諸國百物語卷之四 十二 長谷川長左衞門が娘蟹をてうあひせし事
十二 長谷川長左衞門(はせがわちやうざへもん)が娘蟹をてうあひせし事
いよの松山に長谷川長左衞門と云ふ人あり。一人のむすめをもちけり。此むすめ、ようがん、びれいにして、心ざし、やさしく、うたをよみ、詩をつくり、きやうろん、しやうぎやうまで、のこらず、よみわきまへ、ぢひの心ざし、ふかゝりしむすめ也。あるとき、手水をけのなかに、ちいさき蟹のありしを、とりあげ、しよく物をあたへなどして、かわゆがりける事、とし久し。このやしきのあたりちかき所に淵あり。この淵の大蛇、このむすめにしうしんをかけ、男にへんじ、來たり、長左衞門にむかつていひけるは、
「われ、このほとりのふちにすむ大じやなるが、御身のむすめにしうしんをかけ候ふまゝ、むすめをわれに、たまはれ」
と云ふ。長左衞門も、いなといはゞ、むすめともにいのちをとるべし。又、ゆるさんも、くちをしゝと、なみだにくれていたりしを、むすめ、きゝて、
「ぜひにおよばぬ、しだひなり。みづから、いのちをすてゝ、父のいのちをたすけまいらせん。これもぜんぜむくいなるべし。はやはやへんじなさるべし」
といへば、長左衞門、なくなく、大じやにむかつて、
「むすめをあたへん」
とゆるしければ、大じやはよろこび、にちげんをきわめ、かへりぬ。さて、むすめは、かの蟹にうちむかい、
「としごろなんぢをあいせしが、わが身のいのちも、今いくほどかあるまじければ、もはやなんぢにもいとまとらするぞ」
とて、はなちければ、蟹もくさむらのうちへにげさりぬ。さて、やくそくの日にもなりしかば、大じやども、大小あまたにわにはいきたる。おそろしきとも云ふばかりなし。むすめはすこしもおどろかず、右の手にすいしやうのじゆずをつまぐり、左の手に法花經の五のまきをもち、すでに、ひろにわへ出でられければ、この御經のきどくにや、大じやども、おそれて、うしろへ、ひきしりぞく。かゝる所へ、いづくともなく、大きなる蟹ども、數もしれず、きたりあつまりて、かの大じやどもにとりつき、かたはしより、はさみたてければ、大じやどもゝをそれて、みなみな、にげさりぬ。まことに御經のきとく、又は、ぢひの心ざしふかゝりしゆへ、あやうきいのちをたすかりけると也。
[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「娘かにをてうあひせし事」。この話柄は、かなり古くから見られる女と蛇の異類婚姻譚にカップリングされた蟹の報恩譚に、観音霊験譚が附加されたもので、その中で最も古い、本話に近いそれは、平安中期の長久年間(一〇四〇年~一〇四四年)に首楞厳院(比叡山横川中堂)の鎮源なる天台僧(生没年等事蹟不詳)が記した仏教説話集「大日本國法華驗記(だいにほんこくほっけげんき)」(通称は「法華驗記」)の「下」の第百廿三 山城國久世郡の女人」で(但し、先行する「日本靈異記」「三寶繪詞」にはかなり相似した類型話があるが、やや系統が異なると考えられている)、またこれは、それを元にした「今昔物語集」の「卷十六」の「山城國女人依觀音助遁蛇難語 第十六」で広く知られる話柄で、それより後のものでは「沙石集」の「卷八」の「四 畜生の靈の事」の中に報恩例として本話と酷似した話が挿話(独立章ではない)としてある。本「諸國百物語」筆者自身も全体の構成や小道具(法華経の功徳を出す辺り)から見て、この系統をインスパイアしていると考えてよい。以下にそれら、濫觴と私の推定する三篇を示す(「大日本國法華驗記」は岩波の「日本思想体系」のそれを参考につつ、恣意的に漢字を正字化し、句読点及び記号、一部の読み等を変更・追加し、読み易く改行も施した。「今昔物語集」の方は諸本を校合して、読み易く理解し易いオリジナルな増補追加したもので示した。ほぼ相同なので語注は「今昔物語集」の方ので後に附してそれのみとした。「沙石集」のそれは岩、波文庫筑土鈴寛校訂のものを参考に、読点・記号・改行・読みを追加して示した。一言だけ先に言っておくと、「大日本國法華驗記」のエンディングに近い、蔵から出てきた「女、顏の色、鮮白にして」というは「蒼白の顔色」の意ではなく、「晴れ晴れとして輝くように美しく白い顔色」の意であるので注意されたい)。
