甲子夜話卷之二 52 白川少將、元日、烏帽子の緒に元結を用らるゝ事
2-52 白川少將、元日、烏帽子の緒に元結を用らるゝ事
白川少將【定信】、四位の侍從にて老職の上坐となりしとき、阿部伊勢守は【正倫、福山候】老職の末なりしが、新歳の御禮席に、烏帽子の緒を兩人とも元結にせられける。此時世評に、伊勢守當職間なきゆえ、飛鳥井家の免狀來らず、同列の中、勢州獨り元結用らるゝを氣の毒に思ひ、上坐の白川この如く爲(セ)られしと云しは、俗評なるべし。烏帽子に紫の掛緒を用ゆること、もと蹴鞠の式にして、飛鳥井家の免を得て用ゆること面白からぬことゝ思はれ、白川は元結にせられしも知るべからず。人心の歸することは不思議なるものにて、同列の人を會釋して用られしなど、人より押あてによき方へおも向け云成せり。
■やぶちゃんの呟き
「白川少將【定信】、四位の侍從にて老職の上坐となりしとき」松平定信が老中上座で勝手方取締掛となり、侍従を兼任したのは天明七(一七八七)年六月十九日のことであった(ウィキの「松平定信」に拠る)から、これは翌天明八年一月一日(グレゴリオ暦二月七日)の新年拝賀の式の折りである。
「阿部伊勢守」「【正倫、福山候】」備後福山藩第四代藩主阿部正倫(まさとも 延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)。ウィキの「阿部正倫」によれば、天明七年三月七日に寺社奉行(奏者番兼務)から老中に『抜擢されるなど、順調な出世街道を歩んでいた。ところが、老中就任を祝う臨時税を領民に課そうとしたところ、藩領全域を巻き込んだ藩史上最大の一揆(天明大一揆)が勃発する。また、松平定信を中心とした改革派の攻勢により、失脚した田沼派に属した正倫は立場を失い、病を理由に』僅か十一ヶ月で天明八年二月二十九日)に老中を辞任している。
「元結」髪の髻(もとどり)を束ねる紐や糸。近世のそれは和紙を縒(よ)った「扱(こ)き元結」が主であった。この記載から見ると、これは当時の武家の正装の際の烏帽子の内側にセットされている小結(こゆい:烏帽子を髻に縛り付けるための紐)ではなく、外へ垂れた装飾用のそれを指すようで(でなければ外からは見えない)、それらは当時は恐らく組紐などの紙縒りでないものを使うのが普通だったのであろう。それが如何にも質素な元結の紐であったというのである。質素倹約を旨とした定信のそれは腑に落ちるわけだが、以下を読むと定信が正倫を気遣った仕儀であったというのである。但し、静山はそれを俗世間の流言飛語の類いとして退けるのが本条の主意。
「伊勢守當職間なきゆえ、飛鳥井家の免狀來らず」阿部正倫が老中に就任して間もない頃であったので(しかしね、天明七年三月七日で十ヶ月も前なんですけど?)、飛鳥井家から烏帽子着用の免許状の送付が間に合わず。よく判らないが、ネット検索をすると、蹴鞠の宗家として知られた飛鳥井家から、各種の階梯に於ける装束着用を許す免許状というものが実際に残っている。ここでは恐らく、老中職の烏帽子に用いる紐が色や作り(組紐など)が特殊なものであり、それを免許状なしには使用出来なかったのであろう。
「掛緒」「かけを(かけお)」。「烏帽子掛」などとも称し、立(たて)烏帽子や風折(かざおり)烏帽子(立烏帽子の頂きが風に吹き折られた形の烏帽子。狩衣着用の際に被り、右折りは上皇、左折りは一般が用いた。「平礼(ひれ)烏帽子」或いは単に「かざおり」とも称した)に用いる掛紐。優れたサイト「烏帽子」によれば、『通常は紙捻(こびねり)で、勅許が在った場合のみ紫の組紐を用いた。紙捻を用いる際は、アゴの下で結び切りにするのに対して、組紐は蝶結びにして長く結び垂れた』とある。本条の細部が見えてくる。
「もと蹴鞠の式にして、飛鳥井家の免を得て用ゆること面白からぬことゝ思はれ、白川は元結にせられしも知るべからず」静山は、その紫の烏帽子の掛緒の着用が、定信が公家の武家から見ればおぞましい糞のような遊びであると認識していた(推理している静山も、であろう)蹴鞠のくだくだしい規則に拠るものであり、それを糞のような飛鳥井家に拝謝して使用許可状をわざわざ貰い、使用しなければならないというのを、面白くなく思ったからしなかったのであり、その定信侯の不快拒絶を世間の者どもは知らなかったのである、というのである。目から鱗。
「人心の歸することは不思議なるものにて」世間の人心の帰するところの推断というものは、まっこと、意外で、摩訶不思議な噴飯物であって。
「同列の人を會釋して用られしなど」同列の老中である御方(では実はない。首座と末席では天と地である)に「會釋」(「ゑしやく(えしゃく)」。ここは他人の気持ちを思いやることの意)、則ち、斟酌して、阿倍正倫が身の狭い思いをせぬようにと、わざわざ元結を用いられたのだった、などと。
「人より押あてに」第三者としての当て推量によって。
「よき方へおも向け云成せり」。「よきかたへ赴けいひなせき」。自分の好みの方に牽強付会して勝手に解釈し、それをまた風聞したものに過ぎぬ。如何にも、毅然とした古武士のような静山の切れ味のある謂いではないか。
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