谷の響 三の卷 十三 大躑躅
十三 大躑躅
小皿澤と言は同じく湯口村の山中なり。この土(ところ)にいと大きなる岩榴(つゝじ)ありて、又世に稀なるすぐれし物なり。その根株二(ふた)かゝへに近けれど、高くものびずして地の上にはびこれるが、その地につくところみな根を生じて、中※(なかころ)より兩叉(ふたまた)となり、その片枝は大低(おほかた)六七間もあるべく、枝葉いやしげりて十四五間にふさがれるその形樣(かたち)たいらかにしてあたかも笠をふせたるがことく、花の頃はいと見事なりとぞ。さるに往ぬる嘉永五子の年のことのよし、何れのもの共にか有りけん、情(こゝろ)なくもこれがかた枝を六七人して背負たれども猶餘れりとなり。山下の者ともいたくこれをおしみ、鳥居を建たりと聞しかど今は奈何(いか)になりしにやと、山掙(かせぎ)を業とする辰と勘太郎といへる二人のもの、この三條(みくだり)を語りしなり。[やぶちゃん字注:「※」=「木」+「萠」。]
[やぶちゃん注:「大躑躅」この大きな躑躅(双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属
Rhododendron)は現存しない模様。種としては本邦の野生のツツジとしては最も広汎に分布するツツジ属ヤマツツジ
Rhododendron kaempferi を同定候補の一つとして挙げておく。しかしこれ、実在した巨大なツツジ(群:一株から恰もストロンのように増えていると明記されてあるのであるが、ちょっと信じ難い。これは一個体ではなく、複数個体が一ヶ所に錯雑して生えているものと考えるべきであろう)であるならば、時代的に見ても伝承や鳥居の痕跡などが残ってるはずである。地の方の情報提供を切に乞う。
「小皿澤」不詳。地の方の情報提供を切に乞う。
「同じく」前条「十二 ネケウ」を受ける。
「湯口村」前条の注を再掲する。底本の森山氏の補註に『相馬村湯口(ゆぐち)。藩政時代以前からの古村である』とある。現在は弘前市大字湯口。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「岩榴(つゝじ)」不審。これは「石榴」で私の好きなフトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ
Punica granatum を指す。ただ、「榴」はザクロの実(花托の変形したもの)やその果肉(仮種皮)が赤いことから、「榴」で「赤色系の対象物全般」の意としても用いられるようになり、また「躑躅」の漢字が異様に複雑で書きにくいことから、「榴」を「つつじ」に転用、地名などでも、例えば「榴岡(つつじがおか)」(現在の宮城県仙台市宮城野区の行政地区名)のように普通に用いられている。なお、私はこの漢字表記から、或いはこれは「いわつつじ」(岩躑躅)と称されることが多い、ツツジ属ミツバツツジ
Rhododendron dilatatum なのではないかとも考えたが、同種は温帯性らしく、本邦では関東地方から近畿地方東部の太平洋側に分布するとあるから(ウィキの「ミツバツツジ」による。但し、調べてみると鹿児島県にも分布している)、残念ながら、これは同定候補からは外れるか。
「六七間」十一メートルから十二メートル七十三センチメートル弱。
「十四五間」二十六メートルから二十七メートル二十七センチ。
「ふせたることく」ママ。「伏せたる如く」。
「嘉永五子の年」嘉永五年は壬子(みずのえね)でグレゴリオ暦一八五二年。
「情(こゝろ)なくもこれがかた枝を六七人して背負たれども猶餘れりとなり」これはただ遊びで担いでみたというのではなく、それを伐採して、担いで持ち去ったというのである。だからこそ、「山下の者」どもが「いたくこれをおし」んで、その盗掘した空き地に躑躅の精霊を祀るため、「鳥居を建」てた、というのである。不届きなる無風流者どもに天誅あれ!
「山掙(かせぎ)」「やまかせぎ」「かせぎ」は「掙」のみへのルビ。「掙」は「稼」(かせぐ)と同義。
「業」「わざ」或いは「なりわひ」と訓じていよう。
「三條(みくだり)」ここに至って、実は「十一 巨薔薇」と「十二 ネケウ」とこの条の三つ不思議に魅力的な植物綺譚(私はフローラ系は守備範囲でないが、この三条は実に好ましく、実景を見るようである。というか、この大きな薔薇の木、蛇のように遙かにうねって谷尾根を軽々と越えてゆく「ネケウ」という蔓、そしてこの精霊を宿したような大躑躅を見て見たかったのである)の情報提供者が同一で、この二人からであったことが明らかにされているのである。]