谷の響 四の卷 十六 肛門不開
十六 肛門不開
又、この成田の話に鍛冶町の某といへるものゝ娘、肛門なくして兩便とも前陰より出るとなり。今に世にある人にて、交りし者の語れるとなり。又、この人の知合某なる人、天保のはじめ一男兒をうめり。こも肛門なくして兩便陰莖より出けるから、醫師を請ふて肛門をひらかしむれど、兩三日をすぐればまたとぢてしるしをなさず、つひに二年ばかりにして死せりとなり。
[やぶちゃん注:前話「十五 半男女」の提供者と同じで、やはりまたしても連関の強い下ネタである(特に第一例)。
まず、前話で注した通り、ここに出るのは「鎖肛(さこう)」或いは「直腸肛門奇形」と呼ぶ先天性疾患の一つで、やはり先に引いた「日本小児外科学会」公式サイト内のタイトル「鎖肛(直腸肛門奇形)」を見ると(総てのページでリンクも引用も事前連絡を要求しているのでリンクも直引用も行わない。タイトルで検索されたい。図もあって分かり易い。一部は前話注とダブらせてある)、思ったよりも発生頻度は高く、新生児の数千人に一人位の割合で発生し、消化管に関わる先天性異常の中では最も多い疾患であり、生後約一ヶ月までの新生児期に緊急手術も必要になる病気とする。直腸や肛門は胎児初期に於いては膀胱等の泌尿器系と繋がって一つの「腔」を形成しているが、妊娠二ヶ月半頃までにそれぞれが各器官に分化して発育形成され、女児の場合は分離した直腸と尿路の間に膣や子宮が垂下してくるのであるが、この発生途中で異常が生じると、女児では直腸と子宮や膣との間に繋がった通路(瘻孔(ろうこう))が生じることがあると記す。ここで、この娘の証言が真実であるとすれば、この第一例の娘の状態と、疾患的には一部は一致する(小児科学会の記載は膀胱や尿道は挙げていないが、尿道と膣はごく接近しており、先天的奇形疾患としてここにも瘻孔形成があったとしても不自然とは思われない)。
但し、第一例のような尿道と膣と肛門が完全癒着して、鳥類のような一つの総排泄腔となるような奇形が仮にあったとしても、その女児が何事もなく成人し、しかも性交渉まで可能であるというのはどうも不審なのである。百歩譲ってそうした重度の奇形が実際にあったとしても、第二例のように幼少で死亡してしまう(便は雑菌が多く、二次的な感染症を惹起し易いし、瘻孔の位置によっては、子宮や膣に重大なダメージや疾患を引き起こしかねないのではないか?)のではあるまいかとも私には思われるのである。
しかもこの話、その娘本人が、ある時、肉体関係を持った男にあからさまに語った、とする如何にもな噂話なのであって、これ、いわば、典型的にして常套的なアーバン・レジェンド(都市伝説)の構造に酷似し、事実では実はないのではないかと私には深く疑われるものなのである。
ただ、第二例の男児のケースは、高位型(膀胱の後部までしか直腸が来ていない)或いは中間位型(尿道後部まで直腸が来ている)と呼ばれる「鎖肛(直腸肛門奇形)」で、それぞれが膀胱或いは尿道が直腸と瘻孔を形成している実際の症例記載と考えられる。その場合、本文に出る通り、実際に大便は陰茎から排泄されるのである。
「鍛冶町」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「某といへるものゝ娘」ここまで出せば、この娘、ある程度までは候補を限定出来よう。少なくとも「あの娘かも」といった噂は直きに出来上がる。とすれば、これは彼女に振られた男が遺恨を持って流した、根も葉もない流言、極めて悪質なセクシャル・ハラスメントとも考え得るのである。
「知合」「しりあひ」。
「天保のはじめ」天保は一八三〇年から一八四四年。
「兩三日」「りやうさんにち(りょうさんにち)」と読む(或いは「にち」は「じつ」)。二日か三日。これは正常位置の肛門辺りから乱暴に切開して直腸を穿孔するのであろうから、傷口が塞がるようなもので、癒着も起こり、直腸に穴を開ける以上、より重度の感染症や組織壊死を引き起こすから、この施術を複数回行ったとするなら、この子、二年ももったこと自体、奇跡と言えよう。]