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2016/11/23

諸國百物語卷之五 十四 栗田左衞門介が女ばう死して相撲を取りに來たる事

 

     十四 栗田左衞門介(くりたさへもんのすけ)が女(によ)ばう死して相撲(すもう)を取りに來たる事


Onnayuureisumou

 加州の御家中に栗田左衞門介とて、ちぎやう八百石とる侍あり。内儀は同じ家中のむすめにて、かくれもなきびじんなりしが、ろうがいをわづらひて、むなしくなりけるが、左衞門、ふかくかなしみて、かさねてつまをももたず、三年をすごしけるが、しんるい、よりあひ、しゐてつまをむかへさせければ、尾張より新田(につた)六郎兵衞とて五百石とりのむすめ、十七さいになるをよびむかへけるが、三十日もすぎて。左衞門、當番にて城へあがりける。内儀はこたつにあたりてねころびゐ給ふに、としのころ十八、九ばかりなる女らう、はだにはしろき小そで、うへにはそうかのこの小そでをきて、ねりのかづきにてまくらもとにきたり、

「そのはうさまは、なにとて、これには、ゐ給ふぞ」

と云ふ。内儀、おどろき、

「さやうにをゝせ候ふは、いかなる御かたぞ」

と、たづね給へば、

「われは此家のあるじにて候ふ」

と云ふ。内儀、きゝて、

「さやうの事もぞんじ候はで、ちかきころ、これへ、ゑんにつき參り候ふ。御はらだちは御尤にて候ふ。さりながら左衞門どのは、さぶらひともおぼへざる事にて候ふ。そのはうさまのやうなる、うつくしき女らうをもちながら、又ぞや、つまをかさね給ふ事、かへすがへすもくちをしく候ふ。明るさう天にかへり申さんとおもひ候へども、女の事にて候へば、しばしのうちは、心ゆるし候へ」

と、申されければ、

「いかにもゆるゆると御しまい候ひて御かへり候へ。さてさて、まんぞく申したり」

とて、かへられけるをみれば、かきけすやうに、うせにけり。さて、左衞もんは城よりかへりければ、内儀、

「われにはいとまを給はれ」

との給へば、

「にわかに、さやうにの給ふは、いかなる事にて候ふぞや。しさいをかたり給へ」

といへば、

「そのはうさまは、さぶらひにあひ申さぬ事の候ふ。本妻ありながら、又、われをよびむかへ給ふ事。さりとてはひきやう也。へんじもはやく、いとまを給はれ」

との給へば、左衞門、きゝて、

「これは、おもひもよらぬ事をおゝせ候ふものかな。はじめより申し入れ候ふごとく、三年いぜんに女にはなれてより此かた、そのはうよりほかに、つまとては、もち申さず」

とて、せいごんたてゝ申されける。そのとき、内儀、ゆふべかやうかやうの女らう、きたり給ふよし、のこらず、物がたりし給へば、左ゑもん、きゝて、

「さては、三年いぜんの、つまのゆうれいなるべし。べつのしさいは有るべからず。此うへは、われにいのちを給わるとおぼしめし、とゞまり給へ。いとまはいだし申すまじ」

と、いわれければ、内儀、ぜひなく、とゞまり給ひける。そのゝち、左ゑもんのるすの夜、またはじめの内儀、きたりて、

「さてさて、いぜん、かたく、やくそくなされ候ひて、今に御かへりなきこそ、うらめしく候ふ」

と申されければ、内儀、きゝ給ひ、

「そのはうさまは、今は此世にましまさぬ御身のよし。なにとて、さやうにしうしんふかく、まよい給ふぞ。とくとく、かへり給へ」

との給へば、はじめの内儀、申されけるは、

「ぜひぜひ御歸りなく候はゞ、相撲をとり候ひて、そのはう、まけ給はゞかへり給へ。それがしまけ候はゞ、かさねてまいるまじ」

と、いふよりはやく、とびかゝる。内儀も、こゝろへたり、とて、くみあひ、うへをしたへとかへす所へ、左ゑもん、かゑりければ、ゆうれいはきへて、うせにけり。そのゝち、左ゑもん、るすなれば、きたりて、すもふをとる事、五たび也。内儀はこれを物うき事に思ひ、しだひに、やせおとろへて、わずらいつき給へば、ほどなく、むなしくなり給ふ。今をかぎりのとき、左ゑもんに申されけるは、

