佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その5
「芥川の恋人と言えば、既に皆、名前が挙がり、研究され、書き残されているではないか。佐野花子などという者の名は、どこを見ても見当たらない。どこかに何かに残る筈だ。残ってもいないものを信ずるわけには行かない」
[やぶちゃん注:これは花子によるオリジナルな仮想発言であるが、実際、私はこれに等しい、花子を精神的におかしい妄想家と言うに等しい、誹謗としか思えない不躾な発言や記述を数多く見てきた。]
ところが彼は自分の周囲にいる文士連の口を恐れて要心しているのでございました。ちょっと話しても大きくされてしまう、オセッカイな彼らには口を固くしておりまして次のような手紙があります。
[やぶちゃん注:「彼」生前の芥川龍之介を指す。]
「朶雲奉誦
東京へ帰り次第早速意の如くとり計らふべし
(四行半除去)
それから君、久米へ、勢以子(註―ずっと前に鵠沼の東家の事を書いた時に出て来た元谷崎潤一郎夫人の妹)と小生との関係につき怪しからぬ事を申さたれ由、勢以子女史も嫁入前の体、殊に今は縁談もある容子なれば、爾今右様の事一切口外無用に願ひたし、僕大いに弁じたれば、この頃は久米の疑ひも全く解けたるものの如くやっと自他のため喜び居る次第なり、これ冗談の沙汰にあらず真面目に御頼み申す事と思召し下されたし、谷崎潤一郎へでも聞えて見給へ冷汁が出るぜ」というのでして、この手紙を貰ったのは秦豊吉でございます。うっかりすると口の端のうるさい文士連ということを知らされます。私のことも彼は要心して、一切、誰にも洩らさなかったのでございます。別に深い関係もなく誰に遠慮するわけではなくても、要心に越したことは無く、かつ、めんどうを恐れて口外しなかったわけで、誰も私の名など知りませんし、私と横須賀時代に交際があったなど知る由もありません。それに右の手紙を見て宇野浩二も、はじめて、ずっと前から、芥川が、勢以子と近づきであったことを知るのですからなかなか恐ろしいことです。宇野浩二はその著(芥川龍之介(上))の中の一節に右の手紙を挙げ、「そこで芥川が仮りにまだ生きているとすると、私は(私も)芥川に手紙を書き、その最後に『冷汗が出たぜ』と書くであろう。閑話休題」としてございます。まことに小うるさい環境と思います。彼もなかなか忙しかったのでしょう。それが作家の生活と申せましょう。右の手紙は大正八年八月十五日に芥川が金沢から秦豊吉に宛てて出したもので横須賀の私どもとは交際も果てたのちのことでございます。小説を書くための交際がさかんになり、とかくの人の名を挙げさせそれでもなお、「月光の女」は誰であろうかなど幾ら話し合っても解らないこの種の迷路は、有名になった作家に特有の廻り道でありましょう。その迷路がどこへどう抜けていたか、解りかねる部分がありましょう。著名な女性の名が挙がると人はその方へ気を取られます。いわばその人々は一種の目集めのような役をも兼ねないとは申せません。人の眼はそこに集中され、それらを記名し、あとには誰もいないよと済ましてしまいます。
[やぶちゃん注:以上の書簡は旧全集書簡番号五六五。大正八(一九一九)年八月十五日附・秦豊吉宛(秦豊吉(はた とよきち:明治二十五(一八九二)年~昭和三十一(一九五六)年)は翻訳家・演出家・実業家。七代目松本幸四郎の甥。東京帝国大学法科大学卒業後、三菱商事(後に三菱合資会社)に勤務する傍ら、ゲーテ「ファウスト」などのドイツ文学の翻訳を行い、昭和四(一九二九)年刊行のレマルクの「西部戦線異状なし」の翻訳はベストセラーとなった。昭和八(一九三三)年に東京宝塚劇場に転職、昭和十五(一九四〇)年には同社社長となった(同年より株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)社長も兼務(昭和二十八(一九五三)年迄同社会長)。敗戦後直後に戦犯指定を受けるも、昭和二十二(一九四七)年から東京帝都座に於いて日本初のストリップ・ショーを上演、成功を収めた。昭和二十五(一九五〇)年には帝国劇場社長国産ミュージカルの興業で成功を収める。後、日本劇場社長時代に小林一三に買収され、東宝社長となった(以上はウィキの「秦豊吉」に拠る))。岩波旧全集より全文を引く。
*
朶雲奉誦 東京へ歸り次第早速貴意の如くとり計ふべし[やぶちゃん注:ここに全集編者注で『〔四行半削除〕』とある。]
