は弘長三(一二六三)年一月に彼は中務権大輔となっている。

「別心」二心(ふたごころ)。背かんとする気持ち。

「北條家、繁榮して、一家一門とだにいへば、所領俸祿に預り、榮耀(ええう)に誇り、貴顯に至り、他門の輩(ともがら)は自(おのづから)、譜代相傳の忠義を運び、拜趨(はいすう)の禮を正しくす」この部分は広義の北条一族(得宗家ではない)の、幕府内に於ける一般的普遍的優先待遇を述べている。

「挽(ひ)き」慫慂して。

「寺社民屋に込入(こみい)り」寺社の境内地や民家の敷地内にまで入り込み。

「關を破りて」各地の関所には火急の事態に対処するための情報が行き渡らず、通過を制止しようとする防備の地侍の役人らと、「いざ鎌倉」の血気にはやった、より地方から馳せ参じた武士集団とが小競り合いを起こし、無法な関所破りも行われたということであろう。関所を守る方も、鎌倉に向かおうとする者らも、そもそもが鎌倉で何が起こりつつあるのか判らぬのだから、こうした周縁の現場が混乱するのは当然である。

「民俗」民草(たみぐさ)。

「相摸守」北条時宗。

「政所の南の大路」当時の幕府の南の大路となれば現在の若宮大路の二の鳥居附近と考えてよかろう。

「少卿(せうけいの)入道蓮心」武藤景頼(建仁四・元久元(一二〇四)年~文永四(一二六七)年)。評定衆。北条時宗の父時頼の得宗家に忠実な幕臣。時頼の死去に伴って出家し、「心蓮」(表示は錯字であろう)と号した。

「信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)」二階堂行忠(承久三(一二二一)年~正応三(一二九〇)年)は二階堂行盛の子で後の政所執事。娘は安達長景室。ウィキの「二階堂行忠」によれば、『政所執事は代々主に二階堂行盛の子孫が世襲している。最初は二階堂行泰が継ぎ、その後その子行頼、行実が政所執事を継ぐがそれぞれ早死にする。その後政所執事を継いだ行泰の弟の二階堂行綱の家でもその子頼綱が政所執事を継いで』二年後に『死去したため、政所執事の職には当時評定衆であったその叔父・行忠が』六十三歳『という高齢で就任することにな』ったとある。

「打顰(うちひそま)りておはしまし候御事は」ただただ、何事の御下知も渡御の意向も示されず、ひたすら、こと異様にひっそりと静まり返ってお籠り遊ばしておらるることは。

「慄周章(ふるひあはて)て」三字へのルビ。

「周防(すはうの)判官忠景」島津忠景(仁治二(一二四一)年~正安二(一三〇〇)年)。鎌倉幕府御家人で薩摩国知覧院(現在の鹿児島県南九州市)の地頭。ウィキの「島津忠景によれば、『学芸に優れ』、『宗尊親王の近臣として廂衆・門見参衆・御格子上下結番・昼番衆等の御所内番役に選ばれ』、『親王や二条為氏ら主催の和歌会・連歌会に度々列席し、『弘長歌合』では源親行と番えられ、これに勝っている』。『成熟期鎌倉歌壇における代表的な武家歌人と目される。そのためか』、『宗尊親王からの信任が非常に厚く』、「吾妻鏡」をみると、『親王の私的な行動にまで供奉しているのがしばしば見受けられ、兄・忠行はもとより本宗家の忠時・久経らと比較しても顕著な活躍を示しているのがわかる。蹴鞠にも造詣が深』、弘長三(一二六三)年には蹴鞠の『奉行にも選任され』ている。この親王更迭の翌年の十二月に叙爵し、『晩年は六波羅探題に転出し、京都で活動していたと推測される』とある。

「信濃〔の〕三郎左衞門尉行章(ゆきあきら)」二階堂行章(嘉禎元(一二三五)年~文永一一(一二七四)年)。「ゆきあき」とも。父二階堂行方は宗尊親王の御所中雑事奉行(或いは御所奉行)を勤めている。「吾妻鏡」には寛元二(一二四四)年から文永三(一二六六)年)まで、先の第五代将軍藤原頼嗣と、この第六代将軍宗尊親王の供奉・随兵の一人として名を連ねている。後の文永七(一二七〇)年に引付衆に列している。

「伊東刑部左衞門尉祐賴(すけより)」「曽我物語」で討たれた伊東祐経の後裔。この祐頼は木脇伊東氏を名のり、この後の元寇に際しては、伊東家からは当時、今の宮崎県日向の地にあった祐頼が出陣して活躍している。

「鎌田次郎左衞門尉行俊(ゆきとし)」詳細事蹟不祥。

「澁谷左衞門次郎淸重」詳細事蹟不祥。

「歳(とし)寒しくて而(しかうし)て後に松栢(しようはく)の貞(てい)は知る」「論語」子罕篇にある「子曰、歳寒、然後知松柏之後凋也」(子曰く、「歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るるを知るなり。」と)に基づく故事成句。「ひどく寒くなってきて初めて、松や柏(かしわ)が他の植物の葉が枯れ落ちる中、一向に枯れずにその生き生きとした緑葉を保っていることが判る」の意で、「火急の時に至って初めて人の真価が判る」ことを譬えた語。

「行方なく」「ゆくゑなく」と訓じておく。

「嗚呼(をこ)がまし」全く以って嘆かわしく馬鹿げたことである。

「午刻(うまのこく)」午後零時頃。

「藥師堂の谷」現在の覚園寺のある谷。

「塔の辻の宿所」現在の由比ガ浜通りの中間地点の鎌倉市笹目町であるが、覚園寺のある谷戸からは真反対の位置であるが、或いは騒擾を激化させることを目的として、幕府を突っ切って対角線上に移動した確信犯か。「宿所」とは幕府の警固のための番屋のようなものか。

「腹卷(はらまき)」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。

「長刀」「なぎなた」。

「東郷八郎入道」「吾妻鏡」には、ここにしか出ない人物で不詳であるが、ここでこの叛逆事件が、かくも収まったことを考えると、東郷八郎入道なる人物は時宗側近であると同時に、教時とも昵懇の間柄であったことが推定される。

「當家」ここは広義の得宗家に限らぬ北条家を指す。

「遠州時政」第一代鎌倉執権北条時政の官位は遠江守(正治二(一二〇〇)年四月一日叙任)。

「直(なほき)に歸(き)し」正道に戻させ。

「德澤(とくたく)」恵み。恩沢。御蔭。

「四海」本邦の国中。

「萬姓(ばんせい)」総ての臣民。

「餘風」時政の施した恩恵。

「分際(ぶんざい)」身分や地位。

「最(もつとも)」(貴人としては)言うまでもなく、何にも増して。

「足りぬべし」(その道を究めることは)貴人としての相応の意義は充分にあるであろう。

「博棊(ばくぎ)」博奕(ばくち)を目的とした将棋。

「諸人の憂(うれへ)を思召し知(しら)ず」民草の、公儀の政(まつりごと)が正常に行われていないことに対する深い心痛。

「威勢、輕忽(きやうこつ)にして」権威も軽るはずみで信ずるに足る重みもなく。

「磷(ひすろ)ぎ」底本頭注に『すれて薄くなり』とある。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意。

「令命(れいめい)」「命令」に同じい。

「法式」公的な儀式・礼儀などの規則。

「猥(みだり)がはし」すっかり乱れた状態に見受けられる。

「是(これ)を歎き參らせて、屢(しばしば)、諫言を奉れば」主語は直接の話者である時宗。

「嘲哢貶挫(てうろうへんざ)」嘲弄しつつ斥(しりぞ)け貶(けな)すこと。

「佞奸(ねいかん)」口先巧みに従順を装いながら、心の中は悪賢く、ねじけていること。

「不覺人(ふかくじん)」とんでもない不心得者。

「非道の結構」道理に外れた企み。

「獅子身中の蟲」元は仏教用語で、百獣の王とされる神獣獅子の体内に寄生し、遂には獅子を死に至らせる虫の意。仏徒でありながら、仏法に害をなす者の意。転じて、組織・集団の内部に居ながら、害をなす者や恩を仇(あだ)で返すような、破滅的元凶となる存在を指す。

「年來」「としごろ」。永年。

「然るべき義に於いては、兎も角も、分別あるべし」その内容が私にも得心出来るものであった場合には、どのようにでも貴殿の納得出来るよう、考えもし、処理も致そう。

「此度(このたび)を幸(さいはひ)とし給はゞ」今回の双方にとって心ならざる事態を、却ってよき方へと転じようとお思いになられるのであるならば。

「比興(ひきよう)の企(くはだて)」この場合の「比興」は「卑怯」に同じい。このようなつまらぬ、どう考えても不都合にして、正道から外れた卑怯な謀略。

「東郷〔の〕入道に打連れて」東郷の入道に導かれてともにうち連れて。

「相州」相模守北条時宗。

「此一門」広義の北条一族。

「引見(ひきみ)ん爲に」そうした叛逆を意図する悪しき輩(やから)の気をわざと惹いてみんがために。

「枉(まげ)て御免を蒙り候はん」「どうか、御勘気をお鎮め遊ばされて、お許し頂きとう、御座いまする。」。

「誓狀」神仏に誓った誓約の起請文。

「是迄には及び候まじき者をとて」「者」は漢字を当てただけで、詠嘆の主助詞「ものを」。そんな大それた誓文までお出しにならずともよいのに、の意。

「何の心を殘されたる色もなし」一向に勘気や、気にかけて疑う様子も、これ、なかった。

「去程(さるほど)に」そうこうしているうちに。意想外にも。

「戊(いぬの)刻」午後八時頃。

「女房の輿(こし)に召され」襲撃を畏れたことよりも、正式の輿を動かすに足る人員が逃げ出してしまったことによって、まるでいなかったことによるものであろう。

「越後入道勝圓(しようゑん)」初代連署北条時房の長男北条時盛(建久八(一一九七)年~建治三(一二七七)年)。因みに、彼も北条氏の内部抗争の結果、幕府内での有意な地位を追われていた人物であった。詳しくはウィキの「北条時盛」などを参照のこと。

「佐介(さかいの)亭」ルビはママ。佐助ヶ谷のことか。但し、そうすると、以下の御所退去は、その佐助ヶ谷への時盛邸へのルートとして相応しく、後にそこを帰洛ルートとするのは、やや解せない(結果としてはそうなるとしても、である)。あたかもそれでは、また、時盛邸から御所に戻って、改めて帰洛したかのように読めてしまうからである。「吾妻鏡」を読む限り、この時盛の佐助邸への移送が、御所を出た最後である。

「北の門」御所の北門。現在の鶴岡八幡宮の源氏池の外側やや南西にあったと思われる。

「赤橋」八幡宮の太鼓橋のこと。

「武藏大路」八幡宮前の向かって左側の通りの旧名。そこを突っ切ると、寿福寺の前に出、左折すれば佐助ヶ谷へ向かう。

「相摸〔の〕七郎宗賴」北条宗頼。北条時宗の異母弟。以下、幕閣側の護送役である北条一門の面々であるので詳細には注しない。

「同六郎政賴」北条政頼。前記の宗頼の兄。

「遠江〔の〕前司時直」北条時直。金沢流北条氏の祖金沢実泰の子である実時の子。彼は幕府滅亡直後に瀬戸内で降伏、罪を許されて本領を安堵されるたが、程なく病死している。生年は未詳であるが、推定では享年は百歳となる(以上はウィキの「北条時直に拠る)。

「越前〔の〕前司時廣」北条時広。北条時房次男北条時村の子。

「彈正少弼(せうひつ)業時(なりとき)」北条業時。連署であった北条重時の四男。

「駿河〔の〕式部大夫通時(みちとき)」北条通時。北条政村の子。

「左近〔の〕夫夫將監時茂(ときもち)朝臣」北条時茂北条重時の三男。

 

 以下、「吾妻鏡」の文永三(一二六六)年七月四日の条を抄出する。引用は、直前にある北条教時の騒擾(引用後に後述)の記事及び途中と後にある、佐介の亭を出て帰洛する将軍の供奉人等のリストを省略してある。

 

〇原文

四日甲午。申尅。雨降。今日午尅騷動。中務權大輔教時朝臣召具甲冑軍兵數十騎。自藥師堂谷亭。至塔辻宿所。依之其近隣彌以群動。相州以東郷八郎入道。令制中書之行粧給。无所于陳謝云々。

戌刻。將軍家入御越後入道勝圓佐介亭。被用女房輿。可有御皈洛之御出門云々。

供奉人(以下、中略)

路次。出御自北門。赤橋西行。經武藏大路。於彼橋前。奉向御輿於若宮方。暫有御祈念。及御詠歌云々。

供奉人(以下、中略)

〇やぶちゃんの書き下し文

四日甲午。申の尅、雨、降る。今日、午の尅、騷動す。中務權大輔教時朝臣、甲冑の軍兵數十騎を召し具し、藥師堂谷の亭より、塔の辻の宿所に至る。之れに依つて、其の近隣、彌々成(も)つて群動す。相州、東郷八郎入道を以つて、中書の行粧ぎやうさうを制せしめ給ふ。陳謝するに所無しと云々。

戌の刻、將軍家、越後入道勝圓が佐介(さすけ)の亭へ入御す。女房輿を用ゐらる。御歸洛有るべきの御出門と云々。

供奉人(以下、中略)

路次(ろし)は北門より出御、赤橋を西へ行き、武藏大路を經(ふ)。彼(か)の橋の前に於いて、御輿を若宮の方に向け奉り、暫く御祈念有りて、御詠歌に及ぶと云々。

供奉人(以下、中略)

 

なお、この時の宗尊親王の詠歌は、

 

 十年あまり五年までも住み馴れてなほ忘られぬ鎌倉の里

 

ともされる(但し、現在では本歌は、帰洛の際、藤沢の本蓮寺(モノレール目白山下駅近く)に泊った折りに詠まれたものとされている)。満十歳で鎌倉に迎えられ、青春時代を過ごした鎌倉、今、妻に裏切られ、社会的にも(既にして傀儡将軍ではあったが)お払い箱とされる二十四歳の彼の想いは、いかばかりであったろう……。]

譚海 卷之二 (天明五年八月御觸書に云……)

○天明五年八月御觸書に云、中國・西國筋是迄無支配盲僧共、靑蓮院宮御支配に相成候に付、武家陪臣の世悴盲人は盲僧に相成、右宮御支配に付候共、又は鍼治導引琴三味線等いたし、檢校支配に相成候共、勝手次第たるべく候。百姓町人の世悴盲人盲僧には不相成鍼治導引琴三味線等致し、檢校支配にて相成候。若内分にて寄親等いたし、盲僧に相成候儀は、決て不相成事に候。右の外百姓町人の世悴盲人にて、琴三味線鍼治導引を以渡世不ㇾ致、親の手前に罷在候のみのもの、幷武家への抱主人の屋敷人にて、主人の在所引越他所稼不ㇾ致分は、安永五申年相觸候通、制外可ㇾ爲事。右の通可相守旨、不ㇾ洩樣可相觸義、以上。

[やぶちゃん注:本条は最後に、底本が底本としたものには載らないとする編者注があり、従って標題がない。但し、前条「座頭仲間法式の事」と連関性があり、ほぼ完全な触書の引用という今迄にない特異点であることから、前条に関わって書かれたもの(或いは後のためのメモランダ)であることはまず間違いあるまい。今回は上記本文には一切、私の読みを加えず、以下でまず、全体を書き下し、通読し易くするために、そこで一部の漢字を平仮名化し、読みや記号、一部では助詞をも添え、改行も行った。我流のものであって誤読の可能性も多分にあるので注意されたい。

 

天明五年八月「御觸書(おふれがき)」に云はく、

中國・西國筋、是れまで支配無き盲僧ども、靑蓮院宮(しやうれんゐんのみや)御支配に相ひ成り候ふに付き、武家陪臣の世悴(せがれ)なる盲人は盲僧に相ひ成り、右宮御支配に付き候えども、又は鍼治・導引・琴・三味線等いたし、檢校支配に相ひ成り候えども、勝手次第たるべく候ふ。

百姓・町人の世悴(せがれ)なる盲人は、盲僧には相ひ成らず、鍼治・導引・琴・三味線等致し、檢校支配にて相ひ成り候ふ。

若(も)し内分(ないぶん)にて寄親(よりおや)等いたし、盲僧に相ひ成り候ふ儀は、決して相ひ成らざる事に候ふ。

右の外、百姓・町人の世悴(せがれ)なる盲人にて、琴・三味線・鍼治・導引を以つて渡世致さず、親の手前に罷り在り候ふのみのもの、幷びに、武家への抱へ・主人の屋敷人(やしきにん)にて、主人の在所引越の他所稼(よそかせぎ)致さざる分(ぶん)は、安永五申年、相ひ觸候ふ通り、制外と爲すべき事。

右の通り、相ひ守るべき旨、洩れざる樣(やう)相ひ觸るるべきの義、

   以上。

 

「天明五年」一七八五年。

「御觸書」一般向け成文法を指す。「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」のような支配階級向けの法令とは異なり、老中が将軍の裁可を受けて配下に下達し、必要に応じて一般に触れて書きとめさせて公布した。

「靑蓮院宮」青蓮院は現在の京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗の寺で延暦寺三門跡の一つ。視覚障碍者は前条注で示したように、幕府の統制政策によって「当道座」に繰り込まれて支配されていたが、視覚障碍を持った僧(盲僧)は各地の寺社と結びついて盲僧頭(がしら)の下に独自に仲間を組織し,小頭(こがしら)・平僧(ひらそう)などの身分を分かち、自律的に各種権利の相続や紛争処理を行っていた。ところがこの盲僧の縄張も当道座に侵食され始めたため、盲僧集団はそれに対抗するため、天明三(一七八三)年以降、この京都の青蓮院の支配下に入って組織を守ろうとした。

「導引」按摩。

「檢校支配に相ひ成り候えども、勝手次第たるべく候ふ」これは武家の視覚障碍者は僧になるならば、青蓮院支配の、記されたような「当道座」系の諸技芸を生業とするならば、検校(当道座)支配の、その孰れに入っても構わない、と読める。

「内分」内々に。

「寄親」「寄子(よりこ)」とともに身元保証のため、仮の親子関係を結ぶ制度。身元を引き受ける主人や有力者を「寄親」、被保護者を「寄子」と称した。ここは百姓・町人がこの制度を用いて武家身分を詐称し、盲僧となることを厳に禁じているのであろう。

「親の手前に罷り在り候ふのみのもの」親の保護のみを受けて生活し、自らは職を持たぬ者。

「武家への抱へ・主人の屋敷人にて、主人の在所引越の他所稼致さざる分」武家お抱えの使用人、或いは、武家の主人の屋敷内専属の技芸者として雇われ、主人の実家や移転先などに於いて、屋敷から外に出て諸技芸を以って稼ぎをしない(外部でのアルバイトをしない)場合に於いては。「他所稼(よそかせぎ)」の訓読は自信がないが、意味は一応、通ると思う。

「安永五申年」一七七六年。

「制外と爲すべき事」この百姓・町人の視覚障碍者の子の禁制からは除外し、許可する、という謂いであろう。]

甲子夜話卷之三 5 福岡侯藏、明帝の畫

 

3-5 福岡侯藏、明帝の畫

林氏云ふ。福岡侯の招にて行たりしとき、小坐敷の床に掛たる横披の小幅、明帝の畫にて、殊に見事なり。狗子大小二つを繪き、幅上の中央に、

 

Minteirakkan

 

かく落款せり。珍らしく覺へしと語りき。

■やぶちゃんの呟き

 底本の「甲子夜話」最初の挿画(底本よりトリミングして掲げた)。以下に画像の記載文字を電子化しておく。

 

 御筆     印文ハ廣運之宝トアリ

  宣德丙午

        此六字御筆ト見へタリ。

 

●「宣德丙午」「宣德」は明朝の第五代皇帝宣徳帝(一三九九年~一四三五年:在位:一四二五年六月~一四三五年:諱・瞻基(せんき)/廟号・宣宗)の治世最後の元号で、「宣德丙午」は宣徳元年、ユリウス暦一四二六年に相当する。

●「廣運之宝」は中国皇帝が使うものとして代々伝わる伝統的な印の一つ。サイト「考古学用語辞典」ので印の外形と印形(いんぎょう)を視認出来る。そこには画像の解説文があり、サイズが示された上で、本来の使用法は『称号や地位を与える時に認証を行うもの』とある。ここではそれを祝賀の子犬の絵の落款として使用しているらしい。或いは、そうした官位称号を与えた際の添え物として明帝が絵をも認めたものかも知れぬ。

 

「福岡侯」静山の同時代とすると、筑前国福岡藩第十代藩主で蘭癖大名の一人として知られる黒田斉清(なりきよ 寛政七(一七九五)年~嘉永四(一八五一)年)か。

「林氏」複数既出既注であるが、巻三の初出なので再掲する。儒学者林大学頭(だいがくのかみ:昌平坂学問所長官。元禄四(一六九一)年に第四代林信篤(鳳岡(ほうこう))が任命されて以来、代々林家が世襲した)述斎(はやし じゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。羅山を始祖とする林家(りんけ)第八代当主。父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)。述斎は号の一つ。晩年は「大内記」と称した。ウィキの「林述斎によれば、寛政五(一七九三)年に林家第七代『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。松浦静山に本「甲子夜話」の執筆を勧めたのは、親しかったこの林述斎であった。静山より八つ年下。

「横披」「よこびらき」。

「狗子」「いぬのこ」。

「繪き」「ゑがき」。

甲子夜話卷之三 4 松平乘邑の爲人幷有德廟老臣の威權を助け玉ふ事


3-4 松平乘邑の爲人有德廟老臣の威權を助け玉ふ事

乘邑は剛毅の資質なり。御用部屋にて認物をして居らるゝとき、御取次衆來り、御用のこと候。參らるべしと申せども、返答なく、やはり認物をする故、又押返し、御用にて召され候と云へば、そのとき、我等も御用にて認物を爲て居り候、と申せしとなり。當時御取次衆大に悍ることなりしと也。日日出仕の後、御取次衆御用部屋の入口にて、坊主に、例の笑は出候やと問、例の如く高笑出候と云へば、即入りて御用を申傳ふ。又今朝は未だ笑出申さずと云へば、其儘戾りて、御用部屋へは入らざりしとなり。此人笑癖ありて、常々高聲に笑ふことなりしとなり。御取次衆などの悍るかくの如し。又德廟にも、御取次衆へ、この事かの事、左近承知するかすまじきか、先試に申て見るべしと御諚あることあり。御取次衆御用部屋に來りてその事を云へば、御無用然るべしと云こと折々あり。夫より御取次衆、御前へ出て申上れば、そりや見たことか、それならよしにせよと御諚ありしとなり。これわざと老臣の威權を助けらるゝ御深慮なるべし。誠に君德の大なること、百載の後に聞て仰感に堪へず。

■やぶちゃんの呟き

「松平乘邑」老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。複数既出既注乍ら、本巻初出なれば、再掲しておく。肥前唐津藩第三代藩主・志摩鳥羽藩主・伊勢亀山藩主・山城淀藩主・下総佐倉藩初代藩主。ウィキの「松平乗邑」によれば、元禄三(一六九〇)年、『藩主であった父乗春の死により家督を相続』正徳元(一七一一)年には『近江守山において朝鮮通信使の接待を行って』おり、早くも満三十七歳の享保八(一七二三)年には『老中となり、下総佐倉に転封とな』った。これ以後、足掛け二十年余りに亙って『徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。『水野忠之が老中を辞任したあとは老中首座となり、後期の享保の改革をリード』、元文二(一七三七)年には勝手掛老中となっている。『当時は吉宗が御側御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。『大岡日記』によると』元文三(一七三八)年、『大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を』三年に『渡って実施する件に』就き、七月末日に『御用御側取次の加納久通より許可が出たため、大岡が』八月十日に『勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を一時断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている』。『主要な譜代大名家の酒井忠恭が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外』され、また乗邑は『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の家重が後継となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年の家重の第九代将軍就任直後に老中は解任、加増一万石を没収された上、『隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられ』ている。享年六十一。ともかくも徳川綱吉・家宣・家継・吉宗・家重と五代に亙る将軍に仕えた長老であった。

「爲人」「人と爲り」「ひととなり」。性格。

「有德廟」徳川吉宗。

「御用部屋」江戸城内で大老・老中・若年寄が詰めて政務を執った部屋。ここで幕政の決議が行われた。当初は将軍の居室に近い「中の間」であったが、綱吉の治世の貞享元(一六八四)年八月に若年寄稲葉正休(まさやす)による大老堀田正俊刺殺事件が起きてからは、将軍の居室からは遠いところに移された。

「認物」「したためもの」。公文書の製作。

「御取次衆」将軍の取次としては将軍近習の「側衆」があり、幕府初期には将軍の意向を背景に大きな権力を持つ場合もあったが、後には老中合議制が形成されて将軍専制が弱まると、実権も弱まった。以後の側衆の役割は将軍の身の回りの世話などをする存在となったが、五代将軍徳川綱吉の時代には老中と将軍の間を取次ぐ「側用人」が設置され、ここではそれを指す(乗邑の老中就任は綱吉の治世)。吉宗の治世には一時、廃止されたが、「御側御用取次」が同じ役割を果たしている(ここはウィキの「取次歴史学に拠った)。

「悍る」「はばかる」。「憚る」と同義。ことさらに気を使い、畏れ敬して遠慮をした。

「御取次衆御用部屋の入口にて」「御取次衆」が「御用部屋の入口にて」。

「坊主」茶坊主。特にここではその中でも老中の身の回りの世話を担当した奥坊主を指す。

「笑」「わらひ」。

「出候や」「いでさふらふや」。

「問」「とひ」。

「即」「すなはち」。

「申傳ふ」「まうしつたふ」。

「左近」乗邑。彼の官位は左近衛将監(さこんえしょうげん)。

「先試に申て」「まづこころみにまうして」。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」。仰せ。

「御無用然るべし」「その儀はなさらぬが御肝要と存ずる。」。

「そりや見たことか、それならよしにせよ」暴れん坊将軍吉宗のナマの肉声が聴こえてくる、いいシーンではないか。

「わざと老臣の威權を助けらるゝ御深慮なるべし」あえて老臣の威厳を保たれんとする名君吉宗公の御深慮であったに違いない。

「百載の後」百年の後。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年で、百年前は和暦で享保六年、吉宗の将軍就任は享保元(一七一六)年である(将軍職を長男家重に譲ったのは延享二(一七四五)年)。

「仰」「おほせ」。

諸國百物語卷之五 十三 丹波の國さいき村に生きながら鬼になりし人の事

 

     十三 丹波の國さいき村に生きながら鬼になりし人の事


Ikioni

 丹波の國さいき村と云ふ所に、あさゆふ、まづしきものあり。をやにかうかう第一なる人なりしが、あるとき、たきゞをとりに山へゆかれしに、をりふし、のどかわきければ、谷にをりて水をのまんとて、水中を見ければ、大きなる牛のよこたをれたるやうなる物あり。ふしぎに思ひ、よくよく見れば、ねんねん、山よりながれをちてかたまりたる、うるし也。是れ、ひとへに天のあたへ、とおもひて、此漆をとりにかよひ、ひだと京へもち行きうりければ、ほどなく、大ぶげんしやとなりにける。此となりに、大あくしやうなるものありけるが、此事をつたへきゝ、いかにもしてかのものゝ此所に來たらぬやうにして、わればかり、とらん、とたくみて、大きなる馬(ば)めんをかぶり、しやぐまをきて、鬼のすがたとなり、水のそこに入り、かのものをまちければ、いつものごとく、かのもの、うるしをとりに來たりて、みれば、水のそこに、鬼あり。おそろしくおもひて、にげさりぬ。かのあくしやうもの、しすましたり、とよろこび、水のうちよりいでんとすれども、うごかれず。そのなりにてしにけると也。

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「丹はの國生なから鬼に成事」か。これは実録風疑似怪談である。前話といい、或いは、この筆者、能が好きだったのかも知れぬ。

「丹波の國さいき村」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『桑田郡佐伯村か。とすれば現京都府亀岡市薭田野町の内』とする。現行の表記は平仮名化され「ひえ田野町佐伯」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「をやにかうかう第一なる人」「親(おや)に孝行(かうかう)第一なる人」。歴史的仮名遣は誤り。

「たきゞ」「薪」。

「をりふし、のどかわきければ」「折節、咽喉渇(かは)きければ」。

「よこたをれたるやうなる」「橫倒(よこたふ)れたる樣なる」。歴史的仮名遣は誤り。

「ねんねん」「年々」。

「うるし」「漆」。前掲の「江戸怪談集 下」の脚注には、ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum 及びその近縁種の『樹皮からとった樹脂。漆器の塗料として、当時は貴重なもので、ここでは、その漆の溶液が天然に流れ集まり、水中で固まったもので、これは山中に自然』の金鉱脈を偶然に『発見するのと同じほどの幸運なことであった』とある。落雷その他の自然現象によって、木の幹が傷つき、そこからたまたま渓流の溜まり水に向かって流れ落ち、それが長い時間をかけて分泌蓄積されたということか? こういうことが実際に自然界で起こり得るのかどうか? 識者の御教授を乞うものである。

「ひとへに天のあたへ」「偏へに天の與へ」。「もうただただ、天の配剤!」。

「ひだと」「ひたと」の誤りであろう。直ちに。直接に。

「大ぶげんしや」「大分限者」。大金持ち。

「此となりに、大あくしやうなるものありける」「この隣りに、大惡性なる者、在りけるが」。所謂、昔話の常套形式。

「此所に」「ここに」。漆が水中に固まっている渓流。人の好い前の男は、隣りの男にその場所を教えてしまったか、或いは、この生来悪しき性分の隣人がこっそりと尾行をしてその場に至ったのであろう。だから「ここ」なのである。

「たくみて」「企(たく)みて」。企(たくら)んで。

「馬(ば)めん」「馬面」。前掲の「江戸怪談集 下」の脚注には、『竜に似た仮面で、馬の面に当てる具。「馬面 バメン 馬飾也」(『文明節用集』)』とある。

「しやぐま」「赤熊」。或いは「赭熊」とも書く。赤く染めたヤクの尾の毛。また、それに似た赤い髪の毛。仏具の払子(ほっす)・鬘(かつら)、兜(かぶと)・舞台衣装・獅子舞の面の飾りなどに用いる。

「水のそこに入り。」この句点はママ。

「しすましたり」「やり遂(おお)せわ!」或いは「してやったり!」。

「うごかれず」塗料としての漆には接着剤としての機能もあり、江戸時代にはよく使われた。ウィキの「漆」によれば、『例えば、小麦粉と漆を練り合わせて、割れた磁器を接着する例があ』り、硬化には二週間『程度を要する』とある。また、漆の『主成分は漆樹によって異なり、主として日本・中国産漆樹はウルシオール(urushiol)』である。『漆は油中水球型のエマルションで、有機溶媒に可溶な成分と水に可溶な成分、さらにどちらにも不溶な成分とに分けることができる』。『空気中の水蒸気が持つ酸素を用い、生漆に含まれる酵素(ラッカーゼ)の触媒作用によって常温で重合する酵素酸化、および空気中の酸素による自動酸化により硬化する。酵素酸化は、水酸基部位による反応で、自動酸化はアルキル部位の架橋である。酵素酸化にはある程度の温度と湿度が必要であり、これがうまく進行しないとまったく硬化しない。硬化すると極めて丈夫なものになるが、二重結合を含んでいるため、紫外線によって劣化する。液体の状態で加熱すると酵素が失活するため固まらなくなり、また、樟脳を混ぜると表面張力が大きくなるため、これを利用して漆を塗料として使用する際に油絵のように筆跡を盛り上げる事が出来る。また、マンガン化合物を含む『地の粉』と呼ばれる珪藻土層から採取される土を混ぜることで厚塗りしても硬化しやすくなり、螺鈿に分厚い素材を使う際にこれが用いられる』とある。この悪性の男、漆の精にでも化けたつもりで、多量に川底に蓄積した半固形の山の上に立ち、漆の中に足が嵌って、いろいろな条件下のなかで、身体に強く吸着、はずそうとして、水中に潜った際、シャグマの毛や馬面が張り付いて、溺れて死にゆくさまを想像するに、ひどく凄惨にして滑稽ではある。まあ、自業自得というものであろう。]

 

2016/11/21

北條九代記 卷第十 將軍家叛逆 付 松殿僧正逐電

 

     〇將軍家叛逆  松殿僧正逐電

同二十二日、將軍家、御(ご)病惱おはします。松殿〔の〕僧正良基、御驗者(ごけんじや)として、護身の爲に近侍あるべしとて、日夜御傍(おんあたり)を立去らず、振鈴(しんれい)の音、折々、外樣(とざま)に響聞(ひゞききこ)えて、殿中いとゞ靜りかヘりてもの淋し。六月に至りて、御氣色、愈(いよいよ)宜からず、引籠(ひきこも)らせたまふ。これによつて、諸大名にも御對面の事、打絶えければ、人々心の外に思ひ奉り、典藥の輩に尋ね奉れども、又御療治の爲とて參りたる者もなし。同五日の晩景に、木工頭(もくのかみ)親家、京都より鎌倉に下向あり、御所に參りて潛(ひそか)に申す旨、既に夜陰より曉に及びて、退出す。何事とは知らず、一兩日逗留して、親家は上洛致されけり。是は仙洞より、内々御諷諫(ごふうかん)の爲に下向せしめられたりと沙汰ありしかば、諸人、益々、怪存(あやしみぞん)ぜすと云ふ事なし。又、折節に付けては、和歌の御會に事を寄せられ、近習の者共を召集(めしあつ)め、密々に祕計を企てて、北條時宗を討て、將軍家思召す儘に天下を領じ給はんとの謀(はかりごと)を𢌞(めぐら)し給ふと世に專(もつぱら)沙汰あり。彼此(かれこれ)互に語りける程に、風聞、隱(かくれ)なく、時宗に告知(つげしら)する者、多かりければ、北條家、是より物每(ものごと)に遠慮あり。疑殆(ぎたい)起りて、用心に隙(ひま)なく、物の色を立てられしかば、自(おのづから)御所の有樣、人の出入も、故あるやうに目を側(そば)めてぞ見えにける。同じき十九日、左京大夫北條時宗、越後守實時、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛、竊(ひそか)に相摸守政村の家に會合して、夜更(ふく)るまで額(ひたひ)を合せて密談あり。この人々の外には聞く人もなく知事(しること)もなし。何事とは知らすながら、將軍宗尊(そうそん)親王の御事なるべしと、沙汰ありければ、その日、松殿僧正良基は、御所を出でて行方(ゆきかた)なく逐電せらる、是(これ)、只事(たゞこと)にあらず、如何樣(いかさま)、子細ある故なるべし。世の風聞も定(さだめ)て跡なき事にはあるべからずと、鎌倉中には沙汰を致せり。後に聞えしは、良基は惡逆の企(くはだて)を申進(まうししゝ)めし張本として、この事、漸(や〻)顯れければ、身を遁(のが)れん爲に、御所を闕落(かけおち)して直(すぐ)に高野山に隱れけれども、打賴(うちたの)まる〻人もなし。遂に斷食して死せりとかや、夫(それ)、釋門(しやくもん)の徒(と)は末世といへども、悉く是(これ)、佛弟子なり。大聖(たいしやう)の遺誡(ゆゐかい)を守り、人を教導し、現世福壽(げんぜふくじゆ)の祈禱、護摩、灌頂くわんてう)の法(はふ)を以て實義性空(じつぎしやうくう)の妙理(めうり)に引入(いんにふ)し、諸々(もろもろ)の衆生を憐み、苦(く)にかはりて濟度(さいど)すべきをこそ、眞(まこと)の沙門の行跡(ふるまひ)とも云ふべきに、無用の名利(みやうり)に我執(がしう)を先(さき)とし非道を以て世を亂さんとす。佛の降魔(ごうま)の方便にもあらず、菩薩慈悲の殺生にもあらず、外相(げさう)には、三衣を著(ちやく)して佛弟子に似たり。内心には重欲(ぢうよく)我慢を事として、提婆(だいば)、瞿伽梨(くかり)が行跡の如し。學佛法(がくぶつぱふ)の外道(げだう)とは是等をぞ名付くべき。將軍家、又、愚(おろか)にましまして、か〻る大事を思召し立つには、智慮深思の人を近付けて、異見を問ひ給ふべし、「衆愚の諤々(がくがく)は、一賢の唯々(ゐゝ)に如(しか)ず」と云へり、其(その)器(き)にもあらざる人に、談合密語し給ひ、輒(たやす)く外に泄(もれ)ける事、暗主(あんしゆ)の態(わざ)こそ悲しけれ。良基僧正は智慮なく思詰(おもひつめ)はあらで、舌(した)に任せて大事を閑談し、風に揚(あが)る輕毛(きやうまう)の如く、僅に事の端(はし)、露(あらは)れんとするに臨みて、人より先に逐電し、跡は亡(ほろび)に及ぶが如く、偏(ひとへ)に逆心(ぎやくしん)の訴人(そにん)となりける。淺ましき所行にあらずやと、心ある輩は惡(にく)み思はぬはなかりけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年四月二十二日、六月五日・二十日、及び、宗尊親王の叛逆計画部分については「将軍記」「日本王代一覧」「保暦間記」などを参照にしているようである(「吾妻鏡」には後者の内容は載らない)。

「同二十二日」文永三(一二六六)年四月二十二日。

「松殿僧正」(?~文永三年)は関白藤原忠通の次男基房の孫で真言僧であった良基(りょうき)の通称。既出既注であるが、ここが最後なので纏めておく。定豪(じょうごう)に学び、鎌倉で祈禱に従事した。文永三年には第六代将軍宗尊親王の護身験者(げんざ)に昇ったが、親王の謀反の疑いに関係して高野山に遁れ、食を断って同年中に死去した。実はここには全く書かれていないのであるが、彼は第六代将軍宗尊親王正室で第七代将軍惟康親王の母近衛宰子(さいし 仁治二(一二四一)年~?:近衛兼経娘)と不倫関係にあり、良基逐電や将軍宗尊更迭と京都送還の背景として、寧ろ、このスキャンダルの方が表面上、大きく関与したものとしてあった。宰子は文永元(一二六四)年四月に宗尊親王との間に惟康王を出産したが、この出産の際、験者を務めたのが良基で、その間に密通事件が発生したとされ、それがこの文永三年になって露見、六月二十日に良基は逐電し、その直後に当時、連署であった北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われて宗尊親王京都送還が決定されたと見られている(その時、宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移されている)。その後は次の条の内容となるが、七月四日に宗尊親王は将軍職を追われて鎌倉を出発、帰洛した。その折り、京には「将軍御謀反」と伝えられており、幕府は未だ三歳であった惟康王を新たな将軍として擁立することとなった(宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻っている)。また、この良基については、ここにも出るように高野山で断食し果てたとも、また一方では、御息所と夫婦になって暮らしている、などともまことしやかに噂されたものらしい。

「日夜御傍(おんあたり)を立去らず、振鈴(しんれい)の音、折々、外樣(とざま)に響聞(ひゞききこ)えて、殿中いとゞ靜りかヘりてもの淋し。六月に至りて、御氣色、愈(いよいよ)宜からず、引籠(ひきこも)らせたまふ。これによつて、諸大名にも御對面の事、打絶えければ」関係がるかないかは別としてこの文永三(一二六六) 年同じ四月の「吾妻鏡」五日の条には「將軍家有御小瘡」(將軍家、御(おん)小瘡(こがさ)有り)とあり、七日の条では「將軍家御蚊觸之間。可有蛭※之由」(「※」=「口」+「宿」)(將軍家、御蚊觸(かぶれ)の間、蛭※(ひるかひ)有る可し之由:「小瘡」「蚊觸」皮膚疾患の腫れ物で、「蛭※(ひるかひ)」とは、恐らくは吸血性のヒルに患部を嚙ませて、悪液質の化膿部分等を吸い出させる、現行でも行われている療法の古記録の一つである)とある。しかし、この間に北条討伐の慫慂が秘かに良基からなされ、それまた以上に、良基と宰子の爛れた関係は、いや盛んに深まったと推測し得るし、或いは、それを夫親王が秘かに知ってしまい、これまた彼の精神状態を悪化させて引き籠もりに至ったとも読めぬことはない。最悪の事態が何層にも上塗りされてゆく感じがしてくるではないか!

「典藥の輩に尋ね奉れども、又御療治の爲とて參りたる者もなし」ということは彼らが診療すること、どころか、そばに寄ることも拒絶していることを意味している。これはとりもなおさず、謀叛の謀議などよりも、まず第一に、重い対人恐怖や嫌悪・厭人の精神症状が親王を襲っていると考える方が私は自然であると思う。その場合、その主因はやはり、良基と宰子の関係を親王が知ってしまったことにあるのではないか、それこそがこの引き籠もりのではないかと私は深く疑うのである。

「木工頭(もくのかみ)親家」公家藤原親家(生没年未詳)。加賀守藤原親任(ちかとう)の子で、建長四(一二五二)年に第六代将軍宗尊親王の鎌倉行きに随行している。ここに出る通ように朝廷からの密使としても下向、彼はその後の親王京都送還にも従っている。

「仙洞」後嵯峨上皇。

「御諷諫(ごふうかん)」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年六月五日の注に、『「新抄(外記日記)」に関東將軍御休憩所 日來□□□殿僧正良基露顕』とある。これは意味深長で、判読不能の部分は宰子と松殿僧正良基のスキャンダルの露見とも読める。というより、ここに北条への叛逆の企てを示す文字列を考える方が難しい気さえするのである。

「討て」「うちて」。

「疑殆(ぎたい)」疑い危ぶむこと。

「物の色を立てられしかば」執権北条家も格別の注意を払い、相手や対象をことごとく子細に調べ上げ、厳密な区別のもとに差をつけて処理監察するようになられたので。

「自(おのづから)御所の有樣、人の出入も、故あるやうに目を側(そば)めてぞ見えにける」自然、そのような厳重な危機意識の中で眺めるようになると、自然、将軍家御所のいろいろな、ちょっとした有様や普段と違う点、また、そこに出入りする人やその動きにも、何か隠された企図があるかのように観察されるようにさえなってしまったのである。

「同じき十九日、左京大夫北條時宗、越後守實時、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛、竊(ひそか)に相摸守政村の家に會合して、夜更(ふく)るまで額(ひたひ)を合せて密談あり」「吾妻鏡」ではこの密談会合は六月二十日となっている。

「その日、松殿僧正良基は、御所を出でて行方(ゆきかた)なく逐電せらる、」最後の読点はママ。前注通り、この良基逐電も「吾妻鏡」では六月二十日の記事であるので注意。しかしさぁ、密談なのにさ、なんで当の悪の張本である良基に漏れて、目出度く逐電できたんかしらん? 不思議ちゃんやなぁ?

「跡なき事」根拠のない流言飛語。

「釋門」仏門。

「大聖(たいしやう)の遺誡(ゆゐかい)」仏道の悟りを開いた釈迦や菩薩らが後人のために残している戒めの言葉。

「現世福壽」現世に於いて心静かに幸福な生涯を送ること。

「護摩、灌頂」孰れも密教に於いて仏菩薩の位に昇るための密儀としての修法。「護摩修法」は精神の浄化や諸願成就を目的に火を焚き、その中に護摩木を焚いて、芥子や各種の香などの供物を火中に投じ、燃え上がった炎を仏の象徴と成して、息災・増益・調伏・敬愛・鉤召(こうちょう:諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための修法)という五種の厳格な法式による修法があり、「灌頂」(「かんじょう」と濁ってもよい)は、本邦の密教では、如来の五智を象徴する五瓶(ごびょう)の水を受者に注ぐことにより、密教の法燈(ほうとう)を継承したと認める重要な儀式である。灌頂にも内容・目的・形式などで多くの種類がある。大別すると、在家信者を対象に曼荼羅中の一尊と縁を結ぶ「結縁(けちえん)灌頂」、出家者のための初歩的灌頂としての「受明(じゅみょう)灌頂」、密教の完全な真理を体得して阿闍梨(あじゃり)となることが認められた者にのみ行われる、金剛界・胎蔵界の真理を伝える「伝法(でんぽう)灌頂」の三種がある。この護摩と灌頂はまさに密教独自の法儀であって、仏教の他宗と決定的な区別となる特色と言える。

「實義性空(じつぎしやうくう)の妙理(めうり)に引入(いんにふ)し」増淵勝一氏の現代語訳では、『一切の諸法の本性はむなしい空(くう)であるという真実の妙法に人々を引き入れ』と訳されてある。

「苦(く)にかはりて濟度(さいど)す」衆生を苦界から掬いとってあらゆる苦から洩れなく救いあげる。

「佛の降魔(ごうま)の方便」仏菩薩が天魔を調伏させるための一見、怪力染みた方便。

「菩薩慈悲の殺生」菩薩が大いなる慈悲を体現するために行う、仮の見かけ上の殺生。

「外相(げさう)」外見。

「三衣」「さんえ」或いは「さんね」と読み、僧尼の着る三種の袈裟のこと。僧伽梨(そうぎやり:大衣・九条衣・これを受けること自体が一種の法嗣の証明ともされる正装着)・鬱多羅僧(うつたらそう:上衣・七条衣。普段着)・安陀会(あんだえ:中衣・五条衣。作業着)。

「重欲我慢」欲が限りなく深い上に、甚だ慢心していること。

「提婆(だいば)」提婆達多(だいばだった 前四世紀頃)はインド人で、仏伝によれば、釈尊の従兄とされる。釈尊が青年時代にヤショーダラー姫を妻として迎える際、釈迦と争って敗れ、後に釈尊が悟りを得て仏となった際には釈尊の力を妬んで、阿闍世(あじゃせ)王と結託して釈尊を亡きものにしようと企んだりし、遂には生きながら無間地獄に落ちたとされる仏敵。

「瞿伽梨(くかり)」「くぎゃり」「くがり」とも。先の仏敵提婆達多の弟子とされる。ウィキの「瞿伽梨によれば、『一説に、釈迦族の出身で、釈迦の実父である浄飯王の命により出家し』、『仏弟子となったが、驕慢心(きょうまんしん、おごりたかぶる心)で我見が強かったために修行が完成せず、後に提婆達多の弟子となったという』。「大智度論」では彼の誤った行動に対して釈尊が叱責を加えたが、遂に悔い改めることがなく、果ては『身体に疱瘡ができて死に、大蓮華地獄に堕したと』し、「涅槃経」でも、『生身のまま地獄に行き、阿鼻地獄に至ったと』されるいわくつきの反釈尊外道。

「學佛法(がくぶつぱふ)の外道(げだう)」頭でっかち故(ゆえ)の正法(しょうぼう)外れの外道法師。人知に驕っている点で外道なのである。

「衆愚の諤々(がくがく)は、一賢の唯々(ゐゝ)に如(しか)ず」有象無象の愚か者たちが集まって、「ああでもない、こうでもない」と喧々諤々と議論することはたった一人の賢人がただ一言、「はい。それこそがその通り。正しいことです。」と言うのにも全く以って及ばない。

「器(き)」器量。力量。

「暗主(あんしゆ)」先見の明のない君子ならざる暗愚の君主。

「態(わざ)」眼も当てられぬ有様。失態。

「思詰(おもひつめ)」決心。覚悟。

「閑談」無駄話すること。

「偏(ひとへ)に逆心(ぎやくしん)の訴人(そにん)となりける」結果として、ただただ、北条家に対し、将軍家の逆心をあからさまに訴え出てしまう「訴人」という道化役となってしまったのであった。]

甲子夜話卷之三 3 岡部氏の先代、鷄を好し事

 

3-3 岡部氏の先代、鷄を好し事

岸和田の岡部氏、今の三四代も前の主、殊の外鷄を好て、數百番畜養せり。その内より翎毛の常と替りしも往々出しとぞ。世に玩ぶ淺黃矮鷄と云て、黲素色なるものは、其家より新に生ぜし種子にて、別に一種を成し、今はいづ方にもあるやうになりたるなり。

やぶちゃんの呟き

「岡部氏」「岸和田の岡部氏、今の三四代も前の主」現在の大阪府岸和田市、和泉国南郡岸和田周辺を領有した岸和田藩の藩主「岡部氏」(小出家から松平(松井)家を経て岡部家が入封)。静山存命の頃は第九代藩主岡部長慎(ながちか)であるから、「今の三四代も前」となると第五代藩主岡部長著(ながあきら)或いは第六代藩主長住(ながすみ)か。

「番」「つがひ」。

「翎毛」底本では二字で「はね」と訓じている。

「玩ぶ」「もてあそぶ」。

「淺黃矮鷄」「あさぎちやぼ」。「アサギチャボ」でキジ目キジ科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus の改良品種であるチャボの、やはり改良品種の一種。こちらの画像の一番下に写真がある。現行でも「矮鷄」で「チャボ」と読むが、これは同品種群が一般のニワトリよりも小型(七三〇グラム・六一〇グラム程を標準体重とする)であることに由来する。チャボは足が非常に短く、尾羽が直立しているのを特徴とする。

「黲素色」「さんそしよく」(或いは最後は「いろ」と訓で)と読んでいるか。「黲」は薄青黒い色の意、「素色」は本来は薄い色のついた白色であるが、やや薄い灰色から濃いグレーまでも含む色名である。前注にリンクした写真を見ると、「黲素色」なる感じが如何にも腑に落ちる。

谷の響 三の卷 廿一 妖魅

 

 廿一 妖魅

 

 板柳村正休寺の二男なる人、靑年(としわかき)ころ弘前眞教寺に在りて勤學の折柄、夜中閨の外にて何か物音の聞えける故、障子の空隙(すき)より覗き見るに、いと疲勞(やせつかれ)たる女の髮を被りたるが立てり。こは冥漢人(もうじや)ならんと衾(ふすま)を被りて伏たるに、障子の破より息を吹かくる事數囘(しばしば)なりしが、その息頭に中りて寒き事恰も雪を戴けるが如し。さて稍々(やゝ)かくのごとくにして止みたれば、凄凉(ものすご)きこといはん方なく眠りもやらで有けるが、しばし時うつりて厨所(だいどころ)にて火の焚ける光の見えければ、用心老僕(おやじ)が早くも起たる事よとおもひ、卒(いさ)や火にあたりて憩(やすま)んと卽便(すなはち)起出て、帶提(さげ)ながら厨下に至りしに、今見たる女髮蓬頭(おとろおとろ)としてこなたを囘視(みかへ)る顏色の凌競(おそろ)しき事成るに耐得で、欵(はつ)と叫ぶとそのまゝ火も消え自分も絶倒(たをれ)て、前後もしらずなりたりき。然(さ)るに稍々(やゝ)黎明(あけちか)くなりて用心老人(おやぢ)起出て、この僧の絶入りたるを見て驚き噪(さは)ぎ、合家(かない)慌懊(あはて)て呼活(よびいけ)せしが、この事を語りて冷汗を流し、こゝち懊惱(わづらは)しとて病つけるが、旬日(とをか)あまりもありて漸々(よふよふ)癒えけるとなり。こは何たる妖魅(ばけもの)にかあらん。その後誰も見たるものなしと言へり。こは淨德寺の住侶の語りしなり。

 

[やぶちゃん注:これが「谷の響 三の卷」の擱筆である。本件も最後にこの女怪、この青年僧以外に、「その後誰も見たるものなし」とあり、幻視を伴う精神疾患か、或いは、彼がデッチアゲた詐病さえも疑われる(この寺での修行が心底、厭だったのかも知れぬ)。或いはこの青年僧、秘かに女犯(にょぼん)しており、その女と関係を断ったために、女の生霊か死霊が出来したか(民俗的解釈)、或いは、その罪障感に起因する心因反応で幻覚を見たか(精神医学的解釈)のかも知れぬ。

「板柳村」既出既注。底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳(いたやなぎ)町』とする。弘前市の北に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「正休寺」既出既注。底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳町にある。板谷山正休寺』。前の「九 蝦蟇の智」に出て注した、弘前の浄土真宗の真教寺の『末寺として、万治二年開基という』とする(万治二年は西暦一六五九年)。青森県北津軽郡板柳町板柳土井で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「眞教寺」既出既注。底本の森山氏の補註に、『弘前市新寺町にある法輪山真教寺。浄土真宗東本願寺派に属する。天文十九年』(ユリウス暦一五四九年)『の開基といい、慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『弘前に移る、寺禄三十石』とある。Yuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「真宗大谷派 法涼山 円明寺(圓明寺)& 平等山 浄徳寺  法輪山 真教寺(弘前市新寺町)」で画像が見られる(因みに、この方の記事はなかなか面白い)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「閨」「ねや」。

「髮を被りたるが」貞子みたようなもんか?

「冥漢人(もうじや)」三字へのルビ。

「破」「やぶれ」。

「息を吹かくる」陰気を吹きかけることで、生気を吸われるという、怪異の中でも常套的で致命的な仕儀である。

「用心老僕(おやじ)」「おやじ」は「老僕」二字へのルビでママ。「おやぢ」が正しい(後で出る時は正しくルビされている)この四字で一語で、古参の寺男の通称だったのであろう。

「卽便(すなはち)」二字へのルビ。

「帶提(さげ)ながら」帯がほどけている。寝起きというよりも、かくだらしのない恰好で起き出して行くこと自体が、既にして魔に魅入られている証左なのである。

「蓬頭(おとろおとろ)として」「おどろおどろとして」は当て字。「蓬」髪(蓬 (よもぎ)の葉の如くぼうぼうに伸びた髪)で、「おどろどろしく」(如何にもひどく恐ろしいさま)出現して来たのである。

「凌競(おそろ)しき」二字へのルビ。

「耐得で」「たへえで」。

「欵(はつ)」感動詞。叫声のオノマトペイア。以前に「欵(ぎやつ)と」と出たがそこで私が注した通り、これは恐らく「欸」の原文の誤記か、翻刻の誤りである。これでは「約款」の「款」の異体字で、意味が通らない(「親しみ」の意味があるが、それでもおかしい)。「欸」ならば、「ああつ!」で「怒る」「恨む」、或いはその声の擬音語となるからである。

「絶倒(たをれ)て」二字へのルビ。

「絶入りたる」「たえいりたる」。気絶している。

「呼活(よびいけ)」「大声で名を呼んで生き返らせる」意の動詞「呼び生く」の名詞形。死に瀕した者や臨終の直後に行う民俗的呪術行為である。

「漸々(よふよふ)」読みはママ。「やうやう」が正しい。

「淨德寺」森山氏の註によれば、『弘前市新寺町。浄土真宗平等山浄徳寺。寛文十年開基という』とする。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「住侶」「ぢゆうりよ(じゅうりょ)」。その寺に住む僧侶。住僧。]

谷の響 四の卷 二十 妖魅人を惱す

 

 二十 妖魅人を惱す

 

 某と言へる縣令附きの人あり。往(い)ぬる嘉永の年間(ころ)、田税督責(とりたて)の爲に姥袋といふ邑に往きて宿歇(とまり)けるが、夜に至り客廰(ざしき)の椽側に男女の聲として俱に語りありけるが、時謝(うつ)りて已に會明(あけがた)ちかくなりて止みたりき。某いと五月蠅(うるさく)おもひ、いかに若き者の業(こと)とは言ひながらしかすがに長き物語かなと呟訟(つぶやき)つゝ起出でぬ。さてその夜また斯(かく)の如く語り合ひて曉(あけ)に及びしが、その日の午下(ひるすぎ)に赤石村に移りて官舍に寢(いね)たるが、又この男女の話の音聞えければ、そも何ものにやあらんと耳をすまして聞たるに、その男は郷士某の聲なれば、憎きやつと思ひそれが名をさして高らかに呼たるに、應(いらへ)もなくて少時(しばし)歇止(やみ)たれど、間なくして又はじめの如く語りあへり。某いと惱(わづら)はしく又耳につきて眠る事ならねば、官舍の小使を呼起し火を燈して俱に第莊(やしき)の隈々を探り見れど、森閑(しんかん)として眼の遮るもの更にあらざれば、後閨(ふしと)に入りて衾(ふすま)を被(かつ)きぬるに語ることいやまして、甚しきは障子にすり當る事囘々(たびたび)聞え、遂に黎明(あした)に至りて止みぬ。

 かくのごとくすること五日にして、少しも眠る事能はず。顏色稍(やゝ)衰へ懊惱(ここちなや)まして居るに耐ざれば、病氣と稱(とな)へて弘前に上り、それが縣令なる工藤某へ往きてこの有狀(ありさま)を委曲(つまびらか)に語れるに、工藤氏狐狸のわざくれなる由を説諭(ときさと)し、萬般(いろいろ)力を添えて慰めける。さるに此人家に歸り二階に寢たるに、格子の外にて又この男女の語れる事終夜(よもすがら)にして、旬日あまりのうちは殊にかしましく、某之が爲に病つき食もほとほと絶(た)つるばかりなるに、神に祈り佛に憑(たの)み醫藥手を盡して、兩月(ふたつき)あまりにしてやうやう癒(い)えたり。決(きはめ)て狐狸の爲業(しわざ)にて有べけれど、斯く人を惱すことこそ憎けれとこの工藤氏語りしなり。

 

[やぶちゃん注:この主人公の様態は、激しい幻聴・幻覚(障子に人が擦れ触れるとする現象)を伴う精神疾患の症状と考えられる。恐らく、この「某」、この年貢取り立ての実務巡回が心底、厭だったであろう。また、幻聴の中で、その話者の男の方を、巡回する当地の具体的な実務担当者と特定し、「憎きやつと思ひそれが名をさして高らかに呼」ぶ辺りでは、その「郷士」本人との実務上或いは私的(女絡みかも知れぬ)なトラブルがあり、それが強いストレスとなっていたことが深く疑われる。彼の上司である県令工藤某も、それは狐狸の悪戯であるとあっという間に断定してしまい、「説諭(ときさと)し、萬般(いろいろ)力を添えて慰め」たとあるのも、却って、この某の状態が正常な精神状態ではないことを感じ取った故の応急対応と、逆に読める。症状は短い間に増悪し、食事も出来なくなるありさまであったというのは、統合失調症さえ疑われるのであるが、これがまた、二ヶ月ほどで快方に向かったというのは(工藤氏が最後に「斯く人を惱すことこそ憎けれと」語ったというからには、その後、某は見かけ上は、全く正常に復したことを意味すると考えてよかろう)、やはり一過性の幻聴・幻覚であり、先に示した職務上のストレスが昂じ、幻聴を主調とした幻覚や関係妄想を伴うところの、強い心因反応を起こしたものと一応は判断出来よう。工藤は彼を配下の事務方か何かに配置換えしたものかも知れぬ。

「縣令」本作は幕末の万延元(一八六〇)年の成立であるが、江戸時代に「県令」という正式な官職はない。作者平尾魯僊は文化五(一八〇八)年生まれで、明治一三(一八八〇)年に没しているが、近代日本の「県令」は明治四(一八七一)年十一月、太政官制の下で施行された県治条例の職制によって、府知事はそのまま知事、県知事は県令又は権令と改称されているから、この箇所の記載は後に平尾が追記したものかと思ったが、本文では後で当時(嘉永年間)の「縣令」と出るから、思うにこれは、弘前藩内の各郡の支配担当官を県令と読み換えたもののように思われる。

「嘉永の年間」一八四八年から一八五四年。

「田税」年貢。

「姥袋といふ邑」底本の森山泰太郎氏の補註に『西津軽郡鯵ケ沢町姥袋(うばぶくろ)。赤石川下流の部落』とある。現在は鯵ケ沢町姥袋町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「客廰(ざしき)」「廰」(庁)には「役所」以外に「家」「部屋」の意がある。

「椽側」「緣側」。

「謝(うつ)りて」「謝」には「去る」の意がある。

「しかすがに」これで一語の副詞。そうはいうものの。元は副詞「しか」+サ変動詞「す」+上代の終助詞「がに」(活用語の終止形に接続し、下の動作(ここでは「長話する」こと)ここでは「の程度を様態的に述べるのに用いられる。「~せんばかりに・~するかのように・~するほどに」)が付いたもの。

「呟訟(つぶやき)」二字へのルビ。不平を呟きながら。

「赤石村」同じく森山氏の補註に『鯵ケ沢町赤石(あかいし)。赤石川が二本かに注ぐあたりの漁村』とある。現在は鯵ケ沢町赤石町で、先の姥袋の北側に接する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「郷士」「ごうし」。城下町に住む武士に対し、農村部に居住する武士の呼称。本来、諸藩の家臣は兵農分離によって城下町に住むべきものとされていたが、地方では農民支配の末端機構としてこの郷士を利用する藩も少くなかった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここはそうした郷士の中で、各地域の実務担当者を指すのであろう。だから、巡検役であるこの主人公が、普段から仕事で接し、よく知っていたことから、その声だけで特定出来たのである。

「後」「のち」。

「閨(ふしと)」「臥所・臥床」。読みはママ。

「障子にすり當る事」話している人物らが、障子に触れて擦れ、その物音が聴こえてくることを指している。実在物に当たって音を立てるというところが怪異の真骨頂の部分となる。それまでなら、自分でも幻聴や何かの勘違いと納得し得るのであるが、ここに至ってそれは主人公の中の「奇体な事実の音」として認識されるのである。伝統的怪談のキモの部分である。

「懊惱(ここちなや)まして」上手い和訓。「懊惱」は音「アウナウ(オウノウ)」で、「悩み悶えること・煩悶」の意。

「居るに耐ざれば」最早、不眠が続き、正常に勤務することが出来なくなって。

「わざくれ」悪戯(いたずら)。

「旬日」普通は「じゆんじつ(じゅんじつ)」であるが、意味から「とおか」(十日)と訓じていると思われる。]

譚海 卷之二 座頭仲間法式の事

 
座頭仲間法式の事

○座頭(ざとう)の交(まぢはり)は嚴重なるもの也。會集の席うちとけ居たる所へをくれて來る檢校あれば、はじめ集り居たる檢校皆々衣をきて、衣を着ましたと挨拶をするが禮也。座頭同志はあるきながらも象棋(しやうぎ)をさす也、はなしにて互ひに濟(すむ)事ゆへかくの如し。檢校には金子七百兩あればならるゝよし某(ぼう)座頭物語也。又瞽女(ごぜ)は支配はなきもの也、座頭には類せぬものなりとぞ。

[やぶちゃん注:「座頭」狭義には以下に示すような江戸期に於ける盲人の階級の一つここでは、幕府が障碍者保護政策として一種のギルド的な職能組合である「座」を基本として身体障害者に対し行った排他的独占的職種容認政策の中での、広義の視覚障碍者を指している。

「檢校」検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位(「検校」の下に降順で「別当」・「勾当(こうとう)」・「座頭(ざとう)」・「紫分(しぶん)」・「市名(いちな)」・「都(はん)」などがあった)の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座(とうどうざ)を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには』七十三の『位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで』七十三段に『及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて』七百十九両が『必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』(下線やぶちゃん)。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある。

「衣を着ましたと挨拶をするが禮也」視覚障碍者であるので、遅れて来た仲間に対して一座が上着を脱いで寛いでいたのを、皆して着し、礼式をとったことを言葉で示すということであろう。音訓の違いはあるが、提示の到「着」に遅れて「着」いたという皮肉の意として「着る」の字が掛けられていると読むのは私の深読みか。

「象棋」将棋。ここは所謂、「目隠し将棋」(旧称「盲将棋」)で、将棋盤と将棋の駒は用意せず、対局者同志が駒の移動先を棋譜の読み上げ方法に従って、「七六歩」「八四歩」などと声で伝えることで対局を進める方式。ウィキの「目隠し将棋によれば、『かつては盲将棋(めくらしょうぎ)とも呼ばれていたが、差別用語を含んでいるので、現在この呼び名は使用されず、脳内将棋(のうないしょうぎ)と表現されることが多い』とある。

「瞽女」ウィキの「瞽女より引く。『瞽女(ごぜ)は、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する日本の女性の盲人芸能者』の呼称で、『近世までにはほぼ全国的に活躍し』、二十『世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人である』。『女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もあ』った。時にはやむなく、『売春をおこなうこともあった』。『瞽女の起源は不詳であるが、室町時代後期に書かれた『文明本節用集』には「御前コゼ
女盲目」と記され、『七十一番職人歌合』にもその姿が描かれている』。『近世では三味線や箏を弾くのが普通となった』。『瞽女の演目(瞽女唄)のひとつに「クドキ(口説節)」があり、これは浄瑠璃から影響を受けた語りもの音楽であるが、義太夫節よりも歌謡風になっている』。『江戸時代の瞽女は越後国高田(上越市)や長岡(長岡市)、駿河国駿府(静岡市)では屋敷を与えられ、一箇所に集まって生活しているケースがあり、これを「瞽女屋敷」と称した』。先の盲官らのような公的な「当道座」といった支配的統制的全国組織はなく、『師匠となる瞽女のもとに弟子入りして音曲や技法を伝授されるという形態をとった』。『親方となる楽人(師匠)は弟子と起居をともにして組をつくり、数組により座を組織した』。『説経節の『小栗判官』や「くどき」などを数人で門付演奏することが多く、娯楽の少ない当時の農村部にあっては、瞽女の巡業は少なからず歓迎された』。但し、『江戸時代中期・後期の瀬戸内地方にいた瞽女の多くは広島藩、長州藩あるいは四国地方の多くの藩から視覚』障碍『者のための「扶持」を受けたといわれる』とある(下線やぶちゃん)。]

甲子夜話卷之三 2 酒井家拜謁の鳥披、又松平能州御拳の鳥拜領披の事


3-2 酒井家拜謁の鳥披、又松平能州御拳の鳥拜領披の事

姫路酒井家、拜賜の鳥開にて客を招くときは、當日御鳥持參の御使番を上客とし、間柄の國持衆、溜詰衆にても、皆御次席に坐せしむること、古來よりの家法と云。敬上の意厚きこと貴ぶべし。岩村松平能登守【乘堅】加判勤しとき、御拳の鳥拜領、開きとて親類衆招きのときは、先第一の吸物膳は主人へ直し、夫より順々に、客の高下にて吸物を出し、主人吸物を戴きて拜味し、扨客に挨拶あれば、いづれも吸物の蓋をとりしと云。是も亦その理に叶ひたる賓主の作法なりけり。

■やぶちゃんの呟き

「酒井家」現在の兵庫県西南部の播磨国飾東(しかま)郡を治めた姫路藩を江戸後期に納めた酒井氏。ウィキの「姫路藩によれば、同藩は転・入封著しく、池田家→本多家→松平(奥平)家→榊原(松平)家→松平(越前)家→本多家→榊原家→松平(越前)家と転じたがこの越前松平家松平朝矩(とものり)に代わって『老中首座酒井忠恭が前橋から』寛延二(一七四八)年に入封、『姫路藩の酒井氏は徳川家康の重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世・酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。老中を務めていた忠恭の前橋領は居城が侵食されるほどの大規模な水害が多発する難所であり、加えて酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用などにより酒井家は財政が破綻していたため、忠恭は「同石高ながら実入りがいい」と聞いていた姫路への転封をかねてより目論んでいた。実際は、姫路領では前年に大旱魃が起き、そこに重税と転封の噂が重なり、寛延の百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が起こっていたが、酒井家は気がついていなかった。それでも転封は実現したが、その年の夏に姫路領内を』二『度の台風が遅い、水害が発生し大変な損害を出し、転封費用も相まって財政はさらに悪化することとなった。ともあれ』、『酒井家以降、姫路藩は頻繁な転封がなくなり、ようやく藩主家が安定した。歴代の姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中、大老を務め、幕政に重きを成した』とある。静山の同時代は第四代藩主酒井忠実(ただみつ)及び第五代忠学(ただのり:第三代藩主酒井忠道八男)の治世。

「鳥披」「とりびらき」。この語、辞書類には不載であるが、田中和明氏の甲子夜話に学ぶ経営心得(第108号)(本話の全現代語訳と注が載るメルマガ。私は購読しておらず、今回初めて参考にさせて戴いた)を参考にさせていただくと、これはまず、将軍家が重要な武人の儀式として行っていた「鷹狩り」をし、そこで得た獲物を重臣や主だった大名らから選んで分け与えたという(後に出る「鳥拜領披」)。その際、それを貰った側(ここでは姫路藩酒井家で、場所は江戸姫路藩上屋敷となる)では、『これを鳥開き(披き)と呼び、将軍よりの賜り物として客を招いて料理して食べた』とある。

「松平能州」「岩村松平能登守【乘堅】」美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。

「御拳」「おこぶし」。将軍が自ら鷹を使って(拳を握った腕から放つからであろう)鳥類などを捕らえること及びその獲物。

「鳥拜領披」「とりはいりやうびらき」。前注参照。

「御使番」既注であるが再掲する。元来は戦場での伝令・監察・敵軍への使者などを務めた役職。ウィキの「使番」によれば、江戸幕府では若年寄の支配に属し、布衣格で菊之間南際襖際詰。元和三(一六一七)年に定制化されたものの、その後は島原の乱以外に『大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する』ようになった。『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行い』とあり、常に幕府の上使としての格式を持つ名誉な職であった。

「間柄」親族。

「國持衆」ここは親族の大名家及び本城姫路城の他の支城の城主或いは城代格に命じたような、家臣の中でも家格が高く、権勢の強大な者をも指していよう。

「溜詰衆」「溜詰」(たまりづめ)は「伺候席(しこうせき)」で、江戸城に登城した大名や旗本が将軍に拝謁する順番を待つための控室、黒書院「溜の間」を指す。ここはそこに酒井家と同席する者の中で、特に親しい間柄或いは縁者の旗本などを指すか。

「敬上の意」将軍家への。

「加判」此処は老中の別称。

「先」「まづ」。

「直し」「なほし」。ここは「人や物をしかるべき地位・場所に改めて据える」の意で、「供し」の意。

「高下」「かうげ」。地位の降順に。

「扨」「さて」。その上で。

「その理」「そのことわり」。前述の将軍家への敬意を表わすことを指す。

諸國百物語卷之五 十二 萬吉太夫ばけ物の師匠になる事

 

     十二 萬吉太夫(まんきちだゆふ)ばけ物の師匠(ししやう)になる事

 


Mankitidayuu

 

 京(きよう)上立(かみたち)うりに、萬吉太夫と云ふ、さるがく、有りけるが、能(のふ)、へたにて有りしゆへ、しんだいをとろへて大坂へくだるとて、ひらかたの出ぢや屋にて、ちやをのみ、やすらいゐるうちに、日もそろそろくれがたになりければ、

「こゝに、一夜の宿をからん。」

といへば、ちや屋、申しけるは、

「やすき事にて候へども、此所には、よなよな、ばけ物きたりて、人をとり申すゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、夜はわれらもこゝにはゐ申さず。」

とかたる。萬吉、きゝて、

「それとても、くるしからず。」

とて、その夜はそこに、とまりける。あんのごとく、夜半のころ、川むかいより、人のわたるおと、しける。見れば、たけ七尺、ゆたかなる坊主也。萬吉、これを見て、やがてことばをかけ、

「いやいや、さやうのばけやうにては、なし。まだ、ぢやくはいなるぞ。」

といへば、ぼうず、きゝて、

「そのはうは、いかなる人なれば、さやうには、の給ふぞ。」

と云ふ。萬吉、きゝて、

「われは、みやこのばけ物なるが、此所にばけ物すむと聞きおよびて、あふて、上手か、へたか、心みて、上手ならば、師匠とせん。へたならば、弟子にせん、とおもひて、これにとまり候ふ。」

と云ふ。坊主、

「さらば、そのはうの、ばけてぎわ[やぶちゃん注:ママ。]を、見ん。」

と云ふ。萬吉、

「心えたり。」

とて、つゞらより能のしやうぞくとりいだし、鬼になりてみせければ、坊主、おどろき、

「さてさて上手かな。女(ぢよ)らうにばけられよ。」

と、のぞむ。

「心ゑ[やぶちゃん注:ママ。]たり。」

とて又、女になる。ぼうず、申しけるは、

「おどろき入りたる上手かな。今よりのちは師匠とたのみ申すべし。われは川むかいのゑの木のしたにすむ、くさびら也。數年、この所にすんで、人をなやます也。」

とかたる。萬吉、きゝて、

「その方は、なにが、きんもつぞ。」

と、いふ。

「われ、三年になりぬる、みそのせんじしるが、きんもつ也。」

と云ふ。

「又、そのはうは。」

と、とふ。萬吉、きゝて、

「我れは、大きなる鯛のはまやきが、きんもつにて、これをくへば、そのまま、いのち、をわり申す。」

と、たがいにかたるうちに、夜は、ほのぼのと、あけにける。坊主も、いとまごひして、かへる。萬吉太夫は、ひらかた、たかつき、あたりへ、かたりきかせければ、みなみな、たちあひ、だんがうして、太夫のいわれしごとく、三年になるぬかみそをせんじて、かのくさびらに、かけゝれば、たちまち、じみじみとなり、きへにけり。そのゝちは、ばけ物、いでざりしと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「萬吉太夫はけ物のしせうに成事」(歴史的仮名遣は誤り)。植物妖怪のテツテ的笑怪談。

「萬吉太夫」不詳。

「京上立うり」現在の京都市に「上立売通(かみだちうりどおり)」として現存する地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「さるがく」「猿楽・申楽」。ここは以下の「能」が「へた」(下手)であったがため、「しんだいをとろへ」(身代衰え:能楽師としての地位が落ちて、家が零落してしまい)た、というところを読めば分かる通り、能楽の旧称なので注意されたい。

「ひらかた」「枚方」。現在の大阪府枚方市。

「出ぢや屋」街道筋や道端などに小屋掛けをして出している簡易の茶店。掛け茶屋。

『「こゝに一夜の宿をからん」といへば、ちや屋、申しけるは、「やすき事にて候へども、此所には、よなよな、ばけ物きたりて、人をとり申すゆへ、夜はわれらもこゝにはゐ申さず」』これが江戸時代の設定だと、これは違法行為であり、泊まった万吉太夫も貸した出茶屋の主人も処罰される。当時は正規の宿駅の正規の旅籠業を営むところ以外では一般人は宿泊することもさせることも禁じられていたからである(行脚僧などは例外)。但し、それは表向きで、緊急や急病・疲弊などの折りに、こうした交渉と宿貸はしばしば行われた。しかしそれでも露見すれば、罰せられたことは知っておいてよい。但し、この時代設定は江戸よりも前とも思われるので、あまり問題にする必要はないか。

「川むかい」「川向ひ」。川向う。川は枚方の西北境界線を流れる淀川と見てよかろう。川幅はかなりあるが、渡って来るのは妖怪ですから、問題ありますまい。

「七尺」二メートル十二センチ。

「ゆたかなる」肉づきのいい。ぼってりとした。挿絵を見よ。

「さやうのばけやうにては、なし」「左樣の化け樣にては、無し」。「そのような生っちょろい化け様(よう)にては、化けたとは言われぬわ!」。

「ぢやくはい」「若輩」。経験が乏しく未熟であること。

「ばけてぎわ」「化け手際」。

「しやうぞく」「裝束」。

「女(ぢよ)らう」「女﨟」。高貴な婦人。

「ゑの木」「榎(えのき)」。歴史的仮名遣は誤り。バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis

「くさびら」「菌(くさびら)」。茸(きのこ)のこと。榎の根元だから、菌界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ目タマバリタケ科エノキタケ属エノキタケ(榎茸)Flammulina velutipes を想起しての設定であることは明白。エノキダケは実際にエノキに生え、他にカキ・コナラ・クワ・ヤナギなどの広葉樹の枯れ木や切り株に寄生する木材腐朽菌である(「ナメコ」「ナメタケ」は本種の別称である)。参照したウィキの「エノキタケ」によれば、傘は直径二~八センチメートルで『中央が栗色あるいは黄褐色で周辺ほど色が薄くなり、かさのふちは薄い黄色またはクリーム色である。かさの表面はなめらかで強いぬめりと光沢がある。かさは幼菌では丸みが強く、のちしだいに広がり、まんじゅう型からのち水平に近く開く』とあり、ここででっぷりした坊主(様の頭)で出現するところもエノキダケを意識していると言える。

「きんもつ」「禁物」。禁忌物。天敵。

「三年になりぬる、みそのせんじしる」三年熟成させた味噌を煎じた汁。

「鯛のはまやき」「鯛の濱燒」。尾頭附きの鯛を塩焼きにしたもので、主に祝いの膳に用いる。本来は古来の入浜式塩田の製塩中の熱い塩の中に、獲れたての活け鯛を入れ、塩釜蒸し風にしておいて焼いたことから、この名があるようである。

「そのまま」たちまちのうちに。

「たかつき」現在の大阪府高槻市。まさに枚方の淀川を挟んだ対岸域。「くさびら妖怪」の本拠地である。

「かたりきかせければ」体験した奇体な事実を子細に語って廻ったところ。

「たちあひ、だんがうして」「立ち合ひ、談合して」。枚方と高槻の淀川沿いの主だった者たちが揃って集まり合い、申し合わせた上。

「太夫のいわれしごとく」「太夫の言はれし如く」。歴史的仮名遣は誤り。

「じみじみ」当初は溶け崩れてゆくさまのオノマトペイアかと思ったが、これは「ぢみぢみ」が正しいのではないかとも思われる。「地味地味」で、「形や模様などがはなやかで大きかったものが、忽ちのうちに溶け崩れて色褪せ、萎んでしまうさま」である。大ナメコの味噌汁は私の大好物であるが、かけて暫くすると、ナメコはくったりとなって、遂にはどろどろになって液状化してしまう。なんとなく、それを思うと、この「くさびら」のお化けも可哀想な気が、私はしてくるのである。]

2016/11/20

谷の響 三の卷 十九 鬼火往來す

 

 十九 鬼火往來す

 

 深砂宮の原(もと)宮といへる杉林の内に、五輪の石塔ありき。千年餘りのものにや、文字など更に見ゆることなく、すこしもさはるときはかけ崩るゝと言へり。さるに田舍館村なる土産神(うぶすなかみ)の社の林より、夜二更(よつ)の頃に至ればひとつの陰火飛揚(とび)來りて、この五輪の塔の傍におちて火耀(ひかり)をかくせるが、五更(なゝつ)に向んとするとき又陰火顯(あらは)れ出て、土産神の林の中に飛皈れりとなり。こは八月の下旬(すゑ)より十月の下旬までには幾囘(いくたび)もありて、そのあたりのもの間々見るといへり。されどその陰火林の何處(いづく)より出てけるにや、又五輪の傍に何地(いつぢ)隕(おち)けるにやたしかに見たるものなしといへり。こは田舍館村の三之丞といへるものゝ語りし也。

 

[やぶちゃん注:「深砂宮」底本の森山泰太郎氏の補註に『南津軽郡尾上町にある猿賀神社は、深砂大権現を祀るので深砂宮という。大同二年坂上田村麿創建の伝説がある』とある。現在は平川市尾上である。猿賀(さるか)神社も既出既注で底本の森山氏の補註に『南津軽郡尾上町猿賀(さるか)。津軽の古社猿賀神社』『で知られる』とある。現在は青森県平川市猿賀。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、「猿賀神社」公式サイト内の境内案合図を見ても、「原宮」というのはない。しかし、先のデータを航空写真に切り替えて見ると、本殿の周囲には鬱蒼とした森がある。本殿左手にある「矢場」の写真の背後には杉林と思われるものがあり、この本殿背後かその周辺を指していると考えてよかろう。

「千年餘りのものにや」本書は幕末の万延元(一八六〇)年成立であるから、千年前は八百六十年で、「猿賀神社」公式サイトの「由緒」ウィキの「猿賀神社」を見ると、「日本書紀」によれば、蝦夷討伐の将で仁徳天皇五五(三六七)年に伊峙水門(いしのみと)で敗死し、後に大蛇の姿になって蝦夷を平定したとされる上毛野君田道命(かみつけののきみ たじのみこと)は仁徳天皇五五年(三六七年)に『「勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「五十六年蝦夷の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。蝦夷その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化して毒気を吐発す。土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。その後、二百年の星霜を経て、欽明天皇二十八年(五六七年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている』。『桓武天皇の御代に再び暴夷を平定することになり、坂上田村麻呂将軍が兵を進め苦戦となった際、田道命の霊感を受けて大勝した。よって将軍は延暦十二年(七九三年)八月二十三日現在の地に祠を祀り、その趣を天皇に奏上した処、勅命により、大同二年(八〇七年)八月十五日社殿を造営、奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、神威天長、国家安穏、黎民豊楽、悪鬼退散を祈願した。以来猿賀の深砂宮(神蛇宮)と崇められ御神徳四方に遍く、地方唯一の霊場と仰がれるに至った。かつては国司、探題、(藤原秀衡公、北畠顕家卿、阿倍氏代々等)の崇敬篤く、藩政時代に入り藩主津軽為信公により、祈願所と定められ社殿の改修造営、また社領の寄進などしばしばであった』とあるから、この大同二(八〇七)年以後のものではあろう。

「田舍館村」は既注で「いなかだてむら」と読み、弘前の北東に完全に同名の村として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土産神(うぶすなかみ)」本邦古来の土地神。ウィキの「産土神」によれば、『神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す』。『その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられ』、『産土神への信仰を産土信仰という』。『氏神と氏子の関係が血縁を基に成立するのに対し、産土神は地縁による信仰意識に基づく。従ってその意識が強く表れるのは都市である。例えば京都では同族集団の結束が弱まり、地縁による共同体意識が形成されると共に、中世には稲荷神社、御霊神社、賀茂神社、北野神社などの有力な神社を中心に産土神を基にした産子区域の観念が発達した。そして産土詣での語が一般に使われるようになり、生まれた子の初宮参りをはじめ、成年式、七五三等に産土詣でをする風習が盛んになった』とあり、『産土神は安産の神である産神とも関連がある。現在は全国的に同族神としての氏神信仰が衰え、あらたに起こった産土神の信仰に吸収されていく傾向が多くみられる』とする。

「二更(よつ)」午後十時頃。

「飛揚(とび)來りて」二字へのルビ。

「傍」「かたはら」。

「火耀(ひかり)」二字へのルビ。

「かくせるが」「隱せるが」。

「五更(なゝつ)」午前四時頃。

「向んとするとき」「むかはんとするとき」。なろうかという時刻に。

「飛皈れり」「とびかへれり」。

「間々」「まま」。しばしば。

「その陰火林の何處(いづく)より出てけるにや」「その陰火、林の何處(いづく)より出てけるにや」。

「又」「また」。

「五輪の傍に何地(いつぢ)隕(おち)けるにや」五輪塔の傍らのどの箇所・位置に落ちるのやら。]

谷の響 三の卷 十八 落馬の地

 

 十八 落馬の地

 

 北浮田村より鯵ケ澤に通れる路に、砂坂といふ地(ところ)あり。此處にて落馬する時は必ず死に至れりと、往古(むかし)よりの言傳へなり。嘉永の初めにて有けん、御藏町の與惣といふものゝ嗣子(せがれ)、この土(ところ)にて馬より墮ちてさして骨の痛むにもあらざれば苦しむ由もなけれど、何となく病みつきて十日許りにして死せるとなり。かゝる類(たぐひ)のもの、十年には一二度ありと言へり。かゝる祟(たゝり)のある土(ところ)は、兩濱の街道の中に二三ケ所あるよしなれど、未だその實を得ず。

 

[やぶちゃん注:「北浮田村」底本の森山泰太郎氏の補註に『西津軽郡鯵ケ沢町北浮田(きたうきた)』とある。現在は西津軽郡鯵ケ沢町(まち)北浮田町(まち)である。ここ(グーグル・マップ・データ)で鰺ヶ沢の北東部に当たる。

「砂坂」不詳。

「嘉永の初め」嘉永は一八四八年から一八五四年まで.

「御藏町」複数回既出既注。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「與惣」地名人名では「よそ」と読むケースが多いようであるが、正しく読む「よそう」でもおかしくはない。

「兩濱の街道」「兩濱」(りようはま(りょうはま)とは、当時の弘前藩の「青森と鰺ヶ沢を中心とする流通統制機構」の呼称であるが、ここはその物資運搬の主幹道路となった両地を末端とする街道を指す。

「未だその實を得ず」未だにそうした不吉なスポットであるという事実や、事実ならばその真相・原因は何かということは全く分かっていない、という謂いであろう。実証主義に徹することを旨とした平尾としては、そうした謂われなき魔地というのは、信ずるにやや抵抗があったのかも知れぬ。]

谷の響 三の卷 十七 樹血を流す

 

 十七 樹血を流す

 

 目谷村市邑の毘沙門堂の境裡(けいだい)に佛桂(ほとけかづら)といふ樹あり。この樹は幹はもとより、小さき枝まても傷(きづつく)る時は血出るというて、土(ところ)の人析(き)る事を許さず。御藏町の善藏といへるもの、試し見んとて密(ひそか)に枝を析りたるに、如何にも淡紅(うすあか)き水出て他(ほか)の樹の類(たぐひ)にあらずと言へり。

 且説(さて)この樹を佛桂と言ふよしは、何(いつ)の頃にか有けん、村の杣士等この樹を伐りしに血の出る事人に一般(おなじ)かりければ、僉々(みなみな)寒慓(おそれ)て神に言和解(いひわけ)して、その木の中心(なか)にて高さ五尺ばかりの佛像を彫作(ほり)て、この桂の精を和(なご)め祭れるよりの名なりと言へり。その佛像今に毘沙門堂の中に安置せり。又、今ある佛桂はこの佛を作りし木の根株より出たる新(ひこばえ)とかや。さて、樹の血を出せることは和漢ともに間々あることなり。また此堂の林に池の杉といふて十抱周匝(とほかゝへまは)る古杉ありて、こを池の杉と號(なづ)くるは、兩又(ふたまた)の處に水溜りて魚の生れたるより呼し名なりと。今はその隻(かた)枝枯れて無れど、希らしき巨(おほ)杉なり。[やぶちゃん字注:「」=「木」+「卉」。]

 

[やぶちゃん注:「目谷村市邑」底本の森山泰太郎氏の補註に『西目屋村村市(むらいち)。砂子瀬より岩木川沿い下流に当る』とある。ここ(マピオン地図データ)。

「毘沙門堂」底本の森山泰太郎氏の「雌野澤」の補註に『いま鹿島明神。大同二年、坂上田村麿が勧請したという伝説がある。今も境内に杉の老木が多い』とある。YUKI氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」が画像豊富で、なんたって本作の筆者平尾魯仙の「香取神社村市村区中の図」(青森県立郷土館蔵)もある! 必見!

「佛桂(ほとけかづら)」実和名にはありそうで、ない。私は野坂昭如の小説の中でも「火垂るの墓」についで熱愛する「骨餓身峠死人葛」(ほねがみとうげほとけかずら)でしか知らぬ。先のYUKI氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」によれば、少なくとも当地には現存していない。

「御藏町」既出既注であるが、再掲する。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。「如何にも淡紅(うすあか)き水出て他(ほか)の樹の類(たぐひ)にあらずと言へり」樹液が赤いものは国外では幾つか知られ、単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科(或いはリュウゼツラン科)スズラン亜科ドラセナ属 Dracaena の仲間或いは同属のリュウケツジュ(龍血樹)Dracaena draco  マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属のブラッドウッド・ツリー Pterocarpus angolensis などが知られ、これは確かに血のように赤い。本邦でもミズキ目ミズキ科ミズキ属ミズキ(水木)Cornus controversa のように多量の樹液を分泌する種に、ある種の酵母が作用すると、薄い赤或いは橙色の多量の樹液を分泌することが知られている。私は見たことはないが、ネット上ではかなりの本邦での本種が赤い樹液を多量に滴らせている画像や動画を視認出来る。また、この「佛桂」の文字からは、ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ(桂)Cercidiphyllum japonicum が想起される。但し、カツラの木の樹液が赤いとは聴かない。しかし、。先のYUKI氏の「鹿嶋神 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」を見ると、現在の鹿嶋神社拝殿内にある仏像は坂上田村麻呂の手彫りと伝えるが、これは彼がこの一帯を征服した際に「桂の木」を伐り出して彫刻したものであるとあり、また、

   《引用開始》

青森の伝説によりますと、『境内に、仏桂という老木があった。いつのころか、村の山子(木こり)たちがこの桂の木を切ったところ、血が流れ出した。そこで神様に詫び、その木で仏像を刻み、堂の中に安置して桂の霊を慰めたという。』

   《引用終了》

ともある(下線やぶちゃん。ただ、この記載は「仏桂」という名から無批判に「桂の木」と読み換えただけのように見える)。私が何故、かくも拘るかというと、「ほとけかつら」と和語で呼称する場合、「佛鬘(ととけかつら・ほとけかづら)」である可能性を完全には排除出来ず、仮にそうだとすると、その木はツル性植物或いは枝葉が蔓様になる樹木である可能性も出てくるからである(水木や桂ではそうはならない。但し、平尾は後で「桂」と書いてはいる。しかし、平尾がこの木を現認したという確証はなく、この全体の記載は聞き書きに過ぎない可能性を深く疑わせるから、彼が「桂」と書いたからといって狭義の「桂の木」に断定することは出来ないと私は考えるのである)。ともかくも、他に同定候補があるならば、是非とも御教授を乞うものである。

「杣士」木樵(きこり)。

「寒慓(おそれ)て」二字へのルビ。

「言和解(いひわけ)して」三字へのルビ。木の出血を神の怒りと見たのである。木の出血はダイレクトに山(大地)の「穢れ」を意味するから、木樵らはそれによって山に入ることを畏れ、仕事が出来なくなってしまうのである。そこでそれを謝罪し、出血した木を神木となし、崇め奉ってその怒りを鎮めたのである。これは一種の御霊信仰と同義的であると言ってよいと思われる。

「その木の中心(なか)にて」伐ってはまずいのだから、ここはその「佛桂」に自然に出来た洞(うろ)である。

「五尺」一メートル五十センチ。

「その佛像今に毘沙門堂の中に安置せり。又、今ある佛桂はこの佛を作りし木の根株より出たる新(ひこばえ)とかや」「新(ひこばえ)」(「」=「木」+「卉」)は「蘖(ひこんばえ)」で新芽を出して伸びた新たな同木の意。先のYUKI氏の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」に現在の同社殿内には坂上田村麻呂手彫りと伝承する(単なる伝承)二体の仏像が安置されており(一体は破損)、その高さはそれぞれ約一・四メートルと一・八メートルとある。前者の大きさはこれに近い。

「樹の血を出せることは和漢ともに間々あることなり」前掲注参照。

「池の杉」先のYUKI氏の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」に、『池の杉・竜の杉と呼ばれる老杉の幹があり、昔は中ほどから折れ、くぼみには雨水が溜まって池となり、フナが住み着いていたと伝えます。この池には竜神も宿っており、日照りが続くと姿を現して雨を降らせたという伝説もあります。現在はこの木は存在しないようです』とあり、さらに、『菅江真澄が以下のように記しています『太秋(たやけ、大秋)という村にはいり、左方に鶴田というところも見えて、危げな橋をわたり、郷坂というおそろしいほどの坂を左にして、ふか沢という、たとえようもないやけ山にわけいった。滝の沢というところをへて、遠方に合頭という岳を眺め、川にそってはるかにたどり、村市村を過ぎて、つづら折りの道をくだり、大路にでて、ここに宿を求めた。(中略)藤川という村の、こちらの畳平という村からはいり、おおひらの山の麓、守沢というあたりに、大同年間の由来をもつといい伝えられている多門天の堂があった。(中略)六、七尺ほどの朽ちた古像がふたつたっていた。この堂の後方に人の丈の高さのところではかると、周囲七尋』(十二メートル程)『ばかりある大杉があった。(中略)この幹の真中あたりのところが朽ちて、その空洞に水がたまり、これを池の杉とよんでいる。三枚平という峰にのぼって、この杉の真中の空洞をみていると、ときには鮒のおどることがあるなどと、案内人が指さし見上げながら語った。』』と引かれておられる。菅江真澄の図もあるので是非、リンク先を参照されたい。底本の森山氏の補註に『菅江真澄の「雪のもろたき」(寛政八年)にこの杉を観察した記事がある。「此堂のしりに、人のたけしたる処にはかれば、七尋斗めぐる大杉あり。此木のなから斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]折くちて、そのうつほに水渟りぬ。これなん池の杉とて、むかしより今猶立てり。三枚ひらといふ嶺に登りて、かゝる杉の半[やぶちゃん注:「なかば」。]を見をれば、ときとして、鮒なんおどることありなど、あなひの、手をさしあふぎ見て語る。」』とあるのが、その原文である。真澄がこの「池の杉」を見たのは寛政八年で一七九六年、本「谷の響」の成立は万延元(一八六〇)年だから六十四年後である。或いは、この真澄の見た杉は天災によって倒壊消滅し、新たに二股杉を神木として《新規捲き直し神木》とした可能性が疑われるように私は思う

「十抱周匝(とほかゝへまは)る」一抱えを前にしたように一・七五メートルで換算すると、十七メートル五十センチに相当するが、ちょっと大袈裟である。YUKI氏の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」菅江の絵では、同杉の根元で立って手を繫いでいる人が描かれており、それはこちら側半分に四人(左右の円周上に一人ずつ)であるから、計八人で、これだと、この杉の円周は十四メートルとなる。さらに、菅江の文章(YUKI氏による現代誤訳か)では『周囲七尋』でこれは凡そ十二メートルと、さらに現実的に小さくなる。

「兩又(ふたまた)の處」不審。菅江の絵では、太い一本の杉の幹に生じた洞(うろ)である。

「魚の生れたるより呼し名なりと」これはまあ、中国の説話にある(思い出せぬ! 授業でやったのに!)、たまたま魚商人が鰻(だったよなあ?)を木の洞の水溜りに入れおいたところ、それを見た人々が木から生まれた神聖な魚だと言って、社(やしろ)を作って崇めたという落し咄と同じことで、誰かが、悪戯でやったことであろう。或いは、当時の村全体が確信犯で共犯で行った「村おこし」の一種だったかも知れぬ。

「隻(かた)枝」二股に分岐した片方の上部。ここまで書かれると、真澄の絵とのギャップが甚だしく、激しく不審である。]

谷の響 三の卷 十六 陰鳥

 

 十六 陰鳥

 

 目屋の澤砂子瀨と河原平との兩村に、毎年四五月に至り小雨ふりて淋しかりし夜にあへば、淸く澄める聲にてカンといひ又つゞいてキンといふ。その聲いと凄列(ものすご)く、寒氣(さむけ)たつばかりなり。又この兩村に夜のふけぬる頃、オヒトゴヒトと呼ぶものあり。こもいと凄かるはいふべくもあらず。この二つは鳥のよしなれど、いかなる貌(かたち)の鳥なるか土(ところ)のものも終古(むかし)より一人も見たるはなしといへり。又この兩村の外には有らずとなり。三ツ橋氏砂子瀨に投宿(とまり)し時、親しく聞しとて語れるなり。

 

[やぶちゃん注:「目屋の澤砂子瀨と河原平との兩村」底本の森山泰太郎氏の補註に『中津軽部西目屋村砂子瀬(すなこせ)。岩木川の上流最も奥地にある山村。隣接して川原平(かわらたい)部落がある。昭和三十四年ダムのため旧部落は水没し、いま残留した村民が付近に新しい部落を形成している』とある。ここが現行の「砂子瀬」(マピオン地図データ。遙か南西方向に西目屋村「砂子瀬」の小さな飛び地が孤立して現存し、グーグル等の地図データで検索すると、そちらがかかってしまうようなので注意されたい)で、現在、ダムによって形成された大きな人造湖「津軽白神湖」の北岸と西岸にあり、その南岸西方を見ていただくと、そこに「川原平」の地名を確認出来る。現在も湖を含んで隣接した部落であり、ダム湖が出来る前には沢を挟んで全体が隣接していたことがよく判る。

「淸く澄める聲にてカンといひ又つゞいてキンといふ。その聲いと凄列(ものすご)く、寒氣(さむけ)たつばかりなり」この鳥の呼称が示されていない。比定不能。地元の識者の御教授を乞う。「ヒイン」「キイン」(長音)ならば「鵺・鵺鳥」(ぬえ)の名で気味悪がられ、妖怪化して認識されていたスズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma が強く疑われる。「小雨ふりて」というところもトラツグミの習性としてしっくりくるからである。ウィキの「トラツグミによれば、『主に夜間に鳴くが、雨天や曇っている時には日中でも鳴いていることがある』とあり、雨天で鳴く鳥は、必ずしも多くないからでもある。

「オヒトゴヒト」不詳。検索にさえ全くかからない。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑」にも不載。類似音の鳥名も知らない。比定不能。地元の識者の御教授を乞う。何となく、フクロウ類(フクロウ目フクロウ科 Strigidae)の鳴き声を擬音化すると、こうなる可能性は高いとは思われるが、フクロウ類は山間では馴染みの鳥であり、かく怪鳥(けちょう)として認識記載するとはちょっと思えない。

「三ツ橋氏」前話の提供者であり、恐らくは二 十一 夢魂本妻を殺すの提供者(話柄の主人公も藩士「三ツ橋」であるが、彼ではなく、その話を提供した同姓の「三ツ橋」)も同一人物と思われ、平尾の強力な情報屋であったと思われる。「夢魂本妻を殺す」を語れるということは彼は藩士であった可能性が高いと私は踏む。]

諸國百物語卷之五 十一 芝田主馬が女ばう嫉妬の事

 

     十一 芝田主馬(しばたしゆめ)が女ばう嫉妬の事

 

 丹後のみやづに芝田主馬と云ふ人あり。此女ばう、嫉妬ふかき人にて、こしもとに、もみぢと云ふをんな、きりやうよき女なりければ、主馬がめをかけんかとうたがいて、主馬、江戸へくだりしあとにて、井どへもみぢをいれ、うづめころしけり。主馬、江戸よりかへりて、

「井どは、なにとて、ほりかへけるぞ」

といへば、

「にわかにつぶれたるゆへほりかへたり」

といふ。

「もみぢは」

ととへば、

「いとまをとらせたり」

と云ふ。主馬、ふしんにおもひけれども、そのむきにてうちすぎぬ。主馬、子ども三人ありけるが、にわかにわづらひつきて、四、五十日のあいだに、三人ながら、あいはてけり。主馬ふうふ、なげきかなしぶ事、かぎりなし。そのころ、女ばう、くはいにんにて有りしが、ほどなくへいざんせられ、まことに、なげきのなかのよろこびにて、此子、てうあひ、かぎりなし。はや、三さいになりけるが、此子、きやうふうのやまひ有りて、たびたびおこりければ、いろいろと、りやうぢすれども、しるしなし。主馬かたへつねにきたるらうにんありしが、上手のはりたてありとて、同道してきたり。たてさせければ、すこしげんきにありしゆへ、

「こよひは、とまりて、たてて給はれ」

とて、とめけるほどに、牢人と、はり立、二人、なつの事なれば、かやをつり、あたりをあけはなし、物がたりしていたり。かゝる所へ、路地より、げたのあしをとしてきたる。たれぞ、と見れば、女也。こしより下は、ちしほにそまり、たけなるかみはさかさまにはへ、いろあをあをと、やせおとろへて、えんのうへゝあがる。針たては氣もたましひもうせすくみゐたり。されども、牢人、さわがず、

「いかなるものぞ」

と、とひければ、

「われは此うちにつかはれし女なるが、内儀、むじつの嫉妬にて、われを井のもとにうづめころされたり。此うらみをはらさんため、はや、三人の子どもを、とりころしたり。今一人も、とりころす也。なにと、針たて、りやうぢし給ふとも、かなふまじき」

と云ふて、かきけすやうに、うせにけり。そのとき、をくに、

「わつ」

と、なくこへ、きこへけるを、たちより、きけば、かの子、つゐに、あひはてけり。そのゝち、らうにん、主馬に、かくと、かたりければ、主馬、おどろき、女ばうにいとまをいだし、その身は出家になりけると也。

 

[やぶちゃん注:これは「曾呂利物語」巻一の「六 人を失ひて身にむくふ事」に基づく。「曾呂里物語」ではロケーションを津の国大坂の「兵衞次郎」の話とし、殺された腰元の名は示さないが、鍼醫の方は「天下無雙の聞こえありける」「あまのふてら矢野四郎右衞門」(「あまのふてら」は不詳。地名と思われ、最後の「てら」は「寺」であろう)と名が示されており、前半、「兵衞次郎」を色好みとし、女中と不倫を重ねている後半の展開も、殺された女が一丈(三メートル)ものおどろおどろしい鬼女となって出現し、遂には大きな石を屋根から落して嬰児(「曾呂里物語」では子は一人)を圧殺するというアクロバティクで長い話柄となっている(私はそちらの方がホラーとしては面白いと感ずる)

「芝田主馬」不詳。この表記の「しばた」姓は全国的にみられるものの、東海から近畿にかけて纏まって見られると苗字サイトにはある。

「丹後のみやづ」現在の京都府北部の、日本三景の天橋立があって若狭湾に面している宮津市。

「こしもと」「腰元」。

「きりやうよき女」「器量良き女」。

「主馬がめをかけんかとうたがいて」「主馬が目を懸けんかと疑ひて」。歴史的仮名遣は誤り。手をつけるのではないかと疑い。本話は彼女と主馬の関係を潔白としているところが、いい。さればこそ、「紅葉(もみぢ)」の亡魂は恨み骨髄となるのである。しかし……である(後注参照)。

「井ど」「井戸」。

「うづめころしけり」「埋め殺しけり」。以下で判るように投げ入れた後にご丁寧に井戸を埋め潰してしまったのである。「曾呂里物語」では「柴漬(ふしづ)けにこそしたりけれ」で簀巻きなどにして投げ入れたともっと具体に猟奇的。

「そのむきにてうちすぎぬ」「其の向きにて打ち過ぎぬ」。その言った通りを真実ととって。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『「向き」は、気持ちをそちらへ向けること』とあり、『そのように信じて』と訳しておられる。

「くはいにん」「懷妊(くわいにん)」。歴史的仮名遣は誤り。

「へいざん」「平産」。安産。

「てうあひ」「寵愛(ちようあい)」。歴史的仮名遣は誤り。

「きやうふう」「驚風」。小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。

「おこり」「起こり」。

「りやうぢ」「療治」。

「上手のはりたて」「上手の鍼立て」。名医と誉れの高い鍼(はり)医。

「こしより下は、ちしほにそまり」「腰より下は、血潮に染まり」。この様態は妖怪産女(うぶめ)のそれである。即ち、この妖怪の起源は〈死んだ妊婦を胎児そのままに一緒に埋葬すると「産女」となる〉という伝承が古くから存在したことによるウィキの「産女」によれば、以前は多くの地方で子供が産まれないままに妊婦が産褥で死亡した際には腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり、負わせたりして葬るべきとされてきたとある)。問題はここで、何故、殺された「紅葉」は「産女」の姿で出現したのか? という疑義にある。これは直ちに、「紅葉」が妊娠した状態で井戸に埋め殺されたという事実を引き出す。では、その子の父は誰か? 言うまでもない。主馬は実は紅葉と肉体関係を持っており、その子こそは主馬の子であったのである。さればこそ、実は更にさらに恨み骨髄となり、「曾呂里物語」の如、鬼女に変じておかしくないと言えるのである。但し、「紅葉」は直後に「むじつ」(無実)「の嫉妬にて」と述べてはいるしかし、それならば「紅葉」は誰か、別な男の子を妊娠していたということになるのであるが、どうもそうすると、そこを明らかにして描かない限り、彼女の無念さは不満足なものとなってしまう(現代の若者のように「産女」なる妖怪を知らぬ者が多いと尚更と言える)。ここは私はやはり、「紅葉」の「恨みの執拗(しゅうね)さ」から見て、前者が真実であったと捉えたいのである。さればこそ、エンディングで主馬が「おどろき、女ばうにいとまをいだ」すだけで(主馬が全く紅葉との関係がなかったとなれば、妻を殺人者として成敗するのが、武士としての主馬の本来あるべき正しい一つの選択であるはずである。但し、好意的に考えるなら、彼は妻を確かに愛していたのではあろう)、自分はあっさりと「出家にな」ったというところが逆に腑にも落ちてくるというものである。

「たけなるかみはさかさまにはへ」「丈なる髮は逆さまに生え」。歴史的仮名遣は誤り。身の丈と同じほどにもなんなんとする長い髪が植物のように逆立って生えるようになっていて。これはなかなかヴィジュアルに凄い!

「えんのうへ」「緣の上」。

「氣もたましひもうせすくみゐたり」「氣も魂も失せ竦み居たり」。

「かなふまじき」「叶ふまじき」。「効果はなかろうよ!」。]

2016/11/19

結婚披露宴にて本日はこれにて閉店

本日は翠嵐時代の教え子(新郎新婦とも)の結婚披露宴に招待されているので、これにて閉店   心朽窩主人敬白

谷の響 三の卷 十五 骨牌祠中にあり

 

 十五 骨牌祠中にあり

 

 目谷の奧なる大瀧股と號(い)へる幽地に、雁森と言ふて坦然(たひらか)なる山あり。春秋雁の往來するに憩(いこ)へる處にて、雁の羽毛及び糞など多かり。又この山上に小き祠(ほこら)一宇(ひとつ)ありて、山神を祭れるといへども、内に神躰もなく幣もなくして、奕徒(ばくちうち)の用ふる骨牌(かるた)といふものあり。時によれば此の骨牌二匝(はこ)も三匝もあるよしなれど、誰も寄進するものもなく博奕(ばくち)する者もなし。山士どもの言ふ、こは山神の遊戲(なぐさみ)玉ふものなりとて、犯せるものなしと言へり。こは三ツ橋某の親しく見たりし事とて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「骨牌」本文で「かるた」と読んでいる。ワン・セットの花札である。

「目谷」「めや」と読む。一の卷 四 河媼かはうばで「雌野澤(めやのさわ)」として既出既注であるが、再掲する。底本の森山泰太郎氏の「雌野澤」の補註に『中津軽郡西目屋村・弘前市東目屋一帯は、岩木川の上流に臨んだ山間の地で、古来』、『目屋の沢目(さわめ)と呼ばれた。弘前市の西南十六キロで東目屋、更に南へつづいて西目屋村がある。建武二年』(ユリウス暦一三三四年)『の文書に津軽鼻和郡目谷』(太字「目谷」は底本は傍点「ヽ」)『郷とみえ、村の歴史は古い』。「メヤ」の『村名に当てて目谷・目屋・雌野などと書き、本書でも一定しない。江戸時代から藩』が運営した『鉱山が栄えたが、薪炭や山菜の採取と狩猟の地で、交通稀な秘境として異事奇聞の語られるところでもあった。本書にも目屋の記事が十一話も収録されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)が西目屋村であるから、注の東目屋とはその地域の東北に接した現在の弘前市地域である。先のマップを拡大すると、弘前市立東目屋中学校(行政地名は弘前市桜庭(さくらば)清水流(しみずながれ))を確認出来る。

「大瀧股」青森県中津軽郡西目屋村大滝又沢。NAVITIMEの地図データ)。

「幽地」「いうち(ゆうち)」。「幽邃(ゆうすい)」に同じい。景色や雰囲気が静かで奥深い地。

「雁森」現在の青森県西津軽郡西目屋村と秋田県山本郡藤里町との境にある雁森岳(がんもりだけ)。標高九百八十六・七メートル。ウィキの「雁森岳によれば、『岩木川はこの雁森岳から源を発している。雁森岳は白神山地世界遺産地域のコアゾーンになっており、基本的に入山はできない』。『雁森岳は青森県側では「トッチャカの森」あるいは「トッチャカ岳」と呼ばれていた。これは突き出た坂のある山という意味で、雁森岳の山頂部は青森県側も秋田県側も切り立った崖になっている。稜線は』一『メートル程度の幅しかないうえに、岩肌も露出している』。『雁森岳の山頂に近いカチミズ沢の大滝周辺は、マタギに「津軽の箱」と呼ばれている。切り立った崖に囲まれて、箱の中に閉じこめられているような感覚を呼び起こされる』とある。位置はリンク先の「位置」で確認されたい。グーグル・マップ・データでは山名表示無しながら、である。

「坦然(たひらか)なる山あり」上記の引用中の『頂に近いカチミズ沢の大滝周辺は、マタギに「津軽の箱」と呼ばれている。切り立った崖に囲まれて、箱の中に閉じこめられているような感覚を呼び起こされる』とある場所を指すのであろう。

「幣」「ぬさ」。

「誰も寄進するものもなく博奕(ばくち)する者もなし」そのカルタを寄進する者は誰一人としておらず、そうした場面を見た者もおらず、況や、博奕打ちがそこで賭場を開いているなどという場面を目撃した者もない。そもそもが山深い地で、わざわざ博奕打ちがやって来るような場所ではない。また、カルタが御神体であろうはずもなく、神体なき祠(やしろ)にあろうことかカルタを寄進するというのも意味が判らぬ、と言うのである。

「山士ども」一般には「山師」と書くと、鉱山の発掘や鉱脈の発見及び鑑定をする者、また、山林の伐採や立木の売買に従事する者を指すが、ここは寧ろ、先のウィキの「雁森岳に出る「マタギ」(東北や北海道に於いて熊・猿などの狩猟を生業としてきた人々。中でも秋田県の仙北や阿仁(あに)地方にはマタギの村が多かった)を指すように思われる。

「こは山神の遊戲(なぐさみ)玉ふものなりとて、犯せるものなしと言へり」ここには何かが隠されているように思われる。或いは、この山中の孤絶した空間はマタギたちの特殊な会合や秘密の祭儀をする神聖な場所であったのではあるまいか?]

谷の響 三の卷 十四 大藤

 

 十四 大藤

 

 黑石の街道高日村なる虛空堂の境内に、四本の藤樹(ふじ)ありき。こも亦希らしきものにて、その大きなるは周匝(まはり)ふたかゝへに餘り、次なるは七尺より四尺三尺に至れり。又その内にいと古き大樹數多ありて、囘抱(まはり)みな四かゝへより六かゝへに近きものなるが、この四本の古藤この大木にかゝりながら、蛇(をろち)の爭戰(たゝかい)を交ふるがごとく、右にのぼり左に降り、或は龍の如くにまとはりあるは蛇の如く相結び、三十四五間なるべき林の中を縱橫にわたかまれり。その花紫の色いと好きが數なく宙(そら)にかゝれば、路往く人これが爲に足を停止ざるはなし。この他(ほか)所々の社(やしろ)の裡(うち)に古き藤のまゝ有なれど、未だこれにつぐものあらず。

 

[やぶちゃん注:「大藤」現存するマメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda の巨木としてはフジ属で唯一、国の特別天然記念物に指定されている埼玉県春日部市牛島にある「牛島(うしじま)のフジ」(紫藤)はウィキの「牛島のフジによれば、『園芸品種としては日本最大のもので、全体の根回り』が九・二メートル、総面積七百平方メートルに及ぶ藤棚の枝張りは東西』で約三十四メートル、南北十四メートルあるという。ここは四本の藤の木であるが、藤好きの私としてはこれも見てみたかったなぁ……

「黑石」底本の森山氏の補註に『弘前の東部、津軽平野の東南隅にある黒石市。明暦二年津軽藩の支落として一万石の城下町となり、明治四年の廃藩まで藩主十一代。今は周辺の米・りんごを集散する農村都市である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「高日村」底本の森山氏の補註に『南津軽郡田舎館村高樋(たかひ)。黒石に近接する農村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「虛空堂」この虚空蔵堂は現存しない模様であるが、ここに高樋神明宮なるものが現存し、これを調べてみると、こちらの記事に以下のようにあった。この神社、『古くは深山大権現と称し、 又、 境内に巨木茂り、 更に藤の古木が連なり、 通称藤林と云われて、 それにまつわる種々の伝説が残っている』として、「青森の伝説」(角川書店刊)より、『境内に繁茂した老木に藤つるがたくさんまとわりついて、昔は藤の森であった。この藤のつるは、境内の森の主、大蜘蛛の巣が変化した蜘蛛の藤であったと伝える。妖怪の蜘蛛を退治してから、藤は自然と少なくなってしまった』と引き、『大蜘蛛がいなくなったからでしょうか、今は往時の面影はありません』と記者は感懐を述べておられる。そこに掲げられた写真を見ても藤の木らしきものは殆んど見えない。

「ふたかゝへ」三メートル五十センチ前後か。

「七尺」二・一二メートル。

「四尺」一・二一メートル。

「三尺」ほぼ九十一センチメートル。

「囘抱(まはり)」二字へのルビ。

「四かゝへより六かゝへ」七メートルから十メートル五十センチ前後。異様に太い。

三十四五間」六十二メートルから六十四メートル弱。

「わたかまれり」「蟠(わだかま)れり」。

「數なく」無数に。

「停止ざるはなし」「とどめざるはなし」と当て訓しておく。

「まゝ有なれど」「ままあるなれど」。しばしば、ありはするものの。]

谷の響 三の卷 十三 大躑躅

 

 十三 大躑躅

 

 小皿澤と言は同じく湯口村の山中なり。この土(ところ)にいと大きなる岩榴(つゝじ)ありて、又世に稀なるすぐれし物なり。その根株二(ふた)かゝへに近けれど、高くものびずして地の上にはびこれるが、その地につくところみな根を生じて、中※(なかころ)より兩叉(ふたまた)となり、その片枝は大低(おほかた)六七間もあるべく、枝葉いやしげりて十四五間にふさがれるその形樣(かたち)たいらかにしてあたかも笠をふせたるがことく、花の頃はいと見事なりとぞ。さるに往ぬる嘉永五子の年のことのよし、何れのもの共にか有りけん、情(こゝろ)なくもこれがかた枝を六七人して背負たれども猶餘れりとなり。山下の者ともいたくこれをおしみ、鳥居を建たりと聞しかど今は奈何(いか)になりしにやと、山掙(かせぎ)を業とする辰と勘太郎といへる二人のもの、この三條(みくだり)を語りしなり。[やぶちゃん字注:「※」=「木」+「萠」。]

 

[やぶちゃん注:「大躑躅」この大きな躑躅(双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron)は現存しない模様。種としては本邦の野生のツツジとしては最も広汎に分布するツツジ属ヤマツツジ Rhododendron kaempferi を同定候補の一つとして挙げておく。しかしこれ、実在した巨大なツツジ(群:一株から恰もストロンのように増えていると明記されてあるのであるが、ちょっと信じ難い。これは一個体ではなく、複数個体が一ヶ所に錯雑して生えているものと考えるべきであろう)であるならば、時代的に見ても伝承や鳥居の痕跡などが残ってるはずである。地の方の情報提供を切に乞う。

「小皿澤」不詳。地の方の情報提供を切に乞う。

「同じく」前条十二 ネケウ」を受ける。

「湯口村」前条の注を再掲する。底本の森山氏の補註に『相馬村湯口(ゆぐち)。藩政時代以前からの古村である』とある。現在は弘前市大字湯口。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「岩榴(つゝじ)」不審。これは「石榴」で私の好きなフトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum を指す。ただ、「榴」はザクロの実(花托の変形したもの)やその果肉(仮種皮)が赤いことから、「榴」で「赤色系の対象物全般」の意としても用いられるようになり、また「躑躅」の漢字が異様に複雑で書きにくいことから、「榴」を「つつじ」に転用、地名などでも、例えば「榴岡(つつじがおか)」(現在の宮城県仙台市宮城野区の行政地区名)のように普通に用いられている。なお、私はこの漢字表記から、或いはこれは「いわつつじ」(岩躑躅)と称されることが多い、ツツジ属ミツバツツジ Rhododendron dilatatum なのではないかとも考えたが、同種は温帯性らしく、本邦では関東地方から近畿地方東部の太平洋側に分布するとあるから(ウィキの「ミツバツツジによる。但し、調べてみると鹿児島県にも分布している)、残念ながら、これは同定候補からは外れるか。

「六七間」十一メートルから十二メートル七十三センチメートル弱。

「十四五間」二十六メートルから二十七メートル二十七センチ。

「ふせたることく」ママ。「伏せたる如く」。

「嘉永五子の年」嘉永五年は壬子(みずのえね)でグレゴリオ暦一八五二年。

「情(こゝろ)なくもこれがかた枝を六七人して背負たれども猶餘れりとなり」これはただ遊びで担いでみたというのではなく、それを伐採して、担いで持ち去ったというのである。だからこそ、「山下の者」どもが「いたくこれをおし」んで、その盗掘した空き地に躑躅の精霊を祀るため、「鳥居を建」てた、というのである。不届きなる無風流者どもに天誅あれ!