「内々申しまいらせ候ふゆうれい、そのゝちたびたび出で給ひ、われをなやましけるを、おそろしくはおもひけれども、一たびいのちをたてまつらんと、けいやく申すうへは、ぜひなく思ひくらし、今、かく、あひはて申す也。ねんごろにあとをとぶらひ給ふべし。此しだい、われらがをやにかたり給ふな」

とて、つゐに、はかなくなり給ふ。左ゑもんはかなしみて、野べのおくりをいとなひつゝ、かきをき、したゝめ、内儀のおやにおくり、その身は出家し、しよこくしゆぎやうに出でけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「女のゆうれいすまふをとる事」(歴史的仮名遣は誤り)。

「栗田左衞門介」不詳。

「相撲」私も調べて驚いたが、ウィキの「相撲」によれば、「日本書紀」雄略天皇十三年(四六九年)には.『秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じて褌を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲であり、これが記録上の「相撲」という文字の初出でもある』とある(下線やぶちゃん)。また、言わずもがな乍ら、『相撲は神事としての性格が不可分である。祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは』一勝一敗『で決着するようになっている。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもある。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていった』ことは今、忘れられつつある。先般、旅した隠岐の島後(どうご)では今も土地の神事相撲が盛んであるが、そこでも最初は本気でやり、今一番は勝った力士が業と負けるという由緒正しき仕儀が守られているのである。ここで「後妻(うわなり)打ち」の如くに行われるそれも、そうした神事システムの文脈で考えるなら、相撲勝負を後妻が受諾した瞬間から、その掟に組み込まれてしまっており、後述するように後妻が生気を吸い取られて、死に至ることは既にして決していると読むべきであって、後妻が勝って大団円という図式は民俗社会ではありえないことに気づかねばならぬと私は思うのである。なお、ウィキの「女相撲」によれば、興行物としての「女相撲」の歴史は江戸中期の十八世紀中頃からの流行とあり、当初は事実、女同士の取り組みで『興行したが、美人が少なく』、『飽きられたため、男の盲人との取り組みを始めて評判になった。大関・関脇などのシステムは男の相撲に準じており、しこ名には「姥が里」「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」などの珍名がみられる』とし、『江戸時代中期、江戸両国で女性力士と座頭相撲の座頭力士(つまり男の盲人)とを取り組ませたとされ』、延享二(一七四五)年の「流行記」の「延享二年落首柳営役人評判謎」には『「一、曲淵越前守を見て女の角力ぢやといふ、その心は両国ではほめれど、一円力がない」との記述がある』とあり、大坂でも明和六(一七六九)年、『女相撲興行が始められ』、「世間化物気質」には『「力業を習ひし女郎も、同じ大坂難波新地に女子の角力興行の関に抱へられ、坂額といふ関取、三十日百五十両にて、先銀取れば」とあり、その人気が伺える』。また「孝行娘袖日記」の明和七(一七七〇)年版には、『「とても、かやうな儀は上方でなければ宜しうござりやせぬ。御聞及びの通り、近年女の相撲などさへ出来ましたる花の都」とある』という。『女性と盲人との相撲が江戸で評判となり、安永年間』(一七七二年~一七八一年)から寛政年間(一七八九年~一八〇一年)にかけて、『女相撲に取材した黄表紙、滑稽本が流行した。寛政年間には、羊と相撲をとらせる女相撲もおこなわれた』。『しかし安永の頃から女相撲の好色なひいきが申し合わせて興行人・世話人に金銭を与え、衆人環視の中で男女力士に醜態を演じさせることが再三あったため、寺社奉行から相撲小屋の取り払いを命じられることになった』。文政九(一八二六)年になると、『両国で女性と盲人との相撲が復活し』たものの、『女同士の相撲の興行については、興行者にも企図する者があったものの、その後の禁止で復活を果たせず、結局』、嘉永元(一八四八)年に『至り、名古屋上り女相撲の一団が大坂難波新地にて興行を復活させることになった。このときそれまで女力士が島田、丸髷姿であったものを男髷に改めた』。この興行は「大津絵節」で『「難波新地の溝の川、力女の花競べ、数々の盛んの人気、取結びたる名古屋帯、尾張の国から上り来て、お目見え芸の甚句節、打揃ひつつ拍子やう、姿なまめく手踊に引替へて、力争ふ勢ひの烈しさと優しさは、裏と表の四十八手」とうたわれるほどの人気となり、華美なまわしのしめこみと美声の甚句節手踊りが観客のこころをとらえ、幕末の興行界で異彩をはなった』とあるが、本「諸國百物語」は遙か以前の延宝五(一六七七)年の刊行であり、見世物として完成された、こうした「女相撲」の趣向の影響は認められない

