詩人の骨 尾形龜之助 (附 初出復元)
詩人の骨
幾度考へこんでみても、自分が三十一になるといふことは困つたことにはこれといつて私にとつては意味がなさそうなことだ。他の人から私が三十一だと思つてゐてもらうほかはないのだ。親父の手紙に「お前はもう三十一になるのだ」とあつたが、私が三十一になるといふことは自分以外の人達が私をしかるときなどに使ふことなのだらう。又、今年と去年との間が丁度一ケ年あつたなどいふことも、私にはどうでもよいことがらなのだから少しも不思議とは思はない。几帳面な隣家のおばさんが毎日一枚づつ丁寧にカレンダーをへいで、間違へずに殘らずむしり取つた日を祝つてその日を大晦日と稱び、新らしく柱にかけかへられたカレンダーは落丁に十分の注意をもつて綴られたゝめ、又何年の一月一日とめでたくも始まつてゐるのだと覺えこんでゐたつていゝのだ。私は來年六つになるんだと言つても誰もほんとうにはしまいが、殊に隣家のおばさんはてんで考へてみやうともせずに暗算で私の三十一といふ年を數へ出してしまうだらう。
だが、私が曾て地球上にゐたといふことは、幾萬年かの後にその頃の學者などにうつかり發掘されないものでもないし、大變珍らしがられて、骨の重さを測られたり料金を拂らはなければ見られないことになつたりするかも知れないのだ。そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ樣子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。
[やぶちゃん注:「意味がなさそうなことだ」の「なさそう」、「思つてゐてもらう」の「もらう」、「誰もほんとうにはしまいが」の「ほんとう」、「數へ出してしまうだらう」の「しまう」は総てママ。「稱び」は「よび」と訓じていよう。なお、『そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ樣子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と』の「だらう」の後に句読点等はない。
本篇は昭和五(一九三〇)年一月発行の『詩と散文』第一号を初出とし、前の一篇と同様、題名が異様に長い。
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詩人の骨(假題)轉落する一九二九年ヘボ詩人の一部
自分が三十一になるといふことを俺にはどうもはつきり言ひあらはせない。困つたことには三十一といふことはこれといつて俺にとつては意味がなささうなことなのだ。他の人から「私が三十一だ」と言つてもらうほかはないのだ。
今年と去年との間が丁度一ケ年あつたなどいふことも、俺にはどうでもよいことがらなのだから不思議だとは思はない。隣家で、カレンダーを一枚殘らずむしり取つて新らしく柱にかけたのに一九三〇年一月×日とあつたといふに過ぎない。つまり「俺は來年六ツになるのだ」と言つても、誰も(殊に隣家のおばさんは)ほんとうにしないのと同じことだ。
だが、私が曾て地球上にゐたといふことが、どんなことで名譽あることにならぬとは限るまい。幾萬年かの後に、その頃の學者などにうつかり發掘されないものでもないし、大變珍らしがられるかもしれないのだ。そして、彼等はひよつとすると言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。
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ここでも第一段落の「もらう」、第二段落の「ほんとう」はママである。
なお、今回は、校異表の以上の初出稿の末尾にある『(以上、全篇)』を、編者秋元潔氏による注記で、以上は対照表にあるものが欠落のない全文の意であると判断して、かく電子化した。但し、同初出の各段落の行頭一字空けはないが、これは、他の対照表の記載でも同様の処理がなされてあるので、一字空けがあると見做したことを述べておく。]