「山掙(かせぎ)」「やまかせぎ」「かせぎ」は「掙」のみへのルビ。「掙」は「稼」(かせぐ)と同義。

「業」「わざ」或いは「なりわひ」と訓じていよう。

「三條(みくだり)」ここに至って、実は 巨薔薇」十二 ネケウ」とこの条の三つ不思議に魅力的な植物綺譚(私はフローラ系は守備範囲でないが、この三条は実に好ましく、実景を見るようである。というか、この大きな薔薇の木、蛇のように遙かにうねって谷尾根を軽々と越えてゆく「ネケウ」という蔓、そしてこの精霊を宿したような大躑躅を見て見たかったのである)の情報提供者が同一で、この二人からであったことが明らかにされているのである。]

諸國百物語卷之五 十 豐前の國宇佐八幡へ夜な夜な通ふ女の事

 

     十 豐前の國宇佐八幡へ夜な夜な通ふ女の事



Sasahatiman

 ぶぜんの國うさ八まんの宮より、半みちほどきたにあたりて、廟所(びようしよ)あり。此所へ、よなよな、へんげの物きたるとふうぶんしければ、ある夜、わかきものどもあつまり、

「こよひ行きて見とゞけんものあらんや」

と云ふに、だれも、

「ゆかん」

と云ふものなし。そのなかにぶへんのものありて、

「それがし、まいらん」

とて、かうげんはきちらし、かの所へたゞ一人ゆき、もりのこかげにたちやすらい、へんげの物をまちゐける。くらさはくらし、雨はふり、物すさまじさはかぎりなし。かゝる所へ十町ばかりさきより、ともしび、かすかに宙をとんできたる。すはやと思ひ、はゞきもと、くつろげ、ちかづくをまちゐければ、しだいに火ちかくなり、四五けんほどになりてみれば、はたちばかりの女、身には經かたびらをき、たけなるかみをさばき、かしらにかな輪をいだき、火をとぼし、足には、たかきあしだをはきて來たる。かのもの、うつてすてん、とおもひしが、いやいや、しだいを見とゞけん、とをもひ、かたはらに立ちより、うかゞひゐければ、この女、火(ひ)屋のうちへいり、死人(しにん)をやきたる火にて、なにやらん、しばしやきて、さて又、もとの道へ、かへる。かのもの、なにゝても、こゝにてくみとめん、とおもひ、うしろより、かの女を、むずと、いだく。そのとき、かの女、

「さても、かなしや。大ぐはん、むなしくなりけるよ」

と云ふ。かのもの、ふしぎにおもひ、

「さては、にんげんにてありけるよ。しさいをかたれ」

といゝければ、女、申すやう、

「はづかしながら、わが男、いかなるゐんぐわにや。さんびやうをわづらひ、いろいろりやうぢをつくせども、しるしなし。それがし、あまりのかなしさに、宇佐八まん、七日だんぢきして、いのりければ、七日まんずるあかつき、八まん、まくらがみにたち給ひ、

『千日があいだ、丑のときに墓所(むしよ)にゆき、死人をやきたる火にて餅をあぶり、くわせよ。かならず、さんびやう、へいゆすべし』

と、あらたにじげんましましければ、それよりこのかた、をしへのごとく、まい夜この廟所にかよふ事すでに三年(みとせ)におよべり。今、四、五日にて、大ぐはん、みて申し候ふに、此ぐはん、むなしくなす事の、かなしく候ふ。たゞ御たすけ下され候へ。へんげのものにては、なく候ふ」

と云ふ。かのもの、きゝて、

「さては、いよいよ人間にまがいなし。たすけてとらせん。さりながら、やどにかへりてのしるしのため」

とて、この女のかみを一つかみきつてとり、それよりやどにかへり、かのわかものどもにあひ、

「へんげの物をとらへ、かうさんさせ、いのちのかはりに、かみをきり、かへり候ふ」

とて、なげいだしければ、人々おどろきけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「宇佐八まんよなよな通女の事」(「よなよな」の後半は恐らく踊り字「〱」の潰れたもの)。

「豐前の國」現在の福岡県東部及び大分県北部に相当する。

「宇佐八幡」現在の大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮。全国に約四万四千社余りある八幡宮の総本社。石清水八幡宮・筥崎宮(又は鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。主祭神は八幡大神(はちまんおおかみ:誉田別尊(ほむたわけのみこと)=応神天皇・比売大神(ひめのおおかみ:宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)・神功皇后 (じんぐうこうごう)。

「半みち」一里の半分。約二キロメートル。現在の宇佐市高森新村地区に相当するが、寺院のようなものは見当たらない。或いは古い時代の墓域がこの辺りあったものか。

「廟所」墓地。

「ふうぶん」「風聞」。

「ぶへんのもの」「武邊の者」。

「それがしまいらん」

「かうげんはきちらし」「高言吐き散らし」。

「もりのこかげにたちやすらい」「森の木蔭に立ち憩(やすら)ひ」。歴史的仮名遣は誤り。

「くらさはくらし」殊の外に暗く。

「十町」約一キロメートル。

「はゞきもと、くつろげ」「はばきもと」は「鎺本」「鎺元」などと書き、刀剣の「鎺金(はばきがね)」のある部分。「鎺金」は、人が脛巾 (はばき:旅行や作業などの際に脛(すね)に巻きつけて紐で結び、動きやすくした保護具。古くは藁や布で作った。後世の脚絆(きゃはん)に当たる)を穿いた形に似るところから、刀剣などの刀身が鍔 (つば) に接する部分にはめる鞘口(さやぐち)形の金具。刀身が鞘から抜け落ちないようにするためのものを言う。それを「くつろげ」るとは、緩めておき、何時でも抜刀出来るようにすることを指す。

「四五けん」約七・三~九・一メートル。

「經かたびらをき」「經帷子(きやうかたびら)を着」。「經帷子」は仏式で死者を葬る際に死者に着せる着物。薄い白麻などで作り、衽(おくみ:本来は着用の実用性から左右の前身頃(まえみごろ:和服で胴体の前の部分を被うもの)端に付け足した半幅の布)や背に名号・題目・真言などを書く。「寿衣(じゅい)」「経衣(きょうえ)」などとも称する。

「たけなるかみをさばき」「丈なる髮を捌(さば)き」。身の丈にも及ばんとする長い髪を結い結ぶことなく、捌き散らし。

「かしらにかな輪をいだき」「頭に鐡輪を抱き」。「鐡輪」は囲炉裏などで燠の上に挿して用いる鉄の輪に鉄の脚のついた五徳のこと。「抱き」は「戴(いただ)き」の方がよい。或いは脱字かも知れぬ。言わずもがな、挿絵の通り、所謂、専ら恨みの怨念を祈る女の執念として認知されるばかりとなってしまった「丑の刻参り」の奇怪な姿である。但し、これを女が恨む敵(一般には女敵(めがたき))を呪い殺す仕儀の作法として定着させたのは、江戸期の大衆風俗ではあった。ウィキの「丑の刻参り」によれば、『「うしのときまいり」という言葉の方が古い』。『古くは祈願成就のため、丑の刻に神仏に参拝することを言った。後に呪詛する行為に転ずる』。『京都市の貴船神社には、貴船明神が降臨した「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に参詣すると、心願成就するという伝承があったので、そこから呪詛場に転じたのだろうと考察される』。『また、今日に伝わる丑の刻参りの原型のひとつが「宇治の橋姫」伝説』『であるが、ここでも貴船神社がまつわる。橋姫は、妬む相手を取殺すため鬼神となるを願い、その達成の方法として「三十七日間、宇治川に漬かれ」との示現を受けたのがこの神社である』。『それを記した文献は、鎌倉時代後期に書かれ、裏平家物語として知られる屋代本』「平家物語」の『「剣之巻」であるが、これによれば、橋姫はもとは嵯峨天皇の御世の人だったが、鬼となり、妬む相手の縁者を男女とわず殺してえんえんと生き続け、後世の渡辺綱に一条戻橋ところ、名刀髭切で返り討ちに二の腕を切り落とされ、その腕は安倍晴明に封印されたことになっている。その彼女が宇治川に漬かって行った鬼がわりの儀式は次のようなものである』(以下の部分引用は私がオリジナルに引いた)。

――明神、哀れとや覺しけん、「誠に申す所不便なり。實(まこと)に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀨に行きて三七日漬れ。」と示現あり。女房、悦びて都に歸り、人なき處にたて籠りて、長なる髮をば五つに分け、五つの角にぞ造りける。顏には朱を指し、身には丹を塗り、鐵輪を戴きて三つの足には松を燃やし、續松(ついまつ:松明(たいまつ)と同義)を拵へて兩方に火を付けて口にくはへ、夜更け、人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鐵漿黑(かねぐろ)にて、面赤く、身も赤ければ、さながら、鬼形(きぎやう)に異ならず。これを見る人、肝魂(きもたま)を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事、なかりけり。斯の如くして宇治の河瀨に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計(はから)ひにて、生きながら、鬼となりぬ。宇治の橋姫とは、これなるべし。――

『この「剣の巻」異本ですでに橋姫には「鉄輪(かなわ)」(五徳に同じ)を逆さにかぶり、その三つの足に松明をともすという要素があるが、顔や体を赤色に塗りたくるのであり白装束ではない。室町時代にこれを翻案化した能楽の謡曲「鉄輪」においても、橋姫は赤い衣をつけ、顔に丹を塗るなど赤基調が踏襲され』、『白装束や藁人形、金槌も用いていはいないが』、『祓う役目の陰陽師晴明の方は、「茅の人形を人尺に作り、夫婦の名字を内に籠め』」といった祈禱を行う。『よって現在の形で丑の刻参りが行われるようになったのは、この陰陽道の人形祈祷と丑の刻参りが結びついたためという見解がある』とする。以下、「源流」こ項。『人形を用いた呪詛自体はかなり古くから行われており』、「日本書紀」用明天皇二(五八七)年四月の条に、『「中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)が家(おのがいえ)に衆(いくさ)を集えて、大連をいたすく。ついに太子彦人皇子の像を作りて、まじなう」と記され、古墳時代から人形を媒体とした呪いがあった。ただし、この時点では、まだ像を刺す行為は確認できない』。『考古学資料の遺物として、奈良国立文化財研究所所蔵の』八『世紀の木製人形代(もくせい ひとがたしろ)があり、胸に鉄釘が打ちこまれた状態の物も出土している。木簡を人形に切り取り、墨で顔が描かれている。丑の刻参りと共通する呪殺を目的とした形代だったと考えられている』。『この遺物からも、人形に釘を打ち込み、人を呪うと言った呪術体系自体は古代(奈良時代)からあった事が分かる。研究者によっては、鉄釘自体が渡来文化であり、こうした呪術体系自体が大陸渡来のものではないかとしている。この他にも類例として、島根県松江市タテチョウ遺跡から出土した木札には、女性が描かれており、服装から貴人女性と見られるが』、三『本の木釘が打ちこまれていた。その位置は、両乳房と心臓に当たり、明らかに呪殺目的であった事が分かる』とある。

「たかきあしだをはきて」「高き足駄を履きて」。「高き足駄」は高下駄。挿絵参照。

「うつてすてん」「討つて捨てん」。

「しだいを見とゞけん」「次第を見屆けん」。「まずは、この変化(へんげ)の物、何をどうするかを見届けてから、討ち果すこととするが肝要じゃ。」。

「をもひ」「思(おも)ひ」。歴史的仮名遣は誤り。

「火(ひ)屋」死者を焼くための火葬場。本邦では仏教の普及とともに、平安以降に既に皇族・貴族・僧侶・浄土宗の門徒衆などで火葬が広まっている。それでも近代に至るまで土葬の方が一般的であったのは、火葬自体に時間と労力・費用がかかったからとも言われる。

「かのもの、なにゝても」彼奴(きゃつ)が、物の怪であろうが、生きた人間であろうが、何物(者)であろうとも。

「こゝにてくみとめん」「この瞬間に組み止めるが好機じゃ!」。

「大ぐはん」「大願」。

「わが男」夫。

「いかなるゐんぐわにや」「如何なる因果にや」。

「さんびやうをわづらひ」「三病を患ひ」。「三病」は「日葡辞書」に三つの難病として「癩(らい)」=「ハンセン病」・「くつち(くっち)」・「てんがう(てんごう)」と載せる。この内、「くっち」は癲癇(てんかん)=「癲癇発作をきたす広義の神経疾患や症候群」と思われれ、「てんごう」は「癲狂」で「発狂すること」=「広義の重度の精神病」を指すようである(「てんごう」も「癲癇」とする説もある)。ここではさらに狭義の謂いで、「癩病」=「ハンセン病」のことを指している。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。「ハンセン菌」でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように、言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。

「りやうぢをつくせども」「療治を盡せども」。

「しるし」「驗」。効果。

「だんぢき」「斷食」。

「七日まんずるあかつき」「七日滿ずる曉」。丁度、お宮参りを始めてそこで丸七日目が満てるという暁方。

「丑のとき」午前二時。

「くわせよ」病人である夫に「食はせよ」。ハンセン病にはかなり古くから近代に至るまで民間治療の闇の部分に於いて、人肉や人の生肝・嬰児やミイラ化した人の遺体の一部が特効薬として信じられた。

「へいゆ」「平癒」。

「あらたにじげんましましければ」「新たに示現ましましければ」。はっきりと眼前にお姿をお現わしになられてお告げ(教え)をお下しになられたので。

「をしへのごとく」「教への如く」。

「大ぐはん、みて」「大願、滿て」。

「むなしくなす事」言わずもがな乍ら、こうした「丑の刻(時)参り」にあっては、その姿を他者に見られると、その瞬間に総ての積み上げた効果が失われるとされる。

「まがいなし」「紛ひ無し」。歴史的仮名遣は誤り。間違いない。

「やどにかへりてのしるしのため」「宿へ歸りての證(しるし)の爲」。

「一つかみきつてとり」「一摑み切つて取り」。

「かうさん」「降參」。]

2016/11/18

諸國百物語卷之五 九 吉田宗貞の家に怪異ある事付タリ歌のきどく

 

    九 吉田宗貞(よしだそうてい)の家に怪異(けち)ある事付タリ歌のきどく

 

 ゑちごの國村上に、吉田宗貞とて、うとくなる町人ありける。この家に、にわかにふしぎなる事出できたり。まづ初日に藏(くら)のいぬゐのすみより、うつくしき兒(ちご)、四、五人いでゝ、聞きなれぬこうたを、しばらく、うたいて、きへたり。つぎの日は、くれがたに、きりやうよきさぶらひ一人と六人と、あいてになり、刀をぬき、たゝかいて、雙方ともに、うちじにしけり、たちよりみれば、みな、灰になりたり。三日めには二八ばかりなる女らう、うすぎぬにかぶりをちやくし、はなやかに出でたち、扇をひろげて、今やうをまい、けすがごとくに、うせにけり。宗貞、おどろき、貴僧高僧をたのみ、さまざまいのりきとうしければ、そのきどくにや、四日、五日、六日までは、なに事もなく、七日めには、座敷の爐(ろ)のうちに火をおこして有りしが、その火のなかにあま蛙一ひき、ゐける。みなみな、おどろき、とりてすてければ、あとより、一ひきづゝ出でて、やむ事なし。宗貞、きのどくにおもひ、さる禪僧のたつとき有りけるをよびてたのみければ、禪僧、見て、爐のうちにむかつて、歌を一しゆ、よまれける。

 

 をきなかにこがれて物のみへけるはあまのつりしてかへるなるらん

 

と、よみ給へば、かの蛙も、うせにける。そのゝちは、なに事もなかりしと也。まことに和歌のきどく也。

 

[やぶちゃん注:「吉田宗貞」不詳。町人であるのにフル・ネーム(通称ではなく、姓名、しかも諱か、本文に出る狂歌から関連連想される雅号のようなもの)で出るのは特異点と言える。それにしてもこの男、多様な修験者や密教僧などを招いて調伏の祈禱をし、更には禅宗の高僧まで招けるというのは、相当な名主級の豪家と考えねばなるまい。所謂、町人でも名字帯刀が許されたような、土地の武士団の豪族の血を引くか、その民間協力者の血筋と考えられる。

「ゑちごの國村上」現在の新潟県最北部、日本海に面した村上市。

「うとく」「有德」。裕福。

「いぬゐ」「戌亥・乾」。北西。

「こうた」「小歌」或いは「小唄」。辞書的には、①平安時代に公的な儀式歌謡の「大歌(おおうた)」に対し、民間で流行した歌謡。或いは、五節の舞の伴奏歌曲である男声の大歌に対し、その前の行事で女官が歌った小歌曲を指す。②室町時代に民間に行われた手拍子や一節切(ひとよぎり:尺八の一種。長さ約三十四センチ、太さ直径約三センチの竹製の縦笛で節が一つある。室町中期に中国から伝来して桃山から江戸初期にかけて流行したが、幕末に衰滅した)を伴奏とする短い歌謡。③江戸時代に地歌などの芸術的歌曲に対し、前の②の流れを引いた巷間で流行した短い歌謡の総称。④能や狂言の中で室町時代の俗謡を取り入れた部分を指すが、③の流行は江戸後期末期であるから外れ、本書の書かれた時代と、歌っているのが子どもというところからは④が外れて②が、しかし「聞きなれぬ」となると寧ろ古い俗謡である①が、却って怪談としてはしっくりくるか。あとの「今様」と並んで映像的には曲選択が難しいところ。後の「今様」同様、個人的には古いほどホラー効果は絶大となる。

「きへたり」「消えたり」。歴史的仮名遣は誤り。

「きりやうよき」「器量良き」。恰好の美麗なる。

「たゝかいて」「戰ひて」。歴史的仮名遣は誤り。

「うちじに」「討死」。このエピソード、私は小泉八雲の「茶碗の中」を思わず想起した。

「二八」十六歳。

「女らう」「女﨟」。高貴な婦人。

「うすぎぬにかぶりをちやくし」「薄絹に被りを着し」。「かぶり」は顔を隠すための頭部への被り物。

「今やう」「今樣」。平安中期に起こり、鎌倉時代にかけて流行した新しい歌謡。短歌形式のものや、七・五の十二音句四句からなるものなどがあり、特に後者が代表的である。白拍子・傀儡女(くぐつめ)・遊女などにより歌われたもので、貴族の間にも流行した。後白河法皇の手で「梁塵秘抄」に集成されたことで知られる。ここの時代背景設定が書かれたのと同じ江戸前期であるならば、単に「世間の当時の流行歌」の意である。しかしここも変化(へんげ)の物の怪の歌うものなら、かえって前掲の古い正式な古「今様」の方がホラーとなる。

「さまざまいのりきとうしければ」「樣々祈り祈禱しければ」。

「きどく」「奇特」。

「あま蛙」「雨蛙」。

「とりてすてければ」「取りて捨てければ」。火中から飛び出る雨蛙とは如何にも怪しいものであるあるから、ただちに取って捨てたところが。

「きのどくにおもひ」「氣の毒に思ひ」。ひどく気味が悪くなって。

「たつとき」「尊き」。

「よびてたのみければ」「呼びて(調伏を)賴みければ」。

「をきなかにこがれて物のみへけるはあまのつりしてかへるなるらん」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『歌意は、赤い炭火の中に焼けたものが見えるけれども、雨に引かれ帰ることであろう。「わだつみの沖にこがるる物見れば蜑(あま)の釣りして帰るなりけり」(『枕草子』)という著名な歌を踏み、「おき」は、「沖」と「燠」、「こがれて」は「焦がれて」と「「漕がれて」、「あま」は「蜑」(漁夫)と「雨」、「つり」は吊り」と「釣り」、「かへる」は「蛙」と「帰る」など、五つの掛詞を用いた、頓智即興のおもしろさがある』とある。言わずもがなであるが、表の意味は「海上を遠く漕いでいるものがあるのでふと見てみたら、それは、ああ、漁師が釣を終えて帰るところであったことよ」で〈蜑の釣舟帰帆の沖景〉なのであるが、それに〈飛んで火に入る雨蛙〉の意が美事に掛けたものなのである。

「枕草子」の記載は以下。

   *

 村上の先帝(せんだい)の御時に、雪のいみじう降りたりけるを、樣器(やうき)に盛らせ給ひて、梅(むめ)の花をさして、 月のいと明(あか)きに、「これに歌よめ。いかが言ふべき。」と、兵衞の藏人(くらうど)に賜はせたりければ、「雪(せつ)・月(げつ)・花(くわ)の時」と奏したりけるをこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌などよむは世の常なり。かく、折に合ひたることなむ、言ひがたき。」とぞ仰せられける。

 同じ人を御供にて、殿上(てんじやう)に人候(さぶら)はざりけるほど、たたずませ給ひけるに、火櫃(ひびつ)にけぶりの立ちければ、「かれは何ぞと見よ。」と仰せられければ、見て歸り參りて、

 

  わたつ海(うみ)のおきにこがるる物見ればあまの釣(つり)してかへるなりけり

 

と奏しけるこそ、をかしけれ。蛙(かへる)の飛び入りて燒くるなりけり。

   *

「樣器」は白い釉薬を加えた陶器の皿。「兵衞の藏人」伝未詳。注意しなければならぬが、これは女性である。「雪・月・花の時」は「和漢朗詠集」の「卷下 交友」「琴詩酒友皆抛我。雪月花時最憶君」(琴詩(きんし) 酒(しゆ)の友 皆 我を抛(なげう)つ。雪月花(せつぐゑつくわ)の時は最も君を憶(おも)ふ)の内容を暗示として応答としたもの。これは村上帝が想起するはずのこの詩句の最後の「憶君」に、「兵衞の藏人」は帝への忠誠の意を掛けているのである。「火櫃」長方形をした角火鉢。

 なお、この一首は実は「兵衞の藏人」の詠んだオリジナルではない。「古今集」時代の歌人である藤原輔相(すけみ)の家集「藤六集」に「かへるのおきにいでゝ」という詞書で載るものであり(これ昭和初期に山岸徳平氏が初めて指摘したもので、それまでは「兵衞の藏人」の詠じたものと理解されていたらしい)、ここも前の「和漢朗詠集」からの借言と同じ機智であり、清少納言もその共通性からこの聞き書きをカップリングしたものであろう。

 怪異の方は意味が分からない故にすこぶる面白い(そこが怪異のキモである!)のに、結末がちっとも全然、私には面白くない。これは、私が大の和歌嫌いだからであろう。]

2016/11/17

谷の響 三の卷 十二 ネケウ

 

 十二 ネケウ

 

 湯口村の山中モツの澤といへる地に、ネケウと言ふ蔓草(つるもの)一株ありき。こも亦いと大きくして周匝(まはり)合抱(ひとかゝへ)にあまり、長さ三十間におよべり。このネケウ岸腹(きし)に生じ、地を這ふこと六七間にして初ておこり、檜樹(ひのき)の巨木にかゝりうねり曲りて架(はし)をなすこと五六間、復地上にひき降りて岩戸をまとひ溪流(たに)を渡り、あるは屈伏(かゝまり)或(ある)はのびて八九間走り、初て枝條(えた)を生ぜるがその長きもの五六間、枝葉ともにいやしげりて地を拂ひ天をしのぎ、勢あたかも大龍のわたかまれる如く、溪澗(たに)またこれがために一箇(ひとつ)の見處を增しぬ。實に珍らしきものといふべし。

 

[やぶちゃん注:「ネケウ」「蔓草」検索をかけているうちに、貴重な資料を発見! まさに底本編者森山泰太郎氏の解説になる本「谷の響」の作者平尾魯仙筆になる「暗門山水観図」(西目屋村の奧にある暗門の滝を写生に出かけた際の紀行絵図)を門弟の一人であった山形岳泉が模写したものだ(PDF)! その最初の「田代村渡場の図」の渡しを舟で渡る一行、その渡しに掛けられていて、それを引きながら渡る図があるが、そのキャプションには『左白厳の頂上に枯木一樹ありて最美観也。舟は丸太を堀し物也。綱はネケウと云う蔓なり』とあって、その森山氏の解説に『ニキョウ』とある。調べてみると、これはツバキ目マタタビ科マタタビ属サルナシ(猿梨Actinidia arguta 北東北と道南での地方呼称であることが判明! 本種の蔓は非常に丈夫で腐りにくいことから、かの「祖谷のかずら橋」にも用いられている。語源までは判らなかったが、この後の本文を読み、この絵図や十九の時に見に行こうとして台風で辿りつけなかった祖谷の「かずら橋」の写真を見ているうちに……これは……或いは……二つの場所を橋渡しする「二橋(にけう(にきょう))」ではあるまいか?! 大方の御叱正を俟つ。

「湯口村」底本の森山氏の補註に『相馬村湯口(ゆぐち)。藩政時代以前からの古村である』とある。現在は弘前市大字湯口。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「モツの澤」不詳。

「三十間」五十四・五四メートル。

「岸腹(きし)」二字へのルビ。

「六七間」十一メートルから十二・八メートル弱ほど。

「五六間」九メートル~十一メートル。

「復」「また」。

「屈伏(かゝまり)」「かがまり」。

「八九間」十四・六~十六・四メートルほど。

「枝條(えた)」ママ。「枝」。

「勢」「いきほひ」。

「わたかまれる」「蟠(わだかま)れる」。]

谷の響 三の卷 十一 巨薔薇

 

 十一 巨薔薇

 

 相馬の澤目關ケ平村の山中箒澤と言へる土(ところ)に一株の野薔薇(のばら)ありき。きはめて大きなるものにして、周圍三尋あると言へり。この樹根より三間あまりの間は條椏(えた)なく、中※(なかごろ)に至り數十條を生じて、その長抽(ながき)ものは五六間、婆々(あらあら)として十二三間の際(あひだ)にひろごれり。土(ところ)の人こを神の木なりとて、傍に神門(とりゐ)を造立(たて)たり。四月花の頃はいといと見事にして、さながら靑葉の中に雲山を築けるが如く、そのあたりこれが爲に白光(あきらか)にして、にほひ又ことに香しく澗(たに)の中に充滿(み)てり。薔薇にかゝる巨きなるありしとは、未だ聞かざることにして、世の中にいといと希(まれ)なるものといふへし。[やぶちゃん字注:「※」=「木」+「萠」。]

 

[やぶちゃん注:「巨薔薇」「おほばら」と訓じておく。哀しいかな、この野薔薇は最早、ないらしい。見たかったなぁ…………

「相馬の澤目關ケ平村」底本本文では「關ケ代村」であるが、註の見出しと内容から、「關ケ平村」の誤植と断じ、特異的に本文を訂した。底本の森山泰太郎氏の補註に『中津軽郡相馬村関(せき)ケ平(たい)。藍内川上流の峡谷にある』とある。現在は弘前市藍内(あいない)。ここが藍内(グーグル・マップ・データ)で、その中のここが「関ケ平」。

「箒澤」不詳乍ら、関ケ平の南に東西に分かれる川沿いの沢であろう。

「野薔薇」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ(野茨)Rosa multiflora 。標準的なものは樹高は二メートル程度であるが、私自身、それを遙かに超えるものを何度も現認したことがある。

「周圍三尋」「一尋」(ひとひろ)は六尺で約一・八メートルであるから、五・四メートル。これは無論、主幹ではなく、後に出るところの、枝を広げたその叢の塊りの平均外周が、という意味であろう。しかし、そうとっても、以下の数値を見ると、これはあり得ない大きさである。

「三間」五メートル四五センチメートル。これで樹高のやっと半ばに達するというのだから、驚くべき高さであることが判る。

「條椏(えた)」二字へのルビ。読みはママ。「枝」。

「五六間」九メートル~十一メートル。

「婆々(あらあら)として」「荒々として」ノイバラは棘が多い。

「十二三間」二十二~二十四メートル弱。

「へし」ママ。]

谷の響 三の卷  十 化石の奇

 

 十 化石の奇

 

 且説(さて)、物の石に化(な)れるは奇(めつら)しからねど、玆にいとあやしき話ありき。さるは、往ぬる文政四五年の頃、同坊なる伊助といへるもの串柿を估(か)ひもて家の小兒等に與へしに、みな怡(よろこ)びて喰ひたるが、その内一箇(ひとつ)は石なりとて其代を求むる兒あり。伊助不審(いぶかり)採り上げて視れば、形は眞の乾柿にして硬く重き石なりければ、いと奇異の思ひを爲し人にも語りて見せつるが、實に乾柿の石に化(な)りたるにてありける。一連のうちにたゞ此一個而已石に變(な)りて、左右(あたり)は悉(みな)每(つね)の柿にてありけるもいと希しき事と言ふべし。

 又、天保のはじめにて有けん、青森勤番の人三四人、小舟に棹をさして釣に出たるが、糕糖(くわし)の料(たね)とていとよく熟(うみ)たる葡萄を齎(もたら)し、俱に喫ひつゝ居(ゐたる)うち、某なる人石が齒に障れるとてそのまゝ吐て見るに、形葡萄なるにいといと硬き石にてあれば、人々奇怪の事よといふに、嚙たる某も希らしきものとして懷にして歸りけり。その後この某御城の中に宿直(とのゐ)してありし時、同僚の人に此縡(こと)を語り石を出して見せければ、その人掌に上げいと希(めづら)しと見てゐしが、いかにしけん火爐(ひばち)の中に隕(おと)せるに、火勢強く卒(はや)くも取得ざるうち、※(くわつ)と響(なり)て火の中を飛び出たれば拾ひて之を見るに、炒りたる大豆の如く黑皮少しく破裂(さけ)て、中より嫩綠(もえぎ)の肉實(さね)露(あらは)れたれど、その質更に損(そこね)ることなく却りてひとつの奇文(かざり)を增しきと、ある藩中の人語れるなり。さて一の莖に累攢(こごれ)る葡萄のうち、一顆(つぶ)石に化(な)りたるも又、世に希らしきことなるべし。[やぶちゃん字注:「※」=「石」+「周」。]

 又、これも天保の年間(ころ)、小泊村の市之助といへる者、明神の沼【十三の海と隣りて僅の砂崖を隔てし沼なり。】といふより小鰕(えび)を窠(すく)ひ鹽炒(しほいり)にして食ひしが、石に咬みあたりしから急に吐て之を見るに、僅の小鰕頭より半身は石に變(な)り、尾の方の半身は每(つね)の鰕にてありければ、いと希らしきものとして己が裡(うち)に持來りしが、何さま一寸たらずの小鰕にして、頭は腦髓明徹(すきとほり)ていと堅き石なるに、尾の方半身は赤くなりて少しく破れたれど、内は全く連續(つづき)てありし。こも一罔(あみ)に窠(すく)へる蝦の一個(ひとつ)その質石に化(な)れるも又奇怪とすべし。

 この三つは僉(みな)一般(おなじ)話にして、年月を經て化(な)れるものにはあらず。玉液石津に觸れてかく暫時に石に變りたるものなるべし。さるに其玉液石津の僅の物に限れるも、いたく怪しき事なりかし。

 

[やぶちゃん注:最初の石になった干し柿は誰かの悪戯臭いが、後の二者は奇形やカルシュウム或いは炭酸カルシュウムなどの沈着による石化現象がありそう。特に三つ目のエビ類では確かにあると思う。

「奇(めつら)し」読みはママ。

「文政四五年」一八二一年か一八二二年。

「同坊」「どうまちの」。平尾の書き癖。同じ町内の。

「估(か)ひ」「買ひ」。

「其代」「そのかはり」と訓じておく。

「眞」「まこと」。

「實に」「げに」。

「而已」漢文訓読でこの二字で「のみ」と読む。

「天保のはじめ」「天保」はグレゴリオ暦一八三〇年から一八四四年。

「糕糖(くわし)」二字へのルビ。「菓子」。釣りの間のつまみ。

「料(たね)」品。

「齎(もたら)し」持ち来たり。

「喫ひ」「喰(く)ひ」或いは「喰(くら)ひ」。

「某」「なにがし」。

「障れる」「さはれる」。

「吐て」「はきて」。

「嚙たる」「かみたる」。

「此縡(こと)」「この事」。

「※(くわつ)と」(「※」=「石」+「周」。調べて見たが、これは「岩屋」「石室」の意で、音も「テウ(チョウ)」で不審)オノマトペイア(擬音語)。

「響(なり)て」「鳴りて」。

「嫩綠(もえぎ)」二字へのルビ。「萌黃」。「嫩」は生え初めた「若葉」の意。

「肉實(さね)」二字へのルビ。

「その質更に損(そこね)ることなく却りてひとつの奇文(かざり)を增しき」これは中の葡萄の種が確かに種の形をちゃんとしており、しかも石(のように)堅く、しかもその表面には普通の種の表面よりも遙かに独特の、一種の変わった紋様が生じていた、という謂いか?

「累攢(こごれ)る」二字へのルビ。重なり合うように一つの房に固まって生(な)る。

「小泊村」既出既注。現在の青森県北津軽郡中泊町(なかどまりまち)小泊。の「小泊港」周辺(グーグル・マップ・データ)。十三湖の北方。

「明神の沼【十三の海と隣りて僅の砂崖を隔てし沼なり。】」十三湖西岸の砂洲の南方の日本海寄りに現在も明神沼があり、その沼南端の丘陵に湊明神宮(みなとみょうじんぐう:別名:湊神社或いは浜の明神遺跡)がある。但し、ここは十三湖のある「十三」地区を含む五所川原市ではなく、つがる市側の市境付近に当たる。(グーグル・マップ・データ)。小泊からは南に直線で十四キロ強。十三湖と同様、汽水の沼であろう。

「といふより」という辺りで。

「己が裡(うち)」「我が家(うち)」。

「何さま」何ともまあ。対象があまりに小さいことを指していよう。

「一寸たらず」三センチに満たないちんまい。

「頭は腦髓明徹(すきとほり)ていと堅き石なるに」頭部の臓器類が確かにエビのそれと同じで、透き通って見えいるにも拘わらず、全体が石(のように)カチカチになっているらしい。

「内」外骨格は一部が損壊していて頭部と繋がっていない箇所があるものの、内臓(筋体や神経節)は完全に頭部と一つに繋がっているというのである。或いはこれは、何らかの後天的な病気或いは寄生虫に侵されている個体なのかもしれない。

「玉液石津」「玉液」は「美しい液体」の意で、「石津」(恐らく「セキシン」と音読みする)は「石・鉱物から滲出する液体」を指すから、特殊な宝玉や鉱石から滲み出て生物を石化・鉱物化させる玄妙なる摩訶不思議な液体の謂いであろうか。

「暫時に」少しばかりの時間で。

「其玉液石津の僅の物に限れるも」。その「玉液石津」が影響を及ぼすのが、ごく「僅」かな、それも対象物の中の「限」られた、ごくごく一部だけの「物」であること「も」。]

880000ブログ・アクセス突破記念 梅崎春生 「微生」

 

[やぶちゃん注:本篇は梅崎春生二十六歳の折りの若書きの作で、昭和一六(一九四一)年六月発行の同人誌『炎』を初出とし、戦後、昭和二三(一九四八)年三月大地書房刊の作品集「櫻島」に再録されたものである。

 一箇所、後半の段落「私はむっとして草場の顔を見返した。猿に似た、蒼黒い顔に、ずるそうな笑いが浮んだようであった。手を肩のへんに上げて、ひらひらと振った」の末尾には底本では「振った」の後には句点がないが、脱字と断じて特異的に句点を補った。

 最低限のオリジナル語注を各段落末に挿入したが、後半部の読みの流れを阻害しないようにするため、以下の三つの注のみはここに置いておくこととする。

「スフ」「レーヨン」(rayon)のこと。絹に似せて作った再生繊維。昔は人絹(人造絹糸)・staple fiber(ステープル・ファイバー:紡績用化学繊維)から「スフ」とも呼ばれていた。なお、「レーヨン」は「光線」(ray)と「綿」(cotton)を組み合わせた英語造語(和製英語ではない)。]「リノリユーム」天然素材(亜麻仁油・石灰岩・ロジン・木粉・コルク粉・ジュート・天然色素等)から製造される主に床材に用いられる建築素材。リノリウム(linoleum)の名はラテン語の「亜麻」(linum)と「油」(oleum)から合成された語。

「顱頂(ろちょう)」頭の天辺(てっぺん)。

「コヨテ」食肉(ネコ)目イヌ科イヌ亜科イヌ属コヨーテ Canis latrans

 本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、880000アクセス突破記念として公開する。【2016年11月17日 藪野直史】] 

 

   微生 

 

 その道は、病院の横手から、なだらかな坂になって電車道の方に下りて行くのである。そこに枝を張った大きな楡(にれ)の木の、日の射さぬ湿った根方には、何時でも犬が四五匹かたまってすわっていた。

 どう見ても良いところのない駄犬どもであったが、そいつ等は土くれの上に腹ばいになったまま、楡の根におのおの心得たふうに顎(あご)をのせ、私が側を通り過ぎると、きまって一斉に厭な横目を使って私の顔を見た。そろいもそろって腹がおそろしい程長くて、一尺ばかりの短い四肢が申し訳のように生えている。その三尺程もある長い胴を、どういうつもりか知らないが、盲縞(めくらじま)や、格子縞や、久留米絣(がすり)でつくった腹掛けでぐるっとおおい、背中で紐をむすんでいるのである。しかし、何時も腹を地面にこすりつけているから、汚れて縞も模様もわからない。

[やぶちゃん注:「一尺」三〇・三センチメートル。「三尺」九〇・九センチメートル。]

 何か実験をするために病院に飼われている犬にはちがいなかった。が、そいつ等は勝手に、病院の内にある犬小舎を走り出で、楡の木の下で遊んだり、病院の塀ぎわにむらがる羽虫にほえついたり、ときにはだらだら坂をかけ降りて、電車通りのあたりをうろついたりするのである。

 実験とはどんなことをするのか、血を採ったり、注射をしたり、あるいは切開したりするのかどうか、それはよく知らないが、犬どもは皆、非常に神経質になっているらしかった。人の顔さえ見れば尻尾をふるような、そこらの犬とはちがって、いつもいらいらして何かにつきかかるような姿勢で歩くのである。病院外の犬が尻尾を振りながら近づいて来ても、ふりむきもしないか、時にはおどろく程烈しい一方的な敵意を含んで、襲いかかった。病院内の犬どもは、お互を腹掛けによって見わけるらしかった。

 此の薄汚ない犬の貴族どもの険しい顔付、胴が無闇と長い可笑(おか)しな物腰、使い古した紐(ひも)のような尻尾、胸の悪くなるような皮膚の色、いつも涎(よだれ)で濡れている顎、そしてその眼の色だけが悲しげに燃えているのだ――毎朝の出勤の途にその有様を眺めると、そいつ等の一挙一動は、釘でも打ち込むように私の胸に直接響いて来た。何か暗い聯想(れんそう)を伴って、私の嫌悪を烈しくかき立てるようであった。その気持は、私の心の深い底で、何物かとつながっているらしく思えた。そのくせ、どういうものとつながっているのか、自分の心の中を探ってみるのは、私には恐かったのだ。朝、日の光を受けて、そいつ等が舗道(ほどう)をのろのろと歩くとき、長い病院の塀を犬どもの踊るような影が同じように移動するのを見て、何故か私は思わず身ぶるいを禁ずることが出来なかった。

 此の頃、私は疲れていた。生活に立ちむかう元気をすっかり無くしていた。丁度(ちょうど)、楡の木の下の犬共のようにいらいらしていた。どういう具合でこうなったのか、生活の因子のどれもこれもがその原因のようでもあったし、そうでもないようでもあった。朝の光を真正面に浴びると、瞼の裏からうすい涙が惨み出た。そんな時に、きまって何か不吉の予感に似たものを私に与えるのが、その犬共であった。

 朝起きる。いくら眠っても寝不足みたいなぼんやりした気持で、顔を洗う。朝餐(ちょうさん)をしたためる。その頃まではまだいいのだ。上廁(じょうし)して、衣服を着換える。その頃からそろそろ私は、今日一日起きていなくてはならない事を次第に負担に感じ始める。夜になって寝るまでの行程を物憂く想像してうんざりし始める。学校を出て、今の会社に勤め出してから、もう一年近くなるのだが、働いて給料を貰うという生活にようやく倦怠を覚え始めたに違いない。大げさに言えば、半ば絶望的な気分で、玄関に出て靴の紐を結ぶ。会社に出て、顔を見たくもない同僚や上司の顔を見、言いたくもないあいさつや会話を交さねばならぬことを考え、欝欝とうなだれて、自分の靴先を見ながら歩む。毎日同じ気持で同じ驚きを繰り返すわけだが、坦々たる舗道をバスの停留場にむかって歩きながら、朝の光を全身の皮膚に感じ取っているとき、急に光がかげる。大きな楡の木影に入るからである。いつもその度に私は額をひっぱたかれたようにびっくりして顔を上げると、必ず楡の木の下の犬どもが一斉にじろりと横目を使って私を見返すのである。

[やぶちゃん注:「上廁」便所に入ること。「学校を出て、今の会社に勤め出してから」梅崎春生は本作発表の前年の昭和一五(一九四〇)年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業(卒業論文は「森鷗外」で八十枚)後、東京都教育局教育研究所に勤務している。但し、本作の勤務先の設定は「商事会社」に変えられているが、後半で社の近くに「上野の山が、永くつづいている」という描写が出る。後のエッセイ「憂鬱な青春」(昭和三四(一九五九)年十二月号『群像』初出。リンク先は私の電子テクスト)では、『一年先に大学を卒業した霜多正次が、東京都教育局に勤めていて、私は彼の手引きでそこへもぐり込んだ。教育局教育研究所というところである。教育には縁のない私だから、仕事に熱が入らず、いつも外様(とざま)あつかいにされていた。暇といえば極端に暇な配置で、その頃はそんな言葉はなかったが、今の言葉で言えば「税金泥棒」に近かったと思う。当時を回想する度に「都民の皆さま」に悪いような気持になる』と述べている。]

 こうした毎朝の出勤が、次第に私に重苦しくなって来た。

 そこらの露地や曲角から大通りに出て行く、私によく似た勤人らしい男達の間に、重い外套がだんだん少くなっで、明るい色の春の洋服が目立ってふえ出した。バスの停留場では一列に並んで、立ちながら朝の新聞をそれぞれ読んでいるのである。毎朝毎朝顔を合わしているのだが、決してあいさつを取りかわさない。それが会話のきっかけになったりするのをおそれるようにあわてて目を外らすのである。そうした悲しい習性が、私にはやり切れなかった。しかし、あいさつを交したり会話をまじえたりするような間柄になれば、なおのことやり切れないに違いなかった。一列に立ち並び、バスの到着が遅れれば遅れる程、前後の男達に、吹き切れない陰気な憤りを感じ、いても立ってもいられないような気持になる。その上、バスの中で立つ破目になり、それが満員で身動きも出来ないようなことがあると、私はむしょうに腹を立て、うんうんと力を入れながら肩や肱(ひじ)を張った。それを押し返して四方の人の肩が私に突きかかって来た。

 気持ばかりがとげとげとした一日の行程がこうして始まるのである。

 ある朝のことであった。病院の、屍体収容室らしい建物の床の下から、薄汚れたそれらの犬どもが、朝日の光を浴びて、もつれ合いながら走って来た。順々に塀の抜穴をくぐりぬけると、一斉に厭な鳴声を立て、体と体をぶっつけ合うようにして、だらだら坂を走り降りた。一番おくれた茶斑(まだら)の醜い犬の紐がほどけて、腹掛けが短いうしろ脚にからまる。それでもびっこを引くようにしてたたらを踏み、右左によろめき走りながら空をむいて、ブリキを爪で引搔くようなかすれた長鳴きをした。そのぶざまな後姿から目を外らそうとして、不思議な力が私の体をはしって、どうしても目を外らすことが出来なかったのだ。私は吸いつけられたように視線を固定させて、坂の下によろめき馳ける犬の姿を見つめているうち、私の足も、目に見えない何物かにからまって、坂の途中に立ちどまったまま一歩も踏み出すことが出来なくなった。 

 

 その商事会社の秘書課は三階にあったから、昇降器が大嫌いな私は、階段を一段一段と毎朝登って行く外はなかった。部屋の入口に置かれた出勤簿に印を押すと、雑然と机や椅子が置かれてある部屋の、一番すみっこにある私の机に腰をおろす。給仕がついで呉れる薄い茶を飲みながら窓の外を眺めるのである。私の窓からは遠くニコライ堂の建物が正面に見えた。

[やぶちゃん注:「ニコライ堂」現在の東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂。後のエッセイ「戦争が始まった日」(『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年十二月十八日号初出。リンク先は私の電子テクスト)で、彼が勤務した東京都教育局教育研究所は『上野の山の中にあった』とあり、地図上から見ると、「遠くニコライ堂の建物が」「見えた」というのは実際の勤務地からでもおかしくはないように思われる。]

 課長や半田や河野や鳥巣や猫山や草場や大沢や、いろんな人が出揃う頃、九時のベルがびっくりする程大きな音立てて鳴りわたるのである。

 すると急にそわそわして机の引出しを開けたりしめたり、帳簿を取り出して意味なくばらばらとめくったりするのが、私の隣席の猫山老人であった。

 秘書課のなかで、言わば雑軍といったような、決った仕事を持たずその時々に起きて来る仕事を受け持たせられるのが、皆此の片すみにかたまっていた。その中でも猫山は一番年上で、古くから此の会社にいるのである。あまり地位も高くないことは、私と席を並べていることでも判るが、洋服の肱のすり切れた具合から言っても、給料もそう多額では無いに違いなかった。洋服の肱から下を保護する黒い布おおいを着けると、身体の恰好がまるで蟹(かに)そっくりに見えた。

 もう五十の坂を越しているのかも知れない。色艶の悪い顔にいつもおどおどしたような眠がついていて、瘦せた頭からは茸(きのこ)のように大きな耳が生えていた。頭の地から、柔かいまばらな頭髪が生えていて、半分以上白かった。目下の者に対する時には、磊落(らいらく)な物分りの良い態度を装おうとするのだが、何となく哀しげなその老人を、目下の者どもは皆馬鹿にした。

「猫山さんは名前にたがわず猫っ毛だわね」

 と、昼休みの退屈まぎれに女事務員がやって来て、弁当を食べている猫山の後ろから頭髪をもじゃもじゃに弄り廻しても猫山は怒らなかった。わざわざ自分の頭髪を問題にして呉れて有難いといったような気弱な笑いを浮べてふり返るのである。

「髪の柔かいのは情が柔かいと言いますがな」

 歯ぐきをあらわして嬉しそうな短い笑い声をあげるのである。

「ハロウ、ミスタア キャット。課長さんがお呼びです」

 給仕までが、こういう言い方をした。

 社内の誰か一人の、それが給仕であろうとも相手の機嫌をそこねると、それが自分がここを追い出される素因になりはしないかとびくびくしているのではないか。年のせいか仕事をやるにも、必ず二倍位の時間をかけなければやり上げる事が出来ないのだ。その上、一寸難かしい仕事になるときまってやりそこなうのである。だからあまり急ぐ必要の無い、面倒な仕事になると、必ず老人のところに廻って来たけれど、彼は悪い顔もしないで、いやむしろ大喜びで仕事に取りかかるのだ。自分の能力を誰よりも猫山自身が知っているに違いなかった。長い時日をかけて、その仕事を完成する。仕事がそれで途切れると、猫山の態度は急に不安そうになって、おろおろと机の引出しを開けたり閉めたりし始めるのである。

 ただ猫山は字がうまかったから、公式書類などの清書の仕事が時に廻って来た。そうした時の彼の表情は急に得意気となり、嬉しそうに身体をゆすりながら硯(すずり)を取り出すのである。何時に無い大声で給仕を呼んで硯水を持って来させ、長いことかかって丹念に墨を磨(す)る。そしてていねいに紙を伸べて筆をおろす。書いている最中に後ろを通りかかる男があって、ほう、うまいもんだなあ、などと感心しようものなら、彼の顔はぱっと赤らみ、喜びを押えようとして表情がかえってくずれてしまうのだ。

「なに、慣れでございますよ。私どもの字は全く品も何も無い、字の形をしていると言うだけのものですよ」

 入った時から席が隣り合せであった為かも知れないが、猫山は私にだけは本当の親近感を持っているらしかった。私も気弱なたちであったから、そこに共通なものを感じたのかも知れない。あるいは、――たとえば鳥巣という私大の経済科を出た男は、私と一緒に此処に入ったのだが、今は遊軍の群から離れて、秘書課の中でもちゃんとした仕事をしている、私だけが遊軍のまま踏み止まっていることに、此の老人は気易さを感じているのではないか。私は、此の会社で出世しようとは毛頭思ったことは無いが、唯そんなことを考えると、老人の愛情が何か鎖のように重苦しかった。

「鳥巣さんみたいになってはいけませんぞ」

 と猫山は私に言ったことがある。鳥巣は悪い男ではない。ただ若年らしい傲岸(ごうがん)さから、猫山に対してもずけずけと、時には意地悪くきめつけるだけの話である。鳥巣がまだ入って直ぐ遊軍の群にいたとき、一番彼の世話をし、一番感情を示したのは猫山であったのだ。今では鳥巣が、もとは老人の受持ちであった物品購入の仕事をやっているのである。そのことを老人は怨みに思っているらしかった。

「人の仕事を取ろうなど、そんなこと考えてはいけませんぞ。そんなにして出世しても何にもなりはせんがな」

 私にはこんな具合に気易く話が出来るらしいのである。が、外の人に対しては、此の男はその場その場の会話に帳尻を合せようとするのにあらゆる努力をそそいでいると言ってよかった。何十年と生きて来た揚句、身につけた処生術が、猫山にとっては之ひとつであったのだ。しかもその処生術が、全然彼に利益を与えないだけでなく、むしろ彼を惨めにするだけの事であるにも拘らず、彼はあくまでそれに努力をそそぐのである。

 自分ひとりが笑いものになってその場が和(なご)やかにおさまるものなら、彼は敢然と道化の役を買って出るのだ。そうすることによって自分の実力の無さや惨めさを人が忘れて呉れればそれでいいのである。人に忘れさせようとするより、そうすることによって自分が忘れたかったのかも知れない。だから一日中人の意をむかえるために、彼は全身をあげて待機している。人の好さそうな卑屈な笑いを浮べたり、気の利かない冗談を言ったりするのも、給仕やタイピスト相手には流暢(りゅうちょう)に行くのだが、相手が少し上役になったり課長になったりすると、その努力感が、彼のぎくしゃくした言動となってすぐ現われて来るのである。

 課長が時々私達の席の近くに来る。課長の一挙一動に、彼は全神経を集めて注意し始める。課長が何か冗談を言ったならば、すぐそれに応じて何かうまいことを言わねばなるまい。何かを取って貰いたいという気配を感じたならば、すぐ席を離れてそれを持って行かねばならない。こう彼は考えるらしかった。

「猫山君。子供さんたちは近頃達者かね?」

 と課長が聞いたとする。その声が終らないうちに、彼はもう腰を浮かせて中腰になっているのである。しかし卑屈な笑いがそのまま頰をこわばらせてしまうのだ。

「はあ、有難うございます。おかげさまで一番下の餓鬼もようやく小学校――いや国民学校に入りまして、毎日通っておるでございます。親爺に似ないように育てろといつも女房に申しておるのでございますが、何分血の力というものはおそろしいものでございまして――」

 何か気の利いた事を言おうとして、しどろもどろになってしまうのだ。しどろもどろな論調を立て直そうとして、此の老人はなおへまな方に会話を持って行き、ついに二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなると、初めて彼は自分の言い方が収拾つかぬ所まで来ていることを知って黙り込んでしまうのである。課長がいなくなった後でも、五六分はうつむいたまま、悔恨の色を顔に浮べている。その中に、あたりが白けかえっているのが、彼にはたまらなくなるらしかった。

 意味なく膝をぽんとたたいたり、私の方に向き直って、突拍子もない話題を持ち出して惨めな状態を糊塗(こと)しようとするのである。社長が彼のことを良く知っていて、字の旨いことや、更に文章の旨いことを機会あるごとにほめて呉れるというのである。字を書いているのは見たことはあるが、私は猫山が文章を綴っているのを入社以来一度も見たことが無い。ただ、無茶苦茶な事を口走ることによって、惨めな気持からはい上ろうとする猫山老人の表情から、何故か私は目を外らすことは出来なかった。自らも奈落に堕ちて行くような気持になりながら、必死に堪えて、私も意味ない相槌をうつのである。

 最もひたむきな誠実が、最も惨めな結果を引き起すのは何故だろう。会社がひけて、病院横の夕陽の坂を登るときなどに、こうした疑問が私の胸を突いた。此の世に通用しない誠実を、此の世で使いこなそうとして何十年というものを猫山はむしろ棒にふったのだ。彼がさまざまの日常の努力のあとで感じるに違いない自己嫌悪の深さを思ったとき、私の胸に湧き上って来るのは、単に同情という気持よりももっと烈しい、憤怒に近い感情であった。が、私はそれを恐れた。道を歩いているときや酒を飲んでいるとき、ふと彼のことを思い出す。頭をぐらぐらと振ったり、意味ない叫び声を低く立てたりして、その思念から逃れようとする。が、さまざまの記憶がそれに関連して、しつこく私を追っかけ、遂には何かわからないが非常に恐しい事を私に思い出させようとするのであった。

 土曜日のことであった。

 昼までであったから、私は机の周囲を片付けて帰り仕度をしていたら、鳥巣が近づいて来た。大半の人は帰ってしまって、ひるの日射しが部屋中に明るかった。空が青く晴れわたって、ニコライ堂のあたりを鳩が飛ぶのまではっきり見えた。

「動物園に行かないか?」と、鳥巣が言った。

 動物園、と私は呟いたまま、その三字の言葉の響きの中に、不思議なような、おそろしいような韻律を感じて、思わずあわてて鳥巣の顔を見返した。

「写真を取るんだ。女の子も四五人連れて行くよ」

 扉のところに、四五人の女事務員やタイピストが身仕度を終えて待っているのである。

 止そう、と私は低い声で言った。

「実は今夜、猫山さんが御馳走するから来いというのだ」

「だって、それは夜のことだろう」

 それはそうに違いはなかった。が、私は有耶無耶(うやむや)な返事をして胡麻化(ごまか)した。動物園、と聞いたその瞬間から、何か私を駆り立てる嵐のようなものを感じたのだ。私は胸騒ぎを感じた。

「君等だけで行っておいでよ」

「とにかく下まで一緒に行こう」

 広い通りに出た。女の子達も、もう明るい洋装で、街路樹のすそを青い風が吹いた。

「好い天気だなあ」と鳥巣が空を仰いだ。

「今度の創立記念日には、いい所に行くと良いわね」と、女の子の一人が言った。

「去年は多摩川に行って、みんなで遊んだわね」

濠ばたを沿って歩きながら、鳥巣が、こう話をした。

「此の会社に入ってすぐの頃、僕も猫山さんから招待されて、あの人のうちにあそびに行ったことがあるよ。大森の方なんでね、生憎(あいにく)その夜は雨が降っていたんだ。暗い通りをあちこちさがした揚句、うちを探しあてたんだ。変な家でね。二階の座敷がものすごくだだっぴろいんだ。十二畳か十六畳の一間なんだ。そしてまた、恐しく大きな床の間があって、大きな掛字がある。日日是好日と書いてあって、その前に味の素の罐を五つばかり並べ、その中にお菓子や花が入っているのだ。猫山さんは子供が多いという話だろう。それがその夜は子供の声ひとつしないんだ。その広い部屋で、猫山さんと二人でいろんな話をしたよ。そのうちに猫山さんのおくさんが料理を持って来た。びっくりしたね。何しろ硯箱位の大きさの豚カツなんだ。厚さだって一寸五分位はあったね。どういうつもりであんな大きな豚カツをこさえる気になったのか、考えると薄気味悪くなって来るね。そこで、それを食べながら、猫山さんは床の間を指さして、これが自分のモットーだ、毎日こういう気持で生きていると言って、掛字にむかって手をあわせて拝んだよ」

[やぶちゃん注:「一寸五分」五・七センチメートル。]

 その夜、私は約束を破って、猫山のうちには行かなかった。私の下宿の近くのおでん屋で酒を飲んだ。酒盃に映る逆さの電球だとか、徳利の胴に映った光だとか、横に腰かけて飲んでいる男の眼鏡の反射だとか、そんなものがしみ入るよう目に訴え始めて来た。それらの光のなかに、柔毛(にこげ)でも密生しているような妖しい美しさを感じながら、私は酔って来たようであった。実は、日日是好日と書いた掛字に手を合せて拝む老人の姿が、あまりにも切なく、私はおそらく見るに堪えないだろうと思ったからだ。酔った頭の中で、私の来るのを待ちくたびれている小さな老人の姿を描いたとき、私はもはや、他人(ひと)事でないような苦しみを感じた。お銚子を何本もかえて飲み、その夜は本当に追いかけられるようにして酔っぱらってしまった。 

 

 私が此処に入社したのは、去年の創立記念日の直後であったが、今年の創立記念日がもうだんだん近づいて来た。毎年の創立記念日の色々の催しは、秘書課のかかりになっていたから、今年の事業の相談や、事務の分担をきめるため、秘書課全員が午後からぞろぞろと会議室に入って行った。

 中庭に面して日の射さない、その上厚ぼったい窓掛があるため、一層に陰欝な会議室に目白押しになって、椅子と椅子をくつっけ、卓の上の駄菓子をつまみながら会議が始まった。

 いきなり半田が立ちあがって、国民服のポケットから手巾を出して額を拭きながら、大きな声を出した。

「今年は何ですか、課長、昨年と同じようにお祭り騒ぎをやる心算(つもり)ですか?」

 まあまあ、といったふうに手を動かした課長は、眼鏡を外してレンズを拭きながら、それを窓の方にかざして中庭の景色を見るふりをした。

「まあそれをですね、ここで皆さんと相談しようというわけです」

「それならば今年は、お祭り騒ぎは止して動労奉仕ということにしたらどうです」

[やぶちゃん注:当時日本は既に日中戦争(盧溝橋事件は一九三七年(昭和一二年)七月七日)に突入しており、本作の発表(昭和一六(一九四一)年六月)から約六ヶ月に太平洋戦争が勃発する。]

 一座がどよめいた。すみっこにかたまった女の子達が顔を寄せ合って私語するのが見えた。半田の顔に、妙な笑いが浮んで消えた。

 秘書課では主任格である草場が坐ったままで口を出した。

「昨年のをお祭り騒ぎだというのはいけないですよ。それは少しは破目を外した向きもあったかも知れないが、わざわざ多摩川に行ったというのも社員の体位向上を考えての上のことだから」

「だからです、も少し徹底させて勤労奉仕ということにすれば、体位向上にもなるし、精神修練にもなりまさあね。皆さんどうですか?」

 会議というと、何時もこんな風(ふう)なのである。此の間などは、此の社から出征している社員たちに、今までは思い出したようにぽつりぽつりと慰問袋を送っていたのだが、ちゃんと定めて送ったがよろしいということになって会議を開いたところが、年に三度も送ったらいいだろうという派と、四度位は是非送れという派の大論争になって、とうとう有耶無耶(うやむや)のまま会が終り、慰問袋の事を話に出すのが気まずくなったものだからその後は誰一人として送ろうなどと言い出すものが居なくなってしまった位である。面目を賭してまでも四度説を固執するのも、何も憂国の至情にあふれた結果であるわけではない。そういうときの急先鋒になって大声を立てるのが、いつも此の半田なのである。

「半田君には腹案でもあるのかね」と、課長が顔をねじ向けた。

「それがです」と、卓をぽんとたたいた。「ぼくは何時もから此の会社にも道場をつくらねばならんと思っていましたが、何でも今度敷地が選定されたそうじゃないですか」

「ほう、それは初耳だ。どこに定まったのかね」と課長が乗り出した。

「いや、それは僕も知らんですよ。だから其処に行って、土を運んだり石を片付けたりして働けば、それだけ早く道場も建って、ぼくらは週に二日はそこに行って水をかぶるようにする」

「ほんとかあ、おい」と隅っこから半畳が入った。笑い声が起った。半田も笑い出そうとして止めた。手巾で膚のまわりを拭いた。

[やぶちゃん注:「半畳が入った」江戸時代に半畳(劇場の土間で観客の用いた茣蓙(ござ))を舞台に投げ込んで役者の芸に対する不満を表わしたことから、野次ったり、からかったりすることを言う。]

「いやほんとですよ。遇に二日位は禊(みそぎ)をやって心神を浄めないことには、我々若者の手によって東亜再建の大事業はとても完遂出来ないですよ」

[やぶちゃん注:「東亜」ウィキの「大東亜共栄圏」によれば、『日本・満州国・中華民国を一つの経済共同体(日満支経済ブロック)とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。但し、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義等は当初必ずしも明確にされていなかった』。『用語としては陸軍の岩畔豪雄と堀場一雄が作ったものともいわれ』、昭和一五(一九四〇)年七月に『近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話に使われてから流行語化した。公式文書としては』昭和一六(一九四一)年一月三十日(本作発表の四ヶ月ほど前)の『「対仏印、泰施策要綱」が初出とされる。但し、この語に先んじて』昭和一三(一九三八)年には『「東亜新秩序」の語が近衛文麿によって用いられている』とある。]

「だって会社の仕事があるじゃないか」

「それがいけないよ。会社というものは、もう昔の会社じゃないよ。会社の利益を追求する前に、国家の利益に沿わねばならんというのがもう現代の常識じゃないか。此の理屈がわからない人がまだまだ沢山いるんで困る」

 と言いながら、半田はじろりと草場の顔を見た。草場は表情を崩さず、どこ吹く風かといった気持を露骨にみせた。

「それはそうと、去年は君が記念日事業の主任だったね」

と課長は草場の方をむいた。「今年も君にやってもらいたいと思うが、いいだろうね」

「事務分担のことはあとでいいじゃありませんか。今ほどういう具合に記念日を祝うかという話なんだ」

 という声がそこらで聞えた。

 私は猫山老人の隣に席を占めて、ぼんやりとそれらの話を聞いていた。塩せんべいやビスケットを退屈まぎれに沢山食べて、お茶をがぶがぶ飲み、煙草を何本もつづけざまに吸ったものだから、口の中が変になってしまった。皆がおのおの勝手なことをしゃべっているというより、何か底意を蔵してふるまうのを見るのは、私にとっては自分が惨めにさせられる思いであったのだ。もちろん、他人のてんでの言動が、私の生活と何のつながりがあるかと、考えないでもなかったけれど、ぶよぶよとふくれた額のあたりに脂肪をのせた課長の顔や、やせた頰のあたりにふてぶてしい色をたたえた半田の顔や、猿のように老獪(ろうかい)な風貌の草場の顔や、腹一杯食べた癖に、宿命に引きずられる如くまた菓子鉢に手を出す私自身もふくめて、それがどんなに薄汚ない風景であるかが、我慢出来ない程重苦しく私をおさえつけて来るのである。それを胡麻化すためにも、口中はざらざらになってるにも拘らず、更に一本の莨(たばこ)をくわえねばならない。

「それはそうと」と、ぽんと草場は膝をたたいた。何を言い出すかと、皆が一斉に顔をむけたのに一寸間を持たせ、すこしの表情も変えず、

「私は記念日事業主任といたしまして、大体昨年と同様にいたそうと思っておりますが、異議はございませんね」

「課長」と、すみの方からするどい声がした。課長は、人一倍大きな顔をふって、そちらに視線をむけた。

 菓子鉢に菓子が無くなりかけた頃から、だんだん会議のもようは険悪になって来た。どうせそうなることは会議を開かない前から判っているにも拘らず、此のお人好しの課長は会議が大好きで、何か事があると皆をすぐ会議室に集めるのである。それも、どういうつもりかは知らないが、女事務員やタイピストや給仕にいたるまで列席させるものだから、会議はいつも跛行(はこう)的になってしまう。それに女子供の見て居る前で面目玉を踏みつぶされてはやり切れないと思うのか、一廉(ひとかど)の男たちが愚にもつかない所で我を張り合って、とうとう収拾がつかなくなってしまうのである。此の会議も、案の定そんな具合になってしまって、自然と声が荒くなり、対立する人々は皆、目をするどく光らせ合った。

[やぶちゃん注:「跛行」足を引き摺って歩くことから、釣り合いがとれないままに進むことを言う。「面目玉」「めんぼくだま」と読む。面目に同じい。]

「半田君のように、修錬道場が立つか立たぬかそれもはっきりしないのに、勤労奉仕など持ち出したって、そりや無茶ですよ。だいいちそれでは、秘書課の者は納得しても、外の課のものが承知する訳がないよ」

「だからさ、承知しないような旧体制をたたきなおすためにも修錬道場は必要さ。ぼくは何も半田君に味方するわけじゃないが、物の道理がそうなってるんだ」

「そんな強引なこと言ったって仕方がないじゃないか」と又別の方から声がした。「昨年はあのやり方で、皆満足して帰ったじゃないか。君等だって良い気持で浮かれてたじゃないか。去年は昼酒飲んで大浮かれに浮かれた癖に、今年は道場つくれなどと良く言えたものだね」

「ああ、そうだ。半田なんざ、酔っぱらって多摩川に落ちたっけ」

「多摩川に落ち込んだことと、勤労奉仕やろうということと何の関係があるんだ」と半田は険しい声を出した。「あれは酔っぱらって落ちたんじゃねえや。船が傾いたからだい」

「船が傾いたのに皆は落ちなくて、君一人が落ちたのはどういうわけなんだ。あれは禊(みそぎ)をやったのか」

「まあまあ」と課長はぶわぶわとふくれた娘の掌みたいな掌を、空間で上下に二三度ふった。「去年のことは去年のこととして、今年の記念日は如何にすべきや――」

「だから今皆でそれを論じてるわけじゃありませんか。も少し課長もしっかりして呉れなくては困りますよ」

「しかしねえ君」とまた別の声がした。「記念というものは、本社の創立を祝うためにあるものだから、皆が心から祝えるようなやり方にしなくてはいけないと思う。勤労奉仕もいいよ。いいがだ、皆がよろこんで勤労奉仕をやって呉れるかということが問題なんだ。私が思うに、そういう急激な改革はやめて、此の際草場主任に一任ということにしたら――」

「そんな馬鹿なことがあるか。一任ということなら、そもそも此の会議は何のために開いたのだ?」

「いっそのこと全社員で多摩川べりに行って、洋服のまま水に飛び込むという趣向にしたらどうだい」

「ひねくれた言い方をするな。何だな、君は喧嘩を売る気か」

 廊下の果てから、二時半の時刻をつげる電鈴がけたたましく聞えて来た。体操の時間を知らせるのである。課長が立ち上った。中腰になったままはげしく論争していた人々も、がっかりしたように腰をおろした。

「ではこれで会議を終ることといたします」

 皆、白茶けたような顔色になって、ぞろぞろと陰欝な会議室を出て行った。全社員が中庭にあつまって、レコードにあわせて国民体操をやるのである。蓄音器は三階にあって、拡声器を中庭の方にむけている。レコードをかける役目が私になっていた。入社した日から今日まで、毎日欠かさずレコードのかかりに私は従事しているのである。一寸大きな喫茶店などに行くと、お茶を運んだり注文を聞いたりする女とは別に、いつも白けかえった顔をして蓄音器の側で長い裾を引きずっている女がいるが、言って見れば私もあんなものだ。しかし日も射さぬ、すみっこのトタンのといに青苔の生えたような中庭で体操するよりはましであった。

[やぶちゃん注:「国民体操」現行のラジオ体操第一第二の可能性もあるが、或いは昭和一二(一九三七)年に厚生省が制定した体力向上と精神高揚を掲げた「大日本国民体操」(初代ラジオ体操第三)かも知れぬ。こちらでレコードの曲が聴ける。]

 中庭を眺めおろした。いくつもの出口からぞろぞろとはき出された人の群で雑然とした中庭は、暗くて、どこに猫山がいるのか半田がいるのか鳥巣がいるのかわからなかった。私は静かにレコードの上に針をのせた。

 すりへったレコードから、拡声器に乗って濁った旋律が流れて出た。

 手を屈伸し、足を曲げる。毎日見なれた風景ではあったけれど、私はそれを見るたびに妙な錯覚にとらえられた。窓ぎわから見おろすと、上から見るせいか、頭ばかりが巨大に見えて、その下に細った胴と短い足が、音楽に合せてもだえるように律動した。不具の如き肉体から、一斉に両手が左右にのびるのである。また一斉にそれが縮むと、風になびくように胴体をまげて頭を下に振る。課長や草場やその他の人々もその中に交っているにはちがいなかった。窓から見おろす私の眼からは、それらはまるで奇怪な虫けらのあつまりのように見えた。 

 

 創立記念日が十日の後に迫って来た。

 どういう風にやるのかまだ定まらないものだから、皆落着かないらしかった。猫山も仕事がとぎれたので、一日中私の横でごそごそとうごいたり、ひっきり無しに私に話しかけたりした。草場は蒼黒い顔をして、腕を組んだまま無表情にすわっていた。かと思うと、へらへら冗談口を利きながら、女をからかったりした。

 どこからか帰って来た課長が、机の上の振鈴を、チャランチャランと鳴らした。話をしていたものも仕事をしていたものも課長の方をむいた。課長は机の前にぶわぶわと立ち上った。

「報告します。今年の創立記念日の件ですが、会社の主脳部といろいろ相談した結果、今回は朝のうち本社で祝典を挙行し、それよりQ遊園地で体位向上のための運動会をやることになりました」

 と一座を見渡した。

「何しろもう時日が切迫しておりますので、準備の方は手早く抜かりなくやっていただきたい。事務分担については、次のようにお願いします。仕事について不満な人も、もしかするとあるかも知れないが、何事も職域奉公でありますから。身を捨てて働いてもらいたいのです」

 事務分担を発表するのかと思っていたら、手廻しよくプリントして来たと見えて、給仕が一枚ずつ配って歩いた。見たら、私は祝典係になっている。鳥巣もそうであった。猫山老人の名前の上には祝菓係となっている。給仕が猫山を呼びに来た。孫三郎のあやつり人形に似て、腰から下に妙に力がない歩き方をして席を立って行った。

[やぶちゃん注:「孫三郎のあやつり人形」「孫三郎」は現在に続く糸操り人形遣い師の名跡である結城孫三郎のこと。ウィキの「結城孫三郎」によれば、『江戸糸あやつり人形芝居「結城座」の座長で、名跡』とする。本作発表の頃は、九代目で本名を田中清太郎(明治四(一八六九年)~昭和二二(一九四七)年)と言った。]

 窓の下を楽隊が通った。私は薄い茶をすすりながら、部屋中を見廻していた。半田の視線と、偶然ぴたっと合った。そして、彼は素早く目を外らした。と思うと又ちらと私を見た。そして私の方に近づいて来た。

 窓の下を通り過ぎた楽隊が、遠ざかって曲角を曲って行ったらしく、微かに聞えていた旋律が急に聞えなくなった。半田は、腰掛けている私の肩にうしろから手をかけた。

「木山君、若い者は団結しなくてはいけないよ。元気を出して、革新しなくては、それでなくてもよその課の連中は、秘書課は何をしてるかと言ってる位ですよ」

[やぶちゃん注:ここで初めて「私」の名(姓)が明らかとなる。]

 おそらくは、こちらにやって来たものの、何も私に言う事が無かったので、こんな事でも言ったに違いない。半田の役目は招待係と書いてあった。一番楽な、しかし力の入れどころの無い役目である。私は半田の顔を見た。そげた頰のあたりにいらいらした色を浮べて私を見返した。そのままあちらに行ってしまった。

 暫(しばらく)く経って帰って来た猫山と私は話をしていた。

「祝菓係とはどんなことをするのです」と私が聞いた。

「それがですねえ」と、猫山は卑屈そうな笑い方をした。

「式のときに参列した人たちにお饅頭(まんじゅう)をくばるのですよ。そのお饅頭のかかりです」

「へえ、つまり饅頭係ですか。それを配るのですか?」

「いやいや、そうでは無いのです。板橋の方に毎年創立記念日に、饅頭を入れる店があるのです。そこに行って、交渉して来たりするのですわ」

「なるほど。今はそこらの店には饅頭なんか見当りませんね」

「課長さんからも呉々も頼まれましたがな、大仕事ですよ。あっ、そうだ。今日あたりに出掛けないと遅くなる」

 あたふたと立ち上ると、古ぼけた帽子を冠って部屋を出て行った。

 五時になって、私は鳥巣と一緒に表に出た。濁った空からは今にも雨が落ちて来そうだった。銀座に出て、そこらをぶらぶらした揚句、銀座裏のへんな酒場に私を連れて行った。薄暗い照明の中で、顔の黄色い女が二三人いて、窓掛けをあげて外をのぞいた。

「あら、雨よ」

 私達も盃を手にしたまま、窓をすかして外を見た。灰を吹き散らしたような雨が、音も無く舗道に落ちていた。

 鳥巣は私に酒をつぎながら言った。

「此の間の会議は面白かったね。革新派がいきり立ったじゃないか」

「つまりは、あれは私闘だな。革新の顔してるだけの話じゃ無いのか?」

「そりゃ勿論そうだよ。禊(みそぎ)をやれなぞ言うのは草場さんへのいやがらせだよ」

 蒼黒い、動物的な感じのする草場の顔を、私は考えるともなく思い浮べた。

「草場さんだって、一筋繩で行く男じゃないよ。課長を追い出して自分が後釜にすわろうと考えているという話だよ。その為に重役を動かして、課長を左遷させようと運動してるらしいのだ」

「だから、半田達が草場を嫌うのかね」と私が聞いた。

「そうじゃないさ。半田一味だって、そんな単純な正義観で動くものかね。皆だれだって自分のことだけしか考えないさ。人間とはそんなものだよ」

「いやだな。何故皆素直に生きて行けないのだろう」

「しかし、それが一番素直な生き方じゃないか。自分の利益のために生きて行くということが――」

 私は盃を待ったまま、ちらと鳥巣の顔を見た。光線の加減か、鳥巣の顔に何か冷酷な影が浮んで消えたように思われた。

 雨の音が、激しくなって、硝子窓にしずくが流れ始めた。外はすっかり暗くなって、それに風も出たらしい。新しく入って来る客は皆服の襟を立て、土間のところで一度鶏が水をはらうように烈しく身ぶるいをした。

「雨が止むまで、暫くいよう」と鳥巣が言った。

 私達の卓には、お銚子がもう五本も並んだ。

「それはそうと、今日半田がやってきて、若い者は一致団結しろと僕に言ったよ」と私が言った。

「何のために一致団結するのかね」

「それはぼくにも分らんが、それだけ言って向うに行ってしまった」

「招待係なぞの閑職に廻されたのを、草場の指金(さしがね)だと思っていらいらしているのだよ。もっとも草場の指金には違いなかろうがね。課長がも少ししっかりしていたら、こんなけちな内紛はすぐ押えられるのだよ」

「課長ばかりをせめるのは酷だよ」

 私は漸(ようや)く酔って来たようであった。何時もから無理して押えつけているものが、ともすれはせきを切って流れ出しそうであった。

 私はしきりに盃を乾しながら、あれこれと言葉を探した。相手に話すというよりは、いろいろしゃべることによって、自分自身をいたわりたい気持で一杯だったのだ。

「ああ、みんな何故あんなに陰険なんだろうなあ。顔を立てるとか、顔がつぶれたということばかりにこだわって。僕は近頃、会社を止めることばかり考えているよ」

 目の前に、課長や草場や半田や、その他の人々の顔がうかんで来ると、私の心の底から、烈しい憎悪の念が湧いて来るようであった。私は日毎の惨めな気持の焦点が、ようやく此の人達の上に結んで来るのを感じた。

「そんな感傷的なことを言っても始まらないじゃないか。世の中ってこんなものさ。女の子とでも遊んでいればいいのだよ。女の子を連れて上野公園にでも行って動物園でも入って来いよ。だいいち、女の子は無邪気でいいよ」

 きめつけるように言った。広い肩幅の上に少し酔った鳥巣の眼が私を見た。

「女の子はぼくを相手にしないようだよ」

「そんなことがあるものか。元気を出せよ。木山君はだんだん猫山老人に似て来たな。何となく、まったくそっくりだよ」

「無茶言うなよ」

 と、俄(にわか)にこみ上げて来た不快さを押えて、私は強いて笑い声を立てようとした。かすれて笑い声にならなかった。

「いや、ほんとにそっくりだよ。おどおどして暮しているからじゃないか。逞(たくま)しく生きて行けよ。なんだ。僕なんざ、人がどんな悪らつな事しても平ちゃらさ。人がぼくを引っくり返す前に、人をひっくり返して見せるよ。ぼくは猫山みたいな人間の屑になりたくないのだ。ああした屑みたいのをふみ台にして、ぼくは自由に伸びてゆくよ」

 胸を張った精力的な横顔をぬすみ見ながら、私は突然異様な憎しみを此の男に感じていた。

 その夜は、とうとう酔っぱらったまま、雨の巷(ちまた)に出て行って、どこでどうしたのか忘れたが、有楽町の駅で私達は別れた。省線を降りてから長いこと歩いて、病院横の坂をのぼった。人が自分の足をさらう前に人を引っくり返して見せると言ったのも、自信であるか強がりであるかは私には判らない。唯、そんな事を言わねばならぬ彼の心に、私は二重の不快さをそそられた。

(逞しく生きて行けよって言いやがる)私は腹を立てて坂を上っていた。猫山のことを人間の屑ときめつけた傲慢さを、私はその口調を思い出して、どうしても許すことは出来ない。憤りを新たにしたのだ。雨にうたれて、酔いが醒めたようであったが、心はむしょうに亢奮(こうふん)して、濡れた帽子をおのずと力を入れて握りしめていた。 

 

 私の乗ったバスが、急にとまった。停留場でも無いところだから、何か事故が起きたにちがいない。昨夜の雨で道がぬかるんでいる。私達のバスの前に、バスが一台とまっていた。それが故障でも起したらしかった。私は窓から首を出した。

 乗客が二三人降りて前の車の下を見ている。皆窓から首を出して、のぞいている。車掌が降りて来た。私も首を動かして、人の間から前のバスの車輪のところをのぞいた。人の群が少し動いて何かの一部分が見えた。私は冷水を浴びせかけられたようにぎょっとした。

 犬の首が見えたのだ。目を閉じたまま、血の気を失った犬の首が車輪の間から突き出ていた。その横に、ひかれる時外れたらしい腹掛けが泥まみれになっているのまではっきり見てしまった。私は蒼くなったまま、窓から退こうとした。が、何故ともわからない不思議なものが、私を駆って、私は釘づけにされたように視線を動かすことが出来なかった。

 まだその犬は生きているらしかった。毎日、楡(にれ)の木の下で見る犬どもの一匹であるにちがいなかった。少し顔の表情は変っているけれども、確かに私には見覚えがあった。鼻の先のしゃくれ上ったところの鼻翼が、びくびくと動いたと思うと、重く垂れた犬の瞼が少し開いた。瞼の中の、灰色に澱んだ眼玉が、急にはっきり横に動いて、じろりと私の顔を見た。

 何故だかは判らないが、私は急に眼の縁が熱くなって、涙をかくすために思わず右手で目をおおうた。悲しみとも怒りとも恐怖ともつかぬ烈しい気持が、心の底から手足にはしって、私は足をふんばったまま、窓の桟(さん)を力まかせに握りしめた。

 酒を飲んだ翌日は、何時も物に感じやすくなるので、涙が出たというのも、下らぬ私の感傷であるにちがいなかった。が私には、その事が何時までも気になって仕方がなかった。

 犬のからだをどういう具合に片付けたかは知らない。又、死んだのか生き返ったのかも見届けないうちに、私達のバスは動き出した。

[やぶちゃん注:このシークエンスは戦後の名作「猫の話」に遠く通じている(リンク先は私の電子テクスト)。] 

 

 相変らぬ出がらしの茶を啜(すす)りながら、私は窓の外を見ていた。雨上りのせいか空気が澄明で、ニコライ堂の建物の肌の、雨の色ににじんだところがあざやかにうき立っていた。少し風邪をひいたらしい。鼻の奥が時々刺すように痛くて、頭のうしろが鈍く重苦しかった。部屋全体から起るぞわぞわしたざわめきが、何となくうるさかった。

「昨日は板橋まで行きましてねえ」と、やはり茶を啜りながら、猫山が話しかけた。「やっと注文して来ましたがな――」

 私は肩に積み重なる疲労を振りのけるようにして、相槌(あいづち)をうった。

「それは大変でしたね」

 猫山は、注文するまでの苦労を話したくて仕方がないらしかった。

「五百人分などはとても引き受けられないと言うのを、二時間もたのみ込んで、やっと引き受けて貰いましたわ」

 泣き笑いに似た表情をした。

「直径五寸位あるお饅頭が五百箇ですわ。ほほほ」

[やぶちゃん注:「五寸」十五・一五センチメートル。]

 その声は泣いているようだった。

 そんな大きな饅頭が五百箇もずらずらと並んでいる所を見たら、ずいぶん変な感じがするだろうと私は思った。

「で、一体それは誰々に配るのですか」

「記念式のとき来たお客に配るのです。それと、此の会社の課長や部長や主任級の人たち。上野や深川の支社から来る人たち。馬鹿にはなりませんがな。上野支社だけで、主任級以上の人が三十人以上も居りますですわ」

 おそらくはどこでもそうであるように、無愛想な饅頭屋の店先で、二時間もくどくどと一流の粘りで頼み込んでいる此の貧相な老人のことを思うと、私は胸が熱くなった。

 給仕が、私を呼びに来た。私は草場のところに行った。

「ええと。君らは祝典係だったね」

「そうです」

「では、鳥巣君と木山君とで、祝典のプログラムをつくって下さい。去年と同じでいいだろう。大会議室でやるんだから、大きな紙に式次第と書いといて下さい。猫山さんにでも頼むといいだろう」

 何か書類をめくっていた課長が、此の時ふいに頭を上げた。

「そうだ。社長の祝辞もこしらえておかねばならない。昨年と同じというわけには行かんだろう」

「社長の祝辞をこちらでつくるのですか」

「そうだよ。どうだね。木山君、草稿をつくらないか」

「祝辞といっても――どういう具合に書くのですか」と私は少しどぎまぎした。

「何でもないじゃないか。国家は今非常時にあるから、職域奉公につとめよというようなことを引き伸ばせはよろしい。社長になったつもりで書いて呉れたまえ。祝辞の件はそれでよしとして――草場君、饅頭の方の手筈は、ととのっているだろうね」

「はあ」と、草場は無表情のまま答えた。「猫山さんが連絡して呉れましたです」

「そうか」課長は饅頭に似た顔に満足の色を走らせた。

「ぼくは一寸出かけるから、後をたのむよ」

 書類をかかえると、立ち上って出て行った。

 私も席に戻ろうとすると、草場が私を呼びとめた。

「木山君」声をひそめて、「変な連中のおだてに乗るんじゃ無いよ。今は角つき合せてる時代じゃない。職域奉公。何事もそうだよ」

「それはどういう意味ですか」

 私はむっとして草場の顔を見返した。猿に似た、蒼黒い顔に、ずるそうな笑いが浮んだようであった。手を肩のへんに上げて、ひらひらと振った。

「別段意味はないですよ。祝典の方をしっかりやって呉れ給え」

 酒の疲れが顎(あご)の辺に残っていて、どういう意味かを追求するのは大儀だった。横を向いて莨(たばこ)を吹かしている草場の顔は、もうすっかり表情をそぎ落して、私に今言ったことなどすっかり忘れ果てた様子であった。

 私は鳥巣の席に歩いて行った。

「やあ、昨夜は失敬。すっかり酔っぱらった」と鳥巣が私の肩に手をかけた。「おや、服がまだ濡れてる」

「ああ、帰りに又降られたもんだから」と私は煙草を取り出した。「それはそうと、祝典プログラムを作れとさ。君つくって呉れないか」

「君もつくるのだろう。一緒に」

「それが、僕は社長の祝辞をつくらなければならないのだ」

「君それを引き受けたのか?」

 煙草に火を点けようとして、私は思わず鳥巣の顔を見た。

「だって課長の命令なら仕方が無いじゃないか」

「知っていて引き受けたのか?」

「何をさ」私は鳥巣の表情から目をはなさずに、そう聞いた。

「猫山さんからうらまれるよ」

 私ははっとした。

「数年来猫山さんは社長の祝辞をつくって来てるという話だぜ。記念日がすむと、いつも社長が猿山さんに、立派な文章で結構でしたと言うのをたのしみに、猫山さんは一生懸命つくってるそうじゃ無いか。猫山さんが、社長と直接話するというのも、年に此の時一度しかないのだよ。僕に物品購買の仕事が廻って来た時でも、ずいぶん猫山さんは僕をうらんだらしいけれど、祝辞の仕事を君が引き受けてしまったら、猫山さんはきっと腹を立てるよ」

 私は、何時か猫山から、社長から文章を賞められたという話を聞いたことを思い出した。

「だって、一度引き受けた以上は仕方がないじゃないか」

 今更、草場のところに断りに行くのは大儀だった。それよりも、鳥巣が仔細ありげな顔で、私に猫山について忠告じみたことを言ったのが、変に私の勘にさわったのだ。むなしい思いが心の底に湧きおこり、私は思わず腹立たしい口調で、そう呟いていた。

 そのうちに昼のサイレンが遠く近くで鳴り渡った。私は机の上で弁当を食べていた。

 まだ冬の間から取片付けないストーヴの側で、国民服のズボンの裾をまくって、半田が靴下を皆に見せびらかした。

「もう駄目だねえ。洋服の色と靴下の色の調和なぞを考えてたら果てしはないねえ。おれんちでも純毛の靴下をずいぶん買い溜めておいたんだが、とうとう使い果して昨夜こんなのを買って来たよ」

 派手な、赤の紫のまじった厭味な色の靴下が、へんになまじろい脛(すね)に止めてあった。

「これでスフ入りだよ。今におれも猫山さん見たいに大穴のあいた靴下をはいて歩くかな。何の写真だい。そりゃあ」

「此の間、動物園に行ったとき、鳥巣さんから撮って貰ったのよ」

 と、顔の幅の広いタイピストが答えた。私は箸を止めて顔を上げた。

 四五人の女達が、顔を寄せ合って、小さな写真を次から次に見て行くのである。笑い声を交えたり、指さしたりしながら、楽しそうに一枚一枚めくる。此の間、私が誘われて行かなかった時の写真に違いなかった。不思議なことには、私とは何の関係もない写真であったにも拘らず、私はその瞬間、長いこと此の写真の出来上りを待ちこがれていたことが、今はっきりと判った。私は弁当を机の中にしまい込み、立ち上って机の角を曲り、女等の背からのぞき込んだ。

 顔の大写しがあった、樹々の茂みを背景として二人並んだ写真があった。動物園の正門に皆で並んだのがあった。小径を行く後姿があった。順々に見て行くうちに、私は段段期待が裏切られ、失望とも悲哀ともつかぬ気持で心の中が一ぱいになって行った。

(――何にもうつってないじゃないか)何かを一心に見つめているらしい横顔の大写しを見たとき、もう少しで割り切れそうで割り切れない気持になって私はいらいらした。芝生に横臥(おうが)した姿。人ごみの中でこちらをふりむいた姿。最後の一枚は、広場のベンチに女が三人腰かけて笑いこけている写真であった。写真の、も少しで外れるところに、ぼんやりと檻の形らしいものがうつっていた。私は思わず目を凝(こ)らして、その風景に見入った。

 その私の視線を、邪険に女の手がさえぎった。それを一枚一枚、机の上に並べ始めた。皆で分配するつもりらしかった。

「あたし、これとこれを貰うわよ」

「あらずるいわ。これ貴女は半分しかうつって居ないじゃ無いの。これはあたしよ」

「貴女は焼増ししてもらえはいいじゃないの。わたし、これを引伸ばして貰うわ」

「あら駄目よ。じゃこうしましょう。じゃんけんで分けて、又ほしい人は鳥巣さんにたのんで焼増しして貰いましょう。おや。地震よ」

 春の地震が急に大地や建物をごうとゆすって、電燈がゆらゆらとゆれた。急にあたりがしんかんとなったと思うと、廊下を上草履で急に走る音がした。そして収まった。

「ああ、こわかった。こんなよ」

 手を取って自分の胸に当てさせている。柱にかかった大時計の振子が、ふらふらと不規則に揺れながら止った。

「あら、写真が一枚足りないわ。どうしたの」

「今の地震で、どこかにはねとばしたんじゃないの。そこらに落ちてないこと?」

「虎の檻(おり)がうつってる写真だわよ。ベンチに並んだ――」

 床や机の下を探している。その女たちの姿を見ながら立ち上って私は廊下に出た。

 廊下を歩いて便所に入った。便所の中で一寸考えて、また廊下に出て来た。階段の方に歩いて、ゆっくり一段一段とのぼった。

 樹々の茂みを縫うて、それぞれの大きさの檻に、南極でとれた熊や、アフリカにいた獅子や、妙な形をした猿や、得体も知れない姿の鳥類が、みんな違った表情をしてうずくまっている。生れてまだ一度も動物園に行ったことの無い私の頭の中で、そうした鳥獣の姿体は、恐しい程切なく私を打った。階段の手すりに摑(つか)まって、一歩一歩のぼりながら、私はポケットを探って、又手をポケットから出した。逃げ出したくても、鉄の棒や金網が張ってあるから、仕方なく終日ぼんやりすわっているが、それでも諦め切れずに、人が見ていないと、こっそり鉄の棒を嚙ってみたりするそうではないか。夜になって人がいなくなると、動物達は一せいに悲しい声を立てて鳴き立てるそうじゃないか。偽者ばかりがうろうろしている此の世界の中で。あの鳥や獣たちだけが、真実の姿をしているのではないか。

 私は胸に湧き上る亢奮を押えながら、屋上にのぼりつめた。二十坪ほどのコンクリートの屋上には、誰も人影が見えなかった。私はあたりを見廻して、ポケットに手を入れた。そして、先刻の地震のときに素早く手に入れた写真を取り出した。

 風が吹いて、私の髪を乱した。(虎の檻だと言ったな)私は眸(ひとみ)を定めて、その写真に見入った。ぼんやりとうつった檻らしい形の中に、何か薄ぐろくうずくまったものの形がぼやけて見えた。

 毎日の、憂欝な気持を、堆積(たいせき)してどうにもならない此の気持を、此の荒々しい獣が一挙に晴らしては呉れないか。微塵の嘘もない、かけ引きもない、ありのままの生れたままの烈しいものに漲(みなぎ)った獣たちが、私の創痍(そうい)をいやして呉れるかも知れない。私は風に逆らって目をあげた。風は、正面からぼうぼうと吹いた。黄色に頽(くず)れた太陽の光が、厚い雲の層をやぶって、不思議なかげを地上にそそいでいる。家並家並のつづくところ、その果てに、黒い上野の山が、長くつづいているのである。私は、じっと見つめたまま、いつまでもそこに立ち尽した。 

 

 創立記念日があと三日というときになって、秘書課の部屋は蜂の巣のように人が出たり入ったりした。何しろ時日が切迫しているものだから、皆忙しいのである。私も何となく、そこらをうろうろしたりして、少しも気が落着かなかった。まだ祝辞はつくっていなかった。どうにでもなれと思ってほっておいたら、草場が私に催促した。

「それが、まだつくらないのです」

「こまるねえ。もう三日しかないのだよ」

 猫山さんにつくらせて呉れと、私は言おうとしてやめた。

「今日中につくりますよ。でも、つくり方がよく判らないから、サンプルでもあったら貸して下さい」

「去年のが、どこかにあった筈だがなあ。猫山君が持っているかも知れない。猫山君に聞いて下さい」

 私は、険しい気持になって自分の席にもどって来た。

 猫山は手持無沙汰らしく、机の前にすわってあちこちを眺めていた。白い柔毛におおわれた瘦せた頭の形を見ているうち、私は何故だかわからないが疼(うず)くような残忍な気持が胸の中にわき上って来るのを感じた。それは、烈しい親愛感と背中合せになった紙一重の気持であることも、私にははっきりとわかった。此の瞬間なら、ひよわそうな顱頂(ろちょう)を力まかせになぐることも、両手で抱いて接吻することも、やろうと思えば私に出来るにちがいない。氣持に矛盾することなく、両方を一度にやることも出来るにちがいないと思った。私は低い声で、猫山に話しかけた。

「去年の創立記念日のですね。あの時、社長が祝辞を読んだでしょう。その祝辞の草稿ありませんか」

 ぎょっとしたように、猫山は振りむいた。

「それを何になさるのです」

「今年の祝辞の原稿をつくる参考にしようと思って――」

「誰がつくるのです」

「ぼくです」

 猫山のやせた顔がへんに歪んで、何か言おうとして止めた。だまって、机の引出しを開いて、又ぴしゃりと閉めた。

「そんなものありませんがな」声がふるえた。「課長さんが、貴方にお頼みになったのですか?」

 どういう気持であったかは判らない。私は歯ぎしりをするような気持で、こう言ってしまったのだ。

「ぼくが、書かせて呉れと課長にたのんだのです」

「本当か」

 猫山の首のあたりから、血がのぼって来て、いつもは血の気のうすい両頰が、少し赤くなった。思わず中腰になろうとしたとき、秘書課の扉を開いて法被(はっぴ)を着た男が、入って来た。何か不思議な予感に打たれて、私と猫山は思わずそちらに振りむいた。

 法被を着た背の低い男は、扉のところに立ったまま大声でさけんだ。

「お待ち遠様。饅頭を運んで参りました」

 なに、と言葉にならない言葉が、猫山の口から洩れた。と思うと、猫山は蒼白になったまま、扉の方に走って行った。黒い腕おおいを着けた姿は、まるで蟹が走るようだった。

「困るじゃないか。君。誰が今日だと言った、え? 誰が今日持って来いと言ったのだ?」

 猫山は亢奮のあまり、手を上げて法被の男の肩をぐいぐい押すようにした。そのなじる声は、けだものがないているようであった。

 あっけに取られた法被の男も、肩を押され壁にぐいぐいやられて、ようよう怒ったらしかった。猫山の手をはらいのけた。

「乱暴しないで下さいよ。親方が持ってけと言ったから持って来たんだ。不要(いら)ねえんなら持ってかえりますよ」

 二時間も九拝して買い込んだ饅頭を、今突き帰しては、もう買えるあてがないにちがいなかった。猫山は蒼くなったまま、茫然と立っている。騒ぎを聞きつけて、課長や草場がやって来た。

「何だい。どうしたんだ」

「へえ、饅頭を持って来ました」

「なに? 饅頭? 今からもって来たんじゃ、記念日までに皮がかたくなってしまうじゃないか。前の日に持って来るという話だったんだろう。猫山君。一体どうしたのだね」

「はい」と、血の気の無い顔を上げた。「私は、記念日の前日に持って来いとちゃんと言ったのでございます」

「困るなあ」と草場も険しい声で言った。

「で、饅頭屋さん。鰻頭はどこにあるんだ」

 扉を開いた。廊下に五百箇の饅頭が、幾つもの風呂敷づつみになって置いてあるのである。

「仕方がないや。じゃ置いて行けよ」

「へえ、有難うございます。ではたしかに五百箇」と言いながら、法被の男は猫山に冷たい一べつを呉れると、扉の外に出て行った。草場はそれを見送ると、一わたり風呂敷の数を当ったすえ、猫山の方に向きなおった。

「猫山君。一体これはどうしたのだね」

「まあまあ」と課長がそばからさえぎった。「来たものは仕様がない。三日後までしまっておくのも、不味くなったり、悪くなったりするだろうから、今日の中に社内の者だけに配ったらどうだろう」

「そうするより仕方がないですね」と、表情を殺して、草場がそう言った。

「本社内はすぐ配れるとしても――」と課長は大きな顔をあげて見廻した。「深川や上野の支社にもって行かねばならん」

「深川の方には給仕をやりましょう」

「上野には、誰か手のすいた人に行ってもらうとして――」

 壁ぎわにうつむいて立っていた猫山が急に前に飛び出して来た。

「上野には私が参りますでございます。もとはと言えば私のせいでございますから」

 肉の薄い襟筋のあたりに、汗がふつふつと流れるのを、私ははっきりと見てとった。立ち上った私の視線と、課長の視線が合った。私はふらふらと出て行った。

「――手はすいてるかね?」と課長が低い声で私に聞いた。

 猫山はちらと私の顔を見た。その目は燃えているようだった。何にも言わず、扉の外に出て行って、いきなり風呂敷包みの一つに手をかけた。力を入れると、それを持ち上げようとした。

「お止しなさい」

 と、私は思わずそばによって、後ろから猫山の腕を支えた。それは、老人の力には過ぎるほど重いにちがいなかった。私が支えた猫山の腕の筋肉が、努力のために奇妙にねじれているのが、洋服の上からでもわかった。私はその姿勢のまま振り返った。扉のところに立って見ている四五人の男の間から、草場が冷たい調子で言った。

「では、猫山君。持って行って呉れ給え」

 私の額から冷たい汗が滲み出た。私は自分の顔色がさっと変るのが、自分でもはっきりわかった。腹の底から手足の先に荒々しい力が走って、私は細い猫山の腕をねじるように握りしめた。片一方の手で風呂敷包みの結び目に手をかけた。力を入れて猫山の手からひっぱった。

「よし。僕が持って行く」

 それは、声にならなかったかも知れない。肩で少年のようにひよわな猫山の体を押すようにして、風呂敷包みを引いた。リノリユームの床に、包みが重量のある音を立てて落ちた。それと同時に、猫山の手が私の二の腕をつかんだ。

「木山君、持って行って呉れるかね」課長の声が背中でした。

 食い入るように私の腕をつかんでいた猫山の手の力が急にゆるんだようであった。私を見据えた青い猫山の目に、急に弱々しい哀願の色が浮んだと思った。その瞬間、私はやせた猫山の体を押しのけて、包みを片手に下げて歩き出していた。包みの重量が、肩のあたりを引きずった。

 それはもはや、猫山の卑屈な態度に対する憤りでもなければ、周囲の人々の猫山への冷淡さに対する怒りでもなかった。そういうものを超えて、私の心の内をかき立てたのは、給料貰って飯を食うには、こういう世界にすら生きて行かねばならぬという自分自身の惨めさであったのだ。私はことさらに包みを持った方の肩をそびやかし、わざと足音を荒くして廊下を曲った。包みを引きずるようにして、階段の降り口まで来た。手すりに手をかけて一段降りた。そのとき、廊下に私を追うらしい急な足音が、私の耳朶(じだ)をうった。私は紐で引かれるようにふりむいた。蟹のような猫山老人の姿が、いきなり私の前に立ちふさがった。

 頰を力まかせに引っぱたかれたのだ。私は覚えず中心を失って、包みをがっくりおとすと、その上によろめいたのである。片手で手すりをつかみ、片手で包みを支え、片膝を階段についたままの姿勢で、瞼を焼くような熱い涙が両眼から流れ出た。私は重い包みと一緒に、階段を転がりおちるようにして馳け降りた。

 巷(ちまた)には、大風がぼうぼうと吹いていた。

 タクシーを止めて座席にころがりこむと、私は背中をもたせて目を閉じた。閉じた瞼に涙が一ぱいたまった。打たれた頰がかっと火照(ほて)った。曲角を曲るごとに古い車体はぎしぎしと揺れ、座席が私の背を衝き上げた。タクシーは揺れながら、次第に速度を早め出した。

(――遁走(とんそう)するのだ)私は、道の両側を行く人たちの着物を吹く風のさまを、目を見開いてじっと追っかけた。走って行く私の自動車の厚い硝子窓にも、奇妙な音を立てて風は吹きつけた。ある不逞なたくらみが、次第に私の心の中ではっきりした形をとりはじめたのである。私は頰を押えた。私の頰っぺたを殴ったとき、猫山は何か叫んだようだった。気持を無理に押えつけたような濁った声だった。それは獣がほえるようだった。何と叫んだのかは判らなかった。ただ、私をののしる言葉にはちがいなかった。私を見おろした猫山の、焼けつくような視線を突然私は思い出した。私は烈しい胸騒ぎを感じながら、外を眺めた。上野広小路をわたって、車は上野の山の下をはしっていた。

「ここで止めて下さい」

 ぎぎと、不気味な音を立てて自動車がとまった。金をはらって降り立った瞬間、烈しい風が私の上衣の裾をはたはたとひるがえした。広い街路を吹き抜けて、塵や砂が一斉(いっせい)にこちらの方に吹きつけた。私は高まって来る心臓の鼓動を押えながらむきなおった。――道の向う側に、交番があった。その後ろの樹々の茂みは、風につれてざわざわと荒れ狂った。私は包みを引きずるように持ちながら、頭を上げてまっすぐ交番にむかって歩いた。

 若い、私位の年頃の巡査が、入口に立って私を見た。私はその包みを、力を入れて交番の床の上にのせた。不審そうな巡査の視線を避けながら、私は低いはっきりした声で言った。

「これを、困っている人にあげて下さい。本当は、本署の方に持って行こうと思ったのですが、どうも入りにくくて。とにかく、おねがいいたします」

 声音が少し乱れた。私はいきなり帽子を取ってお辞儀をすると、あわてて急ぎ足にあるき出した。巡査が何か言ったようだけれど、風に散って聞き取れない。呼び返されると面倒だと思って、私は一目散にかけ出した。

 群れ立つ樹々の梢に風はひとしきりいんいんと轟きわたり、雲は自然に形を変えながら浅草の空の方に流れて行った。上野公園の広い石段は風に吹かれてぬめぬめと光り、茶店にかけた赤い旗はひっきりなしにはためいた。濁った浅草の空のあたりに、雲が奇怪な形によじれて、どうかした拍子に、おそろしい犬の首そっくりの形になった。その牙のあたりから、稲妻がきらきらと光った。そして風ははげしく私の背中に吹きつけた。

 玉砂利のしいてある道を、風に吹かれて私は小走りに急いだ。野球場と、白い汚れた建物の間を通りぬけた。人気のない野球場から流れて来る黄砂の中を突っきり、広場を走りぬけ、私は動物園の前までやって来た。切符を買うとき、おつりを貰う右手がふるえて、白銅がかちかちと石台にあたった。

 人混みの中を縫いながら、私の心はむしょうにせいていた。すすけたような色をした印度孔雀(インドくじゃく)の檻を通り過ぎた。自然石の石段をかけ下りて小径をぬけた。薄汚れた水牛のところをすぎた。縞(しま)馬のところも、狐の檻も通りぬけた。瘦せ衰えたコヨテの檻もほとんど見ずにかけぬけた。広場の真中に大きな檻があって、人が沢山集っていた。私は胸を騒がせて、その方に走った。

 人々の頭や帽子の間から、何か黄色いものが見えたと思った。黒い鉄棒の間から、黒い筋をつけた黄色の形のものが、風に吹かれてうずくまる。風に吹かれて黄色い毛がぶわぶわと動いた。あれが虎か?

 肩で押し、手で分けて、私は人ごみの中に入った。背をのばした。十坪はかりのコンクリートの土間の水溜りに、濡れた腹の毛を押しつけて、薄汚ない足の裏を見せ、大きな胴体を物憂(う)げに横たえた。義眼のような不気味な目玉をひとところに据え、鬚を立てて耳を動かした。厚い鼻翼が荒々しく動いた。汚れた檻の中で、咽喉(のど)の下の毛は火薬のように黄色かった。これが虎か?

 虎は物憂げに立ち上り、足の尖(さき)をざらざらした舌でなめ、険しい表情で檻の中を歩き出した。檻の内に吹き入る風がたてがみを起し、虎は首を反らして、雲行き早い空を見た。耳を立てて、牙を嚙み、嵐のように烈しい姿勢をした。檻を隔てた木柵に乗りかかるようにして、私は憑かれたもののように、虎のその姿に見入って行った。

甲子夜話卷之三 1 白川城の災後、越州、家老に憤る幷狂歌の事

 

甲子夜話卷之三 所載三十三條

 

3-1 白川城の災後、越州、家老に憤る狂歌の事

先年白川城の内外とも一同大火ありしことあり。樂翁未だ隱退せられず、在江戸のときなれば、飛脚を以て告來ること、櫛の齒を引が如し。尋で家老一人出府す。樂翁悦ばず。對面して慍色あり。聲を勵ふして申さるゝには、度々言上して仔細詳に聞けり。今復申べき事や有ると尋しかば、家老窘して閉口し、坐をも立かねて有しかば、樂翁傍の硯引よせ、一首の狂哥を書て、夫を投出して奧へ入れたり。

 

 でんがくの串串思ふ心から

      燒たがうへに味噌をつけるな

 

家老これを見て、安心して坐を退きしと云。この出府を慍られしは、非常のときは人心さはぎ立ものなるを、鎭定せず、周章して出たると云を、咎められしなるべし。又家老あまりに恐怖せば、もしや切腹などすまじきにも非ずとて、其深慮より、わざと戲辭を吟ぜられしなるべし。兎にも角にも不凡の人ならずや。

■やぶちゃんの呟き

 狂歌の前後は一行空けとした。

「白川城」陸奥白河藩の藩庁で陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)にあった白河小峰城。

「白川城の災」文化六年二月二十五日の回禄(火災)。二の丸・三の丸のみならず、城下も広汎に焼亡した(それを本文では「一同」(城の内外(うちそと))と言っているのである)。本火災とそれに纏わるこの狂歌は、既に根岸鎭衞の 之九 白河定信公狂歌尤の事が取り上げている。リンク先の私の電子テクスト本文と注を参照されたい。

「越州」「樂翁」松代定信。彼は越中守で後者は号。尊号一件を背景として寛政五(一七九三)年七月に将軍輔佐と老中を辞任した定信は、藩政に専念した(地位上は溜詰(たまりづめ)となっている。溜間(たまりのま)とは黒書院溜之間ともいい、通称を松溜(まつだまり)、またここに詰める者を溜詰と称した。代々、溜間に詰める大名家を定溜(じょうだまり)・常溜・代々溜(だいだいたまり)などといい、会津藩松平家・彦根藩井伊家・高松藩松平家の三家があった。また一代に限って溜間に詰める大名家を飛溜(とびだまり)といい、伊予松山藩松平家・姫路藩酒井家・忍藩松平家・川越藩松平家などがあった。さらに老中を永年勤めて退任した大名が前官礼遇の形で一代に限って溜間の末席に詰めることもあり、これを溜間詰格といった。定信はこれである。初期の段階では定員は四~五名で、重要事については幕閣の諮問を受けることとなっていた。また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっており、その格式は非常に高いものだった。江戸中期以降は飛溜の大名も代々詰めるようになった。また、桑名藩松平家・岡崎藩本多家・庄内藩酒井家・越後高田藩榊原家の当主もほぼ代々詰めるようになったと参照したウィキの「伺候席」(しこうせき)の「溜間」にある)が、これは文化九(一八一二)年三月六日に長男の定永に譲って隠居するまでの間の出来事であり、それ故に彼は江戸にいたのである。なお、隠居後も藩政の実権は彼が掌握していた。

「在江戸とき」「江戸に在る時」。

「告來る」「つげきたる」。

「櫛の齒を引が如し」「くしのはをひくがごとし」。櫛の歯は一つ一つ、何度も何度も鋸で挽いて作るところから、物事が絶え間なく続くことの喩え。

「尋で」「ついで」。

「慍色あり」「いかるいろあり」。顔色が激しい怒気を含んでいた。

「勵ふして」「はげしふして」。激しくして。

「度々言上して仔細詳に聞けり。今復申べき事や有る」「たびたびごんじやうして(したによつて)、しさい、つまびらかにきけり。いま、また、まうすべきことや、ある」。「何度も何度もちまちまと飛脚なんぞを飛ばして参ったによって回禄の仔細は詳らかに聴いておる! 今さらにまた、わざわざ江戸まで出府して来よって、何を言うべきことがあると申すか?!」。

「尋しかば」「たづねしかば」。

「窘して」「きんして」。「窘」は「苦しむ・悩む」。

「立かねて有しかば」「たちかねてありしかば」。

「傍」「かたはら」。

「硯」「すずり」。

「引よせ」「ひきよせ」

「書て」「かきて」。

「夫」「それ」。

「投出して」「なげいだして」。

「奧へ入れたり」「入れたり」は「いられたり」奥へすっとお入りになってしまわれた。

「でんがくの串串思ふ心から/燒たがうへに味噌をつけるな」「でんがくのくしくしものをおもふこころからやけたがうへにみそをつくるな」。「串」「燒け」「味噌」が「田樂」の縁語で、「串々」(くしくし)は副詞の「ぐぢぐぢ(ぐじぐじ)」、則ち、「うろたえて言葉がはっきりしないさま」「弁解染みたことをぶつぶつ呟くさま」「ぐずぐずしてはっきりしないさま」の意を掛けてある。「味噌をつくるな」とは、田楽は、何よりしっかり焼いた後に火から取り上げた上で徐ろに生味噌をつけて喰うのが王道である(個人的に私は焼きながらつけて味噌を焦がした方が好きだが)が、それに「味噌をつける」=「失敗して評判を落とす」「面目を失う」の意を掛けてあるのである。因みに、先の 之九 白河定信公狂歌尤の事の方では、

 

 でんがくのくしくしものを思ふとて

      やけたりとても味噌をつくる

 

となっている。

「云」「いふ」。

「さはぎ立」「騷ぎ立つ」。

谷の響 三の卷 九 奇石

 

 九 奇石

 

 己が知れる某なる人、いぬる甲寅の年の八月江戸よりの歸るさ、碇ケ關の放舍(はたごや)に宿歇(とまり)けるが、日も未だ高ければ庭に居置きたる水盆(はち)の魚に餌を與へて慰みつるに、その水盆に布(しけ)る小石のうち、いと奇らかなるもの一個(ひとつ)あり。その石は今別の濱なる瑪瑙石にひとしく、鮮明にすきとほりて大さは胡桃ばかりのものなるが、俱に布たる松藻と言へるものこの石を貫(つらぬ)き、根と葉の先は石の左右にあらはれ、中半(こと)は石中(いし)に籠りて透(しか)すときはいと明細(あきらか)に見ゆるなり。この人旅籠(はたごや)の主に乞得たりとて己に見せしなり。藻の軟(やはら)かなるものにてかゝる石を貫きたるは、いといと奇しきものといふべし。

 又、岡本三彌といへる人、小泊村の海岸より得たりとて希代の石ありき。その石の形狀さながら鹽漬の茄子にひとしく、色また爾(しか)なり。白き斑文は𤾣(かび)によく似て、蒂(へた)と莖は俗に言ふホンダワラとよべる海草の根株なり。實に眞の物に見違ふばかりにして、いと珍らしき似象(にざう)のものなり。又肌(はたへ)濃(こまか)く質硬くして上品なるは言ふべくもあらず。

 また成田某といへる藩中の人より贈られたる一奇石あり。三寸に二寸ばかりにして、石決明(あはび)の形狀によく似たれどもこの物の化(な)れるにあらで、自然(おのづから)に似たるものなり。色もまた石決明にひとしく、肌(はたへ)密(こまか)に光ありて慰斗(のし)押へにいと好きものなるが、何人の持行きしにや見えずなりぬ。又、工藤權太郎といへるもの、金木邑の山中より得たりとて鰹節にひとしき石を贈れり。こも又眞の物にまがへど、それの化(な)りたるにあらでその似象のものなりき。その他物の化(な)れるものあやしきものいと多かり。同じくその狀(かたち)を寫得し一二を玆に模寫す。

 

[やぶちゃん注:「甲寅の年」安政元(一八五四)年。

「碇ケ關」既出既注であるが再掲する。底本の森山氏の補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「居置きける」「すゑおきける」。

「布(しけ)る」「敷ける」。

「奇らかなる」「めづらかなる」と訓じておく。

「今別の濱」底本の森山氏の補註に、『東津軽郡今別(いまべつ)町』(まち)。『津軽半島の先端にある港町。この浜に瑪瑙石が多い』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「瑪瑙石」「めのういし」。縞状の美しい模様を持ち、オパール・石英が火成岩或いは堆積岩の空洞中に層状に沈殿して出来た鉱物の変種。

「松藻」淡水産の水草で「金魚藻」の名で知られる被子植物門双子葉植物綱スイレン目マツモ科マツモ属マツモ Ceratophyllum demersum「水盆」(金魚鉢のような水槽)のその下の水受けの中に敷いた小石であり、この水槽で飼っているのは淡水魚と考えるのが妥当で、中は真水、それを受ける敷き皿のなかも真水、さすればそこにあったこの「松藻」とは、瑪瑙石が海浜で採取されたからといっても、これは食用の海産褐藻類である不等毛植物門褐藻綱イソガワラ目イソガワラ科マツモ属マツモ Analipus japonicus ではあり得ない。そもそも後者はそのような場所では、海水を満たしていても、すぐに腐ってしまう。だいたいからして、碇ケ関はとんでもない山奥で海水を供給出来ようはずはないのである。

「この石を貫(つらぬ)き、根と葉の先は石の左右にあらはれ、中半(こと)は石中(いし)に籠りて透(しか)すときはいと明細(あきらか)に見ゆるなり」「藻の軟(やはら)かなるものにてかゝる石を貫きたるは、いといと奇しきものといふべし」瑪瑙は中心部に隙間(晶洞)を形成していることがしばしばあることは周知の通りで、この瑪瑙が断片でその晶洞が貫通しており、しかもその孔の口径がそれほど大きくなく、それを敷き引いた深皿状の水槽の受け皿に一緒に入れた活きたマツモ Ceratophyllum demersum が成長し、その孔を潜って大きくなったと考えれば、ここで平尾が石をマツモが貫いたと誤認してもおかしくはないウィキの「マツモ」によれば、マツモ Ceratophyllum demersum は『多年生植物で、根を持たずに水面下に浮遊していることが多』く、『茎を盛んに分枝し、切れ藻でも増殖する』。『秋ごろから筆状の殖芽を産生し、水中で越冬する』とある。

「乞得たり」「こひえたり」。乞うて譲って貰った。

「小泊村」既出既注であるが再掲する。底本の森山氏の補註に、『北津軽郡小泊(こどまり)村。津軽半島の西側に突出た権現崎の北面が小泊港である。古く開けた良港である。大間は大澗で入江のこと』とある。現在は青森県北津軽郡中泊町(なかどまりまち)小泊である。この「小泊港」周辺である(グーグル・マップ・データ)。

「鹽漬の茄子」「しほづけのなす」。

「色また爾(しか)なり」色もまた、まさに「塩漬けの茄子」にそっくりである。

「斑文」二字で「もん」と読んでいるかも知れぬ。

𤾣(かび)」「黴」(かび)と同義。

「蒂(へた)と莖は俗に言ふホンダワラとよべる海草の根株なり」不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum の乾燥したもの。古くから食用(私は好物である)や肥料、また、正月飾りなどに使用された。大きく成長した個体の茎はかなり太く乾燥すると軽いものの堅くなり、根株(仮根)は生時でも食い入って頑丈、乾燥物は石の如く堅い。たまたまその奇石に附着して成長した個体か、或いは採取者が海で採れたからとて、ホンダワラと当該石を加工して接合させたものかも知れぬ。平尾があまりにもそっくりだと感嘆しているところからは、人為的加工が却って疑われるのである(無論、自然に出来たものが酷似したシミュラクラを創り上げた可能性もある)。

「實に眞の物」「げにまことのもの」。全く以って本物の塩漬けの茄子。

「見違ふ」「みまがふ」。

「似象(にざう)」相同の立体形象。

「肌(はたへ)」表面の光沢や感触。

「三寸に二寸ばかりにして」長幅が九センチメートル程、短幅が六センチ程。

「石決明(あはび)」津軽であるから、軟体動物門腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属クロアワビ Haliotis discus discus と考えてよいであろう(同種の北方亜種エゾアワビ Haliotis discus hannai も考え得るが、本種はクロアワビと同一種とする見解もある)。ただ、この大きさはアワビの稚貝か、同属別種のトコブシ Haliotis diversicolor aquatilis のそれである。アワビにそっくりというには小さ過ぎてしょぼい。

「この物の化(な)れるにあらで」アワビが石化したという奇物なのではなくて。

「肌(はたへ)密(こまか)に光ありて」と叙述しているということは、アワビの貝殻の内側と同様の真珠光沢を持っていることを意味する。

「慰斗(のし)押へ」献上・結納などで贈答する際、それに乗せた長寿を言祝ぐ長熨斗(ながのし:熨斗鮑(あわび)鮑の肉を薄く剝ぎ、長く伸ばして干したもの。古くより祭礼儀式用の肴(さかな)に用い、後、祝儀の贈答物に添えるようになった)や、その贈物自体が落ちたり、飛ばされたりしないように添えられる一種の文鎮のようなもの。縁起を担いで、現在では松ぼっくり・蝦・打ち出の小槌などを象った人工物を用いるようであるが、考えて見れば、熨斗は鮑が原材料なので、類感呪術的には鮑の殻を用いてもよいように思うし、ここでそれに最適だと言うのも、あながち偶然ではないように思われる。

「持行きしにや」「もちうゆきしにや」。平尾のところに来る者の中にも、そうした不心得者がいたようである。

「金木邑」本の森山氏の補註に、『北津軽郡金木(かなぎ)町。津軽半島中央南部の中心地。元禄十一年金木新田の開発に着手した』とある。現在は五所川原市金木町(ちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「同じくその狀(かたち)を寫得し一二を玆に模寫す」「寫得し」は「うつしえし」。実は本「谷の響」の自筆本は伝わらず、既に焼失したものと考えられている(底本の森山氏の冒頭の解題に拠る)。平尾は絵師であったのだから、さぞ、美事なものであったろうが、その挿画を我々は最早、見ることは出来ないのである。]

諸國百物語卷之五 八 狸廿五のぼさつの來迎をせし事

 

    八 狸廿五のぼさつの來迎(らいかう)をせし事


Esesaigou

 ひがしあふみ、さこうたう村と云ふ所あり。山のをくに、惣堂(そうどう)有り。このさう堂のぼうず、里へいづれば、狸、そのあとへきたりて、ぼうずのくい物を、とりくらふ。あるとき、ぼうず、よ川にて、餅のなりしたる石を、ひとつ、ひろへかへりて、爐(ろ)にてやき、日のくるゝをまちければ、あんのごとく、狸、きたりて、いつものしよくもつのあり所をさがす。坊主、申しけるは、

「今よりのち、ぬすみをせずは、みやげをとらするぞ」

とて、かの燒石(やけいし)を、火ばしにてなげゝれば、狸、とつてくはん、として、したゝか、やけどし、にげかへりぬ。

 そのゝち、佛だんの本尊、をりをり、光明かゞやきおがまれ給へば、坊主、ありがたくおもひて、いよいよ、しんじんふかくせられけるが、ある夜(よ)、如來、まくらがみにたち給ひ、

「なんぢ、はやく、此しやばをたちさりて、火定(ひのぢやう)に入るべし。われ、その時、らいがうして、西方へ、すくいとらん」

と、の給ふ、と思へば、目さめぬ。ぼうず、有がたく思ひて、ざいしよ中(ちう)へふれをまはし、

「いついつの日、それがし、火定(ひのぢやう)にいりて、わうじやういたし候ふ。まいり給へ」

といへば、ざいしよの人々、

「さてさて、しゆしやうなる事かな」

とて、かんるいをながし、さて、その日にもなりければ、ざいざい、所々より、おがみにまいり、くんじゆする事おびたゞしく、みなみな、佛の御らいかうをおがまんと、まちゐたり。さて、惣堂のぼうずは、堂のまへに一間四はうに石がきをつみ、そのなかに炭(すみ)たき、木をつみ、白衣(はくゑ)にあたらしき衣をちやくし、もうすをかぶりて出で給ひ、薪(たきゞ)のうへにあがり、くはんねんしてゐ給へば、あんのごとく、その日の午(むま)の刻ばかりに、にしの方より三ぞんその外廿五のぼさつたち、しやう、ひちりき、くはんげんにて、ひかりをはなつて、らいかうありければ、人々、有がたしとておがみける。

「さらば、火をかけよ」

とて、一度に薪(たきゞ)に火をかくれば、ぼうずはやけしにけると也。そのまに、くだんの佛たちは、みなみな、すがたをあらはし、一どに、どつと、わらひけるを、人々、おどろき見れば、ふる狸ども、二、三千びきほど、山へにげ入りけると也。かのやけ石のたぬき、あだをなしけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「狸はけて人をころす事」。「そのゝち、佛だんの本尊……」の箇所を場面の大きな転換箇所であるので、恣意的に改行した。

 しかし、この話、本「諸國百物語」の中で、どうも、あまり気味がよくない特異点である。

……僧のくせに狸を騙して火傷させて猟奇的に喜ぶわ……

……しかし、また、焼石を食おうとした狸が目の前で熱っち死にしたわけでもないのに焼殺を集団謀略するわ……

……火中入定したつもりの僧の焼け焦げた生々しい臭いはプンプンしてくるわ……

……普通は人を死に至らしめることなどまずなく(私は殆んど聴いたことがない)どちらかと言えば愛嬌があってオッチョコチョイであるはずの化け狸が大群で人々を騙しておどろおどろしい大哄笑とともに山中へと去るわ……

 どうも、いけない!