それから君、久米へ勢以子と小生との關係につき怪しからぬ事を申された由勢以女子史も嫁入前の體殊に今は緣談もある容子なれば爾今右樣の一切口外無用に願ひたし僕大い辯じたればこの頃は久米の疑全く解けたるものの如くやつと自他の爲喜び居る次第なりこれ冗談の沙汰にあらず眞面目に御賴申す事と思召し下されたし谷崎潤一郎へでも聞えて見給へ冷汗が出るぜ
九月初旬より東京に居る可く日曜は必在宿の豫定に候間御光來下され度道樂者どもも少々は遊びに參り候 この頃僕の句も新進作家にて君の水仙の句にも劣らず名句を盛に吐き出して居り候へば左に一二を錄すべく御感服御嘆賞御愛吟御勝手たるべく候
[やぶちゃん注:以下の( )内は底本では二行割注。]
宵闇や殺せども來る灯取虫
もの云はぬ研屋の業や梅雨入空(これをツイリゾラと讀む素人の爲に註する事然り)
時鳥山桑摘めば朝燒くる
靑蛙おまえもペンキぬりたてか(この句天下有名なり俗人の爲に註する事然り)
秋暑く竹の脂をしぼりけり
松風や紅提灯も秋隣(この句谷崎潤一郎が鵠沼の幽棲を詠ずる句なり勿體をつける爲註する事然り)
八月十五日
秦 と よ 吉 樣
[やぶちゃん注:以下の「二伸」本文は、ブログでのブラウザの不具合を考え、改行を施してある。]
二伸 君の原稿は何月號へのせる心算に
や 除隊後に書くと云ふにや隊にゐて書
くと云ふのにや もし隊にゐて書くなら
匿名で書くにや
右諸點に關して田端四三五小生宛御囘答
を得ば幸甚なり
近來句あり
春の夜や蘇小に取らす耳の垢(美人の我に侍する際作れる句なり羨ましがらせる爲に註する事然り)
*
実はこれも宇野浩二の「芥川龍之介」の「十一」のここに引かれており、宇野は以下のように述べている。
*
これは、大正八年の八月十五日、芥川が、金沢から、秦 豊吉にあてた、手紙のなかの一節である。が、これを読んで、私は、この文章のたしか第五節あたりで、鵠沼の東家〔あずまや〕にいろいろな人が集まった話を書いた時、このせい子の事も述べたが、芥川が勢以子とずっと前から近づきであつた事を初めて知ったのである。
そこで、芥川が仮りにまだ生きているとすると、私は、(私も、)芥川に手紙を書き、その最後に、「冷汗が出たぜ、」と書くであろう。閑話休題。
*
書簡冒頭の「朶雲」は「だうん」と読み、相手から受け取った手紙を尊んで言う書簡用語(唐代の韋陟(いちょく)は五色に彩られた書簡箋を用い、本文は侍妾に書かせて署名だけを自分がしたが、その自書を見て『「陟」の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ』と言ったという「唐書」韋陟伝の故事による)。
さて、何故、長々と秦宛書簡を引用したかであるが、花子がここだけをかく引用すると、恰も龍之介が小林勢以子(明治三二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年:谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹。後に映画女優となり、芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の愛」の小悪魔的ヒロイン・ナオミのモデルとされる)とのありもせぬゴシップを深刻に捉えているように思われるかも知れないが、これ、険悪でも深刻でも、実はないとうところが肝心である。宇野のこの引用ではまるで『潤一郎にでも』(この実はやっぱり私通に近いものだったことがばれたらと思うと)『冷汗が出るぜ』、とでもいうようなニュアンスに読める。そうではない。龍之介は潤一郎絡みで小林勢以子と交流があったものの、芥川龍之介の恋愛狙撃のスコープには小林勢以子は絶対に入っていなかったと私は考えているからある。――では、『冷汗が出る』のはなぜか?――明白である。後年の「文藝的な、餘りに文藝的な」論争でも分かるように、先輩作家谷崎は芥川のライバルである。そのライバルの義妹とのゴシップは芥川にとって如何にも不都合である。更に言えば私は、谷崎がそれを知ったらどうするかを考えてみれば、『冷汗が出る』に決まっているのである。則ち、谷崎なら、そこでニヤリとして、即座に芥川と勢以子をモデルにしたゴシップ恋愛小説をものすに決まっている、と芥川は直感しているからなのである。そうしたおどけた余裕が、後半の句の開陳によく表われているではないか。]