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第百廿三 山城國久世郡の女人
山城國久世郡(くせのこほり)に一の女人あり。年七歳より、法華經觀音品を誦して、每月の十八日に持齊(ぢさい)して、觀音を念じ奉れり。十二歳に至りて、法華經一部を讀めり。深く善心ありて、一切を慈悲す。
人ありて蟹を捕へて持ち行く。この女、問ひて云はく、
「何の料(れう)に充(あ)てむがために、この蟹は持ち行くぞ。」
といふ。答へて曰く、
「食に宛(あ)てむがためなり。」
といふ。女の言はく、
「この蟹、我に與へよ。我が家に、死にたる魚、多し。この蟹の代(しろ)に汝に與へむ。」
といへり。卽ち、この蟹を得て、憐愍(れんみん)の心をもて、河の中に放ち入れり。
その女人の父の翁(おきな)、田畠を耕作せり。一の毒蛇あり、蝦蟇(かへる)を追ひ來りて、卽ち、これを呑まむとせり。翁不意(おもはず)して曰く、
「汝、蛇、當(まさ)に蝦蟇を免(ゆる)すべし。もし免し捨つれは、汝をもて聟(むこ)とせむ。」
といへり。蛇、このことを聞きて、頭(かしら)を擧げて翁の面(おもて)を見、蝦蟇を吐き捨てて、還り走り去りぬ。翁、後の時に思念(おも)へらく、
『我(われ)、無益(むやく)の語(こと)を作(な)せり。この蛇、我を見て、蝦蟇を捨てて去りぬ。』
とおもへり。心に歎き憂ふることを生じて、家に還りて食せずして、愁ひ歎ける形にて居たり。妻(め)及び女(むすめ)の云はく、
「何等(なんら)のことに依りて、食せずして歎き居るぞや。」
といふ。翁、本緣を説けり。女(むすめ)の言はく、
「ただ早く食せられよ。歎息の念(おもひ)、なかれ。」
といへり。翁、女の語に依りて、卽ち、食を用ゐ了(を)へり。
初夜の時に臨みて、門を叩く人あり。翁この蛇の來れりと知りて、女に語るに女の言はく、
「三日を過ぎて來れ。約束を作(な)すべし。」
といへり。翁、門を開きて見れば、五位の形なる人の云はく、
「今朝(けさ)の語に依りて、參り來れるところなり。」
といふ。翁の云はく、
「三日を過ぎて、來り坐(ましま)すべし。」
といへり。蛇、卽ち、還り了(を)へぬ。
この女。厚き板をもて藏代(くらしろ)を造らしめて、極めて堅固ならしむ。その日の夕(ゆふべ)に臨みて、藏代に入り居て、門を閉ぢて籠り畢へぬ。
初夜の時に至りて、前(さき)の五位、來れり。門を開きて入り來り、女の藏代に籠りたるを見て、忿(いか)り恨める心を生(おこ)し、本(もと)の蛇の形を現じて、藏代を圍み卷き、尾をもて、これを叩く。父母(ぶも)、大きに驚怖せり。夜半(よなか)の時に至りて、蛇の尾の叩く音、聞えず。ただ、蛇の鳴く音(こゑ)のみ、聞ゆ。その後、また聞えず。明朝に及びてこれを見れば、大きなる蟹を上首(かしら)として、千萬の蟹、集りて、この蛇を螫(さ)し殺せり。諸(もろもろ)の蟹、皆、還り去りぬ。
女、顏の色、鮮白にして、門を開きて出て來り、父母に語りて云はく、
「我、通夜(よもすがら)觀音經を誦するに、一尺計(ばかり)の觀音、告げて言はく、『汝、怖畏することなかれ。當(まさ)に蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火燃(がんじやぎふふくかつけどくゑんくわねん)等の文を誦すべし』と、のたまふ。我(われ)、妙法・觀音の威力に依りて、この害を免るることを得たりといへり。この蛇の死骸(しにかばね)を、この地に穿(うが)ち埋(うづ)みて、蛇の苦及び多くの蟹の罪苦を救はむがために、その地に寺を建て、佛を造り經を寫して、供養恭敬(くぎやう)せり。