 私なら、唇と舌を火傷して転がるように逃げて行く狸をちょっと描写し、火中入定しかけて、アッチッチッツ! とケツを燃やしながら室(むろ)から這い出るあさましい坊主を撮り、そこに阿弥陀如来や菩薩連中が髯を生やし出し、尻尾を出す特撮のアップを入れ、彼らが仏菩薩に裾を尻はしょりしてキャッキャと笑いながら山中へ去るというロング・ショットで、明るく終わりたい気がするのである。

 僧の狸への過激な「お灸」が、火中入定ならぬ火炎地獄となる展開、特に最後の瞬時に焼死するシーンは、挿絵を見ても、まるで、ベトナム戦争中、僧ティック・クアン・ドック氏が一九六三年六月十一日に当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に抗議するため、サイゴン(現在のホーチミン市)のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺したあの映像を思い出させ(燃え上がる炎の中で結跏趺坐を崩さず、一切、苦悶の表情を見せず、声を出さず、絶命するまでその姿を崩さなかった。こちらの記事を参照)、また、二〇〇七年二月六日早朝、私の友人井上英作氏が、私に一通のメール(そのメールを記した当日の私のブログ)を残して、静岡空港建設反対を表明するために静岡県庁前に於いて、独り、ガソリンを被って抗議の焼身自殺をされたことを思い出し、どうにも、まことに、いやな後味が私には残るからである。

 

「二十五菩薩」平安中期より盛んになった浄土信仰の中で、臨終の際、極楽浄土から阿弥陀如来が従えて来迎(らいごう)する菩薩の一団を指す。一般には観世音菩薩・薬王菩薩・勢至菩薩・薬上菩薩・普賢菩薩・陀羅尼(だらに)菩薩・法自在王菩薩・白象王(びやくぞうおう)菩薩・虚空蔵(こくぞう)菩薩・徳蔵菩薩・宝蔵菩薩・金蔵(こんぞう)菩薩・光明王菩薩・山海恵(さんかいえ)菩薩・金剛蔵菩薩・華厳菩薩・日照王菩薩・衆宝王菩薩・月光王(がっこうおう)菩薩・三昧(ざんまい)菩薩・獅子吼(ししく)菩薩・大威徳菩薩・定自在王(じょうじざいおう)菩薩・大自在王菩薩・無辺身(むへんしん)菩薩を指す。画像と簡単な解説ならば、Tobifudoson Shoboin 氏のサイト「仏様の世界」の「二十五菩薩」が判り易い。

「ひがしあふみ」「東近江」。

「さこうたう村」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注によれば、旧『滋賀県甲賀郡酒人(さこうど)村。現在の水口町』(みなくちちょう)『の内』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「山のをくに、惣堂(そうどう)有り」現在の地図上では、山の奥ではないが、この酒人(現在の地区域はかなり小さい)には天台宗の持寳寺(じほうじ)という寺が存在する(上記マップ・データ参照)。この寺は延暦年間(七八二年~八〇六年)に伝教大師最澄の創建とし、本堂は元亀二(一五七一)年の兵火で焼失、後に原門和尚により延宝四(一六七六)年に再興されたとある(こちらのデータに拠った)。一応、記しておく。「惣堂」前掲「江戸怪談集 下」の脚注に、『村人が共同して建てた堂』とある。

「よ川」「橫川」。比叡山延暦寺内の古えからの広域地区名。本堂に当たる「横川中堂」を中心とする区域。

「餅のなりしたる石」餅にそっくりな形をした石。

「ひろへかへりて」ママ。前掲「江戸怪談集 下」の本文では『拾ひ、帰りて』と訂している。この時は何時もより、余程、早めに帰って準備万端整えて狸を待ったのである。でなければ、直後のシーンで狸がやってくるのを「あんのごとく」(「案の如く」。思った通り、何時ものように)と言えぬからである。

「爐(ろ)にてやき」囲炉裏の火種のど真ん中に入れ置いてずっと熱し続けたのであろう。

「みやげ」「土産」。

「光明かゞやきおがまれ給へば」「おがまれ」は「拜まれ」でこの「拝まれる」は「自然に見える」という自発の意に謙譲が加わった表現である。従って「光明がまぶしいまでに輝くのが、これ、まっこと、自然に拝まれて御座ったによって」といった訳となろう。

「ありがたくおもひて」「有り難く思ひて」。まっこと、仏の慈悲の光りが眼前に見えるものとして、心から「御仏の広大無辺の御慈悲のありがたきことじゃ!」と感銘し。

「しんじんふかくせられけるが」「信心深くせられけるが」。

「まくらがみ」「枕上」。

「此しやばをたちさりて」「この娑婆を立ち去りて」。

「火定(ひのぢやう)」火中入定(かちゅうにゅうじょう)・火中禅定(ぜんじょう)のこと。自ら火中に身を投じて肉身を焼き捨てて、彌陀の世界へと「心頭滅却すれば、火もまた涼し」と直ちに入ることを言う。

「らいがう」「來迎」。

「すくい」「救ひ」或いは「掬ひ」。歴史的仮名遣は誤り。

「ざいしよ中(ちう)」「在所中(ぢう)」村中(むらじゅう)。

「ふれをまはし」「觸れを𢌞し」。

「わうじやういたし候ふ」「往生致しさふらふ」。

「まいり給へ」「參りたまへ」。その火中入定のさまをどうか詣でてご覧あられよ。禅定は、その過程を見守ったり、遺体に触れるだけでも功徳があると考えられていた。

「しゆしやうなる」「殊勝なる」心打たれるさま。神々(こうごう)しいさま。

「かんるいをながし」「感淚を流し」。

「ざいざい、所々より」「在々、ところどころより」。方々の村々から。

「おがみにまいり」「拜みに參り」。

「くんじゆ」「群集(くんじゆ)」。

「一間四はう」「一間(いつけん)四方」。一メートル八十二センチメートル弱。

「石がきをつみ」「石垣を積み」。

「炭(すみ)たき」「炭」を「焚き」。

「白衣(はくゑ)にあたらしき衣をちやくし」下着としての白衣(びゃくえ)の単衣(ひとえ)の上二に未だ着していない新しい僧衣をつけ。

「もうすをかぶりて」「帽子(もうす)を被りて」。「帽子(もうす)」僧の被る帽子・頭巾。「モウ」は呉音。「ス」は唐音。宗派により各種あるが、天台宗では正装の著具の一つとして普段から用いる。私は本文を読んでいる最中は、ここは最澄の肖像で知られる天台・真言両宗で高僧が用いた、縹色(はなだいろ:薄い藍色。浅葱 (あさぎ) と藍の中間の色で「花色」とも言う)の絹で仕立てた縹帽子(はなだもうす)であろうか考えた。それは帽子と言うよりは、顔面以外を包み頸の周囲を包んで垂らしたタイプの頭巾+ネッカチーフのようなものである。或いは、入定僧の木乃伊(ミイラ)によく被せられてある観音帽子(というのかな?)みたようなものを想起したのだが、しかし、挿絵を見ると、違う。しかし、こういう形のものはあんまり見たことないなぁ。なんかチベットのお坊さんのみたような感じがして、この絵の帽子、正直、違和感、あるんやけど。ぶっちゃけ寺のお坊さん、説明して呉れはらへんか?

「くはんねん」「觀念」。仏教に於ける瞑想法の一つで、精神集中を行い、仏・浄土の景観・仏法の真理などを心に思い描き、思念することを指す。「あきらめる」ことではない。但し、火中入定という苛酷な行を行う以上は「覚悟する」というニュアンスは同時に含まれると考えてよい。

「午(むま)の刻」正午。

「三ぞん」三尊。通常は阿弥陀如来とそれに脇侍として従う観音菩薩・勢至菩薩である。「その外廿五のぼさつたち」と続くが、観音・勢至は後者の二十五菩薩にダブる。まあ、問題あるまい。ダブらずに二十五菩薩が実は続いていて、それこそが真の来迎ではなく、狸の仕業、似非の来迎であったというオチで読むのは、深読みし過ぎか。

「しやう、ひちりき、くはんげん」「笙・篳篥・管絃」。

「らいかう」「來迎」。

「ぼうずはやけしにける」「坊主は燒け死にける」。

「そのまに」と、焼け死んで、目出度く火中入定したか、来迎の最終局面たる浄土へと一行が僧を導く奇瑞が見られるか、と人々が固唾を呑んで見守っている、その瞬間。

「あだ」「仇」。]

2016/11/16

サイト版尾形龜之助第二詩集「雨になる朝」〈恣意的正字化版(附 初出稿・第二次稿復元)〉及び第三詩集「障子のある家」〈恣意的正字化版(附 初出稿復元)〉公開

サイト版の

尾形龜之助第二詩集「雨になる朝」〈恣意的正字化版(附 初出稿・第二次稿復元)〉

及び

尾形龜之助第三詩集「障子のある家」〈恣意的正字化版(附 初出稿復元)〉

「心朽窩新館」に公開した。

甲子夜話卷之二 53 深川の妓樓に往し舟、品海に漂出る事  ~ 甲子夜話卷之二 了

 

2―53 深川の妓樓に往し舟、品海に漂出る事

或人云。某壯年の頃、輪王寺宮の近習を勤たりしが、同僚と俱に乘ㇾ舟て深川の妓樓に遊ぶ。折ふし雪降いでゝ止ざりければ、隅田の雪望せんとて、妓二三を携舟を發す。橫渠を過て大川に出、流に泝て行く。時に雪ますます降たれば、屋根舟の蔀を下し、絃歌し、或は拳を鬪はし、種々の興飮するに、隅田に抵ること遲く覺えたれば、一人ふと蔀を揚たるに、一孤舟渺茫たる海中に在り。いづれの處を辨ぜず。舟中の人皆驚駭失色し、妓は號泣す。舡人はいかにと見るに、雪にこゞへ水に溺たりと覺て在らず。皆ますます駭きて爲方を知らず。然ども止べきにあらざれば、人々互に櫓を搖し、千辛萬苦して舟やうやく岸に着ことを得たり。これ舡人溺死して舟自ら北風に吹かれ、退潮に引かれて、品川の海上に出たりしなり。着岸せしは行德の地なりと。可ㇾ笑可ㇾ懼の話なり。

 

■やぶちゃんの呟き

 これを以って「甲子夜話卷之二」は終わる。

「往し」「ゆきし」。

「品海」「しなのうみ」。品川の海。

「漂出る」「ただよひいでる」。

「某」「それがし」。

「輪王寺宮」「りんわうじのみや(りんのうじのみや)」と読む。日光の輪王寺の門跡。ウィキの「輪王寺によれば、明暦元(一六五五)年に後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の第』三皇子であった『守澄法親王が入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称された。親子による世襲ではないが』、『宮家として認識されていた。寛永寺門跡と天台座主を兼務したため』、『「三山管領宮」とも言う。のちに還俗して北白川宮能久親王となる公現法親王も、輪王寺門跡の出身である。輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていた東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある』とある(下線やぶちゃん)。

「乘ㇾ舟て」「舟に乘りて」。

「降いで」「ふりいで」。降り出して。

「止ざりければ」「やまざりければ」。

「雪望せん」「ゆきみせん」。

「携」「たづさへ」。連れて。

「舟」降雪中であるから、船頭合わせて六、七人以上となれば、相応の柱掛を配した屋根を持った屋形船風の中型のものである。後で「屋根舟の蔀」(しとみ:蔀戸。格子を組んで間に板をはさんだ戸。日光・風雨を遮るための遮蔽物)「を下」(おろ)「し、絃歌し、或は拳」(けん:拳遊び。恐らくは数(かず)拳で、二人が互いに片手の指で数を示すと同時に双方の出した数の合計を言い、当たった方が勝ちとする大人の遊び)「を鬪はし、種々の興飮」(「きよういん(きょういん)」と音読みしておく。遊戯・音曲に興じ、酒肴に耽り盛んに飲むこと)「する」とあるから、相当の大きさがなくてはならない。

「橫渠」「よこぼり」。横十間(よこじっけん)堀のこと。現在の東京都墨田区及び江東区を流れる運河である横十間川の古称。深川の東方直近。(グーグル・マップ・データ)。

「流に泝て行く」「ながれにさかのぼりてゆく」。

「抵る」「いたる」。至る。堀(運河)を抜けて西の隅田川に突き当たる。

「揚たるに」「あげたるに」。

「舡人」「ふなびと」。「舡」は「船」と同義。

「雪にこゞへ水に溺たりと覺て在らず」「覺て」は「おぼえて」。雪に凍えて足を滑らして水中に落ち、溺れてしまったかと思われ、舟の舳にも艫にもおらぬ。

「駭きて」「おどろきて」。

「爲方」「せんかた」。

「然ども止べきにあらざれば」「しかれどもやむべきにあらざれば」。かといって、これで諦めてしまうわけにはゆかぬので。当たり前じゃん!

「搖し」「ゆるがし」。

「千辛萬苦」「せんしんばんく」様々の苦労をすること、非常に多くの難儀や苦しみ。

 「着」「つく」。

「退潮」「ひきしほ」。

「行德」現在の千葉県市川市行徳(ぎょうとく:グーグル・マップ・データ)。品川沖を現在のお台場辺りとするならば、行徳は東北東十五キロメートルはある。引き潮の中で、江戸湾を西に行くには相当な労力がかかったであろう。

「可ㇾ笑可ㇾ懼の話」「わらふべくおそるべきのはなし」。

甲子夜話卷之二 52 白川少將、元日、烏帽子の緒に元結を用らるゝ事

2-52 白川少將、元日、烏帽子の緒に元結を用らるゝ事

白川少將【定信】、四位の侍從にて老職の上坐となりしとき、阿部伊勢守は【正倫、福山候】老職の末なりしが、新歳の御禮席に、烏帽子の緒を兩人とも元結にせられける。此時世評に、伊勢守當職間なきゆえ、飛鳥井家の免狀來らず、同列の中、勢州獨り元結用らるゝを氣の毒に思ひ、上坐の白川この如く爲(セ)られしと云しは、俗評なるべし。烏帽子に紫の掛緒を用ゆること、もと蹴鞠の式にして、飛鳥井家の免を得て用ゆること面白からぬことゝ思はれ、白川は元結にせられしも知るべからず。人心の歸することは不思議なるものにて、同列の人を會釋して用られしなど、人より押あてによき方へおも向け云成せり。

■やぶちゃんの呟き

「白川少將【定信】、四位の侍從にて老職の上坐となりしとき」松平定信が老中上座で勝手方取締掛となり、侍従を兼任したのは天明七(一七八七)年六月十九日のことであった(ウィキの「松平定信」に拠る)から、これは翌天明八年一月一日(グレゴリオ暦二月七日)の新年拝賀の式の折りである。

「阿部伊勢守」「【正倫、福山候】」備後福山藩第四代藩主阿部正倫(まさとも 延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)。ウィキの「阿部正倫によれば、天明七年三月七日に寺社奉行(奏者番兼務)から老中に『抜擢されるなど、順調な出世街道を歩んでいた。ところが、老中就任を祝う臨時税を領民に課そうとしたところ、藩領全域を巻き込んだ藩史上最大の一揆(天明大一揆)が勃発する。また、松平定信を中心とした改革派の攻勢により、失脚した田沼派に属した正倫は立場を失い、病を理由に』僅か十一ヶ月で天明八年二月二十九日)に老中を辞任している。

「元結」髪の髻(もとどり)を束ねる紐や糸。近世のそれは和紙を縒(よ)った「扱(こ)き元結」が主であった。この記載から見ると、これは当時の武家の正装の際の烏帽子の内側にセットされている小結(こゆい:烏帽子を髻に縛り付けるための紐)ではなく、外へ垂れた装飾用のそれを指すようで(でなければ外からは見えない)、それらは当時は恐らく組紐などの紙縒りでないものを使うのが普通だったのであろう。それが如何にも質素な元結の紐であったというのである。質素倹約を旨とした定信のそれは腑に落ちるわけだが、以下を読むと定信が正倫を気遣った仕儀であったというのである。但し、静山はそれを俗世間の流言飛語の類いとして退けるのが本条の主意。

「伊勢守當職間なきゆえ、飛鳥井家の免狀來らず」阿部正倫が老中に就任して間もない頃であったので(しかしね、天明七年三月七日で十ヶ月も前なんですけど?)、飛鳥井家から烏帽子着用の免許状の送付が間に合わず。よく判らないが、ネット検索をすると、蹴鞠の宗家として知られた飛鳥井家から、各種の階梯に於ける装束着用を許す免許状というものが実際に残っている。ここでは恐らく、老中職の烏帽子に用いる紐が色や作り(組紐など)が特殊なものであり、それを免許状なしには使用出来なかったのであろう。

「掛緒」「かけを(かけお)」。「烏帽子掛」などとも称し、立(たて)烏帽子や風折(かざおり)烏帽子(立烏帽子の頂きが風に吹き折られた形の烏帽子。狩衣着用の際に被り、右折りは上皇、左折りは一般が用いた。「平礼(ひれ)烏帽子」或いは単に「かざおり」とも称した)に用いる掛紐。優れたサイト「烏帽子」によれば、『通常は紙捻(こびねり)で、勅許が在った場合のみ紫の組紐を用いた。紙捻を用いる際は、アゴの下で結び切りにするのに対して、組紐は蝶結びにして長く結び垂れた』とある。本条の細部が見えてくる。

「もと蹴鞠の式にして、飛鳥井家の免を得て用ゆること面白からぬことゝ思はれ、白川は元結にせられしも知るべからず」静山は、その紫の烏帽子の掛緒の着用が、定信が公家の武家から見ればおぞましい糞のような遊びであると認識していた(推理している静山も、であろう)蹴鞠のくだくだしい規則に拠るものであり、それを糞のような飛鳥井家に拝謝して使用許可状をわざわざ貰い、使用しなければならないというのを、面白くなく思ったからしなかったのであり、その定信侯の不快拒絶を世間の者どもは知らなかったのである、というのである。目から鱗。

「人心の歸することは不思議なるものにて」世間の人心の帰するところの推断というものは、まっこと、意外で、摩訶不思議な噴飯物であって。

「同列の人を會釋して用られしなど」同列の老中である御方(では実はない。首座と末席では天と地である)に「會釋」(「ゑしやく(えしゃく)」。ここは他人の気持ちを思いやることの意)、則ち、斟酌して、阿倍正倫が身の狭い思いをせぬようにと、わざわざ元結を用いられたのだった、などと。

「人より押あてに」第三者としての当て推量によって。

「よき方へおも向け云成せり」。「よきかたへ赴けいひなせき」。自分の好みの方に牽強付会して勝手に解釈し、それをまた風聞したものに過ぎぬ。如何にも、毅然とした古武士のような静山の切れ味のある謂いではないか。

甲子夜話卷之二 51 御坊主某、年老て松平乘邑の容貌を語る事

2―51 御坊主某、年老て松平乘邑の容貌を語る事

松平乘邑は述齋の實祖父なれば、その容儀等いかなる人にやと尋しに、述齋は實父晩年の子なれば、時世大に違ひ、聞傳ふる人さへ少かりしとぞ。西城御開のとき、政府の使令に供する坊主某【名忘】、年老て八十に餘れる者の有しが、是が申たるは、君は左近將監殿の御孫なるが、彼殿は御存も有まじ。某は少年にて御老中附を勤し故、左近將監殿の、正しく御容貌をも記臆せり。御長は常人より矮く御小袖のゆきもたけも短くして臂も見ゆべき計、御袴より足袋の間少し肉色見えけるとぞ。君は外に似玉ふ所なし。但御眼中のきらめく所、いかにも御孫よと存らるゝと云けるとなり。乘邑の人體はこれにて想像せらる。

■やぶちゃんの呟き

「松平乘邑」「まつだいらのりさと」老中。複数回既出既注。例えばを参照。

「述齋」昌平坂学問所長官林述斉(はやしじゅっさい)。複数回既出既注。例えばここを参照。

「實祖父」林述斉は林家への養子で、実父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)であり、彼はその三男松平乗衡として生まれた。乗薀の実父が乗邑である。

「述齋は實父晩年の子」乗薀は享保元(一七一六)年生まれで、天明三(一七八三)年死去、林述斉は明和五(一七六八)年生まれであるから、乗薀満五十二の時の子である。

「西城御開のとき」不詳。大阪城の開城(慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」)や江戸城西の丸(西城とも呼称する)を考えたが、その時に幕府伝令役を担当した茶坊主としても、林述斉が対面出来る「八十に餘れる者」ぐらいでは年齢が全く足りない。そもそもそれらでは直ぐ後の乗邑の老中附の「少年」と齟齬する。識者の御教授を乞うものである。

「左近將監」松平乗邑の官位。

「某は」「それがしは」。

「御長」「おんたけ」。

「矮く」「ひくく」。

「ゆきもたけも」「裄も丈も」着物の背縫いから肩先を経て袖口までの長さを言う「肩ゆき」もその袖の縦の長さも。

「臂」「ひじ」。

「計」「ばかり」。

「君は外に似玉ふ所なし」見た目、物理的には、このちんちくりん状態のみしか林述斉には似ていないというのである。事実としても如何にも無礼千万ではないか!? だからこそ次の眼光の鋭きことを述べて、帳消しとしているのかも知れぬ。

「存らるゝ」「ぞんじらるる」。

「乘邑の人體はこれにて想像せらる」寧ろ、述斉のそれだべ?!

甲子夜話卷之二 50 鷹司准后、關東下向のときの事

2―50 鷹司准后、關東下向のときの事

去春、鷹司准后參向ありしとき、桑名渡海の折節、天氣能、海面穩なりければ、舟中にて詠哥もあり。又奏樂も歸春樂、靑海波などありけるとなん。又催馬樂の伊勢海を歌はれしよし。繪島參詣の時、辨天の窟の前に海へ出たる大石あるに氈など敷、奉納とて琵琶を彈ぜられ、其音海波の響に通ひて、いと興あることなりしと云。寉岡は其前囘祿せしかば、假屋へ參拜あり。これも奉納の樂せらるべしとのことなりしに、准后殿參詣なればとて、宮付の伶人ども、田舍めきたるあやしき吹物にて、賀殿を奏し待受たる所へ參られ、代々の武家崇奉の宮居なればとて、武德樂を笛もて吹出され、陪從の輩、各諸管を合奏しければ、田舍伶人みな管を置て感聽しけりとなり。流石は攝家の身がら相應の殊勝なることどもなりき。府に着の後、水戸殿は間柄ゆへ、互に往來もありしが、一日准后殿、宰相殿合樂せらるべしと云ことになり、准后殿は音取を吹べしと云れしに、宰相殿は調子を吹んと云はれ、これには准后殿こまられしとなり。東府の文物盛なること、此一つにても知るべし。又宰相殿邸へ准后殿を招かれしとき、後樂園など見せられしに、准后殿調馬の所望あり。俄に水戸殿にて有合ふ馬を、家士に乘らせて觀せ玉ひしとぞ。准后殿は馬好みなりとぞ。發程の日は、仙臺より贐に送れる馬に騎りて旅館を立れしと云。仙臺も間柄なり。

■やぶちゃんの呟き

「鷹司准后」この時代の「鷹司」の「准后」というと、藤氏長者で従一位・関白であった鷹司政熙(たかつかさまさひろ 宝暦一一(一七六一)年~天保一二(一八四一)年)で、「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月であるが、寛政一二(一八〇〇)年に彼は准三后(じゅさんごう:次注参照)となっており、摂関准后は文化一二(一八一五)年に宣下されてはいる。しかし、この当時(以下で推定するように文政四(一八二一)年)では既に六十歳を超えており、下向云々やこの「鷹司准后」の極めて活発な行動を見る限り、どうも相応しくない。とすると、彼の嫡男鷹司政通(寛政元(一七八九)年~明治元(一八六八)年)ならば、満三十二歳で、以下のシチュエーションにしっくりくる。彼はこの直後の文政六(一八二三)年に関白に就任、後の天保一三(一八四二)年には太政大臣に就任、安政三(一八五六)年に辞任するまで三十年以上の長期に亙って関白の地位にあり、朝廷内で大きな権力を持った。彼への摂関准后は安政三(一八五六)年の宣下であるが、それ以前に父同様の准三后を受けていたものと思われる。そもそも「鷹司准后」というと彼の呼称としての方が知られているからでもある。誤りであれば御指摘戴きたい。

「准后」は「じゆごう(じゅごう)」で「准三后(じゅさんごう)」の略。平安以降、三宮(太皇太后・皇太后・皇后)に準ずる待遇として年給を給せられた功労者を指し、公卿・武官・僧侶なども任ぜられた(説明に「三宮」が挙げられ、しかも「后」とあるために誤り易いが、男女を問わない)。親王・法親王・摂政・女御・大臣などが対象となったが、後には給付はなくなって名目上の名誉称号的なものとなった。「じゅんこう」と読んでもよい。准三后(准三宮とも)のこと。

「去春」前に記した通り、「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月であるから、これはその年の春のことか(以下の「其前囘祿せしかば」を参照のこと)。但し、鷹司政通がこの年に下向した事実は行き当たらなかった(ある書物がそれに答えてくれると思うのだが、生憎、それを私は所持しない)。識者の御教授を乞う。

「能」「よく」。

「穩」「おだやか」。

「歸春樂」不詳。これは或いは同音「きしゅんらく」の「喜春樂」の誤りではあるまいか。雅楽の舞曲で唐楽の一曲で四人舞い。

「靑海波」「せいがいは」と読む。知られた雅楽の唐楽の一曲。二人舞い。舞姿が優美なことで知られる。

「催馬樂」「さいばら」と読む。古代歌謡の一つで、平安時代に民謡を雅楽風に編曲したもの。

「伊勢海」「いせのうみ」と読む。催馬楽でも最も知られた一曲。歌詞は、

〽伊勢の海の 淸きなぎさに しほがひに

〽なのりそや摘まむ 貝や拾はむや 玉や拾はむや

室町末の動乱期に一度、伝承が絶えたが、寛永三(一六二六)年に再興された。

「繪島」江ノ島。

「辨天の窟」現在の江ノ島の裏手にある御岩屋。稚児が淵から下りた俎板岩辺りの崖下か。

「氈」「もうせん」。

「敷」「敷(し)き」。

「響」「ひびき」。

「寉岡」「つるがおか」。鶴岡八幡宮寺。

「其前囘祿せしかば」鶴岡八幡宮寺はまさに、この文政四(一八二一)年一月十七日の夜、西側の雪ノ下村で発生した火災のために、上宮・武内社・楼門・廻廊・白旗社・大仏供所・愛染堂・六角堂・裏門鳥居などの境内の主要な建物が焼失している(ここは昭和三四(一九五九)年吉川弘文館刊「鎌倉市史 社寺編」の鶴岡八幡宮の記載に拠った)。

「宮付の伶人」「みやづきのれいじん」。鶴岡八幡宮専属の雅楽を奏する楽人(がくにん)。

「吹物」「ふきもの」。管楽器。

「賀殿」「かてん」と読む。雅楽の唐楽の舞曲の一つ。四人舞い。

「待受たる」「まちうけたる」。

「武德樂」「ぶとくらく」。こちらの記載に、本来は笛の演奏だけで演伎を伴っていたものとされるが、その後、演技は忘れられて管楽部楽人らによって笛の曲として伝承され、後に雅楽管弦の楽曲として作調編曲され、今日に伝えられているとある。

「吹出され」「ふきいだされ」。

「陪從」「ばいじゆう」。一般には天皇や貴人などの供として従う人を指すが、限定的な用法として、賀茂・石清水・春日のそれぞれの神社の祭りの時などに舞人と伴に参向し、管弦や歌の演奏を行う地下(じげ)の楽人を指し、ここは鷹司卿の御成りに付き従ったまさにそうした朝廷方の伶人を指しているから、後者限定的な意でとるべきである。

「輩」「やから」。

「水戸殿は間柄ゆへ」鷹司政通の正室鄰姫は第七代水戸藩主徳川治紀の娘であった徳川清子である。

「往來」言わずもがなであるが、書簡上のやりとりを指す。

「宰相殿」これが文政四(一八二一)年のことであれば、水戸藩第八代藩主徳川斉脩(なりのぶ 寛政九(一七九七)年~文政一二(一八二九)年)である。当時、満二十四歳。

「合樂」「かふがく」と音読みしておく。合奏。

「音取」「ねとり」。雅楽演奏の中の管弦に於いて行われる、一種の最初の「音合せ」的楽曲。この「音取」の規模を大きくしたものに以下に出る「調子」或いは「品玄(ぼんげん)」などがあって、後にこれが芸術的・形式的に高められ、演奏形態も一定化し、楽曲の演奏に先立って必ず奏される曲となったものである。

「これには准后殿こまられしとなり」恐らくは鷹司准后は「音取」を発展拡大させた新しい雅楽である「調子」を演奏したことがなかったのである。

「東府の文物盛なること」江戸の文化の、いや盛(さか)なること。

「宰相殿邸」水戸藩江戸上屋敷。現在の東京都文京区後楽とその周辺。

「後樂園」現在の小石川後楽園。

「有合」「ありあふ」。有り合せの。突然の兵馬調練観覧の御所望であったために、急遽、寄せ集めたのである。

「發程」帰洛出立。

「仙臺」仙台伊達藩。

「贐」「はなむけ」。

「仙臺も間柄なり」東山天皇の孫で鷹司家の養子となった第二十一代当主鷹司輔平(政通の祖父)の子政熙(政通の父)の妹の興姫は陸奥仙台藩第八代藩主伊達斉村(なりむら)の正室誠子(のぶこ)である。

諸國百物語卷之五 七 三本杉を足にてけたるむくいの事

 

    七 三本杉を足にてけたるむくいの事

 

 ある天だいの僧、しょこくしゆぎやうに、下人一人、めしつれ、出でられけるに、江戸より日光に行きてかへるさに、かの下人、三本杉を見て、

「おとにきゝしには、おとりたる杉かな。かやうの杉は上がたには、なにほどもあり」

とて、足にて、けちらかしかへりければ、その夜、ふるひつき、いろいろの事、口ばしりける。僧これを見て、いかさま、ましやうのわざならんと思ひ、天台のぎやうりきをもつて、かぢし給へば、そのとき、下人、口ばしりけるは、

「あまりに、かぢつよきゆへ、たまられず。もはや、かへるぞ」

と云ふ。

「はやはや、すがたをあらはし、かへれ」

との給へば、大きなる石ぼとけとなる。僧、

「いやいや、まことのすがたを、あらはせ」

と、かぢし給へば、又、たけ一丈ほどの坊主となり、まなこはひたいにひとつあり。僧、みて、

「これも、まことのすがた、ならず」

とて、なをなを、かぢをせられければ、たけ十丈ほどの蛇となり、ひたいに五尺ばかりなる、つの、ひとつあり。僧、これを見て、

「ぜひ、まことのすがたをあらはさずは、いでいで、めに物みせん」

とて、いらだかのじゆずにてたゝき給へば、

「もはや、かへり候ふ。女(によ)たいにて、身がけがれて有り、行水(ぎやうずい)させ給へ」

といふ。

「さらば、行水せよ」

とて、下人に、ゆをあびせければ、しばらくありて、

「はや、かへるぞ。今よりのちは來たるまじ。われを、あしにて、けたるゆへ也。あまりにかぢのつよければ、いとま申して、さらば」

とて、十六、七なる女のすがたとなり、せど口よりかへるとみへしが、たちまち下人は正氣になりけると也。

 

[やぶちゃん注:「三本杉」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では、『日光街道にある著名な大杉。神木とされた』とのみあって現在もあるのかないのか、ないなら、かつての植生地の住所は何処かも、全く書いてない。『神木とされた』と過去形になっているから、今は神木でなく、現存しないと読めるが、どこにあったかは考証するべきところである。「日光」の「現存」する「神木」の「三本杉」なら、日光市山内にある二荒山(ふたらさん)神社の御神木の中に見出せるが、本文では「江戸より日光に行きて」、その「かへるさ」、帰りの途次に「三本杉を見」たとあるのだから、これは二荒山神社(ここは日光そのもので帰る途中とは絶対に言わぬ)のそれではない。ところがこれ、調べてみると、神木のはずで、伝承も当然あるに決まってるのに、ちっとも特定出来ないのである。検索をしながら、これはどうも「日光街道の三本杉」というのは現存・旧称(非現存)ともに複数ある、あったように思われる。所謂、かつての日光街道の一里塚には「三本杉」があった場所が複数箇所あったのであろう。もし、この「三本杉」が「ここだ」と特定出来る方がおられれば、是非、御教授あられたい。

「足にてけたるむくい」「足にて蹴たる報ひ」。歴史的仮名遣は誤り。しかし何となくショボい。真に杉の神木の神霊ならば、もっと毅然として僧の調伏に応えるであろう。高僧相手に無駄に変化(へんげ)すること、穢れた女体(にょたい)であると告白すること、一度は大蛇に変じていること、最後も娘(女)姿となって帰って行くところからは、「われを、あしにて、けたるゆへ也」(我を、足にて、蹴たる故(ゆゑ)なり/歴史的仮名遣は誤り)と言っているが、実は、この杉に巣食うて老成した蛇の変化(へんげ)に過ぎないと私は読む

「天だい」「天台」。老婆心乍ら、天台(宗)の「台」は「臺」とは別字であって「天臺宗」とは書かない。書いたら、間違いである。

「おとにきゝしには、おとりたる杉かな。かやうの杉は上がたには、なにほどもあり」「天下に名を轟かせておるちゅう割にゃ、何や、ショボ臭い杉でんなぁ。こんなん杉、上方にゃ、なんぼでもおますで。」。

「けちらかしかへりければ」「蹴散らかし歸りければ」。ボコボコと草鞋の底で蹴りまくったのであろう。

「ふるひつき」「顫ひつき」。癲癇様(よう)の発作を起こしたのであろう。

「いかさま」「如何樣」。ここは副詞で「きっと」。

「ましやうのわざ」「魔性の業(わざ)」。「業」は仕業(しわざ)。

「ぎやうりき」「行力」。仏道の修行によって得られる法力。仏教用語。

「かぢ」「加持」。

「一丈」三メートル強。

「まなこはひたいにひとつあり」「眼は額(ひたひ)に一つ有り」。歴史的仮名遣は誤り。

「十丈」三十メートル強。

「五尺」一メートル五十一センチ強。

「いでいで」これは感動詞で、ここは「さあさあ!」という怒気を含んだ掛け声。

「めに物みせん」「目に物見せん」。「はっきり判らせてやる!」。特に相手が半可通であったり、いい加減である場合、或いはこちらを甘く見ている際の、脅迫的言辞で、「こっぴどい目に遇わせ、思い知らせてやろうぞッツ!」のニュアンスである。

「いらだかのじゆず」「苛高(いらだか)の數珠(じゆず)」算盤の玉の如く平たく角(かど)の高い玉を連ねた大きな数珠。修験者が用い、揉むと大きな高い音がする。単に「いらだか」「いらたか」とも呼ぶ。まさに能でワキ僧が亡霊を調伏する際に揉む、あれ、である。ここではそれで以って憑依した下人を叩いているのである。痛そう!

「もはや、かへり候ふ。女(によ)たいにて、身がけがれて有り、行水(ぎやうずい)させ給へ」何だか、妙に神妙でお節介な変化(へんげ)である。――妾(わらわ)は「女體」(にょたい)であるから、この下男の男はその私に憑依されて、その「身が」穢れているからして「行水」させなされよ――というのである。後遺症まで心配して呉れる蟒蛇(うわばみ)の変化(へんげ)というのんも、これ、なんや、ケッタイやなぁ。

「ゆをあびせければ」「湯を浴びせければ」。]

2016/11/15

「障子のある家」 後記   尾形龜之助 (附 「後記」の内・父母宛初出復元~「雨になる朝」恣意的正字化版(一部初出稿復元)~了

 

    後記

 

        泉ちやんと獵坊へ

 

 元氣ですか。元氣でないなら私のまねをしてゐなくなつて欲しいやうな氣がする。だが、お前達は元氣でゐるのだらう。元氣ならお前たちはひとりで大きくなるのだ。私のゐるゐないは、どんなに私の頰の兩側にお前達の頰ぺたをくつつけてゐたつて同じことなのだ。お前達の一人々々があつて私があることにしかならないのだ。

 泉ちやんは女の大人になるだらうし、獵坊は男の大人になるのだ。それは、お前達にとつてかなり面白い試みにちがひない。それだけでよいのだ。私はお前達二人が姉弟だなどといふことを教へてゐるのではない。――先頭に、お祖父さんが步いてゐる。と、それから一二年ほど後を、お祖母さんが步いてゐる。それから二十幾年の後を父が、その後二三年のところを母が、それから二十幾年のところを私が、その後二十幾年のところを泉ちやんが、それから三年後を獵坊がといふ風に步いてゐる。これは縱だ。お互の距離がずいぶん遠い。とても手などを握り合つては事實步けはしないのだ。お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犧牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始つたことなのか、これは明らかに錯誤だ。幾つかの無責任な假説がかさなりあつて出來た悲劇だ。

 ――考へてもみるがよい。時間といふものを「日」一つの單位にして考へてみれば、次のやうなことも言ひ得やうではないか。それは、「日」といふものには少しも經過がない――と。例へば、二三日前まで咲いてゐなかつた庭の椿が今日咲いた――といふことは、「時間」が映畫に於けるフヰルムの如くに「日」であるところのスクリンに映寫されてゐるのだといふことなのだ。雨も風も、無數の春夏秋冬も、太陽も戰爭も、飛行船も、ただわれわれの一人々々がそれぞれ眼の前に一枚のスクリンを持つてゐるが如くに「日」があるのだ。そして、時間が映されてゐるのだ。と。――

 又、さきに泉ちやんは女の大人獵坊は男の大人になると私は言つた。が、泉ちやんが男の大人に、獵坊が女の大人にといふやうに自分でなりたければなれるやうになるかも知れない。そんなことがあるやうになれば私はどんなにうれしいかわからない。「親」といふものが、女の兒を生んだのが男になつたり男が女になつてしまつたりすることはたしかに面白い。親子の關係がかうした風にだんだんなくなることはよいことだ。夫婦關係、戀愛、亦々同じ。そのいづれもが腐緣の飾稱みたいなもの、相手がいやになつたら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に女にも男にもなれるのだ。

  

        父と母へ

 

 さよなら。なんとなくお氣の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。

 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといつてはどうにもならないことなのでせう。又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるより外ないのならそれもしかたがないのですが、それならば人間の子とはいつたい何なのでせう。何をしに生れて來るのか、唯親達のまねをしにわざわざ出かけてくるのならそんな必要もないではないでせうか。しかもおどけたことには、その顏形や背丈がよく似るといふことは、人間には顏形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか、それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる爲にとでもいふことなのでせうか。だが、たぶんこんなことを考へた私がわるいのでせう。又、「親子」といふものが、あまり特種關係に置かれてゐることもわるいのでせう。――私はやがて自分の滿足する位置にゐて仕事が出來るやうにと考へ決して出來ないことではないと信じてゐました。そのことを私は偉くなると言葉であなたに言つて來たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。私の言葉をそのまゝでないまでもいくらかはさうなるのかも知れないと思はせたことは詫びて許していたゞかなければなりません。

 

[やぶちゃん注:この遺書そのものとも言うべき「後記」とともに第三詩集「障子のある家」は終わっている。本私家版詩集出版は昭和五(一九二九)年九月であるが(この春頃から尾形龜之助は餓死自殺を口にするようになっていた)、その後凡そ十二年後の昭和一七(一九四二)年十二月二日午後六時十分、五歳の時に発症した宿痾の『喘息と長年の無頼な生活からくる全身衰弱のため、だれにもみとられず永眠』している(引用は思潮社版現代詩文庫の年譜の記載から。私の非常に好きな哀しいフレーズであるからである)。

「泉ちやん」尾形龜之助と最初の妻タケとの間にもうけた長女尾形泉(「いづみ」か)。大正一三(一九二四)年四月十六日生まれ。尾形龜之助が孤独のうちに亡った時は満十八歳であった。

「獵坊」同じく龜之助と妻タケとの間にもうけた長男尾形猟(本文は正字化した。「りょう」と読むか)。大正一五(一九二六)年十二月二十二日生まれ。龜之助死亡時は満十五歳。泉と猟は死の前年に龜之助の妹夫婦の家でここに出る龜之助の祖母や父母と暮らすようになり、当時、尾形は二度目の妻優とその間にもうけた三人の子(次男茜彦(あかひこ)・三男黄(おう)・次女湲(けい))とも別居して独りで住んでいた。

「お祖父さん」尾形安平(あんぺい 安政五(一八五八)年~昭和一三(一九三八)年)。本姓は高山で、幼名は龜之助。実父は奥羽街道大河原宿(現在の宮城県の仙南地方の中央に位置する大河原町(おおがわらまち))で旅籠を営んでいた。次注のもととともに、藩政時代(伊達藩)から大河原で酒蔵を営んでいた初代尾形安平の夫婦養子となり、明治三〇(一八九七)年に家督を継ぐや、順調に経営されていた醸造業を廃して仙台へ移住、実業には就かず、後は概ね、先代の資産を蚕食して生きた。

「お祖母さん」尾形もと(安政五年~昭和一八(一九四三)年)。旧姓平井。大河原出身。「一二年ほど後を、お祖母さんが步いてゐる」と龜之助は述べているが、これは生年を指しているから、事実とは合わない。ご覧の通り、彼女は夫と同年生まれで、誕生日も八月十日で夫安平より五日早いからである。恐らく、祖母は孫尾形龜之助に自身の年齢をサバを読んで伝えてあったのであろう。

「父」尾形十代之助(とよのすけ 明治一一(一八七八)年~昭和二一(一九四六)年)は二代目安平の長男。『ホトトギス』の虚子選句にしばしば登場していたという趣味人でもあった。父同様、旧家尾形家の家産を食い潰して生きたようである。

「母」尾形ひさ(明治一三(一八八〇)年~昭和四一(一九六六)年)は旧姓武田。父は宮城県南部の阿武隈川の河口に位置する亘理町(わたりちょう)の酒造家。安平以下、ここまでのデータは一九七九年冬樹社刊の秋元潔「評伝 尾形龜之助」に拠った)。

 

「飾稱」「しよくしよう(しょくしょう)」或いは「かざりしよう(かざりしょう)」と読むか。有名無実の指し示すための名ばかりのもので中身のない名・呼称。の謂いであろう。

 

 本「後記」の二篇は、

 

    父と母と、二人の子供へおくる手紙

 

を原題として、昭和五(一九三〇)年四月発行の『桐の花』第九号に初出している。底本の対照表によれば、後半の父と母へ送る「後記」が敬体ではなく常体で書かれており、表現も有意に異なり、相当にきつい言い方になっている。ここではその後半の父と母へ送る「後記」部分の初出形のみを示す。

   *

 

 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまりに古いのでいますぐといつてどうにもならないことらしい。人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるよりほかないのならそれもしかたがないが、人間の子とはいつたい何なのだらう。何をしに生れて來るのか。親達のまねをしにならばわざわざ出かけて來る必要もないだらうではないか。しかもおどけたことには、その顏形や背丈がよく似るといふは、人間には顏形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか。それとも、親父の古帽子などがその子供にもかぶれる爲にとでもいふことなのか。全く、顏が似てゐるからの、「親子」でもあるまいではないか。又、人間がその文化を進めるために次々に生れて來るのなら、今こそそのうけつぎをしている俺達は人間の何なのだ。遺傳とは何のことなのだ。物を食つてそれがうまいなどといふことも、やがては死んでしまふことにきまつてゐるといふ人間のために何になることだ。俺達に興奮があるなどとは、人間といふものが何かにたぶらかされてゐるのではなくてなんだ。俺達は先づ「帽子」だなどといふ、眼に見えて何んにもならない感情を馬鹿げたこととして捨ててしまはふではないか。

 

   *

「今こそそのうけつぎをしている俺達は」の「いる」、末尾の「捨ててしまはふではないか」の「しまはふ」はママ。]

おまけ 滑稽無聲映畫「形のない國」の梗概   尾形龜之助

 

    おまけ 滑稽無聲映畫「形のない國」の梗概

 

 形のない國がありました。飛行機のやうなものに乘つて國の端を見つけに行つても、途中から歸つて來た人達が歸つて來るだけで、何處までも行つた人達は永久に歸つては來ないのでした。勿論この國にも大勢の博士がゐましたから、どの方向を見ても見えないところまで廣いのだからこの國は圓形だと主張する一派や、その反對派がありました。反對派の博士達は三角形であると言ふのでしたが、なんだか無理のありさうな三角説よりも圓形説の方がいくぶん常識的でもあり「どつちを見ても見えないところまで云云……」などといふ證明法などがあるので、どつちかといふと圓形だといふ方が一般からは重くみられてゐました。圓にしても三角にしても面積をあらはさうとしてはゐるのですが、確かな測量をしたのではないのですからあてにはなりませんでした。或る時、この二つの派のどちらにもふくまれてゐない博士の一人が、突然氣球に乘つて出來るだけ高く登つて下の方を寫眞に寫して降りて來てずいぶん大きなセンセイシヨンを起しましたが、間もなく、その寫眞に寫つた馬のやうな形は國ではなく、雲が寫つたのではないかといふ疑問が起りました。そこでひきつゞいて圓形派の博士達に依つて同じ方法で試めされましたが、今度は尾の方が體よりも大きい狐の襟卷のやうなものが寫つてゐました。三角派だつてじつとはしてはゐませんでした。やはり同じ方法で寫眞を寫して降りて來たのですが、寫つてゐる棒のやうなものが寫眞の乾板の兩端からはみ出してゐたので、どうにもなりませんでした。

 又、これも失敗に終つたのでしたが、大砲の彈丸に目もりをした長い長いこれ位ひ長ければ國の端にとゞいても餘るだろうと誰もが思つたほど長いテイプを結びつけて打つた博士がありました。が、まだいくらでもテイプが殘つていたのに大砲の彈丸は八里ばかり先の原つぱに落ちてゐたのでした。これはあまり馬鹿げているといふので、新聞の漫畫になつて出たりしたので、眞面目なその博士は「これからです」と訪問した新聞記者に一言して、靑い顏をして第一囘の距離をノートに書きとめて更にそのところから第二囘の彈丸を打ちました。この博士は同じことをくりかへして進んで行つてしまつたのです。始めのうちは通信などもあつたのですが、次第にはその消息さへ絶えてしまつて、博士が第一囘の發砲をしてから五年も經過した頃は、街の人達は未だにその博士が發砲をつゞけながら前進してゐることを忘れてしまひました。氣の毒なのはこの博士ばかりではないのですが、出發が出發なだけに困つた氣持になつてしまひます。[やぶちゃん字注:「位ひ」はママ。]

 又、かうした現實派の他に無限大などと言ふ神祕主義の博士達のゐたことも事實でした。この博士達は時間などは度外視してゐたのでせう。雜誌や新聞の紙面に線なんかを引いたりして、測り知れないほどの面積であつても決して無限ではないとかあるとか、實に盛んな論爭を幾百年つゞけてきたことであらう。又、一ケ年の小麥の總收穫から割り出して國の廣さを測り出さうとしたアマチアもありましたが、計算の途中で麥畑でない地面もあるのに氣がついて中止しました。勿論汽車などもすでにあつたのですが、創設以來しきりなしに先へ先へと敷設してゐても、その先がどの位ひあるのかは博士達のそれと同じやうに全くはてしないばかりでなく、最初に出て行つたその汽車は今では何處へ行つても見られないやうな舊式な機關車なので、未だにそれが先へ先へと進んでゐることを思ふと、どう判斷していゝのかわからなくなるのです。それに、レールの幅が昔の三倍にもなつてしまつてゐるのですから、もし最初の人達がひきかへして來ることになつて又幾百年かかるのはいゝとしても、何處かでレールの幅が合はなくなつてゐるにきまつてゐることが心配です。[やぶちゃん字注:「幾百年つゞけてきたことであらう」の末尾の常体表現はママ。「しきりなしに」(「ひつきりなしに」の意であろう。「仕切り」とは読めない)及び「位ひ」はママ。]

 そこには海もありしたがつて港もあるのですが、海は陸よりもゝつとたよりない成績しかあがりませんでした。どうしてこんな國が出來てしまつたかは大昔にさかのぼらなければなりません。大昔といつてもただの大昔ではなく一番の大昔なのです。千年以上も前なのか二萬年も以前のことなのかわからないのです。その大昔に、何處か或る所に一人の王樣がゐて、だんだんに年寄になつて、三人か四人の王子達もすつかり大人になつてゐたのです。そこで、一日王樣は王子達を集めてそのうちから誰かを一人の世嗣に定めることになりました。背の高さをはかつてみたり、足の大きさを較らべてみたりしてみましたが、それでは誰にきめてよいのか王樣にはわかりませんでした。で、一人々々に「お前はどんな王國が欲しいか」と問ひますと、百までしか數を知つてゐなかつた王子は「百里の百倍ある國が欲しい」その次の王子は「百里の百倍ある國の千倍欲しい」などと答へたのですが、豆ほどの小いさな圓を床に畫いて「この外側全部欲しい」と答へた王子とはとても匹敵しませんでした。王樣もその答へにはすつかり感心してしまつて、すぐ世嗣はその王子と決定したのです。その頃は貯金などといふものが流行して、圓そのものに一日いくら月幾分などと錢が少しづつ子を生むやうに利子がついたものです。で、その利子の殖えるのをうれしがつて錢を舐めてみたり利子が異數に加算される方法を發明したり、大勢の人達の貯金を上手に利用したりする社會があつたのです。その王子が最もよくばつてゐたといふので世嗣に選ばれたことは言ふまでもないことです。全く、錢のない人達こそいゝ面の皮だつたのです。いくら働らいても、働らけば働くほどもらつた賃金では足らぬほど腹が空くやうな仕掛に、うまく仕組まれてゐたのですからたまりません。それとは知らずに働らけば暮らしが樂になると思ひこんでゐた人達が大部分だつたのです。そんなわけですから、何も仕事をしないものは「なまけもの」と言はれて輕べつされたり、錢がなければ食へないなどという規則みたいなものさへあつたのです。

 新らしい王樣が位についたときは勿論大變なさわぎだつたのです。旗も立てたしアーチなども作つてその下を通るやうにし、花火もたくさんあげたのです。「正しい數千年の歷史」なのですから、實にたくさんの祭日や記念日があり老王の退位の日もちやんと旗を立てゝ、來年からも同じ日に旗をたてることになつたことは勿論です。王樣は、盜られてはいけないといふので立派な鐵砲や劍をもたした兵隊を國境へ守備に出しましたが、何處まで行つても國境がないのですから、これが如何に大變なことであつたかは、先に述べた博士達のことででもわかる筈です。しかし、新しい王樣が少しでも國を減らさうなどとは思ひもよらなかつたことだけは、それから幾千年かの後そのまゝの廣さの國を博士達が測量しやうとしたことででもわかるのです。後から後からとひつきりなしに國境へ送られた兵隊達は二度と再び歸つては來ませんでした。何處で暮らすのも一生と考へ、かへつてせいせいしていゝと思つた兵隊も中にはゐたのでせうが、住みなれた街から再び歸らぬ旅に出るのですから、別れにくい心殘りもあつたことはあつたのでせう。

 時間が經つてその王樣も死に、その次の王樣も死にました。そして、その次の王樣も死んでしまつたことはあたりまへのことです。百年も千年もの間には次々の何人もの王樣が死んだし、王樣でない人達だつて死んだり生れたりしたのです。初めの頃はほんの二三人の大臣が王樣のそばにゐたのでしたが、だんだんにその數が多くなつて「時計大臣」「紙屑大臣」などといふものまであるやうになつてしまつたので、數百人といふ大臣が王樣の仕事の補佐をするやうになつたのです。

 時計大臣といふのは、自分の時計とちがつた時計を持つてゐる者から見つけ次第に罰金を取つたり時計をたくさん持つてゐるものに勳章を呉れたり、屆けをしないで時計を止めてゐるものを罰したり、街の時計を正確に直して步いたりするのが役目なのです。時には、金の時計は胸ポケツト銀のは胴ポケツト銅のはずぼんポケツト、それから鐵のは足首へなどといふ法律を定めたりもするのでした。又時計の定價をそれぞれ大きさや金屬によつてきめなければならない重要な役もあるのですから時計會社の重い役にも就いてゐなければなりませんでした。紙屑大臣といふのは、主として紙屑やさんの取締りが役目なのです。が自分で屑拾ひに出ることもあるのです。このほかに「鼻糞大臣」これは鼻糞を亂棒に取つては衞生的でないといふので出來た大臣ですが、このほか色々の大臣がゐるのでした。つまらない大臣もあつたもんだと思ふでせうが、「紙屑大臣」だつて「鼻糞大臣」だつて高い位であるばかりではなく、金があつてもつてがなければなれないし、つてだけあつても金がなければどうにもならないのですから、なりたいと思ひながらなれずにゐるうちに死んでしまふ人達だつてたくさんにゐたわけです。こんな風にして、王樣自身ですることがなくなつてしまひましたが、王樣がなければ大臣もないわけなのですからそこはぬけ目のない人達は、よつてたかつて王樣は人ではなく、神樣だといふことにしてしまひました。大臣達は、自分の思ふまゝの世の中をつくり上げると、今度はそれを保護しなければならない立場になりました。そこで色々な特種な法律をたくさんつくつて、足らなければその時に應じて又いくらでもつくることにしました。又、大臣の世襲といふことも問題になつたのでしたが、あまりよくない大臣はもつとよい大臣になつてからそれをきめた方が都合がよいと思つてゐたのでまとまらずにしまひました。

 それから、又、永い時間が經つて、さうした世の中が絶頂にゆきつくと、そこから又變な世の中の方へ動きかけました。「働らかなければ食へない」といふ男の前で「それはこのことなのか」と、餓死自殺をしてしまつてみせるのがゐるかと思ふと、「大臣」の間に黨派が出來て別々に異つた名稱をつけてゐたり、一部の人達が過飮過食を思想的にも避けるやうになると、たちまちそれが流行になつてしまつたり、さうかと思ふと本を讀むほど馬鹿げたことはない、今までは金を出して本を買はされるばかりではなくその内容まで讀まされてゐたのだが、これは向ふで讀者へ讀んでもらうつぐなひとして渡す金高をわれわれが今まで仕拂つてゐたあの「定價」といふところへ刷られてゐなければ噓だ。そのほかに四五日分の日當さへ出してもらはなければならないものにさへ、われわれはうつかりして自分の方から金を出して買つてゐたのだ――といふことがすばらしい人氣を呼んで本が一册も賣れなくなつたり、電車の行つたり來たりするのを見てゐた二人の子供の一人が「朝の一番最始の電車はどつちから先に來るんだ」と言つたことに端を發して、朝に就ては世の學者誰一人として何も知らなかつたことを暴露してしまつたり、最低價額の下宿住ひの或る男が、そこの賄ひだけで死なずに十分生きてゆける筈なのに、時折りカフエーなどに出入してビールやトンカツを食ふといふことが、どういふわけのことであるのかといふことになつて、結局は熱心な學者に依つて生きたまゝ解剖されて腦と胃袋がアルコール漬の標本になつてしまつた等々々――のさうした狀態もそのまゝずいぶん永くつゞくだけはつゞいたのです。[やぶちゃん注:「讀んでもらう」の「もらう」はママ。]

 そして、何時の間にか電車の數が住居者の人口より多くなつてゐたり、警官の數が警官でない者の五倍にもなつてゐるのにびつくりして、最善の方法としてそのまゝに二つのものゝ位置をとりかへたりするやうなことを幾度かくりかへした頃には、人達はてんでに疲れてしまつたのです。そして、あの大砲を打ちながら消息を絶つてしまつたりした博士達のゐた頃からでさへすでに數へきれないほどの時間が經過してしまつてゐるのに、まだこれから來る時間が無限だと聞かされた人達は何がなんだかまるでわからなくなりました。

 一方、何時の頃からか國の形も次第にわかり廣さもわかつて彩色した立派な地圖も出來、その國のほかにもまだたくさんの異つた國のあることを知ると、王樣や大臣達は自分の國がさう廣いやうには思はれなくなりましたが、その綺麗な地圖の中に何一つ自分のものを持つてゐない人達はそれに何らの興味もないばかりでなく、地圖の中の一里四方といふ面積が何を標準にしてきめた廣さなのか更にけんとうもつかないのでありました。王樣や大臣達は彼らが面積とは何であるか知らないのに驚きました。[やぶちゃん字注:「けんとう」はママ。]

 

[やぶちゃん注:本詩篇を以って詩集「障子のある家」の詩篇本文は終わる。なお、尾形龜之助の詩には別に無形国へという一篇がある(リンク先は私の八年前のブログでの電子テクスト。尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注にも採録してある。但し、孰れも本底本を用いた新字版である)。]

 

家   尾形龜之助

 

    

 

 夕暮になつてさしかけたうす陽が消え、次第に暗くなつて、何時ものやうに西風が出ると露路に電燈がついてゐた。そして、夜になつた。私は雨戸を閉めるときから雨戸の内側にゐたのだ。外側から閉めて、何處かへ歸つて行つたのではないのだ。

 毎月の家賃を拂ふといふので、貸してもらつてゐる家を自分の家ときめてゐる心安さは、便所はどこかと聞かずにもすみ、壁にかゝつてゐるしわくちやの洋服や帽子が自分の背丈や頭のインチに合ひずぼんの膝のおでんのしみもたいして苦にはならぬが、二人の食事に二人前の箸茶碗だけしかをそろへず、箸をとつては尚のこと自分のことだけに終始して胃の腑に食物をつめ込むことを、私は何か後めたいことに感じながらゐるのだ。まだ大人になりきらない犬が魚の骨を食ひに來る他は、夜になると天井のねずみが野菜を食ひに出てくる位ひのもので、臺所はいつも小さくごみつぽく、水などがはねて、米櫃のわきにから瓶などが列らんでゐる。又、一山十錢の蕗の薹を何故食べぬうちにひからびさしてしまつたかとは、すてるときに一ツが芥箱の外へころがり出る感情なのであらうか。

 夜の飯がすんで、後は寢るばかりだといふたあいなさでもないが、私は結局寢床に入いつて、夜中に二度目をさまして二度目に眠れないで煙草をのんでゐたりするのだ。ときには天井の雨漏りが寢てゐる顏にも落ちてくるのだが、朝は、誰も戸を開けに來るのではなくいつも内側から開けてゐるのだ。眼やになどをつけたとぼけた顏に火のついた煙草などをくはへて、もつともらしく内側から自分の家のふたを開けるのだ。

 

[やぶちゃん注:「位ひ」はママ。底本の対照表にはないが、「編註」で秋元氏は、初出を『ニヒル一ノ三』(昭和五(一九三〇)年五月発行)及び同年同月の『旗魚』『詩神』と記した後に、『異文あり』と明記する。やはり、実はこの「異稿対照表」なるものは完全なものでないことが判明するのである。]

 

學識   尾形龜之助

 

    學識

 

 自分の眼の前で雨が降つてゐることも、雨の中に立ちはだかつて草箒をふり廻して、たしかに降つてゐることをたしかめてゐるうちにずぶぬれになつてしまふことも、降つてゐる雨には何のかゝはりもないことだ。

 私はいくぶん悲しい氣持になつて、わざわざ庭へ出てぬれた自分を考へた。そして、雨の中でぬれてゐた自分の形がもう庭にはなく、自分と一緒に緣側からあがつて部屋の中まで來てゐるのに氣がつくと、私は妙にいそがしい氣持になつて着物をぬいでふんどし一本の裸になつた。

 (何といふことだ)裸になると、うつかり私はも一度雨の中へ出てみるつもりになつてゐた。何がこれなればなのか、私は何か研究するつもりであつたらしい。だが、「裸なら着物はぬれない――」といふ結論は、誰かによつて試めされてゐることだらうと思ふと、私は恥かしくなつた。

 私はあまり口數をきかずに二日も三日も降りつゞく雨を見て考へこんだ。そして、雨は水なのだといふこと、雨が降れば家が傘になつてゐるやうなものだといふことに考へついた。

 しかし、あまりきまりきつたことなので、私はそれで十分な滿足はしなかつた。

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「何がこれなればなのか」の「これなれば」とは――こうして褌一丁の裸であるのであるからして――の意で、ここは詩人が、『何といふことだらう! これなれば、則ち、――裸なら着物はぬれない――ではないか!』という事実をことさらに始めて発見し、『そいつを一つ実地に研究してやらう』と「するつもりであつたらしい」ということを意味している。]

 

へんな季節   尾形龜之助

 

    へんな季節

 

 次の日は雨。その次の日は雪。その次の日右の眼ぶたにものもらひが出來た。

 午後、部屋の中で錢が紛失した、そして、雨まじりの雪になつて二月の晦日が暮れた。

 少しでも拂らはふと思つてゐた肉屋と酒屋はへんに默つて歸つて行つた。

 私は坐つてゐれないのでしばらく立つてゐた。ないものはないのであつた。盜つたことも失くなつたことも、つまりは時間的なことでしかないやうだ。

 天井に雨漏りがしかけてきて、雨がやんだ。

 

 次の日いくぶん眼ぶたの腫がひいてゐた。

 朝のうちに陽が一寸出てすぐ曇つた。

 庭の椿が咲きかけてゐた。

 湯屋へ行くと、自分と似たやうな頭をした男が先に來て入つてゐるのだつた。晝の風呂は湯の音がするだけで、いつかうに湯げが立たない。そしてつゝぬけに明るい。誰かゞ入つて行つたまゝの乾いた桶やところどころしかぬれてゐないたゝきが、その男とたつた二人だけなので私の步くのにじやまになつて困つた。私よりも若いのに白く太つてゐるので、湯ぶねを出ると桃色に赤くなつたりするのだつた。

 湯屋を出ると、いつものやうに私のわきを自轉車が通つた。

 緣側に出て頸にはみ出してゐる髭をつんでゐると、友達が訪づねて來た。そして、金のない話から何か發明する話になんかなつた。

 友達が歸ると、又友達がやつて來た。十二時過ぎて何日目かで風呂に入るつもりで出かけて來たのが遲くなつたと言つて、歸りに手拭と石鹼をふところから出して見せた。

 あくびが出て、糊でねばしたやうに頭の後の方が一日中なんとなく痛かつた。一日が、ながい一時間であつたやうな日であつた。

 どしや降りになる雨を床の中で聞いてゐると、小學校にゐた頃の雨の日の控室や、ひとかたまりになつて押されて二階から馳け降りる階段の跫音が浮かんだ。寢てゐる足が重く、いくども寢がへりをして眠つた。

 風が吹いて、波頭が白くくづれてゐる海に、黑い服などを着た人達が乘つてゐるのに少しも吃水のない、片側にだけ自轉車用車輪をつけてゐる船が、いそがしく砂地になつてゐる波打際へ着いたり沖の方へ出て行つたりしてゐるのを見てゐると、水平線の黑い雲がひどい勢ひでおほいかぶさつてくるのであつた。私はその入江になつた海岸の土堤で、誰か四五人女の人なども一緒に蒲團をかぶつて風を避けてゐた。そしてしばらくして、暗かつた蒲團の中から顏を出すと、もうそこには海も船もなくなつてゐて、土堤にそつて一列に蒲團が列らんでゐるのであつた。

 明け方、小いさな地震が通つて行つた。

 雨はまだ朝まで降りつゞけてゐた。櫻草の鉢をゆうべ庭へ出し忘れてゐた。

 朝の郵便は家賃のさひそくの葉書を投げこんで行つた。

 もうひと頃ほど寒くはなくなつた。

 新聞は、雨の街を人力車などの走つてゐる寫眞をのせてゐた。

 夕飯にしやうかどうしやうかと思つてゐると、――暖かいには暖かいが、と隣家のふたをあけたまゝのラヂオが三味線をひいた後天氣豫報をやり出した。

 私は便所に立つて、小降りのうちに水をくんだ。そして、鹽鮭と白菜の漬物を茶ぶ臺に揃へて、その前にきちんと坐つた。

(暖かいには暖たかいが、さて連日はつきりしない、北の風が吹いて雨が降りつのる。この天候は日本の東から南の海へ橫たはつてゐる氣壓の低い谷を、低氣壓がじゆずのやうに連らなつて進んでゐるためで、まだ一兩日はこのまゝつゞく)――と、ラヂオは昨日と同じことを言ふのであつた。

 

[やぶちゃん注:太字「じゆず」は底本では傍点「ヽ」。「拂らはふ」「糊でねばしたやうに」(「のばす」の方言か?)「おほい」「ゆうべ」「さひそく」「夕飯にしやうかどうしやうか」(二箇所の「しやう」)「暖かいには暖たかいが」(後者の送り仮名)は総てママ。

なお、現代文庫版(旧全集準拠版)では、「緣側に出て頸にはみ出してゐる髭をつんでゐると」の「髭」は「髪」(正字は「髮」)となっている。底本新全集の秋元氏の補正と思われるが、果たしてこの補正は本当に正しいのだろうか? 私にはやや疑問が残る。]

 

第一課 貧乏   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

    第一課 貧乏

 

 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽蟲が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が靑いのかも不思議なことになつた。緣側に出て何をするのだつたか、緣側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も緣側に干した蒲團の上にそのまゝ寢そべつてゐたのだ。

 私が寢そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて來た。何か土産物をもらつて禮を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。

 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか、二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。

 

[やぶちゃん注:「雞」は「にはとり」で尾形龜之助の好きな用字であり、ここは底本でも本字を用いている。本詩集刊行(九月刊)の昭和五(一九三〇)年は閏年ではなく、これ以前の閏年は昭和三年であるから、本詩篇初出時制(同年五月)から考えて、当年、この昭和五年の二月がシチュエーションと考えてよい。

 本篇は昭和五(一九三〇)年五月発行の『詩神』第一巻第五号を初出とし、そこでは題名も異なる。以下に示す。

   *

 

    貧乏第一課

 

 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽蟲が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が靑いのかも不思議なことになつた。緣側に出て何をするのだつたか、緣側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も緣側に干した蒲團の上にそのまゝ寢そべつてゐたのだ。

 私が寢そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて來た。何か土産物をもらつて禮を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。

 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。私は月拂いを今月も出來ぬのだ。

 

   *

削除された末尾の「月拂い」の「い」はママ。]

 

印   尾形龜之助 (附 初出復元 / 底本全集への疑義)

 

    

 

 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ桶をつたつてとけた。庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。雪が降ると街中を飮み步きたがる習癖を、今年は錢がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭團をつゝいて坐つてゐたのだ。私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も私に話かけてゐたのではない。それなのになんといふ迂濶なことだ。私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乘つたりした幅の廣い寫眞などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと氣がついて、自分でそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事實であれば自分といふものが何處にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。

 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが來年か明後年かのことに就いてゞあつても、机の上の時計位ひはわざわざネジを卷くまでもなく私が止れといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の發明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない、自分にも自分が不用な日であつた。私はつまらなくなつてゐた。氣がつくと、私は尾形といふ印を兩方の掌に押してゐた。ちり紙を舐めてこすると、そこは赤くなつた。

 

[やぶちゃん注:「ほんとう」(二箇所)、「言へきれなくなつて」の「言へ」、「位ひ」の「ひ」、「ネジ」(歴史的仮名遣では「ネヂ」)は総てママ。「今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない」の「俺」(ここだけの一人称。他は「私」)はママ。

 本篇は昭和五(一九三〇)年五月発行の『旗魚』第六号を初出とし、そこでは題名も異なる。以下に取り敢えず、底本「異稿対照表」の指示にのみ基づいて復元してみる。

   *

 

    俺は自分の顏が見られなくなつた

 

 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ桶をつたつてとけた。庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。雪が降ると街中を飮み步きたがる習癖を、今年は錢がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭團をつゝいて坐つてゐたのだ。私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も俺に話かけてゐたのではなかつたか。それなのになんといふ迂濶なことだ。私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乘つたりした幅の廣い寫眞などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと氣がついたのだ、そして、自分でそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事實であれば自分といふものが何處にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。

 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが來年か明後年かのことに就いてゞあつても、机の上の時計ぐらひはネヂをわざわざ卷くまでもなく俺がとまれといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の發明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も新聞には俺のことを何も書いてはゐ、そして、何が「――これならば」なのか、俺は尾形といふ印を兩方の掌に押してゐたのだつた。

 

   *

しかしながら、この異稿表には大きな疑問がある。まず、最初の異同箇所、第一段落の「誰も俺に話かけてゐたのではなかつたか。」の箇所であるが、ここを秋元氏は(下線太字はやぶちゃん)、

 

(初出稿)誰も俺に話かけてゐたのではなかつたか

(詩集稿)誰も私に話かけたゐたのではない

 

としているのであるが、最初に掲げた通り、詩集本文は「誰も私に話かけてゐたのではない。」である点である。次に

 

第二段落の「ネジ」が初出稿も詩集稿も孰れも表では「ネヂ」と正しく表記されている

 

点、さらに言うなら、ご覧の通り、

 

初出稿でも一人称の「俺」の中に「私」(第一段落内に三箇所)も混在している

 

点である。

 尾形龜之助の旧全集は草野心平と秋元潔共編で底本と同じ思潮社から一九七〇年に出ている(私は所持しない)が、それを底本とした思潮社の現代詩文庫1005「尾形亀之助詩集」と、現行通用している秋元氏の「尾形龜之助全集 増補改訂版」とを比較してみると、後者ではママ注記が激しく減らされているだけでなく(これは底本「あとがき」でそれを減らした旨の記載はある。あるが、ただ振らなかったのか、そこを正字法に敢然と訂したのかは説明されていない。思うに、秋元氏は秋元氏の独断でそれらを使い分け、読者にはそれがブラック・ボックス化していると推定している)、一部は原典の脱字や誤記が注記なしに訂されているのではないかと深く疑われる箇所が全体に存在するのである。

 こうした不審を敷衍すると、この校異表が本当に正確なのかどうかが、疑われてくることは明白である。

 そうして以上から推察し得ることは、まず、

 

本篇の現行全集の本文の「ネジ」は正規表現の「ネヂ」で詩集「障子のある家」には記載されているのではないか?

 

という深い猜疑(但し、現代詩文庫版は「ネジ」である)と、

 

初出復元しても残る三つの「私」も実は「俺」なのではないか?

 

という不審があるということである。「障子のある家」をお持ちの方は是非、この私の疑義にお答え戴けると、恩幸、これに過ぎたるはないのだが……。]

 

諸國百物語卷之五 六 紀州和歌山松本屋久兵衞が女ばうの事

     六 紀州和歌山松本屋久兵衞が女ばうの事

 

 紀州わか山に松本屋久兵衞と云ふもの有り。手まへもうとくにくらしけれども、ふりよにわづらひて、あひはてけり。そのあとへ入りむこをとりて、あとめとして、とし月をおくるとき、まゝむすめ有りしが、せいじんしてよきみめかたちなりければ、此入りむこ、しう心して、わりなくちぎりける。母、これを見つけて、せけんのぐはいぶんとおもひ、人にもかたらず、あさゆふ、むねをこがしけるが、此事、いつとなく所にもかくれなく、ちくしやうなりとて、みな人、あざけりけると也。母はこの事おもひくらし、氣やみになりて、あひはてけり。むすめ、よろこび、そうれいのいとなみ、とりつくろい、夜あけがた、野べにをくらんと、その夜は棺(くわん)を座敷にをきければ、夜半のころ、母、棺のうちよりたち出で、あたりを見まはし、むすめと男ふしたるねまにゆき、むすめがのどくびをくひちぎり、又、棺のうちへ、はいりける。人々、ぜひなき事也とて、をや子一どに葬禮しけると也。その家も、のちにはほろびけると也。そのとき、行きあはせ見たる、あき人、京にのぼりて物がたりしけると也。

 

[やぶちゃん注:「手まへもうとくにくらしけれども」「手前も有德に暮らしけれども」。暮し向きも裕福に過ごしていたけれども。

「ふりよにわづらひて」「不慮に患ひて」。

「入りむこ」「入り聟」であるが、この場合は、松本屋久兵衛の妻の後夫の謂い。

「あとめ」「跡目」。嗣子。

「まゝむすめ」「繼娘」。この場合は、松本屋久兵衛の実の娘。

「せいじんしてよきみめかたちなりければ」「成人して良き見目貌(みめかたち)なりければ」。「なりければ」は「成り」ではなく、であったので、の意であろう。

「しう心して」「執心して」。義理の娘に懸想したのである。

「せけんのぐはいぶんとおもひ」「世間の外聞と思ひ」。後添えの夫と実の娘が関係を持ってしまったことが世間に知れては、外聞がこれ、はなはだ悪しきこと極まりない、と思い。

「むねをこがしけるが」「胸を焦がしけるが」。母である前に女であるが故に、妬心を両者に持ったのである。

「いつとなく所にもかくれなく」何時からともなく、その秘していた後夫と娘の密通が世間にすっかり知れることとなって。

「ちくしやうなり」「畜生なり」。

「そうれいのいとなみ」「葬禮の營み」。

「とりつくろい」「取り繕ひ」。歴史的仮名遣は誤り。万端、定規(じょうぎ)通りに執り行い。

「野べにをくらんと」「野邊に送(おく)らんと」。野辺の送りをせんと。

「むすめと男ふしたるねまにゆき」「娘と男臥したる寢間に行き」。

「むすめがのどくびをくひちぎり」「娘が咽喉頸を喰ひ千切り」。

「をや子一どに」「親子(おやこ)一度に」。歴史的仮名遣は誤り。

「あき人」「商人(あきんど)」。]

2016/11/14

谷の響 三の卷 八 異魚

 

 八 異魚

 文政の年間(ころ)、下舞村の仁三郎といへる漁夫、一條の沙魚(さめ)を窠得(すくひ)たり。その沙魚長さ七尺餘、狀象(かたち)は平素(つね)の沙魚にさせる異(かはり)はなけれども皮はいとことにして、滿體(みうち)不殘(みな)徑(わたり)一寸はかりより六七分までの菊文あり。その色赤・靑・黃・綠(もえぎ)などの數色變りて最(いと)美しく、花形も亦ひとしからで、殊に隆(たか)く起れる處は四分ばかりもありしなり。仁三郎奇(めつ)らしきものとして皮を剝き乾して置しに、村の長なる人こはいと珍しく復あるものと思はれねば、御上へ獻るべしとありしかば、實にさる事とて公厨(おだいどころ)に奉りしに、代料として金二百疋賜はりしとなり。こは己が父なる人親しく見たりしとて語りしなり。

 又、文政十一年のころ、蟹田村の沖中(をき)より網せるとて希しき沙魚を魚市に送れり。その沙魚長さ四尺餘、形狀猫鮫と言に似て滿身(みうち)悉(みな)七八分より一寸五六分まての刺(とげ)あり。その端(さき)するどくして鐡針(はり)をうゑたるごとく、さわる時は必ず傷けらる。色灰黑(うすくろ)なれど每(つね)の鮫より淡し。鰭の刺(とげ)はことに長く三寸餘りなるが、誰も名を知るものなければ、時の識者(ものしり)あるは本草家に示(み)すれども號(なづく)る人なくしてやみしとなり。こは魚の荷を賣る岡田屋傳五郎といへるもの語りしなり。

 又、この年の四月中旬、蓬田村の洋(うみ)より四間ばかりの長のカトザメ【方言也、漢名不詳】一頭(ひとつ)あがり、こをきりて四方へ送るに三十駄あまりありしとぞ。こも傳五郎の話なり。因(ちなみ)にいふ、鮫の子といふもの體全備(そなは)れば親魚の口より出でて水の中を游ぎ、勞(つか)るゝときは又口より入りて肚中に籠れるとなり。鱮(たなご)といふ魚は體備りて口より産ることは沙魚のごとしといへり。

 又、天保二卯の年、己れ金井ケ澤村の庄五郎といへる裡(うち)に投宿(とま)れるとき、その村の岸藏といへるもの罔(あみ)して一片の異(あや)しき魚を獲れり。その形㒵(かたち)鱝(えい)にひとしく、徑(わたり)三尺ばかりにして厚さ三四寸もあるべく、へり次第次第に薄(うす)かるが背も腹も俱に蒼白く、鱗なくして肌皮(かは)いとひかりさなから漆に塗れるが如く、眼は吻(くちはし)の腋に並び口は肚の下に裂け齒牙はみな鋸に似て上下に連り、吻の上より尾に至り赤黑き縱文(たてかた)二條ありて、この文(かた)の間はしのきなるが、その中心に大小の角刺(とげ)數十本並次(ならび)て尾に連接(つづけ)り。さてこのもの背を張起し肉鰭をしぼめて地上を匍匐(はらばひ)まわり、物もてこれにふるればこうこうと聲を發(たて)て、角刺(とげ)を搖發(うこか)していといかれるかたちありき。土(ところ)の老父(としより)も何たるものといふを知らず。岸藏希代のものとし、乾鯫になさんと鯝(はらわた)を去り檐下(のき)にかけ置きしが、折から六月の炎熱に蒸殺(むさ)れて壞腐(くさり)たる故棄てたりと言へり。この他己が眼にふれたる異(あやしき)魚いといと多かりし。そは二々(つぎつぎ)にあぐべければ玆に略しぬ。

[やぶちゃん注:「文政」一八一八年~一八三〇年。

「下舞村」既出既注であるが、再掲する。底本の森山泰太郎氏の補註に『北津軽郡小泊村下前(したまへ)。津軽半島の西側に突き出た権現崎の南岸にある漁村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。見るからに、なんか、とんでもないものが獲れそうな場所やで。

「沙魚(さめ)」「鮫」。

「七尺餘」二メートル十二センチ越え。

「ことにして」「異にして」。

「滿體(みうち)」二字へのルビ。

「徑(わたり)一寸はかりより六七分」「はかり」はママ。「ばかり」。直径三センチのものから、一・八から二・一センチほどまで。

「殊に隆(たか)く起れる處は四分ばかりもありしなり」「四分」は一センチ二ミリ。隆起する「菊文」の頂上部は体表から有意に高く突き出ていることが判る。これ、その菊花紋の「色」が「赤・靑・黃・綠(もえぎ)など」多彩であること、また、その「花形も」色彩が多様であるのと同じく等しくない、というところが同定を困らせるところである。その隆起部が棘状になっていて危険だとかいう記載がなく、「沙魚」=鮫と称しながら、獰猛さを一切叙述していないところを見ると、これは私は特異な鱗を持つ、条鰭綱軟質亜綱チョウザメ目チョウザメ科チョウザメ亜科チョウザメ属 Acipenser の仲間で、本邦の北海道や東北近海で現在でも漁獲されることがある本邦固有種ミカドチョウザメ
Acipencer mikadoi
(北海道では昭和初期まで遡上が確認されている)、或いは近年本邦での棲息が確認されたチョウザメ亜科ダウリア属ダウリアチョウザメ Huso dauricus ではあるまいか? この皮が刀剣類の鞘皮「菊綴(きくとじ)」として重宝されたことで知られる。石橋孝夫氏の論文「北海道チョウザメの博物誌1遺跡,地名,絵図,民具からみた北海道のチョウザメの記録(PDF)を参照されたい。時に、何とも、お恥ずかし乍ら、この論文には、私のブログ記事「チョウザメのこと」引かれているではないか!! うへえええっつえ!!!

「復」「また」。二つと。

「獻るべし」「たてまつる」べし。

「實に」「げに」。

「公厨(おだいどころ)」弘前(津軽)藩庁の大膳部。

「己が父なる人」「己が」は「わが」で平尾の実父。

「文政十一年」一八二八年。

「蟹田村」現在の東津軽郡外ヶ浜町の蟹田地区周辺。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「沖中(をき)」二字へのルビ。

「希しき」「めづらしき」。

「長さ四尺餘」全長一・二メートル。真正のサメとしては大きくない。

「猫鮫」御存知、軟骨魚綱板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus

「言に」「いふに」。

「七八分より一寸五六分」二~二・四センチメートルから四十五・四五~四十八・四八センチメートル。

「鐡針(はり)」二字へのルビ。

「三寸」九センチメートル。総身針だらけの怪魚とくれば、凡そ、硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区刺鰭上目フグ目フグ亜目ハリセンボン科ハリセンボン属ハリセンボン Diodon holocanthus しか頭に浮かばぬが、問題はハリセンボン科のハリセンボン類は熱帯から温帯の分布で、この陸奥湾内まで北上するというのは通常は考えられない点である。しかし、明らかに毒針を持つその他の魚ではこう(全身針だらけ)は描写しないし、そうした外傷を引き起こす有毒針を持つ危険な毒魚類ならば必ず漁師の中で見知った者がいて当然で、名指すことが出来るはずである。にも拘わらず、「誰も名を知るものな」く、「時の識者(ものしり)あるは本草家に示(み)すれども號(なづく)る人なく」て不詳の怪魚として処理されたというのだから、寧ろ、これは、津軽の漁民も、津軽の本草家も現認したことがない南方性のハリセンボンだからこそ、という気がしてこないでもないのである。但し、その場合、実は廻船の水主(かこ)が本州南方でたまたま捕獲し、船内の生簀か何かに入れて津軽まで飼い持ちきたったそれを、漁師の網にこっそり投げ込んだというようなお話を拵える必要があるかも知れぬ。ともかくも識者の御教授を乞うものである。

「蓬田村」底本の森山氏の補註に『東津軽郡蓬田(よもぎた)村。蟹田町の南に隣接する村。陸奥湾に面するが農村的立地条件をもっている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「四間」七メートル二十七センチ。これは巨大個体である。

「長」「たけ」。

「カトザメ【方言也、漢名不詳】」これは軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ネズミザメ属ネズミザメ Lamna ditropis でも、破格の超大型個体である(普通は最大でも全長三メートル余りで体重百七十五キログラムである)。同種は正式に人間を襲った記録はないものの、巨大で力が強く獰猛なサメのグループに属する種ではある。ウィキの「ネズミザメ」によれば、鼠鮫には地方によっていくつかの別名があって、『モウカザメ(毛鹿鮫)は東北地方でよく使われる名称で、マフカザメ(真鱶鮫)が訛ったものだといわれる。マダイ(真鯛)やマアジ(真鯵)などを見ても分かるように、魚名に「マ(真)」がつくものは「代表種」の意味合いを持っており、東北地方の代表的なフカ(サメのこと)であることからマフカの名が付けられたのであろう。実際、東北はネズミザメの水揚量が多い』。『カドザメ(カトザメ・カトウザメとも)の由来にはいくつかの説があり、渾然一体としている。「カド」がニシンの地方名であり、これを捕食することからというもの。また「カド」はカツオの地方名でもあり、やはりこれを捕食することからというもの。これらとは別にネズミザメ漁を初めて行った江戸時代の漁師、加藤音吉の名から来ているという説もある。一部の地方ではカトザメがアオザメを表すこともある』と記す。最後に出たネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus は最大長が四メートルを超え、暖海性乍らも分布域から見ると、陸奥湾に出現してもおかしくはないとは言える。土地の漁師がどちらを指していたものか。土地の識者の御教授を乞うものである。

「三十駄」「駄」は「だ」で助数詞。馬一頭に負わせる荷物の量を一駄とし、その数量を数えるのに用いた。江戸時代には三十六貫(約百三十五キロ)を定量としたから、これ、貴機械的に計算すると、実に四トンになるが、そこまで計算を合わせて驚く必要はあるまい。

「鮫の子といふもの體全備(そなは)れば親魚の口より出でて水の中を游ぎ、勞(つか)るゝときは又口より入りて肚中に籠れるとなり。鱮(たなご)といふ魚は體備りて口より産ることは沙魚のごとしといへり」叙述内容に疑問はある(口腔内で稚魚保護するという箇所。実際にそういう鮫の一種の生態を映像で見たことがあるようには思うが、これらの種ではない。また当時の漁民がそうしたものを現認していたというのも疑わしい)が、先のネズミザメ科 Lamnidae の魚類の特性は卵胎生にあり、ここで「鱮(たなご)」(これは淡水産の条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科タナゴ亜科タナゴタナゴ Acheilognathus melanogaster ではなく、条鰭綱棘鰭上目スズキ目ウミタナゴ科ウミタナゴ属ウミタナゴ亜種ウミタナゴ Ditrema temmincki temmincki を指すと私は考える)を出し、ウミタナゴの卵胎生であること添えて説明しているのは、卵からではなく、母魚から仔魚がその小さな形のままに生まれることの不思議さを漁師らが知っていたこと(これは漁の最中に現認出来る)、そこから口中で保育するというイメージを想像したとして、これは、実に腑に落ちるのである。

「天保二卯の年」同年は辛卯(かのとう)。一八三一年。

「金井ケ澤村」底本の森山氏の補註に『西津軽部深浦町北金ケ沢(きたかねがさわ)。日本海に面した漁村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「罔(あみ)」「網」。

「一片」「ひとひら」と訓じておく。

「形㒵(かたち)」二字へのルビ。

「鱝(えい)」軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目 Batoidea のエイの仲間。

「徑(わたり)三尺」直径九〇・九センチメートル。円盤状の平たいエイの謂いとしては腑に落ちる。

「厚さ三四寸」九~十二センチメートル。先の体幅のエイの体高としては頷ける。以下の叙述の形状・色からはアカエイ(軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei かと思うたのであるが、背中上の「中心に大小の角刺(とげ)數十本並次(ならび)て尾に」続いているとか、「土(ところ)の老父(としより)も何たるものといふを知らず」、「岸藏」も「希代のものとし」たところからはどうもアカエイではないように見える。アカエイは北海道南部から東南アジアまで広汎に棲息し、漁師にはかなりポピュラーな魚であるからである。しかし、これ、私にはアカエイ以外にはどうしても同定出来ないのだが? 識者の御教授を乞うものである。なお、ウィキの「アカエイ」によれば、『体表はほとんど滑らかだが、背中の正中線付近には小さな棘が並び、尾に続く。尾は細長くしなやかな鞭状で、背面に短い棘が列を成して並ぶ。さらに中ほどには』数センチから十センチメートルにも及ぶ長い棘が一、二本『近接して並ぶ。この長い棘には毒腺があり、刺されると激痛に襲われる。数週間も痛みが続いたり、アレルギー体質の人はアナフィラキシーショックにより死亡することもある。棘には鋸歯状の「返し」もあり、一度刺さると抜き難い。刺されたらまず毒を絞り、患部を水または湯で洗い流した後、早急に病院で治療を受ける必要がある。生体を扱う際は、尾を鞭のように払って刺そうとするので充分注意しなければならない。生体が死んでも毒は消えないため、死体を扱う際にも尾には注意が必要である』とある。

「鱗なくして」老婆心乍ら、サメ・エイ類は皮膚表面は平滑で鱗がないように見えるだけで、顕微鏡学的なレベルの数ミリメートルの鱗がちゃんとびっしりとある。

「さなから」「宛(さなが)ら」。

「肚」「はら」。

「しのき」「鎬(しのぎ)」。一般には刀剣や鏃などの刃の背に沿って小高くなっている部分を指すが、ここは所謂、背中線上の隆起を指す。

「並次(ならび)て」二字へのルビ。

「連接(つづけ)り」二字へのルビ。

「さてこのもの」「さて此の物」。

「背を張起し」「せをはりおこし」。

「肉鰭」「にくひれ」と訓じておく。

「角刺(とげ)」二字へのルビ。

「搖發(うこか)して」二字へのルビ。ママ。「動かして」。

「いかれる」「怒れる」。

「乾鯫」「鯫」は「小さな」の謂いがあるので、干し乾びさせて縮ませたもの、「ひもの」と当て読みしておく。

「檐下(のき)」二字へのルビ。

「蒸殺(むさ)れて壞腐(くさり)たる」孰れも二字へのルビ。

「故」「ゆゑ」。]

年越酒   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

    年越酒

 

 庭には二三本の立樹がありそれに雀が來てとまつてゐても、住んでゐる家に屋根のあることも、そんなことは誰れにしてみてもありふれたことだ。冬は寒いなどといふことは如何にもそれだけはきまりきつてゐる。俺が詩人だといふことも、他には何の役にもたゝぬ人間の屑だといふ意味を充分にふくんでゐるのだが、しかも不幸なまはり合せにはくだらぬ詩ばかりを書いてゐるので、だんだんには詩を書かうとは思へなくなつた。「ツェッペリン」が飛んで來たといふことでのわけのわからぬいさましさも、「戰爭」とかいふ映畫的な奇蹟も、片足が途中で昇天したとかいふ「すばらしい散步」――などの、そんなことさへも困つたことには俺の中には見あたらぬ。

 今日は今年の十二月の末だ。俺は三十一といふ年になるのだ。人間というものが惰性に存在してゐることを案外つまらぬことに考へてゐるのだ。そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に戀しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ條件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと傳説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを讀む人を言ふといふことになつてはみぬか。

 三十一日の夜の街では「去年の大晦日にも出會つた」と俺に挨拶した男があつた。俺は去年も人ごみの中からその男に見つけ出されたのだ。俺は驚いて「あゝ」とその男に答へたが、實際俺はその人ごみの中に自分の知つてゐる者が交つてゐるなどといふことに少しも氣づかずにゐたのだ。これはいけないといふ氣がしたが、何がいけないのか危險なのか、兎に角その人ごみが一つの同じ目的をもつた群集であつてみたところが、その中に知つている顏などを考へることは全く不必要なことではないか。人間一人々々の顏形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出來た無數のビスケツトの如く、一個の顏は無數の顏となり「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、友情による人と人の差別も、戀愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことゝなつてしまふのがよいのだ。

 

[やぶちゃん注:第二段落末尾近くの「それも所詮かなわぬことであるなれば」はママであるが、必ずしも文法的に破格でもない。ここを順接の仮定条件ではなく、「それも所詮はかなわぬということなのであってみれば」という意味でとるならば(そのニュアンスの方がむしろ強い気がするくらいである)、古語の已然形接続の接続助詞「ば」の順接の確定条件の用法として、おかしくはないからである。

 本篇は昭和五(一九三〇)年二月発行の『門』第七号を初出とし、翌三月発行の『詩文学』第一巻第六号、及び翌昭和六(一九三一)年六月詩文学社刊の「現代新詩集」に再録されているがそれらでは題名が異なり、それは以下に示す通り、本詩集冒頭のエピグラムとほぼ相同な副題を持つ「標」(「しるべ」と訓じておく)である。これも私は既に尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注に新字で公開し、そこで詩篇の内容についても注も附しているが、今回は恣意的に正字に直した形で初出を示し、そこでの注も再掲しておく。

   *

 

     ――(躓く石でもあれば、俺はそこでころびたい)――

 

 庭には二三本の立樹がありそれに雀が來てとまつてゐても、住んでゐる家に屋根のあることも、そんなことは誰れにしてみてもありふれたことだ。冬は寒いなどといふことは如何にもそれだけはきまりきつてゐる。俺が詩人だといふことも、他には何の役にもたゝぬ人間の屑だといふ意味を充分にふくんでゐるのだが、しかも不幸なまはり合せにはくだらぬ詩ばかりを書いてゐるので、だんだんには詩を書かうとは思へなくなつた。「ツェッペリン」が飛んで來たといふことでのわけのわからぬいさましさも、「戰爭」とかいふ映畫的な奇蹟も、片足が昇天したとかいふ「すばらしい散步」――などの、そんなことさへも困つたことには俺の中には見あたらぬ。

 今日は今年の十二月の末だ。俺は三十一といふ年になるのだ。人間というものが惰性に存在してゐることを案外つまらぬことに考へてゐるのだ。そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に戀しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ條件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと傳説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを讀む人を言ふといふことになつてはみぬか。

 三十一日の夜の街では「去年の大晦日にも出會つた」と俺に挨拶した男があつた。俺は去年も人ごみの中からその男に見つけ出されたのだ。俺は驚いて「あゝ」とその男に答へたが、實際俺はその人ごみの中に自分の知つてゐる者が交つてゐるなどといふことに少しも氣づかずにゐたのだ。これはいけないといふ氣がしたが、何がいけないのか危險なのか、兎に角その人ごみが一つの群集であつてみたところが、その中に知つている顏などを考へることは全く不必要なことではないか。人間一人々々の顏形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出來た無數のビスケツトの如く、人一個の顏は數萬の顏となり更に幾萬かの倍加に「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、「友人」なとおといふ友情に依る人と人の差別も、戀愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことになつてしまはぬものか。

 

   *

 さて、本詩の『「戦争」とかいふ映画的な奇蹟も、片足が途中で昇天したとかいふ「すばらしい散步」』という私にとって永く不明であった箇所について、美事な解釈(「未詳」「当てずっぽう」と謙遜されているが)が二〇〇七年河出書房新社刊の正津勉「小説 尾形亀之助」でなされている。以下に引用する(「しろもの」は底本のルビ。なお、正津氏は句読点用法が独特である。私のタイプ・ミスではないので一言断わっておく)。

   《引用開始》

 前者は、北川冬詩集『戦争』(昭和四年三月刊)では。ここで「映画的な奇蹟」とある、これはときに北川が標榜した前衛詩運動なる代物(しろもの)「シネ・ポエム」への嘲笑ではないか(じつはこのころ全章でみたように北川と亀之助のあいだで『雨になる朝』をめぐり意見の対立をみている)。

 後者は、あやふやななのだがこれは安西冬衛のことをさすのでは。これは「片足が途中で昇天した」うんぬんから、なんとなれば安西が隻脚であること。やはりこの三月、詩集『軍艦茉莉』が刊行されている。前章でもみたが亀之助はこれを絶賛している。「『軍艦茉莉』安西冬衛はすばらしい詩集を出した」と。だとすると「すばらしい散歩」とは散歩もままならない安西への声援となろうか。ほかに懇切な書評「詩集 軍艦茉莉」(『詩神』昭和五年八月)もある。

   《引用終了》

やや、最後の「安西への声援」という謂いには微妙に留保をしたい気がするが、正津氏の解釈はこの詩の最も難解な部分を確かに明快に解いてくれている。前章云々の話は、是非、本書を購入してお読みあれ。なお、同書によれば、チェッペリン飛行船 Zeppelin が日本に飛来したのは、昭和四年八月で『新聞各誌には「けふ全市を挙げてツエペリン・デーと化す/三百万の瞳が大空を仰いで/待ちこがれる雄姿!」などと熱く見出しが躍った』とする。

 しかし、私がこの詩を愛するのは、第二段の末尾の、『いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになつてはみぬか』という詩と詩人を巡る存在論の鋭さ故である。そうして第三段末尾の、『人間一人々々の顔形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出来た無数のビスケツトの如く、一個の顔は無数の顔となり「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、友情による人と人の差別も、恋愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことゝなつてしまふのがよいのだ』という、思い切った「ノン!」の拒絶の小気味よさ故である――しかしそれはまさに「全くの住所不定へ。さらにその次へ」(「詩集「障子のある家」の「自序」より)という強烈な覚悟の中にある凄絶な小気味よさであることを忘れてはならないのだが――。

 最後に、本篇の原題が「障子のある家」のエピグラム的巻頭の一行「あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)」であることは、本詩がこの「詩集」に持つ重要な位置を再検討すべきことを示唆している。]

 

詩人の骨   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

    詩人の骨

 

 幾度考へこんでみても、自分が三十一になるといふことは困つたことにはこれといつて私にとつては意味がなさそうなことだ。他の人から私が三十一だと思つてゐてもらうほかはないのだ。親父の手紙に「お前はもう三十一になるのだ」とあつたが、私が三十一になるといふことは自分以外の人達が私をしかるときなどに使ふことなのだらう。又、今年と去年との間が丁度一ケ年あつたなどいふことも、私にはどうでもよいことがらなのだから少しも不思議とは思はない。几帳面な隣家のおばさんが毎日一枚づつ丁寧にカレンダーをへいで、間違へずに殘らずむしり取つた日を祝つてその日を大晦日と稱び、新らしく柱にかけかへられたカレンダーは落丁に十分の注意をもつて綴られたゝめ、又何年の一月一日とめでたくも始まつてゐるのだと覺えこんでゐたつていゝのだ。私は來年六つになるんだと言つても誰もほんとうにはしまいが、殊に隣家のおばさんはてんで考へてみやうともせずに暗算で私の三十一といふ年を數へ出してしまうだらう。

 だが、私が曾て地球上にゐたといふことは、幾萬年かの後にその頃の學者などにうつかり發掘されないものでもないし、大變珍らしがられて、骨の重さを測られたり料金を拂らはなければ見られないことになつたりするかも知れないのだ。そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ樣子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。

 

[やぶちゃん注:「意味がなさそうなことだ」の「なさそう」、「思つてゐてもらう」の「もらう」、「誰もほんとうにはしまいが」の「ほんとう」、「數へ出してしまうだらう」の「しまう」は総てママ。「稱び」は「よび」と訓じていよう。なお、『そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ樣子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と』の「だらう」の後に句読点等はない。

 本篇は昭和五(一九三〇)年一月発行の『詩と散文』第一号を初出とし、前の一篇と同様、題名が異様に長い。

   *

 

    詩人の骨(假題)轉落する一九二九年ヘボ詩人の一部

 

 自分が三十一になるといふことを俺にはどうもはつきり言ひあらはせない。困つたことには三十一といふことはこれといつて俺にとつては意味がなささうなことなのだ。他の人から「私が三十一だ」と言つてもらうほかはないのだ。

 今年と去年との間が丁度一ケ年あつたなどいふことも、俺にはどうでもよいことがらなのだから不思議だとは思はない。隣家で、カレンダーを一枚殘らずむしり取つて新らしく柱にかけたのに一九三〇年一月×日とあつたといふに過ぎない。つまり「俺は來年六ツになるのだ」と言つても、誰も(殊に隣家のおばさんは)ほんとうにしないのと同じことだ。

 だが、私が曾て地球上にゐたといふことが、どんなことで名譽あることにならぬとは限るまい。幾萬年かの後に、その頃の學者などにうつかり發掘されないものでもないし、大變珍らしがられるかもしれないのだ。そして、彼等はひよつとすると言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。

   *

ここでも第一段落の「もらう」、第二段落の「ほんとう」はママである。

 なお、今回は、校異表の以上の初出稿の末尾にある『(以上、全篇)』を、編者秋元潔氏による注記で、以上は対照表にあるものが欠落のない全文の意であると判断して、かく電子化した。但し、同初出の各段落の行頭一字空けはないが、これは、他の対照表の記載でも同様の処理がなされてあるので、一字空けがあると見做したことを述べておく。]

 

ひよつとこ面   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

    ひよつとこ面

 

 納豆と豆腐の味噌汁の朝飯を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に圍まれた部屋の中に一日机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の樂隊は何處へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。そして、醉つてもぎ取つて來て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであつた。このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ひづつ頭をぶつつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん。疊のやけこげ。少しかけてはゐるが急須と茶わんが茶ぶ臺にのつてゐる。しぶきが吹きこんで一日中緣側は濕つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな氣持になつて坐つてゐた。そして、火鉢に炭をついでは吹いてゐるのであつた。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和五(一九三〇)年二月発行の『文芸月刊』第一巻一号を初出とし、その後、同年年四月金星堂刊の「日本現代詩選」に再録されている。初出形は以下の通りで、題名が異様に長い。これも対照表に疑義がある。秋元潔氏のそれは、あたかも詩集決定稿とは別の詩集用草稿があるかのようにもとれる書き方をされておられるからであるが、それを問題にし出すと、校合が出来なくなるので、対照表の「詩集稿」は詩集決定稿と読み換えざるを得ず、向後はこの疑問は記さないこととする(正直、過去、私は「色ガラスの街」をヴァーチャルに復元した際に、底本の編者である秋元氏の校訂には驚くべきミスが多数あることが判明しているのである)。なお、この初出本篇は新字で既に尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注に公開してある。

   *

 

    障子のある家(假題)――自叙轉落する一九二九年のヘボ詩人・其七

 

 納豆と豆腐の味噌汁の朝飯を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に圍まれた部屋の中に半日も机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の樂隊は何處へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。そして、醉つてもぎ取つて來て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであつた。このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ひづつ頭をぶつつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん。疊のやけこげ。少しかけてはゐるが急須と茶わんが茶ぶ臺にのつてゐる。しぶきが吹きこんで一日中緣側は濕つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな氣持になつて坐つてゐた。わけもなく火鉢に炭をついで吹いてゐるのであつた。

 

   *

「自叙」は底本のままとしたが、「自敍」かもしれない。「其七」の他の六篇が何を指すか不詳であるが、少なくとも次の「詩人の骨」の初出題名「詩人の骨(假題)轉落する一九二九年ヘボ詩人の一部」というのはその詩群に属する一篇と推測してよかろう。]

  

秋冷   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

    秋冷

 

 寢床は敷いたまゝ雨戸も一日中一枚しか開けずにゐるやうな日がまた何時からとなくつゞいて、紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顏も洗らはずにゐるのだつた。

 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾ひ取つてゐるときのみじめな氣持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて淸水のたまりのやうに澄んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。

 

[やぶちゃん注:本作は昭和四(一九二九)年十一月発行の『門』第六号を初出とし、その後、同年十二月刊の「学校詩集」及び翌昭和五年四月金星堂刊の「日本現代詩選」にそれぞれ再録されている。初出形は以下の通り。

   *

 

    秋冷

 

 寢床は敷いたまゝ雨戸も一日中一枚しか開けずにゐる紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顏も洗らはずにゐるのだつた。

 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾ひ取つてゐるときのみじめな氣持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて淸水のたまりのやうに澄んだ明るい空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。

 

   *

「寢床は敷いたまゝ雨戸も一日中一枚しか開けずにゐる紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に」の「ゐる紙屑」の連続はママ。後段は「空」の前に「明るい」が入っている点で異なる。

 本篇の上手さは、最後の「私は、よく晴れて淸水のたまりのやうに澄んだ明るい空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。」の一文の「つらくなつた」という感懐収斂に極まる。私は優れた漢詩の結句の感懐表現を示す一字を読み終えた瞬間の戦慄のようなものをこの一篇に感ずるのである。]

 

五月   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

    五月

 

 鳴いてゐるのは雞だし、吹いてゐるのは風なのだ。部屋のまん前までまはつた陽が雨戸のふし穴からさし込んでゐる。

 私は、飯などもなるつたけは十二時に晝飯といふことであれば申分がないのだと思つたり、もういつ起き出ても外が暗いやうなことはないと思つたりしてゐた。昨夜は犬が馬ほどの大きさになつて荷車を引かされてゐる夢を見た。そして、自分の思ひ通りになつたのをひどく滿足してゐるところであつた。

 

 から瓶につまつてゐるやうな空氣が光りをふくんで、隣家の屋根のかげに櫻が咲いてゐる。雨戸を開けてしまふと、外も家の中もたいした異ひがなくなつた。

 筍を煮てゐると、靑いエナメルの「押賣お斷り」といふかけ札を賣りに來た男が妙な顏をして玄關に入つてゐた。そして、出て行つた私に默つて札をつき出した。煮てゐる筍の匂ひが玄關までしてきてゐた。斷つて臺所へ歸ると、今度は綿屋が何んとか言つて臺所を開けた。半ずぼんに中折なんかをかぶつてゐるのだつた。後ろ向きのまゝいゝかげんの返事をしてゐたら、綿の化けものは戸を開けたまゝ行つてしまつた。

 

[やぶちゃん注:「雞」は「にわとり」で底本の用字である。本作は昭和四(一九二九)年四月発行の『学校』第五号を初出とし、そこでは題名が「題はない」であり、その後、同年十二月刊の「学校詩集」及び同月文書堂刊の「全日本詩集」(東亜学芸協会編)にそれぞれ再録されている。後者の二冊では孰れも題名は決定稿と同じ「五月」となっている。詩篇本文の異同は以上の三者にはないものと推定される。以下に初出形として「題はない」で示す。傍点「ヽ」箇所「半ずぼん」は太字で示した秋元氏の対照表には不審な箇所があり(詩篇本文全体を表示しておらず、空行が本当に初出形の空行なのかどうかが、不分明であったりする)、果たして決定稿の空行が初出にあるのかどうかやや不審なのであるが、総合的に判断して空けておいた

   *

 

    題はない

 

 鳴いてゐるのは雞だし、吹いてゐるのは風なのだ。部屋のまん前までまはつた陽が雨戸のふし穴からさし込んでゐる。

 私は、飯などもなるつたけは十二時に晝飯といふことであれば申分がないのだと思つたり、もういつ起き出ても外が暗いやうなことはないと思つたりしてゐた。昨夜は犬が馬ほどの大きさになつて荷車を引かされてゐる夢を見た。そして、自分の思ひ通りになつたのをひどく滿足してゐるところであつた。

 今朝も、長い物指のようなもので寢てゐて緣側の雨戸を開けたいと思つた。もしそんなことで雨戸が開くのなら、さつきからがまんしてゐる便所へも行かずにすむような氣がしてゐたが、床の中で力んだところで、もともと雨戸が開くはずもなく結極はこらひきれなくなつた。

 

 から瓶につまつてゐるやうな空氣が光りをふくんで、隣家の屋根のかげに櫻が咲いてゐる。雨戸を開けてしまふと、外も家の中もたいした異ひがなくなつた。

 筍を煮てゐると、靑いエナメルの「押賣お斷り」といふかけ札を賣りに來た男が顏の感じの失せた顏をして玄關に入つてゐた。そして、出て行つた私にだまつて札をつき出した。煮てゐる筍の匂ひが玄關にもしてきてゐた。――私は筍のことしか考へてゐないのに、今度は綿屋が何んとか言つて臺所を開けた。半ずぼんに中折れなんかかぶつてゐるのは綿の化けものなのだからだらう。いいかげんの返事をしてゐたら、綿の化けものは戸をあけたまま行つてしまつた。

 

   *

「長い物指のようなもので」「行かずにすむような氣がしてゐたが」の二箇所の「ような」はママ、「結極」も「こらひきれなくなつた」もママである。老婆心乍ら、詩人は「長い物指のようなもの」を使って「寢」たままで「緣側の雨戸を開けたいと思つた」のである。「異ひ」は「ちがひ」。

 本作は一読、寺山修司にでも映像化させてみたくなるような、すべて事実なのかも知れぬが、何とも言えない一種、サイケデリックな映像で、大いに好きである。]

 

尾形龜之助第三詩集「障子のある家」(恣意的正字化版)始動 自序 / 三月の日(附 初出復元)

 尾形龜之助の第三詩集「障子のある家」(昭和五(一九二九)年九月私家版・限定五十部・非売品)を第二詩集「雨になる朝」同様(先の尾形龜之助第二詩集「雨になる朝」始動 序(二篇)/十一月の街の冒頭注も参照されたい)、恣意的に正字化し、さらに一部詩篇で異なる初出稿をも復元して、順次、示すこととする。

 底本は一九九九年思潮社刊の秋元潔編「尾形亀之助全集 増補改訂版」を用いたが、上記の通り、恣意的に漢字を概ね正字化した。それが少なくとも戦前の刊行物の場合、より詩人の書いた原型に近い物ものとなると信ずるからである。

 本詩集の内、九篇(「後記」を含む)は初出(再録・再々録を含む)と相違が認められ、それが底本では「異稿対照表」として掲げられている。本電子化では、当該決定稿の後に、それらを復元して示すこととする。

 

 以上の二点に於いて、本電子テクストはネット上に現存する如何なる「雨になる朝」とも異なるものとなる。【2016年11月13日 藪野直史】

 

 

 

障子のある家

 

 

 

あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)

 

 

 

    自序

 

 何らの自己の、地上の權利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。それからその次へ。

 私がこゝに最近二ケ年間の作品を隨處に加筆し又二三は改題をしたりしてまとめたのは、作品として讀んでもらうためにではない。私の二人の子がもし君の父はと問はれて、それに答へなければならないことしか知らない場合、それは如何にも氣の毒なことであるから、その時の參考に。同じ意味で父と母へ。もう一つに、色々と友情を示して呉れた友人へ、しやうのない奴だと思つてもらつてしもうために。

 

  尚、表紙の綠色のつや紙は間もなく變色し

  やぶけたりして、この面はゆい一册の本を

  古ぼけたことにするでせう。

 

[やぶちゃん注:「もらう」「しもう」や「古ぼけたこと」の「こと」はママ。最後の附言は底本では下まで続いて全体が二字下げであるが、ブログのブラウザ上の不具合を考えて、途中で改行を施した。

 私はこのエピグラム、

 

あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)

 

何らの自己の、地上の權利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。それからその次へ。

 

を偏愛する、惨めな「生」を享けた人間と自認している。]

 

 

 

    三月の日

 

 晝頃寢床を出ると、空のいつものところに太陽が出てゐた。何んといふわけもなく氣やすい氣持ちになつて、私は顏を洗らはずにしまつた。

 陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる。

 机のひき出しには白銅が一枚殘つてゐる。

 障子に陽ざしが斜になる頃は、この家では便所が一番に明るい。

  

 [やぶちゃん注:初出は昭和四(一九二九)年十二月刊の「学校詩集」(学校詩集刊行所刊)で、翌昭和五年一月刊の「新興詩人選集」(文芸社)にも再録されたが、そこでは以下の通り(と推定。対照表表記が不全であるため)。

   *

 

    三月の日

 

 晝頃寢床を出ると、空のいつものところに太陽が出てゐた。何んといふわけもなく氣やすい氣持ちになつて、私は顏を洗らはずにしまつた。

 陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる。

 ひき出しには白銅が一枚殘つてゐる。

 

 切り張りの澤山ある障子に陽ざしが斜めになる頃は、この家では便所が一番明るい。

 

   *]

 

 

雨が降る / 「雨になる朝」後記 ~「雨になる朝」恣意的正字化版(一部初出稿・第二次稿復元)~了

 

     雨が降る

 

夜の雨は音をたてゝ降つてゐる

 

外は暗いだらう

 

窓を開けても雨は止むまい

 

部屋の中は内から窓を閉ざしてゐる

 

 

 

     後記

 

こゝに集めた詩篇は四五篇をのぞく他は一昨年の作品なので、今になつてみるとなんとなく古くさい。去年は二三篇しか詩作をしなかつた。大正十四年の末に詩集「色ガラスの街」を出してから四年經つてゐる。

この集は去年の春に出版される筈であつた。これらの詩篇は今はもう私の掌から失くなつてしまつてゐる。どつちかといふと、厭はしい思ひでこの詩集を出版する。私には他によい思案がない。で、この集をこと新らしく批評などをせずに、これはこのまゝそつと眠らして置いてほしい。

 

[やぶちゃん注:「眠らして」はママ。同様の感懐を尾形龜之助は昭和四(一九二九)年六月発行の『詩と詩論』第四冊に発表したさびしい人生興奮にも記している(リンク先は私のブログでの電子テクスト。但し、本底本と同じ底本で漢字は新字。同篇は尾形亀之助拾遺 附やぶちゃん注にも採録しておいた)。]

夢   尾形龜之助

 

     

 

眠つてゐる私の胸に妻の手が置いてあつた

紙のやうに薄い手であつた

 

何故私は一人の少女を愛してゐるのであつたらう

 

夜がさみしい   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

     夜がさみしい

 

眠れないので夜が更ける

 

私は電燈をつけたまゝ仰向けになつて寢床に入つてゐる

 

電車の音が遠くから聞えてくると急に夜が糸のやうに細長くなつて

その端に電車がゆはへついてゐる

 

[やぶちゃん注:初出の昭和二(一九二七)年一月発行の『詩神』では、以下の通り。

   *

 

     夜がさみしい

 

眠れないので夜が更ける

私は電燈をつけたまま赤い毛布をかけた

仰向けになつて寢床に入つてゐる

 

電車の音が遠くから聞えてくると

急に夜が黑い糸のやうに細長くなつてその端を

電車がゆはへつけてゐるやうな氣がする

 

   *

決定稿では状況の時制的順列性がぎりぎりまで圧縮され、その結果として、コーダの初出のだらんとした比喩が純粋なシュールレアリスティクな幻像に定着し、素晴らしい。

 私は題名といい、コーダといい、つげ義春の漫画を直ちに想起する。]

 

雨の祭日   尾形龜之助

 

     雨の祭日

 

雨が降ると

街はセメントの匂ひが漂ふ

 

    ×

 

雨は

電車の足をすくはふとする

 

    ×

 

自動車が

雨を咲かせる

 

街は軒なみに旗を立てゝゐる

 

[やぶちゃん注:「すくはふ」はママ。]

 

幻影   尾形龜之助

 

     幻影

 

秋は露路を通る自轉車が風になる

 

うす陽がさして

ガラス窓の外に晝が眠つてゐる

落葉が散らばつてゐる

 

秋色   尾形龜之助

 

     秋色

 

部屋に入つた蜻蛉が庇を出て行つた

明るい陽ざしであつた

 

愚かなる秋   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

     愚かなる秋

 

秋空が晴れて

緣側に寢そべつてゐる

 

眼を細くしてゐる

 

空は見えなくなるまで高くなつてしまへ

 

[やぶちゃん注:初出の大正一五(一九二六)年十月発行の『亞』二十四号では、以下の通り。題名も異なる。

   *

 

     愚かな秋

 

秋空が晴れ

今日は何か――といふ氣もゆるんで

緣側に寢そべつてゐる

 

眼を細くしてゐると

空に顏が寫る

「おい、起ろよ」

空は見えなくなるまで高くなつてちまへ!

