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2016/11/26

北條九代記 卷第十 將軍惟康源姓を賜る 付 大元使を日本に遣 竝 北條時輔逆心露顯

 

      ○將軍惟康源姓を賜る  大元使を日本に遣す

        北條時輔逆心露顯

 

同七年十一月、將軍惟康、從三位に叙し、左中將に任じ、源姓(げんしやう)を賜ふ。位署(ゐしよ)、既に鎌倉に到著す。將軍家、御拜賀の御爲に、鶴岡八幡宮に參詣あり。路次の行列は先蹤(せんしよう)にまかせられ、供奉の輩(ともがら)、銛(きら)を研(みが)き、花を飾り、奇麗の出立(いでたち)、傍(あたり)を耀(か〻やか)し、見物の貴賤、巷(ちまた)に盈(み)ちたり。近年、太平の驗(しるし)なりと、諸人喜ぶ事、限りなし。異故(ことゆゑ)なく下向ありて、その夜は殿中に舞蹈(ぶたう)、酒宴、既に曙に及べり。大名、諸人、上下共に榮樂萬歳(えいらくまんざい)を歌ひ、數獻(すこん)、酣興(かんきよう)を盡されけり。

この年、蒙古の使者、趙良弼等(ら)、本朝筑前國今津に著岸し、牒狀(てふじやう)を呈す。兎にも角にも日本を討取(うちと)るベしとの祕計なるべしと、公家武家共に憤(いきどほり)思召しければ、中々、返狀にも及ばず。博多(はかたの)彌四郎と云ふ者を差添(さしそ)へて歸遣(かへしつかは)されしかば、蒙古の王、既に彌四郎に對面し、通事(つうじ)を以て、樣樣、問答し、種々に饗(もてな)しつ〻、寶物(はふもつ)を與へて日本に送歸(おくりかへ)す。

北條重時には孫武藏守長時の二男、治部大輔義宗、鎌倉より上洛し、六波羅の北の方に居て式部大輔時輔と兩六波羅となり、西國の事を取行(とりおこな)ひけり。京都鎌倉の間(あひだ)は櫛(くし)の子(こ)を引くが如く、飛脚、每日に往來し、九國二島(じとう)の事に於いて纖芥(しんがい)計(ばかり)も隱(かくれ)なし。諸国、自(おのづから)、是(これ)に伏(ふく)して、天下の政理(せいり)好惡(かうあく)の沙汰、更に口外に出す者なし。狼藉亡命の輩(やから)、山野の間にも身を隱すに賴(たより)なく、一夜の宿も借す人なければ、自(おのづから)、皆、亡びて、在々所々、萬戸(ばんこ)樞(とぼそ)を閉ぢず、千門開けて、女、童(わらは)、商人(あきんど)までも手を指す者もあらざれば、淳朴厚篤(じゆんぼくこうとく)の世の中なりと、上下、心易くぞ思ひける。

