諸國百物語卷之四 二十 大野道觀怪をみてあやしまざる事
二十 大野道觀(をゝのどうくはん)怪(あやしみ)をみてあやしまざる事
大野道觀と云ふ人。あるとき、せつしやうにいでられけるに、山なかにて、道觀とをられたるあとに、からかさ程なる松茸一本、をいたり。下人ども、これを見て、ふしぎにおもひ、道觀に、かく、と申し上る。道觀たちかへりみて、
「べつにふしぎなる事もなし。かやうに大なる松だけもあるもの也。もしさかさまにはへたるならば、ふしぎなるべし」
と、いひて、とをられければ、又、ゆくさきにくだんの松だけさかさまに、はへたり。下人ども、いよいよ、ふしぎなりとて、おどろきければ、
「わがけちつきて、さかさまにはへたれば、これもふしぎなる事なし」
とて、かへられけるが、そのあくるとしの元日に、爐(ろ)のうちにある、かな輪(わ)おどりいで、座敷を、おどりまはりければ、小しやうども、おどろきて、道觀へ、かく、と申しあげゝれば、
「人は足二本にてさへあるくに、かな輪は足三本あれば、おどりあるくも、ふしぎならず」
といひて、とかくに氣にかけられざりしが、その年の夏のころ、道觀、ひとりむすめ、はてられけるが、この怪異なるべし、と、のちにぞ、おもひあわせられ侍る。
[やぶちゃん注:頁末に「諸國百物語卷之四終」とある。
「大野道觀と云ふ人。」句点はママ。読点にすべき。「大野道觀(をゝのどうくはん)」かの名将にして文人でもあった室町後期の太田道灌(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)を想起させる名と話柄ではある。
「せつしやう」「殺生」。狩り。
「はへたり」「生えたり」。歴史的仮名遣は誤り。
「わがけちつきて」「我が、けち付きて」。先ほど、我らが欠点をあげつらって、難癖を付けた結果、それに対して、すこぶる現実的に(感情的に或いは論理的に)応じて。
「かへられけるが」「歸られけるが」。
「爐(ろ)」囲炉裏。
「かな輪(わ)」「鐡輪」「金輪」。三本の足を付けた鉄製の輪。火鉢や囲炉裏の火の上に立てて、薬缶や鍋などの台にする五徳(ごとく)のこと。
「おどりいで」「踊(をど)り出で」。歴史的仮名遣は誤り。
「小しやう」「小姓」。
「とかくに」あれこれとは。ともかくも。但し、ここは呼応の副詞的に用いており、一向に「氣にかけられざり」の意。]
« 佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その2 | トップページ | 佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その3 »