諸國百物語卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事
四 播州姫路の城ばけ物の事
はりまひめぢの城主秀勝、ある夜のつれづれに家中をあつめ、
「このしろの五重めに、よなよな、火をとぼす。だれにてもあれ、見てまいるものあらんや」
との給へば、御うけ申すもの、一人もなし。こゝに、生年十八になるさむらい、
「それがし、見てまいらん」
と申し上る。
「しからば、しるしをとらせん」
とて、提燈を下されて、
「あの火を、これにとぼしてまいれ」
とあり。かのさむらい、ちやうちんをもち、天守にあがりてみれば、としのころ、十七、八なる女らう、十二ひとへをきて、火をとぼし、たゞ一人ゐ給ふが、かのさぶらひをみて、
「なんぢは、なにとて、こゝへ、きたるぞ」
と、とひ給ふ。かのさぶらひ、
「われは主人のおほせにて是れまできたり候ふ。その火をこれへ、とぼして給はり候へ」といへば、女らう、きゝ給ひ、
「しうめいとあれば、ゆるしてとらせん」
とて、火をとぼして給はりければ、さぶらひ、うれしくおもひてかへりけるに、三重めにてこの火、きへける。又、たちかへりて、
「とてもの事に、きへ申さぬやうに、とぼして給はれ」
といへば、女らう、らうそくとりかへ、とぼし給はる。又、ほかにしるしにせよ、とて櫛(くし)をかたし給はりける。さぶらひ、よろこび、たちかへり、ちやうちんの火をさしあげゝれば、秀勝も、きどくに覺しめし、さて、この火をけして御らんずるに、さらにきへず。かのさぶらひ、けしければ、きへける。
「さて、ほかにふしぎは、なかりけるか」
と、御たづねありければ、かの櫛をとりいだす。秀勝、とりあげ見給へば、具足櫃(ぐそくびつ)にいれをき給ふ櫛也。ふしぎにおぼしめし、ぐそくびつをあけみ給へば、一對入れをき給ひし櫛、かたし、みへざりしと也。さて、それより、秀勝、ぢきに行きてみんとて、たゞ一人、天守にあがり給へば、ともしびばかりにて、なに物も、みへず。しばらくありて、いつもの座頭、きたる。
「何とてきたるぞ」
とゝい給へば、
「御さびしく候はんとぞんじまいり候ふが、琴の爪ばこのふた、とれ申さず候ふ」
と申し上る。秀勝、きゝ給ひ、
「これへよこせ、あけてとらせん」
とて、爪ばこを手にとられければ、手にとりつきて、はなれず。
「くちをしや、たばかられける」
とて、足にてふみわらんとし給へば、足も取りつきける。さて、かの座頭は、そのたけ一丈ほどなる鬼神となり、
「われはこのしろの主也。われをおろそかにして、たつとまずんば、たゞ今、ひきさきころさん」
といひければ、秀勝、さまざまかうさんせられけるゆへ、爪ばこもはなれ、ほどなく、その夜もあけにける。天守の五重めかとおもわれしが、いつもの御座のまにてありしと也。
[やぶちゃん注:話柄後半の手足が爪箱に附着して離れなくなるというのは、「卷之三 一伊賀の國にて天狗座頭にばけたる事」と同工異曲。ここにきて、やや種切れか。
「はりまひめぢの城主秀勝」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では、姫路城(別名・白鷺城)の近世初期の城主姓(池田・本多・奥平)を簡単に述べた後、『その中に秀勝という名の人物はいない。本多氏の最後の城主、本多政勝は寛永十五年』(年)『に城主となり、わずか半年、翌十六年に大和郡山に国替えとなった。この人がモデルか』とする。本多政勝(慶長一九(一六一四)年~寛文一一(一六七一)年)はウィキの「本多政勝」によれば、播磨姫路新田藩第三代藩主・播磨姫路藩第三代藩主・大和郡山藩初代藩主で『「鬼内記」「大内記」などの異名を持つ豪勇の士であったという』。慶長二〇(一六一五)年、『上総大多喜藩主だった父の忠朝が大坂夏の陣で戦死したときはまだ』二『歳だったため、従兄の政朝が家督を継ぐこととなった。ところが本家を継ぐはずだった政朝の兄の忠刻が早世したため、政朝がその跡を継ぐこととなり、政勝が庶流の家督を継ぐことになった』が、後の寛永一四(一六三七)年には、『今度はその政朝が病に倒れた。政朝の息子に政長がいたが、本多氏は幼少の子を当主としてはならないという忠勝以来の掟があった。そのため、従弟に当たる政勝に本家の家督を譲り、政長が成長したら』、『家督を譲るようにと遺言を遺して死去した。こうして本家の家督を継いだ政勝は、翌年には松平忠明と入れ替わりで大和郡山に移封された』。ところが、『年が経つにつれて、政勝は養子の政長より実子の政利に譲りたいと画策し始めたため、これが後の』九・六騒動(政勝・政利父子は時の大老酒井忠清に取り入り、自らが家督を継ごうと画策し始め、これを見た本多家家臣都築惣左衛門が政勝に対し、一刻も早く家督を政長に譲るように要請、政勝はしぶしぶ政長を養嗣子と定めたが、政利の家督への野望は断ち切れず、政勝が死去すると、即座に酒井忠清に取り入って裏工作を行なった。その結果、幕府の裁定によって所領十五万石の内、九万石を政長が、残り六万石を政利が継ぐようにと命じた。騒動の名称はこの分知された石高に基づく)の遠因となった。寛文元(一六七一)年十月『晦日、江戸柳原屋敷にて死去した』。享年五十八。以上補注した通り、『死後、本多氏は家督をめぐって二分して争うこととなった』。
「女らう」「女﨟」。
「十二ひとへ」「十二單衣」。
「とてもの事」どうせ、同じことをなさるのなら。いっそのこと。
「ほかにしるしにせよ」「(点灯することの)他に、ここへ参った証しとするがよい。」。ただの点灯なら、こっそり何処かへ行って火を点けることが可能だから、如何にもこの変化(へんげ)の物の怪、おせっかいで、若侍に対して、まるでおっ母さんっぽい。或いは、この青年がいたく気に入ったものかとも思われる。
「かたし」「片足」「片し」で発音は「かたあし」の転訛。対になっているものの片方。
「きどく」「奇特」。行いが感心・健気・殊勝なさま。
「具足櫃(ぐそくびつ)」甲冑を入れる箱。
「櫛」兜を被るには邪魔になるので髻(もとどり)は結わなかったから、休戦等に於いて髪を整えるのに櫛が必要であった。
「いつもの座頭」秀勝が普段、召し使っている座頭。所謂、平家琵琶や琴などを弾じたり、詠じたりするお雇いの芸能者である。しかし、彼がこのようなところに突如、現われること自体を不思議と思わねばならぬのに、この秀勝の対応は、大呆けをカマまして、却って滑稽で、面白い。
「琴の爪ばこのふた」琴を弾くための爪を入れておく小匣(こばこ)の蓋。
「一丈ほど」三メートルもある。
「かうさん」「降參」。
「天守の五重めかとおもわれしが、いつもの御座のまにてありしと也」このエンディングは上手い。独りきょとんとした秀勝がだあれもいないだだっ広い御座所にぽつんといるのに気づくというコーダが、これまた、ダメ押しですこぶる面白い。]