その寺を蟹滿多寺(かにまたでら)と名(な)づけて、今にありて失せず。時の人、ただ紙幡寺(かみはたでら)と云ひて、本の名を稱(い)はず。
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山城の國の女人(によにん)、觀音の助けに依りて蛇の難を遁れたる語(こと) 第十六
今は昔、山城の國、久世(くぜ)の郡(こほり)に住みける人の娘、年七歳より觀音品(くわんのんぼん)を受け習ひて讀誦(どくじゆ)しけり。月每(つきごと)の十八日には精進にして、觀音を念じ奉りけり。十二歳に成るに、遂に法花經一部を習ひ畢んぬ。幼き心なりと云へども、慈悲深くして、人を哀れび、惡しき心無し。
而る間、此の女、家を出でて遊び行(あり)く程に、人、蟹を捕へて、結びて持(も)て行く。此の女、此れを見ては、問ひて云はく、
「其の蟹をば、何の料(れう)に持て行くぞ。」
と。蟹持ち答へて云はく、
「持て行きて食はむずるなり。」
と。女の云はく、
「其の蟹、我に得しめよ。食(じき)の料ならば、我が家に死にたる魚、多かり。其れを此の蟹の代(しろ)に與へむ。」
と。男、女の云ふに隨ひて蟹を得しめつ。女、蟹を得しめつ。女、蟹を得て、河に持て行きて、放ち入れつ。
其の後、女の父の翁(をきな)、田を作る間に、毒蛇有りて、蝦(かへる)を呑まんが爲めに追ひて來たる。翁、此れを見て、蝦(かへる)を哀れびて、蛇(へみ)に向て云はく、
「汝(なんぢ)、其の蝦(かへる)を免(ゆる)せ。我が云はむに隨ひて免(めん)したらば、我れ、汝を聟(むこ)と爲(せ)む。」
と、意(おも)はず騷ぎ云ひつ。蛇(へみ)、此れを聞きて、翁の顏を打ち見て、蝦(かへる)を棄てて、藪の中に這ひ入りぬ。翁、
『由無(よしな)き事をも云ひてけるかな。』
と思ひて、家に返りて、此の事を歎きて、物を食はず。妻、幷びに此の娘、父に問て云はく、
「何に依りて、物を食はずして、歎きたる氣色(けしき)なるぞ。」
と。父の云はく、
「然々(しかしか)の事の有りつれば、我れ、意(おも)はぬに、騷ぎて、然(し)か云ひつれば、其れを歎くなり。」
と。娘の云はく、
「速かに物食ふべし。歎き給ふ事無かれ。」
と。然れば、父、娘の云ふに隨ひて、物を食ひて歎かず。
而る間、其の夜(よ)の亥の時に臨みて、門を叩く人有り。父、
「此の蛇(へみ)の來たるならむ。」
と心得て、娘に告ぐるに、娘の云はく、
「『今三日を過ぎして來たれ』と約し給へ。」
と。父、門を開きて見れば、五位(ごゐ)の姿なる人なり。其の人の云はく、
「今朝(けさ)の約に依りて、參り來れるなり。」
と。父の云はく、「今を三日を過ぎして來たり給ふべし。」
と。五位、此の言(こと)を聞きて返りぬ。
其の後、此の娘、厚き板を以て倉代(くらしろ)を造らしめて、𢌞(まは)りを強く固め拈(したた)めて、三日と云ふ夕(ゆふべ)に、其の倉代に入り居て、戸を強く閉めて、父に云はく、
「今夜、彼の蛇(へみ)來たりて門を叩かば、速かに開くべし。我れ、偏へに觀音の加護を憑(たの)むなり。」
と云ひ置きて、倉代に籠もり居ぬ。
初夜(しよや)の時に至るに、前(さき)五位來たりて、門を叩くに、即ち、門を開きつ。五位、入り來たりて、女の籠り居たる倉代を見て、大に怨(あた)の心を發(おこ)して、本(もと)の蛇(へみ)の形(かたち)に現(げん)じて、倉代を圍み卷きて、尾を以つて戸を叩く。父母(ぶも)、此れを聞きて、大きに驚き恐るる事、限り無し。夜半に成りて、此の叩きつる音、止みぬ。其の時に、蛇(へみ)の鳴く音(こゑ)聞ゆ。亦、其の音も止みぬ。夜明けて見れば、大きなる蟹を首(かしら)として、千萬の蟹、集り來たりて、此の蛇(へみ)を螫(さ)し殺してけり。蟹共、皆這ひ去りぬ。