然る所に同九年正月に、惟康、從二位に叙せられ、中將は元の如し。同二月十五日、鎌倉より早馬を立てて、六波羅の北の方、北條義宗の許へ告來(つげきた)る事あり。義宗、俄(にはか)に軍兵(ぐんぴやう)を催し、六波羅南の方、式部大夫時輔が館(たち)に押寄(おしよ)せて、時輔を初(はじめ)て、家中の上下、一人も殘らず討亡(うちほろぼ)す。思(おもひ)も寄らざる俄事(にはかごと)に、侍、中間原(ちうげんばら)、周章彷徨(あはてうろた)へ、物具(もの〻ぐ)取りて差向ふまでもなく、逃落(にげお)ちんとのみする程に、草葉を薙(な)ぐが如く、皆、打伏(うちふ)せ、切倒(きりたふ)し、死骸は此處彼處(こ〻かしこ)に臥亂(ふしみだ)れ、紅血(こうけつ)は縦橫(じうわう)に川を流せり。邊(あたり)近き民屋(みんをく)の男女、こはそも何事ぞとて騷立(さわぎた)ちて逃惑(にげまど)ひしかども、手間も入らず、打靜(うちしづま)り、義宗、靜(しづか)に馬を入れられければ、今は左(さ)もあれ、この後、又如何なる事かあるべきと、足を翹(つまだ)て手を握り、危(あやぶ)みけるも多かりけり。かの時輔は相摸守時賴の長男にて、鎌倉相州時宗の兄なりしが、関東の執權は我こそと思はれしに、舍弟時宗に家督を取られ、年來、鬱憤を含み、逆心を企て、内々その用意ある由、誰(たれ)とは知らず、時宗に告申(つげまう)しける故に、先(まづ)、義宗を上洛せしめ、事の有樣を伺はせ、叛逆の事、忽に露(あらは)れて、時輔、既に討たれたり。鎌倉にも、北條朝時の孫左近〔の〕大夫公時(きんとき)、同じく朝時の六男中務〔の〕大輔教時等(ら)、時輔に一味同心して、時宗を討たんと計りける。此事、今は隱(かくれ)なく露れしかば、公時、教時、一所に寄合(よりあ)うて、「京都の事に何如(いかゞ)、心許(こころもと)なし」と、その左右を待ちりる間(あひだ)に、時宗の討手(うつて)、透間(すきま)なく込掛(こみか)けて、一人も泄(もら)さず討取(うちと)つたり。近隣、大に騷ぎしかども、事、速(すみやか)に落居(らくきよ)しければ、頓(やが)て音なく靜りけり。天運の命ずるに依らずして、非道の巧(たくみ)を企つる者は、天必ず、罸(ばつ)を施し、鬼(き)、既に罪をうつが故に、亡びずと云ふことなし。運を計り、命を待つとは、君子の智德を云ふなるべし。中御門〔の〕左中將實隆、この謀叛に與(くみ)せられたりと聞えしかば、出仕を留められ、暫く籠居(ろうきよ)しておはしけり。關東より如何に申付けられんも知難(しりがた)しとて、その方樣(かたさま)の人は、易(やす)き心もなかりしかども、武家の人々、何程の事かあるべきとて、宥免(いうめん)の沙汰に及びしかば、軈(やが)て殿上(てんじやう)の出仕をぞ致されける。

 

[やぶちゃん注:内容の相異に鑑み、特異的に段落を設けた。

「北條時輔」(宝治二(一二四八)年~文永九(一二七二)年)は時頼の長男。既注であるが、再掲しておく。母は時頼側室の、出雲国の御家人三処(みところ)氏の娘、讃岐局で、三歳年下の異母弟時宗は時頼の次男ながら、母が時頼正室の北条重時の娘、葛西殿であったことから嫡男とされた(元の名は時利であったが、十三歳の正元二(一二六〇)年正月に時輔と改名しているが、これは父時頼の命によるものと考えられており、それは時宗を「輔(たす)く」の意が露わであった)。文永元(一二六四)年十月、十七歳で六波羅探題南方となる(この二ヶ月前に十四歳の時宗は連署に就任している)。文永五年、時宗が執権を継ぐが、これに内心不満を抱き、蒙古・高麗の使者との交渉に於いても時宗と対立した。文永九(一二七二)年二月十一日に鎌倉で反得宗勢力であった北条時章(名越流北条氏初代北条朝時の子)・教時兄弟が謀反を理由に誅殺されると(本章では時制順序が逆に見えるような書き方になっているので注意)、その四日後の十五日、京都の時輔も同じく謀反を図ったとして執権時宗による追討を受け、六波羅北方の北条義宗(先の第六代執権北条長時嫡男。赤橋流北条氏第二代当主)によって襲撃され、誅殺された(二月騒動)。享年二十五。吉野に逃れたとする説もある。

「同七年十一月」文永七(一二七〇)年であるが、「十一月」は「十二月」の誤り。この十二月二十日に惟康は源姓賜与されて臣籍降下し、正三位(「從三位」も誤り)・左近衛中将となった。征夷大将軍宣下は文永三(一二六六)年 七月に済んでいる。

