甲子夜話卷之二 46 有德廟、御鷹野のとき儉易を好せらるゝ事
2―46 有德廟、御鷹野のとき儉易を好せらるゝ事
德廟、御鷹野のときは、何かに無造作なるを好ませ給ひたり。是治平の時の軍中の習しとの尊慮なるべし。扈從の人股引着て御前に候すれば、あぐらかく可しと仰有しに、何れも遲々しければ、脛當を着て坐が出來るものかと御叱りありしとなり。或時、松平左近將監を御鷹野の御供仰付られたり。總て老職御供のとき、手人は遠き所にある故、部屋付の坊主衆用便に往くことなり。御場にて、乘邑草鞋を著(ハカ)んとて將几に腰かけ、かの坊主に草鞋をはかせながら、その所を通り過る奧向の輩へ、上には御草鞋はめさせられしやと問たるに、上はとく御自身にめさせられしと答るを聞くや否や、將几を下りて、自身に草鞋を着けられたりと云。當年の風俗想ひやるべし。
■やぶちゃんの呟き
「有德廟」徳川吉宗。
「御鷹野」「おたかの」と読み、「鷹狩り」に同じい。
「是治平の時の軍中の習しとの」「これ、ぢへいのとき」で、「これは、かくも天下泰平の平時の折りにても、戦陣に於ける心得を忘れざる習わしとされる。
「尊慮」御深慮。
「扈從」「こじふ(こじゅう)」。
「股引」「ももひき」。腰から踝(くるぶし)まで密着して覆う形のズボン様のもの。鷹狩では徒歩で下草や笹藪を行くため、下半身を普通以上にガードする必要があったからであろう。
「何れも遲々しければ」誰もがそう命ぜられても、もぞもぞしてなかなか着座せずのいたため。通常は将軍の前では正座をするのが正規規則であったからであろう。
「脛當を着て坐が出來るものか」「脛當(すねあて)」は「臑当て」で、甲冑の付属品で臑(すね)から膝に当てて防具とした武具。鉄や革で作り、古くは臑のみをガードしたが、南北朝頃より上部に膝頭を蔽う「立挙(たてあげ)」を附属するようになった。
「松平左近將監」「まつだいらさこんのしやうげん」は老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)のこと。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。既注ながら再掲しておく。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに亙って『徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央』(かんおはるひで)『とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭』(ただずみ)『が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると』、『直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。
「手人」「てにん」。乗邑の側近の家臣連。
「部屋付の坊主衆」老中部屋づきの茶坊主衆。
「用便」いろいろな身辺の雑事を取り計らうこと。
「往くことなり」直近でつき従うのが定めであった。
「御場」御狩場。
「將几」「しやうぎ(しょうぎ)」。「床几」「牀几」などとも書く。折り畳み式の腰掛け。脚を打ち違えに組み、革・布などを張って尻を乗せるようにしたもの。
「草鞋」「わらぢ」。
「問たるに」「とひたるに」。
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