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2016/11/23

北條九代記 卷第十 宗尊親王御出家 付 薨去

 

      ○宗尊親王御出家  薨去

 

 將軍宗尊(そうそん)親王は、京都に還御ありけれども、關東幕府の職を止められ、非道邪曲の御行跡(ごかうせき)、重疊(ぢうでふ)し給ふ故なれば、後嵯峨上皇も、暫くは御對面の儀もおはしまさず。上皇よりの勅使として、中御門左少辨(させうべん)經任(つねたふ)を關東へ遣され、親王御上洛の御事を謝し給ふに、武家、別義、是なきに依(よつ)て、世の中、無事に治(をさま)りて、諸人安堵の思(おもひ)を致しけり。同年十月に、宗尊親王は、六波羅を出でて、承明門院の舊跡、土御門萬里小路(まてのこうぢ)の家に住み給ふ。幽(かすか)なる御有樣、往昔(そのかみ)にもあらず思召しけるが、同じき九年六月に御飾(おんかざり)を下(おろ)し給ふ。法名をば、覺惠(かくゑ)とぞ申し奉る。同十一年七月、御年三十三歳にして薨去し給ひけるとぞ聞えし。去ぬる建長四年より文永三年に到るまで、將軍の職十五年、一朝にして花散りて、威勢空(むなし)く地に落ちけるこそ、痛(いたは)しけれ。

 

[やぶちゃん注:「将軍記」「増鏡」七「北野の雪」(『東に、何事にか、煩しき事出できにたりとて、將軍 宗尊親王 七月八日、俄なるやうにて、御上りありけり。かねては、始めて御上りあらん時の儀式など、二なくめでたかるべき由をのみ聞きしに、思ひかけぬ程に、いとあやしき御有樣にて、御上りあり。御下りの折、六波羅の北の方に建てられたりし檜皮屋に、落ちつかせおはしましぬ。この頃、東に世の中おきてはからふ主は、相模の守時宗と、左京の権の大夫政村朝臣なり。時宗といふは、時賴朝臣の嫡子政村とは、ありし義時の四郎なり。京の南六波羅は、陸奥の守時茂、式部の大輔時輔とぞ聞ゆる』)「日本王代一覧」に基づく。なお、最後に再度述べておくが、本書では鎌倉幕府第六代征夷大将軍である宗尊親王(仁治三(一二四二)年~文永一一(一二七四)年:先の後嵯峨天皇第一皇子。母方の身分が低かったために皇位継承の望みはなかった。なお、彼は実は皇族で初めての征夷大将軍着任者であった)を一貫して「そうそん」と音読みし、現行の我々のように「むねたか」とは訓じていないが、前に述べた通り、音読みは本邦ではその人物への強い敬意を示すので、おかしくも何ともない。

