甲子夜話卷之三 5 福岡侯藏、明帝の畫
3-5 福岡侯藏、明帝の畫
林氏云ふ。福岡侯の招にて行たりしとき、小坐敷の床に掛たる横披の小幅、明帝の畫にて、殊に見事なり。狗子大小二つを繪き、幅上の中央に、
かく落款せり。珍らしく覺へしと語りき。
■やぶちゃんの呟き
底本の「甲子夜話」最初の挿画(底本よりトリミングして掲げた)。以下に画像の記載文字を電子化しておく。
御筆 印文ハ廣運之宝トアリ
宣德丙午
此六字御筆ト見へタリ。
●「宣德丙午」「宣德」は明朝の第五代皇帝宣徳帝(一三九九年~一四三五年:在位:一四二五年六月~一四三五年:諱・瞻基(せんき)/廟号・宣宗)の治世最後の元号で、「宣德丙午」は宣徳元年、ユリウス暦一四二六年に相当する。
●「廣運之宝」は中国皇帝が使うものとして代々伝わる伝統的な印の一つ。サイト「考古学用語辞典」のこちらで印の外形と印形(いんぎょう)を視認出来る。そこには画像の解説文があり、サイズが示された上で、本来の使用法は『称号や地位を与える時に認証を行うもの』とある。ここではそれを祝賀の子犬の絵の落款として使用しているらしい。或いは、そうした官位称号を与えた際の添え物として明帝が絵をも認めたものかも知れぬ。
「福岡侯」静山の同時代とすると、筑前国福岡藩第十代藩主で蘭癖大名の一人として知られる黒田斉清(なりきよ 寛政七(一七九五)年~嘉永四(一八五一)年)か。
「林氏」複数既出既注であるが、巻三の初出なので再掲する。儒学者林大学頭(だいがくのかみ:昌平坂学問所長官。元禄四(一六九一)年に第四代林信篤(鳳岡(ほうこう))が任命されて以来、代々林家が世襲した)述斎(はやし
じゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。羅山を始祖とする林家(りんけ)第八代当主。父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)。述斎は号の一つ。晩年は「大内記」と称した。ウィキの「林述斎」によれば、寛政五(一七九三)年に林家第七代『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。松浦静山に本「甲子夜話」の執筆を勧めたのは、親しかったこの林述斎であった。静山より八つ年下。
「横披」「よこびらき」。
「狗子」「いぬのこ」。
「繪き」「ゑがき」。
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