甲子夜話卷之二 47 土屋帶刀裸體にて馬に乘る事
2-47 土屋帶刀裸體にて馬に乘る事
土屋駿河守【千石】と云しは、大坂町奉行を勤て、長崎奉行となりて彼處にて沒したり。此人若き時、帶刀と云。兩御番にて御使者を望たれども願達せず年を歷たり。この頃は松平右近將監【武元】老職にて、土屋の隣家某、其聟なりしを以て、時々その宅に來り、いつも樓上に居られける。樓は土屋の宅を目下に見る所なりしとぞ。又一日、武元來り、彼樓上に在る時、土屋丸裸下帶計にて馬に騎り、我馬場を馳驅してわざと武元に見せける。これその雲路の情願叶はざるを恚りてのいたづらなりしとぞ。然るに武元臨見るに、土屋が馬術目を駭かす計のことにてありしより、遂にこれが階梯となりて出身しけるとなん。
■やぶちゃんの呟き
「土屋帶刀」(「帶刀は「たてはき」)「土屋駿河守【千石】」「大坂町奉行を勤て、長崎奉行となりて彼處にて沒したり」という条件から、土屋守直(もりなお 享保一九(一七三四)年~天明四(一七八四)年)と考えられる。幕臣で宝暦四(一七五四)年に父の遺領を嗣ぎ、安永八(一七七九)年、大坂町奉行に昇進、天明三(一七八三)年に長崎奉行となったが、翌年、五十一歳で亡くなっている。彼の通称は「帯刀(たてわき)」であった。
「兩御番」「りやうごばん(りょうごばん)」は江戸城警備と将軍の護衛を任務とする「書院番」と「小姓組番」を指す。
「御使者」「御使番」のこと。既注であるが再掲する。元来は戦場での伝令・監察・敵軍への使者などを務めた役職。ウィキの「使番」によれば、江戸幕府では若年寄の支配に属し、布衣格で菊之間南際襖際詰。元和三(一六一七)年に定制化されたものの、その後は島原の乱以外に『大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する』ようになった。『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行い』とあり、常に幕府の上使としての格式を持つ名誉な職であった。
「望たれども」「のぞみたれども」。
「歷たり」「へたり」。
「松平右近將監【武元】」老中松平武元(たけちか 正徳三(一七一四)年~安永八(一七七九)年)。上野館林藩・陸奥棚倉藩藩主。親藩ながら江戸幕府の寺社奉行や老中を務めた。ウィキの「松平武元」によれば、常陸府中藩主松平頼明次男であったが、享保一三(一七二八)年に『上野館林藩主松平武雅の養嗣子となり家督相続、その直後に陸奥棚倉に移封され』延享三(一七四六)年、『西丸老中に就任し、上野館林に再封され』や。延享四(一七四七)年に老中となり、明和元(一七六四)年、老中首座となっている。『徳川吉宗、家重、家治の』三『代の将軍に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は』安永八(一七七九)年死去まで十五年間、務めた。
「樓」高殿・物見台。
「下帶計にて」「したおびばかりにて」。褌(ふんどし)だけで。
「騎り」「のり」。
「我馬場」「わがばば」。
「馳驅」「ちく」。馬を走らせること。
「雲路の情願」「うんろのじやうぐわん(じょうがん)」「雲路」は「官職に就いて出世することの比喩。「情願」は「嘆願」と同義。
「恚りての」「いかりての」。
「臨見るに」「のぞみみるに」。
「駭かす」「おどろかす」。
「計」「ばかり」。
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