 

   *

初出形は何だか、山村暮鳥の「空」の出来そこないのような印象であるのに対し、決定稿では虚空の下の詩人の、秋のきっぱりとした孤愁が、鮮やかに研ぎだされている。]

 

お可笑しな春   尾形龜之助

 

     お可笑しな春

 

たんぽぽが咲いた

あまり遠くないところから樂隊が聞えてくる

 

窓の人   尾形龜之助

 

     窓の人

 

窓のところに肘をかけて

一面に廣がつてゐる空を眼を細くして街の上あたりにせばめてゐる

 

夜   尾形龜之助

 

     

 

私は夜を暗い異樣に大きな都會のやうなものではあるまいかと思つてゐる

 

そして

何處を探してももう夜には晝がない

 

(「雨になる朝」)

[やぶちゃん注:恣意的に漢字を正字化した。]

夜の向ふに廣い海のある夢を見た   尾形龜之助

 

     夜の向ふに廣い海のある夢を見た

 

私は毎日一人で部屋の中にゐた

そして 一日づつ日を暮らした

 

秋は漸くふかく

私は電燈をつけたまゝでなければ眠れない日が多くなつた

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

十二月   尾形龜之助

 

     十二月

 

紅を染めた夕やけ

 

風と

 

ガラスのよごれ

 

十二月   尾形龜之助

 

     十二月

 

炭をくべてゐるせと火鉢が蜜柑の匂ひがする

 

曇つて日が暮れて

庭に風がでてゐる

 

十一月の電話   尾形龜之助

 

     十一月の電話

 

十一月が鳥のやうな眼をしてゐる

 

晝の街は大きすぎる   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

     晝の街は大きすぎる

 

私は步いてゐる自分の足の小さすぎるのに氣がついた

電車位の大きさがなければ醜いのであつた

 

[やぶちゃん注:初出の昭和二(一九五七)年一月発行の『詩神』では、以下の通り。題名も異なる。

   *

 

     晝は街が大きすぎる

 

私は足を見た

自分の足が靴をはいて步いてゐるを見た

そして これは足が小さすぎると思つた

電車位に大きくなければ醜いやうな氣がした

 

   *

初出は気怠い意識の流れそのままの論理的順列の叙述であって、それは一種の心因反応の関係妄想の症例の記述例であるあるかの如くであるのに対し、決定稿は美事な禪の公案への答えであると私は思っている。]

 

眼が見えない   尾形龜之助

 

     眼が見えない

 

ま夜中よ

 

このま暗な部屋に眼をさましてゐて

蒲團の中で動かしてゐる足が私の何なのかがわからない

 

夜の部屋   尾形龜之助

 

     夜の部屋

 

靜かに炭をついでゐて淋しくなつた

 

夜が更けてゐた

 

曇る   尾形龜之助

 

     曇る

 

空一面に曇つてゐる

 

蟬が啼きゝれてゐる

 

いつもより近くに隣りの話聲がする

 

初夏無題   尾形龜之助

 

     初夏無題

 

夕方の庭へ鞠がころげた

 

見てゐると

ひつそり 女に化けた躑躅がしやがんでゐる

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「躑躅」は「つつじ」。]

 

いつまでも寢ずにゐると朝になる   尾形龜之助

 

     いつまでも寢ずにゐると朝になる

 

眠らずにゐても朝になつたのがうれしい

 

消えてしまつた電燈は傘ばかりになつて天井からさがつてゐる

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

戀愛後記   尾形龜之助

 

     戀愛後記

 

窓をあければ何があるのであらう

 

くもりガラスに夕やけが映つてゐる

 

初冬の日   尾形龜之助

 

     初冬の日

 

窓ガラスを透して空が光る

 

何處からか風の吹く日である

 

窓を開けると子供の泣聲が聞えてくる

 

人通りのない露路に電柱が立つてゐる

 

秋日   尾形龜之助

 

     秋日

 

一日の終りに暗い夜が來る

 

私達は部屋に燈をともして

夜食をたべる

 

煙草に火をつける

 

私達は晝ほど快活ではなくなつてゐる

煙草に火をつけて暗い庭先を見てゐるのである

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

暮春   尾形龜之助

 

     暮春

 

私は路に添つた畑のすみにわづかばかり仕切られて葱の花の咲いてゐるのを見てゐた

花に蝶がとまると少女のやうになるのであつた

 

夕暮

まもなく落ちてしまふ月を見た

丘のすそを燈をつけたばかりの電車が通つてゐた

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。私はこの詩が好きでたまらない。]

雨日   尾形龜之助

 

     雨日

 

午後になると毎日のやうに雨が降る

 

今日の晝もずいぶんながかつた

なんといふこともなく泣きたくさへなつてゐた

 

夕暮

雨の降る中にいくつも花火があがる

 

諸國百物語卷之五 五 馬場内藏主大蛇をたいらげし事

    五 馬場内藏主(ばばくらふず)大蛇(だいじや)をたいらげし事

Babakurouzu

 九州に馬場内藏主と云ふ、らうにん有りけるが、細川三齋(ほそかはさんさい)へほうこうののぞみ有りけれども、いまだしゆびも、とゝのわざりけり。あるとき、四、五人づれにて川がりに行きけるに、ある山ぎはに十町四ほうもあるぬまの池あり。こゝにて、たうあみをうちあそびゐられけるに、にわかに池のうち、どうどうどなりて、水けぶりたち、なにかはしらず、一もんじに、きたる。みな人、をどろき、にげさりぬ。内藏主はちつともさわがず、ぜひにやうすを見とゞけんとおもひ、かたはらによりうかゞひみれば、そのたけ弐丈ばかりの大じや也。内藏主、とらんとおもひ、とびかゝれば、大じや、内藏主をまとい、池のうちに、ひきいりぬ。さて、かのにげたるものども、内藏主は大じやにとられけると、さたしければ、上下(じやうげ)、内藏主が取りさたのみ也。さて、三日と云ふひるじぶんに、内藏主、池より出でけるが、池のみづ、みな血になりけり。さて、あみをひきて見ければ、長さ二丈ほどなるうわばみ、内藏主に切りたてられ、からだ、七つ八つになりてあがりたり。三齋、御らんじて、

「内藏主はぶへんのものかな」

とて、三千石にてめしかゝゑられ、今にその子孫、九州にほうこうしていらるゝと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「大じやをたいらけたる事」。

「馬場内藏主(ばばくらふず)」「内藏主」三字に「くらふず」と振る。この武士の官位通名はあまり見かけないが、考えて見れば「内蔵助」はよく知られ、そちらは古く律令制下で中務省(なかつかさのしょう)内蔵寮(くらりょう)の次官(財政管理担当)の長官である「内蔵(くら)」「内蔵主(くろうず)」のことであるから腑に落ちる。

「細川三齋」丹後国宮津城主・豊前小倉藩初代藩主細川忠興(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)の茶人としての号。正室がかの明智光秀の娘玉子、通称「細川ガラシャ」である。

「川がり」「川漁(かはがり)」。川魚漁。

「十町」一キロ九十メートル。

「たうあみをうちあそびゐられけるに」「投網を打ち遊び居られけるに」。

「どうどうどなりて」「どうど、怒鳴りて」ともとれるが、ここまでの本書の作者の表記法から類推するにこれは「どうど、ど(→と)、鳴りて」(三つ目の「ど」は格助詞「と」の濁音化)で、「どうど」がオノマトペイア(擬音語)ととっておく。

「水けぶりたち、なにかはしらず、一もんじに、きたる」「水煙り立ち、何かは知らず、一文字に來たる」。

「ぜひに」強いて。どんなことがあろうとも。

「弐丈ばかり」六メートル強。

「まとい」「纏ひ」。歴史的仮名遣は誤り。ぐるぐる巻きにして。

「さた」「沙汰」。

「上下(じやうげ)」仲間内では年かさの者らも、若き連中も皆々。

「内藏主が取りさたのみ也」内蔵主の行方と安否一つですっかり持ち切りとなっていた。

「ひるじぶん」「晝時分」。

「内藏主、池より出でけるが」生きた内蔵主が、肩を怒らせ、ざぶざぶと池より上って参ったのであったが。このカットがさりげなく何事もないように突如出現するところが、なかなか、いい。あまりのあっけない表現に初読時、死んで池に浮いたんかい? と思うたぐらいである。

「ぶへんのもの」「武邊の者」。

「ほうこう」「奉公」。]

2016/11/13

白(假題)   尾形龜之助 (初出及び再録稿復元)

 

     (假題)

 

あまり夜が更けると

私は電燈を消しそびれてしまふ

そして 机の上の水仙を見てゐることがある

 

[やぶちゃん注:「電燈」は底本本文では「電灯」であるが、底本校異表では詩集稿は『電燈』となっており、それを採用した(正直、この秋元潔氏の「校異表」には幾つかの不審な(詩集稿の不備と言う意味に於いて)点がある。初出の昭和三(一九二八)年二月発行の『詩神』では、以下の通り。

   *

 

     (假題)

 

あまり夜が更けると

私は電燈を消しそびれてしまふ

たまたま机の上に水仙をさして置くことがある

床に入つて水仙を見てゐることがある

(何時までも眠らずにゐると朝の電車が通つてゐる)

 

   *

更に、本詩篇は十ヶ月後の同年十二月後の『詩と詩論』にも載るが、そこでは以下の如く、本決定稿にほぼ酷似した改稿がなされてある(冒頭の「あまり」がないこと、二連構成であること、「そして」の後の一字空けが異なる)。

   *

 

     白(假題)

 

夜が更けると

私は電燈を消しそびれてしまふ

 

そして机の上の水仙を見てゐることがある

 

   *]

 

白に就て   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

     白に就て

 

松林の中には魚の骨が落ちてゐる

(私はそれを三度も見たことがある)

 

[やぶちゃん注:初出の昭和三(一九五八)年十二月発行の『詩と詩論』では、以下の通り。題名も異なる。

   *

 

     (假題)

 

松林の中に魚の骨が落ちてゐた

あまり白かつたからだらうか私は拾はふとしたのだつた

 

   *

「拾はふ」はママ。これは孰れも――よい。よいが――「(私はそれを三度も見たことがある)」の方が遙かに心因反応の覚悟に於いて衝撃的であり、私は決定稿を支持するものである。]

 

家   尾形龜之助

 

     

 

私は菊を一株買つて庭へ植ゑた

 

人が來て

「つまらない……」と言ひさうなので

いそいで植ゑた

 

今日もしみじみ十一月が晴れてゐる

 

郊外住居   尾形龜之助

 

     郊外住居

 

街へ出て遲くなつた

歸り路 肉屋が萬國旗をつるして路いつぱいに電灯をつけたまゝ

ひつそり寢靜まつてゐた

 

私はその前を通つて全身を照らされた

 

日一日とはなんであるのか   尾形龜之助

 

     日一日とはなんであるのか

 

どんなにうまく一日を暮し終へても

夜明けまで起きてゐても

パンと牛乳の朝飯で又一日やり通してゐる

 

彗星が出るといふので原まで出て行つてゐたら

「皆んなが空を見てゐるが何も落ちて來ない」と暗闇の中で言つてゐる男がゐた

その男と私と二人しか原にはゐなかつた

その男が歸つた後すぐ私も家へ入つた

 

かなしめる五月   尾形龜之助

 

     かなしめる五月

 

たんぽぽの夢に見とれてゐる

 

兵隊がラツパを吹いて通つた

兵隊もラツパもたんぽぽの花になつた

 

床に顏をふせて眼をつむれば

いたづらに體が大きい

 

夜 疲れてゐる晩春   尾形龜之助

 

     夜 疲れてゐる晩春

 

啼いてゐる蛙に辭書のやうな重い本をのせやう

遲い月の出には墨を塗つてしまはふ

 

そして

一晩中電燈をつけておかう

 

[やぶちゃん注:「のせやう」「しまはふ」「おかう」はママ。「電燈」の「燈」は底本の用字である。]

晝   尾形龜之助 (同題連続二篇)

 

     

 

太陽には魚のやうにまぶたがない

 

 

 

     

 

晝の時計は明るい

 

[やぶちゃん注:以上は第二詩集「雨になる朝」で連続した独立篇の同題の二篇である。]

親と子   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

     親と子

 

太鼓は空をゴム鞠にする

でんでん と太鼓の音が路からあふれてきて眠つてゐた子をおこしてしまつた

 

飴賣は

「今日はよい天氣」とふれてゐる

私は

「あの飴はにがい」と子供におしへた

 

太鼓をたゝかれて

私は立つてゐられないほど心がはずむのであつたが

眼をさました子供が可哀いさうなので一緒に緣側に出て列らんだ

 

菊の枯れた庭に二月の空が光る

 

子供は私の袖につかまつてゐる

 

[やぶちゃん注:初出の昭和二(一九五七)年四月発行の『文藝俱樂部』では、以下の通り。

   *

 

     親と子

 

太鼓は空をゴム鞠にする

でんでん と太鼓の音が路からあふれてくる

空氣がはじけて

眠つてゐる子供を起こしてしまつた

 

飴賣りは

「今日はよい天氣」とふれてゐる

 

私は

「あの飴はにがい」と子供におしへた

 

太鼓をたたかれて

私は立ツてゐられないほど心がはずむのであつたが

眼をさました子供が可愛さうなので

一緒に緣側に出て列らんだ

 

二月の空が光る

子供の心が光る

 

梅の花の匂ひがする

 

私は遠のいた太鼓から離れて

菊の枯れた庭に晝の陽影を見た

子供は私の袖につかまつてゐた

 

   *

初出の作為的で凡庸なシンボライズや生温い浪漫感覚が払拭されて、二月の清冽な空気が肌に実感として感じられる。優れた截ち入れである。]

十二月の晝   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

     十二月の晝

 

飛行船が低い

 

湯屋の煙突は動かない

 

[やぶちゃん注:私は「湯屋」は絶対に「ゆうや」と読みたくなる人種である。

 本詩篇は初出の昭和二(一九二七)年一月発行の『亞』二十七号では、題名と本文が異なる。以下に全篇を示す。

   *

 

     煙草と十二月の晝

 

演習歸りの飛行船が低かつたが

 

風呂屋の煙突は捕ひやうともしないで立つてゐた

 

   *

「捕ひやう」はママ。初稿は「飛行船」も「煙突」も自律的で能動的な擬人性が顕著であったものを、決定稿ですっかり拭い去っていたということが判る。]

原の端の路   尾形龜之助

 

     原の端の路

 

夕陽がさして

空が低く降りてゐた

 

枯草の原つぱに子供の群がゐた

見てゐると――

その中に一人鬼がゐる

 

初夏一週間 (戀愛後記)   尾形龜之助

 

     初夏一週間 (戀愛後記)

 

つよい風が吹いて一面に空が曇つてゐる

私はこんな日の海の色を知つてゐる

 

齒の痛みがこめかみの上まで這ふやうに疼いてゐる

 

私に死を誘ふのは活動寫眞の波を切つて進んでゐる汽船である

夕暮のやうな色である

 

    ×

 

昨日は窓の下に紫陽花を植ゑ 一日晴れてゐた

 

小さな庭   尾形龜之助

 

    小さな庭

 

もはや夕暮れ近い頃である

一日中雨が降つてゐた

 

泣いてゐる松の木であつた

 

晝寢が夢を置いていつた   尾形龜之助

 

     晝寢が夢を置いていつた

 

原には晝顏が咲いてゐる

 

原には斜に陽ざしが落ちる

 

森の中に

目白が鳴いてゐた

 

私は

そこらを步いて歸つた

甲子夜話卷之二 49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語

2―49 林子、浴恩園の雅話林宅俗客の雅語

述齋曰ふ、浴恩老侯と其園中を徘徊し、草木の事ども話合ける次手に、楡の木のことを申出たれば、老侯知らずと云れしゆへ、細かなる枝の繁きものにて、枝先殊に小く細く候。形容は榎の木などよりも又一段おもしろく候と云ければ、老侯の、夫は雪を積らせて見ばよかるべしと云れし。この一言、何の事も無きことにて、眞に風雅の意深き人ならでは、かゝる語は出ざるものと感ぜりとなん。

又一俗客、述齋の宅に來り、談話して夜ふけぬ。其人云しは、餘ほど夜は更候と覺ゆ。蟲の音高く聞え候。もはや御暇申さんとて起しとなり。此一言も今に忘れずと述齋云き。

■やぶちゃんの呟き

 二話目の改行はママ。「甲子夜話」の中では特異点。

「林子」「述齋」既出既注であるが、再掲しておく。「述齋林氏」江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。ウィキの「林述斎」によれば、父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、寛政五(一七九三)年、『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。因みに彼の三男は江戸庶民から「蝮の耀蔵」「妖怪」(「耀蔵」の「耀(よう)」に掛けた)と呼ばれて忌み嫌われた南町奉行鳥居耀蔵である。

「浴恩園」現在の中央区築地にある「東京都中央卸売市場」の一画にあった「浴恩老侯」老中松平定信が老後に将軍から与えられた地で、定信は「浴恩園」と名付けて好んだとされる。当時は江戸湾に臨み、風光明媚で林泉の美に富んでいた。

「楡」「にれ」。バラ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica としてよかろう。

「榎」「えのき」。バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis

甲子夜話卷之二 48 荻原林阿彌、石橋の答の事

2―48 荻原林阿彌、石橋の答の事

御同朋頭の荻原林阿彌は、殊に輕率なる生なり。或時御能ありて賜饗のとき、番組に石橋の能あり。御用部屋に見物の間、折々老臣衆休息して居られ、林阿彌に此次は何の能なりしやと問れければ、即應じて此次は執着に候と云たりとぞ【執着とは、坊主歌舞伎にて、能の石橋の體を替て爲れるものなり】。時に松平豆州【信明、老職】その坐に居られしが、常々儼然持重の人なりしが、こたへかねて吹出せりと【豆州若輩の比は世上浮華なりし故、賤伎のことをも辨へゐられし也】。是より人、林阿彌を號して執着と呼ける。

■やぶちゃんの呟き

「荻原林阿彌」不詳であるが、こちらの国立国会図書館デジタルコレクションの画像を元にした「町会所一件書留」の天保七(一八三六)年の資料の中に、『元數寄屋町荻原林阿彌拜領町屋敷類燒後貸付金高之儀二付御𢌞し濟』(恣意的に正字化した)という一節があり、同一人物と思われる。

「御同朋頭」「ごどうばうがしら(ごどうぼうがしら)」は江戸幕府の職名で、若年寄に属し、同朋(室町と江戸に於いて将軍・大名に近侍し、雑務や諸芸能を掌った僧体の者。室町時代には一般に「阿弥」の号を称し、一芸に秀でた者が多かった)及び表坊主(江戸城中で大名や諸役人の案内・着替・連絡等を務めた)・奥坊主(江戸城内の茶室を管理し、将軍や大名・諸役人に茶の接待をした)を監督指揮した役職。

「石橋」「しやくきけう(しゃっきょう)」。能の五番目物の一つで、ダイナミックな獅子舞いで知られる。作者未詳。出家した大江定基が入唐し、清涼山の石橋で童子に会う。童子は橋の謂われと文殊の浄土の奇特を教えて去る。やがて獅子が現れて牡丹の花に戯れながら壮絶華麗な舞いを見せる。

「殊に輕率なる生」「生」は「うまれ」。生まれつき(天性)、何とも殊更に呆けまくったところのある性質(たち)。

「賜饗」「しきやう(しきょう)」。将軍主催の晩餐の宴。

「御用部屋」江戸城に於ける最上級管理職である大老・老中・若年寄の詰所。ここで幕政の決議が行われた。前期は将軍の居室に近い「中の間」であったが,貞享元(一六八四)年八月に若年寄稲葉正休(まさやす)による大老堀田正俊刺殺事件が起きてから、将軍の居室からは遠ざけられている。

「問れ」「とはれ」。

「即應じて」「そく、おうじて」。

「執着」「しふぢやく」「執着とは、坊主歌舞伎にて、能の石橋の體を替て爲れるものなり」ここがよく判らぬのであるが、どうもこの坊主衆の古くからの仲間内の楽しみとして、正規の将軍の嗜む能楽をパロディ化した、「かぶいた」芸能、オチャラけた芸が存在し、その中に「石橋」(「しゃっきょう」という特殊な読みにも引っ掛けた)、題を「執着」(「しゅうちゃく」)というのがあり、この大呆けの「荻原林阿彌」、思わず「石橋(しやくきけう)」と言うべきところを「執着(しふぢやく)」と言ってしまったという馬鹿話なのであろう。

「時に」たまたまその時。

「松平豆州【信明、老職】」複数回既出既注であるが、再掲する。三河吉田藩第四代藩主で、幕府老中・老中首座を務めた松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年)。老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と、文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年。ウィキの「松平信明」によれば、『松平定信が寛政の改革をすすめるにあたって、定信とともに幕政に加わ』って改革を推進、寛政五(一七九三)年に『定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ』、『蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した』。寛政一一(一七九九)年に『東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく』享和二(一八〇二)年に非開発の方針に転換、『蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した』。『しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ』、享和三(一八〇三)年に病気を理由に老中を辞職している。ところが、文化三(一八〇六)年四月二十六日に彼の後、老中首座となっていたこの「大垣侯」戸田氏教(うじのり)が老中在任のまま『死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった』。『しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され』たことから、文化三(一八〇六)年五月二十五日に信明は家斉から異例の老中首座への『復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている』。『ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている』とある。その後は種々の対外的緊張から防衛に意を砕き、経済・財政政策では『緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた』が、『蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落』、文化一二(一八一五)年頃には『幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという』とある。

「儼然」「げんぜん」で「厳然」に同じい。厳(いかめ)しく厳(おごそ)かなさま。動かし難い威厳のあるさま。

「持重」「ぢちよう(じちょう)」。常に重々しくし、軽々しく振る舞わないこと。慎重であること。

「こたへかねて」堪(こら)えかねて。

「吹出せり」「ふきいだせり」。プファッツ! と思わず吹き出し笑いしてしまった。

「比」「ころ」。

「世上浮華なりし」「浮華」は「ふくわ(ふか)」で、上辺(うわべ)は華やかであるが、中身の乏しいこと或いはそうしたさまを指す語。

「賤伎」芸能事は近世以前は、おしなべて皆、賤民の技として本質的には蔑まされていた。

「辨へ」「わきまへ」。

ゐられし也】。是より人、林阿彌を號して執着と呼ける。

甲子夜話卷之二 47 土屋帶刀裸體にて馬に乘る事

2-47 土屋帶刀裸體にて馬に乘る事

土屋駿河守【千石】と云しは、大坂町奉行を勤て、長崎奉行となりて彼處にて沒したり。此人若き時、帶刀と云。兩御番にて御使者を望たれども願達せず年を歷たり。この頃は松平右近將監【武元】老職にて、土屋の隣家某、其聟なりしを以て、時々その宅に來り、いつも樓上に居られける。樓は土屋の宅を目下に見る所なりしとぞ。又一日、武元來り、彼樓上に在る時、土屋丸裸下帶計にて馬に騎り、我馬場を馳驅してわざと武元に見せける。これその雲路の情願叶はざるを恚りてのいたづらなりしとぞ。然るに武元臨見るに、土屋が馬術目を駭かす計のことにてありしより、遂にこれが階梯となりて出身しけるとなん。

■やぶちゃんの呟き

「土屋帶刀」(「帶刀は「たてはき」)「土屋駿河守【千石】」「大坂町奉行を勤て、長崎奉行となりて彼處にて沒したり」という条件から、土屋守直(もりなお 享保一九(一七三四)年~天明四(一七八四)年)と考えられる。幕臣で宝暦四(一七五四)年に父の遺領を嗣ぎ、安永八(一七七九)年、大坂町奉行に昇進、天明三(一七八三)年に長崎奉行となったが、翌年、五十一歳で亡くなっている。彼の通称は「帯刀(たてわき)」であった。

「兩御番」「りやうごばん(りょうごばん)」は江戸城警備と将軍の護衛を任務とする「書院番」と「小姓組番」を指す。

「御使者」「御使番」のこと。既注であるが再掲する。元来は戦場での伝令・監察・敵軍への使者などを務めた役職。ウィキの「使番」によれば、江戸幕府では若年寄の支配に属し、布衣格で菊之間南際襖際詰。元和三(一六一七)年に定制化されたものの、その後は島原の乱以外に『大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する』ようになった。『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行い』とあり、常に幕府の上使としての格式を持つ名誉な職であった。

「望たれども」「のぞみたれども」。

「歷たり」「へたり」。

「松平右近將監【武元】」老中松平武元(たけちか 正徳三(一七一四)年~安永八(一七七九)年)。上野館林藩・陸奥棚倉藩藩主。親藩ながら江戸幕府の寺社奉行や老中を務めた。ウィキの「松平武元」によれば、常陸府中藩主松平頼明次男であったが、享保一三(一七二八)年に『上野館林藩主松平武雅の養嗣子となり家督相続、その直後に陸奥棚倉に移封され』延享三(一七四六)年、『西丸老中に就任し、上野館林に再封され』や。延享四(一七四七)年に老中となり、明和元(一七六四)年、老中首座となっている。『徳川吉宗、家重、家治の』三『代の将軍に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は』安永八(一七七九)年死去まで十五年間、務めた。

「樓」高殿・物見台。

「下帶計にて」「したおびばかりにて」。褌(ふんどし)だけで。

「騎り」「のり」。

「我馬場」「わがばば」。

「馳驅」「ちく」。馬を走らせること。

「雲路の情願」「うんろのじやうぐわん(じょうがん)」「雲路」は「官職に就いて出世することの比喩。「情願」は「嘆願」と同義。

「恚りての」「いかりての」。

「臨見るに」「のぞみみるに」。

「駭かす」「おどろかす」。

「計」「ばかり」。

甲子夜話卷之二 46 有德廟、御鷹野のとき儉易を好せらるゝ事

2―46 有德廟、御鷹野のとき儉易を好せらるゝ事

德廟、御鷹野のときは、何かに無造作なるを好ませ給ひたり。是治平の時の軍中の習しとの尊慮なるべし。扈從の人股引着て御前に候すれば、あぐらかく可しと仰有しに、何れも遲々しければ、脛當を着て坐が出來るものかと御叱りありしとなり。或時、松平左近將監を御鷹野の御供仰付られたり。總て老職御供のとき、手人は遠き所にある故、部屋付の坊主衆用便に往くことなり。御場にて、乘邑草鞋を著(ハカ)んとて將几に腰かけ、かの坊主に草鞋をはかせながら、その所を通り過る奧向の輩へ、上には御草鞋はめさせられしやと問たるに、上はとく御自身にめさせられしと答るを聞くや否や、將几を下りて、自身に草鞋を着けられたりと云。當年の風俗想ひやるべし。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」徳川吉宗。

「御鷹野」「おたかの」と読み、「鷹狩り」に同じい。

「是治平の時の軍中の習しとの」「これ、ぢへいのとき」で、「これは、かくも天下泰平の平時の折りにても、戦陣に於ける心得を忘れざる習わしとされる。

「尊慮」御深慮。

「扈從」「こじふ(こじゅう)」。

「股引」「ももひき」。腰から踝(くるぶし)まで密着して覆う形のズボン様のもの。鷹狩では徒歩で下草や笹藪を行くため、下半身を普通以上にガードする必要があったからであろう。

「何れも遲々しければ」誰もがそう命ぜられても、もぞもぞしてなかなか着座せずのいたため。通常は将軍の前では正座をするのが正規規則であったからであろう。

「脛當を着て坐が出來るものか」「脛當(すねあて)」は「臑当て」で、甲冑の付属品で臑(すね)から膝に当てて防具とした武具。鉄や革で作り、古くは臑のみをガードしたが、南北朝頃より上部に膝頭を蔽う「立挙(たてあげ)」を附属するようになった。

「松平左近將監」「まつだいらさこんのしやうげん」は老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)のこと。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。既注ながら再掲しておく。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに亙って『徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央』(かんおはるひで)『とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭』(ただずみ)『が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると』、『直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。

「手人」「てにん」。乗邑の側近の家臣連。

「部屋付の坊主衆」老中部屋づきの茶坊主衆。

「用便」いろいろな身辺の雑事を取り計らうこと。

「往くことなり」直近でつき従うのが定めであった。

「御場」御狩場。

「將几」「しやうぎ(しょうぎ)」。「床几」「牀几」などとも書く。折り畳み式の腰掛け。脚を打ち違えに組み、革・布などを張って尻を乗せるようにしたもの。

「草鞋」「わらぢ」。

「問たるに」「とひたるに」。

甲子夜話卷之二 45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事

 

2―45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事

文化丁卯の八月、深川八幡宮恆禮の祭ありたるとき、永代橋陷て、人饒く水死せしことあり。是は橋の絕墜にはあらで、往來群衆の人夥きに因て、其中ばより撓て水中に入たるなり。夫ゆへ前行の陷たるを後なるは知らずして推行ゆへ、前者あれ々々と言へども、後者に推れて、據なく水中に墜ちしと云。此時一人の士、白刃を拔て頭上にかざし振𢌞しければ、後者これを見て驚懼て皆後へ逃行ければ、始て橋の陷りたる形あらはれて、水死の難を脫れたるもの數を知らず。如ㇾ此混雜の時、いかやうの大聲にても人の耳に入らず。力を極めても數百人を推戾すことも出來ざるより、頓知を以て數多の人命を救しは、感賞すべきことなり。因みに云ふ。其時橋より墜たりし者に、後、予遇しことあり。女なりしが云には、前記の如く橋撓たれば、皆々すべり陷たるゆへ、前なる者も是非なく水中に推入られて、其下なるは水中に在るに、中なるは其人の上に乘て、水より半ば出て立てある抔にて、下なる者は上の人に踏まれて溺死せりと云き。此女はいかにして命助りけん。又曰。此時水死の數、世上にては千萬抔云ふらす。予因て町奉行組同心小川某に其實を問たれば、水死百五十二人、百三十人は死骸を引取る。七人は引取らず。十五人は引取て後死す。又數人の中、二十二人は士、二人は僧、十五人は婦女と答ふ。是は實談也。此餘、屍を取り揚るに及ばず、流れ海に入ものは、其數知るべからずと云。又此時、一兩日を經て、其邊の家に夜幽靈出づ。白衣被髮して來るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、家人は溺死の亡魂ならんと駭恐て、皆逃去る。この如きこと度々なれば、人々心づき、其家財を省るに失亡多かりける。奸盜の人を欺し、詭術にてぞ有ける。又此時、堂兄稻垣氏、祭禮を見に往き、樓上に居たるが、何か騷動せし物音なりしが、やがて滿身水に濡たる衣服きし男女の、其下を通りたる體を疑ひ見ゐたる中に、一人銀鼈甲の櫛簪を、手にあまる程一束に握り走り行を、跡より一人追かけ行ける。是はまさしく盜取たる物と覺えしと。かゝる騷擾危難の中にも、盜賊は亦この如く有ける。

■やぶちゃんの呟き

「深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事」(「陷る」は「おちる」)「文化丁卯の八月、深川八幡宮恆禮の祭ありたるとき、永代橋陷て、人饒く水死せしことあり」(「丁卯」「は「ひのとう」、「饒く」は「おほく」)これは有名な文化四年八月十九日(グレゴリオ暦一八〇七年九月二十日)永代橋崩落事件である。「深川八幡宮」は現在の東京都江東区富岡にある富岡八幡宮の別名で、永代橋はその社前から北西に一キロほどの距離にある隅田川に架かる橋。ウィキの「永代橋」の「落橋事故」によれば、『幕府財政が窮地に立った』この百年も前の享保四(一七一九)年の時点んで幕府は既に永代橋の維持管理を諦め、廃橋を決めているのであるが、『町民衆の嘆願により』、『橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、深川富岡八幡宮の』十二年ぶりの祭礼日(深川祭)に『詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こした』。『橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落』、『死傷者・行方不明者を合わせると実に』千四百人を『超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が下記の狂歌や「夢の憂橋」を著している』。

 永代とかけたる橋は落ちにけりけふは祭禮あすは葬禮

『古典落語の「永代橋」という噺もこの落橋事故を元にしている。南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っている。曲亭馬琴は「兎園小説」』で「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引拔きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戾りしとぞ」と書いており、静山も書いているこのエピソードがかなり知られたものであることが判る。実録をプレの状況からよく追って書かれているものとしては、「檜山良昭の閑散余録」の「永代橋の悲劇」(1)(4)がすこぶる、よい。特にこの(2)を読むと、この年の『深川八幡祭には特別に盛り上がる事情があ』ったとする。十二年前に当たる寛政七年の『祭礼のときに、町内同士の大きな喧嘩があった。このために町奉行所が氏子町の山車や練り物を禁止していたの』だが、この文化四年は実に十二年振りにそうした禁制が解かれ、『許可が出たというので、各町内が盛り上がっていたし、見物人の期待も大きかった』。しかも七月末からは出版業者が『「祭り番付」を売り出して、祭りを盛り上げていた。「祭り番付」というのは、一枚の紙にそれぞれの町内の山車や練り物の内容を書き入れた一覧表で』、『祭りに便乗して』、一枚二文で『売り出したので』すあった。祭りは八月十四日に始まり、十五日が「渡御(とぎょ)」と『言って、八幡宮、大神宮、春日宮の三つの神輿が担ぎ出され、氏子町内を練り歩く。また、それぞれの町内の山車や練り物が八幡宮の境内に集結しようと動き出す』という予定であったところが、十五日が雨で、この十九日に延期となり、『この延期がいっそう人々の期待を高めたと』される。また、事件当日十九日早朝には、『本所の撞木橋のたもとで首を掻き切られた』十七、十八歳の『若い女の死体が見つかった。この情報が広まると、ついでに現場を覗いてみたいという野次馬が早朝から深川に集まった』ともある。崩落は午前十時半前後に発生したらしいが、その辺りは是非、檜山氏の精密巧緻な(2)及び(3)のそれをお読みあれ。

「絕墜にはあらで」「たえおつるにはあらで」。老朽化したり、流木などによって損壊して崩落したのではなく。

「中ば」「なかば」。半ば。但し、先の檜山氏の「永代橋の悲劇」(2)によれば、最初は『深川寄りの位置で橋が崩れ落ちた』とある。

「撓て」「わたみて」。先の檜山氏の「永代橋の悲劇」(によれば、『太田南畝の計算では、そのときの永代橋の坪数は』四十八坪、一坪に二十人として、およそ九百九十六人。一人の体重が十貫(三十七・五キログラム)として、九千六百貫(三十六トン)の『重さが橋に懸かっていた』とある。

「推行」「おしゆく」。

「推れて」「おされて」。

「據なく」「よんどころなく」。

「白刃」「はくじん」。

「拔て」「ぬきて」。

「振𢌞し」「ふりまはし」。

「驚懼て」「おどろきおそれて」。

「逃行」「にげゆき」。

「橋の陷りたる形あらはれて」先の檜山氏の「永代橋の悲劇」(2)によれば、崩落直後に実に十二間(二十二メートル弱)もの『長さにわたって横倒しになった。その付近にいた群衆が川に投げ落とされたのはいうまでもないが、後方ではそんなこととは知らない群集が前を押し』た結果、人々は『トコロテンのように押し出されて落ちていった』とし、『橋の中ほどで一人の侍が欄干につかまりながら、右手で刀を振り回した。これをみた周囲の群衆が、「喧嘩だ!」「抜いたぞ!」と叫ぶ、後方に押し戻したので、群衆の流れがやっと止まった。この機転のせいで、犠牲者がさらに増えるのが止められた』。『楽しい祭りは、一転して阿鼻叫喚の地獄と化したので』あった、とあるから、見通しさえあれば、その大崩落の現状は容易に確認出来たのであった。だからこそ、この全容が後続の者らに見えた時点(恐らくは十数分のことであったろうと思われる)でようやく、後ろの人々はそれに気づき、「水死の難を脱れたるもの數を知らず」なのである。この助かった彼らはしかし、助かったかも知れぬ、先行した人々をやたらに押し、結果として墜落させ、溺死させた人々でもあったのである。

「如ㇾ此」「かくのごとき」。

「推戾す」「おしもどす」。

「頓知」「とんち」。ここは火急の事態を認知して機転を利かせて抜き身を振り上げたことを指す。

「數多」「あまた」。

「救し」「すくひし」。

「感賞すべき」褒め称えるべき。

「予」「よ」静山。

「遇し」「あひし」。

「推入られて」「おしいれられて」。

「乘て」「のりて」。

「半ば出て立てある抔にて」「なかばいでてたちてあるなどして」。水中の人間ピラミッドの凄惨さが描かれる。次の次の注の檜山氏の引用を参照のこと。

「云ふらす」「いひ觸らす」。

「水死百五十二人」「永代橋の悲劇」(によれば、『実際には千数百人もの人間が川に落下した。先に落ちた人は、後から落ちた人の下敷きになって大部分が助からなかったらしい。幸いなことには、多数の御用船が警備のために付近に浮いていた。事故が起こるや、これらの川舟が橋が崩落した場所に急行して、大勢を救助した。また、自力で岸に這い上がった人も少なくなかった』。『事故直後は怪我人』は五十人ほど『という情報が流れたが、八つ半時』(午後三時頃)には凡そ八十人、夕方には百八十人『くらいと、時が経つに従って数が増えていった』。『救助のために陸から川に飛び込んだ人も』あったとして、具体な種々のケースを詳細に記しておられる。『夕方までに集結した救助船は』百四十四艘、『溺死者を含めて』七百四十五人を『引き上げた』。『祭り見物というので、子連れが多』く、『引き上げられた遺体は哀れを誘うものが少なくなかった』とし、『「小屋のうちに老女がひとり。六、七歳の女子を手をつないだまま揚がり、老女の腹の上に近江屋何のなにがしの娘と書いた手紙が乗せてあったという。また、二十四、五歳の武士の帯を十歳ばかりの男児が右の手で握ったまま引き揚げられたそうである」』とある。『夕方には河口の佃島のほうで』、百人『あまりも投網で引き上げた。その中にはまだ生きている人もいた』。『「同日夜になっても家に帰らない人が多いので、迎えの家族や親類が紙幟(かみのぼり)に町名と氏名を書き、そこここに集まっていた。その数が幾万人ともしらない。また、迎えの二番手、三番手がつぎつぎに重なり、江戸中の騒ぎは人命にかかわるだけにたとえようがないほどであった」』という。『夕方までに引き上げられた遺体は』百九十四人で、その内の八十九人が『家族によって引き取られていった』(静山の同心からの聞き書きより、死者の数は四十二人多く、引き取り手のなかった遺体は四十二人少ない)とある。「永代橋の悲劇」(4)には翌日の惨状が語られ、二十日正午に町奉行所に提出した死者の人数は三百九十一人『に達した。そのころ佃島の方では、小舟を出して捜索に当たった』漁師らが、七十九人を『引き上げていた。この中には一夜を水中で過ごした半死半生の生存者もい』たとある。以下、事後の幕府の対応が載り、生活困窮者に限って、見舞金が下賜されたというものの(金額はリンク先を参照されたい)、『見舞金を受けとったのは一家の稼ぎ手死亡が』八人、負傷が五人、家族の死亡が二十三人、負傷が十人と、『死傷者に比べてあまりに少ないので』ある『が、これは生活困窮者として名乗り出るのを恥とする意識が強かったから』と思われる、とある。当然、幕府は事故の責任も追及、三名の『橋請負人、橋係りの番人、祭礼のさいの橋掛かりと橋周り役の合計』三十四名が『入牢。町奉行所の橋役人と道役人、それに仲町と森下町の名主が預かり処分』されている、とある。

「百三十人は死骸を引取る。七人は引取らず。十五人は引取て後死す」この数値、差し引きがぴったり合っているところが、寧ろ、嘘臭い。

「駭恐て」「おそれて」。

「省るに」「かえりみるに」。戻って点検してみると。

「奸盜」邪まなる悪心に満ち満ちた、非情の盗賊。

「詭術」「きじゆつ」。人を偽り騙す方法・手段。やはり檜山氏の「永代橋の悲劇」(4)にも、事故直後から『遺体が並べられている永代橋の南詰めには、肉親の安否を気遣う家族が大勢押しかけていた。その混雑に紛れて、遺体を確認するふりをして所持品を盗む泥棒が少なくなかったので』、二十日『朝からは身元確認のための検視をしてから、家族に引き渡すことになった』とある。また、『悲劇の中にも笑い話があ』ったとして、『本郷に住む麹屋は祭り見物に出かけたところ、途中でスリに財布をすられてしまった。一文無しでは見物にも行けないと、引き上げて帰り、寝てしまった。翌朝、町奉行所から遺骸を引き取りに来るようにと連絡があったので、不思議に思いながら永代橋まで出かけた。そこですられた財布を見せられたという』。『財布の中に自分の住所と氏名を書いた紙を入れておいたので、スリの遺体を自分とまちがえられたのである』。『神田小川町の猪飼という商家の息子2人は下男と一緒に見物に出かけて事故に遇った。橋が切れるときに兄弟は渡りきろうとしていたので、橋際に飛び跳ねて難を逃れたが、下男が落ちた』。『家に帰って、下男を心配していると、夜遅くずぶぬれになって帰ってきた。「良かった。良かった」と家族全員で喜んでいると、「落ちるときにこんなものを拾いました」と、下男が財布を出して見せた。落ちる瞬間に、隣で倒れている人の胸の上にあるのをとっさに拾ったのだという』。『「自分の命が危ういときに、すばやく他人の財布を拾うとはあきれた奴だ」』ともある。

「堂兄」従兄(いとこ)の意。

「稻垣氏」不詳。

「樓上」茶屋の二階。

「濡たる」「ぬれたる」。

「體」「てい」。

「疑ひ見ゐたる中に」不審なことと見咎めて、よく観察してみたところ。この静山の従兄である稲垣氏がこれを見たのは崩落から間もない頃のことで、永代橋からは少し離れていたのであろう。だから永代橋の崩落の事実を知らないので、濡れ鼠の男女をまず不審がったのである。

「銀鼈甲の櫛簪」「ぎんべつかふ(ぐんべっこう)のくし・かふがひ(こうがい)」。タイマイの甲と銀を素材とした高価な飾り用の櫛(くし)・笄(こうがい)。

「一束」「ひとつかみ」。

「走り行」「はしりゆく」。

「跡より一人追かけ行ける」これは転落しながらも陸(おか)へ辛うじて上って助かった女性で、奪われたことに気づいた、その執念であろう。慌てた盗人(ぬすっと)は足を滑らせ、笄の尖った先で目でも突き刺すがよい。

「盜取たる」「ぬすみとりたる」。

落日   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

     落日

 

ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐる

 

部屋のすみに菊の黃色が浮んでゐる

 

[やぶちゃん注:二文二連からしか構成されない本作は、初出の『銅鑼』十号(昭和二(一九二七)年二月刊)では三文(第一連の一文は三行分かち書きをとる)三連から成る、凡そ四倍の分量の初稿から削がれたものである。初出を以下に示す。

   *

 

     落  日

 

ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐると

客はごく靜かにそつと歸つてしまつて

私はさよならもしなかつたやうな氣がする

 

部屋のすみに菊の黃色が浮んでゐる

 

肅々となごりををしむ落日が眼に溜つてまぶしい

 

   *

個人的には初出の方がよい。ストイックに削ぎに殺がれてしまった結果、決定稿では標題のみに残された「落日」の景観が、詩篇の中で十全に映像化し難くなってしまっているからである。]

坐つて見てゐる   尾形龜之助

 

    坐つて見てゐる

 

靑い空に白い雲が浮いてゐる

蟬が啼いてゐる

 

風が吹いてゐない

 

湯屋の屋根と煙突と蝶

葉のうすれた梅の木

 

あかくなつた疊

晝飯の佗しい匂ひ

 

豆腐屋を呼びとめたのはどこの家か

豆腐屋のラツパは黃色いか

 

生垣を出て行く若い女がある

雨になる朝   尾形龜之助



    
雨になる朝

 

今朝は遠くまで曇つて

雞と蟋蟀が鳴いてゐる

 

野砲隊のラツパと

鳥の鳴き聲が空の同じところから聞えてくる

 

庭の隅の隣りの物干に女の着物がかゝつてゐる

 

[やぶちゃん注:「序」のケースと同様。「雞」は「にはとり」で、底本は「鶏」であるから、「鷄」とするべきところであるが、「鷄」がないこともないが、尾形龜之助は多くの著作で圧倒的に「雞」と書いているので、ここはそれを踏襲した。以下でも同様の処置を施した。原典をお持ちの方、これらが「鷄」となっているようであれば、是非、御指摘下されたい。]

花   尾形龜之助



    

 

街からの歸りに

花屋の店で私は花を買つてゐた

 

花屋は美しかつた

 

私は原の端を通つて手に赤い花を持つて家へ歸つた

尾形龜之助第二詩集 「雨になる朝」 (恣意的正字化版)始動 序(二篇) / 十一月の街

 尾形龜之助の第二詩集「雨になる朝」(昭和四(一九二九)年五月論志堂書店刊)を恣意的に正字化し、さらに一部詩篇で異なる初出稿・第二次稿をも復元して、順次、示すこととする。

 私は既に、私のサイト「鬼火」の「心朽窩新館」に於いて、

 

尾形龜之助 詩集 色ガラスの街〈初版本バーチャル復刻版〉

 

尾形龜之助作品集『短編集』(未公刊作品集推定復元版 全22篇) 附やぶちゃん注

 

尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注

 

尾形龜之助拾遺 附やぶちゃん注

 

尾形龜之助句集(附 尾形蕪雨一句・尾形余十五句)

 

尾形龜之助歌集

 

その他をオリジナルに電子化してきた。永く、残る生前発行の二詩集の原典に当たって、正規表現での電子化をし、尾形龜之助の全詩を掲げたく思ってきたが、その個人的な頼みの伝手も、私からは最早、失われてしまった。されば、かくなる仕儀を行うことと決した。

 底本は一九九九年思潮社刊の秋元潔編「尾形亀之助全集 増補改訂版」を用いたが、上記の通り、恣意的に漢字を概ね正字化した。それが少なくとも戦前の刊行物の場合、より詩人の書いた原型に近い物ものとなると信ずるからである。

 本詩集の内、八篇は初出或いは第二次稿で相違が認められ、それが底本では「異稿対照表」として掲げられている。本電子化では、当該決定稿の後に、それらを復元して示すこととする。

 以上の二点に於いて、本電子テクストはネット上に現存する如何なる「雨になる朝」とも異なるものとなる。【2016年11月13日 藪野直史】

 

 

 

 雨になる朝

 

 

 

 この集を過ぎ去りし頃の人々へおくる

 

 


   
  二月・冬日

 


        
二月

 

 子供が泣いてゐると思つたのが、眼がさめると雞の聲なのであつた。

 とうに朝は過ぎて、しんとした太陽が靑い空に出てゐた。少しばかりの風に檜葉がゆれてゐた。大きな猫が屋根のひさしを通つて行つた。

 二度目に猫が通るとき私は寢ころんでゐた。

 空氣銃を持つた大人が垣のそとへ來て雀をうつたがあたらなかつた。

 穴のあいた靴下をはいて、旗をもつて子供が外から歸つて來た。そして、部屋の中が暗いので私の顏を冷めたい手でなでた。

 

[やぶちゃん注:「冷めたい」はママ(次の「冬日」も同じ)。「雞」は「にはとり」で、底本は「鶏」であるから、「鷄」とするべきところであるが、「鷄」がないこともないが、尾形龜之助は多くの著作で圧倒的に「雞」と書いているので、ここはそれを踏襲した。以下でも同様の処置を施した。原典をお持ちの方、これらが「鷄」となっているようであれば、是非、御指摘下されたい。]

 


         
冬日

 

 久しぶりで髮をつんだ。晝の空は晴れて靑かつた。

 炭屋が炭をもつて來た。雀が鳴いてゐた。便通がありさうになつた。

 

 暗くなりかけて電燈が何處からか部屋に來てついた。

 宵の中からさかんに雞が啼いてゐる。足が冷めたい。風は夜になつて消えてしまつた、簞笥の上に置時計がのつてゐる。障子に穴があいてゐる。火鉢に炭をついで、その前に私は坐つてゐる。

          千九百二十九年三月記

 

[やぶちゃん注:クレジットはインデントであるが、ブログでのブラウザ上の不具合を考えて上げてある。]

 

 


    
十一月の街

 

 

街が低くくぼんで夕陽が溜つてゐる

 

遠く西方に黑い富士山がある

 

谷の響 三の卷 七 死骸を隱す

 
 七 死骸を隱す

 

 出里村大宅伊右衞門といへるものゝ妻、安政元甲寅の年の八月十五日、酒肴を携へ知遇(しりあひ)の夫人六七個(にん)と岩木川に小舟を浮べて遊びけるが、小さき蝦多くありて船の四邊(あたり)を遊泳(およげ)るに、其頃川も水涸れて底下(そこ)も鮮明(あざやか)に見えわたるに、この妻いとよき慰みとてそと川に入り、包袱(ふろしき)をもて少しばかりを窠(すく)ひあげ又窠(すく)はんとするに、奈何しけん忽ち沈んで形㒵(かたち)を失ひし故、伴(とも)の者ども喧噪(さはぎ)高呼(わめき)て索搜(たづぬ)れどもそれと覺しきものも見えず。伊右衞門もと豪富者なれば、三ケ村の者數百人を償ひて三四里ばかりの水底を殘るくまなく索(たづ)ね搜(さぐ)れども、遂にその亡骸(しかなね)は出でずして空しく已(やみ)しとなり。

 土(ところ)の人の言ふ、この流に淵潭(ふち)ありて、大鰐住めるという古き傳もあれば、この妻決(きは)めてこの大鰐の爲めに噉(くは)れしものなるべしと言ひきと、近江屋竹次郎といひしもの語りしなり。

 

[やぶちゃん注:謎の失踪事件で前話との強い連関を持つ。

「出里村」底本の森山氏の補註に『西津軽郡木造町出野里(でのさと)。津軽四代藩主信政の新田開発事業により、岩木川の西に享保年間開発された川通り三十二ケ村の一である』とあるが、これは「でのさと」ではなく、「いでのさと」と読むと思われる。現在は、つがる市木造出野里(いでのさと)である。ここ(グーグル・マップ・データ)。岩木川の左岸。

「安政元甲寅の年の八月十五日」グレゴリオ暦では一八五四年十月六日(閏七月があるため)。但し、厳密にはこれは安政元年ではなく、嘉永七年である。嘉永七年は旧暦十一月二十七日(グレゴリオ暦一八五五年一月十五日の改元だからである。

「四邊(あたり)」二字へのルビ。

「遊泳(およげ)る」二字へのルビ。

「其頃」「そのころ」。

「底下(そこ)」二字へのルビ。

「鮮明(あざやか)に」二字へのルビ。

「そと」副詞。ちょっと。

「包袱(ふろしき)」二字へのルビ。「袱」(音「フク」)は「物の上にぴったりと被せて包む布(きれ)」の意。

「窠(すく)ひ」「掬うひ」。

「奈何しけん」「いかがしけん」。

「形㒵(かたち)」二字へのルビ。「㒵」は一般には「顔」の意であるが、ここは「貌」(形・姿)と同義で用いていると考えてよい。

「喧噪(さはぎ)高呼(わめき)て索搜(たづぬ)れども」三ヶ所とも二字へのルビ。

「償ひて」金品を出して「やとひ」(雇ひ)と当て訓しているものと私は判断する。

「大鰐」「おほわに」。大鮫。但し、水域から見て、およそ海産のサメの遡上は不可能な上流域である。

「傳」「つたへ」と訓じておく。

「決(きは)めて」定めて。きっと。]

諸國百物語卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事

      四 播州姫路の城ばけ物の事

 

 はりまひめぢの城主秀勝、ある夜のつれづれに家中をあつめ、

「このしろの五重めに、よなよな、火をとぼす。だれにてもあれ、見てまいるものあらんや」

との給へば、御うけ申すもの、一人もなし。こゝに、生年十八になるさむらい、

「それがし、見てまいらん」

と申し上る。

「しからば、しるしをとらせん」

とて、提燈を下されて、

「あの火を、これにとぼしてまいれ」

とあり。かのさむらい、ちやうちんをもち、天守にあがりてみれば、としのころ、十七、八なる女らう、十二ひとへをきて、火をとぼし、たゞ一人ゐ給ふが、かのさぶらひをみて、

「なんぢは、なにとて、こゝへ、きたるぞ」

と、とひ給ふ。かのさぶらひ、

「われは主人のおほせにて是れまできたり候ふ。その火をこれへ、とぼして給はり候へ」といへば、女らう、きゝ給ひ、

「しうめいとあれば、ゆるしてとらせん」

とて、火をとぼして給はりければ、さぶらひ、うれしくおもひてかへりけるに、三重めにてこの火、きへける。又、たちかへりて、

「とてもの事に、きへ申さぬやうに、とぼして給はれ」

といへば、女らう、らうそくとりかへ、とぼし給はる。又、ほかにしるしにせよ、とて櫛(くし)をかたし給はりける。さぶらひ、よろこび、たちかへり、ちやうちんの火をさしあげゝれば、秀勝も、きどくに覺しめし、さて、この火をけして御らんずるに、さらにきへず。かのさぶらひ、けしければ、きへける。

「さて、ほかにふしぎは、なかりけるか」

と、御たづねありければ、かの櫛をとりいだす。秀勝、とりあげ見給へば、具足櫃(ぐそくびつ)にいれをき給ふ櫛也。ふしぎにおぼしめし、ぐそくびつをあけみ給へば、一對入れをき給ひし櫛、かたし、みへざりしと也。さて、それより、秀勝、ぢきに行きてみんとて、たゞ一人、天守にあがり給へば、ともしびばかりにて、なに物も、みへず。しばらくありて、いつもの座頭、きたる。

「何とてきたるぞ」

とゝい給へば、

「御さびしく候はんとぞんじまいり候ふが、琴の爪ばこのふた、とれ申さず候ふ」

と申し上る。秀勝、きゝ給ひ、

「これへよこせ、あけてとらせん」

とて、爪ばこを手にとられければ、手にとりつきて、はなれず。

「くちをしや、たばかられける」

とて、足にてふみわらんとし給へば、足も取りつきける。さて、かの座頭は、そのたけ一丈ほどなる鬼神となり、

「われはこのしろの主也。われをおろそかにして、たつとまずんば、たゞ今、ひきさきころさん」

といひければ、秀勝、さまざまかうさんせられけるゆへ、爪ばこもはなれ、ほどなく、その夜もあけにける。天守の五重めかとおもわれしが、いつもの御座のまにてありしと也。

 

[やぶちゃん注:話柄後半の手足が爪箱に附着して離れなくなるというのは、「卷之三 一伊賀の國にて天狗座頭にばけたる事」と同工異曲。ここにきて、やや種切れか。

「はりまひめぢの城主秀勝」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では、姫路城(別名・白鷺城)の近世初期の城主姓(池田・本多・奥平)を簡単に述べた後、『その中に秀勝という名の人物はいない。本多氏の最後の城主、本多政勝は寛永十五年』(年)『に城主となり、わずか半年、翌十六年に大和郡山に国替えとなった。この人がモデルか』とする。本多政勝(慶長一九(一六一四)年~寛文一一(一六七一)年)はウィキの「本多政勝」によれば、播磨姫路新田藩第三代藩主・播磨姫路藩第三代藩主・大和郡山藩初代藩主で『「鬼内記」「大内記」などの異名を持つ豪勇の士であったという』。慶長二〇(一六一五)年、『上総大多喜藩主だった父の忠朝が大坂夏の陣で戦死したときはまだ』二『歳だったため、従兄の政朝が家督を継ぐこととなった。ところが本家を継ぐはずだった政朝の兄の忠刻が早世したため、政朝がその跡を継ぐこととなり、政勝が庶流の家督を継ぐことになった』が、後の寛永一四(一六三七)年には、『今度はその政朝が病に倒れた。政朝の息子に政長がいたが、本多氏は幼少の子を当主としてはならないという忠勝以来の掟があった。そのため、従弟に当たる政勝に本家の家督を譲り、政長が成長したら』、『家督を譲るようにと遺言を遺して死去した。こうして本家の家督を継いだ政勝は、翌年には松平忠明と入れ替わりで大和郡山に移封された』。ところが、『年が経つにつれて、政勝は養子の政長より実子の政利に譲りたいと画策し始めたため、これが後の』九・六騒動(政勝・政利父子は時の大老酒井忠清に取り入り、自らが家督を継ごうと画策し始め、これを見た本多家家臣都築惣左衛門が政勝に対し、一刻も早く家督を政長に譲るように要請、政勝はしぶしぶ政長を養嗣子と定めたが、政利の家督への野望は断ち切れず、政勝が死去すると、即座に酒井忠清に取り入って裏工作を行なった。その結果、幕府の裁定によって所領十五万石の内、九万石を政長が、残り六万石を政利が継ぐようにと命じた。騒動の名称はこの分知された石高に基づく)の遠因となった。寛文元(一六七一)年十月『晦日、江戸柳原屋敷にて死去した』。享年五十八。以上補注した通り、『死後、本多氏は家督をめぐって二分して争うこととなった』。

「女らう」「女﨟」。

「十二ひとへ」「十二單衣」。

「とてもの事」どうせ、同じことをなさるのなら。いっそのこと。

「ほかにしるしにせよ」「(点灯することの)他に、ここへ参った証しとするがよい。」。ただの点灯なら、こっそり何処かへ行って火を点けることが可能だから、如何にもこの変化(へんげ)の物の怪、おせっかいで、若侍に対して、まるでおっ母さんっぽい。或いは、この青年がいたく気に入ったものかとも思われる。

「かたし」「片足」「片し」で発音は「かたあし」の転訛。対になっているものの片方。

「きどく」「奇特」。行いが感心・健気・殊勝なさま。

「具足櫃(ぐそくびつ)」甲冑を入れる箱。

「櫛」兜を被るには邪魔になるので髻(もとどり)は結わなかったから、休戦等に於いて髪を整えるのに櫛が必要であった。

「いつもの座頭」秀勝が普段、召し使っている座頭。所謂、平家琵琶や琴などを弾じたり、詠じたりするお雇いの芸能者である。しかし、彼がこのようなところに突如、現われること自体を不思議と思わねばならぬのに、この秀勝の対応は、大呆けをカマまして、却って滑稽で、面白い。

「琴の爪ばこのふた」琴を弾くための爪を入れておく小匣(こばこ)の蓋。

「一丈ほど」三メートルもある。

「かうさん」「降參」。

「天守の五重めかとおもわれしが、いつもの御座のまにてありしと也」このエンディングは上手い。独りきょとんとした秀勝がだあれもいないだだっ広い御座所にぽつんといるのに気づくというコーダが、これまた、ダメ押しですこぶる面白い。

2016/11/12

谷の響 三の卷 六 踪跡を隱す

 六 踪跡を隱す

 

 嘉永五子の年の事なるよし、深浦町の賈人(あきひと)白幡屋某と言へる者の女(むすめ)、性質(うまれつき)欝氣(うちき)なるものにて、人と對話(はなし)することだにきらひしほどなるが、甲年(とし)廿二とやらにて贅婿(むこ)を去りて寡婦(やもめ)となり、この年の九月何れの溫泉に浴(ゆあみ)しけん、その際に鯵ケ澤の親屬に投宿(とまり)けるが、其夜戊剋(いつゝ)のころ小水するとて戸外へ出たりしに、少時(しばし)あれど來らぬゆゑ呼ぶと言へども應(こたへ)なく、戸外(そと)には影もあらざれば、伴なるものを始め宿の者も大に愕き、四隅を遍く搜(たづ)ぬれどまた見る事の非ざれば、翌日(あくるひ)に神に願(ね)ぎ卜筮(うらなひ)を請うて至らぬ隈なく穿鑿(たづぬる)こと日を累(かさぬ)といへども、遂に見えざれば詮術なくしてやみしとなり。世の人みな海神に勾引(ひかれ)しものかと言へり。こはこの親屬泉屋善太郎と言へるもの語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「踪跡」「そうせき」は「蹤跡(しょうせき)」に同じい。「事が行われた跡(あと)・事跡」の意の他に、「跡を追うこと・追跡」或いは「行方」の意で、ここは最後の意。

「嘉永五子の年」嘉永五年は壬子(みずのえね)でグレゴリオ暦一八五二年。

「深浦町」既出既注。再掲する。底本の森山氏の補註に『西津軽郡深浦(ふかうら)町。藩政時代、寛永十二年に津軽四浦の一つとして奉行所がおかれた。日本海北部の良港で、北前船が定期に入港する交易港として栄えたが、明治中期以後衰微し』たとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「賈人(あきひと)」商人(あきんど)。

「甲年(とし)」二字へのルビ。昔は十干十二支を組み合わせて年月日を表示したころから、それぞれの第一位である「甲子(かっし)」で広義に「年」「年齢」の意の代用とした。ここはその「子」を正規の意味の年齢の「年」に換えた用字であろう。

「贅婿(むこ)」二字へのルビ。既出既注であるが、再掲しておく。音「ゼイセイ」で、これは中国で「入婿」のことを指す。夫が妻の家に入ることから、それを卑しんで、「贅(あまりもの)」と称した。また、「贅」には「質物(しちもの)」の意もあり、貧しい夫が妻の家に金品を納める(聘金(へいきん)という)ことが出来ない場合、代りに妻の家の質品(しちぐさ)となって、労力を提供したことからも、この名があるとされる。

「この年の九月」同年の旧暦九月一日はグレゴリオ暦では一八五二年十月十三日。

「戊剋(いつゝ)のころ」午後八時頃。

「小水」小用。小便。

「戸外へ出たりしに」後で「戸外(そと)」とルビするからここも「そと」と読むべきであろうか。

「遍く」「あまねく」。

「神に願(ね)ぎ」「ねぐ」は「祈ぐ」で、動ガ行四 段活用の他動詞で、神仏に向かって祈る、祈願するの意。「ねぎらう・いたわる」の意の上代語である動詞「労(ね)ぐ」と同源で、上代には上二段活用であったと考えられている非常に古い語である。

「卜筮(うらなひ)」二字へのルビ。

「穿鑿(たづぬる)こと」二字への当て読み。

「詮術なく」「せんすべなく」。

「海神に勾引(ひかれ)しものか」「鰺ヶ沢町」公式サイト内の鰺ヶ沢町の歴史によれば、同地区の歴史は、安東(あんどう)水軍が『津軽を席巻していた時代に、その源流を見ることができると言われ』、『安東氏は、鎌倉時代、十三湊を根城に日本 海交易に活躍した豪族。蝦夷地から若狭小浜あたりまでを自在に駆け巡ったという安東氏の津軽船は、中央にも聞こえた存在で』あった。『日本海沿岸の港には、航海の安全を願って、出航の折の日和を見たという高台が、日和山とか日和見山などと名付けられて各地に点在してい』る『が、 鰺ヶ沢の日和山もその例に漏れ』ず、『七世紀頃、蝦夷征伐に名を馳せた水軍の将、阿部比羅夫』(あべのひらふ)『が渡嶋へ渡るために日和を見たところという伝説が残されてい』ることから見ても、『さらに古い時代から、天然の良港として、船の出入りがあったことが想像され』る。鰺ヶ沢の北方に位置する『十三湊は、室町時代に記された「廻船式目」に全国の主要港』「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つに『数えられる北奥羽随一の繁栄ぶりを見せてい』たが、『中世末期には衰退。これに代わって登場するのが鰺ヶ沢湊で』、『藩都・弘前に近く、陸上には、西浜街道が走っているという便利さから、津軽統一を果たした大浦為信は、よくこの港から旅に出たと言われてい』る。『近世に入って、津軽藩は日本海運の拠点を鰺ヶ沢に置き、弘前・鰺ヶ沢間を岩木舟運と沿岸海運で繋ぐ「十三小廻り」と呼ばれるルートをつくり』、『この水路を使って廻米を鰺ヶ沢に集め、ここから西廻りの航路の弁才船に乗せて上方へ輸送する体制を』成し上げた。『鰺ヶ沢は、津軽藩の海の玄関として、また、西廻航路の寄港地として賑わい』、また、『北陸や瀬戸内海方面、遠くは大阪からの弁才船』(べざいせん:和船の一つで、江戸時代の海運の隆盛に対応して全国的に活躍し、俗に「千石船」とも呼ばれた典型的な和船。船首の形状や垣立(かきたつ:和船の左右の舟べりに垣根のように立てた囲い。かきたて)に特徴があり、一本の帆柱に横帆一枚をつけるだけながら、帆走性能や経済性に優れた。菱垣(ひがき)廻船・樽(たる)廻船・北前船なども総てこの形式を用いた)『が日用品などの陸揚げや、廻米の積み込みのために往来し、また、京・大坂の文化が港を介してもたらされ』もした。また、現在の鰺ヶ沢町にある白(しら)八幡宮『境内に立つ玉垣は、船の安定のために積んだ御影石で造られて』おり、これは『鰺ヶ沢に入港した諸国の船や町の船問屋が奉納したもので、刻まれた文字を見ると、文化一三(一八一六)年の日付が見え』るとあるから、ここ鰺ヶ沢では海神信仰が非常に強かったものと考えられる。]

谷の響 三の卷 五 天狗子を誘ふ

 五 天狗子を誘ふ

 

 嘉永七寅年四月にてありけん、本町金木屋庄七なるものゝ子、筆を買はんとて出たりしが午下(ひるすぎ)に迨(およ)ぶといへども皈り來らず。庄七あやしみ、黌(がくかう)及び彼が往くべき先々あまねく索(もとむ)れども不殘(みな)知らずといふ故、いたく愕き四方に人を走らして探(たづぬ)るに、未下(やつすぎ)とおぼしき頃和德の坊頭(まちはし)にて見出したるが、その尋る者を見ると擔々(ひしひし)と取り着き極太(いたく)泣けるから、奈何(いか)なりしことぞと問(たづ)ぬれども應(こたへ)も得せざるゆゑ、そのまゝ伴ひて内に歸りしかど、しばしの間(ほど)は正氣も無りけるが、稍々ありて言ひけるは、過刻(さき)に長屋の小路にてひとりの女に行會(あ)ひしが、その女吾を呼とめ汝(いまし)に好き處を見すべし、吾と俱に來よとて手を引くと見れば、かれはどふか認得(みしり)のある樣にて何心なく伴なはれしが、少時(わづか)の間に高岡・百澤に參詣し、嶽の温泉も觀(けんぶつ)したるが、是より猿賀へ連て往くべしとて復囘頭(ひきかへ)し來りしが、歩行(あるく)とも覺えずして數多の村々を過(よ)ぎり、程もなくして遂に猿賀に至りて參詣し、又池の中なる辨財天へも參詣せんと言へるから、水を漕ぐ事は否(いや)なりと言へば、ただ吾に隨ふべしとて立て行くに、陸地を步行(あるく)が如く足に少しの水も附(つか)ず。爾(しか)して又法峠を見すべしとて連行きしが、間もなく至り着て所々見物し、夫より黑磯に至り中野に𢌞り、板留温泉より黑石を通りて來りしなり。又猿賀へ往く途中、舊宮(もとみや)の林のもとに同坊(まち)の誰々憩(いこ)ひ、吉田の邑にて誰にあひしなど語りしゆえ、高岡・百澤迨び黑森・法嶺すべて過(すぐ)る處の狀勢を尋るに、そのこたへ一つとしてたがふことなく、又猿賀の街路にやすらひしといふもの、吉田の邑にて會しと言ふものを尋ぬるに、割符を合せたるが如くなれば僉々(みなみな)異の思ひをなし、世に言ふ天狗の所爲なるべしとて惶(かしこ)みあへりしとなり。こは庄七の話なりとて或人語りしなり。

 又、往ぬる丙辰の年の四月、貞昌寺に元祖の法會ありて參詣群聚なりしとき、土手町三内屋某なるもの兒子(こども)を連れて參詣(まゐり)たるが、その兒しばし外にて遊び來んとて出たりしに、法談果るといへども來らず。奈何せしやらんと安(あん)じてその邊(あたり)を索(たづね)れども見えざるから、裡(うち)に戾れる事もやと急忙(いそがは)しく歸りて見れど家にも居らず。そのうち日も返景(くれ)近くなりて思ひに耐へ兼、四方に人を走らして探れどもまた見る事なく其夜も過たるが、明る日の辰下(いつゝすぎ)久渡寺の僕(をとこ)なりとて來りて曰く、昨天(きのう)晡時(なゝつ)の頃觀音堂を見𢌞しに、一個(ひとり)の小兒玄關の柱を抱き潛然(さめざめ)と泣てありし故、何處の兒にて誰に伴はれて來りしと問(たづぬ)れども、答ふる事のあらざれば院主に告て衆々(みなみな)俱に來り、種々(いろいろ)和(なご)めて寺に伴なはんとするに、柱にひしととりつきていたく泣て應(したが)はざれど、萬般(いろいろ)すかしやうやうに連歸りて勞(いた)はれるに、半時ばかりにして泣きも心も安妥(おちつい)て言へりけるは、吾は土手町三内屋某の子なるが、過刻(さき)に親と俱に貞昌寺に參詣してありしに、餘りに人の多き故外にて少し遊ばんと、門の外に立出て餻(もち)沽(う)れる家の邊に徜徉(あそび)しに、何處の修驗(やまぶし)にかあらん、吾を抱いて奔走(はしる)よと覺しが、忽ち此の堂の内に來りてその人は見えずなりぬ。あまりの怕(おそろ)しさに又もや連れ行かれんかと、かたの如く柱にすがりてありしなりと言へる故、疾(はや)くも送り屆けんとすれど、他人に伴はるゝを甚(いた)く恐怕(おそ)れしと察(み)えて更に隨はざれば、特(わざ)に來りて告るなりとあるに、三内屋なる者いといと怡喜(よろこ)び、厚く謝儀してやがて寺より連歸り、有し始末(こと)どもを問ぬるにみな件のごとくなれば、聞く者奇(あや)しまざるはなし。こも又天狗の所爲らんと人々語りあひしなり。

 

[やぶちゃん注:「嘉永七寅年四月」嘉永七年は「甲寅」(きのえとら)で西暦一八五四年。同年四月は一日がグレゴリオ暦では四月二十七日に相当する(なお、嘉永七年は十一月二十七日(グレゴリオ暦では翌一八五五年一月十五日)に安政元年に改元している)。

「本町金木屋」底本の森山泰太郎氏の補註に『本町(ほんちょう)は藩政時代弘前城下の中心街で、商家が並んだ繁華な通りであった。金木屋は寛政十一年、本町一丁目に絹布木綿の正札店として開業、のちに津軽第一の豪商とまで言われた。明治三十七年閉店した』とある。「寛政十一年」は一七九九年、「正札店」は極めて近代的な正札販売(しょうふだはんばい)を行った店のこと。正規の値段を予め札に書いたものを「正札」といい、その正札を用いて商品を販売することを正札販売と称する。近代的販売方法の一つとされ、客の様子を塩梅して値段を告げる前近代的販売方法に比べて公正且つ店側が相応の責任を持たねばならないため、それまで根強かった商人に対する不安と懐疑を一掃した手法であった。「明治三十七年」は一九〇四年。現在の弘前市「本町」は弘前城の南方直近のここ(グーグル・マップ・データ)。

「午下(ひるすぎ)」午後一時頃。

「迨(およ)ぶ」「迨」(音は「タイ・ダイ」)は「至る」の意。

「皈り來らず」「かへりきたらず」。

「黌(がくかう)」音は「クワウ(コウ)」で「昌平黌」(昌平坂学問所)から判るように「学舎・学校・まなびや」の意。ここは商人の息子であるから、寺子屋のようなものを指すのであろう。

「未下(やつすぎ)」午後三時頃。

「和德」底本の森山氏の補註に『和徳町(わっとくまち)。城下の東北端。本町から遠距離の方角遠いである』とあるが、現在の弘前市和徳町はここ(グーグル・マップ・データ)で、同町の現在の東北の端(「坊頭(まちはし)」は町の端の意)は直線で本町からは二・五キロメートル圏内でと決して「遠距離」とは言えないように私は思う。私は小学校時代ずっと往復三・四キロを歩いて通った。

「その尋る者」彼(庄七の行方不明の子)を探しに来た、少年自身も見知っていた者。

「擔々(ひしひし)と取り着き」ぎゅっとその男の衣服をつかんで、ぴったりとしがみつき。

「極太(いたく)」二字へのルビ。なかなかいい和訓だ。

「泣けるから」泣きじゃくるので。

「稍々」「やや」。

「過刻(さき)に」二字へのルビ。

「かれはどふか認得(みしり)のある樣にて何心なく伴なはれしが」「どふか」は不詳だが、「その(親しげに軽く声をかけてきた)女は、なんだか、見知ったことのあるような感じもしたので、どうという用心や疑いも持たずに伴われて行ったのだけれど」の意でとっておく。

「高岡」底本の森山氏の補註に『中津軽郡岩木町高岡。津軽四代藩主信政を祭る高照』(たかてる)『神社があって領内に知られたところ。宝永七年信政没後、その遺命により神式でこの地に葬る。正徳二年霊社造営成り、同年からこの地を高岡と称し、享保ごろから集落ができたという』とある。現在は弘前市高岡。ここ(グーグル・マップ・データ)で、岩木山の南東麓に当たり、ここはとんでもなく遠い。

「百澤」底本の森山氏の補註に『岩木町百沢(ひゃくざわ)。高岡に隣接する部落。岩木山の東麓にあたり、津軽一の宮岩木山神社の所在地として知られる。室町時代岩木山神社が北麓の十腰内(とこしない)村から、大小』、『百の沢を越えていまの地に移ったといわれ、村名の由来を説明している』とある。現在は弘前市百沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。則ち、高岡の更に岩木山を登った、山麓のほぼ東半分に当たる一帯で、これまた、とんでもない場所である。

「嶽の温泉」既出既注。現在、青森県弘前市の岩木山鳥海山の南西の麓にある嶽(だけ)温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。これだけでも、限界を超えた遠さである。

「猿賀」底本の森山氏の補註に『南津軽郡尾上町猿賀(さるか)。津軽の古社猿賀神社』『で知られる』とある。現在は青森県平川市猿賀。ここ(グーグル・マップ・データ)。嶽温泉からだと、東に二十五キロメートルも離れた、真逆の場所である!

「池の中なる辨財天」猿賀神社の公式サイトを見ると、境内には鏡ヶ池という池があり、その中の島に弁天宮(胸肩(むなかた)神社)がある。現在は橋が架かっているが、以下の叙述から恐らく当時はなかった(神域とするために遥拝したものか)ものと見える。

「法峠」「ほふとうげ(ほっとうげ)」。底本の森山氏の補註に『黒石市高館にある。古く小峠と呼んだが、ここに日蓮宗日持上人の題目石と伝える墓石信仰があり、法峠と呼ぶようになった。享保年間堂字建立、のち日蓮宗法嶺院と称し、奥身延といわれるまで信者』が『遠近から詣でた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。猿賀神社からはまたまた東北へかなり離れる。

「黑森」底本の森山氏の補註に『黒石市黒森(くろもり)。次項の中野から四キロ入った約七百メートルの高地で、黒森山という。眺望よく、中腹に浄土宗浄仙寺がある。文政年間の開基である』とある。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「中野」底本の森山氏の補註に『黒石市中野(なかの)。黒石の東方四キロ。麓を中野川が流れる高地で、中野山という。紅葉の名所として領内に知られる。中野神社がある』とある。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「板留温泉」底本の森山氏の補註に『黒石市板留(いたどめ)。黒石の東方、浅瀬石川に臨む温泉場。中野より少しく東になり、土地高燥で野趣豊かな温泉宿が並ぶ』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑石」現在の十和田八幡平国立公園北西の玄関口に当たる青森県黒石市の、黒石附近。こ周辺(グーグル・マップ・データ)。

「舊宮(もとみや)」これは推量だが、嶽温泉から猿賀に行く途中であるから、弘前城の西方に、現在、弘前市高屋本宮(たかやもとみや)という地名を見出せる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「同坊(まち)の」「どうまちの」。同じ町内の。

「吉田の邑」「邑」は「むら」で「村」に同じい。底本の森山氏の補註に『中津軽郡岩木町賀田(よした)。弘前の西郊四キロ。この村の歴史』は『古く、津軽藩祖為信がこの地の大浦城(文亀二年、大浦光信築く)に拠って津軽を統一した。当時栄えた集落であり、今も岩木町の中心地である』とある。現在は弘前市賀田。ここ(グーグル・マップ・データ)。前の高屋の南に接する。

「迨び」「および」。及び。

「法嶺」「ほうみね」か。先の「法峠」のことであろう。

「過(すぐ)る處の狀勢」通過した地域の地勢・景色など。

「所爲」。「しよゐ(しょい)」。

「惶(かしこ)み」は「恐れる・恐れ多いと思う・謹んで承る」の意であるが、ここまあ、恐れ戦きながらも、無事に子は戻ったのだから、畏れ多い徳禄を得たものと謹んで承り、畏れ多く思った、とハイブリッドでよかろう。

「丙辰の年の四月」本書は幕末の万延元(一八六〇)年庚申(かのえさる)の成立であるから、丙「往ぬる」丙辰(ひのえたつ)「年」は安政三年となる。同年の旧暦四月一日はグレゴリオ暦では一八五六年五月一日である。

「貞昌寺」底本の森山氏の補註に『弘前市新寺町、浄土宗月窓山貞昌寺。永禄三年藩祖為信の命により開創。弘前築城と共に弘前に移る。寺領六十石、領内に末寺庵百余を支配した』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「元祖の法會」森山氏はここに注していないから、これは前注の開創を命じた藩祖津軽為信の法会ととれる。但し、為信の墓は弘前市藤代(ふじしろ)にある革秀(かくしゅう)寺である。

「群聚りしとき」二字で「あつまりし」と訓じていよう。

「土手町」既出既注。底本の森山氏の補註に、『弘前城下の東部、土淵川を挾んでその土手に町並みを形成して、土手町(どでまち)という』今、『市内の中心街である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三内屋」「さんないや」の読んでおく。姓ではなく屋号であろう。

「遊び來ん」「あそびこん」。

「果る」「はつる」。

「奈何せしやらん」「いかがせしやらん」。「一体、どこでどうしているものか?」。

「急忙(いそがは)しく」二字へのルビ。

「返景(くれ)」二字へのルビ。暮れ。当て読みで、「返景」(へんけい)は漢詩でもよく用いられるように、「夕日の照り返し・夕照・返照」の意。

「耐へ兼」「たへかね」。

「辰下(いつゝすぎ)」午前九時頃。

「久渡寺」底本の森山泰太郎氏の補註に、『弘前市の南郊坂元にある護国山久渡寺。津軽真言五山の一。慶長十八年ここに移し、二代藩主信枚が元和五年再興した。寺領百五十石。津軽三十三観音の第一番札所。現在は毎年五月十六日、津軽各地のオシラ神を祀る家でオシラ神を持ち寄り、集合祭祀が行なわれるので知られている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。直線距離でも貞昌寺の南南西六・五キロメートルもある。

「僕(をとこ)」寺男。

「晡時(なゝつ)」午後四時頃。前に注したが、「晡」(音「ホ」)は申の刻の別称。

「潛然(さめざめ)と」「潛然」は正しくは「さんぜん」と読み(但し、慣用的に「せんぜん」とも読む)、涙を流して泣くさまを言う。

「半時」現在の一時間相当。

「安妥(おちつい)て」二字へのルビ。

「過刻(さき)に」二字へのルビ。

「餻(もち)沽(う)れる」「餠賣れる」。「餻」は音「カウ(コウ)」で「糕」と同義。但し、中国語の「糕」は米粉や小麦粉を練り、それに食材を加えたり、味付けしたりして調理した菓子や食べ物を広汎に指す。

「徜徉(あそび)しに」「遊びしに」。この熟語は「二の卷」の九 蝦蟇の智では「徜徉(ながめまはり)しに」と出た。そこで注したが、再掲しておくと、「徜」(ショウ/ジョウ)も「徉」(ヨウ)も「彷徨(さまよ)う」の意で、音も意味も「逍遙」と同系の単語のように見えるが、現代中国語を調べると「逍遥徜徉」という表現があり、訳して「のんびりとぶらつく」とあるから、音の近似性は偶然か。「あそぶ」の和訓は腑には落ちる。

「奔走(はしる)」二字へのルビ。

「覺しが」「おぼえが」。

「恐怕(おそ)れし」二字へのルビ。

「特(わざ)に來りて告るなり」「なんとも仕方がなく、特別に儂(わし)が知らせにここまでわざわざ告げに来たのじゃ。」。

「怡喜(よろこ)び」二字へのルビ。「怡」(音「イ」)も「喜ぶ・心が和(なご)む・打ち解けて喜び楽しむ」の意。

「始末(こと)ども」二字へのルビ。]

諸國百物語卷之五 三 松村介之丞海豚魚にとられし事

     三 松村介之丞(まつむらすけのぜう)海豚魚(ふか)にとられし事

Huuka


 大坂御城番しう、江戸へ御くだりのとき、荷物を舟につみ、大まわしにくだし給ふとき、荷物の奉行に松村介之丞と云ふ人つきてくだられしが、熊野うらにて、にわかに舟すはりければ、せんどう、申すやう、

「海中よりみいれたる人あり。一人にて、をゝくの人のいのちをすつる事也。みなみな一人づゝ、へさきへいで、印籠、きんちやく、はながみまで、海中へ入れ給へ。みいれたるものゝは、とる、さなきは、とらず。それをしるしに、その人を、うみへしづめ申す」

といひければ、人々、ぜひなく、もちたる道具をうみへながしければ、みなみな、ながれゆくに、介之丞、はながみをながしければ、大きなる海豚魚(ふか)とびあがりて、介之丞がはな紙を、くらふ。

「さては、この侍に、きはまりたり。ぜひなき事ながら、うみに入り給へ」

といえば、介之丞も、

「ぜひにおよばず。さりながら、さむらいのむざむざと、しぬべきやう、なし」

とて、三人ばりの弓に、かりまたの矢をひつくわへ、舟ばたにたちいで、

「いかに、みいれの物、たゞ今、うみにとび入る也。しやうある物ならば、そのすがたをあらはせ」

といへば、うみのうちより、大きなる海豚魚(ふか)、口をあきてとびかゝる所を、もとはづ、うらはづ、ひとつになれ、とひきはなせば、ふかののんどに、はつしと、あたる。手ごたへして、ふかは海中にしづみぬ。舟もそれよりうごきて、介之丞は、あやうきいのちをたすかり、江戸にかへりけると也。そのゝち、又、三年めに、主人、また、二條の御城番にのぼり給ふとき、いつものごとく、又、介之丞、大まわしの荷物につき、くだんの熊野うらにつきけるが、をりふし、風あしかりけるゆへ、舟をみなとにつけて、四、五日も、とうりうしけるひまに、その所に八まんをいわひたる宮あり。これへ、介之丞、さんけいしけるが、八まんの繪馬(ゑむま)に、かりまたの矢あり。よくよく見れば、わが三年いぜんにふかをゐたる矢也。その矢に八幡大菩薩と朱にて書きつけをきたるにて、しやうことせり。介之丞、ふしぎにおもひ、神主にといければ、神主、申しけるは、

「此うらにて、年々に一、二度づつ、ふかと云ふ魚、舟につきて、人をとる事、數年このかた也。八まん、是れをかなしみ給ひて、ふかをゐころし給ふにや。この矢、ふかののどくびにたち、三年いぜんに、なみにゆられて、いそにあがりしを、おのおの見て、

『うたがいもなき八まんのしたがへ給ふ也』

とて、すなはち、この矢と、ふかのかしらとを、繪馬にかけ申す」

とかたりければ、介之丞、これをきゝ、右のしだいを神主に物がたりして、ふかのかしらをおろさせみて、

「さてさて、なんぢは、わがいのちをとらんとしたる物かな」

とて、手にてふかをなでければ、手のひらにそげのたちたるやうにおぼへけるが、それよりしだいにはれ、一日のうちに一疊じきほどにはれて、介之丞、つゐに、その所にてあひはてけりと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「ふか魚にとられし事」。これは後のかの知られた連歌師宗祇に仮託した、怪奇譚の多い浮世草子「宗祇諸國物語」(貞享二(一六九五)年に京の旅館にて記す由の自序はあるものの、署名はない)に酷似した話柄が載る(但し、主人公は応仁の乱の元を作った畠山政長(嘉吉二(一四四二)年~明応二(一四九三)年))の元「家人(けにん)」で浪人の「陸井(くがゐ)九太夫」とし、ロケーションは「尾州の渡し」(宮の渡し。東海道五十三次で知られる宮宿(現在の愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(現在の三重県桑名市)までの海上の渡し)である)。私の「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 遁れ終(は)てぬ鰐(わに)の口を参照されたい。

「海豚魚(ふか)」「鱶」。鮫のこと。三文字へのルビ。「海豚」は現行ではイルカを指すが、当時はイルカもサメも一緒くたであった。挿絵を見ても獰猛なサメ類と判る。

「大坂御城番しう」「しう」は「衆」。幕府の直轄城であった徳川大坂城の城主は歴代徳川将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かったが、その城代に加え、これも譜代大名からなる京橋口・玉造口の大坂城番(大坂定番)二名、山里・中小屋・青屋口・雁木坂の大坂加番四名、幕府直轄戦力たる大番二組による大坂在番が警備を担当した(大坂城番の設置は元和七(一六二一)年)。この主人公松村介之丞はその役の主君に従って大番衆を勤めた一人という設定である。

「江戸へ御くだりのとき」自分の主君の在番が終わって江戸に帰参する際。

「大まわしにくだし給ふ」荷は重いので、陸路の東海道をとらず、海路で紀伊半島を大廻りして下向させたのである。

「熊野うら」「熊野浦」。現在の和歌山県新宮市沖から三重県熊野市木本町沖に至る海域。

「にわかに舟すはりければ」座礁したわけでもないのに、急に船が動かなくなったので。

「海中よりみいれたる人あり」海中の魔物によって本船の乗員の誰かが魅入られた、と言うのである。

「をゝくの」「多くの」。歴史的仮名遣は誤り。

「へさきへいで」「舳へ出で」。

「きんちやく」「巾着」。財布などの懐中する入れ物。

「みいれたるものゝ」魔物に魅入った者の物。

「さなきは」そうでない者の物。

「三人ばりの弓」大の大人が三人掛かりで引かないと張れないような大きな強弓(ごうきゅう)。現行のアーチェリーなどから推定すると、張力六十キログラム以上で、その矢は鎧も紙のように打ち抜く強力なものであったと思われる。

「かりまたの矢をひつくわへ」「かりまた」は「雁胯(かりまた)」で、先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常では飛ぶ鳥や、走っている獣の足を射切るのに用いた。「ひつくわへ」は普通は「引つ銜(くは)へ」(歴史的仮名遣は誤り)で、普通は二番矢を即座に打つため、それを口に銜えるの意であるが、ここは「引つ加(くは)へ」で、弓に矢を番えたのである。でないと、次の台詞が喋れないからね。

「みいれの物」「魅入れたる魔性の物よ!」。

「しやう」「證」或いは「正」であるが、これらは「しやう」で歴史的仮名遣としては誤り。証(あか)し・正体。実相のある変化(へんげ)の物。

「もとはづ、うらはづ、ひとつになれ」心内語であろう。「もとはづ」は「本弭・本筈」と書き、弓の下端の弦輪 (つるわ:弓の弦の両端に拵える小さな輪。弦を張る際にはこれに懸ける)の懸かる尖った部分、「うらはづ」は「末弭・末筈」と書き、弓の上端の、弦輪 をかける部分で「上弭(うわはず)」とも称する。それが「一つになれ!」とは、強く引き絞って「それら上下がくっ付け!」と言っているのである。超人的な激しい張力を呼び込むための呪文である。

「ふかののんど」「鱶の咽喉」。

「はつし」オノマトペイア。

「手ごたへして」確かな手応えをその音から感じ、実際に。

「二條の御城番」京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある二条城(但し、朝廷側は「二条亭」と呼称)の城番。寛永二(一六二五)年に管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置されている。直前に「三年め」とあるから、少なくともこの最初の時制は大坂城番が設置された元和七(一六二一)年の翌年より前には遡れないことが判る。

「くだんの熊野うらにつきけるが、をりふし、風あしかりけるゆへ」これは偶然ではない。この悪しき風自体が既にして、鱶の変化(へんげ)の執心のそれに基づくものであることを、読者は知らねばならぬ。それがホラーを正統に味わう醍醐味であるからである。

「とうりうしけるひま」逗留しける暇。

「八まんをいわひたる宮あり」「八幡を祀(いは)ひたる」。歴史的仮名遣は誤り。

「さんけい」「參詣」。

「繪馬(ゑむま)」絵馬(えま)。

「その矢に八幡大菩薩と朱にて書きつけをきたるにて、しやうことせり」「しやうこ」は「證據」。名立たる弓の名人は必ず自分の矢に人物を特定し得る名や特定のマークを書き込み、論功行賞の際の証拠とした(時にはそれが謀殺や仇討の証左ともあった)。

「といければ」「問ひければ」。歴史的仮名遣は誤り。

「舟につきて」舟に付きまとっては。

「ゐころし」「射殺(いころ)し」。歴史的仮名遣は誤り。

「ふかののどくびにたち」「鱶の咽喉頸に立ち」。

「うたがいもなき」「疑ひもなき」。歴史的仮名遣は誤り。

「したがへ給ふ也」「從へ」。「征服、調伏なさったものである!」。

「ふかのかしら」「鱶の頭」。

とを、繪馬にかけ申す」

「そげのたちたる」「そげ」「削げ・殺げ」で「ささくれ・棘」の意。ここはサメの干乾びた皮の鱗のそれか、或いは白骨化のサメの歯の先であろうか。

「はれ」「腫れ」。

「一疊じきほどにはれて」畳一枚分ほどにまで腫れ上がって。ちょっとグロというより、ヤリ過ぎてリアルさを削ぐ感あり。]

2016/11/11

佐野花子「芥川龍之介の思い出」原文オンリー版(一部字注有り)+ワード縦書版『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注』全篇公開

僕のパラノイア的注を除去した、

佐野花子「芥川龍之介の思い出」の原文のみ(一部字注有り)

及び、その偏執狂的注をも縦覧出来る

ワード縦書版『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注』全篇(ダウンロード式)

を「心朽窩旧館」に公開した。

諸國百物語卷之五 二 二桝をつかいて火車にとられし事

     二 二桝(ふたます)をつかいて火車(くはしや)にとられし事

 

 西國じゆんれい、札(ふだ)をうちに京へのぼり、誓願寺(せいぐはんじ)へまいりけるに、如來の庭にて、とし四十あまりなる女を、午頭馬頭(ごづめづ)のをに、火のくるまよりひきをろし、いろいろにかしやくして、又、くるまにのせ、西のかたへつれ行きけり。じゆんれい、ふしぎにおもひ、あとをしたいてゆきければ、四條ほり川のほとりの米屋のうちに、いりぬ。順禮、ふしぎにおもひて、米屋にはいり、事のやうすをたづぬれば、

「米屋の女ばう、此四、五日にわかにわづらひつきけるが、晝夜に三度づつ身がやけるとて、くるしむ」

とかたる。じゆんれい、さてはとおもひ、くだんのしだいをかたりければ、ていしゆ、おどろき、

「さればこそ、此女ばう、よくふかきものにて、つねに二桝(ふたます)をつかい候ふを、それがし、いろいろと、とめ申し候へども、もちゐず。そのつみにて、いきながら、地ごくにおちけると見へて候ふ」

とて、ていしゆはそのまゝ出家になり、諸國しゆ行に出でにけり。女ばうは、ほどなくあいはてけるが、そのあとたへはてたると也。

 

[やぶちゃん注:「二桝(ふたます)をつかいて」「つかいて」は「使ひて」で歴史的仮名遣の誤り。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『二種類の枡を使い、買い入れる時は、大きい枡を用い、売る時は小さい物を用いる。見た目には区別がつかないので、暴利を得ることになる』とある。

「火車(くはしや)」一般には『悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる』妖怪の一種で、『葬式や墓場から死体を奪』い去り、その『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』(ウィキの「火車(妖怪)」より引用)が、ここはそれではなく、以下で地獄の獄卒「午頭馬頭の鬼」が盛んに燃え盛り、その女の体を焼いているところの「火の」ついた「車より引き降ろし、いろいろに呵責して、又、車に乘(或いは「載」)せ、西の方へ連れ行きけり」というからには、所謂、『悪行を積み重ねた』者を生きながらにして地獄の責苦に遇わせる恐るべき仏罰現象(を象徴するところの幻像(イリュージョン))を指している。

「西國じゆんれい」西国三十三観音巡礼。現在の近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ヶ所の観音信仰の霊場を札所とする巡礼。日本で最も歴史がある巡礼行。参照したウィキの「西国三十三所」によれば、「三十三」とは、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(略称「観音経」)に『説かれる、観世音菩薩が衆生を救う』際、三十三の『姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し』、『西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる』とある。

「札(ふだ)をうちに」「うちに」は「打ちに」(以下の引用を参照)。現行の各寺で御朱印を拝受することと同義。同じくウィキの「西国三十三所」によれば、『霊場は一般的に「札所」という。かつての巡礼者が本尊である観音菩薩との結縁を願って、氏名や生国を記した木製や銅製の札を寺院の堂に打ち付けていたことに由来する。札所では参拝の後、写経とお布施として納経料を納め、納経帳に宝印の印影』(御朱印)を授かる。現行でも『写経の代わりに納経札を納める巡礼者もいる』とある。

「誓願寺(せいぐはんじ)」現在の京都府京都市中京区新京極通三条下ル桜之町にある浄土宗西山深草派の総本山である誓願寺。本尊は阿弥陀如来。最初に述べておくと、これは前注の「西国三十三観音巡礼」霊場には含まれていないので注意。所謂、西国三十三観音巡礼の途次、オマケで参拝したのである(現在、同寺は「新西国三十三観音霊場」の第十五番に数えられているが、この霊場の正規設定は昭和七年である)。ウィキの「誓願寺」によれば、天智六(六六七)年に『天智天皇の勅願により奈良に創建。三論宗』(大乗仏教宗派の一つ。龍樹の「中論」「十二門論」及びその弟子提婆の「百論」を合わせた「三論」を所依の経典とする論宗(「経」を所依とせずに「論」を所依とする宗派)で、空を唱える事から「空宗」とも称する)『の寺院となるが、いつしか改宗し、法相宗の興福寺の所有となっていた。その後、誓願寺は法相宗の蔵俊僧都が法然上人に譲ったことにより、浄土宗の所属となる。そこに法然上人の弟子である西山上人証空が入り、自らが唱える西山義の教えを広め始め、浄土宗西山派が成立してい』き、『京都御所に近いことから朝廷との交流も多く見られた。能の曲目に『誓願寺』があるが、この本山のことを指している』とある。

「如來の庭」同前の「江戸怪談集 下」の脚注には、『誓願寺阿弥陀堂の前の庭』とあるが、現在のネット上の写真は勿論、「都名所図会」の図を見ても確認出来ない。高田氏の言う「阿弥陀堂」を同寺の本堂と読み換え、「前の庭」を山門の左右にある、観音堂・或いは社祠とするなら、「都名所図会」の絵図の手前の方に、庭らしき場所は二箇所見える(しかし規模は小さい)。さらいに言い添えるなら、「都名所図会」の同寺の条の末尾には『塔頭竹林院には小堀遠州の數寄庭あり。これを遠州の八窓といふ。庭中の風景絶倫なり。同じく長仙院の庭佳境なり。世に名高し』と記すが、「如來の庭」とは出ない。識者の御教授を乞う。

「あとをしたいて」後をつけて。

「四條ほり川」現在の京都府京都市下京区四条堀川町。ここ(グーグル・マップ)。

「ほとり」辺り。

「にわかに」「俄(には)かに」。歴史的仮名遣は誤り。

「くだんのしだい」「件の次第」。

「もちゐず」「言うことを聴かず御座った。」。]

2016/11/10

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その6 / 佐野花子「芥川龍之介の思い出」~了

 もっとも私は私の所持しているこの話題を田中純氏によって小説化されたことがございます。氏は「二本のステッキ」という題で、昭和三十一年二月「小説新潮」誌上に発表され、芥川の「知られざる一面」として興味を呼びました。ついで同誌三月号において、十返肇氏は「文壇クローズアップ」の欄に、「芥川への疑惑」と題して次のように書いています。

[やぶちゃん注:「二本のステッキ」既に注した田中純の実名小説(「芥川龍之介」は本名で登場、佐野花子の娘と山田芳子と思しい『一人娘』『山口靖子』なる女性が、その母が晩年に書き残して置いたノート』を『私』送付してくるという設定(母は『昨年の春、老いのために廢人同樣の身となつた』と『靖子』は記す)「二本のステッキ」(昭和三一(一九五六)年二月発行の『小説新潮』初出)である。私は既にブログ記事『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』でも取り上げているが、私はそこで、以下のように述べた(一部の表記を変えた)。

   *

 佐野花子はこの小説発表後の昭和三六(一九六一)年八月二十六日に六十六歳で亡くなっている。

 佐野花子は何故「老いのために廃人同様の身となつた」という屈辱的な言辞を受け入れているのか。そもそも、この叙述から佐野花子は「二本のステッキ」を少なくともしっかりした見当識のある中で読み、またその次号に載った評論も理解し、後に(同作品の発表から彼女の死去までは五年ある)それらを自作の「芥川龍之介の思い出」の末尾に自身の記述の素材として組み入れることも出来たのである。それは「廃人同様の身」では、できない。いや、自身が「月光の女」であることを自認し、それが世間に知られないことへの焦燥を隠さず、また「澄江堂遺珠」の女性暗示を自分自身に引き付けないではいられなかった彼女が、何故、「老いのために廃人同様の身となつた」という屈辱的虚偽を問題にしないのか

 それが小説だから? そうではない。「二本のステッキ」の告白体部分は、客観的に見れば現行の佐野花子「芥川龍之介の思い出」の出来の悪い覗き見趣味の圧縮版である

 田中純自身は前書で「その追憶の甘さ、叙述のくだくだしさとははじめのうち多少私を退屈させた」とするが、彼の小説の方が臨場感も、山場も、ぶつ切りで、すこぶる退屈である。何より、この小説は、山口靖子の求めたような「どうして芥川が父母に對してあんな仕打ちをしたのか、その理由が自分たちには判らないけれども、その頃の芥川と親しい交遊があり、且また文學者の心理にも通じている筈の」田中純によって、「何かの解釋を」、少しも下されてはいないのである。これは、告白体の直前で田中がいくら「從つてこの一篇の文章は全部作者たる私にあることを斷つて置く」と言っても、それは読者にとっては完全に無効なのだ。この「二本にステッキ」は作者田中純が小説という前提で書いたとしても、佐野花子にとっては紛れもない『佐野花子の告白』なのである

 佐野花子は、既に、この「芥川龍之介の思い出」のプロトタイプである「芥川樣の思い出」(写真版で見る原ノートの題名)を『小説の形にしてまず書き残してもみ』たと述べている。田中の手に渡ったのは、そうした小説化されたもの、もしくはそれも含んだもろもろの覚書(そこには小説的虚構の覚書さえも含まれる)であったと思われる。それが、彼女の思い通りのストーリーで田中純によってさらに虚構化されたのである。ところが、それは「二本のステッキ」の前書を無視すれば、佐野花子の私小説そのものなのである。

 結論を言おう。この「二本のステッキ」を佐野花子は『小説』として読んでいない

 

佐野花子の原小説「芥川樣の思い出」

   ↓

田中純「二本のステッキ」

   ↓

抽出された「二本のステッキ」内の佐野花子『芥川樣の思い出』

   ↓

佐野花子の体験錯誤

 

佐野花子自身によって実録として認識されたこの佐野花子「芥川龍之介の思い出」

 

へと至り、それが強固に彼女の意識に定着してしまったのであると僕は思う。これは精神医学的には、閉じられた系の中でかなり強固に事実とは異なる対象を事実と誤認して改めることが難しい心因反応の一種と言える。それを病的なものととるかどうかどうかは、留保する(そもそも私は正常/異常・健常/病的といった区別は単なる「文化」が秩序を維持するために産み出した境目のはっきりしない、それこそ「架空」の「妄想」に近い「強引な」線引きに過ぎぬと考える人間だからである)。敢えて、精神障害の候補を挙げるとすれば、現在の最新の世界的な精神障害の診断マニュアルであるDSMDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神障害の診断と統計学的マニュアル)-IV-TRに拠るならば、旧来の「偏執病」の範疇に相当する、

妄想性パーソナリティ障害(paranoid personality disorder

妄想性障害における被害妄想タイプ(persecutory type

或いは、統合失調症のサブ・タイプとしての、

妄想型統合失調症 (paranoid schizophrenia

が挙げられるかも知れぬ。しかし、花子の思い込みはある極めて特定の部分

(狭義には「佐野さん」という架空作品の存在とその全回収と書誌上の完全抹消、及び、芥川龍之介の海軍機関学校へのその幻の「佐野さん」発表行為への謝罪行動。但し、これらには夫佐野慶造の台詞が絡んでおり、その被害妄想の内部では辻褄が合うように構成されている点では極めて良く出来ており、特異であると言える。所謂、狭義の精神医学上の「妄想」所見の多くは、花子の話の中にたまに出現する時制齟齬のような単純なものは除くと(こうした記憶違いは我々の日常にも頻繁に見られるからそもそもがそれを異常とすることは出来ない。それをし出すと、ほら! あなたも〈妄想だらけの狂人〉のレッテルを即座に貼られますよ!)内部でも明らかに奇体な矛盾が露呈していることが多いが、それが花子の場合には殆んど認められないのである)

だけに限られており、それらを隔離して全体の叙述を見ると、書記法も花子の意識も感情も平均して実に穏やかであり、異様な亢奮や論理矛盾を示している部分は殆んど見られない。従って、私はこれは「強い思い込み」、「被害妄想様のその周縁」を花子は彷徨しているに過ぎないと考えるのである無論、それを強迫神経症やノイローゼの副次的症状をする方もいるであろうが、ともかくも私は、彼女を精神医学的に、閉鎖された系に於いて高高次な偏執妄想を強固に構築した(ゲーデルの不確定性原理によれば、そうした系にあっては系の中の矛盾を認識することは出来ないとされる)病者であり、社会的学術的に「異常な発言による無効で無意味な叙述」と断じ、「隔離し」「葬り去る」らねばならぬような必要性を全く以って感じないのである。

   *

則ち、田中純の小説「二本のステッキ」は佐野花子の中の夫慶造を救助し、芥川龍之介の中に創られた「月光の女」という女性像の一人は自分であるという意識的主張(私はそれを基本、肯定する人間である。但し、「意識的」と条件したのには自ずと「無意識」の別な願望、則ち、花子の中の慶造や龍之介に対する依存的願望、所謂、「シンデレラ・コンプレックス(Cinderella complex)」の存在を私は強く感じているのである)を公にするという切なる希い精神をなお、再三言うが、来年二〇一七年一月一日午前零時零分を以って田中純の著作権が切れるので、来年早々には、このブログで「二本のステッキ」の全電子化をしようと考えている。なお、これもクドいが、TPP関連法案が本年中に承認されても、著作権延長はそれでは出来ない。何故なら(私も関連条文を厳密に理解しているとは言い難いが)、著作権延長は〈TPPが日本に於いて《発効》した日を以って変更される〉と規定されているからである。勘違いしてはいけないのは、TPPは複数の国の協定であり、その《発効》と、日本の国会でのTPP承認可決は自ずと違うものなのである。

『「十返肇氏は「文壇クローズアップ」の欄に、「芥川への疑惑」と題して次のように書いています』十返肇(とがえり はじめ 大正三(一九一四)年~昭和三八(一九六三)年)は香川県出身の文芸評論家。この「芥川への疑惑」の原文を私は読んでいないし、所持もしていないが、佐野花子の以下の引用は、宇野浩二の「芥川龍之介」の引用がほぼ正確であることから考えても、問題のない正しい引用と信じてよいと思われる。]

 「前月号のこの欄で、芥川の出生問題が、近ごろ話題を呈していることを報告しておいたが、同じ号に掲載されている田中純『二本のステッキ』もまた、芥川の実生活についての一つの興味ある事実を紹介している。本誌の読者は既に読まれたと思うから、ここにあらためて、その梗概を紹介することは省略するが、おそらく、芥川が横須賀海軍機関学校時代に同僚の人妻に、ある程度、感情を動かせたというのは事実であろうと思う。

 この人妻は、芥川が、なぜ、突然、良人を戯画化し、自分たち夫婦に絶交を宣言するようになったかが理解できずに悩んでいるが、この『二本のステッキ』から、それを解く能力は私にもない。

 ただ、ここで感じられることは、芥川が、或いはこの夫に嫉妬をかんじ、それを克服するために、そういう文章を書いたのではなかろうかということである。しかし、事実、それは大した問題ではない。

 ただ、私には、文学に理解もなにもない海軍機関学佼教官たちの前で、その一文ゆえに謝罪しなければならなかった芥川龍之介の痛ましさが、ひしひしと感じられるのである。ここに生活に極端に臆病なために、新進作家となりながら、なお、教官勤めを止めなかった芥川の悲しい姿がある。すまじきものは宮仕え、と芥川もおもったに違いない。

 私は芥川が、新進作家となり、文筆一本で生活しようとすればしえたにもかかわらず、この教官生活をやめなかったという事実に、つねに大きい不満を感じている。この点、谷崎潤一郎の生き方に私はたのもしい強さをいつも感ずる。『二本のステッキ』のなかに、谷崎潤一郎と論争して、芥川がへトヘトになったことが書いてある。そして『谷崎は偉い。僕をこんなにへトヘトにするのだから』と芥川がいうところがあるが、おそらく芥川の本音であろう。

 この論争は、今日読みかえしてみて、その論旨の当否は措くとして、文章の中にみなぎっている気魄において、自己の文学的主張にたいする自信において、芥川の方が完全に敗北しているという印象が強い。芥川は、谷崎との論争で、あんなにも『ヘトヘトになっている』が、おそらく谷崎の方では、そのことで、いささかも疲労を感じてはいなかったであろうことが、はっきりと想像されるのである。

 それにしても、さいきん芥川龍之介について、また芥川家について、つぎつぎに、さまざまな新事実がこのように紹介されるのは、芥川というひとが性格的に、いかに多くの苦しみをただひとりで耐えてきたかを痛感させるのである。芥川はハダカになることを極度に嫌ったひとである。

 その芥川が、死後三十年のちの今日、かくも多くの人々によって、その実生活をあばかれねばならぬとは――私は、なんとも痛ましい気持をおぼえないわけにはゆかない。

 芥川が、どのような私生活をしていようとも、その文学の価値にいかなる関係もない。しかし、芥川の文学を理解するために、その私生活の実相がわかることは望ましい。しかし、それがたんなる好奇心によってなされるのでは、文学理解のためにも多く役立つとはいえない。ただ一篇の読物的興味によって、芥川の私生活を曝露してはならない。曝露する側にも、芥川が、傷ついたと同じように傷つくべきものがあるのでなければ意味は低いものとなるであろう。

 私は、実名小説を全面的に否定するものではない。しかし、実名小説も小説として成立してこそ意義はある。それは作者の側にあえて世に訴えたい問題がある場合にのみ許されることであるまいか」

[やぶちゃん注:まず、この評を花子は誰から教えて貰ったのであろう。自分の原作の小説が載ったのだから、或いは翌月号でその評が載るかも知れない、と感ずるのは自然だから、彼女自身が見つけたとしてもよい。或いは、原作ノートを提供した娘の山田芳子さんが見つけて母に見せたというのも首肯出来る。反して、あり得ないと私が思うのは、資料提供を受けて実名小説を書いて、稿料を貰った田中純自身が知らせた可能性である。何故か? 私のこのブログの多くの読者は気づいていると思うが、この十返肇の評は、暗に、いうより、かなり明白に、芥川龍之介の実名を用い、彼のプライベートな女性関係を興味本位で暴露したスキャンダル小説の体裁でこれを書いた作者田中純を批判しているからである。十返は「芥川が、どのような私生活をしていようとも、その文学の価値にいかなる関係もない。しかし、芥川の文学を理解するために、その私生活の実相がわかることは望ましい。しかし、それがたんなる好奇心によってなされるのでは、文学理解のためにも多く役立つとはいえない。ただ一篇の読物的興味によって、芥川の私生活を曝露してはならない。曝露する側にも、芥川が、傷ついたと同じように傷つくべきものがあるのでなければ意味は低いものとなるであろう」。「私は、実名小説を全面的に否定するものではない。しかし、実名小説も小説として成立してこそ意義はある。それは作者の側にあえて世に訴えたい問題がある場合にのみ許されることであるまいか」と言う。十返は田中純の実名小説「二本のステッキ」は「たんなる好奇心によってなされ」た、「文学理解のため」でも何でもない、「ただ一篇の読物的興味によっ」た、スキャンダラスに「芥川の私生活を曝露し」た文学的小説的価値のすこぶる低いものであり、こうした実名小説を書く小説家はその「曝露する側にも、芥川が、傷ついたと同じように傷つくべきものがあるのでなければ」ならず、そうしたのっぴきならない覚悟を以って作家が書いたのでない限り、文学的「意味は低い」、殆んどない「ものとなる」と指弾しているからである。田中純がそれを読めなかったはずはない(読めなかったとしたら、これはもう、小説家以前に、人間として最早、失格である)。自分の小説を皮肉に批評しているものを原作提供者に伝えるはずがないからである。以下、次注に続ける。]

と結んでおります。右の文の中で私が心をひかれ、そして私が言いたいところは、終わりの方の「作者の側にあえて世に訴えたい」問題があることと、少し前のところの「芥川が傷ついたと同じように傷つくべきものがあるのでなければ」というところにございます。

[やぶちゃん注:さても、おわかり戴けたであろうか。ここで佐野花子は、何と、十返の田中への痛烈な「二本のステッキ」の根底に関わる実名小説の是非に関わる批判を、批判として読むことなく、自分の個人的な凝り固まった意識の中にそれを引き込み、さらにそれを

――「私が」その批評に強く「心をひかれ」たのは

――しかも「私が」十返氏以上に声を大にして「言いたいところは」、その批評が述べているところの、『「作者の側にあえて世に訴えたい」問題があること』と、『「芥川が傷ついたと同じように傷つくべきものがあるのでなければ」というところに』こそある

と変容・換骨奪胎しているのある。より正確に言うならば、十返が田中を指弾するために突き出した太刀をにっこり笑って奪い取り、それを融解して読者に向かう際の強力な鎧に仕立て直したと言ってもよい。但し、花子に好意的に考えるならば、これはこれで、原作提供をした花子にしてみれば、当然の謂いとは言える(それを「奇襲戦略」と言うと、花子は十返の皮肉に気づいていることになるが、私はそれは、ないと断言出来る)。

 しかし、それ以上に驚きの問題点がここにはあるのである。それは、

 

――実はここで花子は田中純の小説「二本のステッキ」は、自分が核心の資料を提供した以上、花子が書いたものと全く等価である《これは私の作物である!》と読み換えている点

 

である。でなくて、どうして『私が言いたいところは、終わりの方の「作者の側にあえて世に訴えたい」問題があることと、少し前のところの「芥川が傷ついたと同じように傷つくべきものがあるのでなければ」というところ』だと胸を張って言えようか。佐野花子はここで、

 

――私の(原作である)芥川龍之介の実名を用いた小説「二本のステッキ」には私佐野花子が『「あえて世に訴えたい」問題があ』り、そうして「芥川が傷ついたと同じように傷つ」いた人物がいた、私佐野花子及び最愛の夫慶造がそれであるのに、それを今まで誰一人として理解してくれてこなかったし、今もいない、これはすこぶる不当極まりないことである! だから! 私は胸を張ってそれを読者に訴えずにはおられないのです!