「中御門左少辨(させうべん)經任」中御門経任(「つねただ」とも 天福元(一二三三)年~永仁五(一二九七)年)は後嵯峨上皇の有力な側近の一人で、若くして院の伝奏を務めた。参照したウィキの「中御門経任」によれば、弘長二(一二六二)年に左衛門権佐、『次いで右少弁も兼ねるが、当時の慣例では蔵人出身者が弁官に転じる順序であったところ、蔵人を経ずに直接右少弁に任ぜられたことから、当時の朝廷では、上皇の側近偏重人事であるとして物議を醸した』。なお、翌年には五位蔵人にも任ぜられて三事兼帯となっている。『その後も実務官僚として後嵯峨・亀山両院政で活躍し』、文永六(一二六九)年に『参議に昇進すると、その年から権中納言、従二位大宰権帥兼務と毎年のように昇進を重ねた』。建治三(一二七七)年、権大納言に昇進、弘安六(一二八三)年)に息子『為俊を右少弁に推挙して辞任し』ている。『彼の実務官僚としての才覚は抜群のものがあり』、弘安四(一二八一)年の『弘安の役直前という国家存亡の機に際しても、「敵国降伏」を祈念する勅使として伊勢神宮に派遣されている』。『ところが、その昇進の背景には後嵯峨上皇の寵愛とその後継者である亀山天皇の信任があったことでも分かるように、非常に強引なものであり』、『世間に多くの騒動を伴った。まず、左衛門権佐就任時には彼の異母兄・吉田経藤が官職を抜かされた屈辱から出家し、従二位叙位の際にも縁戚に当たる姉小路忠方が出世争いに敗れた衝撃からこれも出家、更に権大納言就任は四条隆顕(後深草院二条の叔父)を蹴落とす形であった』。さらに弘安九(一二八六)年に、『恩人である後嵯峨法皇が崩御した』が、『同じく寵臣であった北畠師親(親房の祖父)が出家したにもかかわらず、彼はそのまま官職に留まり続けたため、異母弟の吉田経長(経藤の同母弟)から糾弾を受けた』。しかも、『その翌年に伏見天皇が即位して後深草上皇が院政を始めると、これまで亀山上皇側近として後深草上皇らと対立関係であったにもかかわらず、上皇に召されて側近となっ』てさえいる。『当時、後嵯峨法皇崩御、皇統の移動(大覚寺統から持明院統)という事態に対して、出家もせず相手側陣営に奔った公卿達は少なくなく、むしろ大半がそうであった。だが、経任ほどの破格の寵愛を受けてきた人間までが平然とそうした振舞いに出た事(勿論、彼がそれだけ能力に長けていて、敵味方問わずに必要な人材であるという朝廷内の認識があったからであるが)に対する人々のやり切れない思いが経任への怒り・非難として向けられた』。しかし、この後、経任系中御門家は三代で没落、『代わって従兄弟の経継系統が主流となって明治維新まで続く』こととなった。後深草院二条が著した「とはずがたり」では、『経任に対しては誹謗中傷にも近い非難の言辞が書き連なられている。また歴史物語である』「増鏡」では弘安四(一二八一)年の『勅使の記事について、経任に随従した二条為氏が帰途の際に元軍敗退の報を聞いて詠んだとされている「勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつつ」という和歌の記事しか記載されていないが、一説にはこの歌は経任が詠んだにもかかわらず、忠義と愛国の情に満ちたこの歌を変節漢の経任が詠んだという事実そのものに不満を持つ』「増鏡」の著者自身の手に『よって著者を為氏にと書き改められたのではという説が』ある、とある。

「武家、別義、是なきに依(よつ)て」幕府征夷大将軍が空席になっているわけであるが、宗尊の子惟康(これやす)親王を擁している(但し、宗尊帰洛時で未だ満二歳)から、何ら、問題ないと応じているのである。