女、倉代を開きて、父さまに語りて云はく、
「今夜、我れ、終夜(よもすがら)、觀音品(くわんのんぼん)を誦(ず)し奉りつるに、端正(たんじやう)美麗の僧、來たりて、我れに告げて云はく、
『汝、恐るべからず。只(ただ)、「蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火燃(がんじやきふふくくわつけどくえんくわねん)」等(とう)の文(もん)を憑(たの)むべし』と教へ給ひつ。此れ、偏へに觀音の加護に依りて、此の難を(まぬ)かれぬるなり。」
と。父母(ぶも)、此れを聞きて、喜ぶ事、限り無し。
其の後(のち)、蛇(へみ)の苦を救ひ、多くの蟹の罪報(ざいはう)を助けむが爲(ため)に、其の地を掘りて、此の蛇の屍骸(しにかばね)を埋うづ)みて、其の上に寺を立てて、佛像を造り、經卷(きやうくわん)を寫(うつ)して供養しつ。其の寺の名を蟹滿多寺(かにまたでら)と云ふ。其の寺、今に有り。世の人、和(やはら)かに紙幡寺(かばたでら)と云ふなりけり。本緣(ことのもと)を知らざる故(ゆゑ)なり。
此れを思ふに、彼(か)の家の娘、いと只(ただ)者には非ずとぞ思(おぼ)ゆる。觀音の靈驗、不可思議なりとぞ、世の人、貴(とうと)びけるとなむ、語り傳へたるとや。
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ここで禁欲的に「●」で語注する。注では二〇〇一年岩波文庫刊「今昔物語集 本朝部 上」の池上洵一氏の注を大幅に参照させて貰った。
●「久世の郡」現在の京都府宇治市の南部と、そこに接する城陽(じょうよう)市附近。
●「月每の十八日」旧暦十八日は観音の縁日。
●「見ては」の「は」は強意の係助詞。
●「何の料」何にするために。
●「由無き事」つまらぬこと。
●「亥の時」午後十時頃。
●「今三日を過ぎして」今からもう三日が経って後に。
●「五位」律令制の位階の第五番目。正五位と従五位とがあり、五位以上は勅授とされ、殿上人となる。六位以下に比べ、格段に優遇された。ここはその位格のすこぶる高貴な風体(ふうてい)であること(五位は緋色の衣を着す決まりであるから、それと限定出来るのである)を示す。
●「倉代」屋敷に於いて正式な倉(正倉(しょうそう))の代用とした仮倉庫。一時的に物を収納しておく倉。
●「𢌞(まは)りを強く固め拈(したた)めて」倉の周囲を堅固に囲って。
●「初夜」ほぼ現在の午後六時から十時頃の幅のある時間帯を指すが、ここは午後七~八時頃ととっておく。
●「蛇の鳴く音」ここは蛇の悲鳴を謂う。
●「螫し殺してけり」蟹が蛇を鋏で以ってさんざんに鋏み殺してあったのであった。
●「父さま」「さま」は「~に向かって」の意味を添える接尾語。
●「蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火燃」これは「法華経」の「普門品(ふもんぼん)」の一節で、
蚖蛇及蝮蠍 氣毒煙火燃 念彼觀音力 尋声自𢌞去
で、新字新仮名で書き下すと、
蚖蛇(がんじゃ)及び蝮蠍(ぶくかつ)、気毒煙火(けどくえんか)のごとく燃ゆるも、彼(か)の観音の力を念ずれば、声に尋(つ)いで自ずから𢌞(かえ)り去らん。
で、池上洵一氏の注によれば、『とかげ、へび、まむし、さそりの毒気が煙火の燃えるごとくであっても』かの『観音の力を念ずれば、その声とともにたちまち逃げ去るであろう』という意味とする。
●「罪報」蟹を殺生する罪。
