谷の響 三の卷 七 死骸を隱す
七 死骸を隱す
出里村大宅伊右衞門といへるものゝ妻、安政元甲寅の年の八月十五日、酒肴を携へ知遇(しりあひ)の夫人六七個(にん)と岩木川に小舟を浮べて遊びけるが、小さき蝦多くありて船の四邊(あたり)を遊泳(およげ)るに、其頃川も水涸れて底下(そこ)も鮮明(あざやか)に見えわたるに、この妻いとよき慰みとてそと川に入り、包袱(ふろしき)をもて少しばかりを窠(すく)ひあげ又窠(すく)はんとするに、奈何しけん忽ち沈んで形㒵(かたち)を失ひし故、伴(とも)の者ども喧噪(さはぎ)高呼(わめき)て索搜(たづぬ)れどもそれと覺しきものも見えず。伊右衞門もと豪富者なれば、三ケ村の者數百人を償ひて三四里ばかりの水底を殘るくまなく索(たづ)ね搜(さぐ)れども、遂にその亡骸(しかなね)は出でずして空しく已(やみ)しとなり。
土(ところ)の人の言ふ、この流に淵潭(ふち)ありて、大鰐住めるという古き傳もあれば、この妻決(きは)めてこの大鰐の爲めに噉(くは)れしものなるべしと言ひきと、近江屋竹次郎といひしもの語りしなり。
[やぶちゃん注:謎の失踪事件で前話との強い連関を持つ。
「出里村」底本の森山氏の補註に『西津軽郡木造町出野里(でのさと)。津軽四代藩主信政の新田開発事業により、岩木川の西に享保年間開発された川通り三十二ケ村の一である』とあるが、これは「でのさと」ではなく、「いでのさと」と読むと思われる。現在は、つがる市木造出野里(いでのさと)である。ここ(グーグル・マップ・データ)。岩木川の左岸。
「安政元甲寅の年の八月十五日」グレゴリオ暦では一八五四年十月六日(閏七月があるため)。但し、厳密にはこれは安政元年ではなく、嘉永七年である。嘉永七年は旧暦十一月二十七日(グレゴリオ暦一八五五年一月十五日の改元だからである。
「四邊(あたり)」二字へのルビ。
「遊泳(およげ)る」二字へのルビ。
「其頃」「そのころ」。
「底下(そこ)」二字へのルビ。
「鮮明(あざやか)に」二字へのルビ。
「そと」副詞。ちょっと。
「包袱(ふろしき)」二字へのルビ。「袱」(音「フク」)は「物の上にぴったりと被せて包む布(きれ)」の意。
「窠(すく)ひ」「掬うひ」。
「奈何しけん」「いかがしけん」。
「形㒵(かたち)」二字へのルビ。「㒵」は一般には「顔」の意であるが、ここは「貌」(形・姿)と同義で用いていると考えてよい。
「喧噪(さはぎ)高呼(わめき)て索搜(たづぬ)れども」三ヶ所とも二字へのルビ。
「償ひて」金品を出して「やとひ」(雇ひ)と当て訓しているものと私は判断する。
「大鰐」「おほわに」。大鮫。但し、水域から見て、およそ海産のサメの遡上は不可能な上流域である。
「傳」「つたへ」と訓じておく。
「決(きは)めて」定めて。きっと。]
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