 

と叫んでいるのでいるのである!

 

「芥川の出生問題が、近ごろ話題を呈していることを報告しておいた」現物(前号)を見ることが出来ないので確かなことは言えぬが、これはこの記事が載ったのが、昭和三一(一九五六)年三月発行の『小説新潮』だとすれば、これは前年の『東京新聞』(昭和三〇(一九五五)年十月六日附)で『芥川龍之介出生の謎判る、小穴隆一氏が近く公表「母親は橫尾その、實家新原牧場の女中」という記事(記事名は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の「家族の回想」に拠った)、及び翌年一月三十一日(クレジット上は本記事の一ヶ月ほど前)に中央公論社から刊行された芥川龍之介の盟友で画家の小穴隆一著「二つの繪」の中の、「橫尾龍之助」のことを指していると判断してよい。これは龍之介葬儀の日に妻文が棺桶に差し入れた龍之介の臍の緒を入れた袋に「橫尾龍之助」と書いてあったという驚天動地の話である。そう、その姓は「芥川」でも「新原」でもない「橫尾」であり、しかも名前も「龍之介」でなく彼が誤って「助」で送られてきた手は開封しなかったとさえ伝えられる(これはどうも嘘っぽいが)ほど毛嫌いとされる「龍之助」であったというのである。なお、これは昭和三〇(一九五五)年十二月発行の『文藝春秋』で、小穴の単行本刊行前に、芥川龍之介の長男比呂志が「父龍之介出生の謎――『新事実』は事実ではない――」によって否定しており、現在、研究者の間で問題にされることは、まず、ない(この単発の小穴証言以外には立証者や賛同者はなく、それを証明する物件も存在せず、可能性はないとは言えない但し、龍之介の実母新原敏三の女性好きは事実であり、私は龍之介の実母フクの精神疾患の原因はその辺りに求められると考えているが限りなくゼロであろうとは私も考えてはいる)。なお、来年二〇一七年一月一日午前零時零分を以って小穴隆一の著作権が切れるので、来年早々には、このブログで「二枚の繪」を全電子化をしようと考えている。

「そういう文章」本作の「佐野さん」であるが、田中純の小説「二本のステッキ」では「Sさん」となっている。十返は、この芥川龍之介の「Sさん」という文章が実在するものとして書いていることは疑いがない。検証もせずに、である。これでよく、文芸評論家を名のれるな、と私は思う。

「ただ、私には、文学に理解もなにもない海軍機関学佼教官たちの前で、その一文ゆえに謝罪しなければならなかった芥川龍之介の痛ましさが、ひしひしと感じられる」十返は、幻の「Sさん」同様、現在、その事実が確認されていないこの事件をも、事実としてあったと安易に無批判に断定して書いている。お目出度い奴である。

「ここに生活に極端に臆病なために、新進作家となりながら、なお、教官勤めを止めなかった芥川の悲しい姿がある。すまじきものは宮仕え、と芥川もおもったに違いない」「私は芥川が、新進作家となり、文筆一本で生活しようとすればしえたにもかかわらず、この教官生活をやめなかったという事実に、つねに大きい不満を感じている」「生活に極端に臆病なために」という謂いが、完全に小説家一本で立っていうことの経済的な不安ということならば、まあ、正しいとは言える。芥川龍之介は養家芥川家の父母と伯母フキそして妻文らを、たった一人で「河童」の中に出てくる河童の一家の男のように、支えなければならなかったからである(但し、それは晩年に近づくにつれ、その擁護すべき対象は三人の子や親族へとますます拡大していった)。しかしこの十返の言い方は、私には生理的に不快極まりないものであると言い添えておく。すまじきものは寄生虫の如き評論家、と応えておくこととする。

「『二本のステッキ』のなかに、谷崎潤一郎と論争して、芥川がへトヘトになったことが書いてある。そして『谷崎は偉い。僕をこんなにへトヘトにするのだから』と芥川がいうところがあるが、おそらく芥川の本音であろう」「この論争は、今日読みかえしてみて、その論旨の当否は措くとして、文章の中にみなぎっている気魄において、自己の文学的主張にたいする自信において、芥川の方が完全に敗北しているという印象が強い。芥川は、谷崎との論争で、あんなにも『ヘトヘトになっている』が、おそらく谷崎の方では、そのことで、いささかも疲労を感じてはいなかったであろうことが、はっきりと想像されるのである」「㈢」で指摘した通り、この部分は全く時代的が合わない(十返は明確にこれを龍之介自死の年の三月以降の〈筋のない小説〉論争ととっている。この齟齬は芥川龍之介好きの高校生にでも判ることである)。それにさえ、気づいていない十返は、世間で言われるような〈文壇事情通〉だとは、凡そ、私には思われない。谷崎通であった自分を自慢して、見当違いの誤りに気づかない十返の、救い難い阿呆部分である。]

 私は作家を友人に持った素人の男として、夫がどのように傷ついたかを訴え、そして私がそれによって、淡々しくも、激しくも愛され、いかにおぼおぼとした光の中に、一人立たされるかを書き残せばよいのでございました。天下の芥川を庇う文学者はございましても、善良な夫を庇うのは妻の私よりほかには無いのでございました。

[やぶちゃん注:「おぼおぼ」副詞。朧げなさま、ほんのりとしたさまを意味する、平安以来の古語である。歌人であった花子らしい用法である。]

 思えば芥川さんは私の才能については庇い認めて下さったものでした。

 「教官夫人の中で僕と話の合うのは、佐野夫人だけですよ」

という具合に。また、芥川さんが退官され、ご帰京後、「新潮」でしたか「文芸春秋」でしたかに、

 「或る、会社で芥川が初めて会った城夏子という閨秀歌人に、翌日、著書を贈って、「昨夜は楽しかった。あなたが、僕の非常に好む或る女性に似ていられたから」

 

 という手紙が出ていたそうでした。皆が、それは一たい誰だと騒ぎましたところ、

 「夏目先生の二番目のお嬢さんではないかなあ」

ぐらいで終わったとのことです。真実、それが誰であるのか、芥川さんしかご存知ないわけですが、夫は、

 「芥川君は、どうも、お前のことを、いつまでも忘れられないようだね。それは有難いけれど、そのため心持ちが乱れて、あんな、ひどい文章を書いたりしてさ」

 などと申しておりました。人の好い夫のことを思うにつけて、いろいろと追憶が生まれて参ります。どうしたものでございましょう。とにかく、長々と書きつらね、疲れたように思います。永の眠りも遠からぬことと思います。

[やぶちゃん注:『「或る、……』以下の鈎括弧はママ。『或る、会社で……という手紙が出ていた』とするか、或いは、冒頭のこの鈎括弧を除去すべきでろう。

「城夏子」(じょう なつこ 明治三五(一九〇二)年~平成七(一九九五)年)は作家。和歌山県出身。本名は福島静。和歌山県立高等女学校卒。在学中から少女小説を書き、大正一三(一九二四)年に「薔薇の小径」を刊行。『女人藝術』『婦人戦線』などに小説を発表した。戦後は少女小説や童話を書いている(以上はウィキの「城夏子」に拠った)。芥川龍之介と同年であるが、芥川龍之介とこの女性が関わりがあったとこは、私は寡聞にして知らぬ。私の所持する芥川龍之介関連書の複数の人名リストを見ても彼女の名はない。芥川龍之介の現在の著作物や書簡にも彼女の名は載らない。ここで佐野花子が述べる『新潮』」或いは『文芸春秋』の城自身の記事(としか思えぬ)も不詳である。識者の御教授を是非、乞うものである。

「僕の非常に好む或る女性」言わずもがな、花子は――百%――私佐野花子ことだ――と言うのである。「歌人」というところがミソだろう。現行では城夏子を「閨秀歌人」とはしないし、女学校時代から小説を書いて発表している女性を私は「閨秀歌人」とは言わないと思う(少なくとも私は絶対に言わない)。寧ろ、花子は自身をそのような歌人として意識していたと断言出来る。だからこの城夏子という女が、自分に似ているというのが許し難いのである。

「夏目先生の二番目のお嬢さん」とすれば、夏目恒子で明治三四(一九〇一)年一月二十六日生まれ。芥川龍之介より九歳年下。彼女の事蹟は私自身、よく知らない。芥川龍之介の文章には彼女について言及したものはないと考えられ、また、親しい接点もないと思われる。

 

 さて。

 それにしても城夏子への芥川龍之介の手紙の一件……これ……花子がわざわざ、それも、本作のまさに大事なコーダの部分に書くぐらいだからね、よほど、花子は口惜しかったのだろうなぁ…………

 

えっ?

 

「誰に対してか」だって?!

芥川龍之介が歯の浮くような文句を言った芥川龍之介に、じゃないよ!

この城夏子という歌人に対してに決まってるじゃないか!

 

あれあれ……

あなたは、まだ、気がつかんのかね?……

 

佐野花子は、まさに、強烈な愛憎半ばするアンビバレントな意識の中にいるんだよ!

 

――佐野花子は、誠実であったにも拘らず、芥川龍之介が自分を愛したが故、それだけのために、あの「おぞましき龍之介」から憎まれた亡き最愛の夫佐野慶造の魂を鎮めんがため、復権させんがためという強い意識的願望

 

とは裏腹に、

 

――佐野花子は実は――「自分は確かに芥川龍之介に愛されたのです!」――「自死の最後まで、否、死してなお、芥川龍之介は私を愛しているのです!」――「彼の理想の女性たる『月光の女』に最もダブる私佐野花子を、です!」――と呼ばわっているのである! 今現在も!

 

これは謂わば佐野花子の〈信仰に近い確信〉である。

そうでないなら、あなたは一体、最後に掲げられている、捧げられている次の詩を、誰へ向けたものとして読むというのか!?!

 

――そこで花子は聖母マリアとなり

――慶造も龍之介も一体となった赤子キリストを優しく抱いているのである…………

 

以上を以って私の注は終わりとする。最後の十二行詩は佐野花子の畢生の絶唱である。それは評を拒絶する美しさを持っている。

……この詩……私はとっても好きです。花子さん…………

 

  君に語らん術もがな

  涙と過ぎし幾年は

  絵巻となりて浮びくる

  老いて病む身の昨日今日

  悲しき君がまぼろしよ

  空のいづくにおはすやと

  窓辺によりて仰ぎ見ぬ

  此の大空の遙けさや

  命はかなく消えん時

  君に見えんうれしさよ

  若かりし日のつれなさよ

  空のはてにて相逢はむ      (完)

諸國百物語卷之五 一 釋迦牟尼佛と云ふ名字のゆらいの事

 

 諸國百物語卷之五 目錄

一  釋迦牟尼佛といふ名字の由來の事

二  二桝をつかいて火事にとられし事

三  松村介之丞海豚魚にとられし事

四  播州ひめぢの城ばけ物の事

五  馬場内藏主大じやをたいらげし事

六  紀州わか山松もとや久兵衞が女ばうの事

七  三本杉を足にてけたるむくいの事

八  狸廿五のぼさつの來迎をせし事

九  吉田宗貞の家に怪異ある事付タリ歌のきどく

十  ぶぜんの國宇佐八まんへよなよなかよふ女の事

十一 芝田主馬が女ばう嫉妬の事

十二 萬吉太夫ばけ物の師匠となる事

十三 丹波の國さいき村いきながら鬼になりし人の事

十四 栗田左衞門介が女ばう死して相撲をとりに來たる事

十五 いせの津にて金のしうしんひかり物となりし事

十六 松坂屋甚太夫が女ばう後妻うちの事

十七 靏の林うぐめのばけ物の事

十八 大森彥五郞が女ばう死して後雙六をうちに來たる事

十九 女の生靈の事付タリよりつけの法力

二十 百物がたりをして富貴になりたる事

諸國百物語卷之五目錄終


諸國百物語卷之五
 

 

   一 釋迦牟尼佛(にくるべ)と云ふ名字のゆらいの事

 


Nikurube

 

 江戶日本橋によろづ屋半平(はんべい)と云ふ大あき人、有りけるが、まいねん、京へのぼりて買物せられし宿ありしが、後家にて、ひとりのむすめあり。みめかたち、うるはしかりければ、半平、心をかよはし、かきくどきけるが、むすめも半平に、かねがね、おもひいれ、たがいにおもひあいて、母にもかくとしらせ、たがひにあさからぬなかとなりけり。あるとき、半平、申しけるは、

「われは本國、江戶のものなれば、親子ともに江戶へひきこし、江戶にてゆるゆるとすごし申すべし。われはまづ、さきへ下り、よろづのしゆびをとゝのへて、やがて、むかいにのぼすべし。いかゞあらん」

と、とひければ、むすめもよろこび、

「われらもかねがね、さやうにおもひ侍る也。又、くるとしの御のぼりまでを、まちかねまいらせ候へば、もろとも、江戶へまいり、あさゆふ、なれそひまいらせたき」

といへば、半平もうれしくて、本國江戶へかへりけるが、たびのつかれにや、くだりつくと、わづらひつき、とやかくとして月日をすごし、京へむかいにのぼす事も、うちわすれてゐたりける。かくとはしらで、みやこには、かのむすめ、むかいのおそきをまちかねて、あけくれ、半平のことのみを、おもひくらしてゐたりしが、そのこいのかぜやつもりけん、いつとなくわづらいつき、つゐにむなしくなりにけり。母のなげきはいふばかりなし。さて半平は、江戶にて此むすめの事をおもひいだし、さぞやむかいをまちかねつらん。今はなにとか暮し候ふやらんと、みやここひしく思ひ出しゐける所へ、

「よろづ屋半平どのは、こなたか」

と、たづねきたるを見れば、みやこにてちぎりしむすめ也。半平、うれしくて、

「さてさて、御身はなにとて御下り候ふや。きどくさよ」

とて、たがいのなみだ、せきあへず。むすめ、さまざまうらみかこちけるを、半平、さまざまいひわけして、やうやうなだめ、うちにいれ、一門どもへもひろうして、おもひのまゝに妻とせり。

「さて、母をもよびくださん」

といひければ、むすめ、

「まづ、二、三ねんもまち候へ」

とてとめければ、半平も、ともかくも、とて、うちすぎぬ。ほどなく、むすめ、くわいにんして、玉のやうなる男子をうめり。此子、三さいのとし、みやこに有りしむすめの母、半平をたづね、くだりける。半平、よろこび、あひければ、母、申されけるは、

「さてさて、御身を見るにつけても、なつかしや。御身にまいらせ候ふむすめ、むかいのをそきをまちかねて、おもひじにゝいたし候ひて、ことし三年になり申す也。むすめがはてゝこのかたは、たれをたよりにする物とてもなく、世わたるいとなみもしだいにうすくなり候へば、御身よのつねなさけありし人なれば、くだりてなげき候はゞ、見すてもなされ候ふまじとぞんじ、これまでくだりて候ふ也。むすめをみると覺しめし、なさけをかけてはごくみ給はれ」

とて、さめざめとなき給ふ。半平はおどろきて、

「さても、ふしぎの事を仰せ候ふものかな。そのほうのむすめは三年いぜんにこゝもとへたづねくだり、今三さいの子まであり。是れこそ、そのはうの孫也」

とて、みせければ、母もふしぎにおもひ、

「さらば、むすめに、あはん」

とて、をく[やぶちゃん注:ママ。]にいれば、むすめは母にあふまじきとて、なんどのうちにかくれけるを、半平、なんどに入りてみれば、むすめはみへずして、ゐはいあり。半平、おどろき、母にみせければ、母もなみだをながし、

「さては御身をこいしくおもふしうしん、きたりて、三とせがあいだ、そひけるあさましさよ」

とて、ふところよりゐはいをとりいだしあわせ見ければ、同筆にて釋迦牟尼佛(しやかむにぶつ)と書きてあり。半平もなみだにくれて、いろいろ、とむらいなどして、むすめの母をおもひのままに、やしないけると也。此子、せいじんして、きりやうさいち、人にすぐれければ、そのころの國司、聞こしめしおよばれ、召しかゝゑ給ふと也。半平、名字は大友氏なれども、此子は幽靈のうみたる子なれば、かのゐはいに釋迦牟尼佛(しやかむにぶつ)と書きてありしを、よみかへ、名字釋迦牟尼佛(にくるべ)三彌(さんや)としてと名のりけると也。それより此名字代々つたはりけると也。 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「釈迦牟尼佛と云ふ苗字の事」。

「釋迦牟尼佛(にくるべ)」「釈迦牟尼仏」を「にくるべ」と読み、そうした人名の難読の名字(姓・苗字)が存在するというは、牧野くにお氏の「ベビーのうまい名づけ」というページに、その手の『本とか辞典には紹介されていますが、電話帳にはのっておらず、確認はできません』とある。他のネット上の記事でも難読苗字ランキング一位としてこれが挙がり、また、他のサイトでは「にくるべ」以外にこれを「にくろうべ」「にぐらめ」「にくろめ」「にくろべ」「おくるみ」と読むデータもあった。読み自体の由来だが、幾つか調べて見た限りでは、釈迦は「如来」であり、その所属するグループである「如来部」(にょらいぶ)の「如」の「によ」の拗音を除去し、「来」を「くる」と訓読みし、「部」をやはり訓読みして「べ」として出来たらしいというのが、一応、腑には落ちた。神仏の呼称名は神聖な忌み名であるから、それをかく読み変えて別なものを名指すこととするのは普通に民俗社会で行われることである。

「大あき人」「大商人」「おほあきんど」。

「なれそひまいらせたき」「馴れ添ひ參(まゐ)らせ度(た)き」。歴史的仮名遣は誤り。

「そのこいのかぜやつもりけん」「其の戀(こひ)の風邪(かぜ)や積りけん」。歴史的仮名遣は誤り。「風邪」は実際のそれではなく、邪気の意で、専ら「恋の病い」(重篤な精神病)に、労咳(結核)などの当時の致命的な感染症或いは重度の外因性或いは内因性疾患が合併したものであろう。

「さぞやむかいをまちかねつらん。」句点はママ。読点にすべき。

「ひろうして」「披露して」。

「なんどのうちにかくれけるを」「納戶の内に隱れけるを」。

「ゐはい」「位牌」。

「こいしくおもふしうしん」「戀しく思ふ執心」。歴史的仮名遣は誤り。

「あさましさよ」「驚くべき、意外なことよ!」。

「せいじん」「成人」。

「きりやうさいち」「器量才智」。

「そのころの國司」かく言うとなると、戦国以前の設定のように見える(あまり認識されてはいないが、平安末期に既に地名としての「江戸郷」はあった)のであるが、冒頭に「江戶日本橋」とあり、これはもう、慶長八(一六〇三)年に徳川家康が全国の道路網整備計画の一環として、初代の橋(木造太鼓橋)が架けられて以降ということになる。

「聞こしめしおよばれ」御聴聞遊ばされ。

「大友氏」「半平」は商人であるが、かく姓を持っているとなると、関東では、鎌倉初期の武将で御家人で相模国足柄上郡大友荘(現在の神奈川県小田原市)を支配していた大友能直を始祖とする大友氏の末裔が想起はされる。]

2016/11/09

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その5

 「芥川の恋人と言えば、既に皆、名前が挙がり、研究され、書き残されているではないか。佐野花子などという者の名は、どこを見ても見当たらない。どこかに何かに残る筈だ。残ってもいないものを信ずるわけには行かない」

[やぶちゃん注:これは花子によるオリジナルな仮想発言であるが、実際、私はこれに等しい、花子を精神的におかしい妄想家と言うに等しい、誹謗としか思えない不躾な発言や記述を数多く見てきた。]

 ところが彼は自分の周囲にいる文士連の口を恐れて要心しているのでございました。ちょっと話しても大きくされてしまう、オセッカイな彼らには口を固くしておりまして次のような手紙があります。

[やぶちゃん注:「彼」生前の芥川龍之介を指す。]

「朶雲奉誦

東京へ帰り次第早速意の如くとり計らふべし

  (四行半除去)

 それから君、久米へ、勢以子(註―ずっと前に鵠沼の東家の事を書いた時に出て来た元谷崎潤一郎夫人の妹)と小生との関係につき怪しからぬ事を申さたれ由、勢以子女史も嫁入前の体、殊に今は縁談もある容子なれば、爾今右様の事一切口外無用に願ひたし、僕大いに弁じたれば、この頃は久米の疑ひも全く解けたるものの如くやっと自他のため喜び居る次第なり、これ冗談の沙汰にあらず真面目に御頼み申す事と思召し下されたし、谷崎潤一郎へでも聞えて見給へ冷汁が出るぜ」というのでして、この手紙を貰ったのは秦豊吉でございます。うっかりすると口の端のうるさい文士連ということを知らされます。私のことも彼は要心して、一切、誰にも洩らさなかったのでございます。別に深い関係もなく誰に遠慮するわけではなくても、要心に越したことは無く、かつ、めんどうを恐れて口外しなかったわけで、誰も私の名など知りませんし、私と横須賀時代に交際があったなど知る由もありません。それに右の手紙を見て宇野浩二も、はじめて、ずっと前から、芥川が、勢以子と近づきであったことを知るのですからなかなか恐ろしいことです。宇野浩二はその著(芥川龍之介(上))の中の一節に右の手紙を挙げ、「そこで芥川が仮りにまだ生きているとすると、私は(私も)芥川に手紙を書き、その最後に『冷汗が出たぜ』と書くであろう。閑話休題」としてございます。まことに小うるさい環境と思います。彼もなかなか忙しかったのでしょう。それが作家の生活と申せましょう。右の手紙は大正八年八月十五日に芥川が金沢から秦豊吉に宛てて出したもので横須賀の私どもとは交際も果てたのちのことでございます。小説を書くための交際がさかんになり、とかくの人の名を挙げさせそれでもなお、「月光の女」は誰であろうかなど幾ら話し合っても解らないこの種の迷路は、有名になった作家に特有の廻り道でありましょう。その迷路がどこへどう抜けていたか、解りかねる部分がありましょう。著名な女性の名が挙がると人はその方へ気を取られます。いわばその人々は一種の目集めのような役をも兼ねないとは申せません。人の眼はそこに集中され、それらを記名し、あとには誰もいないよと済ましてしまいます。

[やぶちゃん注:以上の書簡は旧全集書簡番号五六五。大正八(一九一九)年八月十五日附・秦豊吉宛(秦豊吉(はた とよきち:明治二十五(一八九二)年~昭和三十一(一九五六)年)は翻訳家・演出家・実業家。七代目松本幸四郎の甥。東京帝国大学法科大学卒業後、三菱商事(後に三菱合資会社)に勤務する傍ら、ゲーテ「ファウスト」などのドイツ文学の翻訳を行い、昭和四(一九二九)年刊行のレマルクの「西部戦線異状なし」の翻訳はベストセラーとなった。昭和八(一九三三)年に東京宝塚劇場に転職、昭和十五(一九四〇)年には同社社長となった(同年より株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)社長も兼務(昭和二十八(一九五三)年迄同社会長)。敗戦後直後に戦犯指定を受けるも、昭和二十二(一九四七)年から東京帝都座に於いて日本初のストリップ・ショーを上演、成功を収めた。昭和二十五(一九五〇)年には帝国劇場社長国産ミュージカルの興業で成功を収める。後、日本劇場社長時代に小林一三に買収され、東宝社長となった(以上はウィキの「秦豊吉」に拠る))。岩波旧全集より全文を引く。

   *

朶雲奉誦 東京へ歸り次第早速貴意の如くとり計ふべし[やぶちゃん注:ここに全集編者注で『〔四行半削除〕』とある。]

それから君、久米へ勢以子と小生との關係につき怪しからぬ事を申された由勢以女子史も嫁入前の體殊に今は緣談もある容子なれば爾今右樣の一切口外無用に願ひたし僕大い辯じたればこの頃は久米の疑全く解けたるものの如くやつと自他の爲喜び居る次第なりこれ冗談の沙汰にあらず眞面目に御賴申す事と思召し下されたし谷崎潤一郎へでも聞えて見給へ冷汗が出るぜ

九月初旬より東京に居る可く日曜は必在宿の豫定に候間御光來下され度道樂者どもも少々は遊びに參り候 この頃僕の句も新進作家にて君の水仙の句にも劣らず名句を盛に吐き出して居り候へば左に一二を錄すべく御感服御嘆賞御愛吟御勝手たるべく候

[やぶちゃん注:以下の( )内は底本では二行割注。]

   宵闇や殺せども來る灯取虫

   もの云はぬ研屋の業や梅雨入空(これをツイリゾラと讀む素人の爲に註する事然り)

   時鳥山桑摘めば朝燒くる

   靑蛙おまえもペンキぬりたてか(この句天下有名なり俗人の爲に註する事然り)

   秋暑く竹の脂をしぼりけり

   松風や紅提灯も秋隣(この句谷崎潤一郎が鵠沼の幽棲を詠ずる句なり勿體をつける爲註する事然り)

    八月十五日

   秦 と よ 吉 樣

[やぶちゃん注:以下の「二伸」本文は、ブログでのブラウザの不具合を考え、改行を施してある。]

  二伸 君の原稿は何月號へのせる心算に

  や 除隊後に書くと云ふにや隊にゐて書

  くと云ふのにや もし隊にゐて書くなら

  匿名で書くにや

  右諸點に關して田端四三五小生宛御囘答

  を得ば幸甚なり

  近來句あり

   春の夜や蘇小に取らす耳の垢(美人の我に侍する際作れる句なり羨ましがらせる爲に註する事然り)

   *

実はこれも宇野浩二の「芥川龍之介」の「十一」のここに引かれており、宇野は以下のように述べている。

   *

これは、大正八年の八月十五日、芥川が、金沢から、秦 豊吉にあてた、手紙のなかの一節である。が、これを読んで、私は、この文章のたしか第五節あたりで、鵠沼の東家〔あずまや〕にいろいろな人が集まった話を書いた時、このせい子の事も述べたが、芥川が勢以子とずっと前から近づきであつた事を初めて知ったのである。

 そこで、芥川が仮りにまだ生きているとすると、私は、(私も、)芥川に手紙を書き、その最後に、「冷汗が出たぜ、」と書くであろう。閑話休題。

   *

書簡冒頭の「朶雲」は「だうん」と読み、相手から受け取った手紙を尊んで言う書簡用語(唐代の韋陟(いちょく)は五色に彩られた書簡箋を用い、本文は侍妾に書かせて署名だけを自分がしたが、その自書を見て『「陟」の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ』と言ったという「唐書」韋陟伝の故事による)。

 さて、何故、長々と秦宛書簡を引用したかであるが、花子がここだけをかく引用すると、恰も龍之介が小林勢以子(明治三二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年:谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹。後に映画女優となり、芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の愛」の小悪魔的ヒロイン・ナオミのモデルとされる)とのありもせぬゴシップを深刻に捉えているように思われるかも知れないが、これ、険悪でも深刻でも、実はないとうところが肝心である。宇野のこの引用ではまるで『潤一郎にでも』(この実はやっぱり私通に近いものだったことがばれたらと思うと)『冷汗が出るぜ』、とでもいうようなニュアンスに読める。そうではない。龍之介は潤一郎絡みで小林勢以子と交流があったものの、芥川龍之介の恋愛狙撃のスコープには小林勢以子は絶対に入っていなかったと私は考えているからある。――では、『冷汗が出る』のはなぜか?――明白である。後年の「文藝的な、餘りに文藝的な」論争でも分かるように、先輩作家谷崎は芥川のライバルである。そのライバルの義妹とのゴシップは芥川にとって如何にも不都合である。更に言えば私は、谷崎がそれを知ったらどうするかを考えてみれば、『冷汗が出る』に決まっているのである。則ち、谷崎なら、そこでニヤリとして、即座に芥川と勢以子をモデルにしたゴシップ恋愛小説をものすに決まっている、と芥川は直感しているからなのである。そうしたおどけた余裕が、後半の句の開陳によく表われているではないか。]

 私は自分でもこういうことに気づきまして病人になりましてから、ノートに覚えていることを書きはじめました。小説の形にしてまず書き残しても見ました。また、文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いても見ました。または、手当たりしだいの紙片に覚え書きを記しました。娘の耳にも語り聞かせました。病いは既に治りそうもなく先も長いとは思えず、書いたものは、ちぐはぐであるようです。私の言いたいことは一貫して頭の中にあるのですが、死後それはどのように語り伝えられて行くのでしょうか。

[やぶちゃん注:「病人」それを指しているかどうかは不明であるが、花子は戦争直前或いは戦中に結核に罹患し、臥床している(底本の長女芳子さんの「母の著書成りて」に拠る。但し、以前にも注したが、昭和三六(一九六一)年八月二十六日の彼女の六十六歳の逝去がそれによるものかどうかは不明)。

『小説の形にしてまず書き残しても見ました。また、文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いても見ました。または、手当たりしだいの紙片に覚え書きを記しました』「病いは既に治りそうもなく先も長いとは思えず、書いたものは、ちぐはぐであるようです」これは非常に重要な発言である。花子は最初、

 

1 この芥川龍之介との思い出について「小説の形にしてまず書き残して」「見」た。

 

と言っている。さらに、

 

2 『文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いて』「見」た。

 

と述べているのである。しかも、そうしたことを、

 

3 「手当たりしだい」「紙片に覚え書き」として「記し」、しかもそのバラバラに書き散らした「ものは、ちぐはぐであるよう」に私自身にも見えるようである。

 

ともはっきり記しているのである。この命題は次のように展開して書き直すことが出来る。

 

1・1 自分の書いた断片が芥川龍之介に纏わる体験を素材としながらも、事実とは必ずしも言えない創作であったことがあった。

2・1 文壇で問題にされている「或阿呆の一生」中の意味深長な謎の《月光の女》と称する「四人の女性」を「私であると」敢えて「仮定し」、しかも《月光の女》と称する「四人の女性」は「私であると」、幾つかの点で身に覚えがないないにも拘わらず(事実、芥川龍之介と『或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇し』、しかもその時、龍之介と『一面識もない間がら』であったことはなく(「或阿呆の一生」の「十八 月」より。リンク先は私の古い電子テクスト。以下同じ)、『或廣場の前』で龍之介と秘かに密会し、『「疲れたわ」と言つて頰笑んだりし』、『肩を並べ』て歩き、タクシーに乗り、『彼の顏を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言』い、『彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言』ったこともなく(「或阿呆の一生」の「二十三 彼女」より)、況や、龍之介と、『大きいベツドの上に』『いろいろの話をし』、『一しよに』『七年』も『日を暮ら』したことなどあろうはずもない(「或阿呆の一生」の「三十 雨」より)のに(以上は総て「或阿呆の一生」の四ヶ所の内の三ヶ所に現われる〈月光の女〉の設定である。花子が生きていれば、確かに完全否定する内容と断言出来る。一ヶ所だけ、「或阿呆の一生」の「二十七 スパルタ式訓練」で、『彼は友だちと或裏町を歩いてゐた。そこへ幌(ほろ)をかけた人力車が一台、まつ直に向うから近づいて來た。しかもその上に乘つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。彼女の顏はかう云ふ晝にも月の光の中にゐるやうだつた。彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた』。/『「美人ですね。」』/『彼の友だちはこんなことを言つた。彼は往來の突き當りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。』/『「ええ、中々美人ですね。」』と出る女性は留保するが、『昨夜の彼女』というところで私は佐野花子は直ちに否定すると思っている)、無謀にも敢えて「断定的な口調で書い」たことがある。

3・1 「手当たり」次第に「紙片に覚え書き」として「記し」散らした結果、それらは現実に即して、或いは論理に照らして、冷静に考えた際にはこの私自身でさえ「ちぐはぐであるよう」に感じられるものが混在していたと感じられる。

 

これは、いい加減な敷衍解釈などではない。先の「1」「2」「3」の花子の言う命題から導かれるところの、

 

☆最終的に佐野花子が本「芥川龍之介の思い出」の最終決定稿を書いた際に彼女が置かれていた外延的環境或いは事実関係の状況を可能且つ自然と私が判断する様態として措定したもの

 

なのである。しかも、その時の佐野花子の心身の状態はと言えば、

 

★「病いは既に治りそうもなく先も長いとは思え」ぬという死への『ぼんやりとした不安』(知られた芥川龍之介の遺書の一種「或舊友へ送る手記」から、花子をこんな目に遇わせた芥川龍之介に対しての皮肉を込めて(佐野花子へでは決してないと言い添えておく)てわざと引いた)の意識、その非常な「生」の孤独感の中で、意識を緻密に論理的に冷静に保ち続け、本「芥川龍之介の思い出」を〈事実に即して〉書き上げるということは、私には至難の業(わざ)のように思われる

 

のである。もっとも、本稿(小説などにする以前の初期稿)の起筆は冒頭の叙述から、昭和二五(一九五〇)年八月二十六日前後以降で(黒澤明監督の映画「羅生門」公開日前後)花子が亡くなるのは、それから十一年後の昭和三六(一九六一)年八月二十六日(思わず、あっ! と思ったが、この日付、偶然であるが同一日である)であるから、どれだけの年月をかけて本「芥川龍之介の思い出」が書かれたものかは不詳ながら、起筆の時点では、死を目前にした切羽詰まった状況であったとはちょっと考え難くい、とは言える。

 

 ともかくも、以上から、以下の推論を主張することは出来る。則ち、

 

◎佐野花子は、最終的な「実録」としての本「芥川龍之介の思い出」を書く過程の中で、当初、自分の書いた「小説」仕立ての中の架空のそれや、やや強引であったであろう「月光の女は私である」主張のあれこれのシークエンスや文々(もんもん)の内、事実としては彼女も実は受け入れられない幾つかの叙述を、後に心身ともに疲弊した晩年の花子自身が、あたかも若き日の自分と芥川龍之介との間にあった事実であったように誤認してしまい、それをこの決定稿に混入させてしまったと考えることは可能である。

 

という措定である。多くの自分が書いた、虚実皮膜のメモランダが周りにいっぱいあって、それには小説化した架空の断片や、或いは、一度、『文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いて』際の、やや牽強付会な叙述があったとして、それを後年、肉体的精神的に弱った花子が、ある一部を実際にあった事実、虚心坦懐にして素直な自身のかつての確かな感懐であったと無意識に読み換え(それは多分に弱った花子の強い深層心理的願望でもあったと私は断言するのであるが)、そう思い込んでしまった可能性である。

 これは架空の記憶の再構築と偏執的確信という点では、正常人の域を逸脱してはいるように見えはする。しかしだからと言って、ぺらぺらした市井の人間が言い放つ〈妄想〉(はっきり言えば「頭がおかしい」的発言)という一語で片付け得るものではないし、また、記憶障害や、ある種の精神病の一症状として処理し、その叙述全体を無化・無効とすべきものでもないと私は考えるのである。恐らく、この作品を精神科医が病跡学的に検討した場合でも、ある種の文学研究者や自称芥川龍之介研究家などのように〈妄想〉の類いとして一蹴することはないと思う。そういう点に於いて、近現代の文学研究者は、私は前近代的で非科学的な輩がゴマンといるとさえ、実は秘かに感じているのである。

「私の言いたいことは一貫して頭の中にあるのですが、死後それはどのように語り伝えられて行くのでしょうか」……今、私がこのようにして語り伝えておりますよ、花子さん…………

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その4

 澄江堂遺珠、芥川龍之介の未定稿の詩は、佐藤春夫を、宇野浩二を、そして、私を悩ませたと思います。とりわけ私の苦悩は夫の分まで引き受け、誰にも知られぬ、打ちあけても信じて覚えぬ、取りつく島もない不安定に揺り動かされました。

 全集第五巻の詩集を見ますと「相聞」という題の詩が三つ出ておりますが、次の詩をよみますと、そくそくとして私には懐かしさがよみがえってまいります。誰が読んでもいい詩なのですが、私の感懐は亦、別なのでございます。

 

 また立ちかへる水無月の

 歎きを誰にかたるべき

 沙羅のみづ枝に花さけば

 かなしき人の目ぞ見ゆる

 

 私の横須賀の家の庭には沙羅の木もあったのでした。ただ、その家も今は無く、沙羅の木もどうなったか解らず、私には多く思い出の実感ばかりが残されておりますので、このことを人に語ろうとも、誰も信じはいたしますまい。宇野浩二も、「澄江堂遺珠」の中にある、あの詩の大部分を仮りに相聞詩とすれば、そうして、あの詩を空想の恋を詠んだものとすれば、芥川には空想の恋人があったということになると申しておりまして、「空想の恋人なら何人あっても差し支へないであらう」と言っておりますけれど、その空想の恋人と申すところに、やはり現実上の恋人が根ざして居り、それが翼をひろげ、月の光を呼び、詩の中での恋人、文中の恋人とならないと誰が申せましょうか。作家といえどモデルは周囲から採るのでございます。よく採られ悪く採られても自由なのでございます。ぜんぜん根も葉もない恋人は存在しないのでございましょう。覚えのある私には、こういうことが言えるのでございます。私どもと芥川が交友関係にありましたこと、また、とり分け彼が私に関心を持ちましたことなど、不用意に人に語りましても、人は次のように申して信じないでしょう。

[やぶちゃん注:「全集第五巻の詩集」とあるが、これは巻数から見て、恐らく現在、「元版」と呼ばれている、昭和二(一九二七)年十一月から昭和四年二月にかけて岩波書店から刊行された最初の「芥川龍之介全集」と思われる。

『「相聞」という題の詩が三つ出ております』恐らくは以下の詩形の三篇である。

   *

 

   相聞 一

 

 あひ見ざりせばなかなかに

 空に忘れてすぎむとや。

 野べのけむりも一すぢに

 立ちての後はかなしとよ。

 

   相聞 二

 

 風にまひたるすげ笠の

 なにかは路に落ちざらん。

 わが名はいかで惜しむべき。

 惜しむは君が名のみとよ。

 

   相聞 三

 

 また立ちかへる水無月の

 歎きを誰にかたるべき。

 沙羅のみづ枝に花さけば、

 かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

   *

元版が載せるこれらを含む詩篇のパート部分の原資料は現在、所在不明であり、且つ、また、この「相聞」と題する詩篇群には幾つかの別稿が存在する。それに就いてはやぶちゃん版芥川龍之介詩集でそれらの異なる稿を含めて詳細に考証してあるので、ご覧になられたい。

 また、芥川龍之介には大正一四(一九二五)年六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載された「澄江堂雜詠」(リンク先は私の電子テクスト)の最後に、「六 沙羅の花」という一章があり、そこに、この詩が載る(恐らくはこれが本詩篇の公式上の初出と判断される)。

   *

 

   沙羅の花

 

 沙羅木は植物園にもあるべし。わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへるもとには太湖石と呼べる石もありしを、今はた如何になりはてけむ、わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞こえつつ。

 

   また立ちかへる水無月の

   歎きをたれにかたるべき。

   沙羅のみづ枝に花さけば、

   かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

   *

以下、「澄江堂雜詠」で私が注したものを載せる。

   *

「また立ちかへる水無月の」の後には読点などはない。ママである。本詩は大正一四(一九二五)年四月十七日附の修善寺からの室生犀星宛書簡(旧全集書簡番号一三〇六)に『又詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。よければ遠慮なくおほめ下され度候。原稿はそちらに置いて頂きいづれ歸京の上頂戴する事といたし度。』とし(この原稿とは以下の詩稿を指すと判断する)、次の二篇を記す。

 

   歎きはよしやつきずとも

   君につたへむすべもがな。

   越こしのやまかぜふき晴るる

   あまつそらには雲もなし。

 

   また立ちかへる水無月の

   歎きをたれにかたるべき

   沙羅のみづ枝に花さけば、

   かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

詩の後に『但し誰にも見せぬように願上候(きまり惡ければ)尤も君の奥さんにだけはちよつと見てもらひたい氣もあり。感心しさうだつたら御見せ下され度候。』微妙な自負を記している。

「沙羅の花」ここは、わざわざ「植物園」としている点、温室でなくても南方の地域では植生可能である点、更に芥川龍は特に「花のにほへる」と花の香りを強調している点から、これを私は本物の沙羅双樹、即ち、被子植物門双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta と一応、同定したい。これはシャラソウジュ・サラノキ・シャラノキ(沙羅双樹・沙羅の木・娑羅の樹)ともいう(異属のナツツバキも、かく呼称されるので要注意。後文参照)。インドから東南アジアにかけて広く分布し、南方域では高さ三〇メートルにも達する巨木となる。釈迦がクシナガラで入滅した際、臥床の四辺にあったこの四双八本の木が、時ならぬ不思議な鶴の群れの如き白い花を咲かせ、忽ち枯れたとされ、涅槃図によく描かれる。ヒンディー語では「サール」と呼ばれ、日本語の「シャラ」または「サラ」の部分はこの読みに由来する。春に白い花を咲かせ、ジャスミンに似た香りを放つ。但し、耐寒性が弱いため、本邦で育てるには通常は温室が必要で、稀に温暖な地域の寺院に植えられている程度で希少である。各地の寺院では本種の代用としてツバキ科のナツツバキが植えられることが多く、そのためにナツツバキが「沙羅双樹」と呼ばれるようになり、ナツツバキ=サラソウジュという大誤解が生ずることとなってしまった(ここまでは主にウィキの「サラソウジュ」に拠った)。本注を作成するためにネット上の多くの記載を縦覧したが、サラソウジュ Shorea robusta とナツツバキ Stewartia pseudocamellia の両者を全く同一種と考えている致命的な誤りを犯している記載から、ナツツバキを仏教の沙羅双樹と取り違えている寺院や愛好家グループ、両者が別種であることを知りながら、分布や花の記載の途中で両者が混合してしまっている記載等々、甚だしく錯綜していることに気づいた)。一応、沙羅双樹として本邦で多く誤認されている双子葉植物綱ツバキ目ツバキ科ナツツバキ属ナツツバキ Stewartia pseudocamellia ついても以下に記しておく。和名ナツツバキは仏教の聖樹であるフタバガキ科のサラソウジュ(娑羅双樹)に擬せられて、別名でシャラノキ(娑羅樹・沙羅・沙羅双樹などとも)と呼ばれているが、以上見たように全く異なる植物である。原産地は日本から朝鮮半島南部にかけてで、本邦では宮城県以西の本州・四国・九州に自生、樹高は一〇メートル程度。樹皮は帯紅色で平滑、葉は楕円形で長さ一〇センチメートル前後。ツバキのように肉厚の光沢のある葉ではなく、秋には落葉する。花期は六月から七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートルほどの白色の五弁。雄蘂の花糸が黄色い。朝に開花、夕方には落花する一日花(以上はウィキの「ナツツバキ」の拠った)。但し、ネット上の混乱と全く同様に、芥川龍之介が「植物園にもあるべし」と言ったのは、サラソウジュ Shorea robusta のことであったが、後の「わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへる」も方はナツツバキ Stewartia pseudocamellia の誤認ではなかったか、という推理は可能性として残る。何故なら、高木のサラソウジュ Shorea robusta は相当に成長しないと植物園の温室内でも花を咲かせることが出来ないとネット上の記載にあるからである。

「植物園」この時代の小説などで、東京でただ「大学」と言えば東京大学であるように、この「植物園」も一般名詞ではなく、芥川は現在の文京区白山にある小石川植物園(現在の正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園)のことを指しているものと思われる(筑摩全集類聚版ではそう断定している)。

「太湖石」中国の蘇州付近にある太湖周辺の丘陵から切り出される穴の多い複雑な形をした奇石で、太湖付近の丘や湖に浮かぶ島は青白い石灰岩で出来ているが、かつて内海だった太湖の水による長年の侵食によって石灰岩には多くの穴が開き、複雑な形と化した。太湖石は蘇州を初めとする中国各地の庭園に配されている(以上はウィキの「太湖石」に拠った)。

「わが知れる人」不詳であるが、文脈から言えば沙羅の花を見た庭の持ち主「或人」と思われ、また詩の「かなしき人」が芥川龍之介が最後に愛した『越しびと』片山廣子である以上、この「わが知れる人」にも既にして女人、しかも濃厚な廣子の影が被っていると私は見る(これは二〇一二年十月十五日に「澄江堂雜詠」のテクストを注した際の私のそれをそのまま転載したものである)

   *

 さて、私が上記最後で注したように、一般には、この詩篇は芥川龍之介の最後の思い人であった『越し人』片山廣子に捧げられたものと考えられており、私もそれを現在でも基本、疑うものではない

 しかし、この花子の「私の横須賀の家の庭には沙羅の木もあったのでした。ただ、その家も今は無く、沙羅の木もどうなったか解らず、私には多く思い出の実感ばかりが残されておりますので、このことを人に語ろうとも、誰も信じはいたしますまい」という言葉には非常な重みとリアルさがあるそこからフィード・バックして、芥川龍之介「沙羅花」(こちらのリンク先は私の最古期の「沙羅の花」だけのテクスト)の「わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへるもとには太湖石と呼べる石もありしを、今はた如何になりはてけむ、わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞こえつつ」という一節を虚心に考えた時、私はこの「或人」、その「わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞こえつつ」と追懐するその人とは、佐野花子ではあるまいか? という思いを強くするのである。今、この注を附している私は、

 

……或いは……

……この詩篇の……

……「沙羅のみづ枝」の「花さけ」る向うに立っている女性――

「かなしき人」――

そ「の目ぞ見ゆる」女人の《原型》は

 

実は――佐野花子その人ではなかったろうか?!……

 

とさえ感じていることを告白しておく。

『宇野浩二も、「澄江堂遺珠」の中にある、あの詩の大部分を仮りに相聞詩とすれば、そうして、あの詩を空想の恋を詠んだものとすれば、芥川には空想の恋人があったということになると申しておりまして、「空想の恋人なら何人あっても差し支へないであらう」と言っております』宇野浩二の「芥川龍之介」の「十一」の。正確には『ところで、先(さ)きにくどいほど引いた『澄江堂遺珠』の中にある詩の大部分を仮りに相聞詩とすれば、そうして、あの詩を空想の恋いを詠んだものとすると、芥川には空想の恋い人があった、という事になる。(空想の恋い人なら、何人あっても差(さ)し支(つか)えないであろう』である。]

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その3

 宇野浩二も述べています「これらの、『かなしきひと』『ひとりあるべき人』『汝』『ひとり寝ぬべき君』――などと読まれているのは、いづこいかなる『人』であるか、それは現実の人か、はた、空想(あるひは夢)の人か」と。

[やぶちゃん注:何度も挙げている宇野浩二の「芥川龍之介」(昭和三〇(一九五五)年十月文芸春秋新社刊)の「十一」のここである。原文は『ところで、抑(そも)、これらの「かなしきひと」、「ひとりあるべき人」、「汝」、「ひとり寝ぬべき君」、などと読(よ)まれているのは、いずこいかなる『人』であるか、それは、現実の人か、はた、空想(あるいは夢)の人か』。以下の引用も総て、残念ながら、花子のオリジナル引用ではなく、宇野のものと全く同じである。]

 

 雨にぬれたる草紅葉

 侘しき野路をわが行けば

 片山かげにただふたり

 住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

 われら老いなばもろともに

 穂麦もさはに刈り干さむ

 

 夢むは

 穂麦刈り干す老ふたり

 明るき雨もすぎ行けば

 虹もまうへにかかれかし

 

 夢むはとほき野のはてに

 穂麦刈り干す老ふたり

[やぶちゃん字注:「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」ではここが二行空きとなっているが、花子は続けてしまっている。宇野は一行空けている。

 明るき雨のすぎゆかば

 虹もまうへにかか{らじや

         {れとか(消)

         {れとぞ(消)

[やぶちゃん字注:「{」は底本では大きな括弧一つ。「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」ではここが一行空きとなっているが、花子は続けてしまっている。宇野は正しく空けている。

 ひとり胡桃を剝き居れば

 雪は幽かにつもるなり

 ともに胡桃は剝かずとも

 ひとりあるべき人ならば

    註(見よ我等はここにまた「或る雪

    の夜」に接続すべき一端緒を発見せ

    り。宛然八幡の藪知らずなり。)

 

また、

 

 雨はけむれる午さがり

 実梅の落つる音きけば

 ひとを忘れむすべをなみ

 老を待たむと思ひしか

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は古き書のなか

 月(香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明。)

 月      も消ゆる

 白薔薇の

[やぶちゃん注:「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」ではここが一行空きとなっているが、花子は続けてしまっている。宇野は正しく空けている。それ以上にここには問題がある。ここで実は花子は引用を誤っているのである「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」では、「月」の右に佐藤による『(ママ)』注記があり、それ以下の【 】内は括弧なしの二行割注で、花子の四行目の「月      も消ゆる」は存在せず、「も消ゆる」は「月」【割注】の下に繋がっているのである。なお、宇野のそれは正しくそれを再現(二行割注も)してある。以下、割注を同ポイントで示す。

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は古き書のなか

 月【香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明】も消ゆる

 白薔薇の

 老いを待たむと思ひしが

 

則ち、この詩篇は佐藤の割注から推定するなら、元は(抹消線を使用する)、

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は古き書のなか

 月も消ゆる

 白薔薇の

 老いを待たむと思ひしが

 

或いは、

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は古き書のなか

 月も消ゆる

 白薔薇の

 老いを待たむと思ひしが

 

であるということを指示しているのである。]

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は秋の山峡に

   ………中絶して「夫妻敵」と人物の書

   き出しありて、王と宦者との対話的断

   片を記しあり………

[やぶちゃん注:この「対話的」は宇野浩二及び佐野花子《両者》の誤りで、原典は「戲曲的」である。ここに至って、《完全に花子が宇野の引用を無批判に孫引きしている》事実が遂に《完全に明らかになってしまった》。「宦者」は「かんじゃ」で宦官(かんがん)のこと。]

 忘れはてなむすべもがな

 ある日は□□□□□

 

 牧の小川も草花も

 夕べとなれば煙るなり

 われらが恋も□□□□

 

 夕なれば家々も

 畑なか路も煙るなり

 今は忘れぬ□□□□□

 老さり来れば消ゆるらむ

[やぶちゃん注:一行目は《佐野花子による宇野浩二の引用の転写ミス》である。「夕なれば家々も」ではなく、「夕となれば家々も」である。宇野は正しく、そう引用している。さらに一方では、最終行「老さり来れば消ゆるらむ」で、今度は《宇野の転写ミスを花子が踏襲してしまうミス》を花子は犯している。原典は「老さりくれば消ゆるらむ」である。花子は全く原典を見ていないことがバレてしまっている。ここまでくると、最早、はなはだ哀しくなってくるばかりである。]

    註 別にただ一行「今は忘れぬひと

      の眼も」と記入しあるも「ひと

      の眼も」のみは抹殺せり。

      かくて老の到るを待って熱情の

      自らなる消解を待たんとの詩想

      は遂にその完全なる形態を賦与

      されずして終りぬ。この詩成ら

      ざるは惜しむべし。

      然も甚だしく惜むに足らざるに

      似たり。最も惜むべきは彼がこ

      の詩想を実現せずしてその一命

      を壮年にして自ら失へるの一事

      なりとす。

[やぶちゃん字注:原典に「註」はなく、「別にただ一行」で改行、「今は忘れぬひとの眼も」で改行している。宇野浩二は《花子が記す通りに、繋げてしまっている》。やはり《宇野のそれを無批判にただ孫引きした結果の齟齬》である。

と宇野は述べているのです。これを読んでいる私の胸中には亦、誰知ることのない鼓動が高鳴って来るのでございました。「夫妻敵」とか「今は忘れぬひとの眼も」などの、胸にどきりと来ることばが、或いはと早鐘を鳴らすからでございます。

[やぶちゃん注:「宇野」はママ。ここは「佐藤」でなくてはおかしい

《こういう大きなミスをしでかしたのは、まさに全く原典を一切見ずに、宇野の「芥川龍之介」から孫引きしてきたから》

であり、

《全面的無批判孫引きがバレバレとなってしまう致命的なウッカリ・ミスの瞬間》

なのである。微苦笑どころの騒ぎではない。

《こうしてチマチマと一字一句を原典と校合し、宇野浩二の「芥川龍之介」とも比較している私が、これ、御目出度い阿呆》

に見え、流石に、

《花子を出来得る限り、弁護しようとしている私でも、多少、腹が立ってくる気がする》

場面ではある。]

 そうして今までの慕情は、もはや、人を憎み、人を殺す情念へと移って行く詩になるのでございます。

 

 ひとをころせばなほあかぬ

 ねたみごころもいまぞしる

 垣にからめる薔薇の実も

 いくつむしりてすてにけむ

[やぶちゃん注:原典はここが一行空きとなっているが、花子は続けてしまっている。宇野は正しく空けている。更に花子は転写ミスを犯している。一行目は原典は「ひとをころせどなほあかぬ」である(宇野は正しく引用している)。実は個人的にはこの花子の誤記に対してフロイト的な「言い間違い」の精神分析を仕掛けたくなる強い願望を私は持っているが、ここはそれをやっていると、何時までも注が終わらなくなるので、グッとこらえることとしよう。]

 ひとを殺せどなほあかぬ

 ねたみ心に堪ふる日は

[やぶちゃん注:続いて花子痛恨の転写ミスである。ここは前の詩篇の最後の二行と殆んど相同の二行(「すて」が「捨て」と漢字表記となる以外は相同)が頭に入る、別詩篇なのである。即ち、

 

 垣にからめる薔薇の實も

 いくつむしりて捨てにけむ

 ひとを殺せどなほあかぬ

 ねたみ心に堪ふる日は

 

が原典のそれで、宇野も正しくそう引いているのである。]

 

 同じ心を歌って「悪念」と題して次の詩があります。

 

 松葉牡丹をむしりつつ

 人殺さむと思ひけり

 光まばゆき昼なれど

 女ゆゑにはすべもなや

 

[やぶちゃん注:原典では前の詩篇と後の詩篇の間のここに「*」が入る。]

 

 夜ごとに君と眠るべき

 男あらずばなぐさまむ

 

 ここで私は亦、胸を騒がせます。こうも憎んでいるのは、私の夫のことではないのかと。「夫妻敵」と言い、「佐野さん」の、かの文章と言い、あまりにも芥川は女に付き添う男を憎む詩を歌い、そして事実、本名を出して「佐野さん」なる一文を書き、明らかに夫を憎み誹謗した事実がございます。これは、もう、ただごとではないように思われるのでございます。しかもこのノートの中において、

 「夜ごとに君と眠るべき、男あらずばなぐさまむ」

の二行は抹殺しありと宇野は述べておりまして、「蓋しその発想のあまり粗野端的なるを好まざるが故ならんか。しかも、この実感は、これも歌はではやみ難かりしは既に『悪念』に於て我等これを見たり」と付け加えてあります。この上にのしかかって私は亦、読みとりながら、胸の早鐘に、のたうちたい衝動を覚えます。新潮誌上に堂々と、かの一文を載せた彼が、僅か、人も見ぬところで、ノートの上に書き直す詩中に「その発想のあまり粗野端的なるを好まざる故ならんか」と言われるほどの遠慮をしていること、何かじれじれとする感慨にも襲われます。そして、「その発想のあまり粗野端的なるを好まざる故ならんか」と人は庇い、同時に「我等これを見たり」という快哉をも人は挙げるべく声を呑むのです。

[やぶちゃん注:ここの「宇野」もママ。ここも「佐藤」でなくてはおかしい。宇野もここを引用しており、花子が完全に原典「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」の存在を脳からスポイルしてしまっているさまが見てとれる。なお、正確には佐藤の註は、『右二句はこれを抹殺しあり。蓋しその發想のあまりに粗野端的なるを好まざるが故ならんか。然もこの實感はこれは歌はではやみ難かりしは既に「惡念」に於て我等これを見たり』であり(宇野は忠実に引用している)、二つを対比して見ると、花子は自分の読者に読み易くしようと、佐藤の表記に手を加えていることが判る。そこは彼女の優しさであると思う

 そして又、次の詩には「汝が夫」という言葉が入り込んで来ているのです。

 

 微風は散らせ柚の花を

 金魚は泳げ水の上を

 汝は弄べ画団扇を

 虎痢(ころり)は殺せ汝が夫を

 

[やぶちゃん注:原典では「夫」に「つま」とルビ(宇野も振っている)があり、詩篇末行の次行下に、「夏」と芥川龍之介は記している。]

 

 まあ、なんと、すさまじいことでしょう。好きな女性がいるのに、その夫が邪魔でしかたがない、いっそ「虎痢(ころり)は殺せ汝が夫を」「あなたの夫はコレラにかかって死ぬがよい」という悪念の追い打ちなのでございます。仮りに、私は愛されてまことに嬉しうございましても、あの善良な夫が、私ゆえに、これほどまで憎まれるなら、なんという、哀れなことでございましょうか。ただ、ほろほろと泣きくずれて今は亡き夫を、心から気の毒に思い、私の罪の深さを嘆かずには居られません。このモデルは私なのだと仮りに解ってもなんと悲しい宿命でございましょうか。夫は生前においても、精神的に殺されたように穏やかな笑いを浮かべ、自分の好きな道も忘れてしまいました。その上に、名こそ出さね、詩の中において、このようにまで憎まれ、殺されているのでございましようならば。[やぶちゃん注:末文の「しよう」はママ。]

 

 この身は鱶の餌ともなれ

 汝を賭け物に博打たむ

 びるぜんまりあも見そなはせ

 汝に夫あるはたへがたし

 

[やぶちゃん注:三行目「びるぜんまりあ」は原典では「びるぜん・まりあ」(宇野も中黒を打っている)。詩篇末行の次行下に、「船乘のざれ歌」と芥川龍之介は記している。]

 

 この詩においても明らかに夫は憎悪され、彼は「お前に夫のあるのは堪えきれぬ」と言っているのでございます。思い当たる胸には突き刺さって抜けようもない剣なのでございます。

 

 ひとをまつまのさびしさは

 時雨かけたるアーク灯

 まだくれはてぬ町ぞらに

 こころはふるふ光かな

 

 栴檀の木の花ふるふ

 花ふるふ夜の水明り

 水明りにもさしぐめる

 さしぐめる眼は□□□□□

 

 などには「眼」という語があります。「奥さんの眼はきれいだ」と言ったことばが立ち返ってもまいります。

[やぶちゃん注:あたかも花子が原典から選んだように読めてしまうが、残念ながらこれらも宇野浩二の引用からのチョイスである。]

 

 ゆふべとなれば海原に

 波は音なく

 君があたりの

 ただほのぼのと見入りたる

 死なんと思ひし

 

 これには、まあ、横須賀の海が漂っているではございませんか。私には本当にそうとしか思えません。繰り返して読み、彼が、もう、会うまいと決意して、帰って行ったうしろ姿が見えてまいります。

[やぶちゃん注:これも宇野が引いているのであるが、花子の謂いは一つの可能性として、十分にあり得る、そのように読めるものではある。そうして、私はこの詩を読んだ芥川龍之介の心の中には、確かにあの「㈢」の冒頭の印象的な映像が過ぎったものと強く感じてさえいるのである。]

諸國百物語卷之四 二十 大野道觀怪をみてあやしまざる事

     二十 大野道觀(をゝのどうくはん)怪(あやしみ)をみてあやしまざる事

 

 大野道觀と云ふ人。あるとき、せつしやうにいでられけるに、山なかにて、道觀とをられたるあとに、からかさ程なる松茸一本、をいたり。下人ども、これを見て、ふしぎにおもひ、道觀に、かく、と申し上る。道觀たちかへりみて、

「べつにふしぎなる事もなし。かやうに大なる松だけもあるもの也。もしさかさまにはへたるならば、ふしぎなるべし」

と、いひて、とをられければ、又、ゆくさきにくだんの松だけさかさまに、はへたり。下人ども、いよいよ、ふしぎなりとて、おどろきければ、

「わがけちつきて、さかさまにはへたれば、これもふしぎなる事なし」

とて、かへられけるが、そのあくるとしの元日に、爐(ろ)のうちにある、かな輪(わ)おどりいで、座敷を、おどりまはりければ、小しやうども、おどろきて、道觀へ、かく、と申しあげゝれば、

「人は足二本にてさへあるくに、かな輪は足三本あれば、おどりあるくも、ふしぎならず」

といひて、とかくに氣にかけられざりしが、その年の夏のころ、道觀、ひとりむすめ、はてられけるが、この怪異なるべし、と、のちにぞ、おもひあわせられ侍る。

 

[やぶちゃん注:頁末に「諸國百物語卷之四終」とある。

「大野道觀と云ふ人。」句点はママ。読点にすべき。「大野道觀(をゝのどうくはん)」かの名将にして文人でもあった室町後期の太田道灌(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)を想起させる名と話柄ではある。

「せつしやう」「殺生」。狩り。

「はへたり」「生えたり」。歴史的仮名遣は誤り。

「わがけちつきて」「我が、けち付きて」。先ほど、我らが欠点をあげつらって、難癖を付けた結果、それに対して、すこぶる現実的に(感情的に或いは論理的に)応じて。

「かへられけるが」「歸られけるが」。

「爐(ろ)」囲炉裏。

「かな輪(わ)」「鐡輪」「金輪」。三本の足を付けた鉄製の輪。火鉢や囲炉裏の火の上に立てて、薬缶や鍋などの台にする五徳(ごとく)のこと。

「おどりいで」「踊(をど)り出で」。歴史的仮名遣は誤り。

「小しやう」「小姓」。

「とかくに」あれこれとは。ともかくも。但し、ここは呼応の副詞的に用いており、一向に「氣にかけられざり」の意。]

2016/11/08

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その2

[やぶちゃん注:以下、佐野花子は芥川龍之介の特殊な編集になる、異様に偏執的な遺稿詩稿草稿集(抄録)である、芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」(初出は佐藤春夫編集になる、やぽんな書房発行の雑誌『古東多万(ことたま)』の第一年第一号から第三号に連載され、二年後の昭和八年三月二十日に岩波書店より単行本として刊行された)を引用しながら、叙述を続けてゆく。以下では変則的に私の字注と注を挟む形で進めてゆく

 私はこの「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」及びその関連資料の追跡もブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』で継続中で、既に「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste. 附やぶちゃん注」としてそのブログ版の他、単行本の雰囲気を再現しようと努めた(完全ではない)サイトHTML版及びPDF縦書版(このPDF版を強く推奨する)で完成させている。従って、以下の叙述はそれらの孰れかを並べて披見しながら、ご覧になられるのが最もよいと思う。単行本「澄江堂遺珠」自体は必ずしも人口に膾炙しているものとは思われず、その単行本自体が必ずしも現在、容易に入手出来るものとは言えないからである。

 また、最初に言ってしまうと、佐野花子は単行本「澄江堂遺珠」を所持していると述べており、それを私は疑うものではさらさらないのであるが、しかし、彼女の引用の仕方は、多分に先の宇野浩二の「芥川龍之介」の中での「澄江堂遺珠」の引用とあまりにも酷似していると言えることは述べておく。無論、後で宇野浩二が「芥川龍之介」でこれらの詩群を引いて評を加えていることをも花子は述べ、引用もしてはいる。

 しかし、例えば、最初に引いている「雪は幽かにつもるなり/こよひはひともしらじらと/ひとり小床にいねよかし/ひとりいねよと祈るかな」という詩篇であるが

これは宇野浩二が「芥川龍之介」の「上巻 十一」で「澄江堂遺珠」の詩篇の考察の冒頭で、やはり最初に引用している詩篇

 

である(宇野浩二のそれはブログ版で示すと、ここである)。

 

 そんなのは偶然だと言われるかも知れない。しかし私には偶然である可能性はすこぶる低いとしか思えないのである。

 

 何故か。

 この詩篇は「澄江堂遺珠」の真ん中辺りに登場するもので、冒頭でも、特異な切れ目にあるものでもなく、必ずしもこれらの痙攣的反復的詩篇の中で、目立って優れ、完成された一篇でもないからである。いや、完成どころか

 

この宇野浩二と佐野花子が真っ先に引用している四行は、実は不完全な引用

 

なのである私の「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste. 附やぶちゃん注」を例えば、サイトHTML版で見て戴くと、「雪はかすかにつもるなり」で検索して貰うと一目瞭然、この四行詩に相当するものは一ヶ所しかないことが判る(他に二ヶ所あるがそれは以下の三行が違う)が、しかしそれは、四行詩ではなく、

 

ひとり葉卷をすひをれば

雪はかすかにつもるなり

こよひはひともしらじらと

ひとり小床にいねよかし

ひとりいねよと祈るかな

 

という五行詩なのである。

 実はこの詩は、前のページ(四十三頁)に第一行「ひとり葉卷をすひをれば」があって、以下の四行が次のページ(四十四頁)に繰り越されてあるのである。

 本詩篇は四行一組の詩篇が多いために、これは確かに間違いやすいとは言えるのではあるが、だからと言って、花子が宇野と同じ感性でこれを選び、宇野と同じように誤読して一行目を抜かしたというのは、宇野の迂闊さと花子の迂闊さが偶然にも一致したという、文学を学んだ花子にとっては、これ、すこぶる侮辱的な阿呆らしい事例を明らかにするということになるからである。

――誰かの一纏まりの知られていない詩集があった時

――それをオリジナルに語り出そうとする時

――最初にどの詩篇を引用するか?

これはその人の文章のオリジナリティを一発で決める要である――

 

 まだ偶然だ、と言い張る人のためにダメ押ししておく。

 

 それに続く、「きみとゆかまし山のかひ/山のかひには日はけむり/日はけむるへに古草屋/草屋にきみとゆきてまし」及び「きみと住みなば」で始まる不完全草稿も、やはり宇野浩二が前の詩篇の後に、『それから、次のようなものもある』と挟んで、引いているものと全く同じ詩篇である。ところが、これも私の全テクストで点検して貰うと判るが、これらは実は、前の詩篇とは原典では繫がっておらず、五ページほど後(四十九頁)に離れて出る詩篇二篇で、しかも、その二篇の間には、四行詩一篇が挟まっており、それをカットしたものなのである! 宇野も花子も二人とも、そのカットを述べずに引いているのである! これも偶然の一致などとすることは、最早、私には苦しい言い訳でしかないとしか言いようがないのである。

 私は佐野花子を味方ではあるつもりではある。であるが、しかし、おかしな所・怪しい所・尋常な反応とは思われぬ所は毅然として批判・指摘しないわけにはいかない。そして、そうした批判も含めつつも、それでも総体に於いて、佐野花子を芥川龍之介研究に復権させたいというのが、この大阿呆の私の、大真面目な目標だからである。

 

 佐藤春夫が編集しました「澄江堂遺珠(Sois belle, sois triste)」という詩集を私も読んでおります。(“Sois belle, sois triste”)は「美しかれ。悲しかれ」の註をもっております。この詩集は芥川の抒情を問題にしておりまして、一つの連を幾度も直し、又、元に戻したりして、長時間を費やしながら、誰か一人を思いつめているさまを追求しています。

 

 雪は幽かにつもるなり

 こよひはひともしらじらと

 ひとり小床にいねよかし

 ひとりいねよと祈るかな

 

 きみとゆかまし山のかひ

 山のかひには日はけむり

 日はけむるへに古草屋

 草屋にきみとゆきてまし

 

 きみと住みなば    }

            }山の峡

 ひとざととほき(消) }

 山の峡にも日は煙り

 日は煙る□□□□

 

[やぶちゃん字注:「}」は底本では大きな二行に亙る一つの括弧で、実際には行間下に「山の峡」(「やまのかひ」と読む)は入る。また、最終行の□は底本では細長い長方形一つである。ブラウザ上の不具合から、概ねの字数に合わせて□で示した。以下、□部分は同じ処理をした。以下ではこの□についての注は略す。]

 

 右の一連について佐藤春夫は、「即ち知る故人はその愛する者とともに世を避けて安住すべき幽篁叢裡の一草堂の秋日を夢想せる数刻ありしことを」。と註しておりまして、宇野浩二も「さうだ、さうなのだ。誠に佐藤の云ふとほり、芥川は、かういふ事を(俗な言葉でいへば、「手鍋さげても……」といふやうな事を)夢想せる数刻があったのであらう」と「夢想せる数刻が」と述べております。芥川にはこのように一人を想いつめる折々があっただろうことは、私にもよくうなずけるのです。夢想のみならず、明らかに面と向って直情を訴えることがありました。私はその経験がございますのでわかります。[やぶちゃん字注:宇野の評言の箇所に違和感を持つ人があるかも知れぬが、ここは実際、『そうだ、そうなのだ、誠に佐藤の云うとおり、芥川は、こういう事を、(俗な言葉でいえば、手鍋さげても……』というような事を、)夢想せる数刻があったのであろう、「夢想せる数刻」が。』と、病後に著しく文体が変容し、奇妙なくどくどしい書き方になった宇野浩二特有の言い回しを、花子が違和感のないように何とか再現しようと試みたことが判る。宇野の原文はここ。]

 そして佐藤春夫はこれらの詩とならべて、

 『戯れに』(1)(2)と題した、[やぶちゃん字注:底本では次の詩篇が行空けなしで続いているが、恣意的に空けた。]

 

 君と住むべくは下町の

 水どろは青き溝づたひ

 汝が洗湯の往き来には

 昼も泣きづる蚊を聞かむ

            戯れに⑴

 汝と住むべくは下町の

 昼は寂しき露路の奥

 古簾垂れたる窓の上に

 鉢の雁皮も花さかむ

 

[やぶちゃん注:最初一篇の一行目「君と住むべくは下町の」は花子の誤りで、「汝と住むべくは下町の」が正しく、四行目「昼も泣きづる蚊を聞かむ」も「なきづる」と平仮名が正しい(宇野浩二の引用も花子と同じく「泣きづる」と誤っている)。なお、花子は二篇目の最終行の次行の下方に「戯れに」と記すのを忘れている。

 

「雁皮」は古く奈良時代から紙の原材料とされてきたフトモモ目ジンチョウゲ科ガンピDiplomorpha sikokiana を指し、初夏に枝の端に黄色の小花を頭状花序に七から二十、密生させるものであるが(グーグル画像検索「雁皮の花」)、どう考えても地味な花で、それをまた鉢植えにするというのは、如何にも変わった趣味と言わざるを得ない。そうした不審を解いてくれるのが、「澄江堂遺珠」の末尾に記された校正家神代(こうじろ)種亮の「卷尾に」という文章で、神代はそこで「雁皮」について、これ『は事實から看て明かに「眼皮」の誤書である。雁皮は製紙の原料とする灌木で、鉢植ゑとして花を賞することは殆ど罕な植物である。眼皮は多年生草本で、達磨大師が九年面壁の際に睡魔の侵すことを憂へて自ら上下の目葢を剪つて地に棄てたのが花に化したのだと傳へられてゐる。花瓣は肉赤色で細長い。』と記している(「罕な」は「まれな」と読み、「稀」と同義。「目葢」は「まぶた」)。まさにこれは目から鱗である。これはジンチョウゲ科のガンピではなく、中国原産で花卉観賞用に栽培されるナデシコ目ナデシコ科の多年草である別なガンピ(岩菲(がんぴ)) Lychnis coronata であったのである。こちらのガンピ(岩菲)は茎は数本叢生し、高さは四十~九十センチメートルほどになり、卵状楕円形の葉を対生させ、初夏に上部の葉腋に五弁花を開くが、花の色は黄赤色や白色といった変化に富む。グーグル画像検索「Lychnis coronataでその鮮やかな花を見られたい。これは確かに神代の言う通り、「雁皮」ではなく「岩菲」に違いない。]

 

という詩を引いて「と対照する時一段の興味を覚ゆるなるべし。隠栖もとより厭ふところに非ず。ただその他を相して或は人煙遠き田園を択ばんか、はた大隠の寧ろ市井に隠るべきかを迷へるを見よ。然も『汝と住むべくは』の詩の情においては根帯竟に一なり」としております。とにもかくにも、芥川の詩の奥にまで踏み込んで追求しようとする、結局は好奇の心と申しましょうか、まことに熱意あくなき探求心であると言えます。そして芥川の純情きわまりなさ、ロマンティストあることなど、推敲に推敲を重ねた文体から来るひややかさでは、とても想像のつかぬような浪漫心を知ることができます。私に対して言うことばも、純情きわまるものでございました。それはお読み返し下されば、おわかりのことと思います。そして、

[やぶちゃん注:ここでの改行はママ。佐藤春夫の引用部の「相して」は占って・判断しての意、「大隠の寧ろ市井に隠るべきか」とは「大隠(たいいん)は市(いち)に隠る」という故事成句で、「真(まこと)の隠者たるものは人里離れた山中などに隠れ住んだりはせずに却って俗人に混じって町中にありながら超然と暮らすものである」という晋の王康琚「反招隱詩」の「小隱隱陸藪 大隱隱朝市」(小隱は陸藪(りくさう)に隱れ 大隱は朝市(てうし)に隱る」に基づく語である。「根帯竟に一なり」これは花子の誤記か或いは誤植で、「根蒂竟に一なり」である。読みは「こんたいついにいつなり」で「根蒂」は植物の基幹を成すところの根と蔕(へた)の意で「物事の土台・拠りどころ・根拠とするところ」を指す。その拠って立つところの揺るぎない詩根・詩心は完全に一つであるの意。]

 この遺稿は、大学ノートに書かれた腹稿の備忘とも見るべきものが興のままに不用意に記入されているのを、追って推敲して行った変化のあといちじるしく、一字もいやしくしない作者の心血のしたたりが一目歴然でありますのに、折にふれては詩作と表面上なんの関連もなさそうな断片的感想や、筆のすさびの戯画なども記入されてあるよし、作者の心理の推移、感興の程度を窺うに実に珍重至極な資料として、佐藤春夫が「はしがき」に述べている通り、貴重な資料でございます。書いては筆を措き、また、書き変えて見ては、中止し、考え込んでいるあいだの長さを推測できますし、そこで誰か一人の人を確かに思いつめております。人を追いつめるのか、推敲の方法を追いつめるのか、どちらともわからなくなりますけれど、明らかに人を思う詩を創作中なのでございますから、やはり人を思いつめているのだとも申せます。

[やぶちゃん注:この評は首肯出来、花子の穏当にしてオリジナルなものとして好ましい。]

 

 幽かに雪のつもる夜は

 ココアの色も澄みやすし

 こよひ□□□□

 こよひは君も冷やかに

 独りねよとぞ祈るなる

 

 幽かに雪のつもる夜は

 ココアの色も澄みやすし

 今宵はひとも冷やかに

 ひとり寝よとぞ祈るなる

 

[やぶちゃん字注:太字は底本では傍点「●」。なお、これら以下も残念ながら、宇野浩二の引用と一致しているしかもこれら以下は先の引用部より前の箇所(原本三十頁)から始まるものである(逆順引用の一致)。なお、花子は最初の一篇の原典の傍点、白ヌキの「ヽ」(以下の太字部)、

 

 幽かに雪のつもる夜は

 ココアの色も澄みやすし

 こよひ□□□□

 こよひはも冷やかに

 りねよとぞ祈るなる

 

を打つのを忘れている。]

 

 幽かに雪のつもる夜は

 ココアの色も澄みやすし

 こよひはひとも冷やかに

 ひとり寝よとぞ祈るなる

    右は両章とも××を以て抹殺せり。

    その後二頁の間は「ひとりねよとぞ

    祈るなる」は跡を絶ちたるも、こは

    一時的の中止にて三頁目には再び

 

[やぶちゃん字注:以上の三字下げは佐藤春夫の註で、底本ではポイント落ち。私のこのテキストではブラウザの不具合を考えて一定字数で改行してある。なお、以下の詩篇本文に挿入された佐藤の註も底本ではポイント落ちである。以下同じなので、この注は略す。]

 

 かすかに(この行――にて抹殺)

 幽かに雪の

   と記しかけてその後には

   「思ふはとほきひとの上

    昔めきたる竹むらに」

   とつづきたり。その後の頁には又

 

[やぶちゃん字注:佐藤の注の最初の開始位置はママ。これは本書の版組の誤りと思われる。「又」は原典では「また」で、ひらがなである。]

 

 幽かに雪のつもる夜は

       (一行あき)

 かかるゆうべはひややかに

 ひとり寝「ぬべきひとならば」

    (「」)の中の八字消してその左側に

    「ねよとぞ思ふなる」と書き改めたり」

    さてこの七八行のうちには

 

[やぶちゃん注:底本では佐藤の注の頭は「(「)」であるが、取り敢えずかく、しておいた。しかし、ここは実は全体が写し誤り(複数箇所)であり、原典は三字下げで、

 

(「」の中の八字消してその左側に「ねよとぞ思ふなる」と書き改めたり)

さてこの七八行後には

 

が正しい。]

 

 雪は幽かにきえゆけり

 みれん□□□□

 

       とありて

 

[やぶちゃん字注:原典ではここに三字下げポイント落ちで「*」が入る。]

 

 夕づく牧の水明り

 花もつ草はゆらぎつつ

 幽かに雪も消ゆるこそ

 みれんの□□□□

 

などと、似たような詩句が一転二転して、書きつづられてある後に、

[やぶちゃん注:この行、ポイント落ちなので読者諸君は当然佐藤春夫の註と思うのだが、この一行は――佐藤春夫の言葉――では、ない。――宇野浩二の「芥川龍之介」の本文の宇野自身の言葉の挿入部――であるここをご覧あれやっちゃましたね、花子さん。

 

 幽かに雪のつもる夜は

 折り焚く柴もつきやすし

 幽かに いねむきみならば

 

[やぶちゃん字注:太字は底本では傍点「●」。]

       (一行あき)

 ひとりいぬべききみならば}

             }併記して対比推敲せしか

 幽かにきみもいねよかし }

 

[やぶちゃん字注:「}」は底本では大きな二行に亙る一つの括弧で、実際には行間下に上記の佐藤の註が入る。]

 

とあって、更に似たような詩句が十句あまりもあって、その書後がつぎのような詩になってゐる。

とあり、

[やぶちゃん注:この「とあって、更に似たような詩句が十句あまりもあって、その書後がつぎのような詩になってゐる。」も先と同じく、同じ個所の宇野浩二の挿入部である。]

 

 雪は幽かに つもるなる

 こよひは ひとも しらじらと

 ひとり小床にいねよかし

 ひとりいねよと祈るかな

 

[やぶちゃん字注:太字は底本では傍点「●」。この字空けは原典にも宇野浩二の酷似引用にも見られない特異点である。]

 

     幾度か詩筆は徒らに彷徨して時に

     は「いねよ」に代ふるに「眠れ」

     を以てし或は唐突に「なみだ」

     「ひとづま」等の語を記して消せ

     るものなどに詩想の混乱の跡さへ

     見ゆるも尚筆を捨てず。

 

[やぶちゃん注:この引用も宇野にあるが、末尾の句点は花子によるもの。実は原典は句点で、続いて「尚筆を捨てず、最後には再び」として詩篇が続いている。]

 

と佐藤春夫が右、解説しておりますように、幾度も繰り返しては出直している詩でございます。佐藤春夫の執念にも驚かされます。そして更に次のような詩になっているのを私は見ます。

[やぶちゃん注:この以下の引用の前には、原典の一篇分が省略されている。しかも同じ省略した形でやはり宇野浩二も以下を引用しているのである。ここまでくると最早、佐野花子は「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」から直接、これらの詩篇を引いたのではなく、宇野浩二の「芥川龍之介」から孫引きした可能性が極めて高いことが判明してしまうのである。私には、この段落末の――「私は見ます」――という花子の胸を張った毅然とした言い放ちが、何とも、哀しく響いてきてしまうのである。]

 

 ひとり葉巻をすひ居れば

 雪ほかすかにつもるなり

 かなしきひともかかる夜は

 幽かにひとりいねよかし

 

[やぶちゃん字注:太字は底本では傍点「●」。]

 

 ひとり胡桃を剝き居れば

 雪は幽かにつもるなり

 ともに胡桃を剝かずとも

 ひとりあるべき人ならば

 

[やぶちゃん注:原典では後者の一篇の上には音楽記号のスラーのような太い丸括弧「(」が四行に亙って懸けられてある。]

 

右の詩に関して宇野浩二は「この最後の小曲の後半の『ともに胡桃を剝かずとも、ひとりあるべき人ならば』といふ二節は、言外に意味ありげな感じがある。しかしその意味は、つぎにうつす詩を読めば、ほぼ悟れる」と述べて次の詩を写しております。

[やぶちゃん注:ここ私はかく、「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.・宇野浩二「芥川龍之介」そうして、この佐野花子「芥川龍之介の思い出」の三者を一つ一つ点検して校合してきて、ここに至って、花子が、私に面と向かって、

――私は宇野浩二の「芥川龍之介」から孫引きしてない、なんて言っていませんわ。初めからそのつもりだったのですわ。

 

とはぐらかされてしまったような、ちょっと不快にして、少し奇異な感じを受けるのである。]

 

 初夜の鐘の音聞ゆれば

 雪は幽かにつもるなり

 初夜の鐘の音消えゆけば

 汝はいまひとと眠るらむ

 

[やぶちゃん字注:太字は底本では傍点「●」。しかし、原典にも宇野浩二の引用にも傍点はない。ない、代わりに、後者の宇野の「芥川龍之介」の引用の方には

 

初夜の鐘の音(ね)(きこ)ゆれば

 

という、ご丁寧な宇野のルビが振られてある

――花子さん……あなたは宇野の「芥川龍之介」のこのルビを……傍点と勘違いなさったのでは、ありませんか?…………

 

 ひとり山路を越えゆけば

 月は幽かに照らすなり

 ともに山路を越えずとも

 ひとり寝ぬべき君なれば

 

[やぶちゃん注:宇野の引用は二箇所で誤っており、厳密には(太字は底本では傍点白ヌキ「ヽ」。下線やぶちゃん)、

 

 ひとり山路を越えゆけば

 月は幽かに照らすなり

 ともに山路を越えずとも

 ひとり眠ぬべき君ならば

 

である。

――花子さん、貴女も文科の人間なら、せめてもちゃんと、お持ちのはずの「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」と校合すべきでした。それを惜しんだ結果が、貴女のこの本全体の一つの大きな別な新たな瑕疵となり、更には貴女が芥川龍之介研究家から遠ざけられてしまった、別の一因とも、なっているのではありますまいか?…………

 

写し終わって宇野浩二は述べています。

 「これらの詩を読みつづけながら、私は本音か、絵空事か、と迷ふのであるが、編集者の佐藤は、これらの小曲の書きつづられてある冊子について『かくて第二号冊子の約三分の一はこれがために空費されたり。徒らに空しき努力の跡を示せるに過ぎざるに似たるも亦以て故人が創作上の態度とその生活的機微の一端を併せ窺ふに足るものあるを思ひ敢て煩を厭はずここに抄録する所以なり』と述べております。澄江堂遺珠に苦心した佐藤春夫を追って、また宇野浩二もこれを解するに苦心し、私も亦、これを読んで、彼、芥川の苦作三昧にさ迷いながら、ひとしお、思いみだれる気がいたします。「誰であろうか。或いは私ではないか」と。

[やぶちゃん注:ここで唐突に、『私も亦、これを読んで、彼、芥川の苦作三昧にさ迷いながら、ひとしお、思いみだれる気がいたします。「誰であろうか。或いは私ではないか」と。』という倒置文が出現するのである。]

諸國百物語卷之四 十九 龍宮の乙姫五十嵐平右衞門が子にしう心せし事

     十九 龍宮の乙姫(をとひめ)五十嵐平右衞門(いがらしへいゑもん)が子にしう心せし事

Otohimesyusui

 元久のころ、上坂本(かみさかもと)に五十嵐平右衞門と云ふらうにん、有りけるが、一人の男子を、もちけり。この子、かたちすぐれてうつくしかりければ、みな人、しうしんをかけ、なにかと出入り有りけるを、親も、きのどくにおもひ、ゑいざんへのぼせ、がくもんさせをきけるが、あるとき、里へさがり、氣ばらしにとて、から崎へ行き、ひとつ松の下にあそびゐければ、いづくともなく、十五、六なるうつくしきむすめ一人きたりて、かの若衆にむかつて、

「御身はいづくの人にてましますぞ。われは此あたりのものにて候ふが、いつも此松のもとにきたりあそび申す也。あの北よりいづる舟を、これへよりて見給へ」

とて、いざなひゆく。若衆もなに心なく、ともなひゆきければ、うみばたにて、かのむすめ、若衆の袖にすがりつくかとみへしが、たちまち、大じやとなり、若衆を七まとい、まとい、うみへとびいりしが、にわかにそらかきくもり、大雨、しきりにふりて、あとしらなみとなりけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「龍宮の乙姫しう心の事」。琵琶湖には龍宮ン伝承が存在し、藤原秀郷が瀬田の唐橋で龍宮の者から救けを乞われ、大百足を退治したという伝説があり、瀬田橋直近(瀬田川左岸)には瀬田橋龍宮と秀郷社が現存する。
 
「五十嵐平右衞門」不詳。

「しう心」「執心」。

「元久」一二〇四年から一二〇六年で、鎌倉時代と、設定が、えらい古い。天皇は土御門天皇(但し、後鳥羽上皇の院政期)、幕府は第三代将軍源実朝で執権北条義時の治世。

「上坂本(かみさかもと)」現在の滋賀県大津市坂本本町。延暦寺及び日吉大社の門前町として栄えた地域である。

「らうにん」「浪人」。

「出入り」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では、『思いをかけた男たちとの悶着』と記す。確かに直後で(一部を漢字化する)「親も、氣の毒に思ひ、叡山へ登せ、學問させ置きける」というのは、そうした若衆道の関係を強く感じさせはする(「出入り」とはこの場合、「争い事・もめ事・喧嘩」の意であるからで、女の妬心でそうならぬわけではないが、親が危惧するほどのそれは衆道関連の方が自然ではある)。また、後半で竜女(乙姫という設定)に魅入られるためには、女を知らぬが、よい。でなければ、ならぬ。高田氏の注を全面的に支持する。

「から崎」「辛崎」。滋賀県大津市北西部の琵琶湖岸の地名。唐崎神社があり、「近江八景」の一つ「唐崎夜雨」で知られる歌枕であるが、また同じ「近江八景」の、同じく歌枕である「唐崎の一つ松」(直後に出る「ひとつ松」)でも有名。

「これへ」こちら(私の居るところ)へ。

「うみばた」「湖畔(うみばた)」。琵琶湖湖畔。

「七まとい、まとい」七重(ななえ)に纏い。

「あとしらなみとなりけるとぞ」「後、白波となりにけるとぞ」。能のコーダのようで、よい。]

2016/11/07

甲子夜話卷之二 44 松平越州、世子のとき識鑑の事

2―44 松平越州、世子のとき識鑑の事

松平樂翁、養子となりて今の家に適し後、一年養父の名代として領地え御暇のことあり。入部のうへ諸役人を一人づゝ居間に呼出し、治務の事など問れける。其中大目付某一人、御諚謹で承り候。然に殿樣え【養父木工頭】指上置候誓條に、御政治のことは殿樣の外口外仕間敷と申上候。未だ世子の御ことなれば、御答申上難しと云切りしとぞ。樂翁家督承繼、家中役替始て申付らるゝとき、此大目付を其日の第一魁に昇進せしめたりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「松平越州」老中で陸奥白河藩第三代藩主であった松平越中守定信。「樂翁」は隠居後の号。

「世子」「せいし」と読む。「世嗣」と同じい。諸侯の後継ぎ。嗣子。

「識鑑」「しきがん」。鑑識に同じい。物の真偽・価値などを見分ける能力に長けていること。

「養子となりて今の家に適し」「適し」は「ゆきし」(行し)と読む。松平定信は宝暦八(一七五九年に御三卿田安徳川家の初代当主徳川宗武の七男として生まれた。安永三(一七七四)年に幕命により、陸奥白河藩第二代藩主松平定邦の養子となった。定邦は翌安永四年の白河での花見の際、中風を発病、江戸に参府したものの、体調が優れなかったとされ、天明三(一七八三)年十月十六日、定信に家督を譲って隠居している。また同年十月十九日には通称を本文に出る「木工頭(もくのかみ)」に改めている(寛政二(一七九〇)年に江戸で死去した。定邦の部分はウィキの「松平定邦に拠った)。

「一年」一年間。

「養父の名代として」先に引いたように、養子として定信を迎えた翌年に中風となっているから、彼がお国入りの名代(みょうだい)となったのであろう。

「領地え」「領地へ」。歴史的仮名遣の誤り。「殿樣え」も同じ。

「御暇」「おいとま」。江戸の養父と別れての意。

「治務」「じむ」。領地管理の事務実務。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」貴人・主君の命令。仰せ。問い質した幾つかについて、当時の養父の藩政の中で、定信なりに改めるべき箇所を指摘し、それを命じたのであろう。

「謹で」「つつしんで」。

「然に」しかるに」

「指上置候」「さしあげおきさふらふ」。

「誓條」「せいじやう」。君臣忠義の証しとして、藩主に捧げた誓状(せいじょう)。

「殿樣の外口外仕間敷と申上候」「とのさまのほか、こうぐわいつかまつりまじき、とまうしあげさふらふ」。「藩政に就きましての御事柄は、これ、御殿様(おとのさま)以外の者には決して口外致さざること、これ、誓い申し上げて御座る。」。

「御答申上難し」「(只今の藩政に附きましての御意見については良いも悪いとも、はたまたそれを実行に移すか、そのままと致しますかは、藩主御殿様の御意向にのみかかることなればこそ)「どうか?」と申されましても、それにお答え申し上げることは、これ、出来申さぬ。」。

「云切りし」「いひきりし」。

「承繼」「うけつぎ」。

「役替」「やくがへ」。人事刷新。

「其日の」その人事の下知の最初の日の始めに。

「第一魁」「だいいちのかしら」と訓じておく。留守居役或いは家老・用人・側用人の長としたということであろう(留守居役は後者三者の中の有能な者が兼務することもあった)。

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その1

 

       ㈥

 

 僕の最も好きな女性    田端居士

 

 僕は、しんみりとして天真爛漫な女性が好きだ。どちらかと言へば言葉すくなで内に豊かな情趣を湛へ、しかも理智のひらめきがなくてはいけません。二に二を足すと四といふやうな女性は余り好ましく思へないのです。

 かつて或る海岸の小さな町に住んでいたことがありました。そう教育が高いといふのでもなく又さう美人といふでもない一婦人と知り合ひになったことがありました。この婦人に対して坐ってゐると恰も浪々として尽きない愛の泉に浸ってゐる様な気がして恍惚となって来ます。僕はいつか全身に魅力を感じて忘れやうとしても今尚忘れられません。かういふ女性が多ければ多いほど、世界は明るく進歩して男子の天分はいやが上にも増してゆくことでせう。

 

 右の文において私はふっと自分の胸に思い当たるものを感じます。名前も出さず、或る婦人とか、或る海岸の小さな町とか、ぼかして述べてありますけれど、私には思い当たる節があるのでございます。ははあ私のことだとわかるのでございます。これが文学的な方法でございましょう。これと比べて「佐野さん」という文は何んとムキ出しに夫を刺したものだったかと、今更のごとく比べて思いました。そしてもう一度、あの辛辣な文における彼の仕打ちを思い返して見ました。ひらたく言えば、私は好感を持たれ、夫は嫌われ、憎まれているということになりました。それよりほかにないのだと思います。なぜ夫をそれほど憎んだのか、私はようやく解るのでございます。私は彼に好感を持たれていたのだ、愛されていたのだ、どうしようもないほど愛されていたのだと。彼の口から洩れ出た私への思慕のことばは、別に嘘ではなかったのだと。社交辞令と受け流していたのは私で、本気で言っていたのは彼だったのだと。私は彼のテストで受けていたわけになります。というのは、彼に問いかけられた愛の倫理の中で、至極、道徳的な判断と世間並みの解答しか与えなかった私を突き放し、あの地を去り、そして交際を断ち、夫を憎み、私への思慕を残して一片のハガキすら呉れないのだと。このようなことは、後になってしか解らないのでございました。そう思えば糸のほぐれるように、うっとりとした追想がよみがえってまいります。私には何のまちがいもないし、夫の命に従って、誠心誠意、尽くすだけのことは尽くしたと、正しがっている私そのものに罪があったのだと、身も世もない女身を抱く思いでございます。芥川さんは私を見るたびに深く愛されるようになって行ったのか。正しく振るまえば振るまうほど、愛されたのかと自分で自分を見ることのできない私は、後になってから気がついたのでございます。それだけに夫は憎まれ、嫌われ、随筆にまで書かれたのか、それも私のためだったのだと解りますと、罪の深さに消え入りたいようでございます。

 彼との交際が絶えてから、私の家庭には平穏な月日が流れました。両手に縋る愛児と善良な夫を持った私は、変わらぬ愛情を捧げるのになんの屈託もございませんでした。けれども不思議なことが一つありました。何の文句も言わない、穏やかな夫の中に一つ脱落してしまったもののあるのに気づきました。それは、あれほど、興味を持ち、あれほど真摯であった物理学への研究を、いつのまにか忘れたように、呆けたように放擲してしまったことでございます。なんの変化も受けないように見えながら、その実、夫の最も重要な頭脳の部分、物理学への熱意が、欠け落ちてしまった、そして何ごともなかったように穏やかに笑っている夫の哀れさに気づいたのでございます。こういう形で夫は平静を保ち得たのかと涙をこぼしました。詫びたい思いでございました。それでも夫は幸福そうでございました。私は何も言わず、一そう夫を愛したのでございます。例のステッキも夫は移り住むたびに荷物の一つとして持ち歩きました。その荷作りをする毎に私の顔は翳りましたけれど、夫は例の如く穏やかな微笑を浮かべているだけでした。

 その後、昭和二年七月二十四日の朝刊において「芥川龍之介謎の自殺」を知ったのでございました。仰向けの死顔の写真も掲載されているではありませんか。こういう最後の顔を写真で見ようとは、いいえ、こういう再会をしようとは思っても居りませんでした。物言わぬ再会と思いました。小穴隆一、久米正雄、菊池寛らが死の床を取り巻いている写真も載りました。遺文を読む久米の口があけられたままで紙面には大きな嘆きの影が漂っていました。自殺をしたという女学生もあったと報道されました。世間は芥川の死に心から驚いて居り、文壇の損失であると書き立てられました。この芥川に私の面影は抱かれたままになったと思いました。確かにそういうところがあったと思いました。

 その後、夫も亡くなり、長いあいだ戦後の苦しみを味わい、そして病床に臥すようになって、しみじみと読み返して見たのでございますが、芥川の作品の端々には何かほのかに顕って来る月のひかりがあって、つめたく白いまぼろしが見えるように思えるのです。女性を描くとき口癖のように<昼の光の中でも月光の中にいるやうだった>と述べるのでございます。月光の女は彼の理想像であったこと、つぶさにその口から聞いております。私に絡めた理想像でもあったと申せない私ではございません。全面的でないとしても必ず一面においては私も加わっていると信じられるのでございます。

 「月光の女」については、文壇も非常に問題にしておりまして、「一たい誰なのか」と話し合っております。久米正雄は、

 「月光の女のなかで、芥川が、月光といふ言葉を、意識して、幾度かくりかへして使ったのは死に際して、過去の思ひ出の中に真に美しく感じた女に対し、愛慕の象徴として考へたものに逢ひない」

 と述べて居りますし、宇野浩二も、

 「私は、芥川が、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないかと考へるのである」

と述べております。「昭和三十年十月二十日発行。文芸春秋新社。芥川竜之介(上)」

 「月光の女」を最も問題にさせる作品は、芥川の「或阿呆の一生」でございまして、そこに出てくる四人の女性が数えられます。この四人の女性を同一の人物か、又は、四人が四人とも別々な人物か、どちらとも断言できる自信は誰にもございませず、今のうちに現存の関係人、小穴隆一、殖生愛石、大島理一郎、木崎伊作、滝井等を集めて一夕、非公開の座談会でも開いて、決定版を得ておきたいなどという問題にまでなっておりました。

 私は陰のかげの方にいてそれらを読み知り、誰も私の存在に気のついていないのを感じます。横須賀の家には芥川さんの方から、いつもやって来られたのですし、私どもから出かけて行ったり文壇的に知られるという行動はいっさい取っておりませんので、誰にも知られず、期間も短かいことなので解らないのも当然かも知れません。それでも機関学校での謝罪問題があったりして居りますから、少しそこらを押しひろげて行けば、たとえ小さくとも、私どもが存在しておりましたことから、何かは引き出せるのではございますまいか。芥川の恋人と言って、もしくは、芥川の対象になった女性と申しまして俗に名のあがっている人々には、松村みね子、岡本かの子などがあります。松村みね子は軽井沢の万平ホテルで、岡本かの子は鎌倉の雪の下ホテルH屋で会ったと言われて居りますが、こんなことは只の興味に過ぎないと宇野浩二は言っております。噂の女、謎の女は、みね子もかの子も歌人であり、歌人と言えばほんの噂の九条武子、柳原白蓮もみな歌人であるとも述べておりまして、世間的に名が挙げられているから、真のその人ではなかろうということでございましょう。こういうことは何の問題にもならないとも述べております。

 

[やぶちゃん注:この「㈥」は実は底本では重ねて「㈤」となっている。誤りと断じて特異的に訂した。なお、このパートは本「芥川龍之介の思い出」の最終章であるが、非常に長い(ページ数にして全体の三分の一強)ので、内容を勘案し、ここで切って注する。

「僕の最も好きな女性    田端居士」前章末に「その後、大正八、九年の何月号でございましたか、淑女画報に左のような文が載りました」とあるものである(下線太字やぶちゃん)。『淑女画報』は博文館が明治四五(一九一二)年四月創刊(同年は七月三十日に大正に改元)した婦人雑誌(終刊は昭和一八(一九四三)年四月)である。この箇所に就いては私は既に、『芥川龍之介 僕の好きな女/佐野花子「芥川龍之介の思い出」の芥川龍之介「僕の最も好きな女性」』で抜粋紹介をしているのであるが、実は「田端居士」の署名で「僕の最も好きな女性」という題名の随筆或いはアンケート記事は現行の全集には載らない(アンケート記事の場合は採録洩れがないとは言えず、絶対に存在しないとは言い難いが、それらも可能な限り渉猟したと思われる岩波新全集にも載らない(私は新字採用の同新全集を嫌悪しており、数巻のみを所持するだけであるが、それに基づいてリスト化された平成一二(二〇〇〇)年勉誠社刊「芥川龍之介作品事典」のアンケートにも載らない))。但し、これに酷似した題名で「芥川龍之介」書名の随筆「僕の好きな女」という作品が、大正九(一九二〇)年十月発行の雑誌『夫人倶樂部』創刊号に掲載されている。既に私のサイトで公開してあるが、短いので、以下に全文を引く(底本の旧全集は総ルビであるが、談話であるから、読みに確度はないので、一部の読みのみを附すにとどめてある)。なお、これは現行ではなく談話筆記である可能性が強い(ご覧の通り、末尾に『(談)』とある)。

   *

 

 僕の好きな女   芥川龍之介

 

 何しろ既に妻帶してゐる人間に、どんな女が好きか話せと云ふ、こりや註文の方が無理なんです。どうせ碌な事は話せないものと、前以て覺悟をして下さい。まづ何よりも先に美人――と云ふ所なんですが、どうもこの人こそ、正銘の美人だと思ふやうな女には遇つた事がないんです。誰(たれ)でもさうぢやないですかね。皆好(い)い加減な所に安住して、美人のレツテルを安賣りに貼つてゐるんぢやないですかね。その邊がどうも判然しないんですが、兎に角一世の美人と云ふのには一度も拝顏の榮を得てゐないんです。そりや一世の美人を得る爲だつたら、すべてを拗つても惜しくはないでせう。少くとも拗つ人の心もちはよくわかると思ひますがね。その代り一世(せい)の美人でなけりや、中々拗つ氣にやなれませんよ。しかし世間には二世か三世位(くらゐ)の美人の爲に、抛つ人だつて大勢ゐます。僕も實はいつ何時、その仲間にはひるかもわからない、と云ふのは一世の美人に惚れる事も眞理(しんり)だが、惚れると一世の美人に見えるのも眞理(だうり)に違ひないですからね、しかしいくら惚れた所で、一世の美人に見えるのは、精々二世か三世位の美人でせう。十世以上の美人がクレオパトラに見える事は、まあ僕には無ささうですね。何時か鎌倉の或自動車の運轉手が土地の藝者に迷つた揚句、女房を殺した事があつたでせう。その藝者を後に酒席で見たんですが、これがまづ十五世か十六世位な美人なんですね。あの位ぢや僕は女房でなくつても、其處にゐる猫でも殺しませんよ。一世の美人なら、文句はないでせうが、二世以下の美人となると、浮世繪風の美人よりは西洋人じみた美人の方がどつちかと云へばすきですね。但し西洋人じみたと云ふのは御化粧を云ふんぢやない、顏立ちを云ふんです。御化粧だけで好きになれるんなら、オペラの女優は皆好きになれますからね。序だから云ひますが、この頃は日本の女の顏が、だんだん西洋人じみて來るやうですね。あれは體格が好くなつたり、御化粧が然らしめたりするんでせうが、その外にも我々の眼の玉が、西洋人じみた美しさを見つける事が出來るやうに教育されて來たんでせう。確にありや外部的な原因ばかりぢやありませんよ。

 それからあまり實際的でない女が好きですが、――さう云ふより實際的でない方面にも理解のある女と云つた方が好(い)い。實際的でない女と云ふものは殆(ほとんど)ないやうですからね。少くとも大抵の女は皆實際的らしいぢやありませんか、或女が或小説家の作品が好きだと云ふから、――何、差支へがある譯ぢやありません。本名を云へば谷崎精二君の作品が好きだと云ふから、その理由を尋ねると、谷崎君は小説もうまいが、同時に又男振りが好(い)い癖に、堅さうな所が好いと云ふんです。つまりその女自身が夫を持つ場合には、谷崎君のやうな藝術趣味のある堅人(かたじん)が好いと云ふ事なんです。こりやほんの一例ですが、仔細に氣をつけて見ると、どうも女は心臓が算盤珠(そろばんだま)の恰好(かくかう)に似てゐさうな氣がするんですね。そりや女が男に欺されると云ふ場合だつて多いでせう。しかしそんな事があつたつて、女が實際的でないと云ふ證據にや全然なりやしません。精々或女が或男より實際的でないと云ふ位ですね。それさへ事によると疑問かも知れませんよ。まあそんな事はどうでも好いが、さう云ふ實際的な女なるものゝ中でも、前に云つた通り實際的以外の方面にも理解のある女が好きなんです。さうかと云つて婦人雜誌の口繪に、短册を持つて立つてゐたり何かする、あゝ云ふ女史は落第なんです。あれ程藥の利きすぎない、森先生の安井夫人と云ふ歷史小説の女主人公のやうな、際物(きはもの)じみない女が好(い)いんですね。殊にさう云ふ人で、しつとり心に沾(うるほ)ひのある、優しい氣立ての人だつたら、何、五世か六世位の美人でも有難く御説を拝聽します。

 今云つたやうな内外(ないぐわい)の美が具(そなは)つてゐる人があつたらそりや僕もきつと惚れるでせう。惚れると云ふんで思ひ出したが、スタンダアルの「愛(ド・ラアムウル)」[やぶちゃん注:(ド・ラアムウル)はルビ。]と云ふ本に惚れ方を大別して、ウエルテル式とドン・ジユアン式と二つ擧げてありますね。勿論ア・ラ・ウエルテルと云ふのは、一人の女に惚れこむので、ア・ラ・ドンジユアンと云ふのは大勢の女を片つ端から征服して行くんです。僕は僕自身考へて見ると、どうも兩方の傾向があるやうなんですが、こりや僕ばかりぢやない、男は大抵さうなのかも知れませんね。尤も僕の友達の久米正雄君なんぞは、可成(かなり)ウエルテル式のやうです。そこでどうでせう。女の讀者に人氣のある小説家は、少くともその作品に現れた作者の惚れ方が、皆ウエルテル式ぢやないですか。(但し日本だけですよ。)どうもさうらしいやうですね。前に女は實際的だと云つたが、――さうなると又話が長くなるから、この邊でやめて置きますがね。ウエルテル式にしても、ドン・ジユアン式にしても、兎に角僕なぞは惚れる事に消化器の狀態が關係してゐるのは、動かすべからざる事實ですよ、少し位惚れたと思つても、腹具合が好くつて、ぐつすり眠られる時は大抵二晩か三晩位すると、けろりと忘れてしまひますからね。そんな事を考へると聊か寂しくなりますよ。ミユツセやハイネを探したつて、胃袋と戀なぞと云ふ殺風景な詩は、恐らく一つだつてありやしますまい。藝術にも天才が必要なやうに惚れるのにもきつと天才が必要なんでせうね。それなら僕は惚れる方ぢや、どうも下根(げこん)の凡夫のやうです。 (談)

   *

ご覧の通り、凡そ内容は全く以って一致しない。

 佐野花子が言う「田端居士」の署名で「僕の最も好きな女性」という題名の文章(アンケートへの答えの感が強い)が、今後、どこかの雑誌から発見されることを願うものである(「佐野さん」同様、私は『淑女画報』のバック・ナンバーを縦覧したわけではないことは申し添えておく)。

 これは皮肉ではない。これが佐野花子によって創作された架空の文章であるかどうかは私には断定出来ない。しかも私は、この花子の示した「田端居士」の署名で「僕の最も好きな女性」という題名の文章自体は、芥川龍之介が書いたとして、少しもおかしくない文章だとさえ感じているのである。それは私が佐野花子の肩をなるべく持ってやりたいと感ずる人種だからである。それは――芥川龍之介を愛する等価の義務として――である

「私は彼に好感を持たれていたのだ、愛されていたのだ、どうしようもないほど愛されていたのだ」「彼の口から洩れ出た私への思慕のことばは、別に嘘ではなかったのだ」「社交辞令と受け流していたのは私で、本気で言っていたのは彼だったのだ」「私は彼のテストで受けていた」「というのは、彼に問いかけられた愛の倫理の中で、至極、道徳的な判断と世間並みの解答しか与えなかった私を突き放し、あの地を去り、そして交際を断ち、夫を憎み、私への思慕を残して一片のハガキすら呉れないのだ」ある種の精神科医ならば、恐らくこれを病跡学的に、典型的な関係妄想の様態であると断ずるかも知れぬ。しかし、私は百歩譲って、これが花子のなかの関係妄想であったとしても、では、芥川龍之介はここに書かれているような恋愛感情や誘惑染みた問いかけを彼女にしなかったかといえば、明確に「否」と答える龍之介は花子に恋愛感情を抱いていたことは明白であると私は断言するものである。

『昭和二年七月二十四日の朝刊において「芥川龍之介謎の自殺」を知った』これは昭和二(一九二七)年七月二十五日の誤認である。芥川龍之介の自殺は確かに二十四日未明であったが、この日の朝刊には報知は無論間に合わず(自殺の公表は同日の夜、午後九時。親族が反対したものの、久米正雄の説得により、貸席「竹むら」で久米が或舊友へ送る手記」を発表、それを以って自殺が公にされたものである)、しかもこの日は日曜日であり、夕刊はなく(死亡の報知だけならば、そこで公表はあったかも知れない)、自殺の報道は翌日の朝刊となったからである。因みに、画像で見ると、

『東京日日新聞』の同日朝刊のトップ見出しは、

『文壇の雄芥川龍之介氏』/『死を讃美して自殺す』/『昨曉睡眠劑を呑んで』/『夫人親友らに遺書を殘し』/『一般自殺者の心理を詳細に認む』(最後は「したたむ」であろう)

『東京朝日新聞』の同日朝刊のトップ見出しは、

『芥川龍之介氏』/『劇藥自殺を遂ぐ』/『昨晩、瀧野川の自宅で』/『遺書四通を殘す』(「瀧野川」「たきのがわ」で当時、田端が含まれていた町名)

である。

「仰向けの死顔の写真も掲載されている」「こういう最後の顔を写真で見ようとは」盟友の画家小穴隆一が描いたデス・マスクでスケッチ画。狭義の写真(フィルム)ではないので注意。上記『東京日日新聞』朝刊に掲載されてある。

「小穴隆一、久米正雄、菊池寛らが死の床を取り巻いている写真」これは確かに写真(上記二紙ともに載る)であるが、芥川龍之介の「死の床」は誤認で、「竹むら」での久米によって「或舊友へ送る手記」が部屋の中央で読み上げられ、その周囲に友人らが居るという一枚である。

「自殺をしたという女学生もあったと報道されました」不詳であるが、あっても当然の如くおかしくない。

「の芥川に私の面影は抱かれたままになったと思いました。確かにそういうところがあったと思いました」非常に意味深長な言葉である。事実、花子はそう思ったのだ、と私も思う。

「病床に臥すようになって」花子はその後、結核に罹患している。

「芥川の作品の端々には何かほのかに顕って来る月のひかりがあって、つめたく白いまぼろしが見えるように思えるのです。女性を描くとき口癖のように<昼の光の中でも月光の中にいるやうだった>と述べるのでございます。月光の女は彼の理想像であったこと、つぶさにその口から聞いております。私に絡めた理想像でもあったと申せない私ではございません。全面的でないとしても必ず一面においては私も加わっていると信じられるのでございます」これは非常に重要な箇所である。そうして私はここに何らの妄想も感じない私が女で、芥川龍之介とかくも親交があったならば、「月光の女は」「私に絡めた理想像でもあったと申せない私ではございません。全面的でないとしても必ず一面においては私も加わっていると信じられるのでございます」と確かに思いたいし、思うであろう。しかもここで花子は「月光の女は彼の理想像であったこと」を「つぶさにその」芥川龍之介自身の「口から聞いて」いると証言しているではないか。これのどこが危ない妄想であろうか!