●「蟹滿多寺」現在の京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗普門山蟹満寺(かにまんじ)。ウィキの「蟹満寺」によれば、『本尊はかつては観音菩薩であったが』、『現在は飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造釈迦如来坐像(国宝)が本尊となっている』とある。
●「和(やはら)かに」口に出した時の響きがよいように、柔らかかに。
●「紙幡寺(かばたでら)」前注の通り、所在地名が「綺田(かばた)」である。
●「本緣(ことのもと)」本来の、ここに記した、そもそもの由緒。
●「いと只者には非ずとぞ思ゆる」池上洵一氏の注には、『とても普通の人間ではないように思われる(仏菩薩の化身であろう)』とあり、「なるほど!」と、妙に私は納得してしまったりした。
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以下、「沙石集」。
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……むかし物語にも、或人の女(むすめ)、情け深く、慈悲ありて、よろづの者の、あはれみけるに、遣水(やりみづ)の中に小さき蟹のありけるを、常にやしなひけり。
年ひさしく食物をあたへけるほどに、此(この)むすめ、みめかたち、よろしかりけるを、蛇(じや)、思ひかけて、男に變じてきたりて、親にこひて、妻にすべき由を云ひつつ、隱す事なく、蛇なる由を云ふ。父、此(この)事をなげきかなしみて、女(むすめ)に此(この)やうを、かたる。女(むすめ)、心あるものにて、
「力、及ばぬ。我身の業報(ごうはう)にてこそ候らめ。叶はじと仰らるるならば、それの御身も我身も徒(いたづら)になりなんず。ただ、ゆるさせ給ヘ。此身をこそ徒になさめ。かつは孝養にこそ。」
と打ちくどき、なくなく申しければ、父、かなしく思ひながら、理(ことわ)りにをれて、約束して、日どりしてけり。
女(むすめ)、日比(ひごろ)やしなひける蟹に、例の物くはせて云ひけるは、
「年比(としごろ)、おのれを哀れみやしなひつるに、今は其日數(かず)いくほどあるまじきこそあはれなれ。かかる不祥にあひて、蛇に思ひかけられて、其日、我は何(いづ)くへかとられて、ゆかんずらん。又もやしなはずしてやみなん事こそ、いとほしけれ。」
とて、さめざめと泣く。人と物語らん樣にいひけるを聞きて、物もくはで、はひさりぬ。
その後(のち)、かの約束の日、蛇共、大小あまた、家の庭に、はひ來たる。おそろしなんど、いふばかりなし。爰(ここ)に、山の方より、蟹、大小、いくらといふ數もしらず、はひ來たりて、此(この)蛇を皆、はさみ殺して、都(すべ)て別の事なかりけり。恩をむくひける事、哀(あはれ)にこそ。人は情(なさけ)あるべきにぞ。
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「長谷川長左衞門」不詳であるが、娘の破格の才覚(詩歌を創作出来た)と仏教書の修学内容、彼女の持ち物の仏具類(水晶の数珠)から見て相応の家格で、しかもかなり裕福な家柄と見ねば成り立たぬ(先行する原話では耕している田畠で蛇と遭遇するので富農と言う設定であるが、本話ではそうした父の蛇との遭遇や「軽率な言上げ」(これは異類婚姻譚に広汎に見られる常套的シークエンスである)が省略されてしまっている)。しかし、かといってどうも、大蛇への対応からは父はおよそ武家ではないとも断言出来る。父自身が全く娘を守るために能動的行動を起こさないからである。
「いよ」「伊豫」。現在の愛媛県の旧国名。
「ようがん、びれいにして」「容顏、美麗にして」。
「きやうろん」「經論」。仏の教えを記した「経」と、その経の注釈書である「論」。