「位署(ゐしよ)」官位・姓名の下賜が記された公文書。

「路次」私の趣味で「ろし」と清音で読んでおく。途中の沿道。

「先蹤(せんしよう)」先例。

「銛(きら)を研(みが)き」「銛」は刀剣類の鋭いことで、武家将軍の武具の鋭利にして厳かであることを形容していよう。

「異故(ことゆゑ)なく下向ありて」何の想定外の事態も発生することなく、滞りなく拝賀の式が済んで御所へお戻りになって。

「榮樂萬歳」雅楽の唐楽に隋の煬帝作とも唐の則天武后の作ともされる祝祭舞曲としての「万歳楽」があるが、ここは皆で歌っているところからは、当時一般で歌われた言祝ぎ歌の一つか。識者の御教授を乞う。

「酣興(かんきよう)」「酣」は「たけなわ」で「酣」自体が「酒を飲んで楽しむこと」や「ある事象の経過の中の最も盛んな時点」(後に「それを少し過ぎた時点」に転じた)を指す。ここは「感興の限り」の意でよい。

「この年」となると、文永七(一二七〇)年になるが、誤りで、元使として趙良弼らがモンゴル帝国への服属を命じる国書を携えて百人余りを引き連れて到来したのは、翌文永八年の九月十九日である。なお、これは既に五回目の使節団(前章の私の「菅原宰相長成」の注を参照)であり、そこを筆者は完全に省略してしまっているために、前条から見ると二度目のように見えてしまう。二度目から四度目の使節団とそれに対する幕府の処置については、ウィキの「元寇」を参照されたい。

「趙良弼」(一二一七年~一二八六年)は元のジュルチン族(女真人)出身の官僚。ィキの「趙良弼」によれば、『字は輔之。父は趙、母は女真人名門出身の蒲察氏で、その次男。本姓は朮要甲で、その一族は金に仕え、山本光朗によれば現代の極東ロシア沿海地方ウスリースク近辺に居住していたと考察されている。曾祖父の趙祚は金の鎮国大将軍で』、一一四二年『からの猛安・謀克の華北への集団移住の前後に、趙州賛皇県(河北省石家荘市)に移住した。漢人住民に「朮要甲Chu yao chia)」を似た発音の「趙家(Zhao jia)」と聞き間違えられたことから、趙姓を名乗るようになったとされる』。『金の対モンゴル抵抗戦では』、一二二六年から一二三二年の間に『趙良弼の父・兄・甥・従兄の』四人が戦死、『戦火を避けて母と共に放浪した。金の滅亡後』、十三『世紀のモンゴル帝国で唯一行われた』一二三八年の『選考(戊戌選試)に及第し、趙州教授となる』。一二五一年には『クビライの幕下へ推挙された』。『クビライの一時的失脚の時期には、廉希憲と商挺の下で陝西宣撫司の参議とな』るが、一二六〇年、『クビライに即位を勧め、再び陝西四川宣撫司の参議となる。渾都海の反乱では、汪惟正、劉黒馬と協議の上で関係者を処刑した。廉希憲と商挺はクビライの許可もなく処断したことを恐れ、謝罪の使者を出したが、趙良弼は使者に「全ての責任は自分にある」との書状を渡し、クビライはこの件での追及はしなかった。廉希憲と商挺が謀反を企んだと虚偽の告訴を受けた時には、その証人として告発者から指名されたが、激怒して恫喝するクビライに対してあくまでも』二人の忠節を訴えて『疑念を晴らし、告発者は処刑され』ている。一二七〇年に『高麗に置かれた屯田の経略使となり、日本への服属を命じる使節が失敗していることに対して、自らが使節となることをクビライに請い、それにあたり秘書監に任命された。この時、戦死した父兄』四人の『記念碑を建てることを願って許可されている』。ここに出る日本への五度目の使節団として大宰府へ来たり、四ヶ月ほど滞在し、返書は得られなかったものの、大宰府では返書の代わりとして、取り敢えず、日本人の使節団がクビライの下へと派遣することを決し、趙良弼もまた、この日本使らとともに帰還の途に就いている(この十二名から成る(「元史」の「日本傳」では二十六名)日本側の大宰府使節団は文永九(一二七二)年一月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問したが、元側は彼らの意図を元の保有する軍備の偵察と断じ、クビライは謁見を許さず、同じく再び高麗を経由して四月に帰国している。ここはウィキの「元寇」に拠る)。一二七二年には第六回目の『使節として再び日本に来訪し』、一年ほど『滞在の後』、帰国、この時、『クビライへ日本の国情を詳細に報告し、更に「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきが良いでしょう」と日本侵攻に反対し』ている。彼は『宋滅亡後の江南人の人材育成と採用も進言している』。一二八二年に病いで隠居、四年後に亡くなった。