『久米正雄は、/「月光の女のなかで、芥川が、月光といふ言葉を、意識して、幾度かくりかへして使ったのは死に際して、過去の思ひ出の中に真に美しく感じた女に対し、愛慕の象徴として考へたものに逢ひない」/と述べて居ります』花子は、これを次に示す宇野浩二の「芥川龍之介」(昭和三〇(一九五五)年十月文芸春秋新社刊。これは昭和二六(一九五一)年九月から同二七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載されたものに、後に作者がさらに手を加えたもの)の上巻の「十一」から孫引きしたものと判断する。ここ。リンク先は私のブログ版電子テクスト注で、全文はサイトHTML版の上巻下巻で読める。縦書も用意してあるので、どうぞ。当該箇所とそれに続く宇野の見解を引いておく(傍点「ヽ」は太字に変えた。下線やぶちゃん)。

   *

 さて、前の章で、『或阿呆の一生』の中に出てくる女は三四人ぐらい、と述べたが、久米が、『月光の女』のなかで、芥川が、月光という言葉を、意識して、幾度かくりかえして使ったのは、「死に際して、過去の思ひ出の中に真に美しく感じた女に対し、愛慕の象徴として考へたものに違ひない、」と述べているが、私は、芥川が、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないか、と考えるのである

 それから、久米は、また、おなじ文章のなかで、その相手は、四章にわかれて書かれているから、「読者はひよつとすると、この四人が四人とも同じ人の摸写だと思ふかも知れないが、――それが私の最も危険な独断だらうが、実に、四人が四人とも、全く別な人だと思へるのだ。そして其の一々(いちいち)に、多少思ひ当る筋があるのだ。但しその推定人物が、実際に当つてゐるかどうかは私に取つても全幅の自信はなく、実はひそかに私の企画で、今のうちに現存の関係人、小谷隆之、殖生愛石、大島理一郎、木崎伊作、滝井等を集め、一夕、非公開の座談でも開いて、此のおせつかいな決定版を得ておきたいやうな気もするが、この顔ぶれに失礼だが、信輔夫人とそれから彼の最も近親の、藤蔓俊三氏を加へて、あの『痴人の生涯』の全部にわたり、検討を加へておく事も、一つの傷(きず)いた大正作家の文芸史であらうかと考へる、」と述べている。

 これには私も大賛成である。それは、「今のうちに現存の関係人」と述べた当人の久米がなくなくなつた今、久米の遺言どおり、小穴隆一、室生犀星、小島政二郎、佐佐木茂索、滝井孝作のほかに、芥川夫人と葛巻義敏を加えて、非公開でなく、『或阿呆の一生』の全部にわたって検討を加える、公開の座談を是非(ぜひ)ひらくべきである。そうして、それは芥川ともっとも縁故の深かった「文藝春秋」が進んでもよおすベきであろう。そうして、もしそういう座談会が実現されたら、(実現されたら、である、)佐藤春夫と私もその末席に加(くわ)えてほしい。

   *

以上の、久米の「月光の女」(昭和二六(一九五一)年一月発行の『中央公論 文藝特集』初出)は、私は未見であるが、芥川龍之介の実録物でありながら、ご覧の通り、登場人物名を変名にしてある(後注参照)。

『宇野浩二も、/「私は、芥川が、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないかと考へるのである」/と述べております』前注引用の二つ目の下線部参照。

「殖生愛石、大島理一郎、木崎伊作、滝井等を集めて一夕、非公開の座談会でも開いて、決定版を得ておきたいなどという問題にまでなっておりました」前注引用の三つ目及び四目の下線部を参照されたい。これは「殖生愛石」が「室生犀星」、「大島理一郎」が「小島政二郎」、「木崎伊作」が「佐佐木茂索」、「滝井」が滝井孝作のことである。

「私は陰のかげの方にいてそれらを読み知り、誰も私の存在に気のついていないのを感じます」――いいえ、花子さん、少なくとも私は、気がついていましたよ、そうして、これからもずっと、貴女を芥川龍之介の思い人「月光の女」たちの「一人」として数え続けますよ、花子さん――

「機関学校での謝罪問題があったりして居りますから、少しそこらを押しひろげて行けば、たとえ小さくとも、私どもが存在しておりましたことから、何かは引き出せるのではございますまいか」……そうですね、花子さん、まさに、その通りですね、しかし何故か、沢山の芥川龍之介のアカデミズムの専門学者や在野研究家がいるのに(最近では中国人の優れた芥川龍之介研究の学者までいるのですよ)、だのに、誰一人として、それを発掘出来ないんですよ、それって、実におかしなことですよね、花子さん……

「松村みね子」芥川龍之介の最後の思い人であったアイルランド文学者で歌人であった片山廣子(明治一一(一八七八)年~昭和三二(一九五七)年)のペン・ネーム。私は彼女を追い続けている。私の彼女の電子テクスト群や、私のブログ・カテゴリ「片山廣子」を参照されたい。芥川龍之介より十四年上阿呆一生の(リンク先は私の古い電子テクスト)、

 

       三十七 越し人

 

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

 

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

 

は片山廣子である。廣子は明らかに芥川龍之介にとって最後にして最愛の「月光の女」であったと私は信じて疑わない。但し、それを話し出すとエンドレスになってしまうし、何より、花子さんが妬くだろうから、これまでとする。

「岡本かの子」小説家で歌人の岡本かの子(明治二二(一八八九)年~昭和一四(一九三九)年)。芥川龍之介より三つ年上。芥川龍之介をモデルとした実録風小説「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年六月号『文學界』初出。リンク先は「青空文庫」)で知られ、作家仲間として親しくは付き合ったが、私は彼女は「月光の女」の一人どころか、龍之介は一度として彼女に惹かれたことはなかったと断言出来る。少なくとも、彼女は芥川龍之介の好みの女性では、全く、ない

「松村みね子は軽井沢の万平ホテルで」「会った」私は芥川龍之介と片山廣子の密会について、軽井沢の万平ホテルで実地に調査し、変奏曲片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲という評論をかつて(二〇〇九年)書いた(藪野唯至名義)。未見の方は是非、お読みあれかし。

「岡本かの子は鎌倉の雪の下ホテルH屋で会った」先に注した小説「鶴は病みき」(リンク先は「青空文庫」)を参照。鎌倉駅西口直近にあった平野屋別荘。かの子が同宿したのは、大正十二(一九二三)年八月。

「こんなことは只の興味に過ぎないと宇野浩二は言っております」先と同じ「芥川龍之介」の「十一」の。以下の引用しておく(下線やぶちゃん)。先に私が引いた阿呆一生の「三十七 越し人」を引用した後、

   *

 つまり、久米の考えは、この『越し人』は、大方(おおかた)の意見によると、松村みね子夫人が「殆んど確定的」であるが、しかし、「確定的」というだけで、岡本かの子とも見られるところがあるから、これを「確認しておく必要が多分にあるかも知れない、」というのである。

 ところで、私も、「確認しておく必要」はある、とは思うけれど、私は『確認』などなかなか出来ない、と考えるのである。ところが、いずれにしても、おもしろいのは、芥川は、松村みね子とは、軽井沢の万平ホテルで、逢っており、岡本かの子とは、鎌倉の雪の下ホテルH屋[註―かの子の『鶴は病みき』による]で、何日間か、となりの部屋で、同宿している事である。が、しかし、こういう事は、唯の興味のようなものである。興味といえば、時の人の謎の女(つまり、小穴のS女史)も、この、みね子も、かの子も、みな、歌人であり、噂だけでいえば、ほんの噂の、九条武子も、柳原白蓮も、また、歌人である事などである。が、こういう事は何の問題にもならない

   *

なお、厳密に言えば「となりの部屋」ではなく、庭を隔てた向いの部屋であった。因みに「S女史」とは、かの芥川龍之介を終生悩ませた、最初の不倫相手で歌人の秀しげ子のこと。

「九条武子」(明治二〇(一八八七)年~昭和三(一九二八)年)は教育者で歌人。才色兼備として持て囃され、柳原白蓮(次注参照)・江木欣々(えぎきんきん:芸妓)とともに「大正三美人」と称された。仏教系の京都女子専門学校(現在の京都女子学園、京都女子大学)の創立者としても知られる。芥川龍之介より五つ年上。

「柳原白蓮」(明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は歌人。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、恋に生きた女として有名。芥川龍之介の妻文が晩年、龍之介の自殺願望を知り、監視を兼ねて依頼して近づけさせた幼馴染み平松麻素子(ますこ)の師で、自死の年の四月、龍之介がこの平松と心中を帝国ホテルで企てた際(但し、これは龍之介の自棄的発作的企画であり、私は龍之介は平松を必ずしも愛していなかったのではないとさえ考えている。実は私は平松を「月光に女」の一人として数えるのさえ、やや躊躇を感じるぐらいである)、白蓮が止めに入って事なきを得たことを、白蓮自身が龍之介の死後に回想している。芥川龍之介より七つ年上。

「ほんの噂もみな歌人であるとも述べておりまして、世間的に名が挙げられているから、真のその人ではなかろうということでございましょう」前二者(九条と柳原)の女性は芥川龍之介との関係が「ほんの噂」として取り上げられたことは確かに事実としてあるが、それは私も「只の」世人の「興味」本位のガセネタに過ぎないと私も認識しており、少しも彼女らを「月光の女」の候補に入れようなどと考えたことは、一度として、ない。特に私は実は柳原白蓮は生理的に受けつけられない厭なタイプに女性である。

「こういうことは何の問題にもならないとも述べております」宇野浩二が、である。先の引用下線部を参照のこと。]

諸國百物語卷之四 十八 津の國布引の瀧の事付タリ詠歌

    十八 津の國布引(ぬのひき)の瀧の事付タリ詠歌(ゑいか)

 

 つの國、ぬの引の瀧は、女人けつかいの所なるに、ある日、女人、三人つれだち來たりて、てい坊に申しけるは、

「此山に布引のたきと申すめいしよ御座候ふよし、うけ給はりおよび候ふ。ひとめ御みせ下され候へ」

と云ふ。ていぼうおどろき、

「さてさて、かたがたはいづくよりきたり給ふぞ。此山は女人けつかいの所也。はやくくだり給へ」

と、申されければ、一人の女、一しゆのうたをよめり。

 

  奧山にたゝみおきてはなにかせん人めにさらせ布びきのたき

 

とよみて、三人、たちかへる。ていぼう、いかさま、ゆへある人々と、みへたり。みせ申さんとおもひ、ともなひ行き、みせられける。をのをの、よろこび、瀧をながめゐければ、ていぼう、申されけるは、

「此山の、のちのちまでの、かたりくに、いたすべし。のこる女らうしうも、歌一しゆづゝよみ給へ」

といへば、今一人の女、よみける。

 

  此ほどのおもひをりたる布引(ぬのび)きをけふたちそめて今ぞきてみる

 

今一人の女、よめる。

 

  つの國のいく田(た)こや野(の)の里人(さとびと)はをりながらみる布びきの瀧

 

とよみ、三人ながら、瀧のもとにより、水にて手をあらふ、と、見へしが、三人ともに、たけ一丈ほどの大じやとなり、瀧のうへにのぼりけると也。

 

[やぶちゃん注:和歌の前後を恣意的に一行空けとした。風雅な和歌提示(しかも三首は贅沢)による蛇体の昇龍奇譚は本「諸國百物語」では文学性に富んだ特異点。

「津の國布引(ぬのひき)の瀧」「津の國」は畿内に属する摂津国。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部に相当する。ウィキの「布引の滝」(現在は「ぬのびきのたき」と濁る)によれば、現在の『神戸市中央区を流れる布引渓流にある』四『つの滝の総称』。『名瀑として知られる古来からの景勝地である』。『またかつて役小角が開いた滝勝寺の修験道行場として下界とは一線を画する地であったが、現在は渓流沿いおよび布引山』『一帯から滝を経て』、『布引ハーブ園へと至る遊歩道が整備され、鉄道駅からも気軽に立ち寄ることができるようになっている』。『六甲山の麓を流れる生田川の中流(布引渓流)に位置し、上流から順に、雄滝(おんたき)、夫婦滝(めおとだき)、鼓滝(つつみだき)、雌滝(めんたき)からなる。栃木県日光市の華厳滝、和歌山県那智勝浦町の那智滝とともに三大神滝とされ』る。「伊勢物語」や「栄華物語」を『はじめ、古くから宮廷貴族たちが和歌に詠むなど多くの紀行文や詩歌で紹介される文学作品の舞台となっている。生田川下流流域には、布引の滝を詠んだ和歌にちなんで名付けられた地名』もある。最大の雄滝は高さ四十三メートル、滝壺面積四百三十平方メートル、滝壺の最深部で六・六メートルあり、本滝の横には五箇所の甌穴(おうけつ:最大のもので十畳大の広さを持つ)が存在し、『竜宮城に続いているという伝説がある』とある。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注によれば、『山頂に仏母山忉利天上寺があり、その聖域内にあって、竜神社、滝堂があり、古くから女人禁制とされていた』と記す。仏母山忉利天上寺は「ぶつもさんとうりてんじょうじ」と読み、正式には佛母摩耶山(ぶつもまやさん)忉利天上寺で真言宗。同寺のウィキによれば、大化二(六四六)年に『孝徳天皇の勅願により、インドの伝説的な高僧法道仙人が開創したと伝わる。後に空海(弘法大師)が渡唐した際、梁の武帝自作の摩耶夫人』(釈迦の生母)『尊像を持ち帰り、同寺に奉安したことから、この山を「摩耶山」と呼ぶようになったとされる。寺号は摩耶夫人が転生した忉利天に因むものである。鎌倉時代末期の摩耶山合戦(幕府軍対赤松氏)で知られる摩耶山城をこの寺とする説がある』。『最盛期には多くの塔頭、僧坊を抱えており、最も栄えた頃は』三千人『の僧を擁する摂津地方第一の大寺だったと伝わる。宗派を越え、皇族・武将なども含め、広く信仰され、花山・正親町両天皇の御願所でもあった』が、昭和五一(一九七六)年一月に『賽銭泥棒による放火のため、仁王門や一部の塔頭・庫裏を除いて全焼し』、現在は北方約一キロメートルの所『にある摩耶別山(天上寺創生の地とされる)に場所を移して再建され』ている。旧境内は摩耶山歴史公園として整備されたが、客足が減り、『仁王門以外の建物(庫裏など)は』『朽ちかけている』とある。しかし私、思うに、この寺、摩耶夫人像を奉安することから、公式サイトのトップでは「女人高野」「日本第一女人守護」「安産腹帯発祥霊場」と掲げてあるのだが、それで古来から女人禁制というのは、ちと、おかしくないカイ?

「女人けつかい」「女人結界」。女人禁制。しかし、この謂い方、私も普通に使うが、今、ふと考えみたら、甚だおかしいことに気づく。「結界」は「仏道修行に障害のないように一定地域を聖域として定めること。寺院などの領域を厳密に定めること」であり、或いは狭義に「密教で一定の修法の場所を限って印を結び、真言を唱えてその空間を強力な法力によって護り浄めること」を指すわけで、「女人結界」では「女人」を守護するために「結界」を結ぶ謂いではないか。略さずに「女人禁制の結界」と言うべきである。

「てい坊」「亭坊」。先に出た滝堂の社僧(前出の「江戸怪談集 下」の脚注に拠る)。

「奧山にたゝみおきてはなにかせん人めにさらせ布びきのたき」前出の「江戸怪談集 下」の脚注に、『出典不明。本歌は「ひさかたの天津乙女のなつごろも雲居にさらす布引の滝」 (『新古今』巻一七)か。歌意は、奥山に畳んでおくだけでは何になりましょう。多くの人目にこの布引の滝をさらすべきです。「たたむ」「さらす」「布」が縁語』とある。高田氏が本歌とするのは、「新古今和歌集」「卷第十七 雜歌中」の藤原有家の一首(第一六五三歌)、

 

   最勝四天王院の障子に、布引の滝かきたる所    有家朝臣

 ひさかたのあまつをとめが夏衣雲井にさらす布引の滝

 

で、高田氏の引く「天津乙女の」は「最勝四天王院障子和歌」(承元元(一二〇七)年十一月)の入選歌の句形。

「いかさま」きっと、恐らく。

「ゆへある」「ゆへ」は「由緒(ゆへ)」で、高貴な婦人らが、訳あって身分を隠して参られた。

「みへたり」判断した。

「ともなひ行き、みせられける」んなもん、たかが堂守の社僧が自己判断で入場させ得るたぁ、女人禁制が聴いて呆れるわい!

「かたりく」「語り句」。やんごとなき御婦人の名詠として語り草とすること。

「のこる女らうしう」「殘る女﨟衆」。

「此ほどのおもひをりたる布引(ぬのび)きをけふたちそめて今ぞきてみる」前出の「江戸怪談集 下」の脚注に、『出典不明。歌意は、今まで見たい見たいと思っていた布引の滝を、今日やってきてとうとう見ました。「をりたる」に』「居(を)り」『と「織(お)り」、「たちそめて」に「立ち」と「断ち」、「きてみる」に「来」と「着(き)」が掛詞となっている』とある。

「つの國のいく田(た)こや野(の)の里人(さとびと)はをりながらみる布びきの瀧」前出の「江戸怪談集 下」の脚注に、『出典不明。歌意は、津の国の生田、昆陽野(それぞれ神戸、伊丹市内の古い地名)の人々は居ながらにして、この布引の滝を見るのですね。「をりながら」が「居り」と「織り」の掛詞』となっている、とある。

「一丈」約三メートル。]

2016/11/06

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その2

 

 或る、それは冬の日のことでした。私は火鉢に寄りながら雑誌をひもといていました。

 ふと、私は一文を読んだのです。そして、再三読み返したのです。繰り返し、繰り返し読みました。そして、流れ出る涙を押えることができなかったのでした。

 私は読みました。あまりにも判然と。そして黙ってしまいました。文の終わりに私は、「この悲しさに涙ながるる」と書きつけました。

 彼の名声の日に日に上がるのを見、彼の業績の年ごとに重くなるのを知り、彼の家庭のいや栄えゆく様を聞いて衷心から喜びに耐えないのですが、この時の文面の悲しさ、憎らしさはどうすることもできませんでした。幾たびか確かめるように読み返し、よみ返してついにその雑誌を焼き捨ててしまったのでございます。私は黙りました。夫にも申しませんでした。

 

 忘れぬをかく忘るれど忘られずいかさまにしていかさまにせむ

 

 などいう古歌を口ずさんだりして、夫と共に彼を慕っていた人の好さが哀れに思われるばかりで、私は黙って涙を流したのですが、やはり、とうとう事件が持ち上がってしまいました。或る宵のことですが、夫は浮かぬ顔をして帰宅いたしました。

 「芥川君はね。〝佐野さん〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。新潮誌上でね。今日、学校でそれを読んだ。学校当局も問題にしているよ」

 「……………………」

 「お前もその文を読んでごらん。解るだろうこの気持ちが。つまり、物理学なんてやっている人間の非常識な野暮ったい面を突いて強調したような書き方なんだ。ばくも自分のことながら、なるほどなあと思って可笑しくなったくらいだ。芥川君のような文学者から見たら、可笑しく見える要素が多分にあるのだろうな。お前から見たって、ああ見えるかも知れないなあ。こんなことくらい、放って置いてもいいんだけど、海軍機関学校というところも難かしいからね」

 私は新たに涙のあふれ出るのを押えきれませんでした。私は既に読んでおりました。夫を彼一流の眼、彼一流の筆で鋭く嘲笑していたのです。私は既にそれを読み、すでに焼き捨てていたのです。私は、ただ、涙を流していました。そうして黙っていても夫に一向あやしまれるわけはありません。あまりの情けなさに泣くだけなのだと、夫には思われましょう。夫は独りで語りつづけました。

 「しかし、芥川君としては、ちょっと変なことをしたものだ。とは、ぼくも思うな。お前が来ないうちからの交わりで、来てからも、あの通り上乗の交際だったと思うし、彼も良い結婚をして円満のようだし、別に何ごともなかったと思うのだが、不可解な事だ。龍ちゃん、創作に凝り過ぎて少々異常を来たしたかも知れないね。それにしてもあれだけ好意を持ち合って親しくして居ったんだから、どうも変だ。こんな推察をしては悪いけれども、龍ちゃん、ヒヨッとして結婚生活に多少不満でもあるんじゃあないか。考えてみれば、結婚の決意をしたらしい時、そら、うちへ来て、ちょっと不思議なことを言ってたね。結婚した婦人が、ことごとに気に入らなかったら悲惨だとか、一生、恵まれた家庭は作れないとかね。しかし、ぼくにはね。幼な馴じみで嫌いじゃないって言ってたから、別に不満はないだろうがねえ」

 「………………」

 「ヒヨッとすると、お前という人間が龍ちゃんの心に喰い入り過ぎたかも知れないね。ぼくは、うっかりして芥川君を余りうちへ呼び過ぎたかも知れないね。これは、ぼくが龍ちゃんに心酔の余り、やったことで、少しも悪気でしたことではない。悪気どころか、まあ、芥川君に絶大の好意を寄せて下宿生活の単調さを補っても上げたいし、又、お前のためには良い友だちとなってもらえるし、そんなふうに考えたのだよ。芥川君も喜んでよくやって来たねえ。お前も楽しそうに見えた。ぼくも楽しかった。だから、ぼくに疾ましい点は、ちっとも無いんだもの。可笑しいことをしたもんさ。考えてみれば、しかし、いろいろあるよ。約束して、あれほど、待っていたのに結婚写真はつい呉れないし、その果て最近撮した写真だと言って、自分の一人写しのを持って来てさ。それが一番、気に入ったものだそうで『どうぞ永久に記念として、取って置いて下さい』なんて……。お前はあの時、『これも結構ですけど、お揃いのでなくては厭』と頻りに龍ちゃんをやっつけていたが、それでもとうとう呉れなかった。何か闇に迷うという大きなシコリがあったのかも知れない。人間というものは弱いものだからね。お互い気をつけなければいけないよ」

と、思いの丈をと申しますか、ひとりで語りつづけました。私にはその気持ちがよく解りました。私は長いことばの代わりに、長い長い時間、涙を流したのですから。しかし、夫のことばを聞いて私も自分を反省してみました。自分は何か出過ぎたことをしたのでしょうか。けれど、どう考えても、心には一点の曇りも無かった筈に思えます。分を守って間違ったことは何一つして居りません。彼をよい人だと思い、夫の意志に従って真心を尽くして接していただけです。夫は、なおも独りで語りつづけました。

 「芥川君が学校をやめて新聞社に入社しようとした時も、からだを気遣ったぼくは、やはり規則的の仕ごとをしながら、創作に従事する方がよくないかと話して見たけれど、夏目先生もそうされたことだし、ぼくは実を言うと、機関学校へ来たのは徴兵逃れのためだった。もうそれも逃れたからって、帰心、矢の如しさ。学校勤務は別に厭な様子もなかったがね。それはそれでよいけれど、行くゆくからだをこわさねばよいが」

 「本当ですわ。その随筆とかいう「佐野さん」のことだって変ですもの。これが行くゆく、からだをこわす前ぶれというものにならなければよろしいですけれど。女高師出でも一番で通したような人は、卒業と同時に死んだり弱ったりし勝ちですもの。芥川さんの秀才も、ちよっと心配になりますわね」

と、やはり日頃の彼思いに落ちて行く口憎しさ。

 しかし「新潮」のその一文には私も新しい怒りの湧くのを覚えました。それはあの龍之介に対する真実の怒りでありました。唇はピリピリと震え、顔は紅潮し俄かに青ざめて行くのが解りました。あれ程、夫に対して理解のあったと思う彼が、夫のことを、

 「この男が三十を過ぎて漸く結婚できると有頂天になっているのは笑止千万だ。果たしてどんな売れ残りがやって来るのやら」

と結んであるのですが、これは私を見る前の文です。ずい分、前のことを書いたもので、それだけに顔を合わせていた期間の短かくないことを思うと余計腹立たしいのです。題も明らかに「佐野さん」とあるのです。新潮誌上に麗々と本名を使って発表した随筆。あまつさえ夫を見る影もない変な男とし、そして刺し殺すほどの憂き目に合わせていました。夫はよくこれを読んで怒らずにいられたものと思います。理性の優った夫。奥底に道徳的善良さをいつも失わなかった夫。また、常に如何なる情熱が兆そうとも氷のような冷やかさ押え得る彼の性格。その彼にしてなんと不可解な仕打ちであろう。どのような皮肉冗談にも必ず伴う礼儀好意の片鱗さえ影を潜めてしまった文章でありました。誹謗冷笑に満ちた文辞には改めて茫然としてしまうのでした。人の好い夫、善良な夫は、彼のニヒルの笑のかげには愚鈍な間抜けとして描かれて行くのでした。そこには世間と文学との一線が見られました。一たん、その座につくや、彼の眼は既に彼自身の眼になるのです。思い溜めていたことが一度に角度を変えて変貌してしまうのです。夫はよい材料になるわけでした。それは私にもよく理解できます。私とて文学を解する側の人間でした。ただ、理解できないのは、あまりにもムキ出しに書いたことなのです。名前を本名にし、世間の昼の光の中にさらけ出してしまっている。もう少し書きようもあるのではないでしょうか。書かれた方は、その辛さに耐えられないのです。あきらかに彼は夫を憎んでいました。これを第一として、のちに抒情詩の中に、歌の中に夫らしき男が嘲笑され、刺し殺したいばかりの思いで点在しました。しかし、それは、文学の中においてであり、どこまでも、それらしさで終わりました。それでよいのです。それでよいのだと私は理解いたします。それゆえに「佐野さん」なる一文は文学とは言えない世間的の性格を帯びていました。文は拙いとは申しません。題名から判然と「佐野さん」と名を明らかにされ、内容は明らかにこの本人の本名でありますので、佐野個人、そして私、私ども取り巻く知人、読む範囲の知らぬ大衆、それから目玉のかたまりの機関学校、これらを背負って夫の心身は傷だらけになりました。たのしい交際と思われたあの期間において、彼は夫を実はさんざん持て余し、心でどれほど嘲っていたのだったかと、思い知らされました。名前まで指摘して天下の新潮誌上に発表せねばならぬほど、夫は仕方のない存在だと申すのでしょうか。

 それから数日後の夕食どきに夫は声ひくく申しました。

 「今日、芥川君が学校に来た」

 私は驚いてなお語ることばに耳を立てましたのです。

 「例の新潮の随筆の件で謝罪に来たのだ。学校で手を廻したことと見える。芥川君は、学校当局にも、ぼくにも謝罪をしてね、以前のような元気はなく帰って行ったよ。ぼくはちよっと送って出て、是非うちにも寄ってくれ、ぼくは何んとも思ってないし、あれもすっきりすることだろう。一泊してもよいからゆっくり話してやってくれと言ったけれど、奥さんには君からくれぐれもよろしくお詫びしておいてくれと帰って行ってしまった。淋しかったね。うしろ姿も淋しかったよ」

 「そうですか。それではやっぱり以前のようにはしないおつもりですね。あんまりですわ」

 私は又、涙ぐんでしまうのでございます。

 「本当だ。ぼくも一生変わらぬ交際をしていい人だと思っていただけに、それだけ一入、憂欝になるね。しかし、まあこれも成り行きだろう。何を言っても、もう駄目だ。かげながら芥川君の成功を祈るとしょう」

 まことにやるせないその夜の思い出でございます。

 機関学校の校長はじめ一同があの文を読んで憤慨し、芥川を呼びつけて謝罪させたことは、私にとっては、せめてもの慰めでありました。学校では佐野を弁護し、かばってくれたわけですが、夫が信用を受けて居り、捨てておけない人物であったからと思えます。焼き捨ててしまった例の新潮はその後、一冊も眼にふれることなく、また、見たいとは思いませず、終わりのところの文のみ覚えているのでございますが、天下の芥川を庇う文壇ジャアナリストらの方でも、同時に申し合わせたように、あの随筆のみは彼の全集にはおろか、何の小集にも載せることなく消してしまいました。おそらく、あの文を覚えている人、所持している人もないのではございますまいか。あれば解っていただけると思います。

 その後、大正八、九年の何月号でございましたか、淑女画報に左のような文が載りました。

 

[やぶちゃん注:奇異に感じる方がいると思うので述べておくと、以上で、「㈣」のパートは終わっており、次の「㈤」の冒頭は、その『淑女画報』なる雑誌に載ったとされる芥川龍之介の「僕の最も好きな女性」という短文(二段落構成)から始まっている。

「或る、それは冬の日」シークエンスの時制は、「火鉢に寄りながら」でなくてはならぬ「寒さ」なのであるから、十二月中下旬から三月中旬ぐらいか。「雑誌をひもといていました」「雑誌をひもと」くという謂いはやや古風であるが、しかし「ひもと」いているからといって、何かの調べもののために古雑誌を渉猟している、精査しているという意味であろうはずはない。以下の展開から見ても、これはその読んでいる当月発売の雑誌、遅くとも前月発売のそれを普通に読んでいると考えるのが自然である

「ふと、私は一文を読んだのです。そして、再三読み返したのです。繰り返し、繰り返し読みました。そして、流れ出る涙を押えることができなかったのでした」たまたま目に入ったある人の書いた比較的短い文章(「一文」はその意味である。だからこそ、その場で「再三」どころか「繰り返し、繰り返し」五、六度も「読み返し」すことが出来るのである)を見つけ、そうして花子は、その内容に胸痛み、止めどない涙を流した、というのである。

「あまりにも判然と」これは前文との倒置、「あまりにも判然と私は読みました」の倒置表現ではないと私は思う。その場合の「判然と」は意味が上手くとれない。何度も繰り返し読んでそこに書かれている内容を明確に認識し、読解したというのであれば、面白くもおかしくもない倒置穂法だからである。これは寧ろ、「私は」その人の文章を「読みました」、そうして「あまりにも判然と」記されてある事柄、余りにも露骨におぞましい内容が、そこに「判然と」、如何にもあからさまに書きつけられているのを、反芻するように何度も何度も読み返し、そうしてその意味を苦く知って、「そして黙ってしまいました」。しかし、そのままではやりきれなくて、誰に見せるでもなく、誰に訴えるでもなく、そうすることに何かの意味があるかというようなことにも思い至る余裕もなく、直ちにその印刷された『文の終わりに私は、「この悲しさに涙ながるる」と書きつけました』と述懐しているのである。

「彼の名声の日に日に上がるのを見、彼の業績の年ごとに重くなるのを知り、彼の家庭のいや栄えゆく様を聞いて衷心から喜びに耐えないのですが、この時の文面の悲しさ、憎らしさはどうすることもできませんでした。幾たびか確かめるように読み返し、よみ返してついにその雑誌を焼き捨ててしまったのでございます。私は黙りました。夫にも申しませんでした」この段落で、花子に衝撃を与えた文章が芥川龍之介自身の文章であったことが明示されてあると言ってよい。ここでも花子は、その文章をまた何度も繰り返し読んだとしている。さればこそ、その文章は花子の脳裏に刻みつけられ、それ以降、二度と目にしたことがない(ここがミソだが、本「㈤」末尾で花子が述べているように(「終わりのところの文のみ覚えているのでございますが、天下の芥川を庇う文壇ジャアナリストらの方でも、同時に申し合わせたように、あの随筆のみは彼の全集にはおろか、何の小集にも載せることなく消してしまいました。おそらく、あの文を覚えている人、所持している人もないのではございますまいか」)、意識的に見ようしないのではなく、物理的にそれを現在(本「芥川龍之介の思い出」執筆時点の昭和二五(一九五〇)年八月二十六日以降。「㈠」の冒頭参照)ではまず最早、誰も見ることが出来なくなっているというのである)にも拘わらず、そのないようの梗概は当然の如く記憶し(だから以下で書ける)、「終わりのところの文のみ」は明確に記憶しているのであろう

「忘れぬをかく忘るれど忘られずいかさまにしていかさまにせむ」「などいう古歌」これは「藤原義孝集」(この歌集の幾つかの歌は藤原実頼家集「清慎公集」に混入して実頼の歌と誤認され、現在もそう載せる記事があるようである)に載る、

 

 忘れぬをかく忘るれど忘られずいかさまにしていかさまにせむ

 

である。初句を「忘るれど」とする一本がある。この歌は「源氏物語」の第三十帖、我が道を行く女玉蔓絡みのすったもんだの「藤袴」に出る、式部卿宮の左兵衛督が慕う玉蔓の入内に憂えて詠む、

 

 忘れなむと思ふもものの悲しきをいかさまにしていかさまにせむ

 

がインスパイアした元歌と考えられている。

   ★

「私は黙って涙を流したのですが、やはり、とうとう事件が持ち上がってしまいました。或る宵のことですが、夫は浮かぬ顔をして帰宅いたしました」「芥川君はね。〝佐野さん〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。新潮誌上でね。今日、学校でそれを読んだ。学校当局も問題にしているよ」このタイミングは、花子が前のシーンで雑誌を読んだ時から、長くても一、二週間、早ければ、数日(五、六日後)と考えるのが自然である。そもそもがある雑誌に発表された内容がスキャンダルとして燎原の火の如くに拡散し、衆目の好奇心を集め、社会的な問題に発展しそうになるのは、発売直後の二、三日をピークとして一週間程度であろう。とすれば、この「或る宵」も、そのスパンの中にあると考えて問題ない。さても問題は、ここで与えられた、以下の二点である。

 

①その佐野慶造をカリカチャライズし、「悪口を書いている」という文章の題名が「佐野さん」であること

②その「佐野さん」が掲載されたのは雑誌『新潮』であると明記されていること

 

の二点である。『新潮』は現在も続く、新潮社発行の月刊文芸雑誌で明治三七(一九〇四)年創刊である。

 ①について結論を述べると、

 

●芥川龍之介の作品(小説・随筆・短評・アンケート回答を含む)に「佐野さん」と題するものは存在しない。

 

これと、以下の驚天動地の内容芥川龍之介がこの件について海軍機関学校に謝罪に訪れその「佐野さん」と言う実録(風)随筆(以下の叙述からそうとしか読めない)が載った『新潮』が世間から完全に消え去り(販売された全冊が図書館などからも総て回収されたとでもとらないと成立しない事態である)、しかも現在までに出版された如何なる全集にも、その「佐野さん」なる作品は収録されていない、というのである。しかし、もし、ここで佐野花子が言っていることが総て事実であるとしても、現在のようなスキャンダルへの異常な嗜好を持った「噂社会」にあっては、それは全集に当然の如く収録されるはずであり、仮にそうでなかったとしても(この程度の内容ではそういう全回収・全廃棄・なかったことにするなどということは完全に永遠にあり得ぬ話であることは言うまでもない)、必ず、鵜の目鷹の目の有象無象のアカデミックな専門研究者や私の如き「龍ちゃん」フリークが、鬼の首を獲ったように探し出してきて、論ずるに決まっているのである。

 さて結局、佐野花子の「芥川龍之介の思い出」が芥川龍之介研究に於いて「トンデモ本」の如くに葬られてしまい、語ることもタブーというより、私に対してある芥川龍之介研究者が言い放ったように「妄想に附き合う君自身の頭が疑われるよ」的な扱いを受けるものとなったのは、偏えにこの叙述部分に主原因がある(後は、後半部で花子が自身こそが芥川龍之介の「月光の女」の真のモデルだとする拘りであろうが、これは私にはそれほど変奇異常な主張だとは感じていない。それはまたそこで論じる)

 そうした花子の精神の変調を疑い、妄想として差別する連中が致命的に誤っているのは、この「佐野さん」の一件を妄想と片付け、一事が万事で本叙述全体の資料価値を無効とする烙印を押して、黴臭い書庫の底に投げ去った行為にあると私は考えている。この佐野花子の「芥川龍之介の思い出」を真剣に考証しようとしないのは、間違っている、といよりも、勿体ない、と私は真剣に感じているのである。少なくともこの「㈤」の、私が「その1」とした部分までの内容を読まれ、そこに精神疾患に基づくような全体に感染が及んだ重大な大系的妄想があるように読まれた方は、私は一人もいないと存ずる。もしおられたなら、あなたはここで私の注も佐野花子の後の本文も読むのを、おやめになるのが最善である。あなたは、自分が神のように健全で、唯一明白で、自身の感覚と知だけが真理だと思う救い難い人間だからであり、そういう人間は佐野花子はおろか、芥川龍之介の実相にさえ近づくことも永遠に出来ぬと断言出来るからである。

 前置きのように述べたが、私は実は既にある、推理をこの「佐野さん」にはしているのである。それが最初にもリンクさせた、

 

『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』(二〇〇七年二月一日の記事)

 

である。そこでの結論を言えば、ここで言う、

芥川龍之介が書いたとする実録物「佐野さん」=「さのさん」

とは、

芥川龍之介が書いた実在する小説 「寒さ」 =「さむさ

ではないか?(発音の類似性に着目されたい)

という推論である。

 小説「寒さ」は大正一三(一九二三)年四月の雑誌『改造』を初出とし、同年七月に新潮社から刊行した第七作品集「黃雀風」に再録された。私の作った正字正仮名の電子テクスト版があり、短いのですぐに読めるので参照されたい。短時間で何度も「繰り返し」読めるほど短い。原稿用紙でたった十二枚半しかない。

 その前半に登場する物理教官宮本は、最早、疑いようなく、海軍機関学校時代の同僚であった佐野慶造その人である。「寒さ」冒頭の「口髭の薄い脣に人の好い微笑」(原本に写真版で載る大正七年撮影の写真(慶造と花子と赤ん坊の長男清一が写っている)を見る限り、彼の口髭は濃いといえない)とは、芥川龍之介にしては、明らかに悪意と皮肉に満ちた表現であることが、これ、読み進めると判明してくる。以下の、人間の男女の性愛に演繹した『傳熱作用の法則』を得意気に語る宮本のシークエンスは、まさに佐野慶造が本章で言っている、『つまり、物理学なんてやっている人間の非常識な野暮ったい面を突いて強調したような書き方なんだ。ぼくも自分のことながら、なるほどなあと思って可笑しくなったぐらいだ。芥川君のような文学者から見たら、可笑しく見える要素が多分にあるのだろうな。お前から見たって、ああ見えるかも知れないなあ。』という台詞と完全に一致する内容である。

 さて。本書の慶造の花子への台詞を今一度、見て貰いたい。

 

――芥川君はね。〝佐野さん〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。――

 

読者のあなた! これを声に出して、自身が慶造になったつもりで、穏やかに言ってみてみて貰いたい。

そうして次に、以下の台詞を同じように言ってみて貰いたい。

 

――芥川君はね。〝寒さ〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。――

 

花子は読んで焼き捨てて以降、そのおぞましい作品を読んでいないと言っている。

彼女はあのシーンでその作品題名を記していない。

花子がその作品の名前を、内容の衝撃性から受けた強いトラウマによって、亡失したとしてもおかしくはない。そのようにさえ、見えるじゃないか! しかも実際の小説「寒さ」は読まれる判るが、後半は女性の読者ならトラウマになりそうな、凄惨な踏切り番の轢断死の近くを保吉は通るのである!

以下、現在も私は『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』で考えたことを変更する必要を感じていないので、以下、ほぼそのまま、そこで書いたことを繰り返す。

 ここに至って僕は、幻の「佐野さん」という作品は、実は、この小説「寒さ」であったのだという強迫観念から逃れることが、最早、全く出来なくなっていると告白する。

 勿論、これには大きな問題はある。それは発表雑誌が『新潮』であるという齟齬がある。しかし、多くの雑誌をその発表舞台としていた芥川のことを考えれば、ここでの誌名の記憶違いは容易にあり得よう。但し、佐野花子は耳にタコが出来るほど、粘着的に雑誌『新潮』」の名前をこの本の中で繰り返している(いやだからこそ、この齟齬は実は佐野花子の確信犯的誤認認識(所謂、強烈な思い込み)とも思える部分があるのである)。因みに、「寒さ」が再録された作品集「黄雀風」の出版社は「新潮社」なのである。更に言うなら、後年、この佐野慶造と芥川龍之介を巡る佐野花子の話を元に、田中純が創作した小説「二本のステッキ」が載ったのは(この話は実は本「芥川龍之介の思い出」の終りの方で実際に花子の言葉で語れる)、昭和三一(一九五六)年二月の『小説新潮』だったのである。

 しかし、僕がこの推理を「強迫観念」と言う所以は、次のような一大齟齬が存在するからである。佐野花子は以下、次のように書いている。『あれ程、夫に対して理解のあったと思う彼が、夫のことを、/「この男が三十を過ぎて漸く結婚できると有頂天になっているのは笑止千万だ。果してどんな売れ残りがやって来るのやら」/と結んであるのですが、これは私を見る前の文です。ずい分、前のことを書いたもので、それだけに顔を合わせていた期間の短かくないことを思うと余計腹立たしいのです。題も明らかに「佐野さん」とあるのです。新潮誌上に麗々と本名を使って発表した随筆。あまつさえ夫を見る影もない変な男とし、そして刺し殺すほどの憂き目に合わせていました』。勿論、これはどこをどう読んでも「寒さ」に、このように読める箇所は、存在しない。そもそも、「寒さ」の物理教官宮本は結婚しているのである。

 そうして、芥川のその「佐野さん」なる作品の文章に対し、花子は『どのような皮肉冗談にも必ず伴う礼儀好意の片鱗さえ影を潜めてしまった文章』であり、『誹謗冷笑に満ちた文辞には改めて茫然としてしまう』ほど、『ムキ出しに書いた』もので、『名前を本名にし、世間の昼の光の中にさらけ出してしまっている』と続けているこれが、「佐野さん」なる作品の文体・叙述の特徴であることは押さえておきたい。そうして、それは凡そ、「寒さ」を批評する言辞としては、機能しない、お門違いな評言であるのである。

 再度、言う。「佐野さん」なる作品は存在しない(国立国会図書館で『新潮』のバックナンバーを調べればいい、と私に言った方がおられるが、私は未だやっていない。というより、実在するなら、誰かがそれもやっており、見当たらないことの証左なのだと思い込むこととしている。私は最早、それほど、何でも出来るような身の自由な人間では、最早、ないのである)。それが存在していると信じている佐野花子は、明らかに思い違いをしている。その思い違いは確かにやや妄想的な体系的構成力を持ったものとして、その周縁的な仮想事象をも生み出している。それは精神病理学的には病的と呼び得る部分は確かに、ある。しかし、それはまた、本電子化の最後で病跡学的に考察したいと考えている。

 しかし――それでも――私は――佐野花子の語りに――心から耳を傾け続ける。今後もずっと――である。

   ★

「この男が三十を過ぎて漸く結婚できると有頂天になっているのは笑止千万だ。果たしてどんな売れ残りがやって来るのやら」このような文字列を芥川龍之介の作品の中に見出すことは出来ないし、芥川龍之介が対象者を明確にして随筆でこんな文句を書くことは到底、考えられない。

『題も明らかに「佐野さん」とあるのです』ここで初めて自律的にその作品の題名を「佐野さん」と同定している。これは、寧ろ、夫慶造の先の台詞から、その題名を、そう理解した、思い込んだ、と理解することも、ごく自然であると私は認識する。

「夫はよくこれを読んで怒らずにいられたものと思います」私も、彼女の言う「佐野さん」が存在し、そこに、以上で述べたような叙述があるのなら、その通りである。怒らぬ方がおかしい。怒らないのは何故か? 逆にそれは、花子が言っているような、花子が誤認しているような、以上に記されたおぞましい叙述が、とりもなおさず、ない、ということの証しなのだとは言えないだろうか?

「また、常に如何なる情熱が兆そうとも氷のような冷やかさ押え得る彼の性格。その彼にしてなんと不可解な仕打ちであろう。どのような皮肉冗談にも必ず伴う礼儀好意の片鱗さえ影を潜めてしまった文章でありました」この最初の一文の「彼」は突然、芥川龍之介になっていることに注意されたいこの表現転換には、ちょっと奇異なものを私は感ずる激した心因反応によって、冷静に対象を認知分析し、叙述しようとする姿勢が、花子から失われている印象を私は受けるのである。

「誹謗冷笑に満ちた文辞には改めて茫然としてしまうのでした。人の好い夫、善良な夫は、彼のニヒルの笑のかげには愚鈍な間抜けとして描かれて行くのでした。そこには世間と文学との一線が見られました。一たん、その座につくや、彼の眼は既に彼自身の眼になるのです。思い溜めていたことが一度に角度を変えて変貌してしまうのです」ここも同様。夫慶造と芥川龍之介の置換が、読者への配慮を無視して、突然、変換しているのである。

「あきらかに彼は夫を憎んでいました。これを第一として、のちに抒情詩の中に、歌の中に夫らしき男が嘲笑され、刺し殺したいばかりの思いで点在しました」所謂、遺稿の「澄江堂遺珠」のことを指している。それは後掲されるので、そこで問題にする。なお、私は「澄江堂遺珠」については、別のブログ・カテゴリ「澄江堂遺珠」という夢魔で今も追跡し、探索し、考証している最中である。

「今日、芥川君が学校に来た」「例の新潮の随筆の件で謝罪に来たのだ。学校で手を廻したことと見える。芥川君は、学校当局にも、ぼくにも謝罪をしてね、以前のような元気はなく帰って行ったよ」こうした事実は現在の最新の年譜上の記載にも一切、見当たらない

「かげながら芥川君の成功を祈るとしょう」「しょう」はママ。

「機関学校の校長はじめ一同があの文を読んで憤慨し、芥川を呼びつけて謝罪させた」私はこの件に就いては、別な作品(「佐野さん」でない「寒さ」ではなくて、という謂いでである)なら、あり得ることと実は考えている。それはやはり、『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』で述べたのであるが、大正一二(一九二三)年五月の雑誌『改造』に載せた芥川龍之介の「保吉の手帳」(後に「保吉の手帳から」に改変。リンク先はその初出形の私の初期の電子テクスト)である。例えば、その冒頭の「わん」に登場する愚劣極まりない海軍機関学校主計部主計官の粘着質な描写「午休み――或空想――」に於ける「ファウスト」よろしき機関学校総体の完膚なきまでのカリカチャライズ「西洋人」及び「恥」の学校の教師(自身も含めた)・生徒の存在の、蛇のように耐えがたいダルの感覚「勇ましい守衛」の実直と卑小の入り混じった大浦守衛への意地悪い笑みである。――そのどれもが、海軍機関学校がゆゆしき問題とし、また、謝罪を要求したとしても尤もな内容と言ってよいのである。

「焼き捨ててしまった例の新潮はその後、一冊も眼にふれることなく、また、見たいとは思いませず、終わりのところの文のみ覚えているのでございますが、天下の芥川を庇う文壇ジャアナリストらの方でも、同時に申し合わせたように、あの随筆のみは彼の全集にはおろか、何の小集にも載せることなく消してしまいました。おそらく、あの文を覚えている人、所持している人もないのではございますまいか。あれば解っていただけると思います」既に述べた通り、これは明らかに一読、現実的事実的な印象を感じさせない、かなり普通でない印象を受ける。精神的にやや正常でないという感じを私は確かに受けるのである。言わせて貰うなら、私が高校教師時代の経験上から痛感することなのである。不定愁訴を訴える生徒や親との会話の中で『これはちょっと普通でないな』と感じた語り口と、花子のこの箇所の言い方は酷似しているのである。それら私が不審を抱いた生徒や親は、実際、残念なことに、それは私の杞憂や思い違いではなくて、事実、ある種の発達障害を抱えていたり、強迫神経症や統合失調症の前駆症状であったことが実は非常に多かったのである(私は概ね、彼らには相応しい医療機関を紹介して事なきを得たものが多かったが、私の力が至らずに不登校になって退学したり、精神病が悪化して配偶者から離縁された親もいた事実もあったことを告白しておく。教師は精神科医ではないが、しかし、そうした相手を上手く導けなかった体験は今も慙愧の念に堪えない)。そうして、また、必ずと言っていいほど、彼らは非常に迂遠な語りの最後に、『あなたにはそれが分って頂けないと思いますが、絶対に今お話ししたことは紛れもない事実なのであり、私だけしかそれが真実であることは分らないのです。あなたにそれを知れる証拠をみせれば、必ず「解っていただけると思います」、だから私はその証拠を探して先生(或いはそれは学校や警察や市役所や日本国政府であったりする)にお示ししたいと思います』といった絶対的な断定と断言をするのが常であったのである。前にも述べた通り、この佐野花子の一連の心因反応(閉じられた系の中では絶対に真理と信じて疑わない傾向)に就いては後半で考察をする。

「その後、大正八、九年の何月号でございましたか、淑女画報に左のような文が載りました」冒頭で述べた通り、次の「㈤」の冒頭にそれが載る。こうした章立て構成の切り方はは、やや奇妙である。事実記載をしている雰囲気というよりも、創作小説の連載で、次回に期待させるような、如何にもな書き方であり、私は生理的には不快を感じる章末である。]

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その1

 

       ㈤

 彼を神経質な人と私は申しましたが、その上に影のような暗さが尾を引いていると思うことは、やはり拭い去れない事実でございました。

 「煙草と悪魔」を携えて、或る宵のこと、暗欝な表情で彼はやって参りました。当方からお招きしたのでございましたが、丁度、すぐ、雨になりました。濡れないで来られたこと喜ぶでもなく、窓際へ行ってガラスに顔を押しつけて外を見ていられますが、灯を背にした彼は、ひどく力なく肩を落して、からだ全体で泣いているかのように見えるのでございます。私はなぜか、ドキンと胸を打たれて、それでも牛鍋の用意や燗の仕たくにまぎらしておりました。

 「もう、何でも構わず結婚してしまおうかと思うのですよ」

と彼は座に返って来て言いました。極めて難かしいことをいう彼に、いよいよ理想の婦人が見つかったのであろうと喜ぶには、なんと暗いことば、暗い表情でありましたろう。

 「ぼくは、それに、どうも神経衰弱で」

とも言うのです。

 「それは、早く美しい奥様をお迎えになればよいことなのですわ。お可愛らしいお子様もできてごらん遊ばせ。神経衰弱なんてものは飛んでってしまいますよ。家庭の楽しみというものは、あなたのように孤独な方が思っていらっしゃるより、ずっとあたたかいものでございましてよ」

と、私はお酒をすすめながら申します。夫も同じ考えですから、

 「そうとも。そうとも。ぼくだって三十まで独身でいて、下宿生活をしていたので、それで言えることなんだが、結婚すると、その今までの空虚だった心が薄らいで行くのは妙なものなんですよ」

 すると、彼は力ない中にも元気をしぼるふうで、

 「そら。そこのところですよ。あの頃、ぼく、小町園で申し上げたでしょう?あのことばね。まさに適中ですよ。あなた方のご結婚が非常によいご結婚だったから、このようなよい結果が生まれたんですよ。それは確実ですね。しみじみ佐野君のために喜んでるのです」

 相手のしあわせを祝し、同時に自分の将来を計算して力の出しようのない様子に見えるのを私は案じました。やはり、さきほどのことば通り、進まぬ気持ちで、周囲に押され、とにかく、なんでもいいから結婚してやろうと思っているようでした。その証拠に、次のようなことを彼は申しました。

 「結婚後、自分の理想とまったく相反した状態になったら」

と、口を切って、

 「ああ」

と、ためいきを洩らし、そして一気に言いつづけたのです。

 「あなた方はおしあわせですね。ぼくが、もし、結婚したとして、その婦人がことごとに自分の気に入らなかった場合、実に悲惨ですね。ぼくは果たして恵まれた家庭を持てるのでしょうか」

 「どうしてそういうふうにお考えになりますの?そんなことはありません。あってはいけません。あなたの奥様になりたい人は、一ぱいなのですもの。候補者が山ほどあって、選択にお困りなのでしょう。早くいい奥様をお持ち遊ばせ。そして今度は私ども笑いに羨やましがらせて下さいまし。そして、一そう近しくしていただきたいのが、私どもの願いでございますもの。こちら二人で、芥川様がお一人でいらしては、物足りなくていけせんものね」

 夫もこれに相槌を打って励ましたのですが彼はそれでも沈んでいたのでございます。私は気を引き立てるようにつとめ、

 「お決め遊ばす方、なんというお名前の方でいらっしゃいますの?」

と伺ってみましたが、お答え下さいませんでした。ただ、

 「ぼくは新婚旅行は、あなた方のように箱根へ行きますよ。箱根はいいですね。結婚したら、家内には奥さんから和歌を仕込んでいただきましょう。今からお願いしておきます」

 冗談も、まじめともつかぬ大仰な申し出で、私はびっくりするほどでしたけれど、ようやくこの宵のふんいきは微笑を生み、楽しさを呼んだようでございました。けれどもやはり哀感を伴う影がありまして、お帰りになるうしろ姿も初めのときのように寂しいものでした。

 その後、彼は私ども夫婦の住んでいる海岸の近くに居を転じました。学校も近くなった場所で、その家を探しましたのは私でした。彼のため、よいところをと一心に探し当てました。

 しかし、やがて私は初産も軽く、母となり、彼は彼で、美しい婦人を娶り、新居は更に鎌倉に構えられました。

 新夫人を伴った彼の訪問を受けたのも、まだ私の産褥中でありましたので、夫だけが、にこにことして彼らを迎えましたのです。私の初産のため郷里から出て来た母は、私に代わって何くれとなくもてなしていました。夫と母とは美しい客を送り出してのち、私の枕元へ参りまして、口を揃えて、お似合いのご夫婦だというのです。母などはすっかり感動してしまいまして、

 「まあ。なんてご立派なご夫婦でしょう。信州などではとても見られませんよ。だんな様はお背が高く、すっきりとした瘦せ型。ハイカラというのは、ああいうふうを申すのでしょうね。奥様は、また、ふくよかな本当に美しい方。お似合いですとも」

 私は嬉しいような悲しいような涙ぐましさを覚えました。いよいよ芥川さんも結婚なさったのだわ。そして、自分は母になったと何か一安堵の思いで眼を閉じたのです。

 

 汲み交はすその盃に千代かけて君がみ幸を寿ぎまつる  花子

 

 とはそのときの胸中に浮かんだ歌でございました。

 或る日、帰宅した夫は、今度は当方から芥川君の新居をお祝いかたがた訪問することにして来たと申しました。私は子供連れでたいへんだからと、ためらっては見ましたもののやはり夫の意見に従い、出かけることにいたしました。

 新居は松原を背に茂る青葉に包まれた小ぎれいな構えでございました。門辺には大きな芭蕉の葉がそよいでおりました。

彼は私ども一家揃っての訪問を心から待ち受けて呉れておりました。新夫人も初めての挨拶を私に与えられ、都育ちのあでやかさを清楚に整えた初々しさで若紫ということばにも例えたい佳人でいられました。この新妻のもてなし振りに私はすっかり嬉しくなり、しまいには初対面ということも忘れて寛いでおりました。私の田舎育ちの荒さや、女学校時代のスパルタ教育の名残りがどこかに出るようで、注意をしながらもはしゃいでしまうのです。彼の方は今日の訪問客のために髪を洗い、仕立て下ろしの浴衣を着て、すがすがしさを身につけた感じでした。若主人振りを私は心中まことに可愛らしいと思ったのです。

 「実は今日、親友、久米正雄をご紹介しようと思いましてね。もうすぐ来ることになっているんですよ。どうぞ、夕方までおくつろぎ下さい。赤ちゃんは女中さんと海岸へでもおやりになっては如何ですか。うちの女中もお伴させますよ」

と、しきりに引きとめられたのですが、子供連れであり、初めての外出でございましたので、名残り惜しくも、頃よい時に辞去することになりました。

 考えればこのときが、あとにも先にも、私にとっては彼を訪う一度の日だったのです。

 ついでに思い出を書きますと、このとき、彼から贈られた初着は、男の子の柄ですから如何にも、すかっとした、見立てのよいもので、私自身がすっかり気に入り、実は、主人を通して彼の承諾も得てありましたが、私の羽織の裏に使わせていただくことになったのです。

 機関学校では各々に子供誕生の折りには、初着用三丈の布を贈り合うことになっていたのです。彼もその規則にしたがって、彼自身の見立てで贈ってくれたのでございました。

 また、当方からのお返しには、お盆をそれぞれ送りましたが、まだ、独身の彼のみは、お盆でも困るだろうとの話が、うちうちに交わされまして、主人と私で、お誘いかたがた横須賀の町でご馳走し、「さいか屋」という店で財布を買って差し上げ喜ばれました。財布は使って下さった由。羽織裏は長く、色あせるまで使用いたしました…………。

 彼はそれから創作一路に東京へ去って行きました。 

 

 帰らなんいさ草の庵は春の風  龍之介 

 

 墨痕あざやかにしたためられた、彼の愛著<傀儡師>を記念にと私に手渡して行きました。遠く離れる儚なさを私は悲しみましたけれど、彼の前途のため、それは祝うべきことであると思いきめましたのです。

 「啓。その後暫らくごぶさたしました。皆さん。お変わりもございませんか。私は毎日、甚だ閑寂な生活をしています。時々、いろんな人間が遊びに来ては気焰をあげたり、のろけたりして行きます。ところで横須賀の女学校を昨年か一昨年に卒業したのに岩村京子という婦人がおりましょうか。これは奥様に伺うのです。もし、居たとすれば、容貌人物など大体を知りたいのですが、いかがでしょう。手前勝手ながら当方の名前が出ない範囲でお調べ下さればあり難いと存じます。 

 

 この頃や戯作三昧花曇り  龍之介」 

 

という彼の通信に接し、私は真心をもって、調査に当たりました。そして、彼の悠々自適の生活を心から礼讃し祝福した手紙を夫と共にしたためて送ったのでございました。

 この調査の要は何のためであったか、そのままに知らず過ぎてしまいました。が、とにかく、遠く離れても、私どもは彼に寄せる手紙によって、また、彼から来る手紙によって彼との交友の深まりを願い、特別の心情をねがうばかりでした。それゆえ、かえって、この交際は末長くつづくであろうことを確信しておりましたのです。 

 

 心より心に通ふ道ありきこの長月の空の遙けさ 花子 

 

 とは、その当時の私の心境を歌ったものでございます。

 彼が少し健康を害したことがありまして、私どもは案じて見舞状を出したこともございました。

 「お見舞ありがとうございます。煙草をのみ過ぎたことが、わざわいして咽喉を害し甚だ困却しています。しかし、もう大部よろしい方ですから、はばかり乍らご休心下さい。 

 

 病間やいつか春日も庭の松  龍之介」 

 

という返事をもらって胸なでおろす私でもございました。

 その後、彼から男子出生の吉報を得て私どもは、取り敢えず、その町における最上という赤ん坊の帽子と、よだれ掛けを心祝いに贈りました。応えて、あの可憐な夫人より丁重な礼状が届けられましたが、不思議なことにそれきり、まったく、それきり、私どもの寄せる音信にも、なしのつぶての、たった一度の返信さえも来なくなってしまいましたのです。一たい、これは、どうしたことでございましょうか。何か自分たちに落ち度でもあったのではないか、失礼なことでもしたのではないかと、いくら考えて見ても更に解らないのでございました。なんとしても腑に落ちないことでございました。

 突然に音信の絶えたこと、いろいろに考えあぐねて見ますが、夫は、ただ、創作生活一本にはいって、創作に忙しいのだろうと、あっさりしておりますが、私の方は、どうにも収まらない気持ちで一ぱいになるのです。

 つきつめて考えれば、私も彼を好きでたまらないわけでございました。今までの心的交友のあり方が、私の心を高揚した友情に慣れさせ、急に外されると、どうしてよいか解らない気持ちにさせました。こうなって初めて私は友人として彼をどのように好きであったかを知りました。ユーモアと機智に富んだ話し振りや、薄く引き締まった唇。長い睫の奥に輝く漆黒の瞳。時には、じっと見つめる面ざしの、はかり知れぬ深さ、対座していると、どうにも引き入れられずには居られなかったのでした。

 「奥さん」

と声を掛けられると、無口な私も一心になって、身構えして太刀打ちすべく彼に向ったものでした。うっかりしていると、きらりと刺されそうな恐れに対しての身構えでした。

 「奥さんには適いません。インテレクチュアルですから奥さんは」

と勝利の上にいても彼は冷かすように私をほめるのを忘れませんでした。

 私が丸髷に結って見た折り、彼は来訪して来たことがあり、それをたいへんにほめまして、夫にも、

 「佐野君。ぼくなら丸髷に結わせるためにも、女学校の教師などは止めさせますがね」

と言いました。午前中だけ町の女学校に教えに行くのさえ、あまりお気に入らなかったようです。……とにかく音信の絶えたこと……。

 今こそ打ちのめされた思いでした。それから時が流れ年が逝き、夫も外遊をして、約束のステッキは買って来ましたものの、手渡すこともできない間柄になってしまったのを、どうしようもありませんでした。それほど絶えて音信も友交関係も切れてしまいましたのです。境遇が変わったことが、まず第一の条件でもありましょうか。すっかり先方は専門家の生活環境にはいられたのですから。それにしても年賀状一枚来なくなってしまいました。

 

[やぶちゃん注:ここは本「芥川龍之介の思い出」の「㈣」の中間点(より少しだけ後ろ)であるが、この直後に非常に重大な事件が発生する転換点があるので、特異的にここで注を挟むこととする(文章は実際には空行もなく、上記の段落の後、改行して「或る、それは冬の日のことでした。私は火鉢に寄りながら雑誌をひもといていました。」(改行)「ふと、私は一文を読んだのです。そして、再三読み返したのです。繰り返し、繰り返し読みました。そして、流れ出る涙を押えることができなかったのでした。」と、そのまま続いている)

「煙草と悪魔」前の「㈢」で注した通り、これは大正六(一九一七)年十一月十日刊行(新潮社)の第二作品集「煙草と悪魔」の佐野慶造への献本で、その見返しに芥川龍之介自筆の前書附きの三句(「龍之介」の署名もある)が載る(これも前に述べたが、この三句は他に類型句のない驚天動地の新発見句であり、その筆跡は明らかに龍之介のものである)。底本の冒頭写真版で現認出来る。因みに、同作品集の所収作品は「煙草と惡魔」「或日の大石藏之助」「野呂松人形」「さまよへる猶太人」「ひよつとこ」「二つの手紙」「道祖問答」「Mensura Zoili」「父」「煙管」「片戀」の十一篇である。最後の「片戀」(かたこひ)は飲み屋の女中「お德」が「活動寫眞」(映画)の俳優に片思いを抱いたという小品(芥川龍之介と思しい「自分」が「京濱電車」の中で「親しい友」と逢い、そこで彼が語った話という設定)であるが、私はその末尾で「お德」の謂ったと言う台詞、『みんな消えてしまつたんです。消えて儚くなりにけりか。どうせ何でもそうしたもんね。』、それを友人が「これだけ聞くと、大に悟つてゐるらしいが、お德は泣き笑ひをしながら、僕にいや味でも云ふような調子で、こう云うんだ。あいつは惡くすると君、ヒステリイだぜ。」「だが、ヒステリイにしても、いやに眞劍な所があつたつけ。事によると、寫眞に惚れたと云ふのは作り話で、ほんとうは誰か我々の連中に片戀をした事があるのかも知れない。」と語る末尾を、私は何故か、ここでふと、思い出した。この後の方で花子が「遠く離れる儚なさを私は悲しみました」というのと響き合うような気がしたから。「片戀」は大正六(一九一七)年十月発行の『文章世界』を初出とするが、作品末には『六、九、十七』のクレジットがあり、これは実に芥川龍之介が横須賀に転居した三日目に当たる

「そら。そこのところですよ。あの頃、ぼく、小町園で申し上げたでしょう?あのことばね。まさに適中ですよ。あなた方のご結婚が非常によいご結婚だったから、このようなよい結果が生まれたんですよ。それは確実ですね。しみじみ佐野君のために喜んでるのです」これは「㈠」の小町園での、「さて、ご説明申し上げましょう。よい奥さんを持たれて羨やましい。心ひかれる女性だ……とこういう意味ですよ」という龍之介の言った言葉を指す。

「ぼくは新婚旅行は、あなた方のように箱根へ行きますよ」芥川龍之介は新婚旅行で箱根に行った記録はない。新婚旅行自体をしていない模様である。

「その後、彼は私ども夫婦の住んでいる海岸の近くに居を転じました。学校も近くなった場所で、その家を探しましたのは私でした。彼のため、よいところをと一心に探し当てました」「その後」とあるのは記憶違いであろう。芥川龍之介が鎌倉から転居し、横須賀市汐入の資産家尾鷲梅吉方の二階の八畳に間借りしたのは、前注で示した通り、大正六(一九一七)年九月十四日で、「煙草と惡魔」の刊行は大正六(一九一七)年十一月十日だからである。作者用の出版前献本としても、二ヶ月前以前にそれが出版社から届けられ、それを贈呈した可能性は考え難いからである。なお、横須賀の間借り住居を花子が探したという事実は知られていないが、あっても当然で、自然なことである。

「彼は彼で、美しい婦人を娶り、新居は更に鎌倉に構えられました」文とは大正七(一九一八)年二月二日(龍之介は満二十五(彼の誕生日は三月一日)、文は満十七)で田端の自宅で式を挙げ、自宅近くの「天然自笑軒」という会席料理屋で披露宴をしているが、佐野夫妻は出席していない(呼ばれていない)ものと思われる。なお、これは花子が出産直後で、彼女が出ていないのは自然であるが、慶造は呼ばれてもおかしくないのに、出席していない様子なのは、やや解せない。二人が当時の鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構え(女中と三人のみ)たのは一ヶ月後の三月九日である。因みにこの間、二月十三日に芥川龍之介は機関学校教官のまま、大阪毎日新聞社社友となっている(社の定額給与分(原稿料は別)は月額五十円であった)。

「私は嬉しいような悲しいような涙ぐましさを覚えました」産褥中とは言え、全く逢っていないのは少し不自然である気はするが、この感懐などは後発性のマタニティ・ブルーとして腑に落ちるし、直後に「いよいよ芥川さんも結婚なさったのだわ。そして、自分は母になったと何か一安堵の思いで眼を閉じたのです」と落ち着いており、言祝ぎの一首を胸中に詠むなど、特に奇異とは私には思われない。

「門辺には大きな芭蕉の葉がそよいでおりました」以前にも注で述べたが、私の父方の実家は川を挟んで、この小山別邸の向かいにある。小さな頃、その実家の川向うに実際に私は芭蕉を確かに見た記憶があるのである。

「この新妻のもてなし振りに私はすっかり嬉しくなり、しまいには初対面ということも忘れて寛いでおりました。私の田舎育ちの荒さや、女学校時代のスパルタ教育の名残りがどこかに出るようで、注意をしながらもはしゃいでしまうのです」当時の花子は満二十三か二十二で、文より五、六歳年上である。

「実は今日、親友、久米正雄をご紹介しようと思いましてね」この時、花子は久米に逢わなくてよかったと心底、私は思う。久米正雄は漱石の長女筆子との失恋と筆禍事件などで判る通り、異様に女に惚れっぽい男で、美貌の花子に逢っていたら、とんでもないことになっていたのは火を見るより明らかだからである。鷺忠雄氏などは「作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)で久米を『恋愛病患者』と断じてさえいる。

「彼から贈られた初着は、男の子の柄ですから如何にも、すかっとした、見立てのよいもので、私自身がすっかり気に入り、実は、主人を通して彼の承諾も得てありましたが、私の羽織の裏に使わせていただくことになったのです」これは、ごく当たり前のことである。私の産着も、亡き母は袱紗に仕立てて、亡くなるまで大事にしていた。

「三丈」着尺の一反に相当する。幅約三十七センチ、長さ約十二メートル五十センチほどが標準。正絹だと、かなりの値段がする。

「さいか屋」現在の「横須賀さいか屋」(現在の横須賀市大滝町にあるのは新館)ウィキの「さいか屋」(ここの創業者名表記には疑問があるので「ノート」に「創業者の表記について」の意見を書き込んでおいた)などによれば、創設者でかつての雑賀衆(さいかしゅう:鉄砲傭兵・地侍集団)の出自であった岡本伝兵衛が明治五(一八七二)年にここ横須賀本町に雑賀(さいか)屋呉服店を開業したのをルーツとする「さいか屋」の旧本店(後の吸収合併によって「川崎店」が本店となった)。因みに私は藤沢の「さいか屋」を幼少より贔屓としているが、お恥ずかしいことに、二十代の初めまで「さいかいや」とずっと発音し続けていたことをここに告白しておく。

「彼はそれから創作一路に東京へ去って行きました」芥川龍之介の海軍機関学校の退職は大正八(一九一九)年三月三十一日(二十八日が最後の授業。授業後職員室のストーブの中に出席簿や教科書などを放りこんで焼き捨てており、その幾分、尻をまくったような、さっぱりとした心境が次の詠となったとされる)で、翌四月二十八日に芥川龍之介は文とともに鎌倉を引き払い、終生の棲家となった田端の自宅に戻った

「帰らなんいさ草の庵は春の風  龍之介」表記はママ。「我鬼窟句抄」では、

歸らなんいざ草の庵は春の風   (學校をやめる)

とある。濁音を打たないのはごく当たり前のことで、誤りではない。

「墨痕あざやかにしたためられた、彼の愛著<傀儡師>を記念にと私に手渡して行きました」第三作品集「傀儡師」は大正八(一九一九)年一月十五日に新潮社から刊行されている。収録作品は「奉教人の死」「るしへる」「枯野抄」「開化の殺人」「蜘蛛の糸」「袈裟と盛遠」「或日の大石内藏之助」「首が落ちた話」「毛利先生」「戯作三昧」「地獄變」と名作揃いで、芥川龍之介の作品集中の白眉と呼んでよい。因みに、私は本作品集の「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」を公開している。是非、ご覧あれかし。

「啓。その後暫らくごぶさたしました。皆さん。お変わりもございませんか。私は毎日、甚だ閑寂な生活をしています。時々、いろんな人間が遊びに来ては気焰をあげたり、のろけたりして行きます。ところで横須賀の女学校を昨年か一昨年に卒業したのに岩村京子という婦人がおりましょうか。これは奥様に伺うのです。もし、居たとすれば、容貌人物など大体を知りたいのですが、いかがでしょう。手前勝手ながら当方の名前が出ない範囲でお調べ下さればあり難いと存じます。

「この頃や戯作三昧花曇り  龍之介」旧全集初書簡番号五三五。大正八年五月二十七日附で田端発信、佐野慶造宛。以下に示す。

   *

啓 御無沙汰致しました皆さん御變りもございませんか私は毎日甚閑寂な生活をしてゐます時々いろんな人間が遊びに來て気焰をあげたりのろけたりして行きます所で王橫須賀の女學校を昨年か一昨年卒業したのに岩村京子と云ふ婦人が居りませうかこれは奥樣に伺ふのですもし居たとすれば容貌人物等大體を知りたいのですが如何でせう手前勝手ながら當方の名前が出ない範圍で御調べ下さればあり難有いと存じます 以上

   この頃や戲作三昧花曇り

                 芥川龍之介

   佐 野 樣 侍曹

   *

「侍曹」は「じさう(じそう)」と読み、脇付の一つ。「傍(そば)に侍する者」の意で「侍史」に同じい。

「岩本京子」不詳。但し、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄」の大正八年の五月二十六日(本手紙の前日である)の条の末尾に、「受信、南部、岩井京子、野口眞造」とある。恐らく、愛読者として何かを書き送ってきた文学少女であり、出身校が花子の勤めていた汐入の横須賀高等女学校卒であったことに由来する依頼であろう(リンク先は私の電子テクスト注)。

「この頃や戲作三昧花曇り」の句は「餓鬼句抄」の大正七年のパートに、

 この頃や戲作三昧花曇り   (人に答ふ)

と出る旧句である。因みに、彼の名篇「戲作三昧」はさらに遡る大正六(一九一七)年十月二十日から十一月四日まで『大阪毎日新聞』に連載されている。

「心より心に通ふ道ありきこの長月の空の遙けさ 花子」大正八年の長月、九月となると、これは花子の思いとはうらはらに、芥川龍之介は、この月、かの後に蛇蝎のように嫌悪することとなる歌人秀しげ子への恋慕が急発(初めて出逢ったのはこの年の六月)、肉体関係を持つも、急速に失望していった月であったのである。この花子の透明な一首は、その爛れきった龍之介を知ってしまっている私には限りなく、哀しいものとして響く。

「お見舞ありがとうございます。煙草をのみ過ぎたことが、わざわいして咽喉を害し甚だ困却しています。しかし、もう大部よろしい方ですから、はばかり乍らご休心下さい。

 病間やいつか春日も庭の松  龍之介」前の書簡の時制とは前後する(別に徒然に古い記憶を思い出しつつ記している花子を責めるのは全く当たらない)。旧全集初書簡番号四九八。大正八年二月二十六日附で田端発信、佐野慶造・花子宛。以下に示す。

   *

御見舞有難うございます日頃煙草をのみ過ぎた事が、祟つて咽喉を害し甚困却して居りますしかしもう大分よろしい方ですから乍憚御休心下さい

   病閒やいつか春日も庭の松  龍之介

   *

「病閒やいつか春日も庭の松」の句は同日発信の松岡讓宛(旧全集初書簡番号四九七)で、同じく、煙草の吸い過ぎで喉を害して、発熱気味の由の記載の後に、

春日既に幾日ぬらせし庭の松

と異形を示す。私は「病閒やいつか春日も庭の松」の方がいいと思う。

「その後、彼から男子出生の吉報を得て」芥川龍之介の長男比呂志は大正九(一九二〇)四月十日に出生している(戸籍上は学齢を考えてであろうか、三月三十日生まれとして戸籍に入籍されてある)。

「インテレクチュアル」“intellectual”は意志・感情に対して「知的な・知性の優れた・理知的な」の意。

「それから時が流れ年が逝き、夫も外遊をして、約束のステッキは買って来ましたものの、手渡すこともできない間柄になってしまったのを、どうしようもありませんでした」既注乍ら、クドく拘って再掲する。これが後に、本書の内容を素材とした、田中純の小説「二本のステッキ」(昭和三一(一九五六)年二月発行の『小説新潮』初出)の題名となる。私のブログ記事『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』でも取り上げているが、来年二〇一七年一月一日午前零時零分を以って田中純に著作権が切れるので、来年早々には、このブログで「二本のステッキ」の全電子化をしようと考えている(TPPが国会で本年中に承認されようと、TPPの発効が行われない限り、著作権延長は出来ない)。]

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (四)

       ㈣

 

 機関学校の教官室は芥川龍之介とはやはり関係浅からぬ場所でございました。そして、独身でいるだけに彼の結婚話もやはりその場において重要味を帯びることがありました。

 夫は或るとき帰宅してこう申しました。

 「今日、木崎校長から文官一同へ話があったんだ。芥川君の縁談について、前々から話があったらしいのだが、校長はぼくと兵学校の同期で、日本海々戦で戦死した海軍大佐の未亡人から、娘の縁談について、相談と調査を兼ねての依頼があった。その忘れがたみなる令嬢は跡見高女とかに在学中で、来年三月卒業の予定だとさ」

 「あら。やっぱり、あのお話の方ですね」

 「そうらしいね。更に校長の言われるには、未亡人の話によれば芥川家からは頻りに早くと言つて来る由で、早くきめて式をあげてほしいそうだ。以前から校長もよく知った間柄ではあり、はっきり決めようと思うが如何なものか。なお、現在の芥川君の状況を知らせてくれと頼まれたから、どうか文官の諸君、ありのままに話してくれと言われるので、文官一同が芥川君なら大丈夫ですと太鼓判を押したわけだよ」

 「あら。そうですか。結構でございましたわねえ。あんな難かしいことばかりおっしゃっても、やっぱり、そのお嬢さまのこと気に入ってらしたのですわね。まずまず万々歳ではございませんの?」

 「そこで、なお、校長の言われるにだ。芥川家では大変急いでいて、もし、良いとなったら、今、婚約しておいて、来年早々、令嬢の卒業を待たないで、挙式したいと言ってるそうだよ。また、馬鹿に急ぐもんだな。善は急げというから、それは結構なんだが、お前が龍ちゃんに早く早くと言うものだから、そうなったのではないかねえ。まさか。そりゃ他にいろいろ事情があろうさ。いずれにしてもよかったよ。ねえ。あれほど善良にして気弱な芥川君を、いつまでも一人、下宿に放っておく手はないから」

 「本当ですわ。これで大安心というところですわ」

 こういう話がありましてから、その後またどうなりましたか、私どもには聞こえて参らず、暑中休暇がまいりました。大正六年の夏でございますが、東大文科に公開講演のあることを彼から伝え聞きまして、実は、夫と共にどこか温泉で過ごすつもりでおりましたのを、中止して、この公開講演に出席したいと夫に相談いたしました。一も二もなく承知してくれまして、その手続きは彼に依頼いたしたのでございます。彼は快諾してくれまして私もすっかり出席の気分になっておりましたところ、どうも気分がすぐれなくなり、つわりであることを確認されましたため、聴講の見込みはなく、温泉に行く元気は更になく、家に引き籠ることになり、又、取り消し手続きも彼に依頼するということになりました。大正六年夏と言えば、春に結婚して丁度、つわりになる頃であったわけで、彼の遊泳を見ながら海岸に佇んだ日はこの少し前になるのだと回想いたします。私は暑い夏の毎日を、家にごろごろしておりましたが、彼が次のようなことを話してくれたのを思い出したりしておりました。

 「これは結婚問題とは別なことですがね。横須賀の女学校の、あの、ねずみ色の制服を実は、ぼく、あまり感心しないのですが、あの制服を着て汽車通学しているお嬢さんに素晴らしい方がいますよ。いいなあと思って見ている間に、この程、ぼく、無意識にお辞儀をしてしまったんです。あとでハッとしましたが、もう、取り返しはつきません。大失敗をやっちやった」

 「おや。どこから乗りますの?」

 「逗子からです」

 「どんなふうなお嬢さん?」

 「背五尺とちょっとかな。容姿が実にすんなりしている。あんな木綿縞の制服を着ていて、それで又、実にすばらしいんですから大したものですね。足は恰も、かもしかのようなんです」

 「顔は?」

 「優しい愛嬌顔に眉が美しく、眼も亦、美しい黒眼勝ち。鼻がちよっと上を向いてますけど」

 「ああ。教え子の鈴木たか子ですわ。実科二年で成績もよく温和なお嬢さんですよ。あなたにお辞儀されて光栄と思っているでしょうねえ」

 「どういうところのお嬢さんか、わかってるかい?調べてごらん。汽車通勤も亦楽し、か」

 そうかと思うと、こんなこともありました。

 「ぼく、この程、令嬢中条百合に会いましたよ。よく勉強してるらしいんですが、ぼくと初めて会うというのに、派手な友禅の前掛けをかけてるんです。驚きましたね。これが趣味なんだって。自分で説明してましたが、ちょっと変な感じを受けましたよ」

 「ああ。中条さん。私のお茶の水在学中、付属高女にいまして、文才があると評判でした。私よく存じていますわ」

 「頭がよかったんですか」

 「それがね。国語は満点で、数学はゼロというあんばいで評判でした」

 「世の中は狭いですね。奥さんがご存知だとは思わなかった」

 「龍ちゃん。そういう方面の令嬢と結婚されてはどうです?」

 「さあ。ぼくは、あまり好みませんね」

 彼にもいろいろと気迷いがあったようです。右の二つの例など、判然とした確証あるものでないながら、何となしに迷わしげなようすを示す例になるとも考えました。教官室での先日のはっきりした話で、いずれ定まることであろうと思い、自分の気分すぐれぬ夏の日々を重い心で過ごしておりました。

 そうしているうち公開公演は開催され、彼から三枚も切手を貼った重い封書が届けられました。それには東大における講演のようすが、こまごまと記されてありましたのです。

 何々夫人、何々百合子女史など、多勢の注目を集めているなどと書いてあります。そして末尾に、「これは奥さんに『ああ自分も』という欲望を起こさせようために書いたのだ」と解釈までつけてありました。

次の便りには、

 「どうもこの頃、癇癪が起きて家人を困らせていたが、ようやく収まったから、奥さんも安心してくれ」

などと書いてこられました。そして、まあ、

 「原因は親しらず歯発生のため」

としてあるのです。思わず笑い出してしまいました。

 「いよいよ休みが終わろうとするので、心細くなっています。『航海記』を封入しますが、これは私のスクラップブックに貼る分ですから、お読み済みの上は私までお返し下さい。さて、私はこの手紙を書きながら大いに良心の苛責を感じています。これは特に奥さんに申し上げます。もっと早く書くべき手紙もあれば、もっと早く送るべき『航海記』でもありました。誠に申しわけありません。しかし私が用事で忙しくない時は、遊び回るので忙しいことをお察し下さい。横須賀に善友がいる程それほど、東京には悪友がいまして、私は彼らに誘惑されては無闇に芝居を見たり音曲を聞いたりしていました。それで、生来の筆不精が、ますます不精になってしまったのです。今、悪友のことごとくが帰ったところです。そのあと甚だ静かな夜となりました。私は小さな机と椅子を縁側へ持ち出してこれを書いているのです。

 即興にて 銀漢の瀬音聞ゆる夜もあらん  龍之介

 これで止めます」

 私はどこへも出かけられぬ憂欝な日々に、こういう彼の手紙を貰うことが何より嬉しくて日に幾度となく受信箱を覗きに行きました。

 そうして夏休みは過ぎてしまいました。相変わらず、ぶらぶらしながら、それでもいつか軽くなってゆく、つわりを、やはり持てあましながら、故郷信州を思い浮かべるのです。親の元にいれば、こんなとき、どんなにか気楽であろうと、つい思ったりして、何でも自分でやらねばならない家事を少々いとわしく思うしだいでした。信州の富士が不思議と思い出されました。大気の中に浮かぶ朝な夕なの富士のことを彼にも語った日がありました。

 「奥さんはお国自慢ですね。ぼくのような都会児にとって実際、大都会は墓地です。人間はそこに生活していないという感じで適いません」

と、彼は言うのでした。

 「ぼくも、田舎で生まれ、豪荘な自然を見て荒っぽく育てばよかった。もっと線の太い人間になれたかも知れない」

とも言いました。すると夫は、

 「芥川君。そんなことを言うけれど、ぼくは都会のよさを充分みとめる方ですよ。まあ田舎に行って一日もいてごらんなさい。恐ろしく退屈して来ますよ。不便極まる暮らしですよ」

 三人はそこで笑ったものですが、夫の話すのをなお聞いていますと、かつて、一夏を田舎で勉強する気になったことがありまして、夫は一頭の馬を雇い、書物をどっさり背負わせ運ばせたところ、都育ちのためすぐ都恋しくなり、本は一冊も読むことなく、すぐ又、馬の背に書物を託して帰京したというのでした。彼は、「なる程ね」と、じつと考え込んでしまいました。そして「馬」ということばで思い出したのでしょう。

 「ぼくは、あの馬も哀れなのだが、牛もそうです。牛の鼻に通された鉄の輪を見ると非情な気がしてなりません」

 すると夫は、やはり別でした。

 「しかし、我々人間だって生きて行く苦しみは、なまじ頭脳があるだけ、あれより、たいへんなのですよ。だけど、やっぱり牛に生まれるより、人間に生まれたいものです」

 彼は牛を哀れだと言い、夫は人間の方がよりたいへんだろうが、やはり人間に生まれたいと言っているのでした。私は聞きながらこれが文科と理科の違いかしら。それとも性格の違いかしらと考えていました。そして、彼龍之介の神経の暗く尖鋭なのに戦いたことでした。彼には確かに付きまとう影のようなものがあったと思います。

 そんなことより、彼から書いて貰った俳句の数々を書き並べて見ましょう。

 

 紫は君が日傘や暮れやすき 龍之介

 

 これは確かにあの夏の海べの印象になっております。日傘を紫と覚えていてくれた懐かしさ。私にとりましてまことに得がたい一句なのでございます。

 

 揚州の夢ばかりなるうすものや  龍之介

 

これも夏の句で、うすものというところに、何か摑みきれないほのかな夢を残してあるように思われます。

 

 青簾裏畑の花をかすかにす  龍之介

 

これも真夏の一角を視点としてあります。かすかな花にやはり夢が託されているような味わいです。

 

 読み足らぬじゃがたら文や明けやすき  龍之介

 

一夜、読み通して朝になり、まだ読み足らないという感懐でございますが、やっぱり何かが残されている思いでしょう。

 

 衣更へお半と申し白歯なり  龍之介

 

やはり、夏へ向う頃の一肌すがしい女の様相で半と名づけてあり、白歯というのはまだ歯を染めてない女…もちろん、江戸時代あたりにさかのぼっての材ですが、おはぐろに染めてない白歯の時代、まだ嫁がない女の清しさを言っているのでしょうが、やはり手触れないものへの哀歓とでも申すような芥川流の好みが出ているように思います。

 

 天には傘地に砂文字の異草奇花  龍之介

 

これは彼の中にある異国好みが奇想天外な形で出た奇術のような不思議さを持ったものと思います。キリシタンバテレンの語から傘をひらき、花を咲かせた連想ででもございましょうか。

 

 花笠の牡丹に見知れ祭びと  龍之介

 

お祭りの情景から出たものと思います。江戸っ子の彼はこんなところも垣間見て心に残していたと思われます。

 

 廃刀会出でて種なき黄惟子  龍之介

このことはよく解しかねますが。

 

 毒だみの花の暑さや総後架  龍之介

 

夏の句でございますが、結句で、暑さの陰のやや冷やっこさが感じられます。おもしろい視点だと思います。このような句を興に乗って白紙に書いてくれました。おそらくその時に、頭にのぼって来るもの、日ごろ頭にとめていたものが、一度に湧き出して来るときであったのでしょう。

 次に和歌についてですが、私がまだ自作の歌を見せては、何か言って頂いていた頃のことでございます。

 

 柿の実は赤くつぶらに色づきて君を待ちつつ秋更けてゆく  花子

 

 「おやおや。柿の実が、ぼくを待っててくれるのですね。これは恐縮至極です」

もちろん、柿の実には私の心が託されてありまして、私が彼の来訪を待つという意味なのです。それを感じとってくれています。

 

 朝戸出に一本咲けるコスモスの花見てあれば君ぞ恋しき  花子

 

これは丁度、来訪されたとき、主人は出張中で不在でした。その思いを述べたものでございました。ちょっと寂しくつまらぬところへ、来て下さいまして嬉しかったことを思い出します。夕食は怠けてお寿司をとり、ビールは止してお茶とココア、シュークリームと果物だけで、お話に身を入れました。

 

 暮れてゆくみ空眺めて佇めば雁なきてゆく父ます方へ  花子

 

これは信州にいる父を慕って作歌したものでした。

 

 果てしなきみ空仰ぎて得ることは雲なかりきといふ安らけさ  花子

 

これは晴れた日の大空に対する感慨であり、同時に悩みなき自己の述懐でもありました。

 

 大空はいよよ冴えたり仰ぎみる瞳に写る上弦の月  花子

 

 木犀の花の香りをあぴて立つ朝な夕なの秋のわが庭

 

 大輪の黄色き菊のいみじさにつとふれし手のつめたきあした

 

 ほのかにもぱつと漂ふ一輪の菊のかをりぞ朝のよろこび

 

 わが庭の紅の芙蓉の色ましぬ秋のあしたの雨のめでたさ

 

 萩のはな月の光に輝きて薄紫に匂ひこぼるる

 

 悲しみも憂ひも持たぬ身なりぞと思ふ端より物案じする

 

 かりそめのことに憂へてかりそめのことに心の和みけるかな

 

 いささ川水のめでたささらさらと底のさざれの数みせてゆく

 

 いささ川浮びては消ゆるうたかたのそれにも似たる我が思ひかな

 

 思ひ葉を流して吉と占ひぬ心うれしき朝なりしかな

 

 何ごともよしとみて皆喜ばむさやけき秋に心安かれ

 

 針もちて物縫ふ折の安らけさ静けさにただ命死なまし

 

 誠ある我に生きむと願ひけり君や知りますわれの心を

 

 というふうにノートに書きつけてある歌をお見せしました。彼はずっと読んでいて、

 「この中で、ぼくは、「針もちて物縫ふ折の安らけさ静けさにただ命死なまし」が一番好きですね。ぼくも、そんな心境を経験しますよ。だが、奥さんのお歌は優しくてきれいですね。全部よく見えてくる。もう、添削なんて止しますよ。拝見するだけで、自然と心が和んで来ますよ。不思議だ。実際不思議だと思うんです。どうか、沢山作っておいてぼくを慰めて下さい。拝見するのが楽しみなだけです。ところで「何ごとも言はじとすれどしかすがにとどめかねたるわが涙哉」これだけはFさんが作られたお歌だそうですね」

 「あら。まじっておりまして。ご存知なのですか。この一首を。まあ」

 「ええ。ええ。ご婚約中、ぼくはあなたのお歌を佐野君から拝見していましたし、ご結婚なさるとき、この一首を、つまり藤原咲平君が詠まれたことは、その後伺ってるんです」

 「まあ。なんでも主人は申しますこと」

 「それはそうですよ。ご婚約中からぼくと佐野君は、どんな奥さんがいいとか何とか、話し合っていましたよ。呑気な佐野君が女房操作法も知らないで大変と心配でもしたんですよ。来られたら、どういう女性か、ぼくが見定めて上げましょうとも約束してあったんです」

 「まあ。そんなに……」

 「大丈夫ですよ。みごとパスですからね。それどころか羨やましい限りになってしまってるんですから」

 結婚前に男同志というものは何を話しているか解らないと思い赤面の至りでございました。

 「その藤原君ですが、あなたが嫁がれる時この歌を詠まれたとは、ただごとじゃない。理学方面では、彼、もはや、権威ですが、文学方面も豊かであられるようですね」

 「ええ。どの方面にも優れた本当によい方でございます」

 「このお歌は、なかなか深刻ではありませんか。佐野君へあなたが嫁がれるときのお歌だというだけに、しみじみとしたものがあり、いい歌ではありませんか」

 どうして、その一首がそこに書きしるされていたのか、私もうかつだったと思います。自作をお見せしているときに、そういう人の一首が記されているとはうかつなことでございました。それを目ざとく見つけられその事情まで知られており、ちゃんと覚えられていたとは驚いたことでございました。

 「ぼくは大体、俳句ならやりますが、和歌もなかなかよいものだと思うようになりました。これは奥さんのおかげですが。いや、和歌は本当にいいものだ。近々、ぼくも、もっと和歌をやってみようと思いますよ」

 「あの私。芥川様にだけはお耳に入れて解って頂きたいと思っていたことがございますのよ」

 「一たい、それは何ですか」

 「覚えていらっしゃいますか。あの春のころでしたけれど。私に下さいました俳句の中で、

 

 花曇り捨てて悔なき古恋や 龍之介

 

というのがございました。あれを頂いたときちょっと意味が解らなくて。芥川様ご自身のことかとも思ってみたりしまして」

 「ああ。あれについては、ぼくも、奥さんにお話しして置きたいと思っておりました。

 ぼく、あれを差し上げて、その後、奥さんとお付き合いしているうち、ひょっとして禍誤を犯していたのではないか、奥さんはそういう方ではぜんぜんないのに、これはしまった、と時々、意識に浮かべては気にしていたのですよ」

 「さすがは芥川様でいらっしゃいますわ。根も葉もない噂が飛んでちょっと困りましたけれど、でも、佐野だけ理解してくれましたわ。で、世間のことは構いませんけれども芥川様にだけは解って頂きたいものと、いつも思ってましたの」

 「よく解りました。ばくの罪は万死にも値いしましょう。徒らに風評を信じて、ああいう俳句をお目にかけたとは、軽卒をお許し下さい。深く取り消しますから」

と、深刻な顔して黙ってしまいました。別に彼を詰問したわけではありませんのに、例の一句が、ふとしたことから或る方面へ公になって、いろいろ取り沙汰されたことがあったからです。今、考えますとこの俳句の意味は、「お互いに、ともかく、今までの恋人のことなど忘れてしまう」ということではなかったかと思うのですが、どういうものでございましょう。いまだに判然といたしません。

 

 秋立って白粉うすし※夫人   龍之介

 

[やぶちゃん字注:「※」は「郛-(おおざと)+虎」。]

 

 白粉の水捨てしよりの芙蓉なる  龍之介

 

これはその折に下さった俳句で、説明をおつけ下さいました。

「土曜日には奥さんが、白粉をつけておいでのそうですね」

 

 妻振りや襟白粉も夜は寒き  龍之介

 

とも書いて下さいました。

 私は大体、白粉をつけることが嫌いで、余りお化粧をしなかったものですから、それを材になさったのでございました。それも、夫に注意されて、たまに刷く程度なので、かえって目立ったことになりましょうか。虢夫人とは中国の昔、蛾のような眉をわずかに指で払うのみで君前にまみえた麗人のことを申します。白粉をつけない私の気慨を高くお汲みになったような句と思います。

 こうして俳句をいただいたり、拙歌をお目にかけたり、お話を伺ったりのひとときは又過ぎ去りました。

 残念乍ら、その後、歌をお見せする機会は無くなりました。「もう、見ることができなくなりましたから。あしからず」の、あのおことばによりました。

 

[やぶちゃん注:佐野花子自身の短歌群(一首他者のものが含まれる)以外の前後行空けは底本のままである。

「木崎校長」表記は「木佐木」の誤りウィキの「海軍機関学校」によれば、横須賀海軍機関学校の歴代校長の中に木佐木幸輔機関少将という人物がおり、彼が同校校長であったのは大正五(一九一六)年四月一日から大正六(一九一七)年十二月一日までとあるので、まさに時期としてぴったり合うからである。

「今日、木崎校長から文官一同へ話があったんだ。芥川君の縁談について、前々から話があったらしいのだが、校長はぼくと兵学校の同期で、日本海々戦で戦死した海軍大佐の未亡人から、娘の縁談について、相談と調査を兼ねての依頼があった。その忘れがたみなる令嬢は跡見高女とかに在学中で、来年三月卒業の予定だとさ」この内、「校長はぼくと兵学校の同期」の「校長とぼく」を、校長と話者である佐野ととらないように。佐野慶造は明治一七(一八八四)年生まれで、東京大学物理学科卒であり、前の横須賀海軍機関学校の校長の木佐木は機関少将、しかも調べてみると、日露戦争自体に相応の高官として従軍している(個人ブログ「Para Bellum」のこちらで写真(日露戦争後の集合写真の中に木佐木を発見)から「兵学校の同期」であるはずが、ない。ここは「校長は『ぼくと兵学校の同期で、日本海々戦で戦死した海軍大佐の未亡人から、娘の縁談について、相談と調査を兼ねての依頼があった。その忘れがたみなる令嬢は跡見高女とかに在学中で、来年三月卒業の予定だ』と言った」の謂いである。さて塚本文、後の芥川文であるが、既に述べているので、ここではウィキの「芥川文」を引いて纏めとしておく。芥川文(ふみ 明治三三(一九〇〇)年七月八日~昭和四三(一九六八)年九月十一日)は『東京府生まれ。海軍少佐・塚本善五郎の娘』。善五郎は日露戦争で第一艦隊参謀少佐として明治三七(一九〇四)年二月に新造された戦艦「初瀬」に乗艦して出征したが、同年五月十五日、旅順港外で「初瀬」が機械水雷に接触して轟沈、御真影を掲げて艦とともに運命をともにした。『葬儀に参加した東郷平八郎連合艦隊司令長官は文を抱き上げ、秋山真之参謀はピアノを練習するよう薦めた』という。『一家の大黒柱を失った母は、実家である山本家に』文及びその弟の八洲(やしま)とともに寄寓するが、この時に既に文は、母の末弟であった『山本喜誉司の東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合』っている(当時は未だ七歳)。大正五(一九一六)年十二月、『龍之介と縁談契約書を交わ』し、大正七(一九一八)年二月、『跡見女学校在学中に龍之介と結婚する。龍之介の海軍機関学校赴任に伴い、鎌倉市で新婚生活を送る』とある(下線太字やぶちゃん)。

「芥川家では大変急いでいて、もし、良いとなったら、今、婚約しておいて、来年早々、令嬢の卒業を待たないで、挙式したいと言ってるそうだよ」当初、芥川龍之介が塚本文と交わした大正五(一九一六)年十二月の縁談契約書では卒業を待って結婚するとあったのであるが、考えてみると、当時の学制の終了・卒業は七月であるから、彼女は事実、確かに在学中に挙式したのである

「大正六年の夏でございますが、東大文科に公開講演のあることを彼から伝え聞きまして、実は、夫と共にどこか温泉で過ごすつもりでおりましたのを、中止して、この公開講演に出席したいと夫に相談いたしました。一も二もなく承知してくれまして、その手続きは彼に依頼いたしたのでございます。彼は快諾してくれまして私もすっかり出席の気分になっておりましたところ、どうも気分がすぐれなくなり、つわりであることを確認されましたため、聴講の見込みはなく、温泉に行く元気は更になく、家に引き籠ることになり、又、取り消し手続きも彼に依頼するということになりました」うっかり読むと、この講演には芥川龍之介が講演者として出ているかのように読んでしまうが、そんなことはどこにも書いてない。単に東京帝国文科大学の夏季公開講座があるのを、芥川龍之介が佐野夫婦(というより佐野花子)に紹介慫慂し、夫婦と龍之介三人で聴講する手続きを龍之介がし、ところが妊娠が判って、二人のキャンセルの手続きも何もかも、龍之介がやって呉れたというのである。龍之介の年譜では、この夏季休暇時期にそのような講演に行った記録は載らないが、後で多量の同講座の資料をわざわざ花子に送付していることから、彼は講演に行ったのであろう(夏季休暇中いた田端の実家からならば、ごく近い)。さればその辺りのさりげない細かな描写も、本内容全体が、かえって事実であることを伝えているものと、私は信ずるものである。

「大正六年夏と言えば、春に結婚して丁度、つわりになる頃であったわけで、彼の遊泳を見ながら海岸に佇んだ日はこの少し前になるのだと回想いたします」前の㈢」の冒頭の印象的な映像を参照のこと。

「横須賀の女学校の、あの、ねずみ色の制服を実は、ぼく、あまり感心しないのですが、あの制服を着て汽車通学しているお嬢さんに素晴らしい方がいますよ。いいなあと思って見ている間に、この程、ぼく、無意識にお辞儀をしてしまったんです。あとでハッとしましたが、もう、取り返しはつきません。大失敗をやっちやった」これはもうご存知、芥川龍之介の私小説風の保吉(やすきち)物の一篇「お時儀」(大正一二(一九二三)年十月『女性』)の素材となった原体験である。発表はこの記述内時制の六年後であるが、全然、ちっとも、おかしくないのである。何故なら、同作の冒頭は(下線太字はやぶちゃん)、

   *

 保吉は三十になつたばかりである。その上あらゆる賣文業者のやうに、目まぐるしい生活を營んでゐる。だから「明日(みやうにち)」は考へても「昨日(さくじつ)」は滅多に考へない。しかし往來を歩いてゐたり、原稿用紙に向つてゐたり、電車に乘つてゐたりする間(あひだ)にふと過去の一情景を鮮かに思ひ浮べることがある。それは從來の經驗によると、大抵嗅覺の刺戟から聯想を生ずる結果らしい。その又嗅覺の刺戟なるものも都會に住んでゐる悲しさには惡臭と呼ばれる匀(にほひ)ばかりである。たとへば汽車の煤煙の匀は何人(なんぴと)も嗅ぎたいと思ふはずはない。けれども或お孃さんの記憶、――五六年前に顏を合せた或お孃さんの記憶などはあの匀を嗅ぎさへすれば、煙突から迸(ほとばし)る火花のやうに忽ちよみがへつて來るのである。

 このお孃さんに遇つたのは或避暑地の停車場(ていしやば)である。或はもつと嚴密に云へば、あの停車場のプラットフォオムである。當時その避暑地に住んでゐた彼は、雨が降つても、風が吹いても、午前は八時發の下り列車に乘り、午後は四時二十分着の上り列車を降りるのを常としてゐたなぜ又每日汽車に乘つたかと云へば、――そんなことは何でも差支(さしつか)へない。しかし每日汽車になど乘れば、一ダズン位(ぐらゐ)の顏馴染みは忽ちの内に出來てしまふ。お孃さんもその中(うち)の一人である。けれども午後には七草(ななくさ)から三月の二十何日か迄、一度も遇つたと云ふ記憶はない。午前もお孃さんの乘る汽車は保吉には緣のない上り列車である。

 お孃さんは十六か十七であらう。いつも銀鼠(ぎんねずみ)の洋服に銀鼠の帽子をかぶつてゐる背は寧ろ低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしてゐる殊に脚は、――やはり銀鼠の靴下に踵(かかと)の高い靴をはいた脚は鹿の脚のやうにすらりとしている。顏は美人と云ふほどではない。しかし、――保吉はまだ東西を論ぜず、近代の小説の女(ぢよ)主人公に無條件の美人を見たことはない。作者は女性の描寫になると、たいてい「彼女は美人ではない。しかし……」とか何とか斷つてゐる。按ずるに無條件の美人を認めるのは近代人の面目(めんぼく)に關(かかは)るらしい。だから保吉もこのお孃さんに「しかし」と云ふ條件を加へるのである。――念のためにもう一度繰り返すと、顏は美人と云ふほどではない。しかしちよいと鼻の先の上つた、愛敬(あいきやう)の多い圓顏(まるがほ)である

   *

である(引用は岩波旧全集に拠った。「青空文庫」のこちらで全文を読めはするが、正直、このテクストは表記も読みも原型をとどめておらず、流石の芥川龍之介も怒る類いの、作らぬ方がよい部類の電子テクストと言える)。執筆当時の龍之介は数え三十二である。そこから六年前ならば龍之介は二十六、満で二十五歳、まさに大正六(一九一七)年! ドンピシャりである。意地の悪い読者の中には、後年、「お時儀」を読んだ花子が創作したのだ、と言い出すかも知れぬ。しかし、である。にしては、あまりにも自然に語られているではないか。拵えたエセ物には、その臭さが多かれ少なかれ、必ず纏いつき、鼻につくものである。しかし、この話を受けた花子との会話の方が、この龍之介の小説よりも、遙かに事実らしさを持っていると言える。寧ろ、「お辭儀」で「なぜ又每日汽車に乘つたかと云へば、――そんなことは何でも差支(さしつか)へない」と誤魔化している(機関学校時代の仕事は龍之介にとって嫌悪以外の何ものでもなく、思い出したくないという意識は強くあるであろう)龍之介の方が、よほど意味深で、作り物の臭さを漂わせているではないか!

「五尺とちょっと」一メートル五十二センチ越えぐらい。

「鈴木たか子」不詳。かの「お時儀」の少女のモデルなら、俄然、私は写真を見て見たくなるのである。

「どういうところのお嬢さんか、わかってるかい?調べてごらん。汽車通勤も亦楽し、か」言わずもがな、佐野慶造のチャチャである。

「中条百合」「ちゅうじょうゆり」と読む。後の左翼作家宮本百合子(明治三二(一八九九)年~昭和二六(一九五一)年)のこと。彼女の旧姓実名は「中條ユリ」である(東京生まれ)。東京女子師範学校附属高等女学校(現在の「お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校」)在学中から小説を書き始め(後の花子の台詞と一致)、この前年の大正五(一九一六)年、日本女子大学英文科予科に入学するなり、「中条百合子」名で白樺派風の人道主義的な中編「貧しき人々の群」を『中央公論』九月号に発表、天才少女として注目を集めた。なお、同大予科はほどなく中退している(ここはウィキの「宮本百合子」に拠った)。

「龍ちゃん。そういう方面の令嬢と結婚されてはどうです?」慶造の台詞である。

「何々百合子女史」先に出た「中条百合」宮本百合子のことであろう。

「原因は親しらず歯発生のため」芥川龍之介は事実、この大正六(一九一七)年七月三十日に夏季休暇で七月二十四日に鎌倉から田端へ戻っている。戻っているために、癇癪で家人と諍いが起こるのである。なお、この同日中、離れる前の鎌倉で、ずっと後に芥川龍之介最後の思い人となることになる歌人片山廣子(この時は未だ対面していない模様)に手紙を認めていることは記憶してよい)『歯痛のために本郷の医院に行き、奥歯を抜かれる』とある(岩波新全集宮坂覺年譜より引用。下線太字はやぶちゃん)。

「いよいよ休みが終わろうとするので、心細くなっています。『航海記』を封入しますが……」以下の書簡は全集に載るので、念のため、引いておく(旧全集書簡番号二一三・田端発信・八月二十九日附・佐野慶造・花子宛)。

   *

愈〻休みがなくなるので大に心細くなつてゐます

航海記これへ封入します甚恐縮ですが私のスクラツプブツクに貼る分ですから御よみずみの後は私迄御返し下さいさて私はこの手紙を書きながら大に良心の苛責を感じてゐますこれは特に奥さんへ申上げますもつと早く書くべき手紙もあればもつと早く送るべき航海記だつたんです誠に申譯ありません

しかし私が用事で忙しくないときは遊びまはるので忙しい事は御察し下さい橫須賀に善友がゐる程それ程左樣に東京には惡友がゐます私は彼等に誘惑されて無闇に芝居を見たり音曲を聞いたりしてゐましたそこで性來の筆不精になつてしまつたのです

今惡友の遊びに來てゐた連中が歸つた所ですさうしてそのあとが甚靜な夜になりました私は小さな机と椅子を椽側へ持ち出してこれを書いているのです

 

     即興

   銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ

 

 これで止めます 頓首

     八月二十九日   芥川龍之介

    佐野慶造樣

    仝 花子樣

   *

句(前書含む)の前後は一行空けた。この「航海記」というのは「軍艦金剛航海記」のことで、これは、この年大正六(一九一七)年の六月二十日(水曜)午後から、勤務していた海軍機関学校の航海見学のため、巡洋戦艦「金剛」へ搭乗、同月二十二日に山口県玖珂(くが)郡由宇(ゆう)(現在の山口県岩国市由宇町)に到着するまでの見聞を記したものである。その時の体験が「軍艦金剛航海記」で、これは同年七月二十五日から二十九日附の『時事新報』に連載されている(旧全集では初出誌を未詳としていた。また、別に資料としての「『軍艦金剛航海記』ノート」も現存している)から、恐らくはその『時事新報』掲載分を芥川龍之介自身が切り抜いて纏めたものかと思われる(芥川龍之介はしばしば自作の初出誌をそのように丁寧に貼った「貼り混ぜ帳」ようなものを作り、これまたしばしばそれに添書きや訂正を行って、それを最終形として単行本の決定稿の草稿にしていたことが知られている)。ここで龍之介が返却を求めているのはそのためである。本作は後に単行本「點心」「梅・馬・鶯」に再録されている。これは「青空文庫」の「軍艦金剛航海記」で安心して読める。何故ならこれは、旧全集を底本とした正字正仮名の正統な電子テクストだからである。なお、私の電子テクスト注「芥川龍之介手帳 1―15」「芥川龍之介手帳 1―16」「芥川龍之介手帳 1―17」そして「芥川龍之介手帳 1―18」を参照されたい。これらはまさに「軍艦金剛航海記」を書くためのメモ類であり、そうして最後の「芥川龍之介手帳 1―18」には以前に紹介した通り、まさに佐野花子の影が落ちているのである。

「信州の富士が不思議と思い出されました。大気の中に浮かぶ朝な夕なの富士」花子の生地は冒頭に示した通り、長野県諏訪郡下諏訪町東山田で、諏訪湖の北岸を少し入った位置に当たる(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここから富士山は南東に百キロメートル強ある。諏訪盆地から富士山が見えるかどうかをさえ疑う人(そういう人は花子の作品を妄想と断ずるのと同じ程度に愚かである)のために、Hajime HAYASHIDA氏のサイト「富士山のページ」の「諏訪湖から見る富士」をリンクさせておこう。

「ぼくは、あの馬も哀れなのだが、牛もそうです。牛の鼻に通された鉄の輪を見ると非情な気がしてなりません」これは芥川龍之介の言葉として、私は非常に腑に落ちるものがあるリアルな台詞と思う。

 

「紫は君が日傘や暮れやすき 龍之介」「これは確かにあの夏の海べの印象になっております。日傘を紫と覚えていてくれた懐かしさ。私にとりましてまことに得がたい一句なのでございます」この句は、翌年の大正七(一九一八)年『ホトトギス』八月号「雑詠」欄に投句された句群中に(署名は「我鬼」)、

 

むらさきは君が日傘や暮れ易き

 

とあるもので(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を参照されたい)、後の句群の出る旧全集の第九巻の「雜」の部(大正八(一九一九)年頃の作と推定はされているものの、そう限定出来る根拠はないと私は思う)にも(私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」を参照されたい)、

 

むらさきは君が日傘やくれやすき

 

の句形で出る。なお、前者の句群は「芥川我鬼」が芥川龍之介であることを読者は知らずに読んだ、殆んど最初に大衆の眼に触れた、龍之介が満を持して発表したまず最初の本格的な句群なのであるだからこそ、これが一年前の夏の花子と龍之介の情景を読んだとしても、何ら、おかしなところは全くない、寧ろ、そうした素材を詠んだとして自然に腑に落ちる句と言えるのである。

 

「揚州の夢ばかりなるうすものや  龍之介」これは旧全集の第九巻の「雜」の部に含まれる句の一つ。これを芥川龍之介の中国特派まで引き下げる必要などは全くない。これは、かの晩唐の知られた詩人杜牧の以下の七絶に基づく、龍之介の青い年の、ほろ苦さを漂わせた感懐句である。

 

   遣懷

 落魄江南載酒行

 楚腰纖細掌中輕

 十年一覺揚州夢

 贏得靑樓薄倖名

 

    懷(おも)ひを遣(や)る

  江南に落魄し 酒を載せて行く

  楚腰(そえう) 纖細(せんさい) 掌中に輕(かろ)し

  十年 一たび覺(さ)む 揚州の夢

  贏(か)ち得たり 靑樓(せいらう)薄倖(はくかう)の名を

 

この「靑樓薄倖」とは「妓楼でも有名な薄情野郎」という蔑称である。

 

「青簾裏畑の花をかすかにす  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

靑簾裏畑の花を幽(かすか)にす

 

である。

「読み足らぬじゃがたら文や明けやすき  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

よみたらぬじやがたら文や明易き

 

である。「じやがたら文」(ジャガタラぶみ)とは江戸初期に幕府が鎖国政策を強化する過程で、寛永一〇(一六三三) 年、日本人の海外渡航を禁止するとともに、その翌年に南蛮人及び彼らと日本婦人との間に生まれた二百八十七人もの混血児をマカオに追放、次いで同十六年には、そうした紅毛系混血児及び彼らの日本人の母親三十二人を「ジャガタラ」(現在のジャカルタ、当時のオランダ領「バタビア」) に追放した。この「ジャガタラ文」とは、その追放された人々が故国へ寄せた哀切々たる書簡群を指す(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」を参照した)。

 

「衣更へお半と申し白歯なり  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

衣更へお半と申し白齒なり

 

完全に一致する。「お半」は「おなか」か。料亭の仲居或いは芸妓の名と私は読む。或いは後者でしかもたまたま彼女が半玉(未だ水揚げをせず、ただお酌をしたり、舞いを舞うだけの年端(としは)ゆかぬ若い芸妓)であったのを興がったものともとれる。この手の挨拶句を龍之介はかなり創っている。花子はこれを時代句(創造句)ととっているが、それはそれで浄瑠璃の一場面の如くにして面白い腑に落ちる解釈である。

「天には傘地に砂文字の異草奇花  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

天に日傘地に砂文字の異艸奇花

 

で、ほぼ完全一致と言ってよい。この句はかなり龍之介が気にいていた素材で、大正七年八月『ホトトギス』「雜詠」欄にも、

 

日傘人見る砂文字の異花奇鳥

 

という改稿で投稿されてある。中田雅敏編著の蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文によれば、砂文字は大道芸の一つで、色の付いた砂で絵を描いて見せたとあり、浅草辺りの嘱目吟であろうと推定しておられるが、同感であるが、花子の「これは彼の中にある異国好みが奇想天外な形で出た奇術のような不思議さを持ったものと思います。キリシタンバテレンの語から傘をひらき、花を咲かせた連想ででもございましょうか」という鑑賞もこれまた、実に美事な句の幻想性を剔抉しており、龍之介もこの感懐には諸手を挙げて賛同したに違いないと思うのである。

 

「花笠の牡丹に見知れ祭びと  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

花笠の牡丹にみしれ祭人

 

ほぼ完全に一致する。

「廃刀会出でて種なき黄惟子  龍之介」出典は同前であるが、これは三箇所の誤りで、そこでの表記は、

 

廢刀令出でて程なき黃帷子

 

で花子の、龍之介の直筆の誤判読と思われる。「廃刀令」は明治九(一八七六)年三月二十八日に太政官布告第三十八号として発せられた「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止」という太政官布告の略称。所謂、「帯刀禁止令」で、大礼服着用者・軍及び警察以外の者が刀を身につけることを禁じるものであった。「黃帷子」は、ここは「きかたびら」と読んでいようが、「きびら」で「生平」とも書き、曝さない麻糸で平織りにした布。男子の夏物で特に羽織に用いた。夏の季語。近代(当時から)の夢想句である。かくも三重に誤っては「このことはよく解しかね」る句とはなってしまう。しかし、これが誤判読であるということは、実は確かに彼女が芥川龍之介直筆のこれらの句を記したものを持っていたことを立証することとなることに気づかれたい。そんなものがなく、花子が全集から単に引き写したものだとしたら、こんな間違いは絶対にしないからである!

 

「毒だみの花の暑さや総後架  龍之介」出典は同前。

 

どくだみの花の暑さや總後架

 

「總後架」は江戸の長屋等の外に作られた共同便所。これも一種の時代詠である可能性が高い。

 

「これは丁度、来訪されたとき、主人は出張中で不在でした。その思いを述べたものでございました。ちょっと寂しくつまらぬところへ、来て下さいまして嬉しかったことを思い出します。夕食は怠けてお寿司をとり、ビールは止してお茶とココア、シュークリームと果物だけで、お話に身を入れました」これは芥川龍之介の確信犯の訪問である。同僚の出張は職員室の不在どころか、掲示板を見れば、一目同前だからである。

「木犀の花の香りをあぴて立つ朝な夕なの秋のわが庭」この歌以降は、底本では行空なしで「花子」の署名も打たずに連なって書かれてある。

「いささ川」小さな流れ細流。小川。

「思ひ葉を流して吉と占ひぬ心うれしき朝なりしかな」こういう占いの風俗はありそうには思う。ただ「思ひ葉」とは「触れ合って重なり合って茂っている葉」を指し、そこから多く、男女の相愛に譬える語でもある。この一首を夫でない芥川龍之介に見せるというのは、私にはかなり危ない冒険かと思われぬでもない

「Fさん」「藤原咲平」(ふじわらさくへい 明治一七(一八八四)年~昭和二五(一九五〇)年)は気象学者で理学博士。長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれ。東京帝国大学理科大学理論物理学科明治四二(一九〇九)年卒。明治四十四年に中央気象台技師となり、大正九(一九二〇)年に「大気中における音波の異常伝播」を発表して、学士院賞を受賞。同年、ノルウェーに留学し三年後に帰国、中央気象台測候技術官養成所(現在の気象大学校)主事を経、大正十三年、東京帝国大学教授、大正十五年には地震研究所員を兼務した。同年「雲を摑む話」、昭和四(一九二九)年「雲」を刊行、昭和一六(一九四一)年に第五代中央気象台長となり、戦時下の気象事業を統括した。この間、風船爆弾の研究にも参画。戦後の昭和二十二年に気象台長を退任した後、参院選に立候補したものの、公職追放となり、以後は執筆活動に専念した。「お天気博士」として一般にも親しまれ、独創的な渦巻きに関する研究が有名。他の著書に「渦巻の実験」「日本気象学史」「群渦―気象四十年」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。佐野慶造と同年生まれであるから、大学での慶造の友人であったものか。しかし彼の生地が気になる。花子の生地と近いからである。彼が慶造の親友であったなら、花子が師範卒業のすぐ後に慶造と結婚した以上、慶造は咲平に結婚前に花子を紹介し、逢っていたのではないか? 彼と花子が同郷であればこそ、その可能性は強い。とすれば、或いは、実際、咲平はそれを言祝ぎ乍らも、実は花子に惹かれもした、そうして、彼らの婚姻の前に、この、

何ごとも言はじとすれどしかすがにとどめかねたるわが涙哉

というかなりアブナい一首を詠じ、彼ら、否、花子に献じたとするのはどうか? これは、十分にあっておかしくはなく、それをかの恋多き龍之介がまた、それを鋭敏に感じとっていた、というのも、私にはすこぶる、腑に落ちるのである。

「自作をお見せしているときに、そういう人の一首が記されているとはうかつなことでございました」これは不謹慎にして迂闊にして不思議だろうか? いや、不謹慎でも迂闊でも不思議でも、さらさら、ない。花子が芥川龍之介に見せたのは自分の、自分のためだけの歌稿を記した、メモランダである。もともとからして他人に見せることを意識したものではない。さすれば、先の花子の自作の一首、

 

何ごともよしとみて皆喜ばむさやけき秋に心安かれ

 

を記した際、思わず、咲平の献じて呉れた一首である、この初句が一致する、意味深の、

 

何ごとも言はじとすれどしかすがにとどめかねたるわが涙哉

 

思わず並べ記して、ほっと、人知れず、花子が溜息をついたのだとしても、私は何ら、不謹慎とも迂闊とも不思議とも思わぬ。そう思いたいひねくれた連中が、花子を妄想を持った危ない女に仕立て上げたのである。

 

「花曇り捨てて悔なき古恋や 龍之介」これは旧全集書簡番号二八八の大正六(一九一七)年五月十七日附松岡讓宛に、

 

  偶感

花曇り捨てて悔なき古戀や

 

と出る。この句、当たり前に考えるなら、芥川龍之介自身のトラウマとなった吉田弥生との失恋を詠んだ句と読める。しかし、前にも述べた通り、龍之介は使い廻しの天才である。だから、あたかも花子の内実をくすぐるように、このまさに「古戀」の句を彼女に示した可能性はすこぶる「ある」と言える。そうして、それを私は精神的詐欺だとは思わぬそれが俳句のような短律文芸の欠陥であると同時に使い勝手のよい長所でもあると考える私は作為された文学作品と恋情とはそうした共犯関係に常にあるものと心得ている人種であるからである。

 

『例の一句が、ふとしたことから或る方面へ公になって、いろいろ取り沙汰されたことがあったからです。今、考えますとこの俳句の意味は、「お互いに、ともかく、今までの恋人のことなど忘れてしまう」ということではなかったかと思うのですが、どういうものでございましょう』芥川龍之介の先の句が、佐野花子と関わって風説を生んだ、という事実については、残念ながら、確認出来ない。これを花子の妄想と言うなら、そうかも知れぬ。そうでないかも知れぬ。ともかくも、私はその孰れも「確認は出来ぬ」と言うにとどめおくのみである。これについては私はどちらの肩も持つ気はないし、それはだからと言って、佐野花子の本「芥川龍之介の思い出」が妄想の産物だというような、凡そ馬鹿げた批判の証左になる、などとも、さらさら思わぬ人間である。

「秋立って白粉うすし※夫人   龍之介」(「※」=「郛-(おおざと)+虎」)これは他に類型句を見ない新発見句である。しかもこの句は底本の冒頭写真版に出る、大正六(一九一七)年十一月十日刊行(新潮社)の第二作品集「煙草と悪魔」の佐野慶造への献本に記された、芥川龍之介自筆の句(署名有り)であって、前書もあるのである。以下に示す。

 

   土曜日には奥さんがおしろひをつけて

   お出でのさうですね そこで句を作りました

   但甚不出來です

秋立つて白粉うすし虢夫人

 

私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で以下ように注した。

   *

[やぶちゃん注:昭和四十八(一九七三)年短歌新聞社刊佐野花子・山田芳子「芥川龍之介の思い出」の佐野花子による「芥川龍之介の思い出」より。冒頭写真版から、活字に起こした。類型句なし。「※」は「郛-(おおざと)+虎」。但し、このような漢字は、「大漢和辭典」にも存在せず、「虢夫人」と誤記で、芥川自身の誤字である。「虢夫人」は楊貴妃の姉で、正しくは虢國夫人と呼ばれた美女である。

 さて、佐野は、この句と次に掲げる「白粉の水捨てしより芙蓉なる」及び「妻ぶりや襟白粉も夜は寒き」の句と共に、芥川から直接もらった句であるとし(このエピソードは夫佐野慶造が不在の折に、芥川が尋ねて来、そこで詩歌談義となり、芥川の「花曇り捨てて悔いなき古戀や」にまつわる、やや危うい会話の後、「その折に下さった」と記している)、芥川が説明をつけたと書いている。これは、佐野の原本を仔細に検討すると、この日に芥川は大正六(一九一七)十一月十日に上梓された題二短編集「煙草と悪魔」を佐野花子に献本しており(前書からみると形式上は佐野慶造への献本である)、その本の見返しに献句したものであることが、原本の冒頭写真版によって分かる。

 佐野は更に「私は大体、白粉をつけることが嫌いで、余りお化粧をしなかったものですから、それを材になさったのでございました。それも、夫に注意されて、たまに刷く程度なので、かえって目立ったことになりましょうか。虢夫人とは中国の昔、蛾のような眉をわずかに指で払うのみで君前にまみえた麗人のことを申します。白粉をつけない私の気概を高くお汲みになったような句と思います。」と記している。]

   *

なお、明らかな直筆であるにも拘わらず、現行の出版された芥川龍之介句集には、この句も次の句も全く載らないこんな呆れた馬鹿な話は、ないよ!!!

