北條九代記 卷第十 蒙古牒書を日本に送る
○蒙古牒書を日本に送る
文永五年十二月、京都富小路(とみのこうぢ)新院の御所にして、一院五十の御賀あり。伶人、舞樂を奏し、終日の經營、善、盡し、美、盡せり。軈(やが)て御飾(おんかざり)を落し給ひ、法皇の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ふ。この比(ころ)、六合(りくがふ)、風、治(おさま)り、四海、浪、靜(しづか)にして、萬民淳化(じゆくわ)の惠(めぐみ)に歸して、京都邊鄙(へんぴ)、悉(ことごと)く太平の聲、洋々たり。一院、新院、今は叡慮も穩(おだやか)にて、姑射仙洞(こやせんとう)の綠蘿(りよくら)を分けて、洛中洛外の御幸(ごかう)、鳳車(ほうしや)の碾(きし)る音までも治(をさま)る御世(みよ)の例(ためし)とて、最(いと)徐(ゆるやか)にぞ聞えける。
斯る所に、蒙古大元の、狀書を日本に送り、筑紫の宰府(さいふ)に著岸(ちやくがん)す。卽ち、關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる。當今(たうぎん)、勅を下し、菅原(すがはらの)宰相長成(ながなり)に返簡(へんかん)を書(か〻)しめ、世尊寺(せそんじの)經朝(つねもとの)卿(きやう)、是を淸書す。然れども武家内談の評定あり。蒙古の書面、頗る無禮なりとて、返狀に及(およば)れず。昔、隋の大業三年に、日本朝貢(てうこう)の使者、国書を擎(さ〻)げて來れり、其文章に、「日出處(にちしゆつしよの)天子無ㇾ恙(つつがなき)耶(や)。日沒處(にちもつしよの)天子致ㇾ書(しよをいたす)」とあり。天皇、御覽(みそなは)れ給ひて、「天に二(ふたつ)の日なく、國に二の王なし。日沒處の天子とは何者そや」とて大に無禮を咎め給ひけり。今蒙古の狀書にも又、是、無禮の文章あり。返狀に及ばざる、誠に理(ことわり)ぞ、と聞えける。
[やぶちゃん注:特異的に二段に分けた。なお、前段は以下に示す通り、実際には行われていないことを見て来たかのように綴っている、本書でも痛恨の大きな瑕疵部分であり、後半も何だか、ヘンだぞ!(後注参照)
「牒書」「てふしよ(ちょうしょ)」本邦ではかつての奈良・平安時代には官府間に交わされる往復文書を指したが、ここは正式な返答を求めた(国外からの)公式文書の謂いである。
「文永五年」ユリウス暦一二六八年。
「京都富小路」
「新院」後深草院。
「一院五十の御賀あり」この後の「一院」後嵯峨院五十の慶賀のパートを筆者は「日本王代一覧」(慶安五(一六五二)年に成立した、若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めにより林羅山の息子林鵞峯によって編集された歴史書)及び「五代帝王物語」(鎌倉後期に書かれた編年体歴史物語。作者は未詳)によって記しているらしいが(湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)に拠る)、一九七九年教育社刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記(下)」には、この部分の現代語訳の直下に、『(事実は蒙古の国書が伝えられたため行われなかった)』とある。
「軈(やが)て」そのまま。まもなく。
「御飾(おんかざり)を落し給ひ、法皇の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ふ」あたかも、この五十の慶賀の式の場かその直後に出家し、法皇となったかのようにしか読めないが、これも誤りである。後嵯峨上皇はこれより(そもそもこの慶賀は行われていないのだから、こう書くこと自体が無意味なのであるが)二ヶ月前の文永五(一二六八)年十月に出家して法皇となっている。
「六合(りくがふ)」天と地と四方。天下。
「淳化(じゆくわ)」手厚く教え、感化すること。邪念を取り去ること。
「姑射仙洞(こやせんとう)」上皇・法皇の御所。仙洞御所。「姑射山」(こやさん)は元は中国で不老不死の仙人が住むという藐姑射(はこや)山のことを指した。「仙洞御所」というのは、それを語源とした長寿を言祝ぐ尊称なのである。
「緑蘿(りよくら)を分けて」色鮮やかな生き生きと繁茂する蔦を父子で仲良く分け合って。
「鳳車(ほうしや)」前出の増淵訳では、割注で『屋根の頂に金銅の鳳凰を付けた牛車』とある。ここは上皇や法皇がお出かけになる際に乗用されるそれを指す。
「碾(きし)る」「軋る」。
「筑紫の宰府(さいふ)に著岸す」増淵訳の割注によれば、筑紫の大宰府に元(高麗王経由で使者は高麗の役人潘阜ら。前章参照)からの書状が届いたのは同文永五(一二六八)年一月であった。
「關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる」めんどくさいルートであるが、仕方がない。
「當今(たうぎん)」当時の今上天皇である亀山天皇(後深草上皇の実弟であるが、父後嵯峨法皇が弟を寵愛、彼を「治天の君」としたことに実は強い不満を抱いていた。後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との、幕府の目論み通りの対立が生じる大元の端緒は実はここに始まっている)。
「筑紫の宰府(さいふ)に著岸す」増淵訳の割注によれば、筑紫の大宰府に元(高麗王経由で使者は高麗の役人潘阜ら。前章参照)からの書状が届いたのは同文永五(一二六八)年一月であった。
「關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる」めんどくさいルートであるが、仕方がない。
