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2016/11/05

甲子夜話卷之二 43 中根半七、狂歌にて出身の事

2―43 中根半七、狂歌にて出身の事

先年、御祐筆の中根半七、五十年勤て出進せざりしかば、歳末に述懷の狂哥をよめり。

 

 筆とりて天窓かく山五十年

      男なりやこそ泣(ナカ)ね半七

 

翌年出身せしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

 狂歌の前後は一行空けを施した。

「中根半七」不詳。後の西南戦争で西郷軍に与した同姓同名の人物がいるが、無関係であろう。

「御祐筆」「御右筆」。「いうひつ(ゆうひつ)」。ここは将軍の書記役の文官たる「右筆」の下役(上位の「奥右筆」ではない)の「表右筆」であろうウィキの「奥右筆」によれば、『若年寄の支配下』で、『奥御祐筆(おくごゆうひつ)とも言われる。江戸城本丸の御用部屋に詰めることが多かった』。『江戸幕府初期より右筆制度は存在しており、室町幕府や豊臣政権以来の歴代の右筆の家柄出身者などがこれに充てられていた。徳川綱吉が館林藩主より将軍となった時には、館林から右筆を連れて江戸城に入り、特に奥右筆に任じて、自身が発給する文書の作成などを任せた。これに対して従来の右筆は表右筆と呼ばれるようになる。奥右筆は当初は綱吉側近の数名であったが、後に拡大されて宝暦年間には』十七名『程度にまで拡張された。また人数の増加により表右筆』(三十名前後、後に八十名前後)『の中から奥右筆に転じる事例が増え、後にはこの表右筆→奥右筆という昇順が確立する』。『奥右筆が表右筆より重視されていたのは待遇面でも明らかである。享保年間の制によれば、右筆の長である組頭の禄高を比較すると、表右筆組頭が』役高三百石・役料百五十俵『であったのに対して、奥右筆組頭は』役高四百石・役料二百俵であった。また、『一般の右筆においても表右筆が』百五十俵の『蔵米の給与であったのに対し、奥右筆は』二百石高『の領地の知行だった』。『奥右筆はまた、幕府の機密文書の管理や作成なども行う役職で、その地位こそ低かったものの、実際は幕府の数多い役職の中でも特に重要な役職だった。現在で言うところの政策秘書に近い存在といえる。ただし奥右筆の中には幕閣(大老や老中)が集う会議で意見を述べることが許されていた者もいた』。『というのは、諸大名が将軍をはじめとする幕府の各所に書状を差し出すときには、必ず事前に奥右筆によってその内容が確認されることが常となっていた。つまり、奥右筆の手加減次第で、その書状が将軍などに行き届くかどうかが決められるほどの役職だったのである。また、幕閣より将軍に上げられた政策上の問題について、将軍の命令によって調査・報告を行う職務も与えられていた。その報告によって幕府の政策が変更されたり、特定の大名に対して財政あるいは人的な負担を求められる事態も起こりえたのである』。『このため、諸大名は奥右筆の存在を恐れたともいう』とある。残念ながら、この中根さん、「天窓」(「あたま」と訓ずる)搔き搔き仕事をするというのは、ミスが多いことを示しており、出世したというても、これ、せいぜい、この表右筆組頭までであろうと私には思われる。

「五十年」十代で入ったとしても既に七十近い老体である。よほど、右筆としては才能がなかったとしか思えない。

「勤て」「つとめて」。

「出進」出世。

「狂哥」狂歌。

「かく」「搔く」に「書く」「賭く」(次注参照)を掛ける。

「山」「や間」(ぼんくら頭を搔き搔きして五十年もの)を掛け、しかも恐らくは「山」を「賭く」で、山の鉱脈を探し当てるのは極めて確率の低い賭けであったことから「山を賭ける」と今も使うように、「万一の僥倖(この場合は右筆身分での上位への出世)に賭けること」を、それこそ、「掛/賭けた」のではあるまいか? 大方の御叱正を俟つ。

「泣(ナカ)ね」江戸弁の「泣かねえ」に本姓「中根」を掛けた。

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