 

「白粉の水捨てしよりの芙蓉なる  龍之介」前注に出した冒頭写真版に載る類型句のない新発見句

「妻振りや襟白粉も夜は寒き  龍之介」前注に出した冒頭写真版に載る類型句のない新発見句。写真版では、

 

    追加

妻ぶりや襟白粉も夜は寒き

 

である。「追加」の前書は、前掲二句に対しての「追加」の意である。]

諸國百物語卷之四 十七 熊本主理が下女きくが亡魂の事


    十七 熊本主理(しゆり)が下女きくが亡魂(ばうこん)の事

 熊本主理と云ふ人は、きわめて人づかいあしき無道心者なり。主理が城に奉公せしとき、食(めし)のなかに針のありしを、大いにいかり、下女にきくと云ふもの有り。これをよびつけ、

「だれにたのまれて、かやうの事をしけるぞ。有りのまゝに申せ。申さずは、せめてとふべし」

と云ふ。きくおどろき、

「さてさて、ぜひもなき事に候ふ。さきほど、きる物をぬい候ひて、その針を、かみのわげにさし申し候ふが、さだめてその針、御食(おめし)のうちにをち申すとみへたり。わが心(こゝろ)よりも、いたし申さず。又、人にも、たのまれ候はず。ときのあやまちにて候へば、御ゆるし下され候へ」

といへば、主理、きゝて、

「さては、あらがひ申すか。それ、せめてとへ」

とて、一ばんに水ぜめ、二ばんにてつぼうひしぎ、三ばんに木むまぜめ、四ばんにこぼくぜめ、五ばんには、せなかをたちわり、切りくちへ、しやうゆをせんじていれけれども、たゞ、

「はじめ申し上げ候ふよりほかは御座なく候ふ。御ぢひに、はやく、御いとまを下され候へ」

といふ。主理、きゝて、

「せめやうがぬるきゆへ、おちぬとみへたり」

とて、百しやうにいひつけ、蛇を二、三千ひきもとりよせ、あなをほり、きくをいれ、かのくちなわを、はなし、せめければ、

「今はいのちもあるまじく候ふ。ねがはくは、われらが母をよびよせ、いとまごひをさせて給はれ」

といへば、はうばい、ふびんと思ひ、母をよびよせ、あわせければ、母は、このありさまを見て、天にあこがれ、地にふして、なきさけび、

「武家にみやづかへさするうへは、かねてかくごの事なれども、かやうの、けうがるせめやうや、あるベき。なんぢあひはてなば、ふたゝび、をんりやうとなり來たり、此うらみをなすべし。かまへてわするゝ事なかれ」

といへば、

「心やすく、をぼしめせ。此うらみは、主理一だいならず、七代までは、うらみ申すべし。心もとなくおぼしめさば、わがしゝたるまへに胡麻をまきをき給へ。三日のうちに、二ばをはやし申すべし。是れをしやうこ、と、覺しめせ。いとま申して、さらば」

とて、舌をくい切り、はてにけり。母、なをも、心もとなくおもひ、やくそくのごとく、ごまをまきて、見ければ、三日めに、たがわず、ふたば、をひ出でたり。扨(さて)、三日めに、あんのごとく、きく、來たりて、主理に、うらみのかずかず、申しわたして、又、まいらん、とて、かへりけるが、それより、主理、口ばしり、いろいろ、わが身のありさまどもをいひ、物ぐるいのやうにて、七日めに、あひはてけり。それより、代々、とりころす。四代めの主理は松平下總守(しもふさのかみ)どのにほうこうして、はりまのひめぢにゐられしが、主理屋敷より二里ばかりわきにて、かの菊(きく)、

「馬(むま)を、からん」

と云ふ。馬子は、なに心なく、つねの人とこゝろへ、

「日ぐれなれば、かへりもとをし」

とて、かさゞりしかば、

「かきましを、とらせん」

とて、八拾文の所を百六拾文のやくそくして、主理が屋敷につき、馬よりをりて、をくにいりぬ。さて馬子は、

「だちんを給はれ」

といへば、下々のもの、きゝて、

「なに事を云ふぞ、だれも、馬(むま)をかりたるもの、なきが」

といへば、

「まさしくたゞ今、女らうしうをのせ參りたり。ぜひに、だちんを、とらん」

と、せりあひければ、いづくともなく、

「いつもの菊が、のりてきたるぞ。だちん、百六拾文、はらへ」

といふ。主理が家老きゝて、ぜにをはらわせけり。それより主理、わづらひ出だし、いろいろ、きくがうらみどもを、くちばしり、七日めに、あひはてられけると也。四代があいだ、いろいろと、きたう、いのりを、せられけれども、そのしるしもなく、あとめのあるじぶんには、きく、來たりて、とりころしける、と也。

[やぶちゃん注:「せめやうがぬるきゆへ、おちぬとみへたり」は鍵括弧なしで改行もないが、かく特異的に変更した。なお、言い添えておくと、最後の四代目主理の代の「お菊」が馬子に彼の屋敷まで送らせておいて、料金を払わずに屋敷の内へと入って行き、馬子がしびれを切らし、「このお宅まで女性を送ったのですが、料金を頂いておりません」と訊ねるというシチュエーション、どっかで聴いたことがないか? こりゃ、実に現代の都市伝説(アーバン・レジェンド)「幽霊を乗せたタクシー」のまさに原型だろ!! 面白!!

 本話は恨みの主人公を「お菊」とする怨恨譚であるから、言わずもがな、所謂、「皿屋敷」の比較的正統な一流と考えてよい。「皿屋敷」の流れは裾野が広く多流に及ぶので、詳しくはウィキの「皿屋敷」を参照されたいが、その「概要」によれば、『古い原型に、播州を舞台とする話が室町末期』に播磨国永良荘(現在の兵庫県市川町)の永良竹叟が天正五(一五七七)年に著した「竹叟夜話」に『あるが、皿ではなく盃の話であり、一般通念の皿屋敷とは様々な点で異なる。皿や井戸が関わる怨み話としては』、十八『世紀の初頭頃から、江戸の牛込御門あたりを背景にした話が散見される』。享保五(一七二〇)年、『大坂で歌舞伎の演目とされたことが知られ、そして』、寛保元(一七四一)年にはかの浄瑠璃「播州皿屋敷」が『上演され、お菊と云う名、皿にまつわる処罰、井筒の関わりなど、一般に知られる皿屋敷の要素を備えた物語が成立』した。宝暦八(一七五八)年に講釈師馬場文耕が「弁疑録」に『おいて、江戸の牛込御門内の番町を舞台に書き換え、これが講談ものの「番町皿屋敷」の礎石となっている』。『江戸の番町皿屋敷は、天樹院(千姫)の屋敷跡に住居を構えた火付盗賊改青山主膳(架空の人物)の話として定番化される』。ので、時代は十七世紀中葉以降と新しい時代に設定され直されている。『一方、播州ものでは、戦国時代の事件としている。姫路市の十二所神社内のお菊神社は、江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、戦国時代までは遡れないと考察される』。『お菊虫については、播州で』寛政七(一七九五)年に発生した虫(アゲハチョウ(鱗翅目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae の揚羽蝶類の蛹(さなぎ)。これがシミュラクラとして「女が後ろ手に縛られているような形」に見えことに拠る)の『大発生がお菊の祟りであるという巷間の俗説』化であって、『これもお菊伝説に継ぎ足された部分である』とある。最後の「お菊虫」なら、私の電子テクスト注「耳嚢 巻之五 菊蟲の事」及びその続編である「耳嚢 巻之五 菊蟲再談の事」(こちらには図もある)を参照されるのも一興である。私は「お菊虫」とその巷説は好きだが、異様に肥大増殖してしまった「皿屋敷」譚は、最早、ステロタイプの退屈さが目立ち、私には怪異性が全く失われていて面白くなく、興味がない。

「熊本主理」不詳。一般には「修理」である。他の「皿屋敷」譚を見ても、類似の名は見当たらぬ。但し、このサディスティクな残忍性は概ねの「皿屋敷」主人公に共通するものではある。

「無道心者」仏法を求める心が全くなく、無慈悲で、道理に背いたことをすることが平気か、或いは、それを好む猟奇的で残忍極まりない人間。

「主理が城に奉公せしとき、食(めし)のなかに針のありしを、大いにいかり、下女にきくと云ふもの有り。これをよびつけ」文構造が不全。「きくと云ふもの有り。主理が城に下女として奉公せしとき、ある時、主理が食(めし)のなかに針のありしを、主理、大いにいかり、これをよびつけ」でなくてはおかしい。

「ぜひもなき事に候ふ」「どうにもお詫びもしようもない、とんでもないことを致しました。」。ここでは主理の糺しの主眼である、「誰かに」(自分の心を含む)そそのかされて故意にやったのではないことを打ち消すニュアンスを含めつつも、深く謝罪しているのである。

「きる物をぬい候ひて」「着る物を縫ひ候ひて」。歴史的仮名遣は誤り。

「かみのわげ」「髮の髷(わげ)」。「髷(まげ)」に同じいが、主に関西方面での謂いであるから、この初盤のロケーションはそちらの方に想定してよいかも知れぬ。髪を頭頂で束ねて、折り返したり曲げたりした部分。また、そのような部分を持つ髪形全体を言う。

「をち」「落(お)ち」歴史的仮名遣は誤り。

「ときのあやまち」「時の過ち」。偶然の過失。

「さては、あらがひ申すか。それ、せめてとへ」「さては! 抗ひ申すか! それ! 責めて問へ!」。以下、江戸の私刑(リンチ)のサディズム連発!

「一ばんに水ぜめ、二ばんにてつぼうひしぎ、三ばんに木むまぜめ、四ばんにこぼくぜめ、五ばんには、せなかをたちわり、切りくちへ、しやうゆをせんじていれ」漢字に直し、注を各個に記す。

●「一番に水責め」冷水を浴びせたり、顔面に手拭いを被せて水を流したり、水中に顔を漬けたりする水責めの拷問。

●「二番に鐡棒拉(ひし)ぎ」両手や両足を鉄の棒で縛り、それで押し潰したり、捩じったりする拷問。容易に骨折する。

●「三番に木馬(きむま)責め」背が鋭角になった木馬(もくば)に跨らせた上、両足に重りをぶら下げて股を裂く拷問。男でもそうだが、女性の場合は特に外生殖器が激しく損傷する。

●「四番に古木(こぼく)責め」「古木」は年経た太い大木のこと。木に吊るして殴打して責め立てる拷問。なお、逆さ吊りにしてこれをやると、責められなくても、三~四時間で脳圧が血圧により高まって意識が無くなり、そのまま放置すれば確実に死に至る。そこで、耳や蟀谷(こめかみ)に血抜き用の穴を開けて血抜きをするのは、実は殺さずに永く苦しませる拷問の常套手段であった。これは切支丹を転ばすために行われた「穴吊り」の刑として知られ、そもそもが彼らの弾圧で悪名高い豊後府内藩二代藩主長崎奉行竹中重義(?~寛永一一(一六三四)年)が考案したとされる残虐刑であった。

●「五番には、背中を截ち割り、切り口へ、醬油を煎じて入れ」傷口への塩揉みの拷問の類型で、醬油を熱く濃く煮立てたアツアツを注ぎ掛けるのだから、塩を擦り込む比ではない。

「御いとま」「御暇」ここは解雇の意。

「ぬるき」手緩(てぬる)い。

「おちとみへたりぬ」「白状せぬと見えたわ!」。

「百しやう」「百姓」。

「蛇を二、三千ひきもとりよせ、あなをほり、きくをいれ、かのくちなわを、はなし、せめければ」ここまでくると、ちょっとC級エロ映画糞エンタメ・レベルで不快。

「いとまごひ」「暇乞ひ」。死に際して今生の別れを交わすこと。

「はうばい」「朋輩」。あまりに「ふびん」(不憫)「と思ひ、母をよびよせ、あわせ」て呉れたというのであるから、下女の朋輩の中でも、女中頭のような者であろう。

「天にあこがれ地にふして、なきさけび」「天に焦(あこが)れ、地に伏して、泣き叫び」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に、『身もだえして泣き悲しむさま「あこがれ」は「仰ぎ見る」の意』とし(若干、この説明は乱暴に思われるが、ここでは問題にしない)、「平家物語」の「卷第三」の鬼界が島の赦免で俊寛だけが許されぬシーンを引く。私の好きなシークエンスなので、独自に話が判るように引くことにする。

   *

 御使は丹左衞門尉基康と云うふ者なり。急ぎ船より上り、

「これに都より流され給ひし平判官(へいはうぐわん)康賴入道、丹波(たんばの)少將殿や、おはす。」

と、聲々にぞ尋ねける。

 二人(ににん)の人々は、例の熊野詣でしてな無かりけり。俊寛一人(いちにん)ありけるが、これを聞いて、

「餘りに思へば夢やらん、又、天魔波旬(てんまはじゆん)の、わが心を誑(たぶらか)さむとて云ふやらん。現(うつつ)とも更に覺えぬものかな。」

とて、あはてふためき、走るともなく、倒(たふ)るるともなく、急ぎ、御使(おつかひ)の前に行き向つて、

「これこそ流されたる俊寛よ。」

と名乘り給へば、雜色(ざつしき)が頸(くび)にかけさせたる布袋(ふぶくろ[やぶちゃん注:書状を入れる文袋(ふみぶくろ)。])より、入道相國(にふだうしやうこく)の赦文(ゆるしぶみ)取り出(いだ)いて奉る。これを開いて見給ふに、

「重科(ぢうくわ)は遠流(をんる)に免ず。早く歸洛の思ひをなすべし。今度(こんど)中宮御産の御祈りによつて、非常の赦、行はる。然る間、鬼界が島の流人(るにん)、少將成經、康賴法師、赦免。」

とばかり書かれて、俊寛と云ふ文字はなし。禮紙(らいし[やぶちゃん注:書状を包んで上に重ねた白紙の紙。])にぞあるらんとて、禮紙をみるにも、見えず。奧より端(はし)へよみ、端より奧へ讀みけれども、二人(ににん)と許り書かれて、三人(さんにん)とは書かれず。

 さる程に、少將や判官入道も出で來り、少將の取つて見るにも、康賴法師が讀みけるにも、二人と許り書かれて、三人とは、書かれざりけり。夢にこそかかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすれば現(うつつ)なり、現かと思へば又、夢の如し。其の上、二人の人々の許(もと)へは、都より言傳(ことづて)たる文(ふみ)ども、幾らもありけれども、俊寛僧都の許へは、事問ふ文、一つもなし。

「抑(そもそも)われら三人は同じ罪、配所も同じ所なり。如何なれば赦免の時、二人は召し還へされて、一人(いちにん)ここに殘すべき。平家の思ひ忘れかや、執筆(しゆひつ[やぶちゃん注:右筆。書記。])の誤りか。こは如何にしつる事どもぞや。」

と、天に仰(あふ)ぎ地に伏して、泣き悲しめども甲斐ぞなき

   *

この「天魔波旬」は人の生命や善根を絶つ悪魔。他化自在天(第六天)の魔王のこと。「波旬」は、サンスクリット語の「パーピーヤス」の漢音写で、「パーパ」(「悪意」の意)ある者の意。仏典では、仏や仏弟子を悩ます悪魔・魔王として登場し、しばしば魔波旬(マーラ・パーピマント)と呼ばれる。「マーラ」(「魔」)は「殺す者」の意で、個人の心理的な意味合いでは、「悟り」(絶対の安定)に対する「煩悩」(不安定な状態)の、集団心理的には新勢力たる「仏教」に対する、旧勢力たる「バラモン教」の象徴と考えられている。

「武家にみやづかへさするうへは、かねてかくごの事なれども、かやうの、けうがるせめやうや、あるベき。なんぢあひはてなば、ふたゝび、をんりやうとなり來たり、此うらみをなすべし。かまへてわするゝ事なかれ」「武家に宮仕へさする上は、予ねて覺悟の事なれども、斯樣の、興がる責め樣や、あるベき。汝、相ひ果てなば、再び、怨靈と成り來たり、此の恨みを成すべし。構へて忘るること無かれ」。「興がる」惨たらしく猟奇的で、しかもそれを実際には面白がっていることを指す。「恨みを成すべし」「必ず恨みを報いよ!」。

「心やすく、をぼしめせ。」「どうか母上さま、ご危惧なされまするな。」。

「七代」猫も七代祟ると言うが、これが一つ、実は通常の人間に一族が嫡男が生まれなかったり、夭折したりで、自然に衰え、養子を得ないと絶えてしまったスパンとして認識されていたからこその「七代」なのではなかろうか? ちょっとそんなことを考えた。我々でさえも、せいぜい五、六代前までしか、はっきりとは遡れないではないか。

「心もとなくおぼしめさば」「万一、私の覚悟が真実(まこと)かどうかご心配であらせられますならば」。

「わがしゝたるまへに胡麻をまきをき給へ」「我が死したる(塚の)前に胡麻(ごま)を蒔き給へ」。

「三日のうちに、二ばをはやし申すべし」「きっと! 三日の内に双葉を生やしてお目にかけ申し上げましょうぞ!」。ゴマの芽生(めぶ)きは普通は一週間ぐらいはかかるようである。

「しやうこ」「證據」。

「をひ出でたり」「生ひいでたり」。歴史的仮名遣は誤り。

「三日めに、あんのごとく、きく、來たり」ゴマの芽生きの「三日」には、遺恨の霊の襲来の日時も含まれていたのである。というより、それを主理に意識させ、精神に変調をきたさせる効果は心理的も覿面と言える。

「又、まいらん」「……また、参りまするッツ!……」。

「主理、口ばしり、いろいろ、わが身のありさまどもをいひ、物ぐるいのやうにて、七日めに、あひはてけり」まず、訳の分からぬことを口走り、一時的に乱心したかのように見えたが、その後、自身の成した悪行の数々を自ら叫び立て数えて始め、遂には完全なる狂人の如くなって、丁度、七日目(恐らくは「お菊」の自死当日から数えてで、この狂乱から頓死へ至る日数は四日間と見た)に、急に死んでしまったという。また「七」が出た。

「とりころす」「憑り殺す」。

「松平下總守」安土桃山から江戸前期の武将松平忠明(天正一一(一五八三)年~寛永二一(一六四四)年)。江戸幕府の大政参与(幕政上、重要な課題に関与し、主導する臨時職)で奥平松平家の祖であり、三河作手藩・伊勢亀山藩・摂津大坂藩・大和郡山藩・播磨姫路藩主(従五位下下総守への叙任は慶長五(一六〇〇)年)。彼が播磨姫路藩十八万石に加増移封されたのは寛永一六(一六三九)年三月三日であるから、この代の主理の事件は、それ以降から、忠明没年までということになろう。

「ほうこう」「奉公」。

「はりまのひめぢ」「播磨の姫路」。姫路城には「皿屋敷」系の伝承や話が多く伝わり、ウィキの「皿屋敷」によれば、姫路城の『本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する』。また、『江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作(げさく)」』である、怪談としてかなり脚色された「播州皿屋敷実録」では、戦国時代の姫路城第九代城主小寺則職(のりもと 明応四(一四九五)年~天正四(一五七六)年)の代(永正一六(一五一九)年以降)、『家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る』。『乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四郎は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四郎は、お菊が管理を委任されていた』十『枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた』。以来、『その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという』。『やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その』後、三百年程経って、『城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる』。『このほか、幕末に姫路同心町に在住の福本勇次(村翁)編纂の『村翁夜話集』(安政年間)などに同様の話が記されている』とある。

「二里」七キロメートル弱。

「わき」「脇」。手前。にて、かの菊(きく)、

「からん」「借らん」。「貸してお呉れ。」。馬に乗り、馬子に引かせて行くのである。

「つねの人とこゝろへ」「常の人と心得」。

「日ぐれなれば、かへりもとをし」「日暮れなれば、歸りも遠(とほ)し」馬子が空馬を引いて帰るのがすっかり夜になってしまうので嫌がったのである。

「かきまし」「割き增し」。割増料金のこと。先の「江戸怪談集 下」の脚注に、『駕籠舁(かき)がに対する「舁(かき)増し」(増し駄賃)が原義』とある。

「やくそく」「約束」。後払いがミソ。

「馬よりをりて、をくにいりぬ」「馬より降(お)りて、奥(おく)に入りぬ」歴史的仮名遣は誤り。

「下々のもの」四代目主理の下男や下士。きゝて、

「女らうしう」「女﨟衆」。武家勤めらしい婦人。「衆」は複数の人への敬意を表わす接尾語であるが、古くは単数の人にも用いた。

「せりあひければ」「競り合ひければ」。押し問答になった、すると。

「いづくともなく」どこからともなく。

「主理が家老きゝて、ぜにをはらわせけり」この家老は代々の家老職の家柄なのであろう。先祖が初代熊本修理から二代・三代と続いて家老であって、彼らが皆、妖しい「菊」なる女の亡霊の来て、結局は非業の死を遂げることを知っているのである。だから、変事の出来してからでは最早、手だてはないと知っていても(以下に見る通り)、その駄賃を払わせてその場を収めたのである。

「きくがうらみども」これは菊が憑依したようになって、見知りもせぬ菊の側の恨み言を口走っているのである。ここは作者の芸に捻りがあるとは言える。

「七日め」また「七」である。

「きたう、いのり」「祈禱、祈り」。

「しるし」「驗」。効験(こうげん)。

「あとめのあるじぶん」跡目(嗣子)の決まる時分になると。これだと、嫡男が生まれ、それが元服すれば(継ぐ場合は、江戸時代にはかなりの幼少でも断絶を恐れ、年齢を偽ってそれ以前の童子でも元服させた)――菊は来る。――とすれば、七代など、即、終りそうじゃないか。七代目は是非、嗣子の決まる前に、憑り殺せよ! お菊さん! それで貴女の憂鬱は完成する!]

今、やっと

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (四)
の注を書き終えた。そうしたら、珍しく翌日になっていた。ここのところ、僕は九時頃には寝ているから、全くの特異点だ。上記は満を持して明日公開することとする。佐野花子の「芥川龍之介の思い出」にはもう「ものぐるほし」を遙かに越えて、僕の中の「お夏狂乱」状態にある、と言っておこう――

2016/11/05

譚海 卷之二 常州鹿島參詣の事

 

常州鹿島參詣の事

○常陸息洲(いきす)より鹿島へわたる舟路(ふなぢ)の中に、八丈竹とて珍敷(めづらしき)竹(たけ)生(おひ)たる島あり。其竹は皆八ふしより外(ほか)なるものなきゆへかくいひならはしたるとぞ。舟中より見て過(すぐ)る所なれば、ある僧鹿島參詣の時、わざと舟さしよせて島へのぼらんとせしに、人跡罕(まれ)なる草莽の中にてためらひたる所、赤きへびのかしら火入(ひいれ)程にあるが、さし出(いで)て追來(おひく)るまゝ、驚(おどろき)て舟に乘(のり)漕去(こぎさり)たり。兩日は頭痛して心地なやましく覺(おぼえ)たり。見合(みあひ)たる時蛇毒にあたりたるにやと語りぬ。赤き蛇にて斑文(はんもん)あるもの也といへり。右海路(かいぢ)夜泊(やはく)の所(ところ)波のひゞき鈴の聲にたぐへて、よもすがら聞へければ、そのよしを尋(たづね)しに、此海底には神代(かみよ)の鈴とて水中の巖(いはを)にかけあり、一ところならず風波(ふうは)の便宜に隨(したがひ)て、かく時々聞え侍ると、舟人かたりけるとぞ。又鹿島の宮より東の海濱は、高天ケ原とて誠(まこと)日本の地の極東也。皆々燒土(やけつち)の樣に黑くかたまりたる砂石のみにて人家なし。五更已前行向(ゆきむかひ)て日輪の出(いづ)るを拜するに、その光景富士絕頂にてみるにことならずとぞ。此邊つゝじの大木多し、花の比(ころ)は滿山に照耀(しやうき)して美觀也。但(ただし)こゝのつゝじは世にいふきりしま也、緋紅(ひこう)成(なる)物にはあらず丹紅(たんこう)色(しよく)成(なる)ものにて、別種なるものとぞ。

[やぶちゃん注:「常陸息洲」現在の茨城県神栖(かみす)市息栖(いきす:グーグル・マップ・データ)。東国随一の古社鹿島神宮の南八キロほどの位置にあり、ここには息栖神社があって、鹿島神宮と千葉県香取市にある香取神宮を合わせて東国三社と呼ぶ。「息栖」とは「沖洲(おきす)」の転訛で、香取海(かとりのうみ:古代の関東平野東部に湾入し、香取神宮の目前に広がっていた内海を指す。江戸時代前まで下総・常陸国境周辺に広大に存在し、鬼怒川及び小貝川・常陸川)が注いでいた。その後、河川が運ぶ土砂によって次第に砂洲化していったが、しばしば洪水で決壊し、現在も複雑な水路を残す。当時、息栖から鹿島神宮へ向かうには、その後身として自然が形成した淡水の外浪逆浦(そとなさかうら)を渡る必要があった)に浮かぶ沖洲に祀られていたことに由来するとされる。

「八丈竹」それが植生するという島とともに不詳。

「八ふし」「八節」。どんなに成長しても総て節が八つしかない、という意味であろう。後述の変事(奇体な真っ赤な鎌首を持った蛇が守護する)から考えると、神代の事柄に纏わる神聖な竹なのであろうが、不詳。植物学的には、そのような竹はちょっと考えにくいと私は思う。

「罕(まれ)なる」「稀なる」。

「草莽」音なら「サウマウ(ソウモウ)」であるが、或いは「くさむら」と当て読みしているかも知れぬ。

「火入」タバコに火をつけるための火種を入れておく器を「火入れ」と言うが、ここは或いは、その火種ほどに頭部が真っ赤な色をした蛇の謂いか。

「兩日」二日ほど。

「見合(みあひ)たる時」僧が上陸しよう(そしてこっそり神聖な八節の八丈竹を採取しよう)とした際にその異蛇の眼と向かい合ってしまった瞬間に。

「毒」目に見えぬ毒気(どくけ)。

「赤き蛇にて斑文(はんもん)あるもの」これは普通に有毒蛇であるヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii である。

「かけ」「缺」。かけた部分。

「一ところならず風波(ふうは)の便宜に隨(したがひ)て」それが一ヶ所ではなく、数か所存在し、その折々の海上の風の強さ、それによって生ずる波の大きさの違いや、それらが海底のその欠けのある岩礁に与える、水圧や海流の動きの違いによって。

「鹿島の宮より東の海濱は、高天ケ原とて誠日本の地の極東也」「高天ケ原」は「たかまがはら」。ウィキの「鹿島神宮」には、『鹿島神宮の東方の高天原には「鬼塚」という全長』八十メートル『の古墳がある』、という叙述がある。そもそもが、この鹿島神宮は「常陸国風土記」にも、その『由緒が記載されており、「香島の天の大神」』(かしまのあめのおおかみ:『この神は天孫の統治以前に天から下ったと』する古い面白い神である)『が高天原より香島の宮に降臨したとしている』のである(下線太字はやぶちゃん)。

「五更」午前三時~午前五時頃或いは午前四時~午前六時頃。寧ろ、季節総てに通用する日の出前の曙の時刻と考えればよい。

「照耀」照り耀く。漢語としても、朝日が大地虚空を照らすさまによく用いる熟語である。

「きりしま」霧島躑躅。ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属キリシマツツジ Rhododendron × obtusum。別名、「霧島」「本霧島」「佐田躑躅」などとも呼ぶ。常緑低木で四月から五月頃に小振りの花を開花させる。色は紅色乃至桃色から白。

「緋紅」鮮やかなくっきりとした赤。クリムゾン・レッド。これ

「丹紅色」キリシマツツジの中に見られる中間色である薄い薔薇色、所謂、淡紅色であろう。これ

「別種」何に対して言っているか、やや戸惑うが、朱色が主調であり、最も広汎に本邦に植生するものと考えるなら、ツツジ目ツツジ科ツツジ属ヤマツツジ Rhododendron kaempferi であろう。]

譚海 卷之二 武藏野に五兵衞まむしを療する家傳の事

武藏野に五兵衞まむしを療する家傳の事

○武藏野に五兵衞といふ百姓、代々一子相傳の祕方ありて、まむしの毒にあたりたるを療治する事奇妙なり。聞傳(ききづた)へ諸方より群集(ぐんじゆ)する事たへず。先年親五兵衞現在の時は、まむしにさゝれたる人遠方より尋來(たづねきた)り、五兵衞が門内(かどうち)へ入るとはや痛(いたみ)を忘(わする)る程に功驗(こうげん)有(あり)しとぞ。今の五兵衞に至りてはそれほどには及(およば)ざれども、平愈する奇功(きこう)はいちじるしき事なり。まむしにさゝれて毒の紫に凝(こ)りたる所を、五平指にて撫(なで)あげなでおろすに、指に隨(したがひ)てのぼりおりする程に妙を得たる事也(なり)。此五平途中往來の序(ついで)に、まむしへびなどみかへす時、其まゝまてと聲をかくれば、とゞまりてうごく事ならず、此人蝮蝎の類(たぐひ)に付(つき)ては、いか成(なる)子細ありてかくまで奇特(きどく)ある事にやと人の云(いへ)りし。

[やぶちゃん注:「現在」「げんざい」は硬いが、格助詞の「の」には訓では上手く繋がらぬから、そう読んでおく。存命の時の意。

「蝮蝎」音は「フクカツ」であるが、「蝮」(まむし)は本邦にいても、「蝎」(さそり)は本州以北にはいないから、ここはこれで「くちなは」と訓じているものと思われる。この文字列は通常は「蟒蛇」(うわばみ)などと同列で妖怪変化的な「大蛇」の謂いであるが、本邦の大蛇は概ね、人を襲い喰らう「毒蛇」と考えられたから、別段、ここで用いてもおかしくはない。

「奇特」。「奇特」は私は「きどく」と濁って読みたい。「神仏」(ここはそれに準ずる)「の霊験(れいげん)」の意である。]

甲子夜話卷之二 43 中根半七、狂歌にて出身の事

2―43 中根半七、狂歌にて出身の事

先年、御祐筆の中根半七、五十年勤て出進せざりしかば、歳末に述懷の狂哥をよめり。

 

 筆とりて天窓かく山五十年

      男なりやこそ泣(ナカ)ね半七

 

翌年出身せしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

 狂歌の前後は一行空けを施した。

「中根半七」不詳。後の西南戦争で西郷軍に与した同姓同名の人物がいるが、無関係であろう。

「御祐筆」「御右筆」。「いうひつ(ゆうひつ)」。ここは将軍の書記役の文官たる「右筆」の下役(上位の「奥右筆」ではない)の「表右筆」であろうウィキの「奥右筆」によれば、『若年寄の支配下』で、『奥御祐筆(おくごゆうひつ)とも言われる。江戸城本丸の御用部屋に詰めることが多かった』。『江戸幕府初期より右筆制度は存在しており、室町幕府や豊臣政権以来の歴代の右筆の家柄出身者などがこれに充てられていた。徳川綱吉が館林藩主より将軍となった時には、館林から右筆を連れて江戸城に入り、特に奥右筆に任じて、自身が発給する文書の作成などを任せた。これに対して従来の右筆は表右筆と呼ばれるようになる。奥右筆は当初は綱吉側近の数名であったが、後に拡大されて宝暦年間には』十七名『程度にまで拡張された。また人数の増加により表右筆』(三十名前後、後に八十名前後)『の中から奥右筆に転じる事例が増え、後にはこの表右筆→奥右筆という昇順が確立する』。『奥右筆が表右筆より重視されていたのは待遇面でも明らかである。享保年間の制によれば、右筆の長である組頭の禄高を比較すると、表右筆組頭が』役高三百石・役料百五十俵『であったのに対して、奥右筆組頭は』役高四百石・役料二百俵であった。また、『一般の右筆においても表右筆が』百五十俵の『蔵米の給与であったのに対し、奥右筆は』二百石高『の領地の知行だった』。『奥右筆はまた、幕府の機密文書の管理や作成なども行う役職で、その地位こそ低かったものの、実際は幕府の数多い役職の中でも特に重要な役職だった。現在で言うところの政策秘書に近い存在といえる。ただし奥右筆の中には幕閣(大老や老中)が集う会議で意見を述べることが許されていた者もいた』。『というのは、諸大名が将軍をはじめとする幕府の各所に書状を差し出すときには、必ず事前に奥右筆によってその内容が確認されることが常となっていた。つまり、奥右筆の手加減次第で、その書状が将軍などに行き届くかどうかが決められるほどの役職だったのである。また、幕閣より将軍に上げられた政策上の問題について、将軍の命令によって調査・報告を行う職務も与えられていた。その報告によって幕府の政策が変更されたり、特定の大名に対して財政あるいは人的な負担を求められる事態も起こりえたのである』。『このため、諸大名は奥右筆の存在を恐れたともいう』とある。残念ながら、この中根さん、「天窓」(「あたま」と訓ずる)搔き搔き仕事をするというのは、ミスが多いことを示しており、出世したというても、これ、せいぜい、この表右筆組頭までであろうと私には思われる。

「五十年」十代で入ったとしても既に七十近い老体である。よほど、右筆としては才能がなかったとしか思えない。

「勤て」「つとめて」。

「出進」出世。

「狂哥」狂歌。

「かく」「搔く」に「書く」「賭く」(次注参照)を掛ける。

「山」「や間」(ぼんくら頭を搔き搔きして五十年もの)を掛け、しかも恐らくは「山」を「賭く」で、山の鉱脈を探し当てるのは極めて確率の低い賭けであったことから「山を賭ける」と今も使うように、「万一の僥倖(この場合は右筆身分での上位への出世)に賭けること」を、それこそ、「掛/賭けた」のではあるまいか? 大方の御叱正を俟つ。

「泣(ナカ)ね」江戸弁の「泣かねえ」に本姓「中根」を掛けた。

谷の響 三の卷 四 震死

  四 震死

 

 且説(さて)、この日丙辰七月六日なり。大水おちて間もなく黒雲宙(そら)にうちまき、暴雨篠をつくが如く迅雷(いかつち)物すさまじくなりわためきて、十餘ケ處に震隕(おち)たるうち、東光寺村の伊兵衞といへるものゝ家におちて、そのまゝ燃上り家二軒を燒きたるが、ふびんなるはこの伊兵衞の處女(むすめ)は十三妹は十一なる二人の子みぢんになりて燒死せり。又、柏木町村の喜右衞門といへるものゝ馬大田村の山中にてうたれ死し、碇ヶ關の某の馬大淸水の村頭(はし)なる樹の下にてうたれたりき。さてこの時、伊兵衞の姉處女は小屋にありて馬の飼草をきりてゐたるに、雷鳴の強きに怖れ母屋に入りて妹と共に雷にうたれ、碇ケ關の馬士は馬をすて茶屋にかけこみて難を逃(のが)れ、柏木町のものは樹の下によりて難をのがれ、碇ヶ關の馬は樹の下にありてうたる。橫難の身にかゝるにや、内外行止規(のり)とすべきにあらざるなり。

 且説(さて)、之に類する一語あり。そは伴蒿蹊が閑田耕筆と言へる册子に、一友語らく永源寺末下の僧關東に在りし日、其の野中にて雷雨甚しきにあひて、辻堂を見つけてやすらひしに、一婦人(ひとりのをみな)の子を抱きたるもの同じくかけ入りて晴るをまつに時うつりぬ。僧はいそぐことありしに、止むことを得ず雨を犯して出行たり。一町餘もすぎぬる頃、あとの方に雷落し音せしほどにふり返りて見しに、今まで宿りつる辻堂雷火に燃上りぬ。さてはかの婦人も小兒もうたれて死つらんとあはれさ限りなく、吾のがれしを不思議におぼえぬと話せられぬとぞ。然るに近き年、洛南竹田街道油小路の下にて、四五人雷雨を佗(わ)びて一茶店に休(やすらひ)ひしか、其中兩人は何(いか)ばかりの事かはとて出行たり。人々とゝめしかときかず。程なく雷近く落たりしが、やゝ晴れて殘る人々も南をさして行て見れば、先きの二人路中にうたれて死して有しとぞ。これは強いて出て災にあひ、さきの僧は出てまぬかれたり。或は隣家ヘ雷落ちてこなたの人は震死(ふるひ)しその家は恙(つつが)なき類ひ、年々に聞くことあり。おのおのが命分いかにかせんと言へるは實にさる事なり。

 

[やぶちゃん注:「震死」本文末にある「ふるひじに」と訓じておく。雷電による感電死を認識していたかどうかは判らないが(認識していた可能性はある。実際に山岳部の顧問をしていた際、八ヶ岳で激しい雷雨に遇ったが、比較的近くに落ちた際、生徒の一人がびりびりとした感電を確かに体で感じたと蒼白になって訴えたことがあるからである)、およそ、単なる落雷による地「震」(ない:地面の震動)とともに発生した雷撃による火災(落雷が火のない所に火災を起こすことは当然の如く知られていた)による焼「死」などという迂遠な意味ではあるまい。

「この日丙辰年七月六日」特異点の連関記事で、前条「三 壓死」の大雪崩で萬次郎が木端微塵になって圧死した同日に別な場所で発生した落雷死の記載である。即ち、これは安政三年「丙辰」(ひのえたつ)の旧暦七月六日の出来事で、既に示した通り、同日はグレゴリオ暦で一八五六年八月六日である。

「迅雷(いかつち)」二字へのルビ。

「震隕(おち)たる」二字へのルビ。

「東光寺村」底本の森山氏の補註によれば、『南津軽郡田舎館村東光寺(とうこうじ)』とある。「田舎館村」は「いなかだてむら」と読み、弘前の北東に完全に同名の村として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。それにしても「田舎」を含む地名って、結構、珍しくないか?

「みぢん」「微塵」。雷撃の直撃を受けて、肉体が完全に裂けていたのであろう。長い時間、高温で焼かれた焼死体では破砕することや男女の区別もつかなくなるケースもままあるが、この時代の民家の単純火災事例では普通は遺体が「微塵」になることは少ないと思われるからである。

「柏木町村」底本の森山氏の補註によれば、『南津軽郡平賀町柏木町(かしわぎまち)』とある。南津軽郡平賀町は弘前の南東のここ(グーグル・マップ・データ)で、しかもその町域の施設を見ると、平賀町を入れずに「柏木町」と表記する住所が存在する例えば「平川市立柏木小学校」の住所は「平賀町」内に確かにありながら、「青森県平川市柏木町柳田」である)。行政上の「町」の中にさらに「町」を附す地区があるというのは旧町名を保存するよい仕儀と思う。味気ない丁目など、私は嫌いだ。

「大田村」不詳。現在の青森県北津軽郡板柳町に古くは「太田村」ならあり、ここなら前の柏木町村から馬を連れ行く範囲ではある。但し、航空写真を見る限りでは、山中というよりは丘陵程度にしか見えない。そのずっと北の五所川原市の北の飛び地内(弘前の北で十三湖の北部)にも古く「太田村」があり、そこなら確かに「山中」なのだが、ここはあまりに遠過ぎる気がする。

「碇ヶ關」既出既注だが、再掲する。森山氏補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大淸水」現在の弘前の南直近の青森県弘前市大清水であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「村頭(はし)」「頭」一時へのルビ。村の入口。

「飼草」「かひば」。飼(い)葉。牛馬の餌として与える草や藁など。「秣・馬草(まぐさ)」のこと。

「橫難の身にかゝるにや、内外行止規(のり)とすべきにあらざるなり」「橫難」は「わうなん(おうなん)」で「思いがけなく起こる災い・不慮の災難」の意。「内外行止」「ないがいかうし」と音読みしておく。これは「家屋の中か内かの違い及び歩行等の運動行動をしているか立ち停まって凝っとしているかという違い」の意であろう。それらは必ずしも「規(のり)」、決定的で最善の選択・処置・退避の大原則として、一方に規定しすることは出来ないものなのである、という結論である。この事例の中、屋外にあって大木の直下にいるというのは、落雷を受ける危険度が有意に高まることは知られている。しかし、平尾の謂いは、基本、正しい。また、化繊の着衣や金属物質をいろいろ持っている現代人の落雷リスクは当時の彼らよりも遙かに高くなっているとは言えるように思うが、結局、地震も噴火も落雷も、我々の科学的知見では、基本、予測することは不可能なのである。

「伴蒿蹊が閑田耕筆と言へる册子」江戸後期の元商人で歌人・文筆家であった伴蒿蹊(ばん こうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年:生家は近江八幡出身の京都の商家であったが、八歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となり、十八歳で家督を継ぎ、家業に専念、三十六歳で家督を譲って隠居・剃髪、その後は著述に専念した。ここはウィキの「伴蒿蹊に拠った)の享和元(一八〇一)年刊の随筆(因みに、彼は多くの著作を残したが、中でも伝記集「近世畸人伝」は優れた作品で、私の愛読書でもある)。以下の話は同書の「卷之二」の「人部」にある一条。以下に引く(吉川弘文館の「日本随筆大成」版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した)。

   *

○一友人かたりて、永源寺末下の僧、關東に有し日、某の野中にて雷雨甚しきに逢ひて、辻堂を見つけて休らひしが、一婦人の子を抱きたる者、同じく駈(カケ)入て晴るをまつに、時うつりぬ。僧はいそぐこと有しからに、止ことを得ず雨を犯して出行たり。一町餘も過ぬる頃、あとのかたへ雷の落し音せし程に、ふり返りて見しに、今までやどりつる辻堂、雷火に燃(モヱ)上りぬ。さては彼婦人も小兒もうたれて死(シ)つらんとあはれさ限なく、吾免しを不思議におぼえぬと、話(ワ)せられぬとぞ。然るに近き年、洛南竹田街道油小路の下にて、四五人雷雨を侘て、一茶店に休らひしが、其中兩人は、何ばかりの事かはとて出行たり。人々とゞめしかどもきかず。程なく雷近く落たりしが、やゝはれて後、殘る人々も南へさして行て見れば、さきのふたり、路中にうたれて死てありしとぞ。これは強(シヒ)て出て災にあふ。さきの僧は出てまぬかれたり。或は隣家へ雷落て、こなたの人は震死し、其家は恙なきたぐひ、年々に聞ことあり。おのおのが命分いかにかもせん。

   *

これと平尾の引用を比べると、殆んど狂いがない。やはり平尾の堅実さが知れる。

「永源寺」伴蒿蹊のフィールドから考えて、これは現在の滋賀県東近江市永源寺高野町にある臨済宗瑞石山永源寺であろう。同寺は南北朝期に臨済宗永源寺派を起こし、大本山である。

「末下」末寺。同永源寺派は滋賀県を中心に、現在も約百五十の末寺を持つ(ウィキの「臨済宗に拠る)。

「一町」約百九メートル。

「洛南竹田街道油小路」「竹田街道」は江戸時代に開かれた京と伏見を結ぶ街道の一つで、京の七口の一つ「竹田口」から現在の伏見区竹田を経て、伏見港へと繋がっていた。非常に優れた平安京の解説サイトである大路・小路」の「油小路」によれば、『平安時代中期以降の右京の衰退と、それに伴う朱雀大路の衰退によって、この小路は市街のほぼ西限となった』とあり、『室町時代には商業街となり、酒屋が集中』応永三二(一四二五)年から翌年にかけての記録である「酒屋交名」に『よれば、一条大路から七条大路にかけて』二十六軒もの『酒屋があったようである』と記すが、その後の応仁の乱によって荒廃してしまう。天正一〇(一五八二)年、『「本能寺の変」が起こった当時の本能寺は、西側をこの小路に接していた』。天正一八(一五九〇)年になると、『豊臣秀吉によって再開発』が開始され、天正一九(一五九一)年には『油小路通の東側に沿って梅小路通の北~九条通に、秀吉によって「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれ、九条通付近で西に屈曲していた。この御土居をめぐらす際、この通りを中心としたという』。『当初は油小路通には出入り口は設けられなかったと考えられるが』、元禄一五(一七〇二)年に描かれた「京都惣曲輪御土居絵図」に『よれば、九条通付近に江戸時代に入ってから御土居の出入り口が開かれたようである』とある。『江戸時代には、南で伏見への往還道に通じており、脇さし屋・鞘ぬし・小袖表・質屋・ほり物師・針屋・仏具屋などの商家があった』。『また、京都では最も多い十数藩の京屋敷が軒を連ね』ていたともある。知られた洛中洛外図屏風(アメリカ・ボストン美術館蔵)には、この『油小路通を進む朝鮮通信使の行列が描かれている』とある。

「下」「しも」。油小路の南の端の方。八条大路と南端の九条大路の間か。

「休(やすらひ)ひしか」「か」はママ。「が」。

「出行たり」「いでゆきたり」。

「とゝめしかときかず」ママ。「停(とど)めしかど聞かず」。

「隣家ヘ雷落ちてこなたの人は震死(ふるひ)しその家は恙(つつが)なき」隣りの家に落雷したのに、その落ちた家の家人は全く無傷であったのに対し、その隣家の家人が死んだのである。あり得る話である。

「年々に」「としどしに」。年ごとに、まま。昨今、人家に落雷して死傷するケースは今はあまり聴かないのは、現代建築がたまたま一種のアースを持ったファラデー箱状態であるからか。

「おのおのが命分いかにかせん」それぞれの「命分(みやうぶん(みょうぶん)」(天から与えられた寿命)はこれ、如何ともし難いものである、ということをいうのであろう。

「實に」「げに」。]

諸國百物語卷之四 十六 狸のしうげんの事付タリ卒都婆の杖の奇特

    十六 狸のしうげんの事付タリ卒都婆(そとば)の杖の奇特

Tanukisyuugen


 丹波のかめ山に宇都宮小兵衞(うつのみやこひやうへ)と云ふ百しやう、有り。むすめを四人もちけるが、姉々はみな、えんにつけ、四ばんめのいもふと、いまだ、ゑんにつかざりしを、となりざい所の、うとくなる百姓のかたよりとなのりて、ゑんぐみをとりむすばんとて、なかだち、あちこちと、きもいりて、しゆび、とゝのひ、すでに、にちげんもきわまりけるが、その日げんの二、三日まへに、なかだち來りて、

「かねがね、きわめ申したる日は、あのはうに、にわかに、さしあひ申したく、そのまへ日に御さだめ下され候へ。すなはち、まづ、むこ入りをさきへさせ、さて、むすめ子もかへりに同道いたし候はん」

と云ふ。むすめのをやも、ともかくも、と、へんじして、さて、その日になりければ、姉々ふうふもきたり、とりもちけるが、日くるゝと、はや、むこどの、きやくじん、なかだち、うちつれきたられ、いろいろのしん物など、しうとの座敷にならべをきけり。大あねふうふは、みちとをかりしゆへ、おそく來たられけるが、夜みちたびぢには、まよいの物にあわぬためとて、卒都婆(そとば)のつえを、つねつね、こしらへもちけるが、此夜も、このつえをつき來たり。まづ、むこどのを見んとて、うらへまわり、あね、なに心なく、つえにて、きのすだれをあけて、のぞきみければ、みなみな、毛のはげたる、ふる狸どもと、酒もりしてゐたり。ふしぎにおもひ、ていしゆをよび、みせければ、ていしゆ、みて、

「人也」

と云ふ。あねのめには、たゞふる狸と見へ、座敷にならべをきたる、しん物、と、おぼしき物は、みな、牛馬(うしむま)のほねと見へたり。あねもふしんにおもひ、やゝありて思ひつけ、かのつえにて、すだれをかゝげさせ、ていしゆにみせければ、まことに、むこどのをはじめ一座のきやくじん、みなみな、ふる狸にて有りければ、あねのていしゆ、おどろき、ひそかに、あいむこどもをよび、

「かくかくのしだい也。たがいにぬかるな」

と、しめしあわせ、せど、門(かど)の戸をかため、まど、えんのしたまで、ふさぎをき、さらぬていにて、あねむこ、座敷へまかりいで、

「むこどのゝさかづき、これへ下されよ」

とて、むこどのゝそばへ、つつ、と、より、やがて、かいなを、むず、と、とり、とつておさへ、

「おのれは、にくきやつばらかな」

といへば、きやくじん、なかだち、

「こはいかに、ろうぜき」

と云ふ所を、あいむこども、ひしひしと、とりつき、わきざしをぬき、さしとをす。しうと、しうとめ、おどろき、

「これは、物に、くるい給ふか」

と云ふをも、きゝいれず、むこどのゝ下人供のものどもまで、切りにかゝれば、

「われわれは人げんにて候ふ。御ゆるし候へ」

とて、えんのした、窓のそとへ、にげんとすれども、かなはず。みなみな、きりころされけるをみれば、いく年へたる狸にて有りしと也。人々、おどろき、そのあくる日、まことのしうげんいたしけると也。これも、ひとへに、そとばの杖の、きどく也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「狸のしうけんの事」。「かくかくのしだい也。たがいにぬかるな」は底本では鍵括弧なしで改行もないが、敢えてかく操作した。

「しうげん」祝言。婚姻の儀。

「丹波のかめ山」「丹波の龜山」現在の京都府亀山市。

「えんにつけ」「緣に付け」結婚させ。

「四ばんめのいもふと」四番目の妹は恐らく末子である。姉妹(一般には三姉妹の末妹)の末子の運命だけが姉と異なり、辛苦・困難・異類との婚姻を強いられる(この場合はまさにその捩じれた話柄)という設定は、汎世界的な民族伝承譚のステロタイプである。「シンデレラ」や「猿の婿入り」或いは「口裂け女」の設定にこれらの類型がはっきりと出ている。

「ゑん」「緣」。

「となりざい所の」「隣り在所」。

「うとくなる百姓のかたよりとなのりて」「有德なる百姓の方より、と名乘りて」裕福な百姓の御方からと言う触れ込みで、是非とも「ゑんぐみをとりむすばんと」(緣組を取り結ばんと)いう話を「なかだち」(媒人(なこうど))が持ち込んで参り、これまた「あちこちと、きもいりて」(まことに熱心に嫁として迎えたいと、あれこれ、慫慂説得致いた。「きもいりて」は「肝煎りて」で「万事万端世話を焼いて」の意)によって。

「しゆび、とゝのひ」「首尾、調ひ」。

「にちげんもきわまりけるが」「日限も極まりけるが」。祝言の日取りも決まっていたところが。その日げんの二、三日まへに、なかだち來りて、

「あのはうに」「あの方に」。先方(婿方の家)に。

「にわかに、さしあひ申したく」「俄かに、差し合ひ申し度く」。急に差し障りが生じましたによって、祝言日限の差し換え(前倒し)をお願い致したく。この「さしあひ」は異例な用法で、「差し障りがある」の意ではなく、「予定の差し換えをする」の敷衍的な謂いであろう。但し、「さしあふ」には「差し替える」の意味は本来なく、寧ろ、実は「差支えがある」が原義で、「ある事態が重なり合う・バッテイングしてしまう」の意が本来である。しかし「申したく」と言う願望表現からは、以上のように訳さないと意味が通らぬ。

「むこ入りをさきへさせ、さて、むすめ子もかへりに同道いたし候はん」地方によっては、嫁にとる場合でも、婿がまず嫁の家に出向き、そこで祝言を挙げ、さらに嫁同道の上、婿の家で再度、祝言の儀を執り行う風俗もあったやに私は聴いている。

「ともかくも」「どのようでも結構で御座います。」「如何様にても構いませぬ。」。

「姉々ふうふもきたり」三人の嫁いだ姉「姉夫婦も」皆「來たり」。

「とりもちけるが」「取り持ちけるが」。嫁の家で行う祝言の儀のための用意や来客の接待の準備をすることとなったが。

「日くるゝと」「日暮るると」。

「むこどの、きやくじん、なかだち、うちつれきたられ」「婿殿、客人、媒人、打ち連れ來られ」この三者(婿殿・客人・媒人)は並列。――日暮れと同時に――一気に――一緒に来た――のである。ここがミソである。

「しん物」「進物」。

「しうと」「舅」。

「大あねふうふ」「大姉夫婦」。四人姉妹の長姉夫婦。

「みちとをかりしゆへ」「道遠(とほ)かりし故(ゆゑ)」。歴史的仮名遣は誤り。

「たびぢ」「旅路」。

「まよいの物」「迷ひの物」。歴史的仮名遣は誤り。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に彷徨(さまよ)う『霊や変化』(へんげ)とある。

「あわぬ」「遇はぬ」。歴史的仮名遣は誤り。

「卒都婆(そとば)のつえ」「つえ」は「杖(つゑ」)の歴史的仮名遣の誤り。塔婆心、基! 老婆心乍ら、間違えてはいけないが、これは挿絵を見て戴ければ判る通り、実際の卒塔婆(供養・追善のために墓などに立てる細長い板。本来は供養のために石製の五輪塔を作るところを、その板先を同形に切り込み、そこに五輪塔同様に梵字や経文などを記した板塔婆)を杖にしたものではない(それでは朽木の卒都婆に腰掛けている「卒塔婆小町」並に非礼である!)。先の「江戸怪談集 下」の脚注に、この『卒塔婆の杖は、特にあつらえて、そのような経文を書き入れた六角棒』である。

「つねつね、こしらへもちけるが」「常々、拵へ持ちけるが」。

「このつえをつき來たり」「此の杖(つゑ)を突き來たり」。

「うらへまわり」家の「裏へ𢌞(まは)り」。歴史的仮名遣は誤り。

「なに心なく」これという意味もなく。たまたま、やや高い位置に「木の簾(すだれ)」があったから、持っていた卒塔婆の杖を使って差し上げただけの意(挿絵参照)。

「毛のはげたる」「毛の禿げたる」。古「狸ども」だから毛が「禿げ」ているのか?

「ていしゆ」長姉自身の夫。挿絵はこの瞬間を切り取ったもの。

「人也」「ひとなり」。「何だって言うんだ。お前の言うような変なものじゃない。皆々、真面(まとも)な人(ひと)じゃないか。」。妻は見せる前に、夫に「みんな、化け物よッツ!」と耳打ちしたのであろう。

「あねのめ」「姉の目」。

「ほね」「骨」。

「あねもふしんにおもひ」「姉も不審に思ひ」。夫の目には普通の人に見えるからである。そこで、「やゝありて思ひつけ」、少し経って、はっと思い当ったのである、自分は現に今、卒塔婆の杖で簾を掲げて見ていることを、である。

「あいむこども」長姉の下の二人の妹の夫。義弟二人。描写は省略されているが彼らにも卒塔婆の杖で簾を掲げた状態での中の様子を見せて現認させたのである。

「せど、門(かど)の戸をかため」「背戸・門の戸を固め」。裏口及び表口の戸を内からは容易に開けられぬように閉ざし。物を置いたり、閂(かんぬき)を打ちつけにしたのであろう。

「さらぬていにて」到着の挨拶代りの一献という風に、極めて平素なる言祝ぎの振りをして。

「あねむこ」長姉の夫。

「やがて」そのまま、即座に。

「かいな」「腕」。

「とつておさへ」「捕つて押さへ」。

「にくきやつばらかな」「憎き奴輩(やつばら)かな!」。「ばら」は接尾語で、人を表す語に付き、二人以上、同類がいることを示す。現在は見下した言い方であるが、古語では必ずしもそうした賤称の複数形ではなく、フラットな場合も多い。但し、ここはそのニュアンスの方がいいことは言うまでもない。

「ろうぜき」「狼藉」。「無法なる仕儀!」。

「わきざし」脇差は一般の百姓や町人でも相応の地位にある者は所持が許されていた。

「しうとめ」「姑」。

「くるい給ふか」「狂ひ給ふか」。歴史的仮名遣は誤り。

「われわれは人げんにて候ふ。御ゆるし候へ」ここは面白い。取り立ての係助詞「は」は、あたかも、「婿や客人や媒人は化け狸でごぜえやすが、あっしらは金で雇われた人間でごぜえやすで! お助けぇえ!」と叫んでいるようではないか。

「にげん」「逃げん(=む)」。

「まことのしうげん」「眞(まこと)の祝言」。本当の隣村の富農の息子との婚儀。即ち、縁談自体は事実であって、それに化け狸御一行が乗じた訳で、しっかりと大団円、ハッピー・エンドとなっているところがすっきりとしていて、とてもよろしい。]

2016/11/04

譚海 卷之二 越中風俗の事


越中風俗の事

○飛驒と越中の界(さかひ)の山に風穴(かざあな)といふあり、廣さ七間ほどの穴なり。石を穴中に投(なぐ)れば風ふく、石の大小によりて風の吹(ふく)事も然り。風吹出(ふきいづ)れば日々やまず國中にみちてあるゝゆへ、姦奸(かんかん)の徒(と)米價の利を競ひ、秋禾(あきのみのり)の最中ひそかに彼(かの)山へ行(ゆき)石をなげ風をふかせ、收穫の妨(さまたげ)をなせし故、領主より秋禾の時に及べは吏卒を發し、おびたゞしく山下をかため守る事に成(なり)たり。それゆへ米價の低昂(ひくたか)をなす姦事(よこしま)止(やみ)たりとぞ。又同國繩池(なはがいけ)と云(いふ)は竪橫一里に一里半程の湖水也。此池へ誤(あやまり)て鐡氣(かなけ)のものをおとす時は、淫雨(いんう)日をわたりて晴(はる)る事なし。それゆへ此(この)落したる鐡(かね)を入水(じゆすゐ)してひろへあぐる人、代々其(その)家ありてつとむる事也。此も姦利(かんり)米價の高下(かうげ)を操るたよりとなせしかば、今は池の四邊へ柵(さく)もがりをゆひ、番小屋をすへ防禁(ばうきん)嚴重の事に成(なり)たり。先年此池のほとりへ姦利をなせしものを梟せられし事も有(あり)しとぞ。此(この)風穴有(ある)山は越中池浪(いなみ)といふ所也。北陸道今(いま)ゆするぎより南へ入(いる)事五里に有(あり)。今(いま)石動(ゆするぎ)はくりからおとしの地をさる事(こと)二里也。池浪は往古上宮太子の乘(のり)玉ひし駒(こま)ひづめをもちて地をほりしかば、泉の出けるより名とせり。隨泉寺といふ伽藍の地也。頽廢の後(のち)本願寺宗の敬如上人再興有(あり)て、今は東本願寺に屬する寺となる。東本願寺建立最初根本の寺なり。又繩池(なはがいけ)は池浪をさる事二里西に有(あり)、繩池の二里西に瑪瑙山(めなうやま)あり、一山みな然り、人至る事を禁ず。此山のふもと左の京と云(いふ)所、日本にて往古より人參(にんじん)を出(いだ)す地也。今の國主にいたり採(とる)事をゆるされず、是より五箇の庄までは黃蓮(わうれん)の生ずる山也とぞ。

 

[やぶちゃん注:「池浪(いなみ)」と「石動(ゆするぎ)」は珍しく原本のルビ。

「飛驒と越中の界(さかひ)の山に風穴(かざあな)といふあり」これは現行でも現存し、祭祀が行われている。一見でビジュアルに分かり易いのは、富山県「南砺市」(なんとし)公式サイト内の「風よ鎮まれ!風神堂祭典」、ここに纏わる伝承を読むなら、「南砺市郷土Wiki」の「八乙女山の風穴とにわとり塚」(三枚画像)がよい。より学術的なものとしては、こちら(井波町文化財資料)の解説(PDF)、或いは大浦瑞代氏の詳細な論文「富山県南砺地域の不吹堂(ふかんどう)祭祀にみる局地風の認知」(PDF)が最適である。後者では物理学的な検証による現象解明の他にも、「風穴の伝承」という章で、諸記載を精査した資料が載るので必見である(但し、本「譚海」の記事は何故か採られていない)。当初、私は「風穴」を「ふうけつ」と読んでいたが、「南砺市文化芸術アーカイブズ」の「八乙女山鶏塚と風穴」(ここでは「やおとめやまとりづかとかざあな」と読んでいる)によって、「かざあな」に変えた。

「七間」十二メートル七十三センチ弱。

「姦奸(かんかん)の徒(と)」邪(よこし)まな企みを持った輩(やから)。

「米價の利を競ひ」米の値段を釣り上げて利を競って儲けんと。

「秋禾(あきのみのり)」私の推定和訓。音の「しうくわ(しゅうか)」では硬くて厭である。

「及べは」ママ。

「低昂(ひくたか)」私の推定和訓。

「姦事(よこしま)」同前。二字でそう訓ずることとした。

「繩池(なはがいけ)」現在の南砺市の「つくばね森林公園」(旧・城端町蓑谷)にある「繩が池」サイト「いこまいけ南砺」の「縄ヶ池」によれば、標高千百四十五メートルの高清水山の山腹を流れる川が山崩れを起こし、それで出来た堰止湖である。広さは四千九百六十平方メートル、湖面標高は八百メートル、池の最深部は約十メートル、池の周囲は約二キロメートルあり、古来、竜神が住と伝えられる。同池の『南側には湿原が広がり、ミズバショウの群生地となってい』るが、本邦に於いて標高千メートル以下の高度での『大群生としては南西限とされてい』おり、『「縄ヶ池みずばしょう群生地」として富山県天然記念物に指定されてい』る、とある。雪解け後の五月上旬から下旬にかけて花が咲くとあるが、私も一度、高校一年の時、生物部で五月に日帰りで行った覚えがあるが、残念ながら、水芭蕉は咲いていなかった。

「淫雨」長く降り続く雨。長雨。

「もがり」「虎落」と書くが、これは当て字で、中国で粗い割り竹を組んで作った垣を指す「虎落」の用字を転用したに過ぎず、「もがり」の語源は未詳である。竹を筋違いに組み合わせ、繩で結び固めた柵 や垣根を言う

「ゆひ」「結ひ」。

「すへ」「据え」。歴史的仮名遣は誤り。

「防禁(ばうきん)嚴重の事」藩(加賀藩・越中国は大半が前田領であった)が池への侵入や物の投げ入れを厳重に禁じたこととしたことを指す。

「梟せられし事も有しとぞ」底本では「梟」の下にポイント落ちで『(首)』と補訂されてある。

「越中池浪(いなみ)」現在の南砺市井波(いなみ)。

「ゆするぎ」「石動(ゆするぎ)」現在の富山県小矢部(おやべ)市石動町(いするぎちょう)。

「五里」二十キロメートル弱。

「くりからおとしの地」「倶利伽羅落し」で知られる地。越中と加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠。現在の富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町の境にある。「倶利伽羅落し」は寿永二年五月十一日(ユリウス暦一一八三年六月二日)にここで行われた源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦で義仲が案じたとされる奇計戦略に基づく。ウィキの「倶利伽羅峠の戦い」によれば、「源平盛衰記」には、『この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて』谷に陣を張っていた『敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものであ』った、とある。

「二里」八キロメートル弱。

「往古」「むかし」と訓じたいが、本文では禁欲した。

「上宮太子」聖徳太子の異称。底本の竹内氏の注に『甲斐の黒駒で、聖徳太子がこれに乗って雲中を飛行した話は名高い』とある。貴種にありがちな、あり得ない伝承の一つ。私はこの手の話が大嫌いである。

「隨泉寺」ママ。戦国時代に越中一向一揆の拠点とされた、現在の南砺市井波にある、浄土真宗の真宗大谷派井波別院杉谷山(すぎたにさん)瑞泉寺のこと。

「本願寺宗」現在の京都府京都市下京区烏丸七条にある東本願寺の真宗大谷派のこと。

「敬如上人」恐らく、本願寺教団の東西分裂の当事者の一人であった真宗大谷派本願寺第十二世教如(きょうにょ 永禄元(一五五八)年~慶長一九(一六一四)年)の誤り。瑞泉寺は慶安二(一六四九)年に、この教如を十二代法主とする本願寺教団に転派している。

「瑪瑙山」不詳。繩ヶ池から西二里となると、中央附近(グーグル・マップ・データ)ではある。但し、この附近から発する小矢部川や庄川河岸では、現在でも流れ来った瑪瑙や水晶が採取されるらしい。

「左の京」不詳。この地名の位置が判れば、「瑪瑙山」も比定出来る。識者の御教授を乞うものである。

「人參(にんじん)」朝鮮人参(セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng)か(我々に馴染みの野菜の「ニンジン」(セリ目セリ科ニンジン属ニンジン(ノラニンジン)亜種ニンジン Daucus carota subsp. sativus)は科レベルで異なる本種とは全くの別種である)。ウィキの「オタネニンジンによれば、『原産地は中国の遼東から朝鮮半島にかけての地域といわれ、 中国東北部やロシア沿海州にかけて自生する』が、本邦には植生しなかった。しかし、『八代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて朝鮮半島で種と苗を入手させ、試植と栽培・結実の後で各地の大名に「御種」を分け与えて栽培を奨励し』(それが別名の「朝鮮人参」の名の由来)、『日本では福島県会津地方、長野県東信地方、島根県松江市大根島(旧八束町)の由志園などが産地として知られ』、栽培では、『およそ四年ほどの月日を掛けた上で収穫される』とある。

「今の國主」「譚海」は自序が寛政七(一七九五)年であり、当時の加賀藩は第十代藩主前田治脩(はるなが 延享二(一七四五)年~文化七(一八一〇)年)である。

「五箇の庄」既出既注。富山県の南西端にある南砺市の旧平(たいら)村・旧上平(かみたいら)村・旧利賀(とが)村を合わせた五箇山(ごかやま)地域を指す。

「黃蓮」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonicaウィキの「オウレンによれば、『根茎を乾燥させたものは黄連(オウレン)という生薬であり、体のほてり(熱)を抑える性質が有るとされ、胃や腸を健やかに整えたり、腹痛や腹下りを止めたり、心のイライラを鎮めたりする働きが』あり、『この生薬には抗菌作用、抗炎症作用等があるベルベリン(berberine)というアルカロイドが含まれている』ことが判っている、とある。]

甲子夜話卷之二 42近藤石見守の事

2―42近藤石見守の事

近藤石見守は【遠州氣賀を領す。三千四百石餘。交代寄合】寛政中大番頭たり。此人武術を嗜み、武邊形氣の男なりき。予も識人なり。常々途中にて、口添に馬の口繩をさゝせ、己は馬上にて組手をして行く。人と遇へば鞍の前輪に兩手をあてゝ式禮せり。いつも駕籠をば跡より空しくかゝせたり。常の樂は鍛冶にて、みづから刀劍作りけるが、兎角折れ易かりし。人々評して、渠が氣象にて、打物も剛に過るよと云ける。又醉時は、萬一事あるに臨んでは予、手の者を引具し、氣賀の關を守らば、西國大名一人も通すまじきものをとて、氣勢を張りしとなり。後駿府城代に陞り、勤番士の武技を督責し、的射さするとき、或は高き木の枝に掛け、或は射手を高き處に居き、的は地の下りたる所に掛けなどして試しとなり。且勤番士水泳不鍛練なりとて、城内の池水を自ら泳ぎ、若き人々を教習せしめしが、老後のこと故、その溜り水の濕に中り、病を得て歿せりとなり。

■やぶちゃんの呟き

「近藤石見守【遠州氣賀を領す。三千四百石餘。交代寄合】寛政中大番頭たり」「遠州氣賀」は現在の浜松市北区細江町気賀(きが)。当該地の東海道の浜名湖を挟んだ北の脇往還であった「姫街道」の一宿「気賀宿」があり、徳川家康によって創設された気賀関所があった。気賀近藤家は江戸初期の名将の一人で遠江井伊谷藩藩主となった近藤秀用(ひでもち)の次男で旗本の近藤用可(もちあり)を始祖とする近藤家支流(なお、秀用の直系の孫に当たる近藤貞用(さだもち)は「旗本退屈男」のモデルとされる)。ここで語られるのは、後の「駿府城代」(後注参照)になったという叙述から第七代当主であった近藤用和であることが判ったウィキの「駿府城によれば、彼が駿府城代を勤めたのは、寛政八(一七九六)年九月十四日から寛政一一(一七九九)年十月二十九日までであり、さらにしらべると、彼は当時、「大番頭」(おおばんがしら/おおばんとう:常備兵力として旗本を編制した部隊の指揮官でこれは番方(武官)の最高位でもあった)でもあったことが確認出来た)。「交代寄合」は「こうたいよりあひ」で旗本の家格の一種。広義の「寄合」(よく呼ばれる「旗本寄合席(はたもとよりあいせき)」は通称でこの「寄合」が正式名。三千石以上の上級旗本で無役の者及び布衣(ほい)以上の退職者(役寄合)の家格を指す)に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して、彼らは参勤交代をする必要(資格)があった。参照したウィキの「交代寄合によれば、禄高は一万石以下ではあったものの、旗本が江戸在府で、『若年寄支配であるのに対し、交代寄合は領地に所在して老中支配であったため』、『大名と同等、もしくはそれに準ずる待遇を受けた』。『大名と同様に参勤交代することを許されていたが、諸大名と異なり参勤は強制・義務ではなく、自発的に行うものとされていた。このため数年に一度しか参勤しない家もあり、寄合御役金として』百石に付き、金二両を八月と二月に分納した。『官位については、一部の例外を除いて通常の旗本と同様に役職就任時以外の任官はなかった』とある。

「武邊形氣」「ぶへんかたぎ」武勇を旨とする気質(かたぎ)。

「識人」「しりびと」。

「途中」江戸城登城の途中の意であろう。

「口添」「くちぞへ」。馬の口取り(馬を引くために付けた口取り繩)の者。

「さゝせ」「指させ」。特定の方向を指させる、向かわせるの意。

「組手」ゆうきこうじ氏のブログ「結城滉二の千夜一夜」の『甲子夜話の154=松浦静山』新千夜一夜物語 第254話によれば、『弥蔵(着物の袖の中で腕をやの字に組む)』に組むこととある。三省堂の「大辞林」の「弥蔵」によると、懐手をして握り拳を作り、肩を突き上げるようにした恰好で、これは実は江戸の職人や博奕打うちなどの粋がったポーズであったといったことが記されてある。

「跡」「後」。

「空しくかゝせたり」旗本の登城の式例は駕籠による参第であったのであろう。

「樂」「たのしみ」

「鍛冶」「かぢ」。

「渠」「かれ」。「彼」。

「剛」「がう」。

「過るよ」「すぐるよ」。

「醉時は」「ゑふときは」。

「萬一事あるに臨んでは予、手の者を引具し、氣賀の關を守らば、西國大名一人も通すまじきものを」が常の酔った時の決め台詞である。「氣賀の關」は前注を参照。

「後」「のち」。

「駿府城代」ウィキの「駿府城によれば、寛永一〇(一六三三)年、『幕府は徳川忠長が改易されて直轄領となった駿府に駿府城代を置き、東海道の要衝である当地の押えとした。駿府城代は老中支配で、駿府に駐在して当城警護の総監・大手門の守衛・久能山代拝などを管掌した。譜代大名の職である大坂城代とは異なり大身旗本の職であるが、老中支配の中では最高位の格式』であった、とある。

「陞り」「のぼり」。「昇り」。

「督責」「とくせき」。厳しく批判し、責めたてること。強く要求すること。

「的射さするとき」競射に於いて、的を射させる際には。

「或は高き木の枝に掛け」「的を」である。異例の高さであり、しかもぶら下げるのであろうから動態の的、しかも反動によって的自体に当たっても矢が刺さらないこともあろうから、すこぶる難度の高い的となるように思われる。明らかに実戦で高所に潜んでいるゲリラ兵を狙い撃つ練習である。

「射手を高き處に居き、的は地の下りたる所に掛けなどして試しとなり」「下りたる」は「くだりたる」か。「試し」はママ。前者の反対で、ゲリラ戦に於いて、敵を迎え撃つ奇襲弓射の戦法練習である。面白い。

「且」「かつ」。

「濕」「しつ」湿気(しっき)。

「中(あた)り」。

「病を得て歿せりとなり」ということは、駿府城代在職中か、その退任からほどなく亡くなったと読める。彼の駿府城代退任は寛政一一(一七九九)年十月二十九日である。当時の静山は満三十九歳で、まだ平戸藩藩主であった。

谷の響 三の卷 三 壓死

 

 三 壓死

 

 弘化四年にてありけん、中別所村の長吉といへるもの、同侶ども五六人と岩木山なる水無澤といふ處に至り、氷雪を切りとりてみな荷を作りて、去來(いざ)歸るべしとするうち遠雷のことく山中鳴りひゞきければ、長居はあしからんとて皆々身起りしに、長吉はもとより不惕(ふてき)ものにて山の鳴をも恐れず、吾は今少し取るべければ、惶(おそろ)しくはみな先に往ねかしといふに、さらばとて半町ばかりも來りしころ、大山の崩るゝことく地中にひゞきわたり、有つる大雪忽ち落ちて岩のことき雪數百あまり足下に飛びちりたり。皆々愕き恐れ長吉は奈何(いか)なりしとあやぶむうち、早くも溪(たに)水紅を帶びたるに再びおどろき、急忙(いそぎ)歸りて變死を訃告(つ)げ、五六十人の人數にて崩れし雪を切り除けしに、憐むべし長吉は五躰碎け眼精(まなこ)飛び出て、肚裂け四肢折れて潰れざる骨もなく挫けざる肉もなく、まことに眼冷ましき有樣なり。やがてこれを俵に内(い)れて歸りしが、一里ばかりも來りしころ雷鳴暴(にはか)に轟きしに、水なし澤を囘(かへり)れ見ば黑雲澗(たに)中に塞り、聚(おほ)雨忽ち降來りて宛爾(さながら)盆を傾くるが如く、溪中水溢れて雪塊(たま)數百を流せり。こは山神の不淨を浣(あら)ひしものといへり。

 又、安政三丙辰年六月二十日の事なるが、獨狐村の茂助といへるもの、同じく雪をとらんと同侶相催してこの水無澤に至り、手々に雪をとりて有けるが、一陣(ひとしきり)のひゝき山中にとゝろきしかば、みなく怕れ歸りを促したるに、茂助のいふ、己か荷は未だ馬に足らざれば今少しとるべし、皆々先に歸られよ、今に追ひ附くべしと言へるまゝ、一個殘して歸りたるが、暴卒に雷の震(おち)たるごとくひゞきわたりて、數十丈の氷雪澗(たに)を埋めて崩れ落ちたり。みなみな惕(おそ)れ忙(まと)ひて、すはや茂助が潰れつらんと家に歸りて人夫を催し、數丈の氷雪をきりひらけば、茂助は身體連(つゞ)ける處もなく、首ぬけ脚劈(つんざ)ききれておしひしかれたる有狀(ありさま)、眼を開いて見得べきにあらず。かくて淺ましき屍骸を俵にかき内(い)れ歸りしが、暴雨雷鳴前件(まへ)のことくなりしとなり。いと憐むべきことなりかし。

 又、この年の七月六日花輪村の萬次郎いへるもの、根(もと)船水村の權八といふものゝ子にして、花輪邑の某へ贅婿(いりむこ)しものなるが、同朋(ともたち)數人と赤倉の澤へ雪をとるとて發足(いでたち)けるに、途中より同志のもの多く出來て既に五六十人はかり同道して、個々(おのおの)溪(たに)の中に入り雪を切とりて有つるに、潮聲(しほ)のひゞきのごとく山中動響搖(どよみわたり)けれは、すは雪なたれの筑(つ)くならんとおとろき怕れ、互に友を呼合ひて歸らんとするうち、大水暴に湧出て高さ二丈ばかりと覺しくて、矢よりも早くおそひ來れは、みなみなあはて喧噪(さわい)で岸に匍匐(はらば)ひ、樹の根株に縋(すが)り辛(から)ふじてこれをさけて見やりたるに、數百の岩石水の猛威(いきほひ)に押流されて、うち合ひ摺合ひ轉倒して潤(さは)みな雪を飛し花をちらせることく、怒れる大浪彌(いや)布(しき)て、岸を穿ち岨(そば)をひたしてほとばしりゆく有樣は、いと怕しくも筆にことはに盡すべきにあらず。

 おのおの活(いき)たる心地もなくて有けるが、半時ばかりのうちにかゝる大水退減(ひきおち)て舊の溪澤になりければ、夢の覺たることく初めて心緒(こゝろ)放心(おちつ)き、倶々(ともとも)呼合ひて寄り聚りたるに、一人の萬次郎の見得ざるにおどろき、手分をして探れども夫と見るべき影だになければ、家にかへりてかくとしらせ、明(あく)る七日花輪・船水の兩村より數十個の人を出して、溪の中隈なく探りもとむれども目にさへきるもの更になし。たまたま澤の中に生々しき骨の有りしを見れど、人の骨にあらずとしてさりぬ。されどもやむべきにあらざれば、明る日又々人數を催したづぬれば、以前のことく影だになし。さるにこの溪澗の半に瀧ありて、その瀧の邊に又生々しき骨の片碎(くだけ)たるもの少しくあり。皆々尋ねあくみて、此骨にては有まじきやといふに、花輪のものこを洗ひきよめて評議する處に、實父權八來りてさることもやと手にとれば、あやしや晒(さら)せる片骨のしひ穴より鮮血(なまち)滴り出でたれば、やがて萬次郎の骨にきわまり、猶殘れる骨を尋ぬれども見ることあらで、たゞ彼が締めたる帶の結び目と襦袢の袖の端ちきれちきれに成たると、輪鉢(わつぱ)を入れたる網の※(むし)れたるとを彼方此方の岩の狹(あはひ)より見出しき。[やぶちゃん字注:「※」=「扌」+「咸」。]

 權八こを見て甚(いた)く歎泣ども詮(せん)術(すべ)なく、僅に碎けたる殘骨を苞にし携へ歸りて葬りしとなり。是まて雪なたれにあひて死せるものもまゝ有れとも、斯くむごく五體のくだけたることは未だ聞かず。まことに恐るべくかなしむべきことなり。

 

[やぶちゃん注:この条を読み、私はまさに「谷の響」という題名が胸を痛く打った。そうして、本書が、怪奇談集などではなく、平尾の冷徹にして実証的な厳しい実録記録であることを痛感したのである。

「弘化四年」一八四七年。本条ではこの最初のケースのみ、季節を記していないが、後の二例が夏であり、これも同時期ととってよい。そもそも寒中に岩木山に登る馬鹿も、氷雪を採取する必要も、これ、あろうはずは、ない。

「中別所村」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市中別所(なかべっしょ)。市中から西北方約六キロ』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「同侶」「同僚」と同音ととっておく。

「岩木山なる水無澤」すうじい氏のブログ「すうじいの毎日がアウトドア」のその1:スキールート概念図(岩木山大黒沢(弥生コース)滑降'83-04で位置を現認出来る。但し、リンク先の地図は右方向が北なので注意されたい。先の中別所からほぼ真西に岩木山を深く進んだ位置にある澤である。過去の春の岩木山の雪崩警戒情報を見ると、現在でも「水無沢」のそれを注意している記事を見出せた。

「氷雪を切りとりて」藩の高官や裕福な身分の連中が高い金を出して食したものなのでろう。

「去來(いざ)」二字へのルビ。下の字とひっくり返せば「歸去來」で「かえりなん、いざ」だ。

「身起りしに」作業を止めて身を起こしたが。

「不惕(ふてき)」「不敵」。「惕」(音「テキ」)には「恐れる」の意がある。

「山の鳴をも」「山の鳴(な)るをも」。

「惶(おそろ)しくは」ママ。「恐(おそろ)しくば」。

「往ねかし」「いねかし」。「行っていいぞ!」。

「半町」五十四メートル強。

「ことく」ママ。「如く」。以下の多くの不審な清音も同様なので、この注は附さない。

「紅」「くれなゐ」。

「急忙(いそぎ)」二字へのルビ。

「訃告(つ)げ」二字へのルビ。

「肚裂け」「はら(腹)さけ」。

「挫けざる肉もなく」「くだけざるにくも無く」。

「眼冷ましき」「めざましき」。眼が冴えてしまうほどに凄惨な。

「俵」「たはら」。

「塞り」「ふさがり」。

「聚(おほ)雨」驟雨。急な激しい雨。

「降來りて」「ふりきたりて」。

「溪中」「たにぢう」。

「雪塊(たま)」「ゆきたま」。

「浣(あら)ひし」血の穢れを洗い流したととったのである。

「安政三丙辰年六月二十日」安政三年は正しく「丙辰」(ひのえたつ)で西暦一八五六年。旧暦六月二十日はグレゴリオ暦で七月二十一日。これはまさに梅雨明け頃で、地盤も緩んでいたであろう。

「獨狐村」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市独狐(とっこ)。弘前の西北郊四キロ。鯵ヶ沢街道に沿うた農村部落』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。それにしても凄い村名だなあ。独鈷が元かしらん?

「相催して」「あひもよほして」。

「手々に」「てにてに」。

「ひゝき」「響き」。山鳴りである。

「己か」「わが」。

「一個」「ひとり」。

「暴卒に」「にはかに」。

「數十丈」百八十メートル前後。厳冬期の雪崩では必ずしも大規模とは言えないが、夏季の氷雪雪崩としては大きなものである。

「數丈」十八メートル前後。

「脚劈(つんざ)ききれて」「あし、つんざき切れて」。

「おしひしかれたる」「壓(お)し拉(ひし)がれたる」。完全に押し潰されて、ひしゃげてしまっている。

「前件(まへ)」第一段落のケース。

「この年の七月六日」グレゴリオ暦では八月六日。

「花輪村」底本の森山氏の補註によれば、『中津軽郡岩木町鼻和(はなわ)。中世津軽を鼻和・平賀・田舎の三郡に区分した。鼻和郡は岩木川以西の地域であった。当時の郡名を村の名に残したのである。館跡あり、戦国時代に神源左衛門か拠ったという』とある。現在は弘前市鼻和。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「根(もと)船水村の」「根(もと)」は「元」ととり、「元、船水村の」とする。既出既注の現在の弘前市船水(ふなみず)。ここ(グーグル・マップ・データ)。弘前八幡宮の南二キロほどにある。

「花輪邑」「はなわむら」。「花輪村」前注参照。

「贅婿(いりむこ)」「入り婿」。既出既注であるが、再掲する。二字へのルビ。音「ゼイセイ」で、これは中国で「入婿」のことを指す。夫が妻の家に入ることから、それを卑しんで、「贅(あまりもの)」と称した。また、「贅」には「質物(しちもの)」の意もあり、貧しい夫が妻の家に金品を納める(聘金(へいきん)という)ことが出来ない場合、代りに妻の家の質品(しちぐさ)となって、労力を提供したことからも、この名があるとされる。

「同朋(ともたち)」読みはママ。「友達」。

「赤倉の澤」既出既注であるが、一部を再掲する。森山氏の補註によれば、『岩木山中の難所。登山口から北方に当り、気性変化激しく』、『神秘的な場所と考えられ、行者の修行場となっている』とある。今回、先に挙げたその1:スキールート概念図(岩木山大黒沢(弥生コース)滑降'83-04で前の「水無沢」の北の尾根を下った側に流れる「赤倉沢」を現認出来た。

「動響搖(どよみわたり)けれは」三字へのルビ。「は」はママ。

「雪なたれ」ママ。「雪(ゆき)崩(なだれ)」。

「筑(つ)く」元来は人が土石を突き固めて積み、築山や垣などを築くの意であるが、ここは自然の雪の崩落、山のような雪崩が生ずることを言う。

「おとろき」ママ。「驚き」。

「暴に」「にはかに」。

「湧出て」「わきいでて」。

「二丈」約六メートル。

「來れは」「きたれば」。

「摺合ひ」「すりあひ」。

「潤(さは)」「澤」。

「飛し」「とばし」。

「ことく」「如く」。

「彌(いや)布(しき)て」それはもう、激しく一面に広がり覆って。

「岨(そば)」断崖絶壁。

「筆にことはに盡すべきにあらず」筆で記録すること、口で語ること、孰れを以ってしても、とても説明し尽くすことは出来ないほどの、恐ろしい想像を絶する惨状であった。

「半時」現在の一時間ほど。

「退減(ひきおち)て」二字へのルビ。

「舊の溪澤」「もとのたにさは」と訓じておく。

「覺たることく」「さめたる如く」。

「倶々(ともとも)」読みはママ。

「寄り聚りたるに」「よりあつまりたるに」

「一人の萬次郎」「の」は不要。ただ一人、満次郎だけが。

「手分」「てわけ」。

「夫」「それ」。

「數十個」「すうじふにん」と読んでおく。

「溪の中」「たにのなか」。

「隈なく」「くまなく」。

「目にさへきるもの」ママ。目につくそれ(萬次郎の遺体や遺品)らしき痕跡。

「やむべきにあらざれば」それで捜索をやめて諦めるわけには心情的にとても出来なかったので。

「人數を催し」「にんずをもよほし」。人を増やして探索を始め。

「以前のことく」「いぜんのごとく」。前日と同様。

「溪澗」「たに」。

「半に」「なかばに」。途中に。

「邊に」「あたりに」。

「片碎(くだけ)たる」二字へのルビ。

「尋ねあくみて」「たづねあぐみて」。探し続けることに困難を感じて。

「花輪のもの」萬次郎と同じ「花輪」村の「者」が。

「こを」この、よく判らぬ生々しい砕けた骨の破片を。

「實父權八」萬次郎の実父である権八(ごんぱち)。

「さることもや」「もしや、そのようなこともあるやも知れぬ。」。民俗社会では、死んだことを口にすること、断言することはその事実を引き起こしてしまい、忌まれることから、父は、かく言ったのである。

「あやしや」何と! 不思議なことに。

「晒(さら)せる」綺麗に洗い清めた。

「片骨」「ほね」と訓じておく。骨の破片。

「しひ穴」不詳。「椎孔」で「ついこう」、脊椎骨の中央部に存在する脊髄が通るための穴の意かと初めは思ったが、採取されたそれが脊椎骨であるなどとは記されておらず、私の穿ち過ぎであろう。或いは感覚を喪失することを「廢」、「しひ」と呼ぶが、その「廢」=「廃」=「壊れたもの」から、骨の破損した「穴」の謂いかも知れぬ。或いは青森の方言か? 識者の御教授を乞うものである。

「鮮血(なまち)滴り出でたれば、やがて萬次郎の骨にきわまり」森山氏の補註に、『死者は肉親が来れば鼻血を出すということ、いまも津軽で居じられている。この場合も骨から血か出たので親子の関係が実証されたとしたのである』とある。これと類似のしたものは、古くから汎世界的に民俗社会で信じられている現象である。

「襦袢」「じゆばん(じゅばん)」。和服の下着。ポルトガル語“gibão”を語源とするという。

「ちきれちきれ」ママ。「千切れ千切れ」。

「成たると」「なりたる(もの)と」。

「輪鉢(わつぱ)」「わっぱ」で、曲げ物の弁当箱のこと。

「網」粗く編んだ編状の腰から提げるような袋様のものであろう。父権八同様、何か、これが私にはひどくリアルに目に浮かんで、哀しく感じられる。

「※(むし)れたる」(「※」=「扌」+「咸」)引き千切れた部分。

「岩の狹(あはひ)」岩の隙間。

「歎泣ども」「なげきなけども」と訓じておく。

「僅に」「わづかに」。

「苞」「つと」。藁などを束ねた包み。藁苞(わらづと)。遺骨を入れたそれを持って山を下ってゆく父権八の後ろ姿が目に浮かぶ。これも、如何にも、哀しいではないか。

「是まて」「これまで」。

「雪なたれ」「ゆきなだれ」。

「有れとも」「あれども」。]

諸國百物語卷之四 十五 猫また伊藤源六が女ばうにばけたる事

    十五 猫また伊藤源六が女ばうにばけたる事


Nekomata

 奧州しのぶの郡(こほり)に伊藤源六とて廿(はたち)ばかりなる人、有りしが、よろづにきようにて、心やさしき人なりければ、あなたこなたより、むこにとらんとて、いひいれける。同國なにがしのむすめ、かたちよしと聞きてよびむかへ、ひよくのちぎり、あさからざりしが、此むすめ、かりそめにわづらひつきて、つゐに、はかなくなりにけり。源六もふかくなげき、あさゆふ、妻の事のみ、おもひこがれ、とぢこもつて、ほかへもいでず。友だちに竹口兵衞と云ふものありしが、源六がいたみをとぶらひに、ある日、行きてへやにいり、しばし物がたりしてかへりしが、源六がありさま、なにとやらん心がゝりにみへければ、ひそかに親をまねきよせ、

「源六のありさま、なにとも、ふしんにそんするあいだ、夜な夜なのやうす、心かけて見給へ」

といへば、親たち、その夜、ねやちかく、しのびゐてきゝければ、夜ふけ、人しづまりてのち、たれともしらず、女のこゑにて、むつましき物がたりするをと、しける。親、おどろき、夜あけて、兵衞をよびよせ、くだんの物がたりしければ、さてこそ、とて、源六を、なにとなく、親もとへよびよせ、さかもりなどして夜をあかさせ、兵衞は源六がねやへいり、事のやうすを見とゞけんと、まちゐける所に、あんのごとく、夜ふけ、人しづまつて、いづくともなく、女、きたりて、むつましげなるこゑにて、

「われこそ、まいりたり」

といふ。兵衞、よぎ引きかぶり、ふしゐければ、かの女、云ふやう、

「なにとてこよひは物をもをゝせられぬぞ。おそく參り候ふを御うらみましますか。さはる事ありて、こよひはおそなわり候ふ」

と、いろいろ、くどき事をいひて、よぎひきあけ、はいらんとするをみれば、口は、みゝぎわまでさけ、角はへたるかほにて、まゆずみ、くろく、べにをしろいにて、けしやうし、ひたいのかゝりなりふりは、源六が女ばうに、すこしもたがわず。兵衞、

「心へたり」

と云ふまゝに、とつておさへ、二刀(ふたがたな)さし、うへをしたへとくみあひけるおとにて、人々、おりあひ、火をとぼし來たるに、兵衞、ちからをえて、つゐにくみとめ、つづけさまにさしとをし、よくよくみれば、としひさしくかひたる猫也。此よし、源六にかたりければ、源六おどろき、

「さるにても、かの女ばう、むなしくなりて七日めにきたりて、『われ、ゑんま王のたすけにて、よみがへり候へども、百日があいだは、たれにもしらすべからずと、ゑんまわうの仰をかうむり候ふ。そのうちはしのびしのびに、まいるべし。かまへて人にもらし給ふな』といひしゆへ、今までは、つゝみゐ申したり。さては、猫またにてありけるよ。あやうきいのちをたすかる事、ひとへに兵衞のかげ也」

とて、よろこびけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「ねこまた女はうにはける事」。

「猫また」「猫又」「猫股」などと表記される猫の妖怪化したもの。ウィキの「猫又」より引く。『大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの』二種があるとする。『中国では日本より古く隋時代には「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては鎌倉時代前期の藤原定家による』「明月記」に、天福元(一二三三)年八月二日、『南都(現・奈良県)で「猫胯」が一晩で数人の人間を食い殺したと記述がある。これが、猫又が文献上に登場した初見とされており、猫又は山中の獣として語られていた』。但し、この「明月記」の実録の『猫又は容姿について「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」と記されていることから、ネコの化け物かどうかを疑問視する声もあり』、『人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという記述があるため、狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある』(私も全くその通りに認識している。因みに、狂犬病は猫にも普通に感染することはあまり知られているとは思わない。犬のワクチン接種を義務付けておいて、猫にほっかむりするのはすこぶる非科学的である)。また、鎌倉後期の「徒然草」にも『「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……」と記されている』ことも教科書に出て、よく知られている。江戸期の怪談集「宿直草」や本「諸國百物語」がかなりの採話をしている「曾呂利物語」でも、『猫又は山奥に潜んでいるものとされ、深山で人間に化けて現れた猫又の話があり』、『民間伝承においても山間部の猫又の話は多い』(本話柄もそうしたロケーションに見えるが、実は、そうではない。本話の猫又は伊藤家が永年買い続けた猫の変化(へんげ)である)。『山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向にあり』、貞享二(一六八五)年(年)の「新著聞集」で『紀伊国山中で捕えられた猫又はイノシシほどの大きさとあり』、安永四(一七七五)年の「倭訓栞(わくんのしおり)」では、『猫又の鳴き声が山中に響き渡ったと記述されていることから、ライオンやヒョウほどの大きさだったと見られている』。文化六(一八〇九)年の「寓意草」で『犬をくわえていたという猫又は全長』九尺五寸(約二・八メートル)とかなり巨大である。『越中国(現・富山県)で猫又が人々を食い殺したといわれる猫又山、会津(現・福島県)で猫又が人間に化けて人をたぶらかしたという猫魔ヶ岳のように、猫又伝説がそのまま山の名となっている場合もある』。『猫又山については民間伝承のみならず、実際に山中に大きなネコが住みついていて人間を襲ったものとも見られている』。『一方で、同じく鎌倉時代成立の』「古今著聞集」の『観教法印の話では、嵯峨の山荘で飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀をくわえて逃げ出し、人が追ったがそのまま姿をくらましたと伝え、この飼い猫を魔物が化けていたものと残したが』、同期末期の「徒然草」では『これもまた猫又とし、山にすむ猫又の他に、飼い猫も年を経ると化けて人を食ったりさらったりするようになると語っている』。『江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、前述のように山にいる猫又は、そうした老いたネコが家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった。そのために、ネコを長い年月にわたって飼うものではないという俗信も、日本各地に生まれるようになった』。江戸中期の有職(ゆうそく)家伊勢貞丈の「安斎随筆」には『「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」という記述が見られる。また江戸中期の学者である新井白石も「老いたネコは『猫股』となって人を惑わす」と述べており、老いたネコが猫又となることは常識的に考えられ、江戸当時の瓦版などでもこうしたネコの怪異が報じられていた』。『一般に、猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源といわれるが、民俗学的な観点からこれを疑問視し、ネコが年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」と見る説や、前述のようにかつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」を語源とする説もある』。『老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり分かれているように見えることが由来との説もある』。『ネコはその眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者をよみがえらせたり、ネコを殺すと』七代祟るなどと(今でも)『恐れられており、そうした俗信が背景となって猫又の伝説が生まれたものと考えられている』。『また、ネコと死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車と猫又が同一視されることもある』。『また、日本のネコの妖怪として知られているものに化け猫があるが、猫又もネコが化けた妖怪に違いないため、猫又と化け猫はしばしば混同される』。『江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になって』おり、元文二(一七三七)年刊の知られた「百怪図巻」などでは、『人間女性の身なりをしなた猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため』(あまり理解されていないので言っておくと、現在の高級な三味線でもやはり猫の皮が使用されている(安い物は豚皮であるが、音が各段に異なる)、『猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている』、『もしくは一種の皮肉などと解釈されている』。『芸者の服装をしているのは、かつて芸者がネコと呼ばれたことと関連しているとの見方もある』。また、安永五(一七七六)年刊の画図百鬼夜行では、『向かって左に障子から顔を出したネコ、向かって右には頭に手ぬぐいを乗せて縁側に手をついたネコ、中央には同じく手ぬぐいをかぶって』後ろ足で直立する『ネコが描かれており、それぞれ、普通のネコ、年季がたりないために』二本足で『立つことが困難なネコ、さらに年を経て完全に』直立歩行が出来た『ネコとして、普通のネコが年とともに猫又へ変化していく過程を描いたとものとも見られている』(以上の二図はリンク先で見られる)とある。

「伊藤源六」「竹口兵衞」孰れも不詳。

「奧州しのぶの郡(こほり)」奥州信夫郡。現在の福島県北部北限の、福島市の大部分に相当する。

「よろづにきようにて」「萬に器用にて」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『学問、才智にすぐれている事』とある。

「むこ」「聟」。入り婿ではなく、婿として嫁がせたいの意。

「いひいれける」「言ひ入れける」。多くの縁談の話が持ち込まれたという。

「ひよくのちぎり、あさからざりしが」「比翼の契り、淺からざりしが」。

「かりそめにわづらひつきて」「假初に患ひつきて」。ちょっとしたことから病いを得て、それが、みるみる重くなり。

「ふかくなげき」「深く歎き」。

「あさゆふ」「朝夕」。

「おもひこがれ、とぢこもつて、ほかへもいでず」「思ひ焦がれ、閉ぢ籠つて、外へも出でず」。

「源六がいたみをとぶらひに」「源六が悼みを弔(とぶら)ひに」。

「ふしんにそんするあいだ」「不審に存す(=ず)る間」。

「心かけて見給へ」「よくよくお心懸けの上(注意をなさって)、観察なされませ。」。

「ねやちかく」「閨近く」。

「しのびゐてきゝければ」「忍び居て聽きければ」。

「むつましき物がたりするをと」「睦まし(=じ)き物語する聲(おと)」。「をと」(「音」であるが、漢字は「聲(声)」とした)は歴史的仮名遣の誤り。

「さてこそ」「不審に思うた通り! やはり!」。

「親もとへよびよせ」親の部屋へと呼び寄せておき。

「さかもりなどして夜をあかさせ」「酒盛りなどして夜を明かさせ」。

「兵衞は源六がねやへいり」兵衛が源六の閨へ入って、源六になりすまし。

「あんのごとく」「案の如く」。

「むつましげなるこゑにて」「睦まじ氣なる聲にて」。

「よぎ引きかぶり、ふしゐければ」なりすましを見破られぬように「夜着引き被り、臥し居ければ」。

「なにとてこよひは物をもをゝせられぬぞ」「何とて今宵は物をも仰せられぬぞ?」。

「さはる事」「障ること」。ちょっとした支障のあって。

「こよひはおそなわり候ふ」「今宵は遅なはり候ふ」。歴史的仮名遣は誤り。「遅なはる」で自動詞ラ行四段活用。「遅くなる・遅れる」の意。

「くどき事」なだめるような思わせぶりの訴えの言葉。

「よぎひきあけ、はいらんとするをみれば」「夜着、引き開け、入らんとするを見れば」。

「口は、みゝぎわまでさけ、角はへたるかほにて」「口は、耳際まで裂け、角、生えたる貌(かほ)にて」。ここまでが変化(へんげ)の物であることの現認部。源六には、精神的に弱った心に妖力を以って影響が与えられ、このおぞましい部分が見えなかったのである。

「まゆずみ、くろく、べにをしろいにて、けしやうし、ひたいのかゝりなりふりは、源六が女ばうに、すこしもたがわず」「眉墨(=黛)、黑く、紅白粉(おしろひ)にて、化粧し、額(ひたひ)の懸(かか)形振(なりふ)りは、源六が(死せる)女房に、少しも違はず」(複数の歴史的仮名遣の誤りがある)以上は幻術による幻視の様態部。なお、この「額の懸り」とは「若き女の和毛(にこげ)のある額の髪の髪の生え際の辺りの若やかな様子」或いは単に「整えた前髪のさま」の意であって、若い読者のために言っておくと、前髪が額に懸っているわけではない(そんな束髪は当時の若妻は絶対にしない)ので注意されたい。「かかり」という古語には、視認対象の持つ雰囲気・構え・風情・趣きの意がある。

「心へたり」「こころえたり」。歴史的仮名遣は誤り。これは応答の「分かった」ではなく、「変化(へんげ)のもの! 見切ったり!」という言上げである。

「と云ふまゝに」と叫ぶや否や。

「とつておさへ」「捕つて押さへ」。

「うへをしたへとくみあひけるおとにて」「上を下へと組み合ひける音にて」。

「おりあひ」これは「居り合ふ」で「をりあふ」が正しいであろう。「加勢のためにそこに出張って居合わす」の謂いだからである。

「火をとぼし來たるに」「火を點(とぼ)し來たるに」。火を点(とも)して来たって呉れたによって。

「ちからをえて」「力を得て」。まずはその明かりの合力(ごうりょく)によって暗闇での格闘の難儀が解消されたことを指す。

「つゐにくみとめ」「遂(つひ)に組み止め」。歴史的仮名遣は誤り。

「つづけさまにさしとをし」「續け樣に刺し通(とほ)し」歴史的仮名遣は誤り。

「としひさしくかひたる猫也」「年久しく飼ひたる猫なり」。

「源六にかたりければ、源六おどろき、

「ゑんま王」地獄の「閻魔王」。

「仰」「おほせ」。

「そのうちは」その百日が間は。

「しのびしのびに」ごくごくこっそりと。

「かまへて」「構へて」。呼応の副詞。禁止表現を伴って、「決して~するな」の意。

「つゝみゐ申したり」「包み居申したり」。あくまで包み隠しおりました。

「あやうきいのちをたすかる事」「危うき命を助かること」。]

2016/11/03

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (三)

 

       ㈢

 

 横須賀の波は退屈を重ね繰り返すように、寄せて来ては返し、返しては寄せて、またそのように平凡な変りばえもない街でありましたから、私たちの彼に対する関心は何にもまして張りのある歓喜に冴えたものとなっていました。なんという天与でありましたことか。

 暑熱の海岸を三人が歩いたこともございました。浴衣がけの夫も彼も大きな麦藁帽をかぶり、私は紫の日傘をさし、博多の夏帯を締めていました。彼は一人、泳ぎが得意で抜き手を切って遊泳して見せました。もぐつて、しばらく海面にいないこともありました。海だけがきらきらとかがやいて、もう、どこからも彼は出てこないように思えました。が、突如、浮かび上がって笑顔に白波をあびながら近づいて来るのでした。岩の上には脱ぎ捨てた浴衣と麦藁帽子が風のない日中に灼けつくような形で投げ出されています。水泳の特技を見ることができたのも、私どもには意外なたまものでした。何につけても彼は特別な姿態をもって私たちの眼をよろこばせたのでございます。

 彼は先に立って行動しました。海岸からぐっと手前の藪の中を歩くときも、どんどん歩いて行くのですが、そんな時は完全に独りで私たちから抜け出していました。何を考えているのか横顔も、うしろ姿も独りだったのです。その独りの中では彼自身の悩みや苦痛がのたうっていたのでございましょう。後になって考えれば、私どもの知らないところで結婚話が進んだり滞ったりしていたことになりますし、文筆の上でも内面的な格闘があって意外と気の弱い蒼白な面を見せたときでありました。結婚問題に関することでは、某海軍士官の忘れがたみと云々とかで、それがまだよくまとまらないなどいうのを、仄聞した某京大教授が、

 「それなら、うちの娘に」

というので自身付き添いで見合をしたところ

 「どうも神経が繊細過ぎる」

とそのままになってしまったそうで、夫が申しますには、

 「我々は龍ちゃんのファンだから、龍ちゃんなら誰でも飛びつくだろうと思うのだが。なかなか、そうも行かないのだね」

 「そりゃあ、そうですとも。まあ、私にしましても、夫という場合には、芥川様は怖いみたいに思われますもの。やはり家庭の主人となれば、あなたの方を私は取りますもの」

 「そりや、そうだったろうが」

 「危惧の念が起きますわ。ほんとに怖いみたい。誰でもいいというわけには参りませんでしょう。こちらであたたかく抱擁して上げなければ、うまく行かない方の様に思われてなりませんわ。私の幼稚な感じ方ですけれども」

 文学的の問題では谷崎潤一郎との論争で、

 「ぼく、ヘトヘトに疲れちゃった」

という龍之介を目の前に見ましたし、

 「そこへ持って来て、批評家という奴が、ブツブツ言いますしね。批評家なんて無くもがなと思いますよ。ぼく、あれを読むとイライラしたり憂欝になったりして困るんです。だから、もう、読まぬことにしましたがね」

 それに対して私は、なぐさめとも励ましとも批判ともつかないような言い方で申し上げていました。

 「ヘトヘトになられるなんて少々だらしがないわ。お心持ちが弱いんだわ。実力がおありなんですもの。悠々と構えて大胆にしてらっしゃればいいのに。宅で自信満々と語られるときのようにしてらっしゃればいいのに。それとも本当に谷崎さんは苦手なのかしら。潤一郎々々々って親しそうにおっしゃるし、彼より優越を感じていられる口吻をお洩らしになるときもあるのに。不思議だこと。批評家のいうことなんて尚更だわ。気に喰わなければ一笑に付しておしまいなさい。でも、批評というものに一応、目を通して、とってもって、参考にするだけの雅量がほしいと思う。あまり小心過ぎてお気の毒だこと」

 「お前はなかなか辛辣だね。ぼくは、ひどく芥川君に心酔しているのに」

と夫は申しました。

 「辛辣というのでもありませんわ。大好きですもの。ね、そんなに神経をすりへらされない方がよろしいでしょう。おからだにさわるといけませんものね」

とお慰めしたのでございました。

 「そうだとも。龍ちゃん。人間、呑気にしていないと毒ですよ。そうは言っても、文学の方は世間一般の事と違って、しかも世間一般を相手にするものですから、いろいろ神経にもさわるでしょう。創作なんて突きつめて行くと、悩み無くしては駄目なことでもありますが、ぼくの方はまあ呑気なものですよ」

 すると彼は、

 「本当に、佐野君はいつも、のどかに見えますよ。ぼくも、文学をやめて、天文でも初めようかな。月を見たり、星を研究したりしていたら、呑気なものでしょうな」

 「あら。そう伺えば、私、思い出します。学校の二クラス上の文科生のお話ですのよ。秋の日光修学旅行のおり、夕食後、皆で中禅寺湖畔へ散歩に出かけました。あたりは夕もやに包まれ淡い月かげが照らし、何かしら、ロマンチックな宵でした。某先生は、いつも理科生とご一緒でしたが、ふっとお一人で文科生のところへ来られましてね。静かにお話しになるんですの。ぼくは元来、文学が好きでその方面が得意だったのですよ。それで、文学方面へ進むつもりでしたが、この通り神経質でしょう?これで文学をやったら藤村操の二代目になるかも知れぬと思いましてね。好きな文学をやめて理科へ行きました。しかし、ぼくは文学が好きだな。文学は実にいいなとおっしゃるのですが、食堂に蠅が一匹いてもその日は食事ヌキ。でもね。優しい美しい奥さまが来られてからはお子様もお出来になり、とても穏やかになられたとのことですの。芥川様だって味気ない下宿をお出になってご結婚遊ばしたら、ずっとお気楽になれましてよ」

 すると彼は言うのでした。

 「ええ。ありがとう。本当にそうかもしれませんね。せいぜいお邪魔して家庭のふんいきに浴させていただきましょうか」

 私は彼の神経質を憂えてしみじみ申し上げたのでしたが、彼の答えはちょっと当方をイナしたものでございました。

 又、或る時の話ですが、夫が帰宅して申しますには、

 「今日ね。年度末賞与の辞令が出て皆ざわざわしている時にね、芥川君はぼくのところへ来てさ。『内緒々々』って辞令をスープの中へ放り込んで燃しちまったよ」

 「あら、どうしてそんなこと」

 「ぼくも驚いてね。いろいろ聞いてみると龍ちゃんは養子で、両親は義理の親子。叔母上なる人もなかなか複雑な家庭の人なんだって。それで、こうしとくのが一番いいんだって言うのさ。そうかも知れんなあ。その使途についても親子意見が一致するとは限らんだろうから。辞令などなければ、芥川君の思うように運ばせても万事うまく行くからね。なかなか考えてるじゃないか。龍ちゃんを非難する気には、ぼくは、なれない。むしろ同情するね。実の親子の辞令なら、そんなに気を使うことはないからね」

 「本当ね。そう伺ってみると芥川様なかなかお気苦労なのですね。私、学校で教わった倫理のお話に適ってるんですもの。深作教授のお話でしたのよ。人と屏風は、すぐには立たぬということがある。殊に家庭内のことは余り物ごとをはっきりさせるより、多少理屈はくらます方がいい場合があると説かれましたわ。つまり、今のようなことですね」

 私は、うんと難かしい家庭へ嫁いでそこを円満に収めてみたらさぞ楽しいだろうと、ひそかに思ったこともありました。しかし、実際にはとてもたいへんなことのようです。二人きりの呑気なその頃の生活は、私には、まさに適材適処だったと思います。そして、改めて彼の気苦労に同情いたしました。

 気苦労と言えば又、別の気苦労と申しましょうか、彼は或る時やって来て、こう言われるのです。[やぶちゃん字注:ここには句点がないが、脱字と見て、特異的に附した。]

 「この頃、東京の悪友たちが、ぼくのゴシップを飛ばしてるんですよ。奥さんもご存知の、あの小町園の女中ね」

 「ええ。あの可愛いいお千代さん」

 「そうですよ。ぼくが、奴にぞっこん参ってて、それで、しげしげ行くってね。それが今日、教官室で話題になりましてね。ぼく、善友諸君にすっかり冷かされてしまいましたよ。もちろん、佐野君からもですよ。ゴシップなんてデタラメと解っていても、中には信ずる人もいますからね。濡れ衣も甚だしい。お二方と行く時、あれがちょこちょこ出て来まして……。失礼ですが、つい、ぼくは奥さんと比較して見るんです。いくら、片えくぼがあって可愛くても、教養のない者は駄目だと思うのですよ。月とスッボンだと。これは実際のことで決してお世辞ではありません。真実そう思うのですから、誤解のないように願います」

 すこぶる真面目に彼は言うのでした。新婚生活の、これといって用事もなく、半日女学校に勤めれば、ひまで仕方がなかった私は、このような話を聞かされたり、在学中、不充分だった英語のおさらいを彼に見てもらったり、それが亦、結構たのしいことだったのです。ロングフェローのエバンゼリンなど朗読しても呉れました。

 「お前、嬉しいだろう。天下の芥川君に教えてもらえるんだ。ご無理を願うんだから、また腕にヨリをかけてご馳走するんだね」

と夫も上気嫌でございました。

 「佐野君は何も知らぬ顔してますがね。教官室で外人と話のできるのは佐野君なんですよ」

 「あら、そうですの?そんなだとは存じませんでした。外国へでも行きたい下心があるのでございましょうね」

 「ああ。そうかも知れないねえ。龍ちゃん、ぼくがもし外遊をしたら、君に何かよいものを買って来たいんです。何がいいですか」

 「有難う。ばくはステッキが好きですね」

 「龍ちゃんにふさわしい極めてハイカラなのを求めて来ますよ」

 これは約束になってしまいました。後日、夫は本当に外遊して約束通りのステッキを二本持ち返りましたが、一本は自分が持ち、残る一本は彼の手に渡せぬ間柄になってしまいましたので、長いこと、そのステッキは押し入れの中や、果ては故郷の土蔵などに埋蔵され、ついに蟲ばんで忘れ去られてしまうのですが、スネークウッドの酒落れたものでした。

 それから例の小町園のお千代さんは、これ亦、後日に文士連の口の端にのぼるK夫人となっているようでございます。芥川をめぐって取り沙汰される女性の中にちらちらとあがって来るような存在になろうとは、可愛いいお千代さん時代には想像もつきませんでした。私の方は誰も知る者もない存在で、ずっと家庭を守り通して来たわけでございます。

 

[やぶちゃん注:「暑熱の海岸を三人が歩いたこともございました。浴衣がけの夫も彼も大きな麦藁帽をかぶり、私は紫の日傘をさし、博多の夏帯を締めていました。彼は一人、泳ぎが得意で抜き手を切って遊泳して見せました。もぐつて、しばらく海面にいないこともありました。海だけがきらきらとかがやいて、もう、どこからも彼は出てこないように思えました。が、突如、浮かび上がって笑顔に白波をあびながら近づいて来るのでした。岩の上には脱ぎ捨てた浴衣と麦藁帽子が風のない日中に灼けつくような形で投げ出されています。水泳の特技を見ることができたのも、私どもには意外なたまものでした。何につけても彼は特別な姿態をもって私たちの眼をよろこばせたのでございます」この一段は実に映像的で素晴らしい。私たちの知らない芥川龍之介の若き日の姿が髣髴としてくるではないか。ロケーションは大正六(一九一七)年、芥川龍之介、満二十五の独身最後の夏と同定出来る。事実、次の「㈣」で花子は「大正六年夏と言えば、春に結婚して丁度、つわりになる頃であったわけで、彼の遊泳を見ながら海岸に佇んだ日はこの少し前になるのだと回想いたします」と記しているからでもある。

「後になって考えれば、私どもの知らないところで結婚話が進んだり滞ったりしていたことになります」「滞ったりしていた」というのは誤り。文との婚約(既に示した通り、海軍機関学校に就職した十二月に婚約し、同時に、文の卒業を待って結婚する旨の縁談契約書を取り交わしている)関係にはこの時期、滞りはなかった。但し、前に述べた通り、芥川龍之介は文との婚約を佐野夫婦には長く黙っていたと考えられ、花子のこの謂いに不審は全くないのである

「某海軍士官の忘れがたみ」後に妻となる塚本文は三中時代の同級生で親友であった山本喜誉司の姪(龍之介より八歳年下。婚約当時は満十七歳)で、文の父塚本善五郎(妻が喜誉司の長姉鈴(すず))は元飛騨高山の士族出身であったが、海軍大学卒業後、日露戦争で第一艦隊参謀少佐として明治三七(一九〇四)年二月に新造された戦艦「初瀬」に乗艦して出征したが、同年五月十五日、「初瀬」が旅順港外で機械水雷に接触して轟沈、御真影を掲げて艦とともに運命をともにしている(以上は鷺只雄編著「作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊に拠った)。

「それがまだよくまとまらないなどいうのを、仄聞した某京大教授が、/「それなら、うちの娘に」/というので自身付き添いで見合をしたところ/「どうも神経が繊細過ぎる」/とそのままになってしまったそうで」このような話を私は知らないが、文との婚約以前ならあったとしても不思議ではなく、婚約中であっても、「まだよくまとまらない」などと龍之介が五月蠅い慫慂に対し、うっかり誤魔化して言ってしまったとすれば、当時なら、あっても少しもおかしくはないと思われる。さらに言うと、佐野夫婦が結婚を慫慂するのに辟易した龍之介がデッチアゲた話とも考えられるこの叙述は、どうみても佐野慶造の話ではなく、芥川龍之介自身の語りと読めるからである。そう読んでこそ、慶造の「我々は龍ちゃんのファンだから、龍ちゃんなら誰でも飛びつくだろうと思うのだが。なかなか、そうも行かないのだね」という台詞が如何にもしっくりくるではないか。

