諸國百物語卷之四 十九 龍宮の乙姫五十嵐平右衞門が子にしう心せし事
十九 龍宮の乙姫(をとひめ)五十嵐平右衞門(いがらしへいゑもん)が子にしう心せし事
元久のころ、上坂本(かみさかもと)に五十嵐平右衞門と云ふらうにん、有りけるが、一人の男子を、もちけり。この子、かたちすぐれてうつくしかりければ、みな人、しうしんをかけ、なにかと出入り有りけるを、親も、きのどくにおもひ、ゑいざんへのぼせ、がくもんさせをきけるが、あるとき、里へさがり、氣ばらしにとて、から崎へ行き、ひとつ松の下にあそびゐければ、いづくともなく、十五、六なるうつくしきむすめ一人きたりて、かの若衆にむかつて、
「御身はいづくの人にてましますぞ。われは此あたりのものにて候ふが、いつも此松のもとにきたりあそび申す也。あの北よりいづる舟を、これへよりて見給へ」
とて、いざなひゆく。若衆もなに心なく、ともなひゆきければ、うみばたにて、かのむすめ、若衆の袖にすがりつくかとみへしが、たちまち、大じやとなり、若衆を七まとい、まとい、うみへとびいりしが、にわかにそらかきくもり、大雨、しきりにふりて、あとしらなみとなりけるとぞ。
[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「龍宮の乙姫しう心の事」。琵琶湖には龍宮ン伝承が存在し、藤原秀郷が瀬田の唐橋で龍宮の者から救けを乞われ、大百足を退治したという伝説があり、瀬田橋直近(瀬田川左岸)には瀬田橋龍宮と秀郷社が現存する。
「五十嵐平右衞門」不詳。
「しう心」「執心」。
「元久」一二〇四年から一二〇六年で、鎌倉時代と、設定が、えらい古い。天皇は土御門天皇(但し、後鳥羽上皇の院政期)、幕府は第三代将軍源実朝で執権北条義時の治世。
「上坂本(かみさかもと)」現在の滋賀県大津市坂本本町。延暦寺及び日吉大社の門前町として栄えた地域である。
「らうにん」「浪人」。
「出入り」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では、『思いをかけた男たちとの悶着』と記す。確かに直後で(一部を漢字化する)「親も、氣の毒に思ひ、叡山へ登せ、學問させ置きける」というのは、そうした若衆道の関係を強く感じさせはする(「出入り」とはこの場合、「争い事・もめ事・喧嘩」の意であるからで、女の妬心でそうならぬわけではないが、親が危惧するほどのそれは衆道関連の方が自然ではある)。また、後半で竜女(乙姫という設定)に魅入られるためには、女を知らぬが、よい。でなければ、ならぬ。高田氏の注を全面的に支持する。
「から崎」「辛崎」。滋賀県大津市北西部の琵琶湖岸の地名。唐崎神社があり、「近江八景」の一つ「唐崎夜雨」で知られる歌枕であるが、また同じ「近江八景」の、同じく歌枕である「唐崎の一つ松」(直後に出る「ひとつ松」)でも有名。
「これへ」こちら(私の居るところ)へ。
「うみばた」「湖畔(うみばた)」。琵琶湖湖畔。
「七まとい、まとい」七重(ななえ)に纏い。
「あとしらなみとなりけるとぞ」「後、白波となりにけるとぞ」。能のコーダのようで、よい。]
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