谷の響 二の卷 十七 兩頭蛇
十七 兩頭蛇
古川子之丞といひし人、秋田大館の先に一疋の蛇の路の傍にあるを見るに、鳥蛇の文なして兩(ふたつ)の頭あり。眼口倶に常にひとしく、兩頭進みあひて處を去ること能はず。かゝりし時大館の家中一箇(ひとり)來りてこの蛇を見て、二條(ふたつ)にしてやらんと刀拔き、俄にいへりけるは、汝兩頭互に進みあひて食を求むるに切(せつ)なるべし、我今截(き)つて二段(ふたつ)になして遣はすべし。長短あるとて必ず恨むこと勿れと、眞中を切斷(たつ)て二條となしたるに、その蛇血を曳きながら左右の草莽(くさむら)に這ひ入りて見えずとなりぬ。
こは天保三年の四月、江戸より下りしときの縡(こと)なりとて、この子之丞の物語りなりき。世に兩頭の蛇の尾の方の頭は眼口なく、たゞ頭の形あるまでなりといへど、又かゝるものもあれば一樣にいふべきにあらず。
[やぶちゃん注:本条を以って「谷の響 二の卷」は終わる。
「兩頭蛇」一部のネット記載では、頭部の二重体奇形である双頭の蛇の生まれる確率は天文学的数値で極めて稀であるというようなことが書かれているが、これは誤りである。リンク・クリックは自己責任として、私の好きなサイト「カラパイア」の「2つの頭を持つ、世界の双頭ヘビ写真特集」を見たら、それが大嘘であることが判る。天文学的という語は、まず、我々が生きている間に見られることは、まずない、ぐらいの謂いであるが、リンク先には、現代の直近の豊富な写真や動画があり、さらにそこには、『双頭のヘビの寿命は数ヶ月と言われているんだそうだけれど、一部2つの口が1つの胃にきちんとつながっているものは』、五~六『年以上も長生きするらしいよ』とも書かれている。私もそう思う。
「古川子之丞」「ふるかはねのじよう(ふるかわねのじょう)」と読んでおく。
「秋田大館」現在の秋田県北部に位置する大館市(おおだてし)で、北境で青森県と接している。当時は久保田藩(秋田藩とも呼んだ)の領内である。藩庁は現在の秋田県秋田市千秋公園近辺にあった久保田城。
「烏蛇」気性の荒い無毒蛇シマヘビ(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata)の黒化型(メラニスティック)個体と断定してよい。ウィキの「シマヘビ」によれば、『黒化型(メラニスティック)もいて、「カラスヘビ」(烏蛇)と呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあり、『主に耕地や河川敷に住み、草原や森林にも住む。危険を感じると尾を激しく振るわせ、地面を叩いて威嚇す』行動をとり、『あまり木に登らず、地表を素早く動く』。『本種はアオダイショウ、ヤマカガシとともに、日本国内の農村でよく見られるヘビである。シマヘビの食性はヤマカガシよりも幅広いが、やはり主にカエル類を主食とするため、稲作の発達と共にカエルの分布が拡大し、それに伴い本種の生息範囲も広がった。木に登ることがほとんどなく、地表を這い回るため、交通事故に遭いやすく、生息域が道路や塀などで分断されてしまうとそれを越えることができなくなり、現在では都市の周辺では見かけなくなってきている』。『性質には個体差はあるものの、アオダイショウやヤマカガシに比べると神経質で攻撃的な個体が多いとされる。また、無毒ではあるが、歯は鋭く、咬まれると痛い。他のヘビに比べ動きも素早く、油断すると危険。口内から破傷風菌が検出されたとの報告もあるので、咬まれたら』、『患部を水でよく洗い、消毒すること』が肝要である、とある。なお、本属の和名「ナメラ」は学名の音写ではなく(属名“Elaphe”は音写すると「エラフェ」)、純粋な和称で、この属の鱗の特徴である「滑(なめ)」らかな甲「羅(ら)」の意味(「甲羅」の「羅」は鱗の意の外、「表面」の意もある)である。眉唾と思われる方は、どうぞ、ウィキの「ナメラ属」の解説をご覧あれかし。
「文」「もん」。紋。模様。
「天保三年の四月」一八三三年。同年の旧暦四月がグレゴリオ暦では四月一日が五月一日に当たる。
「江戸より下りしとき」弘前藩は江戸から下って津軽に戻る際には、秋田の久保田藩領内を通過する羽州街道を使うのが通例であった。]
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