佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その4
澄江堂遺珠、芥川龍之介の未定稿の詩は、佐藤春夫を、宇野浩二を、そして、私を悩ませたと思います。とりわけ私の苦悩は夫の分まで引き受け、誰にも知られぬ、打ちあけても信じて覚えぬ、取りつく島もない不安定に揺り動かされました。
全集第五巻の詩集を見ますと「相聞」という題の詩が三つ出ておりますが、次の詩をよみますと、そくそくとして私には懐かしさがよみがえってまいります。誰が読んでもいい詩なのですが、私の感懐は亦、別なのでございます。
また立ちかへる水無月の
歎きを誰にかたるべき
沙羅のみづ枝に花さけば
かなしき人の目ぞ見ゆる
私の横須賀の家の庭には沙羅の木もあったのでした。ただ、その家も今は無く、沙羅の木もどうなったか解らず、私には多く思い出の実感ばかりが残されておりますので、このことを人に語ろうとも、誰も信じはいたしますまい。宇野浩二も、「澄江堂遺珠」の中にある、あの詩の大部分を仮りに相聞詩とすれば、そうして、あの詩を空想の恋を詠んだものとすれば、芥川には空想の恋人があったということになると申しておりまして、「空想の恋人なら何人あっても差し支へないであらう」と言っておりますけれど、その空想の恋人と申すところに、やはり現実上の恋人が根ざして居り、それが翼をひろげ、月の光を呼び、詩の中での恋人、文中の恋人とならないと誰が申せましょうか。作家といえどモデルは周囲から採るのでございます。よく採られ悪く採られても自由なのでございます。ぜんぜん根も葉もない恋人は存在しないのでございましょう。覚えのある私には、こういうことが言えるのでございます。私どもと芥川が交友関係にありましたこと、また、とり分け彼が私に関心を持ちましたことなど、不用意に人に語りましても、人は次のように申して信じないでしょう。
[やぶちゃん注:「全集第五巻の詩集」とあるが、これは巻数から見て、恐らく現在、「元版」と呼ばれている、昭和二(一九二七)年十一月から昭和四年二月にかけて岩波書店から刊行された最初の「芥川龍之介全集」と思われる。
『「相聞」という題の詩が三つ出ております』恐らくは以下の詩形の三篇である。
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相聞 一
あひ見ざりせばなかなかに
空に忘れてすぎむとや。
野べのけむりも一すぢに
立ちての後はかなしとよ。
相聞 二
風にまひたるすげ笠の
なにかは路に落ちざらん。
わが名はいかで惜しむべき。
惜しむは君が名のみとよ。
相聞 三
また立ちかへる水無月の
歎きを誰にかたるべき。
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。
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元版が載せるこれらを含む詩篇のパート部分の原資料は現在、所在不明であり、且つ、また、この「相聞」と題する詩篇群には幾つかの別稿が存在する。それに就いては「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」でそれらの異なる稿を含めて詳細に考証してあるので、ご覧になられたい。
また、芥川龍之介には大正一四(一九二五)年六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載された「澄江堂雜詠」(リンク先は私の電子テクスト)の最後に、「六 沙羅の花」という一章があり、そこに、この詩が載る(恐らくはこれが本詩篇の公式上の初出と判断される)。
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沙羅の花
沙羅木は植物園にもあるべし。わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへるもとには太湖石と呼べる石もありしを、今はた如何になりはてけむ、わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞こえつつ。
また立ちかへる水無月の
歎きをたれにかたるべき。
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。
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以下、「澄江堂雜詠」で私が注したものを載せる。
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「また立ちかへる水無月の」の後には読点などはない。ママである。本詩は大正一四(一九二五)年四月十七日附の修善寺からの室生犀星宛書簡(旧全集書簡番号一三〇六)に『又詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。よければ遠慮なくおほめ下され度候。原稿はそちらに置いて頂きいづれ歸京の上頂戴する事といたし度。』とし(この原稿とは以下の詩稿を指すと判断する)、次の二篇を記す。
歎きはよしやつきずとも
君につたへむすべもがな。
越こしのやまかぜふき晴るる
あまつそらには雲もなし。
また立ちかへる水無月の
歎きをたれにかたるべき
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。
詩の後に『但し誰にも見せぬように願上候(きまり惡ければ)尤も君の奥さんにだけはちよつと見てもらひたい氣もあり。感心しさうだつたら御見せ下され度候。』微妙な自負を記している。
「沙羅の花」ここは、わざわざ「植物園」としている点、温室でなくても南方の地域では植生可能である点、更に芥川龍は特に「花のにほへる」と花の香りを強調している点から、これを私は本物の沙羅双樹、即ち、被子植物門双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea
