甲子夜話卷之二 53 深川の妓樓に往し舟、品海に漂出る事 ~ 甲子夜話卷之二 了
2―53 深川の妓樓に往し舟、品海に漂出る事
或人云。某壯年の頃、輪王寺宮の近習を勤たりしが、同僚と俱に乘ㇾ舟て深川の妓樓に遊ぶ。折ふし雪降いでゝ止ざりければ、隅田の雪望せんとて、妓二三を携舟を發す。橫渠を過て大川に出、流に泝て行く。時に雪ますます降たれば、屋根舟の蔀を下し、絃歌し、或は拳を鬪はし、種々の興飮するに、隅田に抵ること遲く覺えたれば、一人ふと蔀を揚たるに、一孤舟渺茫たる海中に在り。いづれの處を辨ぜず。舟中の人皆驚駭失色し、妓は號泣す。舡人はいかにと見るに、雪にこゞへ水に溺たりと覺て在らず。皆ますます駭きて爲方を知らず。然ども止べきにあらざれば、人々互に櫓を搖し、千辛萬苦して舟やうやく岸に着ことを得たり。これ舡人溺死して舟自ら北風に吹かれ、退潮に引かれて、品川の海上に出たりしなり。着岸せしは行德の地なりと。可ㇾ笑可ㇾ懼の話なり。
■やぶちゃんの呟き
これを以って「甲子夜話卷之二」は終わる。
「往し」「ゆきし」。
「品海」「しなのうみ」。品川の海。
「漂出る」「ただよひいでる」。
「某」「それがし」。
「輪王寺宮」「りんわうじのみや(りんのうじのみや)」と読む。日光の輪王寺の門跡。ウィキの「輪王寺」によれば、明暦元(一六五五)年に後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の第』三皇子であった『守澄法親王が入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称された。親子による世襲ではないが』、『宮家として認識されていた。寛永寺門跡と天台座主を兼務したため』、『「三山管領宮」とも言う。のちに還俗して北白川宮能久親王となる公現法親王も、輪王寺門跡の出身である。輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていた。東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある』とある(下線やぶちゃん)。
「乘ㇾ舟て」「舟に乘りて」。
「降いで」「ふりいで」。降り出して。
「止ざりければ」「やまざりければ」。
「雪望せん」「ゆきみせん」。
「携」「たづさへ」。連れて。
「舟」降雪中であるから、船頭合わせて六、七人以上となれば、相応の柱掛を配した屋根を持った屋形船風の中型のものである。後で「屋根舟の蔀」(しとみ:蔀戸。格子を組んで間に板をはさんだ戸。日光・風雨を遮るための遮蔽物)「を下」(おろ)「し、絃歌し、或は拳」(けん:拳遊び。恐らくは数(かず)拳で、二人が互いに片手の指で数を示すと同時に双方の出した数の合計を言い、当たった方が勝ちとする大人の遊び)「を鬪はし、種々の興飮」(「きよういん(きょういん)」と音読みしておく。遊戯・音曲に興じ、酒肴に耽り盛んに飲むこと)「する」とあるから、相当の大きさがなくてはならない。
「橫渠」「よこぼり」。横十間(よこじっけん)堀のこと。現在の東京都墨田区及び江東区を流れる運河である横十間川の古称。深川の東方直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「流に泝て行く」「ながれにさかのぼりてゆく」。
「抵る」「いたる」。至る。堀(運河)を抜けて西の隅田川に突き当たる。
「揚たるに」「あげたるに」。
「舡人」「ふなびと」。「舡」は「船」と同義。
「雪にこゞへ水に溺たりと覺て在らず」「覺て」は「おぼえて」。雪に凍えて足を滑らして水中に落ち、溺れてしまったかと思われ、舟の舳にも艫にもおらぬ。
「駭きて」「おどろきて」。
「爲方」「せんかた」。
「然ども止べきにあらざれば」「しかれどもやむべきにあらざれば」。かといって、これで諦めてしまうわけにはゆかぬので。当たり前じゃん!
「搖し」「ゆるがし」。
「千辛萬苦」「せんしんばんく」様々の苦労をすること、非常に多くの難儀や苦しみ。
「着」「つく」。
「退潮」「ひきしほ」。
「行德」現在の千葉県市川市行徳(ぎょうとく:グーグル・マップ・データ)。品川沖を現在のお台場辺りとするならば、行徳は東北東十五キロメートルはある。引き潮の中で、江戸湾を西に行くには相当な労力がかかったであろう。
「可ㇾ笑可ㇾ懼の話」「わらふべくおそるべきのはなし」。
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