「加州」加賀藩。

「ちぎやう」「知行」。

「かくれもなきびじん」「隱れもなき美人」。美人として広く世間で知れ渡っていることを指す。

「ろうがい」「労咳」。肺結核。

「しゐて」「強ひて」。歴史的仮名遣は誤り。

「新田六郎兵衞」不詳。

「こたつにあたりてねころびゐ給ふに」「炬燵にあたりて寢轉び居たまふに」。

「女らう」「女﨟」。高貴な婦人。

「はだにはしろき小そで、うへにはそうかのこの小そでをきて」「肌には白き小袖、上には總鹿子(そうかのこ)の小袖を着て」。「總鹿子」は布を小さく摘まんで括(くく)った絞り染め。全体に白い小さな丸が紋として表わされる。

「ねりのかづきにて」「練絹(ねり)の被(かづ)き」。「被き」は高貴な婦人がお忍びの際に顔を隠すためなどに上から被ることを専用とした着物のこと。

「そのはうさま」「其の方樣」。亡者といえど、生前、高貴な婦人なれば、言葉遣いが丁寧である点に注意。

「あるじ」女主人の意。直ちに栗田左衛門介の正妻を意味する。

「ゑんにつき參り候ふ」「緣に付き參り候ふ」。縁あって正式に栗田左衛門介に嫁入りして参った者にて御座いまする。

「はらだち」「腹立ち」。

「つまをかさね給ふ事」後妻の彼女に、夫が既に正妻があることを言わずに、しかも正妻として迎えた不届き(現在の重婚罪)を批判しているのである。

「明るさう天」「あくる早天(さうてん)」。この夜の終わって、明日の明け方早く。

「女の事にて候へば、しばしのうちは、心ゆるし候へ」夫に告げずに実家に戻る訳には行かぬから、暫しの猶予を求めたのである。

「御しまい候ひて」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『持物道具などかたづけて』とある。

「まんぞく」「滿足」。

「さぶらひにあひ申さぬ事の候ふ」「侍に相ひ申さぬことのさふらふ」。侍らしからぬ、不届きなるところが御座いまする。

「ひきやう也」「卑怯なり」。

「へんじもはやく」「片時も早く」。一刻も早く。

「女にはなれて」先妻と死別して。

「せいごんたてゝ」「誓言立てて」神仏に誓って。

「べつのしさいは有るべからず」「別の子細はあるべからず」。「そなたが私の正妻としていることには何らの支障も、これ、あろう筈もない!」。

「さやうにしうしんふかく」「左樣に執心深く」。

「物うき事」(夫に秘めているが故に一層、)心にいとわしく切なく思い。夫に心配させるまいという遠慮から、先妻の幽霊と組んず解れつの修羅の相撲を取るという地獄を語らぬ、孤独なる苦悶なのである。笑いごとなどではなく、話柄は遂にカタストロフへと一気に進むのである。

「しだひに、やせおとろへて、わずらいつき」「次第(しだい)に、瘦せ衰へて、患ひつき」(複数箇所の歴史的仮名遣の誤りがある)。現代の精神医学なら、重度のノイローゼか、或いは統合失調症の初期幻覚とも見做せるが、陰気のみで出来た亡者と組み合うということは生きた人間としての陽気を確実に喪失していくことと同義であるから、民俗社会的にも腑には落ちる。

「一たびいのちをたてまつらんと、けいやく申すうへは」武士の妻として、である。

「いとなひつゝ」「營ひつつ」。「営みつつ」に同じい。葬儀を執り行いながら。

「かきをき、したゝめ」「書き置き、認め」。恐らくは妻の願いを破って、死に至った理由を具さにしたためたのであろう。彼女が語ることを禁じたのは、あくまで「武士」としての夫の名誉を守るためであったからである。しかしそれは今となっては無用なのであった。彼はこの直後に「出家し」、諸国修行に旅立ったからである。後妻の健気さは勿論ながら、先妻の妬心の執心に浅ましさはあるにしても、しかしどうしても先妻を憎む気には私はなれぬ。私は本話柄の全体に、ある種の哀感を禁じ得ないのである。]

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