私は自分でもこういうことに気づきまして病人になりましてから、ノートに覚えていることを書きはじめました。小説の形にしてまず書き残しても見ました。また、文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いても見ました。または、手当たりしだいの紙片に覚え書きを記しました。娘の耳にも語り聞かせました。病いは既に治りそうもなく先も長いとは思えず、書いたものは、ちぐはぐであるようです。私の言いたいことは一貫して頭の中にあるのですが、死後それはどのように語り伝えられて行くのでしょうか。
[やぶちゃん注:「病人」それを指しているかどうかは不明であるが、花子は戦争直前或いは戦中に結核に罹患し、臥床している(底本の長女芳子さんの「母の著書成りて」に拠る。但し、以前にも注したが、昭和三六(一九六一)年八月二十六日の彼女の六十六歳の逝去がそれによるものかどうかは不明)。
『小説の形にしてまず書き残しても見ました。また、文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いても見ました。または、手当たりしだいの紙片に覚え書きを記しました』「病いは既に治りそうもなく先も長いとは思えず、書いたものは、ちぐはぐであるようです」これは非常に重要な発言である。花子は最初、
1 この芥川龍之介との思い出について「小説の形にしてまず書き残して」「見」た。
と言っている。さらに、
2 『文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いて』「見」た。
と述べているのである。しかも、そうしたことを、
3 「手当たりしだい」「紙片に覚え書き」として「記し」、しかもそのバラバラに書き散らした「ものは、ちぐはぐであるよう」に私自身にも見えるようである。
ともはっきり記しているのである。この命題は次のように展開して書き直すことが出来る。
1・1 自分の書いた断片が芥川龍之介に纏わる体験を素材としながらも、事実とは必ずしも言えない創作であったことがあった。
2・1 文壇で問題にされている「或阿呆の一生」中の意味深長な謎の《月光の女》と称する「四人の女性」を「私であると」敢えて「仮定し」、しかも《月光の女》と称する「四人の女性」は「私であると」、幾つかの点で身に覚えがないないにも拘わらず(事実、芥川龍之介と『或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇し』、しかもその時、龍之介と『一面識もない間がら』であったことはなく(「或阿呆の一生」の「十八 月」より。リンク先は私の古い電子テクスト。以下同じ)、『或廣場の前』で龍之介と秘かに密会し、『「疲れたわ」と言つて頰笑んだりし』、『肩を並べ』て歩き、タクシーに乗り、『彼の顏を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言』い、『彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言』ったこともなく(「或阿呆の一生」の「二十三 彼女」より)、況や、龍之介と、『大きいベツドの上に』『いろいろの話をし』、『一しよに』『七年』も『日を暮ら』したことなどあろうはずもない(「或阿呆の一生」の「三十 雨」より)のに(以上は総て「或阿呆の一生」の四ヶ所の内の三ヶ所に現われる〈月光の女〉の設定である。花子が生きていれば、確かに完全否定する内容と断言出来る。一ヶ所だけ、「或阿呆の一生」の「二十七 スパルタ式訓練」で、『彼は友だちと或裏町を歩いてゐた。そこへ幌(ほろ)をかけた人力車が一台、まつ直に向うから近づいて來た。しかもその上に乘つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。彼女の顏はかう云ふ晝にも月の光の中にゐるやうだつた。彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた』。/『「美人ですね。」』/『彼の友だちはこんなことを言つた。彼は往來の突き當りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。』/『「ええ、中々美人ですね。」』と出る女性は留保するが、『昨夜の彼女』というところで私は佐野花子は直ちに否定すると思っている)、無謀にも敢えて「断定的な口調で書い」たことがある。