「博多(はかたの)彌四郎」あたかも、この男一人が趙良弼に従って渡元してフビライに会見したかのように書いてあるが、大間違いである。前注に示した通り、この時は大宰府から日本人使節団が送られたのであり(但し、そこに博多弥四郎なり者がいなかったかどうかは断言出来ない)、ここにも混乱がある。これは思うに、第三回と第四回の元側の使節団に関わった日本人と混同している可能性が高い。ウィキの「元寇」を見ると、第三回は文永六(一二六九)年で、正使は第一回と同じヒズル(黒的)とし、高麗人の起居舎人潘阜らの案内で、総勢七十五名の使節団が対馬に上陸したものの、使節らは日本側から拒まれたため、対馬から先に進むことが出来ず、日本側と喧嘩になった際に、対馬の島民であった「塔二郎」と「弥二郎」という二名を捕らえ、これらとともにに帰還している。『クビライは、使節団が日本人を連れて帰ってきたことに大いに喜び、塔二郎と弥二郎に「汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ」と述べた』。『クビライは塔二郎と弥二郎に、多くの宝物を下賜し、クビライの宮殿を観覧させたという』(下線やぶちゃん)。『宮殿を目の当たりにした二人は「臣ら、かつて天堂・仏刹ありと聞いていましたが、まさにこれのことをいうのでしょう」と感嘆した』と言い、『これを聞いたクビライは喜び、二人を首都・燕京(後の大都)の万寿山の玉殿や諸々の城も観覧させたという』。そして、元側の第四回使節団は、文永六(一二六九)年の九月に、まさにその捕えた「塔二郎」と「弥二郎」らを、首都燕京(後の大都)から『護送する名目で使者として高麗人の金有成・高柔らの使節が大宰府守護所に到来』、『今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した』とあるからである。この「北條九代記」の「彌四郎」と、この「彌二郎」、如何にも似ている名ではないか? 書かれてある「蒙古の王、既に彌四郎に對面し、通事(つうじ)を以て、樣樣、問答し、種々に饗(もてな)しつ〻、寶物(はふもつ)を與へて日本に送歸(おくりかへ)す」という内容と事実が合致してもいるのである。

「北條重時には孫武藏守長時の二男、治部大輔義宗、鎌倉より上洛し、六波羅の北の方に居て式部大輔時輔と兩六波羅となり、西國の事を取行(とりおこな)ひけり」これは、かの「二月騒動」の直前で文永八(一二七一)年十一月二十七日のことである。冒頭は、かの連署を勤めた故「北條重時には(=からは)孫」に当たるところの、の意。北条「義宗」(建長五(一二五三)年~建治三(一二七七)年)は第六代執権北条長時嫡男で赤橋流北条氏第二代当主。ここに出る通り、二月騒動の京方での征討を任されて、美事に時輔方を滅ぼした。ちなみにこの二月騒動の年に嫡子の久時が生まれており、五年後の建治二(一二七六)年)には鎌倉に戻り、翌年、評定衆に任ぜられるたが、その直後に享年二十五の若さで没している。

「櫛(くし)の子(こ)を引くが如く」「子」は「歯」に同じい。櫛の歯は一つ一つ、何度も何度も鋸で挽いて作るところから、物事が絶え間なく続くことの喩えである。

「九國二島(じとう)」九州及び壱岐・対馬の二島。

「纖芥(しんがい)」細かな芥(ごみ)。転じて、「ごく僅かな」ことの喩え。

「天下の政理(せいり)好惡(かうあく)の沙汰、更に口外に出す者なし」天下の正しき御政道について、その良し悪しを論(あげつら)うような議論をする者は、これ、一人としていなかった。

