諸國百物語卷之五 二 二桝をつかいて火車にとられし事
二 二桝(ふたます)をつかいて火車(くはしや)にとられし事
西國じゆんれい、札(ふだ)をうちに京へのぼり、誓願寺(せいぐはんじ)へまいりけるに、如來の庭にて、とし四十あまりなる女を、午頭馬頭(ごづめづ)のをに、火のくるまよりひきをろし、いろいろにかしやくして、又、くるまにのせ、西のかたへつれ行きけり。じゆんれい、ふしぎにおもひ、あとをしたいてゆきければ、四條ほり川のほとりの米屋のうちに、いりぬ。順禮、ふしぎにおもひて、米屋にはいり、事のやうすをたづぬれば、
「米屋の女ばう、此四、五日にわかにわづらひつきけるが、晝夜に三度づつ身がやけるとて、くるしむ」
とかたる。じゆんれい、さてはとおもひ、くだんのしだいをかたりければ、ていしゆ、おどろき、
「さればこそ、此女ばう、よくふかきものにて、つねに二桝(ふたます)をつかい候ふを、それがし、いろいろと、とめ申し候へども、もちゐず。そのつみにて、いきながら、地ごくにおちけると見へて候ふ」
とて、ていしゆはそのまゝ出家になり、諸國しゆ行に出でにけり。女ばうは、ほどなくあいはてけるが、そのあとたへはてたると也。
[やぶちゃん注:「二桝(ふたます)をつかいて」「つかいて」は「使ひて」で歴史的仮名遣の誤り。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『二種類の枡を使い、買い入れる時は、大きい枡を用い、売る時は小さい物を用いる。見た目には区別がつかないので、暴利を得ることになる』とある。
「火車(くはしや)」一般には『悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる』妖怪の一種で、『葬式や墓場から死体を奪』い去り、その『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』(ウィキの「火車(妖怪)」より引用)が、ここはそれではなく、以下で地獄の獄卒「午頭馬頭の鬼」が盛んに燃え盛り、その女の体を焼いているところの「火の」ついた「車より引き降ろし、いろいろに呵責して、又、車に乘(或いは「載」)せ、西の方へ連れ行きけり」というからには、所謂、『悪行を積み重ねた』者を生きながらにして地獄の責苦に遇わせる恐るべき仏罰現象(を象徴するところの幻像(イリュージョン))を指している。
「西國じゆんれい」西国三十三観音巡礼。現在の近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ヶ所の観音信仰の霊場を札所とする巡礼。日本で最も歴史がある巡礼行。参照したウィキの「西国三十三所」によれば、「三十三」とは、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(略称「観音経」)に『説かれる、観世音菩薩が衆生を救う』際、三十三の『姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し』、『西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる』とある。
「札(ふだ)をうちに」「うちに」は「打ちに」(以下の引用を参照)。現行の各寺で御朱印を拝受することと同義。同じくウィキの「西国三十三所」によれば、『霊場は一般的に「札所」という。かつての巡礼者が本尊である観音菩薩との結縁を願って、氏名や生国を記した木製や銅製の札を寺院の堂に打ち付けていたことに由来する。札所では参拝の後、写経とお布施として納経料を納め、納経帳に宝印の印影』(御朱印)を授かる。現行でも『写経の代わりに納経札を納める巡礼者もいる』とある。
「誓願寺(せいぐはんじ)」現在の京都府京都市中京区新京極通三条下ル桜之町にある浄土宗西山深草派の総本山である誓願寺。本尊は阿弥陀如来。最初に述べておくと、これは前注の「西国三十三観音巡礼」霊場には含まれていないので注意。所謂、西国三十三観音巡礼の途次、オマケで参拝したのである(現在、同寺は「新西国三十三観音霊場」の第十五番に数えられているが、この霊場の正規設定は昭和七年である)。ウィキの「誓願寺」によれば、天智六(六六七)年に『天智天皇の勅願により奈良に創建。三論宗』(大乗仏教宗派の一つ。龍樹の「中論」「十二門論」及びその弟子提婆の「百論」を合わせた「三論」を所依の経典とする論宗(「経」を所依とせずに「論」を所依とする宗派)で、空を唱える事から「空宗」とも称する)『の寺院となるが、いつしか改宗し、法相宗の興福寺の所有となっていた。その後、誓願寺は法相宗の蔵俊僧都が法然上人に譲ったことにより、浄土宗の所属となる。そこに法然上人の弟子である西山上人証空が入り、自らが唱える西山義の教えを広め始め、浄土宗西山派が成立してい』き、『京都御所に近いことから朝廷との交流も多く見られた。能の曲目に『誓願寺』があるが、この本山のことを指している』とある。
「如來の庭」同前の「江戸怪談集 下」の脚注には、『誓願寺阿弥陀堂の前の庭』とあるが、現在のネット上の写真は勿論、「都名所図会」の図を見ても確認出来ない。高田氏の言う「阿弥陀堂」を同寺の本堂と読み換え、「前の庭」を山門の左右にある、観音堂・或いは社祠とするなら、「都名所図会」の絵図の手前の方に、庭らしき場所は二箇所見える(しかし規模は小さい)。さらいに言い添えるなら、「都名所図会」の同寺の条の末尾には『塔頭竹林院には小堀遠州の數寄庭あり。これを遠州の八窓といふ。庭中の風景絶倫なり。同じく長仙院の庭佳境なり。世に名高し』と記すが、「如來の庭」とは出ない。識者の御教授を乞う。
「あとをしたいて」後をつけて。
「四條ほり川」現在の京都府京都市下京区四条堀川町。ここ(グーグル・マップ)。
「ほとり」辺り。
「にわかに」「俄(には)かに」。歴史的仮名遣は誤り。
「くだんのしだい」「件の次第」。
「もちゐず」「言うことを聴かず御座った。」。]
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