「しやうぎやう」「正行」。原義は「仏教の正しい実践。仏となるための正しい修行」で、また、多く浄土教に於いて、極楽往生をもたらす正しい実践の謂いを指す。一般に中国唐代の僧善導の説により、称名・読誦・観察・礼拝・賛歎供養の五種を指す。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では、『本文はこれを経典の一つに誤解している』と記すが、私は後で「のこらず、よみわきまへ」(経論残らず読み尽くし、しかも「正行」を弁えて、仏道に背くことがなかったという意味で採れば問題ないと感ずる。
「手水をけのなかに」「手水桶(てうづをけ)の中に」。茶道で蹲踞(つくばい)のない露地で立てる際、又は雨や風雪が強く露地入りの出来ない折りに、臨時に手水(ちょうず)を盛って置く桶のこと。赤味の杉又は椹(さわら門 :球果植物門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ属サワラ
Chamaecyparis pisifera)製で直径は一尺(三十センチ)ほど。松か杉の蓋(ふた)がついている。
「しよく物」「食物」。
「かわゆがり」可愛がり。
「とし久し」「年、久し」。
「このやしきのあたりちかき所」「此の屋敷の邊り近きところ」。
「しうしん」「執心」。愛着(あいじゃく)。
「男にへんじ」「男に變じ」。
「いなといはゞ」「『否』と言はば」。ここから「又、ゆるさんも、くちをしゝ」(かといってまた、娘を嫁にやることを蛇如きに許すなんどということは口惜しいことじゃ!)までが長左衛門の苦悩を表わす心内語。
「ぜひにおよばぬ、しだひなり。みづから、いのちをすてゝ、父のいのちをたすけまいらせん。これもぜんぜむくいなるべし。はやはやへんじなさるべし」一部の歴史的仮名遣の誤りを正しつつ、読み易く書き換える。
「是非に及ばぬ、次第(しだい)なり。自(みづか)ら、命を捨てて、父の命を助け參らせん。此れも前世(ぜんぜ)(の)報(むく)ひなるべし。早々(はやはや)、返事なさるべし」。
「なくなく」「泣く泣く」。
「むすめをあたへん」「娘を與へん」。
「にちげんをきわめ」「日限を極め」。嫁取りの日時を取り決め。
「いとま」「暇」。
「はなちければ」「放ち遣りければ」。
「大じやども、大小あまたにわにはいきたる」「大蛇ども、大小數多(あまた)、庭に這ひ來たる」。「はい」は歴史的仮名遣の誤り。
「右の手にすいしやうのじゆずをつまぐり」「右の手に水晶の數珠を(じゆず)を爪繰り」。
「法花經の五のまき」「法華經の五の卷」。「法華経」の第五の巻は「提婆達多品(だいばだったぼん)第十二」で、先の「江戸怪談集 下」の高田衛氏の脚注では、『竜王の娘が、その徳行のゆえに菩提をとげる話が載り、女人成仏を説く条として古来、有名』と記す。少し補足しておくと、『竜王の娘』は外形が「龍」という忌まわしき畜生、しかもその身は女人である(基本、仏教では変生男子(へんじょうなんし)説によって女性は如何なる功徳を積んでも、一度、男性に生まれ変わらなければ成仏は出来ないとされる)が、そのダブルでアンタッチャブルな「龍」「女」が成仏すると説く「法華経」自体の妙法の功力が、如何に広大無辺であるかを説いているのである。
「ひろにわ」「廣庭」。
「きどく」「奇特」。既注。仏菩薩の霊験(れいげん)。
「大じやども、おそれてうしろへ、ひきしりぞく」「大蛇ども、畏れて後ろへ、引き退く」。
「いづくともなく」「何處ともなく」。どこからともなく。
「かの大じやどもにとりつき、かたはしより、はさみたてければ」「彼(か)の大蛇どもに取り附き、片端より、鋏(はさみ)立てければ」。先の「江戸怪談集 下」の本文では『鋏み立てければ』と漢字化しているが、採らない。ここは「鋏み立つ」という動詞ではなく、蟹がその「鋏(はさみ)」を蛇の体に片っ端から「立て」截(き)ったので、の意である。]