谷の響 三の卷 二 壘跡の怪
二 壘跡の怪
小國澤目山本村のもの、二重隍の壘趾に至りて見るに、板の如くなる石の大小まつはりて多くありしかば、造作の用に充てんと思ひ、あくる日馬五六疋をひいてこの處に來りしに、昨日見し石一片も見得ず。奇しく思ひて馬を堀の傍に放ち、區中(くるはのうち)あまねくもとむれども似よりたる物もなければ、狐に魅(ばか)されたる心地して其馬どもを曳て歸らんとするに、四蹄(そく)悉(みな)鮮(なま)血に塗れてありければ、寒慄(ぞつと)して身の毛逆立ち、少時も居るに堪へずして早卒に脱れ歸りしとなり。これは嘉永の末年なる由。
又、この山中の川に土人(ところのひと)毎年簗(やな)を架(かけ)て鱗屑(ざつこ)をとることなるが、時々小き鮫(さめ)のかゝることあり。この鮫をとる時は必ず祟あるとて、みな放てるとなり。この川の水上にひとつの淵ありて、そこに住めるものは鰐なりと言傳へり。淵の名は忘失たりと。こもこの石郷岡氏の語しなり。
[やぶちゃん注:前話「一 大骨」との親和性がすこぶる強い。
「壘跡」「二重隍の壘趾」これは前条の「小國村【東濱の山里也】の山中に」あるという「二重隍壘跡(ほりしろあと)」所謂、古い山砦(さんさい)の塹壕と土塁に囲まれた廓(くるわ)である。前に注した通り、現在の東津軽郡外ヶ浜町蟹田小国附近と思われる。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「小國澤目山本村」「おぐにさはめやまもとむら」で「蟹田小国」の沢の境にある「山本村」の謂いか。森山氏補註に、『同じく蟹田町山本(やまもと)。小国の西方』とある。現在蟹田山本野脇附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「造作の用に充てんと思ひ」「造作」は「ぞうさく」で.、家の建材或いはその内部の床板・仕上げ材・取付け物に役立てようと思い。
「馬五六疋をひいて」とあるからには、その板状に摂理した大小の岩石がかなり多量にあったことが判る。
「堀」塹壕状・回廊状になった箇所の辺り。馬を放っても土塁が高く、外へは走り行けぬと判断し「區中(くるはのうち)」大きな外郭の土塁に囲まれた城塞跡の廓(くるわ)の中全体。
「四蹄(そく)悉(みな)鮮(なま)血に塗れてありければ」その総ての馬の蹄(ひづめ)が、何か鋭いものを踏みつけたかのように、皆、血塗(ちまみ)れになっていたので。
「寒慄(ぞつと)して」二字へのルビ。
「少時も」「しばしも」。
「堪へずして」(恐ろしさに)堪えられなくて。
「早卒に」「にはかに」。即座に。
「脱れ」「のがれ」。
「嘉永の末年」嘉永は七年が最後でグレゴリオ暦では一八五四年。
「簗(やな)」「梁」とも書く。川漁の一つ。川の瀬を両岸より杭・竹・石などで堰き止めて、一ヶ所を開けておき、そこに簀(す)を張って、川の流れを上り下りする魚類を、その上で捕らえる仕掛け。一般には夏の風物である。
「鱗屑(ざつこ)」「雜魚(ざこ)」。主に小型・中型の魚。
「小き」「ちさき」。
「鮫(さめ)」位置的に見て海産のサメ類が遡上し得る場所ではない。或いは、細長いか扁平な特殊な形をしたナマズ類を指しているか。私が直ちに想起したのは条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギバチ Pseudobagrus tokiensis であった。ウィキの「ギバチ」によれば、『神奈川県、富山県以北の本州』に棲息し(青森にいておかしくない)、全長約二十五センチメートル(「小き」という謂いに合う)、『体は細長く、体色は茶褐色から黒褐色で鱗はない。上顎、下顎それぞれ』二対ずつ合計八本『の口ひげ、胸びれと背びれに』一本ずつ、合計三本の『棘を持』ち、『尾鰭の後縁がわずかにくぼむ。幼魚には、黄色味を帯びた明らかな斑紋がある』(形がサメの子に似ていなくもないと私は思う)。『流れがあ』って、『比較的水質も良い河川の中流域から上流域下部に生息する。石や岩の下や石垣の隙間、ヨシの間や倒木の下に潜む。主に夜間活動し、水生昆虫や小魚などを捕食する』というのは、当該地によく当てはまり、また夜行性であるから、必ずしも簗に常時、かかるとも思われない)。さらに、本種の『棘には毒があるとされる』点で「必ず祟ある」だから「みな放てる」という理由が腑に落ちるのである。同じギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps にも、やはり棘があり、これに刺されると激しく痛むことが知られている(但し、ギギは新潟県阿賀野川より以南にしか棲息しないのでこれは候補にならないのである)。
「鰐」「わに」。海産の軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii のサメ(鮫)類のこと。河口附近ならば、同じ板鰓亜綱エイ上目 Batoidea のエイの類は(エイ類の中には体幅が狭く、サメに見える種もいる。例えばエイ目 Rajiformes の仲間(ガンギエイ科ガンギエイ属ガンギエイ Raja kenojei などは秋田では食用として「かすべ」の名で知られ、私の好物でもある)にはそうした種が多く、エイの仲間であるにも拘らず、体がスマートで「~ザメ」の和名を有する種や地方によっては「鮫」扱いする種もかなり多い)、かなり遡上はするが、やはり、先の旧「山本村」附近、その上流の淵など以っての外で、考えられない。
「忘失たり」「わすれたり」と訓じておく。
「こもこの石郷岡氏の語しなり」「こも」(この話も)「この石郷岡氏」(「一 大骨」の「石郷岡氏」の注を参照のこと。「石郷岡」で人の姓である)からの採話であるというのである。冒頭述べた通り、前話「一 大骨」からの続篇的性格が強いのである。]