「谷崎潤一郎との論争で、/「ぼく、ヘトヘトに疲れちゃった」/という龍之介を目の前に見ました」これは、かなりおかしい叙述には一見、見える。谷崎潤一郎(芥川龍之介より六歳年上)は大学も、また『新思潮』でも先輩に当たり、作品集「羅生門」の出版記念会(大正六(一九一七)年六月二十七日に日本橋のレストラン「鴻の巣」で行われた)にも出席しており、その直後の七月初旬に佐藤春夫とともに谷崎宅を訪問して、交流が深まっていった、まさに谷崎との親近性の増した時期と合致するからである。寧ろ、龍之介が「ヘトヘトに疲れ」た音を挙げるような「谷崎潤一郎との論争」と言ったら、これはどう考えても、所謂、〈筋のない小説〉論争であるが、これはまさに龍之介自死の年の三月以降のことであるから時期が齟齬し、花子のただの勘違いにしてはおかしく、それこそ研究者の誰彼から『妄想』と指弾されるかも知れぬ。しかし、である。当時の文壇の寵児とはいえ、たかがデビュー直後の若造龍之介が、親しくなったとはいえ、一種、精神的なサディズム傾向を強く持つ、かの谷崎から、当時、イラつくような波状的論議を吹っかけられていた可能性は、これまた、十分にあると思われ、私はこれをあげつらって、花子の叙述が変だ・おかしい・妄想だなどとは、これっぽちも思わない、と断言しておくものである。いや、あらゆる面で後輩であった龍之介、礼儀正しい龍之介にとっては、脂ぎった谷崎の、歯に物着せぬ龍之介を含めた文壇への批判批評を黙って拝聴しつつも、実は内心、大いに辟易し、「ヘトヘトに疲れ」きっていたのだと考えた方が、私は遙かに腑に落ちるのである。後の花子の台詞の「潤一郎々々々って親しそうにおっしゃるし、彼より優越を感じていられる口吻をお洩らしになるときもあるのに」というのも、そう考えた時にこそ、如何にも自然に響いてくるではないか。

「とってもって」「取って以って」批判的だったり、見当違いだったりする馬鹿げたものでも、無視せずに取り挙げて、それを逆手に取ったり、当たり前に当然の退屈な批評箇所を見た目上、認めてあげたりして、といったニュアンスであろう。

「雅量」人をよく受け入れる大らかな心持ち。

「学校」「文科生」「秋の日光修学旅行」「理科生」とあることから、これは東京女子高等師範学校文科(現在の御茶の水女子大学)時代の話である。当時の東京女子高等師範学校が四年次の十月に日光修学旅行を行っていたことが、奥田環氏の論文『東京女子高等師範学校の「修学旅行」』(PDF)で確認出来る。

「藤村操」彼については、私の共時的抄出電子テキスト注である――『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回』――の『■「Kの遺書」を考えるに当たって――藤村操の影』で、最も詳しく述べているので、そちらを是非、参照されたい。

「龍ちゃんは養子で、両親は義理の親子」芥川龍之介の養父芥川道章の妹であった新原(にいはら)フクが龍之介の実母であった。

「叔母上なる人もなかなか複雑な家庭の人なんだって」恐らくは田端の芥川家で同居していた実母フクの姉である伯母芥川フキ(安政三(一八五六)年~昭和一三(一九三八)年)を指す。彼女は実母の係属から見れば伯母に当たるが、養父道章の妹でもあるので、養父の係属では「叔母」と記しても実はおかしくない。「なかなか複雑な家庭の人」と言う訳ではないが、フキは幼少時の怪我で片方の眼が不自由となり、生涯、独身を通している。芥川が乳飲み子の頃から母親代わりとなり、養育に当たって、彼に一身の愛情を注いだ。芥川は、例えば、「文學好きな家庭から」(大正七(一九一八)年一月『文章倶樂部』」)で、『その外に伯母が一人ゐて、それが特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれてゐます。家中で顔が一番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通點の一番多いのもこの伯母です。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出來たかどうかわかりません』とまさに――育ての母――とも言うべき言い方で記している。しかし一方で、遺稿「或阿呆の一生」には(リンク先は孰れも私の古い電子テクスト)、

   *

 

       三 家

 

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰(たれ)よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

 

   *

とも述懐しており、龍之介のフキへの愛憎半ばした複雑な感情が見てとれる。なお、知られた龍之介の辞世、

 

   自嘲

水涕や鼻の先だけ暮れのこる    龍之介

 

があるが、龍之介は、昭和二(一九二七)年七月二十四日の午前一時か一時半頃、この伯母フキの枕元にやってくると、「伯母さん、これを明日の朝、下島[やぶちゃん注:芥川家の主治医で俳人でもあった下島勳(いさお)。]さんに渡して下さい。先生が来た時、僕がまだ寝ているかも知れないが、寝ていたら、僕を起こさずに置いて、その儘まだ寝ているからと言って渡して下さい。」と言って短冊を渡している。その後に龍之介は薬物を飲み、床に入り、聖書を読みながら、永遠の眠りに就いたのであった。

「こうしとく」「こう、しておく」の意。ボーナスの辞令を家に持ち帰ってその給与配布が知られないよう、ここでかく処理そておくこと。

「深作教授」不詳。当時の知られた倫理学者には深作安文(ふかさくやすふみ 明治七(一八七四)年~昭和三七(一九六二)年)がいるが、彼に同定は出来ない。

「新婚生活の、これといって用事もなく、半日女学校に勤めれば、ひまで仕方がなかった私」新婚時代の彼女の女学校勤務(前出既注。当時の横須賀高等女学校)が午前中勤務の今でいう非常勤講師であったことが判る。

「ロングフェローのエバンゼリン」アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)の最も知られた一八四七年作の、架空の悲恋叙事詩「エヴァンジェリン:アカディの話」(Evangeline: A Tale of Acadie

「これは約束になってしまいました。後日、夫は本当に外遊して約束通りのステッキを二本持ち返りましたが、一本は自分が持ち、残る一本は彼の手に渡せぬ間柄になってしまいましたので、長いこと、そのステッキは押し入れの中や、果ては故郷の土蔵などに埋蔵され、ついに蟲ばんで忘れ去られてしまうのですが、スネークウッドの酒落れたものでした」「蟲」は底本のママ。これが後に、本書の内容を素材とした、田中純の小説「二本のステッキ」(昭和三一(一九五六)年二月発行の『小説新潮』初出)の題名となる。私のブログ記事芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章でも取り上げているが、来年二〇一七年一月一日午前零時零分を以って田中純の著作権が切れるので、来年早々には、このブログで「二本のステッキ」の全電子化をしようと考えている(なお、TPPが本年中に承認されても、TPPの発効が成されない限り、著作権延長は出来ないはずである。やったら、これはもう、日本は法治国家ではない)。

 

「小町園のお千代さんは、これ亦、後日に文士連の口の端にのぼるK夫人となっている」「お千代さん」も「K夫人」も不祥。識者の御教授を乞う。]

谷の響 三の卷 二 壘跡の怪

 二 壘跡の怪

 

 小國澤目山本村のもの、二重隍の壘趾に至りて見るに、板の如くなる石の大小まつはりて多くありしかば、造作の用に充てんと思ひ、あくる日馬五六疋をひいてこの處に來りしに、昨日見し石一片も見得ず。奇しく思ひて馬を堀の傍に放ち、區中(くるはのうち)あまねくもとむれども似よりたる物もなければ、狐に魅(ばか)されたる心地して其馬どもを曳て歸らんとするに、四蹄(そく)悉(みな)鮮(なま)血に塗れてありければ、寒慄(ぞつと)して身の毛逆立ち、少時も居るに堪へずして早卒に脱れ歸りしとなり。これは嘉永の末年なる由。

 又、この山中の川に土人(ところのひと)毎年簗(やな)を架(かけ)て鱗屑(ざつこ)をとることなるが、時々小き鮫(さめ)のかゝることあり。この鮫をとる時は必ず祟あるとて、みな放てるとなり。この川の水上にひとつの淵ありて、そこに住めるものは鰐なりと言傳へり。淵の名は忘失たりと。こもこの石郷岡氏の語しなり。

 

[やぶちゃん注:前話「一 大骨」との親和性がすこぶる強い。

「壘跡」「二重隍の壘趾」これは前条の「小國村【東濱の山里也】の山中に」あるという「二重隍壘跡(ほりしろあと)」所謂、古い山砦(さんさい)の塹壕と土塁に囲まれた廓(くるわ)である。前に注した通り、現在の東津軽郡外ヶ浜町蟹田小国附近と思われる。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「小國澤目山本村」「おぐにさはめやまもとむら」で「蟹田小国」の沢の境にある「山本村」の謂いか。森山氏補註に、『同じく蟹田町山本(やまもと)。小国の西方』とある。現在蟹田山本野脇附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「造作の用に充てんと思ひ」「造作」は「ぞうさく」で.、家の建材或いはその内部の床板・仕上げ材・取付け物に役立てようと思い。

「馬五六疋をひいて」とあるからには、その板状に摂理した大小の岩石がかなり多量にあったことが判る。

「堀」塹壕状・回廊状になった箇所の辺り。馬を放っても土塁が高く、外へは走り行けぬと判断し「區中(くるはのうち)」大きな外郭の土塁に囲まれた城塞跡の廓(くるわ)の中全体。

「四蹄(そく)悉(みな)鮮(なま)血に塗れてありければ」その総ての馬の蹄(ひづめ)が、何か鋭いものを踏みつけたかのように、皆、血塗(ちまみ)れになっていたので。

「寒慄(ぞつと)して」二字へのルビ。

「少時も」「しばしも」。

「堪へずして」(恐ろしさに)堪えられなくて。

「早卒に」「にはかに」。即座に。

「脱れ」「のがれ」。

「嘉永の末年」嘉永は七年が最後でグレゴリオ暦では一八五四年。

「簗(やな)」「梁」とも書く。川漁の一つ。川の瀬を両岸より杭・竹・石などで堰き止めて、一ヶ所を開けておき、そこに簀(す)を張って、川の流れを上り下りする魚類を、その上で捕らえる仕掛け。一般には夏の風物である。

「鱗屑(ざつこ)」「雜魚(ざこ)」。主に小型・中型の魚。

「小き」「ちさき」。

「鮫(さめ)」位置的に見て海産のサメ類が遡上し得る場所ではない。或いは、細長いか扁平な特殊な形をしたナマズ類を指しているか。私が直ちに想起したのは条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギバチ Pseudobagrus tokiensis であった。ウィキの「ギバチ」によれば、『神奈川県、富山県以北の本州』に棲息し(青森にいておかしくない)、全長約二十五センチメートル(「小き」という謂いに合う)、『体は細長く、体色は茶褐色から黒褐色で鱗はない。上顎、下顎それぞれ』二対ずつ合計八本『の口ひげ、胸びれと背びれに』一本ずつ、合計三本の『棘を持』ち、『尾鰭の後縁がわずかにくぼむ。幼魚には、黄色味を帯びた明らかな斑紋がある』(形がサメの子に似ていなくもないと私は思う)。『流れがあ』って、『比較的水質も良い河川の中流域から上流域下部に生息する。石や岩の下や石垣の隙間、ヨシの間や倒木の下に潜む。主に夜間活動し、水生昆虫や小魚などを捕食する』というのは、当該地によく当てはまり、また夜行性であるから、必ずしも簗に常時、かかるとも思われない)。さらに、本種の『棘には毒があるとされる』点で「必ず祟ある」だから「みな放てる」という理由が腑に落ちるのである。同じギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps にも、やはり棘があり、これに刺されると激しく痛むことが知られている(但し、ギギは新潟県阿賀野川より以南にしか棲息しないのでこれは候補にならないのである)。

「鰐」「わに」。海産の軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii のサメ(鮫)類のこと。河口附近ならば、同じ板鰓亜綱エイ上目 Batoidea のエイの類は(エイ類の中には体幅が狭く、サメに見える種もいる。例えばエイ目 Rajiformes の仲間(ガンギエイ科ガンギエイ属ガンギエイ Raja kenojei などは秋田では食用として「かすべ」の名で知られ、私の好物でもある)にはそうした種が多く、エイの仲間であるにも拘らず、体がスマートで「~ザメ」の和名を有する種や地方によっては「鮫」扱いする種もかなり多い)、かなり遡上はするが、やはり、先の旧「山本村」附近、その上流の淵など以っての外で、考えられない。

「忘失たり」「わすれたり」と訓じておく。

「こもこの石郷岡氏の語しなり」「こも」(この話も)「この石郷岡氏」(「一 大骨」の「石郷岡氏」の注を参照のこと。「石郷岡」で人の姓である)からの採話であるというのである。冒頭述べた通り、前話「一 大骨」からの続篇的性格が強いのである。]

文楽人形になる夢――

 

30日の未明に見た夢――どうも不可思議で記さずにはおけぬ夢――

僕は大阪の文楽劇場の楽屋に入ってゆく――

僕はそこで――文楽の女形のかしら「むすめ」の人形――になる――ことになっている――のである

僕は鏡に向かって独りで――顔に白い胡粉を刷(は)き――娘の髷を被り――娘の衣裳を纏う……

僕の上半身はすっかり「むすめ」の人形になっていた――

ところが、そこで僕は尿意を催してしまう。文楽の女形には下半身はないのだが、僕の下半身はまだ人間なのである。見下ろしてみると、僕はタイトなGパンを穿いている。
[やぶちゃん注:僕は実はGパンが好きでない。高校時代に穿いていたことはあるが、記憶の中では二十代以降、現在に至るまでGパンを穿いたことがなく、持ってもいないのである。]。
僕はこれを脱ぐ。そうして上半身は「むすめ」人形のままでトイレに行こうとすると、楽屋にいる太夫や人形遣たちが、

「あかん。人形になったら、もう、御不浄へは行けんのや。……そやな……裏の坪庭の垣根の辺りで……しなはれ……」

と言うのである。「むすめ」人形上半身の下半身パンツ一丁の僕は、おしっこを我慢して、ひた走りに楽屋の奥に向かって走るのであった…………

そこで実際の尿意を催して目覚めた。午前三時であった。その時、僕は

「僕を遣う面遣(おもづかい)は是非、蓑助さんで、あってほしい。」

と訳の分からぬ感想を感じていた…………

 

諸國百物語卷之四 十四 下總の國平六左衞門が親の腫物の事

     十四 下總(しもふさ)の國平六左衞門(へいろくざへもん)が親の腫物(しゆもつ)の事

 

 下總のくに、うすいの四日市(よかいち)といふ所に、平六左衞門と云ふものあり。諸國あんぎやの僧、あるとき、きたりて宿をかりけるが、この僧、やどをとり、夜もすがら、ねもせず、法花經(ほけきやう)をよみゐけるに、しやうじひとへあなたに、よひと、むく、むく、と云ひて、うめくおとしけるを、かの僧、ふしぎにおもひ、夜あけて、ていしゆに、

「このあなたには、犬の子、御座候ふや、よひと、うめき申すは」

と、とひければ、平六ざへもん、

「さればこそ、はづかしながら、御僧の事にて候へば、かたり申さん。そのうめき申すものは、われらが親にて候ふが、此十二年いぜんより、わづらはれ候ふが、はじめは右の肩にはれ物ひとつでき、そのゝち、又、ひだりの肩に、をなじごとくに、はれ物できて、のちには大きなるあなあきて、ひだりへむけば、右のあな、こちむけ、と云ふ。右へむけば、ひだりのあな、こちむけ、と云ふ。兩のあなより、こちむけ、こちむけ、と、せむるゆへ、十二年このかたは、よるひる、手をつき、ひざをたてゝゐながら、かほをふり候ひて、むく、むく、と云ひて、あかしくらされ候ふ。はじめ五、六年がほどは、りやうぢをいたし、きたうをたのみ候へども、そのしるしもなく候ふゆへ、此五、六がねんは、うちすてをき候ふ」

とかたる。僧きゝて、

「さらば、その人に、あわん」

と云ふ。

「やすき事」

とて、親にあわせければ、かの僧、をやに、いひけるは、

「このはれ物のできそめけるいわれをざんげし給へ」

といへば、親きゝて、

「はづかしながら、かたり申すべし。それがし、わかきとき、めしつかいの女に手をかけ候へば、あの平六が母、よになき、りんきふかき女にて、かの下女を、しめころし候ふ。かの下女、ころされて三日もすぎざるに、右の肩にはれ物でき、それより七日めに平六が母もあひはて候ふが、三日もすぎざるに、又、ひだりの肩にはれ物でき候ひて、兩の肩より、こちむけ、こちむけ、申すを、一どもへんじを申さねば、しめころすやうにて、たへがたく候ふゆへ、此十二年このかた、ひまなく、むく、むく、とばかり、申してゐ申す」

とかたりければ、この僧、つくづくと、きゝ、

「さらば、きとうをしてまいらせん」

とて、かたをぬがせ、うしろへまわり、かのはれものにむかつて法花經をよみ給へば、右の肩さきのあなより、ちいさきへび、かしらを、さしいだす。僧はいよいよ、いきもつかず經をよまれければ、はや、三寸ほど、かしらをいだす。僧は御經を手にもちながら、此へびをひきいだし、又、ひだりのあなにむかい、經をよまれければ、はじめのごとく、是れもかしらを出だす所を、經をもちそへ、引きいだし、ふたつながら、めんめんに、つかをつき、經をよみ、とぶらはれければ、かのはれ物も、へいゆし、あなもふさがりけると也。親子もろとも、よろこびは、かぎりなし。このざいしよにはみなみな、法花(ほつけ)に受法(じゆはう)しけると也。

 

[やぶちゃん注:人面瘡様潰瘍+妬女殺人+妬女両人蛇変生+「コッチ向ケ!」反復不眠地獄+法華経利生譚という贅沢テンコ盛りホラー。

「下總(しもふさ)の國」現在の千葉県北部と茨城県の一部に相当。

「うすいの四日市(よかいち)」現在の千葉県佐倉市臼井の内であるが、「四日市」は不詳。現在、南西で隣接する四街道市の「よつかいどう」は「よつかいち」と似ていると思ったが、四街道の地名は近代以降の産物らしいから、違う。

「法花經(ほけきやう)をよみゐけるに」この行脚僧は日蓮宗の僧である。

「しやうじひとへあなたに」「障子一重、彼方(あなた)に」。

「よひと」前話既出既注。一晩中。夜っぴいて。僧の台詞中のそれも同じ。

「むく、むく」「向く、向く」である。「むくむくした感じの」のオノマトペイアではないので注意(という私も初読時は、直後の僧の問いに「犬」と出るから、「くんくん」などのそれかと勘違いしたものであった)。

「うめくおと」「呻く音」。

「大きなるあなあきて」「大きなる孔、開きて」。

「親」後の平六左衛門の語りで明らかになる通り、父親である。近代以前では単に「親」と書いた場合は父親を指すのが普通ではある。しかし、現代人にとっては、父親か母親かをここで明かさずに、僧が対面したところで徐ろに語りの中で母と明かすのは、読者に不親切と採るかも知れぬ。しかしそれは以上の通り、読者であるあなたの読みが浅いからである。しかし別な効果もある。その読みの浅さが、かえって読者であるあなたにその怪異の様態や因業をさまざまに想像させるための非常に効果的な手法と変じてあることに注意されたい。怪奇の漸層法という、すこぶる偶然の上質の効果とんなっているのである。読み違いこそが実は怪異をより楽しめる法でもあるということである。

「ひだりへむけば、右のあな、こちむけ、と云ふ。右へむけば、ひだりのあな、こちむけ、と云ふ。」「左へ顔を向けると、左の腫れ物が潰れて出来た左肩の孔が『こっちを向け!』と言う。右へ顔を向けるとむけば、右の腫れ物が潰れて出来た右肩の孔がこちむけ、『こっちを向け!』と言う。」。

「せむるゆへ」「責むる故」。

「よるひる」「夜晝」。

「手をつき、ひざをたてゝゐながら、かほをふり候ひて、むくむく、と云ひて、あかしくらされ候ふ。」「手を突き、膝を立てて居ながら、顏を振り候ひて、向く、向く、と云ひて、明かし暮らされ候ふ。」。老父は、左右の肩の孔から交互に「こっちを向け!」「こっちを向け!」を終始繰り返されるために横になることが出来ず、手を床に突いて、立て膝をした状態でずっと終始「いる」のである。これは恐るべき地獄である。

「りやうぢをいたし、きたうをたのみ候へども、そのしるしもなく候ふ」「療治を致し、祈禱を賴み候へども、その驗(しるし)もなく候ふ」。

「此五、六がねんは」「この五、六が年は」。この五、六年の間は、もう。

「うちすてをき候ふ」「打ち捨て置(お)き候ふ」。「をき」の歴史的仮名遣は誤り。

「このはれ物のできそめけるいわれを、ざんげし給へ」「この腫れ物の出來初めける謂はれを、懺悔し給へ」。「いわれ」の歴史的仮名遣は誤り。

「はづかしながら、かたり申すべし。それがし、わかきとき、めしつかいの女に手をかけ候へば、あの平六が母、よになき、りんきふかき女にて、かの下女を、しめころし候ふ。かの下女、ころされて三日もすぎざるに、右の肩にはれ物でき、それより七日めに平六が母もあひはて候ふが、三日もすぎざるに、又、ひだりの肩にはれ物でき候ひて、兩の肩より、こちむけ、こちむけ、申すを、一どもへんじを申さねば、しめころすやうにて、たへがたく候ふゆへ、此十二年このかた、ひまなく、むく、むく、とばかり、申してゐ申す」父の告解を歴史的仮名遣の誤りなどを訂しつつ、書き直す。

「恥づかし乍ら、語り申すべし。某(それがし:私め)、若き時、召使(めしつかひ)の女に手を掛け候へば、あの平六が母、世に無き、悋氣深き女にて、彼(か)の下女を、締め殺し候ふ。彼の下女、殺されて三日も過ぎざるに、右の肩に腫れ物出來、それより七日目に平六が母も相ひ果て候ふが、三日も過ぎざるに、又、左の肩に腫れ物出來候ひて、兩の肩より、こち向け、こち向け、申すを、一度(で)も返事を申さねば、絞め殺す樣(やう)にて(:頸を絞め殺されるような激痛が走り。後の孔からの蛇出現の伏線である)、堪へ難く候ふ故(ゆゑ)、此の十二年以來(このかた)、暇無く、向く、向く、と許(ばか)り、申して居申す」。

「つくづくと」凝っと。

「さらば、きとうをしてまいらせん」「然(さ)らば、祈禱(きたう)をして參らせん」「きとう」は歴史的仮名遣の誤り。

「ちいさきへび」「小さき蛇」。女の妬心の変生である。

「かしらを、さしいだす」これ以下、そろそろと頭(かしら)を出だすそのシークエンスは、これまた、ヴィジュアルにキョワい!

「いきもつかず」「息も吐かず」。呼吸することも忘れるほどに途中休まず。一気に。

「三寸」約九センチメートル。

「僧は御經を手にもちながら」後の「經をもちそへ」(「經を持ち添へ」)と対句表現となっている。法華経の功力(くりき)を十全に与えて、蛇を金縛りにし、軽々と肩の孔から引き出だすのである。

「ふたつながら」二匹とも一緒に。

「めんめんに」めいめいに。それぞれについて。

「つかをつき」「塚を築(つ)き」。ここはやや描写が粗い。僧は二匹の蛇を携えて直ちに外へ出て、それをそれぞれに埋めて土饅頭の塚を作り、蛇体となった彼女たちを封じ、葬ったのである。

「とぶらはれければ」「弔(とぶ)らはれければ」。

「へいゆ」「平癒」。

「あなもふさがりけると也」腫れ物の崩(く)えて出来た「孔も塞がりけるとなり」。

「このざいしよにはみなみな、法花(ほつけ)に受法(じゆはう)しけると也」これを見知った村の者たちは皆々、この法華経の有り難い読誦による恩恵を受けたによって、この僧に帰依し、日蓮宗の信徒となったという。ここら辺りは地域的にも日蓮が開眼した所縁の地に近い。或いは本「諸國百物語」の作者も同宗の信徒であったのかも知れぬ。]

2016/11/02

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (二)

 

       ㈡

 

 或るとき、彼は青くなって詑びて来たことがございます。

 「あれは、ぼくの、しわざなんです。ひらにご容赦下さい」

というのは、私どもに何の覚えもないのに、或る朝の時事新聞に、私たちの結婚写真が載っていたのです。誰が出したのだろうと私どもは驚きました。まだ私は女学校の教鞭をとっていましたので、学校は生徒の声で大騒ぎ、ここしばらく当惑の日がつづいていたのでした。そこへ、彼はやって来て、実は自分のしたことだと白状したのです。

 「写真を机上に飾って、眺め眺めして喜んでいたぼくでしたがね。罪は、ぼくにあるんですが。時事新聞にいる例の悪友、菊池寛がやって来ましてね。写真を見るや、

 『出すから借せろ』

と言うんですよ。ぼくは、すみやかに思考をめぐらしました。よし。これは善行に非ずとも、決して悪事に非ず。佐野君におかれてはいざ知らず、奥さんにおかれては、喜び給うとも、よし憤激はなさるまじと、結論はこうなんです。よろしい。君、急ぎもって帰って一刻も早く、紙上に掲載し、満天下の紳士淑女を悩殺せしめよ。と、こういったしだいです。ぼくは、空吹く風と、すましているつもりでいました。ところが、当地の善友諸君の間に起こったセンセイションの甚だしさ。驚いたぼくの良心の苛責。実はぼくのしわざですと白状にまいりました。こうして、しおしおとお詫びに上がったしだい、平にご勘弁願います」

 「まあ。あれは芥川さまでしたの?」

と初めて解ったのでした。

 

 切りなづむ新妻ぶりや春の葱  龍之介

 

 この一句を贈られて、慶造もなお、彼を歓待すること常の如しでございました。

 彼の曰く、

 「ぼくは佐野君の相手が女教師だと聞いたとき、この温和な佐野君が、こわい女性と結婚して一たいどうなることかと衷心から心配したものですよ。ところが予期に反して、本当に安心しましたね。佐野君と奥さんと、どちらが幸福かなあ、と考えてみたりしましたが、学校の教官諸君は、よい奥さんが来て佐野君はしあわせだと言い、ぼくは、これほど心酔されてしまったところをみると、奥さんの方がより、しあわせかと思いますよ。ああしかし、どちらでもよい。同じことだ。ご両人のために乾杯ですね。この良きご家庭が、いや栄えますように」

 こうして祝杯をあげてもくれたのです。私どもばかりが、何だか、しあわせで、彼にわるいような気がするのはどういうものでしたでしょう。夫は言うのです。

 「龍ちゃん。それは、もう、有難う。だからそんなに人の観察ばかりしてないで、早く自分もいい奥さんをおもらいなさい。幾らもいるでしょうが」

 「さあ。そう言われるとたいへんだ。ぼくはこれで、なかなか難かしいんですよ。美人でなければだめ。そう、だめなんです。顔がいいばかりでもだめ。全体の均整がとれて恰も彫刻を見るが如くにありたいですね。それだけでもだめ。いつも愛の泉に浸っているような、そんなふうな細君でありたいものですよ」

 「だから、東京には幾らもいるでしょう」「いや。いや。東京の令嬢階級なんて大したことない。つまらないものですよ。それより奥さんに天真燭漫、素朴純真な田舎の令嬢をお世話して頂くかな」

というふうに逃げられるのでした。

 横須賀という狭い街の、機関学校などというおきまりのところに勤務するということは味気なく、つまらないものであったろうと思います。それに夫は最も同情し、加えて下宿生活の無味乾燥を、私の家庭の潤いでまぎらしてやろうという心組みが、いつも、あたたかく私に蓼み入り、私もそういうこころで、出来得るかぎり、ねぎらったつもりでございました。そして、話はどうしても彼の結婚をすすめるという方へ向かざるを得ません。早くご良縁をと口癖のように申していました。

 彼は或るとき、こういうことを問いかけてまいりました。

 「奥さん。もしもです。もしも、妻子ある男子が処女に恋するとか、青年の身で人妻に恋するとかいうことになった場合、一たいどうしたらよいと思われますか。ぼくは、このことを一度、奥さん尋ねて見たいと思っていました」

 「そんなこと難かしくて、私どもには、とても解りはいたしませんわ。あなたこそ、その方面のご専門でいらっしやるのですもの。私こそ教えて頂きたいと思いますわ」

 「いえ。そんなに難かしく、奥さんと議論しようと思って申し上げてはいません。ただご意見を伺いたいと言う迄です」

こういう問いかかけでしたけれども、私は女高師時代にも、文楽に出てくる小春のような女性、おさんのような女性についてどう思うか、というような研究質問をもって尾上柴舟先生が生徒らに、答えさせたわけですが、私は、どうも、いつも、順番を飛ばされるほど、そういう問題には無智だったのです。結婚してもなお、こういう問題に答えるすべをしらないものでしたから、しかたなく、

 「それは、あきらめるより仕方がないのではないでしょうか」

というしだいでした。

 「はあ。あきらめる。そうですか。しかし奥さん。それが非常に真剣なものであった場合、なお、どうしたらよいと思いますか」

 「そんなに真剣であったとしても、道徳というものが許しませんでしょう。あきらめるより仕方がありません」

 「あきらめる――あきらめきれるのですか。奥さんは偉いですね」

 「私だって、あきらめきれるかどうかわかりませんのよ。でもやっぱり仕方がないのではないでしょうか。深い仲になってしまえば人にはうしろ指をさされますし、社会からも葬り去られてしまいます。犠牲になる者も出ます。心中しても同じことですわ。二人はそれでよいかも知れませんが、あとに残った者達、親の嘆き、子の思い。夫の憤激。それだけでも大低のことではありません。いっそ、そんな恋などしない方がよろしいのではありませんの?」

 「ぼくは一たいどうしたらよいのでしょう。ぼくは一生独身でいようかしら。奥さんと同じ女性がいない限り、結婚してもつまらないと思うからですよ」

 そしてつけ加えて言うのを私は聞いており、今もひどく気になるのですが、

 「結婚しても、あなたを忘れることはないように思います」

ということばでございました。真実がこめられていたのかも知れません。私はあっさりと流していましたのです。

 夫は、また、はからって、私の和歌を彼に見て貰えとのことで、添削などを依頼したことがございましたが、結局、ことわりの宣告を受けるに至りました。はじめは承諾してくれたのですけれど、途中から、「もう見ることができなくなった」という理由でことわりを言われました。

 「感情上、批判ができなくなるのです。だから悪しからず」

 しかし、

 「ぼくは今まで、歌というもの、例の百人一首にしても、うわの空で読んでいました。ところが実にいいものがあるということを奥さんのお歌を見てから気づくようになったのです。『さしも知らじな燃ゆる思ひを』『昼は消えつつものをこそ思へ』などとね」

 そして、持てあましたように立ち去って行かれたのです。

     ○

 こう思い出を書いていて、読み返して見ては、どうも私のことに引きつけているようで気になりますが、ありのままのことなので、このまま書きつづけて参ります。

 

[やぶちゃん注:「或る朝の時事新聞に、私たちの結婚写真が載っていた」「時事新聞にいる例の悪友、菊池寛がやって来」て「『出すから借せろ』」佐野夫婦と芥川龍之介が懇意になった大正六(一九一七)年五月から同校退職(翌四月に大阪毎日新聞社客員社員となる)の大正八年三月三十一日の間、龍之介の盟友菊池寛は大正五(一九一六)年の京都帝国大学英文科を卒業後(龍之介と同年卒)、上京、実際に同年十月に時事新報社会部記者となっており、彼が時事新報社に在職していたのは大正八(一九一九)年二月までである(同年、彼はまさに芥川龍之介の紹介もあって同じ大阪毎日新聞社客員社員となっている)。従って、この花子の語る内容には事実措定上の齟齬はない但し、私は当時の「時事新報」を照覧したわけではないから、実際に佐野夫妻の夫婦の写真が掲載された事実があったのか、また、あったとすれば、それはどのような形、記事として掲載されたものなのかは確認出来ていない。花子が当時、「女学校で教鞭をとってい」たという事実については、佐野正夫氏の論文「芥川龍之介はなぜ横須賀を去ったかⅡ」(ネット上でPDFで入手可能)によって『汐入女学校』であることが判明した(これは恐らく明治三九(一九〇六)年に汐入の谷町に開校した、当時の横須賀町及び豊島町の組合立高等女学校が翌年に横須賀高等女学校と校名を改め、明治四一(一九〇八)年に深田台に新築移転、昭和5(1930)年に県に移管して県立となって大津に移転(現在の共学の県立大津高等学校)するまで、横須賀市の女子教育の中心となった、其れであろうと推測する)。しかし、寧ろ、ここの彼女の「学校は生徒の声で大騒ぎ、ここしばらく当惑の日がつづいていたのでした」というリアルな述懐が、花子の勝手な創作や或いは妄想だなどとは到底、私には思えないとも述べておく。「借せろ」は「貸せよ」の方言か。龍之介は江戸っ子、菊池は香川高松、佐野花子は信州諏訪。識者の御教授を乞う。

「切りなづむ新妻ぶりや春の葱  龍之介」この句自体は他に相同句がない、やはり龍之介俳句の新発見句である。なお、芥川龍之介の「手帳(1)」(新全集編者によれば、この手帳の記載推定時期は大正五(一九一六)年から大正七(一九一八)年頃である)、

 

人妻のあはれや〔春の葱〕(〔 〕は芥川による末梢)

 

及び、

 

妻ぶりに葱切る支那の女かな

 

というやや類似した断片及び句がある。私は実は芥川龍之介の「手帳」の電子化注も手掛けており(作業中)、最初の句については★こちら★、後者はこちらで確認出来る。前者は本句の草稿、後者の句はこの佐野花子を詠んだ句の改作ともとれる。特に「人妻のあはれや〔春の葱〕」の句については、★そこで★本「芥川龍之介の思い出」を引用しつつ、既に考察を行っている。是非是非、お読み戴きたい。ともかくもこの「切りなづむ新妻ぶりや春の葱」という句は、私は紛れもなく芥川龍之介が佐野花子に心から贈答した一句に他ならぬと考えているのである。

「ぼくは、これほど心酔されてしまったところをみると」とは芥川龍之介が今は佐野花子にすっかり心酔してしまっているという表明であることに注意されたい。

「さあ。そう言われるとたいへんだ。ぼくはこれで、なかなか難かしいんですよ。美人でなければだめ。そう、だめなんです。顔がいいばかりでもだめ。全体の均整がとれて恰も彫刻を見るが如くにありたいですね。それだけでもだめ。いつも愛の泉に浸っているような、そんなふうな細君でありたいものですよ」この芥川龍之介の女性観はすこぶる彼らしいと私などは腑に落ちる告白であると思う。しかして、底本に載る佐野花子の唯一の写真を見ると、「いつも愛の泉に浸っているような」女性かどうかは別として、花子はまず誰もが「美人」と言うであろう顔立ちであり、しかも「顔がいいばかりで」はなく、まさしく龍之介が言う通り、「全体の均整がとれて恰も彫刻を見るが如くにあ」るのである! 嘘だと思われる方は、是非是非、図書館ででも本書の写真をご覧あれ!

「話はどうしても彼の結婚をすすめるという方へ向かざるを得ません」既に「㈠」で注した通り、芥川龍之介はこの海軍機関学校に就職した十二月には龍之介の友人山本喜誉司の姪塚本文(ふみ)と婚約し、文の卒業を待って結婚する旨の縁談契約書を取り交わしているのである。花子の当時の記憶に誤りがないとすれば、龍之介は既に婚約者がいることを佐野夫妻に全く話していなかったことになる。そうして、私はその通り――龍之介は慶造にも花子にも婚約者の存在を黙っていたのだ――と思うのである。

「文楽に出てくる小春」「おさん」「小春」は近松門左衛門の傑作として名高い「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)で紙屋治兵衛と心中する曽根崎新地の遊女紀伊国屋小春。「おさん」はその治兵衛の妻で、夫を愛する故に、小春へ一途な夫のため、小春の身請けを自ら勧め、その支度金をさえ拵えようとするけなげな女である。コーダは治兵衛が小春の喉首を刺し、自らはおさんへの義理立てのために別に背を向けて首を吊って心中を完遂する。近松は本作で以って、相対死をするものへ、神としての創作者として、無残なる結末を用意して罰している、とも言えるように私は思っている。そうしてまた、自裁した芥川龍之介もある意味、現実の中で恋多く生きた自分自身に対して、「神」として自死を演じさせた、とも大真面目に思っているのである。これについて私は芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫で少しく考察したつもりである。未見の方は、是非、お読みあれかし。

「尾上柴舟」(明治九(一八七六)年~昭和三二(一九五七)年)は詩人・歌人で国文学者。岡山県苫田郡津山町(現在の津山市)出身。一高時代に落合直文に師事し、明治三四(一九〇一)年に「ハイネの詩」を刊行、金子薫園と共に「叙景詩」を刊行して、『明星』の浪漫主義に対抗、「叙景詩運動」を推し進めた。東京帝国大学文科大学卒業後、幾つかの教職を経ているが、その間、花子の在学した東京女子高等師範学校でも教鞭を執っており(ここまではウィキの「尾上柴舟に拠った)、ここはその折りの授業風景の思い出に基づく。底本の山田芳子氏「母の著書成りて」によれば、東京女子高等師範時代に、花子は、

 

よどみなく坂を車の登るごとわがはたとせは過ぎさりにけり

 

と詠んで尾上柴舟に褒められた、とある(同歌の改稿と思われる相似歌は同書の花子の「遺詠」巻頭を飾っている。ちなみにそちらでは、

 

音もなく坂を車ののぼるごとわがはたとせは過ぎ去りにけり

 

となっている。「よどみなく」は当時の現在時制の青春の爽やかさがあり、後者は「はたとせ」を淋しく追想している枯れた哀感が漂うように感ぜられる。いい短歌である。

「さしも知らじな燃ゆる思ひを」「百人一首」の第五十一番、藤原実方朝臣の「後拾遺和歌集」「戀一」所収の(第六一二番歌)、

 

 かくとだにえやは伊吹(いぶき)のさしも草(ぐさ)

  さしも知らじな燃ゆる思ひを

 

の下の句。

「昼は消えつつものをこそ思へ」「百人一首」の第四十九番、大中臣能宣の「詞花後和歌集」「戀上」所収の(第二二五番歌)、

 

 御垣守(みかきもり)衞士(ゑじ)のたく火の夜(よる)は燃え

  晝は消えつつ物をこそ思へ

 

の下の句。孰れも、同年代の女へは、如何にもな、恋情の迂遠にして技巧的な何だかな和歌の引用である。因みに私は実は強烈な和歌嫌いである。悪しからず。]

谷の響 三の卷 一 大骨

 

 谷のひゝき 三の卷

           弘府 平尾魯僊亮致著

 

 一 大骨

 相馬村大助村の山中に、玄番澤といふ地(ところ)あり。天保十二年のころ此地を苗代に墾(ひら)きしに、土中より人の骨の未だ續けるもの出たり。その骨いといと大きく、髗(かしら)骨は一尺六七寸許り髃(かたほね)の廣さは三尺ほども有るべく見れば、土人奇異の思をなしこは言ひ傳ふる玄番の遺骨なるべしとて、祟(たゝり)あらんを怕れ其まゝ舊(もと)の壙(あな)に納めしとなり。こは相馬の産なる福右衞門といへる木匠(だいく)の話なり。

  附言 この玄番澤といふ地は、往古(む
  かし)其氏玄番といふ人ありて大剛のも
  のなりしが、それが部下なる大助村の長
  五郎・小三郎といへる二人のものに殺さ
  れき。さるに其怨祟(たゝり)にて有け
  ん、二個(ふたり)の家癩疾のもの絶え
  ざりければ、二代の長五郎・小三郎ども、
  玄番の亡靈(なきがら)を和めて氏神に
  祭りしより、この難病はなかりしとなり。
  又玄番が持てる太刀とて、長五郎の家に
  今に傳へしとなり。こもこの福右衞門の
  話なり。

 又、去る戊午年三月堅田村にて陸田(はたけ)を墾きしに、その地は往古常源寺の梵字地(てらあと)のよしにて、人の枯骨多く十六人と言へり。出たるうちいと大きなる枯骨一具ありて、人夫に傭はれし御藏町の才兵衞と言へるもの、こは希有(けう)なるものとてその頭骨を被りて見るに、自分の頤(おとがひ)までかゝれり。脛(はぎ)の骨膝の下にて一尺八寸あり。又一個の髗骨に長さ一寸四五分の齒の缺(かけ)もなく列りければ、御藏町の豐吉といへる者いと希(めづら)しとて、その齒を拔きとらんとすれば、堅く締りて拔けずとなり。さて是等の枯骨どもをさらいあつめて片隅に埋め置きしが、雨の蕭凄(すさまじ)かりし夜は陰火燃えあがりて、見しものまゝありしとなり。後改葬して供養する説ありしも、その事いかゞなりしか知らず。この豐吉といひし者語りしなり。またこの地より鏡一面出たる話あれど、そは二々にしるす。

 又、小國村【東濱の山里也】の山中に、二重隍壘跡(ほりしろあと)あり。嘉永のはじめ、こを陸田にひらきしにいと大きなる枯骨を掘出せるが、その髗骨の大きさは馬のことく、眼の痕大きく口廣くして齒の長さ二寸許り二重に生えたり。骸骨は二斗内(いり)の蒲簀(かます)に二個ばかり有けるが、全く人の枯骨にして手足の骨など甚(いと)大(たくま)しく、たゞ一個の骨にてありたるなり。こを掘りたるもの、馬の骨ならめとて鍬もて搔き亂しに、忽ち昏絶(たふれ)て伏したりければ、伴侶(とも)のもの共慌忙(あはて)さわいでこれをたすけ、目下にこの怪しきを見極太(いたく)惶※(おそれ)て舊の壙(あな)に納めしとなり。こは石郷岡某なる人、覲番の時(をり)聞きたりとて語られき。この外、碇ケ關の山中よりもかゝる大骨出たるよしなれど、未たその證を得ざればこゝに洩しき。[やぶちゃん字注:「※」=「忄」+「票」。]

[やぶちゃん注:所謂、今でもその手のアブナい話に出る巨人伝説のような、西尾氏には悪いが、孰れも人骨(相撲取り並だったとしても)とは思われない白骨の大きさである。縄文・弥生人やアイヌの人々でも、こんなに大きくはない。地元の人々が誰も彼も熊の骨を人骨と見誤るとは思われぬ。但し、青森や秋田には古くから大人(おおひと)伝説はある。サガラッチ氏のサイト「巨人大全」のによれば、『秋田県には三九郎、青森には八の太郎がいます。八の太郎は青森県で十和田様という神様と喧嘩して、秋田方面へ逃げてきて、八郎潟を掘り、そこの主となったそうです』とある。いて欲しいとは思うけどなぁ。

「相馬村大助村」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『中津軽郡相馬村大助。弘前から西南にあたる山村で、江戸時代初期の開村。村名伝説がある。むかしは岩木川を遡って鮭がここまで上った。その時期になると、夜中に白髪の翁が「大助小助今のぼる」と叫んで来た。村人はこの声を聞けば死ぬといって耳を塞いだという。スケは鮭のことである』。現在は合併により弘前市大助(おおすけ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「玄番澤」底本の森山氏の補註によれば、『戦国時代の士豪三ツ目内玄蕃がここで終った』(命を終えた)『という伝えがある』とある。この人物は青森ではかなり知られた人物らしく、森山氏は戦国時代とするが、実際には安土桃山末期で江戸開府直前といった感じである。株式会社サンブラッソの公式ブログ「青森の歴史街道を探訪する」の「第22話 堀越城 ~前線基地から本城へ~」を見ると、慶長五(一六〇〇)年に津軽領主であった為信が徳川方について、関ヶ原の合戦に出陣中、その留守に、『尾崎喜蔵、三ツ目内玄蕃、板垣兵部の三将が謀反を起こし、堀越城を占領し』たもののその『後、反逆軍の全滅で幕を閉じ』たとあるからである(下線やぶちゃん)。さらに、「東奥日報社」公式サイト内の「棺森」に、先の現在の弘前市大助の東の端から東南に四・六キロメートル(直線)位置に「棺森(がんもり)」というおとろしけない山(地名)が存在し(この右下(グーグル・マップ・データ))、『棺森には玄蕃沢という名の沢がある』と明記されている。或いは、現行の大助地区ではなく、ここかも知れぬ。

「天保十二年」一八四一年。

「苗代」「なはしろ」。

「人の骨の未だ續けるもの」関節で分離していない、人骨一体が概ね完全に繫がった状態になっているもの。

「髗(かしら)骨」頭蓋骨。

「一尺六七寸許り」四十八・四八~五十一・五一センチメートル。頭頂から下がった顎先までとしても異様な大きさである。

「髃(かたほね)の廣さ」前の頭蓋骨のサイズから考えて、人骨の左右の肩(骨)幅を言っているものと思われる。

「三尺」ほぼ九十一センチメートル。

「其氏玄番」先の話では三ツ目内とする。しかし「其の氏」ではおかしい。この「其」は「某」の誤記ではあるまいか?

「癩疾」ハンセン病。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacterium に属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。

「和めて」「なごめて」。

「氏神に祭りしより」自分の先祖が殺戮した者を自分の一族の氏神としたというのである。御霊信仰の中で、敬して鎮める方法はすこぶる多いが、自分のクランの氏神としてしまうというのは、かなり思い切った方法である。ハンセン病は感染力が非常に弱いので、特定の一族に有意に患者が多発することは普通あり得ない。或いは、ハンセン病とは違う、別な皮膚強い変質が起きる遺伝病或いは感染症(遺伝を考えた方が自然)に一族がぞくぞくと罹患し、それを食いとめる手段としたものか。

「去る戊午年三月」先の「天保十二年」前後で「戊午」(つちのえうま)は安政五年。一八五八年。「去る」(さる/いんぬる)なのは本書の成立がそれより後の万延元(一八六〇)年だから。

「堅田村」底本の森山氏の補註によれば、『現在の弘前市和徳堅田(かただ)』とある。現在は和徳町と堅田にわかれているようだが、この附近(グーグル・マップ・データ)。

「往古」「むかし」。

「常源寺」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市西茂森町。曹洞宗白花山常源寺。永禄六年開基という。寺禄三十石』とある。永禄六年は一五六三年。

「梵字地(てらあと)」三字へのルビ。

「十六人」全身が保存された人骨で数えると十六人分ということであろう。揃っているという点からみると、明らかに古い埋葬地であったと考えてよかろう。

「御藏町」既出既注であるが再掲しておく。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「その頭骨を被りて見るに、自分の頤(おとがひ)までかゝれり」この場合の頭骨とは、考えられないことであるが、大の大人が被ることが出来た頭蓋骨ということは、通常成人の三回りぐらいは大きなものでなくては無理である。

「脛(はぎ)の骨膝の下にて一尺八寸あり」膝蓋骨から下の脛骨が五十六センチメートルあったということであろう。現代人の標準的な脛骨の長さは三十~三十三センチメートルとされるから、やはり異様に長い。

「長さ一寸四五分の齒」四センチ強から四センチ五ミリで、これは人間の歯では、あり得ない。

「列り」「つらなり」。

「堅く締りて拔けず」この状態が古い遺体なのか、新しい遺体なのかは不明だが、歯根や顎骨との間の腐食が進んでいれば抜け易くなるはずであるから、それなりに新しいということだろうか?

「さらいあつめて」「浚ひ集めて」。歴史的仮名遣は誤り。

「陰火」火の玉。

「見しものまゝありし」「見し者、儘ありし」。

「後」「のち」。

「この地より鏡一面出たる話あれど、そは二々にしるす」「二々」は「つぎつぎ」か。これは珍しく「四の卷」の「十七 地を掘りて物を得」で書かれてある。

「小國村【東濱の山里也】」底本の森山氏の補註によれば、『東津軽郡蟹田町小国(おぐに)。津軽半島中央部の山村。いま上小国・中小国・下小国の三部落に分れる』とある。現在の東津軽郡外ヶ浜町蟹田小国か。附近(グーグル・マップ・データ)。

「二重隍壘跡(ほりしろあと)」二重に掘られた山砦(さんさい)の塹壕(「隍」は堀)と土か石の塁(るい)の跡の謂いであろう。

「嘉永のはじめ」嘉永は一八四八年から一八五四年まで。

「ことく」ママ。「如く」。

「眼の痕」眼窩。

「齒の長さ二寸許り二重に生えたり」六センチもの歯がしかも二重に生えている!? 鮫の化石じゃねぇの?

「骸骨は二斗内(いり)の蒲簀(かます)に二個ばかり有ける」米で考えると、二斗は三十キログラム入りの袋の大きさであり、それ二つ分というのは、ばらばらになった成人一人の全骨(後に「一個」とあり、これは「ひとり」と読み、「人一人分の人体の骨」の謂いである)としても異様な量である。

「伴侶(とも)のもの共」「共」は「ども」。

「慌忙(あはて)」二字へのルビ。

「怪しきを見」「見」は「み」。

「極太(いたく)」二字へのルビ。

「惶※(おそれ)て」(「※」=「忄」+「票」)二字へのルビ。正直、この「※」は「慄」の誤記ではあるまいか?

「石郷岡」姓としては「いしごうおか」「いしごおか」「いしごおおか」「いしこうおか」「いしごうおう」「いしごうか」「いしざとおか」「いしさとおか」「いしとおか」「いしのりおか」「いしがおか」「せきごうおか」「いごうおか」「いごおか」などと読むらしい。ネット情報では東北、特に秋田県と青森県に多い姓だそうである。

「覲番」「覲」は「参覲交代」のように「将軍にまみえる」の意で「勤」とは本来は全く異なる文字であるが、この小国では位置的に「参覲交代」は当たらないから、単に藩の御用で恐らくは青森勤番として勤務した際、という意味であろう。

「碇ケ關」既出既注であるが再掲する。森山氏補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

諸國百物語卷之四 十三 嶋津藤四郎が女ばうの幽靈の事

 

      十三 嶋津藤(とう)四郎が女ばうの幽靈の事

 

 をわりの國に嶋津藤四郞(しまづとうしらう)とて、春藤(しゆんどう)の弟子にて、うたひをよくうたひ、御前能にも、たびたび出でられける。此友に、いせの津に、久庵とて、庭などをよくつくる人あり。藤四郞と無二のなかなりけるゆへ、あるとき、尾はりへたづね行き、こしかた物がたりして、ころは六月中じゆんの事なるに、かやをつり、ふたりながら、夜ひと、ね物がたりしけるが、ほどなく藤四郞は、ねいりける。久庵は、いまだねいらずしてゐたるが、としのころ、四十ばかりなる女、たけなるかみをさばき、かねくろぐろとつけ、しろきかたびらをきて、れんじより、なつかしさうにうちを見いれゐたり。久あん、おもふよう。此女はさだめて藤四郞がかたへよなよなかよふめかけなるべし、と、おもひ、わざと、見ぬふりしてゐければ、夜あけがたに、いづくともなく、かへりぬ。あくる夜もまた、かくのごとくしければ、久あんも、なにとやらん、物すごく思ひ、その夜のあくるをまちかね、藤四郞に、かく、と、かたり、

「さだめて、その方のやくそくして、とまりにくる女なるべし。めうばんより、われらはわきにね申さん」

といへば、藤四郞きゝて、

「はづかしながら、かたり申さん。それがし、在京のじぶん、かりそめにちなみ、それより國もとへつれてかへり、三とせ、そひたる女にて候ふが、あるとき、風のこゝちにて、あいはて申し候ふが、そのしうしんのこり申し候ふが、をりをり、きたり申す也」

とかたれば、久庵、おどろき、今、二、三日もとうりうせんとおもひしが、にわかに、いとまごひして、いせへかへられけると也。久庵は寬永のころ、あいはて申されける也。

[やぶちゃん注:「嶋津藤(とう)四郞」不詳。

「をわりの國」「尾張(をはり)の國」。歴史的仮名遣は誤り。

「春藤(しゆんどう)」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に、『金春座付のワキ方の名人、春藤六右衛門。寛永七年没』とある。寛永七年は西暦。なお、この能楽ワキ方の一流として栄えた春藤流は明治以後に衰え、昭和二〇(一九四五)年に廃絶している。

「うたひ」「謠ひ」。

「御前能」前掲「江戸怪談集 下」の脚注に、『藩主の御前での能。尾張藩における御前能か』とある。

「久庵」不詳。わざわざ「庭等を良く作る」庭師と添えたのは、趣味の昂じた半ば本業かと思われる。芸能者は元来、被差別者出身であったが、じつは寛永の前頃までは、名庭作家は別として、一般的な庭師も同じくそうした階層の出の者が多かった。

「こしかた」「來し方」。共通の或るいは互いの思い出や直近の経験。

「夜ひと」一晩中。夜を徹せんとするほどに。「夜一夜(よひとよ)」が転じた「よっぴとよ」「よっぴて」(現行は「夜っぴいて」となっている)の派生形であろう。前掲「江戸怪談集 下」の脚注には、『「Yofitoi」(『日葡辞書』)のかな表記』とある。

「いまだねいらずしてゐたるが」「未だ寢入らずして居たるが」。

「たけなるかみをさばき」「丈なる髮を捌き」。身の丈と変わらぬ長さもあろうかという長い髪を、結いもせず、ざんばらにして。

「かねくろぐろとつけ」「鉄漿(かね)、黑々と附け」。「鉄漿」は「お歯黒」のこと。

「しろきかたびらをきて」「白き帷子」。複数回既出既注。裏を付けていない白い単衣(ひとえ)。

「れんじ」「連子」で連子窓。窓に木や竹の棧(さん)を縦又は横に細い間隔で嵌め込んだ格子窓。

「なつかしさうにうちを見いれゐたり」「懷しさうに裡(うち)を見入れ居たり」。

「おもふよう。」句点はママ。読点でよかろう。

「此女はさだめて藤四郞がかたへよなよなかよふめかけなるべし」「この女は、定めて(きっと)、藤四郎が方へ夜な夜な通ふ妾(愛人)なるべし(に違いあるまい)」が久庵の心内語。

「わざと、見ぬふりしてゐければ」気を利かして、知らんぷりをしたのである。

「夜あけがたに、いづくともなく、かへりぬ。あくる夜もまた、かくのごとくしければ、久あんも、なにとやらん、物すごく思ひ」最初の夜に藤四郎が寝入ったのに、久庵が目が冴えて眠れずに朝を迎え、翌日の夜も朝まで眠れない(この日は、やっと女を尋常の存在ではないと無意識に感じた結果の不眠も含まれる。但し、後者の「物すごく」という形容も、必ずしも怪異の者としてこの女を認識した感覚表現というよりも、後の久庵の提案と、藤四郎から真相を聴いて激しい驚愕度から見て、寧ろ、彼を二晩も独り占めにしている久庵への妬心のような感情を覗き続ける女の視線(現実の愛人のそれとして)に強く感じた結果というべきであって、久庵は彼女を幽霊として感知している訳ではないと読むべきである)というのはそれ自体が異常であることに気づかなければならぬ。実は、既にして、初日――語り相手の藤四郎が寝入ったにも拘わらず、異様に目が冴え、眠れない、という現象自体が久庵を知らず知らずのうちに襲っている異常――なのであり、それがとりもなおさず、既にして霊界とアクセスした時空間に久庵が迷こんでいることの証しであることに気づかねばならぬ。さりげない怪異こそが怪異の実相なのである。

「さだめて、その方のやくそくして、とまりにくる女なるべし。めうばんより、われらはわきにね申さん」「定めて、その方の約束して、泊まりに來る女なるべし。明晩(みやうばん)より、我らは脇に寢申(まう)さん」。「めうばん」の歴史的仮名遣は誤り。「脇」は次の間或いは離れた別室。藤四郎はワキ方能楽師であるから、洒落ているように見える。いやさ、本話柄自体が、ワキ僧たる久庵が前半で女(シテ)を現実の藤四郎の愛人と見、後半で藤四郎の告解によりはするものの、女が亡霊であることが明らかにされるという、複式夢幻能の捻った体(てい)を持っているのである。

「じぶん」「時分」。

「かりそめにちなみ」「假初(かりそめ)に因(ちな)み」。ふっと、その場限りの遊びの積りで、契りを結び。しかし、そのままずるずると惹かれるようにその女が愛おしくなって愛欲に溺れて、といった感じか。逆に女の方の藤四郎への愛の執心を行間に読まねばいけない。でなければ、どうして「それより國元へ連れて歸り、三年(とせ)」も「添ひたる女」であると続くものか。

「風のこゝち」「風邪の心地」。

「あいはて」「相ひ果て」。

「そのしうしんのこり」「その執心、殘り」。

「とうりうせんとおもひしが」「逗留せんと思ひしが」。

「寬永」一六二四年から一六四四年。]

2016/11/01

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (一)

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本日より、佐野花子の手になる随想「芥川龍之介の思い出」の電子化に着手する。

 佐野花子は明治二八(一八九五)年生まれで、昭和三六(一九六一)年八月二十六日に亡くなっており、没後五十四年が経過しており、パブリック・ドメインである。

 彼女(旧姓は山田)は長野県諏訪郡下諏訪町東山田生まれで、諏訪高等女学校(首席卒業。現在の県立長野県諏訪二葉高等学校)から東京女子高等師範学校文科(現在の御茶の水女子大学)に進んだ。歌人でもあった(以下の底本には「遺詠」と題した歌集パートがある)。女子師範を卒業して一年で佐藤慶造(明治一七(一八八四)年~昭和一二(一九三七)年)と結婚した。夫慶造は、芥川龍之介が東京帝大卒業後、横須賀の海軍機関学校で英語の教官をしていた折の同僚(但し、芥川は明治二五(一八九二)年生まれで慶造よりも八つ年下で、花子より三つ年上であった。龍之介の同校着任は大正五(一九一六)年十二月一日附で、当時は満二十四(龍之介は三月一日生まれ)であった)の物理教官で、同校勤務中の約二年余り(芥川の同校退職は大正八(一九一九)年三月三十一日)、妻花子とともに親しく龍之介と交流した

 底本は昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇・初版)の内、佐野花子筆になる「芥川龍之介の思い出」を用いる。なお、山田芳子氏は佐野慶造と佐野花子との娘さんである(因みに、同書には山田芳子氏の「母の著書成りて」及び「母を偲ぶ歌」が併載されている。そのため、共著となっているのである。母花子の遺稿とカップリングで本書は刊行されたものである。なお、私の所持する本書は「潮音」の歌人であった父方の祖母から生前に貰い受けたものである)。

 恐らく、本作をお読みになられると、その内容に驚愕される方が多いかと思われる。

 但し、現在、芥川龍之介研究者の間では、そこに語られた内容は――佐野花子の妄想の類いといった一部の者の辛辣な一言で――まず、まともに顧みられることがないのが現実である。

 私は、佐野花子と芥川龍之介、彼女の書いたこの「芥川龍之介の思い出」の内容と実際の芥川龍之介の事蹟との関係について、身動き出来る範囲内では、いろいろと考察してきたつもりである。それらは私のブログ「Blog鬼火~日々の迷走」のカテゴリ「芥川龍之介」の記事として、古い順に以下のようなものがある。

 

「月光の女」(二〇〇六年六月十六日の記事)

 

『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』(二〇〇七年二月一日の記事)

 

『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』(同前二〇〇七年二月一日の記事)

 

『芥川龍之介 僕の好きな女/佐野花子「芥川龍之介の思い出」の芥川龍之介「僕の最も好きな女性」』(二〇〇七年二月三日の記事)

 

『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』(二〇〇七年五月五日の記事)

 

そこで推理もしたように、確かに佐野花子の「芥川龍之介の思い出」の叙述の中には、ある思い込みや思い違いに基づくと思われる箇所が実際にあり、そうした誤認を後年の佐野花子が事実として信じ込んでしまっていた、芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」の中に登場する――謎の「月光の女」――を間違いなく自分自身だ、自分でしかあり得ない、と堅く信じてしまった、と考えられる節も、確かにある。

 しかし、私は、それによって本随想が芥川龍之介研究の資料として価値を失っているとは毛頭、思わないのである。実際、本書には、他のどこからも見出すことが出来ない、芥川龍之介の未発見初期俳句六句を見出せるのである(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」を参照。私はこれだけでも本作は評価されてよいと信じている)。

 研究家の――妄想の類い――といったような非礼な一言によって葬られてしまった佐野花子と、この「芥川龍之介の思い出」は、今一度、復権すべきであると私は強く感じている。芥川龍之介研究に佐野花子を「アブナい」ものとして埒外おいておくのは、とんでもない誤りであると私は真剣に考えているのである。

 句などは読み易さを考えて、前後を行空けとした。注の形で補足するによいと思った事柄を添えてある。【二〇一六年十一月一日始動 藪野直史】]

 

 

 芥川龍之介の思い出  佐野花子

 

 

       ㈠

 

 買物に出て、ふと「羅生門」の映画看板を見たのが、思い出のそもそもの発端となりました。めったに映画を見ない私が、珍しく体調のよい日に、町へ出かけ、買物袋を片手に、まだ時間のあるのを幸い映画館にはいってスクリーンに眼を向けましたのも、「羅生門」 の作者が芥川龍之介だったからでございます。

 初版本の「羅生門」の扉に、

 

 干草に熊手かけたりほととぎす 龍之介

 

としたためて、自ら持参してくれた彼、龍之介のおもかげと、あの頃の新居、横須賀の海岸、ほのかに血のめぐっていた自分、還らぬ映像を思い起こして耐えられない懐かしさに襲われたのでございました。私は、やはり目まいを覚えながら帰宅し、あけくれ寝たり起きたりの中で、俄かにあせりを感じながら、ノートにたどたどと書きはじめたのです。それは日に日に早くなり、息もつげないような気持ちに私を駆り立てて行きます。疲れると臥したまま、そばにいる娘に語り聞かせていました。私は命のもう長くないのを感じています。人にはどう思われようと、私にとりましては唯一つの淡い光のような追憶でございました。

 まあ、あれから幾星霜を経たというのでしょう。彼は若くして自命を断ち、私の夫、佐野慶造さえも、最早、地下に眠ってしまいました。それからしても十数年は経ています。

 思えば私には二人の男の子もありましたが長男は東京震災のとき、次男は第二次大戦の東京空襲のとき、それぞれに命を落としております。今は一人娘になった芳子と、その婿と二人の孫との生活でございますが、病魔に魅入られ、それなりに思い出を友として走り書きの毎日を送ることになりました。

 私の枕元にある現代日本文学全集二十六「芥川龍之介全集」筑摩書房刊(昭和二十八年九月二十五日発行)の年譜等を辿ってみますと[やぶちゃん注:太字は底本を再現。「全集」はママであるが、これは「芥川龍之介集」の誤りである。]、

 大正五年、二十五才のとき芥川龍之介は、第一高等学校教授・畔柳都太郎の紹介で、十二月一日から、横須賀の海軍機関学佼嘱託教官となり、そのため十一月下旬から住いを鎌倉に移すとあり、他に詳しくは、大正六年二十六才のとき下宿を鎌倉から横須賀に移したこともございます。このとき私は夫、佐野慶造と共に、この横須賀に住みまして、勤務先は彼と同じ機関学校にて、夫は、物理教官、彼は英語教官として既に文名も高かったのでございますが三人の親交はこの時に結ばれました。大正八年三月、彼が同校を辞し、大阪毎日新聞社員となるまでの期間でございました。夫と彼は畑違いではありましたが、たいへんに親しくしていただきました。それと申しますのも、人の善い夫は、文筆のほまれ高い龍之介を友とすることを喜び、進んで親交を求めたからでもございましょうか。文学に興味を持つ妻としても、私を彼紹介してくれました。

 大正六年四月の或る土曜日でしたが、私たちは新婚旅行に出るため、横須賀駅へまいりました。そのとき丁度、すれ違いに彼と出会ったのが、最初のお見知り合いでございましてまったく遇然ではありましたが、鎌倉までご同乗下さり、そこでにこやかにお見送り下さいました。

 「やあ。佐野君」

 「おお。これは芥川さんでいらっしゃる。これは妻です。お茶の水女高師文科の出で」

 「おお。これは、月の光のような」

と呟やかれました……。鶴のような長身にぴたりと合う紺の背広。右手にステッキ。束の間の出会いではございましたが、

 

 春寒や竹の中なる銀閣寺  龍之介

 

としるした美しい絵葉書は、すぐ後に届けられてまいりました。私どもはその筆蹟に見入り、発句に感じ、たいせつに手箱の底へ収めたものでございます。京都からの便りでした。

 新婚旅行も土曜日でございましたが、それからあと、毎土曜日といってよい程、彼を招き、彼に招かれという交際がつづきました。新居にもお招きしましたが、そのころ鎌倉に「小町園」という料亭がございまして、ここの離れ座敷で、招いたり、招かれたりの土曜の夜は本当に三人とも楽しさに心あたたまり「お千代さん」という片えくぼのある女中さんや、「お園さん」という肥った女中さんがもてなしてくれました。彼が主人役のときには、ここに泊って私たちを夜ふけまでもてなし、一高時代の思い出話はカッパ踊りとなって座敷中に笑いを散らしました。私も初めは人見知りをしてろくに口もきけませんでしたが、いつか親しんで彼と意見を交わすほどにまでなって行きました。

 そのころの彼の手紙は次のような文面で書かれていました。

 「昨晩はご馳走さまに相成り有難くお礼申し上げます。実に愉快でした。今日もまだ酔いの醒めぬ思いで少しフラフラしています。駘蕩として授業も甚だいいかげんにやりました。今一度、来週の土曜日に小町園までお出かけ下さいませんか。お礼かたがたお誘いまで。奥さんによろしく」

 こうして土曜日を待つのが習慣になりました。初めの内気な気持ちは弾むようになっていそいそと日が経ち、土曜日はすぐやって来ました。田舎育ちの私は、とくに洗練された東京の文士の前に出るのは、身づくろいにおどおどする思いでした。夫はいろいろと注意してくれ、束髪に結わせ、襟におしろいを刷くことなども言ってくれました。母の心づくしの藤色の小袖や、紫のコートなどを身につけるにも消え入りたい気持ちだったのです。それがしだいに軽く済ませるようになり、心も弾み、話も自然にできるようになったのですが、彼を二人とも尊敬し敬愛したからにほかなりませんでした。

 お千代さんもお園さんも、呼吸をのみこんでしまい、

 「芥川さま。お待ちかねでございます」

と飛んで出てくるようになってしまいまして何とも楽しいあの頃であったと、ため息の出る今の私でございます。……前週には満開をほこっていた桜もチラホラと敷り敷いて、庭は一めんの花のしとねでございました。[やぶちゃん字注:「敷り敷いて」はママ。「散り敷いて」の誤りではあるまいか。]

 男二人はしきりに盃を重ね、私は彼の好意でブドウ酒に頰を染めたりしたようでございます。

 また、新居の六畳の部屋に彼を招いたことが何度ございましたろうか。テーブルに白布を掛け一輪ざしには、何か庭の花を入れ、故郷信濃から送られた山鳥で、山鳥鍋を供しましたときは、ことのほかご気嫌でして、

 「奥さん。ぼく、この山鳥鍋というのにはまったく感心しましたよ。よいことをお教えしましょう。これからお里へ手紙を出されるたびに、山鳥おいしかったと必ず書いてお上げなさい。すると又、きっと送って来て、ぼくはご馳走になれると、こういうことですよ」

 どうですかという様に彼は眼をかがやかせるのです。私はその彼らしい機智をほめ、心から嬉しく思ったものでした。

 

 麗らかやげに鴛鴦の一つがひ  龍之介

 

 この一句は上気嫌の彼の唇から洩れたものでした。

 彼は若い卓越した作家であり、会話も軽妙で、皮肉やユーモア、それに可成、辛辣なことばを吐く人でした。人の善い好人物の夫と、鋭い龍之介との会話はまことによい対比をなしていました。しかし、私を交じえていることを彼は決して忘れず、礼を失するようなことはしませんでした。東京育ちの垢ぬけした応待の中には女性を疎外せぬ思いやりがあったと思いますのです。それだけに、お上手やご冗談もたくみで、私はいつもその意味でうまく交わしておりました。

 「佐野君はよい奥さんをお持ちで羨やましい」とか「ぼくは、どうしたらよいのでしょう。一生、独身でいようかしら」などというふうなことばに対して、程のよいご冗談に過ぎぬと流していたのです。が、小町園の離れ座敷である宵のこと、お千代さんに命じて、硯と墨を持って来させ、すらすらと白紙に善かれましたのは、

 

 かなしみは君が締めたるこの宵の印度更紗の帯よりや来し  龍之介

 

 「さて、ご説明申し上げましょう。よい奥さんを持たれて羨やましい。心ひかれる女性だ……とこういう意味ですよ」

とのことでありましたが、これとて私は、滑らかな社交辞令と受けとりました。

 「奥さんの眼は美しい」

と、じつと見入られたこともありましたし、

 「ぼくは月のひかりの中にいるような人が好きだ。月光の中にいるような」

ということばも聞いております。それは彼、芥川龍之介の理想の女性像であったのです。何げないふうで言われることばは、私にとも誰にともなく、そして私に聞けというふうでありました。

 勤務の都合から、夫の帰宅の遅い夜、案じていますと、玄関に足音がして、戸がひらかれるや、夫のうしろに彼の顔が重なる帰宅というのもありました。

 こうして交友の間がらは、のどかにつづいて行きました。

 

[やぶちゃん注:『買物に出て、ふと「羅生門」の映画看板を見たのが、思い出のそもそもの発端となりました』本随想の執筆の契機である。黒澤明監督の映画「羅生門」は昭和二五(一九五〇)年八月二十六日に公開されている。

『初版本の「羅生門」』芥川龍之介の第一作品集「羅生門」は阿蘭陀書房より大正六(一九一七)年五月二十三日に刊行されている。

「干草に熊手かけたりほととぎす   龍之介」芥川龍之介の句としては未発見句で、現行の芥川龍之介の作とされる句には類型句さえ見当たらない。作句推定は、五月二十三日の「羅生門」上梓の直後の、この献本が行われたであろう大正六(一九一七)年半ば辺りより以前で、純粋な花子への贈答句の可能性の高さと考えると、大正六年四月より前には遡らない。それは、芥川の海軍機関学校への就任が大正五年十二月三日であり、佐野花子が夫によって芥川に紹介されたのが、「大正六年の四月のある土曜日」と記されていることからの推定である。「羅生門」の献本が、その後の佐野夫妻との交友が深まった後のことと考えられ、また献本の叙述に直後に「あの頃の新居」という表現が現れていることから、これが佐野夫妻の結婚からさほど隔たった時期ではないと推測する故でもある。

「ほのかに血のめぐっていた自分」「私は、やはり目まいを覚えながら」「あけくれ寝たり起きたりの中で、俄かにあせりを感じながら」「疲れると臥したまま」「私は命のもう長くないのを感じています」「病魔に魅入られ」これらの病態は、判る人には判るのであるが、結核の典型的な症状とは言える。事実、同書には山田芳子氏の「母の著書成りて」の中に、戦前・戦中に『労苦の末に結核にかかって臥床した母』とある。但し、死因がそうであったかどうかは不明である(因みに私(昭和三二(一九五七)年生まれ)も昭和三十三年に結核性カリエスに罹患したが(昭和三十六年半ばに固定治癒)、その頃にはストレプトマイシンなどが比較的安く手に入るようにはなっていた)。

「唯一つの淡い光」まさに花子にとってその「追憶」は「月光」なのであった。

「長男は東京震災のとき」長男佐野清一。同前の「母の著書成りて」の中に、『赤痢で病死し』たとある。

「次男は第二次大戦の東京空襲のとき、」「命を落としており」次男佐野由信。

「畔柳都太郎」(くろやなぎくにたろう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)は英語学者・文芸評論家。山形生まれ。仙台二高を経て東京帝国大学に入学、同大学院在学中に『帝国文学』に執筆、以後、『太陽』『火柱』『明星』にも文芸評論を寄稿した。明治三一(一八九八)年より一高英語担当教授となった(龍之介はその時の彼の教え子であった)。その間、早稲田・青山学院・正則学校でも教えた。明治四十一年からは「大英和辞典」編纂に心血を注いだが、完成前に病没した(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「十一月下旬から住いを鎌倉に移す」神奈川県鎌倉町和田塚(現在の鎌倉市由比ガ浜)の「海浜ホテル」の隣りあった「野間西洋洗濯店」の離れに下宿した。なお、この海軍機関学校に就職した十二月には龍之介の友人山本喜誉司の姪塚本文(ふみ)と婚約し、文の卒業を待って結婚する旨の縁談契約書を取り交わしている

「大正六年二十六才のとき下宿を鎌倉から横須賀に移した」大正六(一九一七)年九月十四日に鎌倉から転居し、横須賀市汐入の資産家尾鷲梅吉方の二階の八畳に間借りした。

「大正六年四月の或る土曜日」同年四月の土曜日は七・十四・二十一・二十八日であるが、直後に「京都からの便り」があったとあり、芥川龍之介はこの四月十一日から養父道章とともに京都・奈良に旅行しているから(帰京(田端の実家へ)は十五日の日曜)、この花子と龍之介の運命的出逢いは四月七日に同定されるのである

「おお。これは、月の光のような」私はこれを花子の妄想だなどして一蹴出来る人間では断じて、ない

「春寒や竹の中なる銀閣寺  龍之介」岩波旧全集書簡番号二七八に出る句。四月十三日附で佐野慶造宛。以下、全文。旧全集には絵葉書とはないが、これは確かに花子の叙述通り、絵葉書と思しい。

   *

 

   春寒や竹の中なる銀閣寺

 

    十三日           芥川生

  奥さまにおよろしく先日は失禮しましたから

 

   *

「小町園」現在の横須賀線ガードの逗子側の陸側に、かなり広い敷地を持って建っていた和風料理店(現存しない)。東京築地本店の支店であったが、ここの女将野々口豊(既婚者)は。後に、やはり芥川龍之介が思いを寄せることとなる女性の一人で、龍之介は自死の前年末から当該年正月にかけて、ここに、一種の「プチ家出」のようなことをして、なかなか田端へ帰らなかったりしている芥川龍之介の秘められた女性関係の中では最重要ランクに属する愛人の一人である。但し、高宮檀氏の『芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る』」の堅実な調査と考証によれば、野々口豊が鎌倉小町園の経営を任されていた野々口光之助と正式な結婚をするのは大正七(一九一八)年九月五日のことで、高宮氏は豊と龍之介が初めて逢ったのも(単なる初会の意である)同年三月二十九日(この日に芥川龍之介は二月二日に結婚した新妻とともに鎌倉町大町字辻の小山氏別邸に新居を構えており、ここは小町園の直近であった。因みに、私、藪野家の実家は、この龍之介の新居の直近である)以降とするので、佐野夫婦が豊を知ったとしても、それは、この記載よりもずっと後のこととなる。

「カッパ踊り」単なる幇間的な仕草のことか。芥川龍之介は好んでは酒は飲まなかった(飲めなかったわけではないようである)。従って酔っぱらって羽目を外し過ぎ、馬鹿囃子の幇間芸をした、と言った感じではないと思われる。彼女自身が後で「私を交じえていることを彼は決して忘れず、礼を失するようなことはしませんでした」と述べている通り、「月光の女」花子の前で、そんなことは、あの芥川龍之介が、やるはずが、ないのである。

「昨晩はご馳走さまに相成り有難くお礼申し上げます。実に愉快でした。今日もまだ酔いの醒めぬ思いで少しフラフラしています。駘蕩として授業も甚だいいかげんにやりました。今一度、来週の土曜日に小町園までお出かけ下さいませんか。お礼かたがたお誘いまで。奥さんによろしく」この書簡は旧全集には載らない。この謂いも、二日酔いというのではなく、酒の気に当てられたといった表現と読める。「駘蕩」はこの場合、ふわふわとした、なんともはや、ゆったりした気持ち、と言ったニュアンスである。

「刷く」老婆心乍ら、「はく」と訓ずる。「はけでさっと塗る」の意。

「麗らかやげに鴛鴦の一つがひ  龍之介」「麗(うら)らかや 實(げ)に鴛鴦(ゑんわう)の一つがひ」現行の芥川龍之介の俳句群に類型句はなく、花子の記憶が正しいとすれば、数少ない口誦記録の龍之介俳句で、文字化されていない可能性も孕む、極めて稀な新発見句といえる。芥川と文の結婚話の以前のエピソードであり、純粋な花子への贈答句の可能性の高さと佐野花子の直前の叙述等から考えると、大正六(一九一七)年の五、六月辺りではないかと推測される。

「可成」「かなり」。

「佐野君はよい奥さんをお持ちで羨やましい」「ぼくは、どうしたらよいのでしょう。一生、独身でいようかしら」私は芥川龍之介なら、こういう台詞を歯を浮かせることなく、相手に言えるダンディズム(半ばは演出として、半ばは本音として)を備えていたと思っている。特に、芥川龍之介は翌年(実際のそれは大正七年二月二日)に文との結婚を控えていただけに、私は「なおさら」だと思うのである。深層に吉田弥生との不幸な失恋の心傷(トラウマ)を抱えて込んでいた龍之介の心底を覗かすこれらの台詞、特に後者が、確かに芥川龍之介から発せられた密やかな告解でもあったのだと思っているくらいである。

「かなしみは君が締めたるこの宵の印度更紗の帯よりや来し  龍之介」この一首は岩波版新全集詩歌未定稿に載るもので、実際の創作は龍之介が花子に出逢うより遙か前のものである。Lucio Antonio の変名署名で書かれた歌群「さすらへる都人の歌」(八群九首)の第六歌で(全容はやぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注を参照されたい)、

 

 

 

かなしみは 君がしめたる 其宵の

 印度更紗の帶よりや來し

 

とある。旧全集書簡番号一〇七の大正二(一九一三)年九月十七日(推定)附の山本喜誉司宛書簡(ここにはこの頁にない多量の短歌群を見出せる)の末尾に「ANTONIO」の署名が見られる(因みにその後に宛名として山本喜誉司のことを「DON JUANの息子へ」と呼称している)。因みに「Lucio Antonio」から即イメージされる著名人物は作曲家Antonio Lucio Vivaldiアントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディである。これらの歌群は大正三(一九一四)年夏に執筆されたものと推測され、この「かなしみは」を含む「黑船の」「海はいま」「君が家の」「初夏の」の五首は、ほぼ相同(字配は大きく異なる)のものが、後に掲げる大正三(一九一四)年九月発行の『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載された「客中戀」に含まれている。この「印度更紗」は「インドさらさ」と読む。ポルトガル語“saraça”に由来。主に木綿の地に人物や花鳥獣類の模様を多色で染め出したもの。室町末期にインドやジャワなどから舶載されるようになり、国内でも生産が始まった。直接染料で模様を描く描(か)き更紗や、型を用いて捺染(なっせん)したものなどがある。十六世紀末のインドで極上多彩の木綿布を“saraso”また“sarasses”と呼んだところからの名という。印花布。花布(以上「印度更紗」の注は「大辞泉」の記載を参照した)。即ち、この歌は以下に龍之介が解き明かすような、佐野花子へ捧げた一首ではないということである。但し! 芥川龍之介は、極めて頻繁に、こうした過去に別の女性に捧げたり、献じたりした詩歌などを、改作したり、或いはまたそのまんまで、新しく心を動かした女性に恥ずかしげもなく、贈っているのである。しかしそれは彼のドン・ファン性というよりも、詩的な感動の普遍性ととって私はよいとさえ感じているとも言っておく。

「さて、ご説明申し上げましょう。よい奥さんを持たれて羨やましい。心ひかれる女性だ……とこういう意味ですよ」『「奥さんの眼は美しい」と、じつと見入られたこともありました』「ぼくは月のひかりの中にいるような人が好きだ。月光の中にいるような」「ということばも聞いております。それは彼、芥川龍之介の理想の女性像であったのです。何げないふうで言われることばは、私にとも誰にともなく、そして私に聞けというふうでありました」これらの花子の追憶のどこに――妄想――があろうか?! これは確かに芥川龍之介が口にしたとして、全く自然なものではないか!

谷の響 二の卷 十七 兩頭蛇

 十七 兩頭蛇

 

 古川子之丞といひし人、秋田大館の先に一疋の蛇の路の傍にあるを見るに、鳥蛇の文なして兩(ふたつ)の頭あり。眼口倶に常にひとしく、兩頭進みあひて處を去ること能はず。かゝりし時大館の家中一箇(ひとり)來りてこの蛇を見て、二條(ふたつ)にしてやらんと刀拔き、俄にいへりけるは、汝兩頭互に進みあひて食を求むるに切(せつ)なるべし、我今截(き)つて二段(ふたつ)になして遣はすべし。長短あるとて必ず恨むこと勿れと、眞中を切斷(たつ)て二條となしたるに、その蛇血を曳きながら左右の草莽(くさむら)に這ひ入りて見えずとなりぬ。

 こは天保三年の四月、江戸より下りしときの縡(こと)なりとて、この子之丞の物語りなりき。世に兩頭の蛇の尾の方の頭は眼口なく、たゞ頭の形あるまでなりといへど、又かゝるものもあれば一樣にいふべきにあらず。

 

[やぶちゃん注:本条を以って「谷の響 二の卷」は終わる。

「兩頭蛇」一部のネット記載では、頭部の二重体奇形である双頭の蛇の生まれる確率は天文学的数値で極めて稀であるというようなことが書かれているが、これは誤りである。リンク・クリックは自己責任として、私の好きなサイト「カラパイア」の「2つの頭を持つ、世界の双頭ヘビ写真特集」を見たら、それが大嘘であることが判る。天文学的という語は、まず、我々が生きている間に見られることは、まずない、ぐらいの謂いであるが、リンク先には、現代の直近の豊富な写真や動画があり、さらにそこには、『双頭のヘビの寿命は数ヶ月と言われているんだそうだけれど、一部2つの口が1つの胃にきちんとつながっているものは』、五~六『年以上も長生きするらしいよ』とも書かれている。私もそう思う。

「古川子之丞」「ふるかはねのじよう(ふるかわねのじょう)」と読んでおく。

「秋田大館」現在の秋田県北部に位置する大館市(おおだてし)で、北境で青森県と接している。当時は久保田藩(秋田藩とも呼んだ)の領内である。藩庁は現在の秋田県秋田市千秋公園近辺にあった久保田城。

「烏蛇」気性の荒い無毒蛇シマヘビ(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata)の黒化型(メラニスティック)個体と断定してよい。ウィキの「シマヘビ」によれば、『黒化型(メラニスティック)もいて、「カラスヘビ」(烏蛇)と呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあり、『主に耕地や河川敷に住み、草原や森林にも住む。危険を感じると尾を激しく振るわせ、地面を叩いて威嚇す』行動をとり、『あまり木に登らず、地表を素早く動く』。『本種はアオダイショウ、ヤマカガシとともに、日本国内の農村でよく見られるヘビである。シマヘビの食性はヤマカガシよりも幅広いが、やはり主にカエル類を主食とするため、稲作の発達と共にカエルの分布が拡大し、それに伴い本種の生息範囲も広がった。木に登ることがほとんどなく、地表を這い回るため、交通事故に遭いやすく、生息域が道路や塀などで分断されてしまうとそれを越えることができなくなり、現在では都市の周辺では見かけなくなってきている』。『性質には個体差はあるものの、アオダイショウやヤマカガシに比べると神経質で攻撃的な個体が多いとされる。また、無毒ではあるが、歯は鋭く、咬まれると痛い。他のヘビに比べ動きも素早く、油断すると危険。口内から破傷風菌が検出されたとの報告もあるので、咬まれたら』、『患部を水でよく洗い、消毒すること』が肝要である、とある。なお、本属の和名「ナメラ」は学名の音写ではなく(属名Elapheは音写すると「エラフェ」)、純粋な和称で、この属の鱗の特徴である「滑(なめ)」らかな甲「羅(ら)」の意味(「甲羅」の「羅」は鱗の意の外、「表面」の意もある)である。眉唾と思われる方は、どうぞ、ウィキの「ナメラ属」の解説をご覧あれかし。

「文」「もん」。紋。模様。

「天保三年の四月」一八三三年。同年の旧暦四月がグレゴリオ暦では四月一日が五月一日に当たる。

「江戸より下りしとき」弘前藩は江戸から下って津軽に戻る際には、秋田の久保田藩領内を通過する羽州街道を使うのが通例であった。]

甲子夜話卷之二 41 鴻池伊助の事

2―41 鴻池伊助の事

今大坂に鴻池伊助と云る富商あり。學文はなかりしが、天稟の善人なり。一年子を失しとき、人來り吊して、陰德のある人かゝる事に逢玉ふはいかなることよと云ければ、伊助申には、我輩不德の者は云までもなし。世にすぐれたる好人も、果報あしき目に逢ふこと珍らしからぬことなり。善事を爲せば天これに善報をなす。惡も亦惡報ありと云は定りたる理と存候。然ども善を爲せども不仕合せなる者もあり。惡もさのみ天責なきもあり。是は天の間違と存候也。何事も間違をあてにしてならぬことゆへ、只々定りたる理を守るべきことよと申たりしとなり。此人塙検校と親交にて、塙多くの書を買、種種の書を彫刻する費など、常に助力せり。前後の金數少からざることなれども、聊厭ふ色なし。塙歿後に、其家内困難なるべしとて、又助力せりと也。總て人の善事を行ふことに、金銀を費すは、露塵いとふ心なく、必力を合せしと云。商家には稀なるものなりけり。

■やぶちゃんの呟き

「鴻池伊助」大坂商人(両替商)で貨幣経済史家でもあった草間直方(くさまなおかた 宝暦 三(一七五三)年~天保二(一八三一)年)の通称(正確には「鴻池屋伊助」)。両替商の鴻池家の分家であった尼崎の草間家の養子となる。後に独立して肥後藩・南部藩などの財政整理を担当した。晩年は隠退し、物価・貨幣の変遷を詳述した「三貨図彙」(全四十四巻)「草間伊助筆記」「茶器名物図彙」等を著した。因みに、かの鴻池財閥は彼の本家筋の発展したものである。

「學文」「學問」。

「天稟」「てんぴん」。「天禀」とも書く。天から授かった資質。生まれつき備わっている優れた才能。「天賦」に同じい。

「一年」ある年。

「一子」「いつし」。後継ぎの男子であろう。

「失し」「うしなひし」。

「吊して」「てうして」。弔いの言葉をかけて。

「陰德」「いんとく」。世間に知られない良い行い。密かに行う善行(ぜんこう)。

「逢玉ふ」「あひたまふ」。

「好人」「よきひと」。

「定りたる理」「さだまりたることわり」。

「惡もさのみ天責なきもあり」「天責」は「てんせき」。悪行をなしても、たいした天罰をも蒙らぬ御仁も御座る。

「間違」「まちがひ」。天道是か非かどころではない。彼は天も必ず間違いを犯すと断じているのである。

「何事も間違をあてにしてならぬことゆへ、只々定りたる理を守るべきことよ」やや、こなれない謂い方である。何事に於いても天の裁断が絶対に誤らないなどと考え、それをあてにして御座ってはいけませぬ。天道にも間違いはありがちなことと承知した上で、ただただ定められた基本的な道理を守って生きてゆくことがよろしいことと存じまする。」。

「塙検校」塙保己一(はなわ ほきいち 延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)は盲目(後天性であるが、以下に見るように幼少時に失明)の国学者。ウィキの「塙保己一によれば、『武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。塙は師の雨富須賀一』(あめとみ すがいち)『の本姓を用いたもので、荻野(おぎの)氏の出自。近世に帰農した、百姓の家系であるという』。『幼少の頃から身体は華奢で乳の飲み方も弱く、丈夫ではなかった。草花を好み、非常に物知りであったという』。五歳の時、『疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき』、七歳の『春に失明した。あるとき、虎之助のことを聞いた修験者が生まれ年と名前の両方を変えなければ目が治らないと進言し、名を辰之助と変え、年を二つ引いた。しかし、目痛や目やには治ったものの、視力が戻ることはなかった。その後、修験者の正覚房に弟子入りして、多聞房という名をもらうも、視力は戻ることはなかった。手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。また、手で形をさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができた。目が見えなくなってから和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、一言一句違わずに語ることができたほど、物覚えが良かったという』。十歳に『なると、江戸で学問を積んで立派な人間になりたいと考えるようになるが、両親が反対するだろうと悩んだ』。宝暦七(一七五七)年に母が『過労と心痛で死去』、宝暦一〇(一七六〇)年頃(十五歳。十三歳とする記録もある)、『江戸に出、永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を寄せ』、約三年間を『盲人としての修業に費やし』、十七歳(或いは十五歳)で『盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門し』、『名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めた。しかし生来』が不器用で、『どちらも上達しなかった。加えて、座頭金の取り立てがどうしても出来ず、絶望して自殺しようとした。自殺する直前で助けられた保己一は、雨富検校に学問への想いを告げたところ』、「三年経っても見込みが立たなければ国元へ帰す」『という条件付きで認められた』。『保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に』国学・和歌・漢学・神道・法律・医学等、相応の名士の元で学ばせた。『塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。保己一の学問の姿勢に感動した旗本の高井大隅守実員』(さねかず)の奥方に「栄花物語」四十巻を貰い受け、『初めて書物を所有した。のち、雨富検校の隣人の旗本・松平織部正乗尹(まつだいらおりべのかみのりただ)が講義を受けていた萩原宗固』(そうこ/むねかた:江戸の与力。烏丸光栄(からすまるみつひで)・武者小路実岳(さねおか)・冷泉為村らに和歌や歌学を学び、江戸の武家歌人として名高い)『の講義をともに聞くことになった。乗尹は保己一に系統立てた学問をさせる必要を雨富検校に説き、はれて、萩原宗固の門人として教えを受けることとなった』。宝暦一三(一七六三)年に衆分』(しゅうぶん:盲官の一つ)『になった。明和三(一七六六)年には『雨富検校より旅費をうけ、父と一緒に伊勢神宮に詣で、京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山など』を六十日にも亙って旅をしている。明和六年には『晩年の賀茂真淵に入門し』たものの、その年の十月に師『真淵が死去したため、教えを受けたのは、わずか半年であった』。安永四(一七七五)年には衆分から勾当(こうとう)の位に『進み、塙姓に改め、名も保己一(ほきいち)と改めた』。安永八(一七七九)年に、大著「群書類従」の『出版を決意する。検校の職に進むことを願い、心経百万巻を読み、天満宮に祈願』している。その四年後の天明三(一七八三)年に晴れて、検校となった。寛政五(一七九三)年には幕府に土地拝借を願い出、『和学講談所を開設、会読を始める。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが』、かの「群書類従」であった。また、歴史史料の編纂にも力を入れ、それは「史料」として纏められた(この「史料」編纂の『事業は紆余曲折があったものの』、現在の『東京大学史料編纂所に引き継がれ』て現行の「大日本史料」の元となった)。寛政七(一七九五)年には『盲人一座の総録職となり』、文化二(一八〇五)年には『盲人一座十老とな』り、文政四(一八二一)年二月には盲官の最高位である総検校になったが、同年九月に七十六歳で亡くなった、とある。

「買」「かひ」。

「書を彫刻する費」「費」は「ついへ」。板行出版するための費用。

「前後の金數」「ぜんごのきんすう」。そうした塙の出版援助等にかかった金額。

「聊」「いささか」。少しも。

「露塵」「つゆちり」、これで副詞の用法。全く、少しも。

「必」「かならず」。

諸國百物語卷之四 十二 長谷川長左衞門が娘蟹をてうあひせし事

     十二 長谷川長左衞門(はせがわちやうざへもん)が娘蟹をてうあひせし事

Kaninohouou


 いよの松山に長谷川長左衞門と云ふ人あり。一人のむすめをもちけり。此むすめ、ようがん、びれいにして、心ざし、やさしく、うたをよみ、詩をつくり、きやうろん、しやうぎやうまで、のこらず、よみわきまへ、ぢひの心ざし、ふかゝりしむすめ也。あるとき、手水をけのなかに、ちいさき蟹のありしを、とりあげ、しよく物をあたへなどして、かわゆがりける事、とし久し。このやしきのあたりちかき所に淵あり。この淵の大蛇、このむすめにしうしんをかけ、男にへんじ、來たり、長左衞門にむかつていひけるは、

「われ、このほとりのふちにすむ大じやなるが、御身のむすめにしうしんをかけ候ふまゝ、むすめをわれに、たまはれ」

と云ふ。長左衞門も、いなといはゞ、むすめともにいのちをとるべし。又、ゆるさんも、くちをしゝと、なみだにくれていたりしを、むすめ、きゝて、

「ぜひにおよばぬ、しだひなり。みづから、いのちをすてゝ、父のいのちをたすけまいらせん。これもぜんぜむくいなるべし。はやはやへんじなさるべし」

といへば、長左衞門、なくなく、大じやにむかつて、

「むすめをあたへん」

とゆるしければ、大じやはよろこび、にちげんをきわめ、かへりぬ。さて、むすめは、かの蟹にうちむかい、

「としごろなんぢをあいせしが、わが身のいのちも、今いくほどかあるまじければ、もはやなんぢにもいとまとらするぞ」

とて、はなちければ、蟹もくさむらのうちへにげさりぬ。さて、やくそくの日にもなりしかば、大じやども、大小あまたにわにはいきたる。おそろしきとも云ふばかりなし。むすめはすこしもおどろかず、右の手にすいしやうのじゆずをつまぐり、左の手に法花經の五のまきをもち、すでに、ひろにわへ出でられければ、この御經のきどくにや、大じやども、おそれて、うしろへ、ひきしりぞく。かゝる所へ、いづくともなく、大きなる蟹ども、數もしれず、きたりあつまりて、かの大じやどもにとりつき、かたはしより、はさみたてければ、大じやどもゝをそれて、みなみな、にげさりぬ。まことに御經のきとく、又は、ぢひの心ざしふかゝりしゆへ、あやうきいのちをたすかりけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「娘かにをてうあひせし事」。この話柄は、かなり古くから見られる女と蛇の異類婚姻譚にカップリングされた蟹の報恩譚に、観音霊験譚が附加されたもので、その中で最も古い、本話に近いそれは、平安中期の長久年間(一〇四〇年~一〇四四年)に首楞厳院(比叡山横川中堂)の鎮源なる天台僧(生没年等事蹟不詳)が記した仏教説話集「大日本國法華驗記(だいにほんこくほっけげんき)」(通称は「法華驗記」)の「下」の第百廿三 山城國久世郡の女人」で(但し、先行する「日本靈異記」「三寶繪詞」にはかなり相似した類型話があるが、やや系統が異なると考えられている)、またこれは、それを元にした「今昔物語集」の「卷十六」の「山城國女人依觀音助遁蛇難語 第十六」で広く知られる話柄で、それより後のものでは「沙石集」の「卷八」の「四 畜生の靈の事」の中に報恩例として本話と酷似した話が挿話(独立章ではない)としてある。本「諸國百物語」筆者自身も全体の構成や小道具(法華経の功徳を出す辺り)から見て、この系統をインスパイアしていると考えてよい。以下にそれら、濫觴と私の推定する三篇を示す(「大日本國法華驗記」は岩波の「日本思想体系」のそれを参考につつ、恣意的に漢字を正字化し、句読点及び記号、一部の読み等を変更・追加し、読み易く改行も施した。「今昔物語集」の方は諸本を校合して、読み易く理解し易いオリジナルな増補追加したもので示した。ほぼ相同なので語注は「今昔物語集」の方ので後に附してそれのみとした。「沙石集」のそれは岩、波文庫筑土鈴寛校訂のものを参考に、読点・記号・改行・読みを追加して示した。一言だけ先に言っておくと、「大日本國法華驗記」のエンディングに近い、蔵から出てきた「女、顏の色、鮮白にして」というは「蒼白の顔色」の意ではなく、「晴れ晴れとして輝くように美しく白い顔色」の意であるので注意されたい)。

   *

 

    第百廿三 山城國久世郡の女人

 

 山城國久世郡(くせのこほり)に一の女人あり。年七歳より、法華經觀音品を誦して、每月の十八日に持齊(ぢさい)して、觀音を念じ奉れり。十二歳に至りて、法華經一部を讀めり。深く善心ありて、一切を慈悲す。

 人ありて蟹を捕へて持ち行く。この女、問ひて云はく、

「何の料(れう)に充(あ)てむがために、この蟹は持ち行くぞ。」

といふ。答へて曰く、

「食に宛(あ)てむがためなり。」

といふ。女の言はく、

「この蟹、我に與へよ。我が家に、死にたる魚、多し。この蟹の代(しろ)に汝に與へむ。」

といへり。卽ち、この蟹を得て、憐愍(れんみん)の心をもて、河の中に放ち入れり。

 その女人の父の翁(おきな)、田畠を耕作せり。一の毒蛇あり、蝦蟇(かへる)を追ひ來りて、卽ち、これを呑まむとせり。翁不意(おもはず)して曰く、

「汝、蛇、當(まさ)に蝦蟇を免(ゆる)すべし。もし免し捨つれは、汝をもて聟(むこ)とせむ。」

といへり。蛇、このことを聞きて、頭(かしら)を擧げて翁の面(おもて)を見、蝦蟇を吐き捨てて、還り走り去りぬ。翁、後の時に思念(おも)へらく、

『我(われ)、無益(むやく)の語(こと)を作(な)せり。この蛇、我を見て、蝦蟇を捨てて去りぬ。』

とおもへり。心に歎き憂ふることを生じて、家に還りて食せずして、愁ひ歎ける形にて居たり。妻(め)及び女(むすめ)の云はく、

「何等(なんら)のことに依りて、食せずして歎き居るぞや。」

といふ。翁、本緣を説けり。女(むすめ)の言はく、

「ただ早く食せられよ。歎息の念(おもひ)、なかれ。」

といへり。翁、女の語に依りて、卽ち、食を用ゐ了(を)へり。

 初夜の時に臨みて、門を叩く人あり。翁この蛇の來れりと知りて、女に語るに女の言はく、

「三日を過ぎて來れ。約束を作(な)すべし。」

といへり。翁、門を開きて見れば、五位の形なる人の云はく、

「今朝(けさ)の語に依りて、參り來れるところなり。」

といふ。翁の云はく、

「三日を過ぎて、來り坐(ましま)すべし。」

といへり。蛇、卽ち、還り了(を)へぬ。

 この女。厚き板をもて藏代(くらしろ)を造らしめて、極めて堅固ならしむ。その日の夕(ゆふべ)に臨みて、藏代に入り居て、門を閉ぢて籠り畢へぬ。

 初夜の時に至りて、前(さき)の五位、來れり。門を開きて入り來り、女の藏代に籠りたるを見て、忿(いか)り恨める心を生(おこ)し、本(もと)の蛇の形を現じて、藏代を圍み卷き、尾をもて、これを叩く。父母(ぶも)、大きに驚怖せり。夜半(よなか)の時に至りて、蛇の尾の叩く音、聞えず。ただ、蛇の鳴く音(こゑ)のみ、聞ゆ。その後、また聞えず。明朝に及びてこれを見れば、大きなる蟹を上首(かしら)として、千萬の蟹、集りて、この蛇を螫(さ)し殺せり。諸(もろもろ)の蟹、皆、還り去りぬ。

 女、顏の色、鮮白にして、門を開きて出て來り、父母に語りて云はく、

「我、通夜(よもすがら)觀音經を誦するに、一尺計(ばかり)の觀音、告げて言はく、『汝、怖畏することなかれ。當(まさ)に蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火燃(がんじやぎふふくかつけどくゑんくわねん)等の文を誦すべし』と、のたまふ。我(われ)、妙法・觀音の威力に依りて、この害を免るることを得たりといへり。この蛇の死骸(しにかばね)を、この地に穿(うが)ち埋(うづ)みて、蛇の苦及び多くの蟹の罪苦を救はむがために、その地に寺を建て、佛を造り經を寫して、供養恭敬(くぎやう)せり。

 その寺を蟹滿多寺(かにまたでら)と名(な)づけて、今にありて失せず。時の人、ただ紙幡寺(かみはたでら)と云ひて、本の名を稱(い)はず。

 

   *

 

 山城の國の女人(によにん)、觀音の助けに依りて蛇の難を遁れたる語(こと) 第十六

 

 今は昔、山城の國、久世(くぜ)の郡(こほり)に住みける人の娘、年七歳より觀音品(くわんのんぼん)を受け習ひて讀誦(どくじゆ)しけり。月每(つきごと)の十八日には精進にして、觀音を念じ奉りけり。十二歳に成るに、遂に法花經一部を習ひ畢んぬ。幼き心なりと云へども、慈悲深くして、人を哀れび、惡しき心無し。

 而る間、此の女、家を出でて遊び行(あり)く程に、人、蟹を捕へて、結びて持(も)て行く。此の女、此れを見ては、問ひて云はく、

「其の蟹をば、何の料(れう)に持て行くぞ。」

と。蟹持ち答へて云はく、

「持て行きて食はむずるなり。」

と。女の云はく、

「其の蟹、我に得しめよ。食(じき)の料ならば、我が家に死にたる魚、多かり。其れを此の蟹の代(しろ)に與へむ。」

と。男、女の云ふに隨ひて蟹を得しめつ。女、蟹を得しめつ。女、蟹を得て、河に持て行きて、放ち入れつ。

 其の後、女の父の翁(をきな)、田を作る間に、毒蛇有りて、蝦(かへる)を呑まんが爲めに追ひて來たる。翁、此れを見て、蝦(かへる)を哀れびて、蛇(へみ)に向て云はく、

「汝(なんぢ)、其の蝦(かへる)を免(ゆる)せ。我が云はむに隨ひて免(めん)したらば、我れ、汝を聟(むこ)と爲(せ)む。」

と、意(おも)はず騷ぎ云ひつ。蛇(へみ)、此れを聞きて、翁の顏を打ち見て、蝦(かへる)を棄てて、藪の中に這ひ入りぬ。翁、

『由無(よしな)き事をも云ひてけるかな。』

と思ひて、家に返りて、此の事を歎きて、物を食はず。妻、幷びに此の娘、父に問て云はく、

「何に依りて、物を食はずして、歎きたる氣色(けしき)なるぞ。」

と。父の云はく、

「然々(しかしか)の事の有りつれば、我れ、意(おも)はぬに、騷ぎて、然(し)か云ひつれば、其れを歎くなり。」

と。娘の云はく、

「速かに物食ふべし。歎き給ふ事無かれ。」

と。然れば、父、娘の云ふに隨ひて、物を食ひて歎かず。

 而る間、其の夜(よ)の亥の時に臨みて、門を叩く人有り。父、

「此の蛇(へみ)の來たるならむ。」

と心得て、娘に告ぐるに、娘の云はく、

「『今三日を過ぎして來たれ』と約し給へ。」

と。父、門を開きて見れば、五位(ごゐ)の姿なる人なり。其の人の云はく、

「今朝(けさ)の約に依りて、參り來れるなり。」

と。父の云はく、「今を三日を過ぎして來たり給ふべし。」

と。五位、此の言(こと)を聞きて返りぬ。

 其の後、此の娘、厚き板を以て倉代(くらしろ)を造らしめて、𢌞(まは)りを強く固め拈(したた)めて、三日と云ふ夕(ゆふべ)に、其の倉代に入り居て、戸を強く閉めて、父に云はく、

「今夜、彼の蛇(へみ)來たりて門を叩かば、速かに開くべし。我れ、偏へに觀音の加護を憑(たの)むなり。」

と云ひ置きて、倉代に籠もり居ぬ。

 初夜(しよや)の時に至るに、前(さき)五位來たりて、門を叩くに、即ち、門を開きつ。五位、入り來たりて、女の籠り居たる倉代を見て、大に怨(あた)の心を發(おこ)して、本(もと)の蛇(へみ)の形(かたち)に現(げん)じて、倉代を圍み卷きて、尾を以つて戸を叩く。父母(ぶも)、此れを聞きて、大きに驚き恐るる事、限り無し。夜半に成りて、此の叩きつる音、止みぬ。其の時に、蛇(へみ)の鳴く音(こゑ)聞ゆ。亦、其の音も止みぬ。夜明けて見れば、大きなる蟹を首(かしら)として、千萬の蟹、集り來たりて、此の蛇(へみ)を螫(さ)し殺してけり。蟹共、皆這ひ去りぬ。

 女、倉代を開きて、父さまに語りて云はく、

「今夜、我れ、終夜(よもすがら)、觀音品(くわんのんぼん)を誦(ず)し奉りつるに、端正(たんじやう)美麗の僧、來たりて、我れに告げて云はく、

『汝、恐るべからず。只(ただ)、「蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火燃(がんじやきふふくくわつけどくえんくわねん)」等(とう)の文(もん)を憑(たの)むべし』と教へ給ひつ。此れ、偏へに觀音の加護に依りて、此の難を(まぬ)かれぬるなり。」

と。父母(ぶも)、此れを聞きて、喜ぶ事、限り無し。

 其の後(のち)、蛇(へみ)の苦を救ひ、多くの蟹の罪報(ざいはう)を助けむが爲(ため)に、其の地を掘りて、此の蛇の屍骸(しにかばね)を埋うづ)みて、其の上に寺を立てて、佛像を造り、經卷(きやうくわん)を寫(うつ)して供養しつ。其の寺の名を蟹滿多寺(かにまたでら)と云ふ。其の寺、今に有り。世の人、和(やはら)かに紙幡寺(かばたでら)と云ふなりけり。本緣(ことのもと)を知らざる故(ゆゑ)なり。

 此れを思ふに、彼(か)の家の娘、いと只(ただ)者には非ずとぞ思(おぼ)ゆる。觀音の靈驗、不可思議なりとぞ、世の人、貴(とうと)びけるとなむ、語り傳へたるとや。

   *

ここで禁欲的に「●」で語注する。注では二〇〇一年岩波文庫刊「今昔物語集 本朝部 上」の池上洵一氏の注を大幅に参照させて貰った。

●「久世の郡」現在の京都府宇治市の南部と、そこに接する城陽(じょうよう)市附近。

●「月每の十八日」旧暦十八日は観音の縁日。

●「見ては」の「は」は強意の係助詞。

●「何の料」何にするために。

●「由無き事」つまらぬこと。

●「亥の時」午後十時頃。

●「今三日を過ぎして」今からもう三日が経って後に。

●「五位」律令制の位階の第五番目。正五位と従五位とがあり、五位以上は勅授とされ、殿上人となる。六位以下に比べ、格段に優遇された。ここはその位格のすこぶる高貴な風体(ふうてい)であること(五位は緋色の衣を着す決まりであるから、それと限定出来るのである)を示す。

●「倉代」屋敷に於いて正式な倉(正倉(しょうそう))の代用とした仮倉庫。一時的に物を収納しておく倉。

●「𢌞(まは)りを強く固め拈(したた)めて」倉の周囲を堅固に囲って。

●「初夜」ほぼ現在の午後六時から十時頃の幅のある時間帯を指すが、ここは午後七~八時頃ととっておく。

●「蛇の鳴く音」ここは蛇の悲鳴を謂う。

●「螫し殺してけり」蟹が蛇を鋏で以ってさんざんに鋏み殺してあったのであった。

●「父さま」「さま」は「~に向かって」の意味を添える接尾語。

●「蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火燃」これは「法華経」の「普門品(ふもんぼん)」の一節で、

 

蚖蛇及蝮蠍 氣毒煙火燃 念彼觀音力 尋声自𢌞去

 

で、新字新仮名で書き下すと、

 

蚖蛇(がんじゃ)及び蝮蠍(ぶくかつ)、気毒煙火(けどくえんか)のごとく燃ゆるも、彼(か)の観音の力を念ずれば、声に尋(つ)いで自ずから𢌞(かえ)り去らん。

 

で、池上洵一氏の注によれば、『とかげ、へび、まむし、さそりの毒気が煙火の燃えるごとくであっても』かの『観音の力を念ずれば、その声とともにたちまち逃げ去るであろう』という意味とする。

●「罪報」蟹を殺生する罪。

●「蟹滿多寺」現在の京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗普門山蟹満寺(かにまんじ)。ウィキの「蟹満寺」によれば、『本尊はかつては観音菩薩であったが』、『現在は飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造釈迦如来坐像(国宝)が本尊となっている』とある。

●「和(やはら)かに」口に出した時の響きがよいように、柔らかかに。

●「紙幡寺(かばたでら)」前注の通り、所在地名が「綺田(かばた)」である。

●「本緣(ことのもと)」本来の、ここに記した、そもそもの由緒。

●「いと只者には非ずとぞ思ゆる」池上洵一氏の注には、『とても普通の人間ではないように思われる(仏菩薩の化身であろう)』とあり、「なるほど!」と、妙に私は納得してしまったりした。

   *

 以下、「沙石集」。

   *

……むかし物語にも、或人の女(むすめ)、情け深く、慈悲ありて、よろづの者の、あはれみけるに、遣水(やりみづ)の中に小さき蟹のありけるを、常にやしなひけり。

 年ひさしく食物をあたへけるほどに、此(この)むすめ、みめかたち、よろしかりけるを、蛇(じや)、思ひかけて、男に變じてきたりて、親にこひて、妻にすべき由を云ひつつ、隱す事なく、蛇なる由を云ふ。父、此(この)事をなげきかなしみて、女(むすめ)に此(この)やうを、かたる。女(むすめ)、心あるものにて、

「力、及ばぬ。我身の業報(ごうはう)にてこそ候らめ。叶はじと仰らるるならば、それの御身も我身も徒(いたづら)になりなんず。ただ、ゆるさせ給ヘ。此身をこそ徒になさめ。かつは孝養にこそ。」

と打ちくどき、なくなく申しければ、父、かなしく思ひながら、理(ことわ)りにをれて、約束して、日どりしてけり。

 女(むすめ)、日比(ひごろ)やしなひける蟹に、例の物くはせて云ひけるは、

「年比(としごろ)、おのれを哀れみやしなひつるに、今は其日數(かず)いくほどあるまじきこそあはれなれ。かかる不祥にあひて、蛇に思ひかけられて、其日、我は何(いづ)くへかとられて、ゆかんずらん。又もやしなはずしてやみなん事こそ、いとほしけれ。」

とて、さめざめと泣く。人と物語らん樣にいひけるを聞きて、物もくはで、はひさりぬ。

 その後(のち)、かの約束の日、蛇共、大小あまた、家の庭に、はひ來たる。おそろしなんど、いふばかりなし。爰(ここ)に、山の方より、蟹、大小、いくらといふ數もしらず、はひ來たりて、此(この)蛇を皆、はさみ殺して、都(すべ)て別の事なかりけり。恩をむくひける事、哀(あはれ)にこそ。人は情(なさけ)あるべきにぞ。

   *

 

「長谷川長左衞門」不詳であるが、娘の破格の才覚(詩歌を創作出来た)と仏教書の修学内容、彼女の持ち物の仏具類(水晶の数珠)から見て相応の家格で、しかもかなり裕福な家柄と見ねば成り立たぬ(先行する原話では耕している田畠で蛇と遭遇するので富農と言う設定であるが、本話ではそうした父の蛇との遭遇や「軽率な言上げ」(これは異類婚姻譚に広汎に見られる常套的シークエンスである)が省略されてしまっている)。しかし、かといってどうも、大蛇への対応からは父はおよそ武家ではないとも断言出来る。父自身が全く娘を守るために能動的行動を起こさないからである。

「いよ」「伊豫」。現在の愛媛県の旧国名。

「ようがん、びれいにして」「容顏、美麗にして」。

「きやうろん」「經論」。仏の教えを記した「経」と、その経の注釈書である「論」。

「しやうぎやう」「正行」。原義は「仏教の正しい実践。仏となるための正しい修行」で、また、多く浄土教に於いて、極楽往生をもたらす正しい実践の謂いを指す。一般に中国唐代の僧善導の説により、称名・読誦・観察・礼拝・賛歎供養の五種を指す。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では、『本文はこれを経典の一つに誤解している』と記すが、私は後で「のこらず、よみわきまへ」(経論残らず読み尽くし、しかも「正行」を弁えて、仏道に背くことがなかったという意味で採れば問題ないと感ずる。

「手水をけのなかに」「手水桶(てうづをけ)の中に」。茶道で蹲踞(つくばい)のない露地で立てる際、又は雨や風雪が強く露地入りの出来ない折りに、臨時に手水(ちょうず)を盛って置く桶のこと。赤味の杉又は椹(さわら門    :球果植物門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera)製で直径は一尺(三十センチ)ほど。松か杉の蓋(ふた)がついている。

「しよく物」「食物」。

「かわゆがり」可愛がり。

「とし久し」「年、久し」。

「このやしきのあたりちかき所」「此の屋敷の邊り近きところ」。

「しうしん」「執心」。愛着(あいじゃく)。

「男にへんじ」「男に變じ」。

「いなといはゞ」「『否』と言はば」。ここから「又、ゆるさんも、くちをしゝ」(かといってまた、娘を嫁にやることを蛇如きに許すなんどということは口惜しいことじゃ!)までが長左衛門の苦悩を表わす心内語。

「ぜひにおよばぬ、しだひなり。みづから、いのちをすてゝ、父のいのちをたすけまいらせん。これもぜんぜむくいなるべし。はやはやへんじなさるべし」一部の歴史的仮名遣の誤りを正しつつ、読み易く書き換える。

「是非に及ばぬ、次第(しだい)なり。自(みづか)ら、命を捨てて、父の命を助け參らせん。此れも前世(ぜんぜ)(の)報(むく)ひなるべし。早々(はやはや)、返事なさるべし」。

「なくなく」「泣く泣く」。

「むすめをあたへん」「娘を與へん」。

「にちげんをきわめ」「日限を極め」。嫁取りの日時を取り決め。

「いとま」「暇」。

「はなちければ」「放ち遣りければ」。

「大じやども、大小あまたにわにはいきたる」「大蛇ども、大小數多(あまた)、庭に這ひ來たる」。「はい」は歴史的仮名遣の誤り。

「右の手にすいしやうのじゆずをつまぐり」「右の手に水晶の數珠を(じゆず)を爪繰り」。

「法花經の五のまき」「法華經の五の卷」。「法華経」の第五の巻は「提婆達多品(だいばだったぼん)第十二」で、先の「江戸怪談集 下」の高田衛氏の脚注では、『竜王の娘が、その徳行のゆえに菩提をとげる話が載り、女人成仏を説く条として古来、有名』と記す。少し補足しておくと、『竜王の娘』は外形が「龍」という忌まわしき畜生、しかもその身は女人である(基本、仏教では変生男子(へんじょうなんし)説によって女性は如何なる功徳を積んでも、一度、男性に生まれ変わらなければ成仏は出来ないとされる)が、そのダブルでアンタッチャブルな「龍」「女」が成仏すると説く「法華経」自体の妙法の功力が、如何に広大無辺であるかを説いているのである。

「ひろにわ」「廣庭」。

「きどく」「奇特」。既注。仏菩薩の霊験(れいげん)。

「大じやども、おそれてうしろへ、ひきしりぞく」「大蛇ども、畏れて後ろへ、引き退く」。

「いづくともなく」「何處ともなく」。どこからともなく。

「かの大じやどもにとりつき、かたはしより、はさみたてければ」「彼(か)の大蛇どもに取り附き、片端より、鋏(はさみ)立てければ」。先の「江戸怪談集 下」の本文では『鋏み立てければ』と漢字化しているが、採らない。ここは「鋏み立つ」という動詞ではなく、蟹がその「鋏(はさみ)」を蛇の体に片っ端から「立て」截(き)ったので、の意である。]

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