「當今(たうぎん)」当時の今上天皇である亀山天皇(後深草上皇の実弟であるが、父後嵯峨法皇が弟を寵愛、彼を「治天の君」としたことに実は強い不満を抱いていた。後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との、幕府の目論み通りの対立が生じる大元の端緒は実はここに始まっている)。
「菅原(すがはらの)宰相長成(ながなり)」菅原(高辻)長成(元久二(一二〇五)年~弘安四(一二八一)年)は文章博士・侍読などを務めた。一応、菅原道真の末裔である。なお、この後の第四回の使節団が来た際(文永六(一二六九)年九月)、彼が起草したモンゴル帝国への服属要求を拒否する返書案がウィキの「元寇」に現代語訳で載るので引いておく。
《引用開始》
「事情を案ずるに、蒙古の号は今まで聞いたことがない。(中略)そもそも貴国はかつて我が国と人物の往来は無かった。
本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の情は無い。ところが由緒を顧みずに、我が国に凶器を用いようとしている。
(中略)聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と(国書で)称していながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。
およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本今皇帝(亀山天皇)の日嗣を受けるに至るまで(中略)ゆえに天皇の国土を昔から神国と号すのである。
知をもって競えるものでなく、力をもって争うことも出来ない、唯一無二の存在である。よく考えよ」
《引用終了》
叙述から見て、「北條九代記」の筆者は、第一回の使節団と、この第四回を一緒くたにしているように私には感じられて仕方がない。
「返簡(へんかん)」返書。
「世尊寺(せそんじの)經朝(つねもとの)卿(きやう)」(建保三(一二一五)年~建治二(一二七六)年)は代々書家で名はせた世尊寺流九代の公卿で歌人。摂津守・左京権大夫などを経、正三位に至る。能書家として知られ、種々の書役を務めている。
「武家」鎌倉幕府。
「返狀に及れず」返書は幕府の意向で拒否することとしたのである。
「隋の大業三年」「大業」は「たいぎよう(たいぎょう)」で、隋の煬帝の治世の年号。西暦六〇七年。
「朝貢(てうこう)」外国人が来朝して朝廷に貢ぎ物を差し上げること。
「日出處(にちしゆつしよの)天子無ㇾ恙(つつがなき)耶(や)。日沒處(にちもつしよの)天子致ㇾ書(しよをいたす)」とあり。天皇。御覽(みそなは)れ給ひて、「天に二(ふたつ)の日なく、國に二の王なし。日沒處の天子とは何者そや」とて大に無禮を咎め給ひけり」先の湯浅氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、この後段部分も「日本王代一覧」「五代帝王物語」や「将軍記」(本書の筆者と目される浅井了意の作)に拠っているとされ、「八幡愚童訓」(鎌倉中後期に成立したと思われる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起)『(甲本)には、趙良弼が持参した牒状の内容が記されている』と注されてあるのだが(私は「八幡愚童訓」を所持しないので牒状の内容は確認出来ない)、この「北條九代記」記載、なんか? おかしくね? 逆だべよ! ウィキの「遣隋使」の「二回目」(まさに六〇七年)から引いておく。遣隋使の第二回は「日本書紀」に記載されており、推古一五(六〇七)年に『小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている』。『倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという』(下線やぶちゃん)。『なお、煬帝が立腹したのは俀王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方
日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている』。『小野妹子(中国名:蘇因高』『)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している』。『百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている』。『裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』に』以下のように、ある。
『「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」』
『「皇帝問倭皇 使人長吏大禮
蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境内安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉
稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』』。
『これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある』。『なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、
聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される』とある。「八幡愚童訓」を見る機会があれば、また加筆する。]