「狼藉亡命の輩(やから)」乱暴狼藉を働いた不届き者や、ある種の乱や犯罪或いは生活上の困窮などから、本来の一族や支配地から抜け、逃亡した者ども。

「賴(たより)なく」頼りとするような者もおらず。

「借す」「貸す」。江戸時代まで「貸借」の両字は互換性があった。

「在々所々」あちらでもこちらでも。どこでも。

「萬戸(ばんこ)」総ての家屋屋敷。

「樞(とぼそ)を閉ぢず」枢(くるる)を落して戸締りなどする必要がないほどの安全であることを言う。

「女、童(わらは)、商人(あきんど)までも」か弱い女子どもは勿論、大金を持っている商人に対しても。

「手を指す者」悪事をせんと手を出す者。

「淳朴厚篤」かざりけがなく素直であり、人情にあつく誠実なこと。

「同九年正月に、惟康、從二位に叙せられ、中將は元の如し」文永九(一二七二)年一月五日。

「同二月十五日、鎌倉より早馬を立てて、六波羅の北の方、北條義宗の許へ告來(つげきた)る事あり」既に述べた通り、実はこの四日前の二月十一日に、まず鎌倉で名越時章・教時兄弟が得宗被官である四方田時綱ら御内人によって誅殺され、前将軍宗尊親王側近の中御門実隆のお召しが禁ぜられて事実上の軟禁となった。そこから時宗は早馬を仕立て前年末に六波羅探題北方に就任していた北条義宗に対し、同南方の北条時輔の討伐命令が下されたのである。

「中間原(ちうげんばら)」身分の低い家来ども。雜兵(ぞうひょう)ら。「ばら」は「輩」で、人を表わす語に付いて二人以上同類がいることを示す複数形の接尾語。

「周章彷徨(あはてうろた)へ」四字へのルビ。

「物具(もの〻ぐ)取りて差向ふまでもなく」武器を執って攻めてきた者らに立ち向かう余裕もまるでなく。

「手間も入らず」瞬く間に。

「今は左(さ)もあれ、この後、又如何なる事かあるべき」「今現在は、かくもあっと言う間に方がついて静かにはなったれど、この後(あと)、また、一体、どんな兵乱が起こるのであろうか?」。民草の恐れ戦く心内語である。

「足を翹(つまだ)て」爪先立って。これからずっと先をおっかなびっくり覗くような姿勢、心が不安定で穏やかでないことを譬えるのであろう。

「忽に」「たちまちに」。

「左近〔の〕大夫公時」北条(名越)公時(嘉禎元(一二三五)年~永仁二(一二九五)年)は年生まれ。二月騒動で誅殺された名越時章(ときあきら)の子。弓と鞠に優れ、御鞠奉行となり、文永二(一二六五)年には引付衆となっていた。この時、父と叔父教時が時宗方に討たれたが、この公時は叛意なしと認められて縁座を免れ、しかも翌年には評定衆に昇り、その後も引付頭人・執奏を勤めているから、以下の「一人も泄(もら)さず討取(うちと)つたり」は嘘。恐らく筆者は父時章と誤認したのであろう

「中務〔の〕大輔教時」既出既注

「落居(らくきよ)」落着。

「鬼(き)」悪しき企みを罰せずにはおかぬ恐ろしい鬼神。

「運を計り、命を待つ」自己に与えられた運命を冷静に認識し、且つ、天命を心穏やかにして待つ。

「中御門〔の〕左中將實隆」前将軍宗尊親王の側近。それ以外の事蹟は不詳。ここ以下のロケーションは京都。

「その方樣(かたさま)の人」実隆の一家の者たち。

「武家の人々」幕府方。

「何程の事かあるべき」何をしたというほどのこともなく、また、そのような権力や人脈も持ち備えている大物でもなかろうからに。

「宥免(いうめん)」赦免。]

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