甲子夜話卷之二 49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語
2―49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語
述齋曰ふ、浴恩老侯と其園中を徘徊し、草木の事ども話合ける次手に、楡の木のことを申出たれば、老侯知らずと云れしゆへ、細かなる枝の繁きものにて、枝先殊に小く細く候。形容は榎の木などよりも又一段おもしろく候と云ければ、老侯の、夫は雪を積らせて見ばよかるべしと云れし。この一言、何の事も無きことにて、眞に風雅の意深き人ならでは、かゝる語は出ざるものと感ぜりとなん。
又一俗客、述齋の宅に來り、談話して夜ふけぬ。其人云しは、餘ほど夜は更候と覺ゆ。蟲の音高く聞え候。もはや御暇申さんとて起しとなり。此一言も今に忘れずと述齋云き。
■やぶちゃんの呟き
二話目の改行はママ。「甲子夜話」の中では特異点。
「林子」「述齋」既出既注であるが、再掲しておく。「述齋林氏」江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。ウィキの「林述斎」によれば、父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、寛政五(一七九三)年、『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。因みに彼の三男は江戸庶民から「蝮の耀蔵」「妖怪」(「耀蔵」の「耀(よう)」に掛けた)と呼ばれて忌み嫌われた南町奉行鳥居耀蔵である。
「浴恩園」現在の中央区築地にある「東京都中央卸売市場」の一画にあった「浴恩老侯」老中松平定信が老後に将軍から与えられた地で、定信は「浴恩園」と名付けて好んだとされる。当時は江戸湾に臨み、風光明媚で林泉の美に富んでいた。
「楡」「にれ」。バラ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica としてよかろう。
「榎」「えのき」。バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis。