甲子夜話卷之三 6有德廟、大統を重んじ私親を顧み玉はざる事
3-6有德廟、大統を重んじ私親を顧み玉はざる事
德廟には御歷代の御忌日などは、至て重く御取扱ありて、御鷹など、其役の者遣ふこともならざりしとぞ。然るに享保十一年六月、淨圓院樣御逝去のとき、三十五日過させらるゝと、直に御鷹匠頭へ、御鷹仕込に組の者野先へ出すべしと仰出され、尤鷹の捕りたる雲雀差出すに及ばずとの命なりしとなり。大統を尊重し玉ひ、私親を顧み玉はざる盛慮かくの如の御事也。
■やぶちゃんの呟き
「有德廟」第八代将軍徳川吉宗。
「大統」「たいとう」ここは実質支配者であった徳川将軍の系統の意。
「私親」「ししん」と音読みしておく。プライベートな楽しみであろう。
「御歷代の御忌日」歴代の忌日は徳川家康が四月十七日、第二代秀忠は一月二十四日、第三代家光は四月二十日、第四代家綱は五月八日、第五代綱吉は一月十日、第六代家宣は十月十四日、第七代家継は七月三日である。
「御鷹など、其役の者遣ふこともならざりしとぞ」言わずもがな、殺生を忌んで、である。
「享保十一年六月」西暦一七二六年で同旧暦六月は一日がグレゴリオ暦六月三十日である。
「淨圓院」(明暦元(一六五五)年~享保十一年六月九日(一七二六年七月八日)は、紀州藩第二代藩主徳川光貞の側室で徳川吉宗の生母(俗名は由利・紋)。
「三十五日」五七日忌で、忌明けの「七七日忌」四十九日で十四日ある。何故、待てなかったのかを私なりに考えると、彼の先代の将軍の忌日は正月に二回、四月に二回、五月に一回で、この六月に前に集中している。しかも浄円院の忌明けは旧暦の八月十日(グレゴリオ暦九月五日)以降となり、直にすぐ家宣の忌日十月十四日がきてしまう。そうでなくても諸政務の隙を縫って狩場に出て鷹狩をするのは、必ずしも容易なことではなかったのではあるまいか。さすれば、好きな鷹狩がこの年は二月か三月に一度出来たか、或いはそれが出来なかったとすれば、前年後期から実に半年以上、鷹を飛ばせなかった可能性もある。そうした我慢しきれない感じが「三十五日過」ぎという中途半端なところで、堪えきれずに出ちゃったという感じが私にはするのであるが、如何? 因みに鷹狩は家康が好んだが、綱吉の代の「生類憐れみの令」によって行われなくなり、元禄九(一六九六)年十月には幕府の職制上の「鷹匠」さえも廃職となっている。それを享保元(一七一六)年八月に、この吉宗がやっと復活させたのでもあったのである。
「直に」「ただちに」。
「御鷹匠頭」「たかじやうがしら」。定員二名で千石以上の旗本の世襲とされた。
「野先」「のづら」と訓じておく。
「尤」「もつとも」。
「鷹の捕りたる雲雀差出すに及ばず」やはり、忌中なれば、殺生戒を配慮したのである。
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