甲子夜話卷之二 41 鴻池伊助の事
2―41 鴻池伊助の事
今大坂に鴻池伊助と云る富商あり。學文はなかりしが、天稟の善人なり。一年子を失しとき、人來り吊して、陰德のある人かゝる事に逢玉ふはいかなることよと云ければ、伊助申には、我輩不德の者は云までもなし。世にすぐれたる好人も、果報あしき目に逢ふこと珍らしからぬことなり。善事を爲せば天これに善報をなす。惡も亦惡報ありと云は定りたる理と存候。然ども善を爲せども不仕合せなる者もあり。惡もさのみ天責なきもあり。是は天の間違と存候也。何事も間違をあてにしてならぬことゆへ、只々定りたる理を守るべきことよと申たりしとなり。此人塙検校と親交にて、塙多くの書を買、種種の書を彫刻する費など、常に助力せり。前後の金數少からざることなれども、聊厭ふ色なし。塙歿後に、其家内困難なるべしとて、又助力せりと也。總て人の善事を行ふことに、金銀を費すは、露塵いとふ心なく、必力を合せしと云。商家には稀なるものなりけり。
■やぶちゃんの呟き
「鴻池伊助」大坂商人(両替商)で貨幣経済史家でもあった草間直方(くさまなおかた 宝暦
三(一七五三)年~天保二(一八三一)年)の通称(正確には「鴻池屋伊助」)。両替商の鴻池家の分家であった尼崎の草間家の養子となる。後に独立して肥後藩・南部藩などの財政整理を担当した。晩年は隠退し、物価・貨幣の変遷を詳述した「三貨図彙」(全四十四巻)「草間伊助筆記」「茶器名物図彙」等を著した。因みに、かの鴻池財閥は彼の本家筋の発展したものである。
「學文」「學問」。
「天稟」「てんぴん」。「天禀」とも書く。天から授かった資質。生まれつき備わっている優れた才能。「天賦」に同じい。
「一年」ある年。
「一子」「いつし」。後継ぎの男子であろう。
「失し」「うしなひし」。
「吊して」「てうして」。弔いの言葉をかけて。
「陰德」「いんとく」。世間に知られない良い行い。密かに行う善行(ぜんこう)。
「逢玉ふ」「あひたまふ」。
「好人」「よきひと」。
「定りたる理」「さだまりたることわり」。
「惡もさのみ天責なきもあり」「天責」は「てんせき」。悪行をなしても、たいした天罰をも蒙らぬ御仁も御座る。
「間違」「まちがひ」。天道是か非かどころではない。彼は天も必ず間違いを犯すと断じているのである。
「何事も間違をあてにしてならぬことゆへ、只々定りたる理を守るべきことよ」やや、こなれない謂い方である。何事に於いても天の裁断が絶対に誤らないなどと考え、それをあてにして御座ってはいけませぬ。天道にも間違いはありがちなことと承知した上で、ただただ定められた基本的な道理を守って生きてゆくことがよろしいことと存じまする。」。
「塙検校」塙保己一(はなわ ほきいち 延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)は盲目(後天性であるが、以下に見るように幼少時に失明)の国学者。ウィキの「塙保己一」によれば、『武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。塙は師の雨富須賀一』(あめとみ すがいち)『の本姓を用いたもので、荻野(おぎの)氏の出自。近世に帰農した、百姓の家系であるという』。『幼少の頃から身体は華奢で乳の飲み方も弱く、丈夫ではなかった。草花を好み、非常に物知りであったという』。五歳の時、『疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき』、七歳の『春に失明した。あるとき、虎之助のことを聞いた修験者が生まれ年と名前の両方を変えなければ目が治らないと進言し、名を辰之助と変え、年を二つ引いた。しかし、目痛や目やには治ったものの、視力が戻ることはなかった。その後、修験者の正覚房に弟子入りして、多聞房という名をもらうも、視力は戻ることはなかった。手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。また、手で形をさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができた。目が見えなくなってから和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、一言一句違わずに語ることができたほど、物覚えが良かったという』。十歳に『なると、江戸で学問を積んで立派な人間になりたいと考えるようになるが、両親が反対するだろうと悩んだ』。宝暦七(一七五七)年に母が『過労と心痛で死去』、宝暦一〇(一七六〇)年頃(十五歳。十三歳とする記録もある)、『江戸に出、永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を寄せ』、約三年間を『盲人としての修業に費やし』、十七歳(或いは十五歳)で『盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門し』、『名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めた。しかし生来』が不器用で、『どちらも上達しなかった。加えて、座頭金の取り立てがどうしても出来ず、絶望して自殺しようとした。自殺する直前で助けられた保己一は、雨富検校に学問への想いを告げたところ』、「三年経っても見込みが立たなければ国元へ帰す」『という条件付きで認められた』。『保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に』国学・和歌・漢学・神道・法律・医学等、相応の名士の元で学ばせた。『塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。保己一の学問の姿勢に感動した旗本の高井大隅守実員』(さねかず)の奥方に「栄花物語」四十巻を貰い受け、『初めて書物を所有した。のち、雨富検校の隣人の旗本・松平織部正乗尹(まつだいらおりべのかみのりただ)が講義を受けていた萩原宗固』(そうこ/むねかた:江戸の与力。烏丸光栄(からすまるみつひで)・武者小路実岳(さねおか)・冷泉為村らに和歌や歌学を学び、江戸の武家歌人として名高い)『の講義をともに聞くことになった。乗尹は保己一に系統立てた学問をさせる必要を雨富検校に説き、はれて、萩原宗固の門人として教えを受けることとなった』。宝暦一三(一七六三)年に衆分』(しゅうぶん:盲官の一つ)『になった。明和三(一七六六)年には『雨富検校より旅費をうけ、父と一緒に伊勢神宮に詣で、京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山など』を六十日にも亙って旅をしている。明和六年には『晩年の賀茂真淵に入門し』たものの、その年の十月に師『真淵が死去したため、教えを受けたのは、わずか半年であった』。安永四(一七七五)年には衆分から勾当(こうとう)の位に『進み、塙姓に改め、名も保己一(ほきいち)と改めた』。安永八(一七七九)年に、大著「群書類従」の『出版を決意する。検校の職に進むことを願い、心経百万巻を読み、天満宮に祈願』している。その四年後の天明三(一七八三)年に晴れて、検校となった。寛政五(一七九三)年には幕府に土地拝借を願い出、『和学講談所を開設、会読を始める。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが』、かの「群書類従」であった。また、歴史史料の編纂にも力を入れ、それは「史料」として纏められた(この「史料」編纂の『事業は紆余曲折があったものの』、現在の『東京大学史料編纂所に引き継がれ』て現行の「大日本史料」の元となった)。寛政七(一七九五)年には『盲人一座の総録職となり』、文化二(一八〇五)年には『盲人一座十老とな』り、文政四(一八二一)年二月には盲官の最高位である総検校になったが、同年九月に七十六歳で亡くなった、とある。
「買」「かひ」。
「書を彫刻する費」「費」は「ついへ」。板行出版するための費用。
「前後の金數」「ぜんごのきんすう」。そうした塙の出版援助等にかかった金額。
「聊」「いささか」。少しも。
「露塵」「つゆちり」、これで副詞の用法。全く、少しも。
「必」「かならず」。
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