「承明門院」源在子(ありこ/ざいし 承安元(一一七一)年~正嘉元(一二五七)年)。後鳥羽天皇の妃で土御門天皇の生母。彼女は鎌倉時代史の中でも波乱に富んだ生涯を送った人物である。ウィキの「源在子」より引いておく。藤原顕憲(藤原盛実の子)の子能円と藤原範子との間に生まれ、『父の能円は平清盛の正室(継室)平時子の異父弟であった関係から平氏政権では法勝寺の執行に任ぜられている。母の範子は高倉天皇の第四皇子の尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母を務めた』。寿永二(一一八三)年の『平家が西国に落ちた際に能円が平家に同行したため』、母『範子は源通親と再婚』、後に通親が在子を養女にしたことから、彼女は源氏姓を名乗っている。『村上源氏中院流出身の公家である通親は、平氏政権では平家と良好な関係を築き』、『着実にその地位を固めていた』。しかし、治承五(一一八一)年に『院政を敷いていた高倉上皇が崩御、続いて清盛が死去し、後白河法皇の院政が復活するとそれまで良好であった通親と平家の関係は微妙なものになっていく。平家が都落ちした際には通親は後白河法皇とともに比叡山に逃れ、平家と対決することになる。平家は安徳天皇を伴って都落ちしたため、後白河法皇の院宣により尊成親王が践祚した』。『その後、通親は在子の母の範子と結婚したが、範子は新帝後鳥羽天皇の乳母であるため、通親は新帝の乳母父の地位を得ることになった』。文治元(一一八五)年に平家が壇ノ浦で滅亡、建久元(一一九〇)年には後鳥羽天皇が元服、摂政九条兼実の娘九条任子が中宮となるが、通親は引き続いて、『白河法皇の側近として院政を支え』た。しかし、建久三(一一九二)年に『後白河法皇が崩御すると、前年に関白に転じていた兼実は源頼朝への征夷大将軍任命に賛成し、朝廷内では頼朝の支援を受けた兼実が実権を握りつつあった。通親にとって兼実は強力な政敵であった』。『この頃、通親の養女の在子は後鳥羽天皇の後宮に入っ』た。建久六(一一九五)年八月に兼実の娘の『中宮の任子が昇子内親王を出産』するが、一方で同年十二月に、在子も『為仁親王(後の土御門天皇)を出産』している。『将来、天皇の外祖父として実権を握る足掛かりを得た通親は』、『これを機に丹後局ら反兼実派の旧後白河側近と連携』、『兼実の失脚を謀』り、『兼実は関白の地位を追われ中宮任子は内裏から退出させられた(建久七年の政変)』。建久九(一一九八)年、後鳥羽天皇は為仁親王に譲位し、院政を敷いた。『新帝土御門天皇の外祖父である通親』(三年前に権大納言に昇任)は、『これを機に院庁別当を兼任することになった。在子は正治元』(一一九九)年に『従三位准三后に列せられ』、建仁二(一二〇二)年には院号宣下を受けて「承明門院」となった。『建久七年の政変で兼実を失脚させ、新帝の外祖父となった通親の権勢は揺るぎないものと思われたが、正治元』(一一九九)年には『兼実の子九条良経が左大臣に昇進し、正治』二(一二〇〇)年には『土御門天皇の弟の守成親王(後の順徳天皇、母は在子の母範子の父方の叔父藤原範季の女藤原重子(修明門院))が皇太弟とされた』。「愚管抄」によると、『在子は母範子が死去した後、養父である通親と密通したため、後鳥羽上皇は修明門院重子を寵愛するようになったとし、美福門院の例に似ており、上皇と重子の間には皇子も多く誕生したという』。『なお、「美福門院の例」とは『古事談』で述べられている崇徳天皇が鳥羽天皇の実子ではなく崇徳の母待賢門院が鳥羽の祖父白河法皇と密通してできた子であり、それを知った鳥羽が美福門院を寵愛するようになった話である』。『しかし、在子の母範子が死去したのは正治』二(一二〇〇)年で、重子が順徳天皇を生んだのは』、その三年前の建久八(一一九七)年であり、矛盾する。美川圭は「愚管抄」の『この記事について、後鳥羽が重子を寵愛するようになったのを在子の密通のせいにするのは著者慈円の曲筆と主張し』、また、この文面からは、あろうことか、『土御門の父が通親であるとも解釈できることを指摘している』(以上、下線やぶちゃん)。建仁二(一二〇二)年十月に通親は死去、承元四(一二一〇)年十一月に『後鳥羽上皇の意向により』、『土御門天皇が皇太弟守成親王に譲位』それを見届けたかのように、建暦元(一二一一)年十二月に在子は出家している。しかし、承久三(一二二一)年の承久の乱によって、『配流された後鳥羽・土御門の両上皇と生別。土御門上皇が承久の乱の前年に通親の孫娘通子との間に儲けた邦仁王(後の後嵯峨天皇)は在子の土御門殿で養育され』た。『承久の乱によって在子は実家が没落』、『苦しい生活を強いられ』ることとなったのである。しかし、後の仁治三(一二四二)年、『四条天皇の崩御により』、彼女の孫となる『邦仁王が践祚した。後半生は不遇であった在子であったが、晩年には孫の皇位継承を目の当たりにすることができた』のであった。享年八十七歳、この条の時制は文永三(一二六六)年であるから、在子は九年前に亡くなっている。

「土御門萬里小路(まてのこうぢ)」現在の京都府京都市下京区附近万里小路町附近(グーグル・マップ・データ)。

「幽(かすか)なる御有樣」ひっそりと隠棲なさっておられる御様子。

「九年六月」教育社の増淵氏の現代語訳割注によれば、「二月」の誤り。文永九年は西暦一二七二年。

「御飾(おんかざり)を下(おろ)し給ふ」落飾(出家)なされた。

法名をば、覺惠(かくゑ)とぞ申し奉る。

「建長四年」西暦一二五二年。

「將軍の職十五年」数えで数えている。]

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