robusta と一応、同定したい。これはシャラソウジュ・サラノキ・シャラノキ(沙羅双樹・沙羅の木・娑羅の樹)ともいう(異属のナツツバキも、かく呼称されるので要注意。後文参照)。インドから東南アジアにかけて広く分布し、南方域では高さ三〇メートルにも達する巨木となる。釈迦がクシナガラで入滅した際、臥床の四辺にあったこの四双八本の木が、時ならぬ不思議な鶴の群れの如き白い花を咲かせ、忽ち枯れたとされ、涅槃図によく描かれる。ヒンディー語では「サール」と呼ばれ、日本語の「シャラ」または「サラ」の部分はこの読みに由来する。春に白い花を咲かせ、ジャスミンに似た香りを放つ。但し、耐寒性が弱いため、本邦で育てるには通常は温室が必要で、稀に温暖な地域の寺院に植えられている程度で希少である。各地の寺院では本種の代用としてツバキ科のナツツバキが植えられることが多く、そのためにナツツバキが「沙羅双樹」と呼ばれるようになり、ナツツバキ=サラソウジュという大誤解が生ずることとなってしまった(ここまでは主にウィキの「サラソウジュ」に拠った)。本注を作成するためにネット上の多くの記載を縦覧したが、サラソウジュ Shorea
robusta とナツツバキ Stewartia pseudocamellia の両者を全く同一種と考えている致命的な誤りを犯している記載から、ナツツバキを仏教の沙羅双樹と取り違えている寺院や愛好家グループ、両者が別種であることを知りながら、分布や花の記載の途中で両者が混合してしまっている記載等々、甚だしく錯綜していることに気づいた)。一応、沙羅双樹として本邦で多く誤認されている双子葉植物綱ツバキ目ツバキ科ナツツバキ属ナツツバキ Stewartia pseudocamellia ついても以下に記しておく。和名ナツツバキは仏教の聖樹であるフタバガキ科のサラソウジュ(娑羅双樹)に擬せられて、別名でシャラノキ(娑羅樹・沙羅・沙羅双樹などとも)と呼ばれているが、以上見たように全く異なる植物である。原産地は日本から朝鮮半島南部にかけてで、本邦では宮城県以西の本州・四国・九州に自生、樹高は一〇メートル程度。樹皮は帯紅色で平滑、葉は楕円形で長さ一〇センチメートル前後。ツバキのように肉厚の光沢のある葉ではなく、秋には落葉する。花期は六月から七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートルほどの白色の五弁。雄蘂の花糸が黄色い。朝に開花、夕方には落花する一日花(以上はウィキの「ナツツバキ」の拠った)。但し、ネット上の混乱と全く同様に、芥川龍之介が「植物園にもあるべし」と言ったのは、サラソウジュ Shorea
robusta のことであったが、後の「わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへる」も方はナツツバキ
Stewartia pseudocamellia の誤認ではなかったか、という推理は可能性として残る。何故なら、高木のサラソウジュ Shorea
robusta は相当に成長しないと植物園の温室内でも花を咲かせることが出来ないとネット上の記載にあるからである。
「植物園」この時代の小説などで、東京でただ「大学」と言えば東京大学であるように、この「植物園」も一般名詞ではなく、芥川は現在の文京区白山にある小石川植物園(現在の正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園)のことを指しているものと思われる(筑摩全集類聚版ではそう断定している)。
「太湖石」中国の蘇州付近にある太湖周辺の丘陵から切り出される穴の多い複雑な形をした奇石で、太湖付近の丘や湖に浮かぶ島は青白い石灰岩で出来ているが、かつて内海だった太湖の水による長年の侵食によって石灰岩には多くの穴が開き、複雑な形と化した。太湖石は蘇州を初めとする中国各地の庭園に配されている(以上はウィキの「太湖石」に拠った)。
「わが知れる人」不詳であるが、文脈から言えば沙羅の花を見た庭の持ち主「或人」と思われ、また詩の「かなしき人」が芥川龍之介が最後に愛した『越しびと』片山廣子である以上、この「わが知れる人」にも既にして女人、しかも濃厚な廣子の影が被っていると私は見る(これは二〇一二年十月十五日に「澄江堂雜詠」のテクストを注した際の私のそれをそのまま転載したものである)。
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さて、私が上記最後で注したように、一般には、この詩篇は芥川龍之介の最後の思い人であった『越し人』片山廣子に捧げられたものと考えられており、私もそれを現在でも基本、疑うものではない。
しかし、この花子の「私の横須賀の家の庭には沙羅の木もあったのでした。ただ、その家も今は無く、沙羅の木もどうなったか解らず、私には多く思い出の実感ばかりが残されておりますので、このことを人に語ろうとも、誰も信じはいたしますまい」という言葉には非常な重みとリアルさがある。そこからフィード・バックして、芥川龍之介の「沙羅の花」(こちらのリンク先は私の最古期の「沙羅の花」だけのテクスト)の「わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへるもとには太湖石と呼べる石もありしを、今はた如何になりはてけむ、わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞こえつつ」という一節を虚心に考えた時、私はこの「或人」、その「わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞こえつつ」と追懐するその人とは、佐野花子ではあるまいか? という思いを強くするのである。今、この注を附している私は、
……或いは……
……この詩篇の……
……「沙羅のみづ枝」の「花さけ」る向うに立っている女性――
「かなしき人」――
そ「の目ぞ見ゆる」女人の《原型》は
実は――佐野花子その人ではなかったろうか?!……
とさえ感じていることを告白しておく。
『宇野浩二も、「澄江堂遺珠」の中にある、あの詩の大部分を仮りに相聞詩とすれば、そうして、あの詩を空想の恋を詠んだものとすれば、芥川には空想の恋人があったということになると申しておりまして、「空想の恋人なら何人あっても差し支へないであらう」と言っております』宇野浩二の「芥川龍之介」の「十一」のここ。正確には『ところで、先(さ)きにくどいほど引いた『澄江堂遺珠』の中にある詩の大部分を仮りに相聞詩とすれば、そうして、あの詩を空想の恋いを詠んだものとすると、芥川には空想の恋い人があった、という事になる。(空想の恋い人なら、何人あっても差(さ)し支(つか)えないであろう』である。]
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