3・1 「手当たり」次第に「紙片に覚え書き」として「記し」散らした結果、それらは現実に即して、或いは論理に照らして、冷静に考えた際にはこの私自身でさえ「ちぐはぐであるよう」に感じられるものが混在していたと感じられる。
これは、いい加減な敷衍解釈などではない。先の「1」「2」「3」の花子の言う命題から導かれるところの、
☆最終的に佐野花子が本「芥川龍之介の思い出」の最終決定稿を書いた際に彼女が置かれていた外延的環境或いは事実関係の状況を可能且つ自然と私が判断する様態として措定したもの
なのである。しかも、その時の佐野花子の心身の状態はと言えば、
★「病いは既に治りそうもなく先も長いとは思え」ぬという死への『ぼんやりとした不安』(知られた芥川龍之介の遺書の一種「或舊友へ送る手記」から、花子をこんな目に遇わせた芥川龍之介に対しての皮肉を込めて(佐野花子へでは決してないと言い添えておく)てわざと引いた)の意識、その非常な「生」の孤独感の中で、意識を緻密に論理的に冷静に保ち続け、本「芥川龍之介の思い出」を〈事実に即して〉書き上げるということは、私には至難の業(わざ)のように思われる
のである。もっとも、本稿(小説などにする以前の初期稿)の起筆は冒頭の叙述から、昭和二五(一九五〇)年八月二十六日前後以降で(黒澤明監督の映画「羅生門」公開日前後)、花子が亡くなるのは、それから十一年後の昭和三六(一九六一)年八月二十六日(思わず、あっ! と思ったが、この日付、偶然であるが同一日である)であるから、どれだけの年月をかけて本「芥川龍之介の思い出」が書かれたものかは不詳ながら、起筆の時点では、死を目前にした切羽詰まった状況であったとはちょっと考え難くい、とは言える。
ともかくも、以上から、以下の推論を主張することは出来る。則ち、
◎佐野花子は、最終的な「実録」としての本「芥川龍之介の思い出」を書く過程の中で、当初、自分の書いた「小説」仕立ての中の架空のそれや、やや強引であったであろう「月光の女は私である」主張のあれこれのシークエンスや文々(もんもん)の内、事実としては彼女も実は受け入れられない幾つかの叙述を、後に心身ともに疲弊した晩年の花子自身が、あたかも若き日の自分と芥川龍之介との間にあった事実であったように誤認してしまい、それをこの決定稿に混入させてしまったと考えることは可能である。
という措定である。多くの自分が書いた、虚実皮膜のメモランダが周りにいっぱいあって、それには小説化した架空の断片や、或いは、一度、『文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いて』際の、やや牽強付会な叙述があったとして、それを後年、肉体的精神的に弱った花子が、ある一部を実際にあった事実、虚心坦懐にして素直な自身のかつての確かな感懐であったと無意識に読み換え(それは多分に弱った花子の強い深層心理的願望でもあったと私は断言するのであるが)、そう思い込んでしまった可能性である。
これは架空の記憶の再構築と偏執的確信という点では、正常人の域を逸脱してはいるように見えはする。しかしだからと言って、ぺらぺらした市井の人間が言い放つ〈妄想〉(はっきり言えば「頭がおかしい」的発言)という一語で片付け得るものではないし、また、記憶障害や、ある種の精神病の一症状として処理し、その叙述全体を無化・無効とすべきものでもないと私は考えるのである。恐らく、この作品を精神科医が病跡学的に検討した場合でも、ある種の文学研究者や自称芥川龍之介研究家などのように〈妄想〉の類いとして一蹴することはないと思う。そういう点に於いて、近現代の文学研究者は、私は前近代的で非科学的な輩がゴマンといるとさえ、実は秘かに感じているのである。
「私の言いたいことは一貫して頭の中にあるのですが、死後それはどのように語り伝えられて行くのでしょうか」……今、私がこのようにして語り伝えておりますよ、花子さん…………]
« 佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その4 | トップページ | 諸國百物語卷之五 一 釋迦牟尼佛と云ふ名字のゆらいの事 »