甲子夜話卷之三 2 酒井家拜謁の鳥披、又松平能州御拳の鳥拜領披の事
3-2 酒井家拜謁の鳥披、又松平能州御拳の鳥拜領披の事
姫路酒井家、拜賜の鳥開にて客を招くときは、當日御鳥持參の御使番を上客とし、間柄の國持衆、溜詰衆にても、皆御次席に坐せしむること、古來よりの家法と云。敬上の意厚きこと貴ぶべし。岩村松平能登守【乘堅】加判勤しとき、御拳の鳥拜領、開きとて親類衆招きのときは、先第一の吸物膳は主人へ直し、夫より順々に、客の高下にて吸物を出し、主人吸物を戴きて拜味し、扨客に挨拶あれば、いづれも吸物の蓋をとりしと云。是も亦その理に叶ひたる賓主の作法なりけり。
■やぶちゃんの呟き
「酒井家」現在の兵庫県西南部の播磨国飾東(しかま)郡を治めた姫路藩を江戸後期に納めた酒井氏。ウィキの「姫路藩」によれば、同藩は転・入封著しく、池田家→本多家→松平(奥平)家→榊原(松平)家→松平(越前)家→本多家→榊原家→松平(越前)家と転じたがこの越前松平家松平朝矩(とものり)に代わって『老中首座酒井忠恭が前橋から』寛延二(一七四八)年に入封、『姫路藩の酒井氏は徳川家康の重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世・酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。老中を務めていた忠恭の前橋領は居城が侵食されるほどの大規模な水害が多発する難所であり、加えて酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用などにより酒井家は財政が破綻していたため、忠恭は「同石高ながら実入りがいい」と聞いていた姫路への転封をかねてより目論んでいた。実際は、姫路領では前年に大旱魃が起き、そこに重税と転封の噂が重なり、寛延の百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が起こっていたが、酒井家は気がついていなかった。それでも転封は実現したが、その年の夏に姫路領内を』二『度の台風が遅い、水害が発生し大変な損害を出し、転封費用も相まって財政はさらに悪化することとなった。ともあれ』、『酒井家以降、姫路藩は頻繁な転封がなくなり、ようやく藩主家が安定した。歴代の姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中、大老を務め、幕政に重きを成した』とある。静山の同時代は第四代藩主酒井忠実(ただみつ)及び第五代忠学(ただのり:第三代藩主酒井忠道八男)の治世。
「鳥披」「とりびらき」。この語、辞書類には不載であるが、田中和明氏の「甲子夜話に学ぶ経営心得(第108号)」(本話の全現代語訳と注が載るメルマガ。私は購読しておらず、今回初めて参考にさせて戴いた)を参考にさせていただくと、これはまず、将軍家が重要な武人の儀式として行っていた「鷹狩り」をし、そこで得た獲物を重臣や主だった大名らから選んで分け与えたという(後に出る「鳥拜領披」)。その際、それを貰った側(ここでは姫路藩酒井家で、場所は江戸姫路藩上屋敷となる)では、『これを鳥開き(披き)と呼び、将軍よりの賜り物として客を招いて料理して食べた』とある。
「松平能州」「岩村松平能登守【乘堅】」美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。
「御拳」「おこぶし」。将軍が自ら鷹を使って(拳を握った腕から放つからであろう)鳥類などを捕らえること及びその獲物。
「鳥拜領披」「とりはいりやうびらき」。前注参照。
「御使番」既注であるが再掲する。元来は戦場での伝令・監察・敵軍への使者などを務めた役職。ウィキの「使番」によれば、江戸幕府では若年寄の支配に属し、布衣格で菊之間南際襖際詰。元和三(一六一七)年に定制化されたものの、その後は島原の乱以外に『大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する』ようになった。『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行い』とあり、常に幕府の上使としての格式を持つ名誉な職であった。
「間柄」親族。
「國持衆」ここは親族の大名家及び本城姫路城の他の支城の城主或いは城代格に命じたような、家臣の中でも家格が高く、権勢の強大な者をも指していよう。
「溜詰衆」「溜詰」(たまりづめ)は「伺候席(しこうせき)」で、江戸城に登城した大名や旗本が将軍に拝謁する順番を待つための控室、黒書院「溜の間」を指す。ここはそこに酒井家と同席する者の中で、特に親しい間柄或いは縁者の旗本などを指すか。
「敬上の意」将軍家への。
「加判」此処は老中の別称。
「先」「まづ」。
「直し」「なほし」。ここは「人や物をしかるべき地位・場所に改めて据える」の意で、「供し」の意。
「高下」「かうげ」。地位の降順に。
「扨」「さて」。その上で。
「その理」「そのことわり」。前述の将軍家への敬意を表わすことを指す。