諸國百物語卷之四 十七 熊本主理が下女きくが亡魂の事
十七 熊本主理(しゆり)が下女きくが亡魂(ばうこん)の事
熊本主理と云ふ人は、きわめて人づかいあしき無道心者なり。主理が城に奉公せしとき、食(めし)のなかに針のありしを、大いにいかり、下女にきくと云ふもの有り。これをよびつけ、
「だれにたのまれて、かやうの事をしけるぞ。有りのまゝに申せ。申さずは、せめてとふべし」
と云ふ。きくおどろき、
「さてさて、ぜひもなき事に候ふ。さきほど、きる物をぬい候ひて、その針を、かみのわげにさし申し候ふが、さだめてその針、御食(おめし)のうちにをち申すとみへたり。わが心(こゝろ)よりも、いたし申さず。又、人にも、たのまれ候はず。ときのあやまちにて候へば、御ゆるし下され候へ」
といへば、主理、きゝて、
「さては、あらがひ申すか。それ、せめてとへ」
とて、一ばんに水ぜめ、二ばんにてつぼうひしぎ、三ばんに木むまぜめ、四ばんにこぼくぜめ、五ばんには、せなかをたちわり、切りくちへ、しやうゆをせんじていれけれども、たゞ、
「はじめ申し上げ候ふよりほかは御座なく候ふ。御ぢひに、はやく、御いとまを下され候へ」
といふ。主理、きゝて、
「せめやうがぬるきゆへ、おちぬとみへたり」
とて、百しやうにいひつけ、蛇を二、三千ひきもとりよせ、あなをほり、きくをいれ、かのくちなわを、はなし、せめければ、
「今はいのちもあるまじく候ふ。ねがはくは、われらが母をよびよせ、いとまごひをさせて給はれ」
といへば、はうばい、ふびんと思ひ、母をよびよせ、あわせければ、母は、このありさまを見て、天にあこがれ、地にふして、なきさけび、
「武家にみやづかへさするうへは、かねてかくごの事なれども、かやうの、けうがるせめやうや、あるベき。なんぢあひはてなば、ふたゝび、をんりやうとなり來たり、此うらみをなすべし。かまへてわするゝ事なかれ」
といへば、
「心やすく、をぼしめせ。此うらみは、主理一だいならず、七代までは、うらみ申すべし。心もとなくおぼしめさば、わがしゝたるまへに胡麻をまきをき給へ。三日のうちに、二ばをはやし申すべし。是れをしやうこ、と、覺しめせ。いとま申して、さらば」
とて、舌をくい切り、はてにけり。母、なをも、心もとなくおもひ、やくそくのごとく、ごまをまきて、見ければ、三日めに、たがわず、ふたば、をひ出でたり。扨(さて)、三日めに、あんのごとく、きく、來たりて、主理に、うらみのかずかず、申しわたして、又、まいらん、とて、かへりけるが、それより、主理、口ばしり、いろいろ、わが身のありさまどもをいひ、物ぐるいのやうにて、七日めに、あひはてけり。それより、代々、とりころす。四代めの主理は松平下總守(しもふさのかみ)どのにほうこうして、はりまのひめぢにゐられしが、主理屋敷より二里ばかりわきにて、かの菊(きく)、
「馬(むま)を、からん」
と云ふ。馬子は、なに心なく、つねの人とこゝろへ、
「日ぐれなれば、かへりもとをし」
とて、かさゞりしかば、
「かきましを、とらせん」
とて、八拾文の所を百六拾文のやくそくして、主理が屋敷につき、馬よりをりて、をくにいりぬ。さて馬子は、
「だちんを給はれ」
といへば、下々のもの、きゝて、
「なに事を云ふぞ、だれも、馬(むま)をかりたるもの、なきが」
といへば、
「まさしくたゞ今、女らうしうをのせ參りたり。ぜひに、だちんを、とらん」
と、せりあひければ、いづくともなく、
「いつもの菊が、のりてきたるぞ。だちん、百六拾文、はらへ」
といふ。主理が家老きゝて、ぜにをはらわせけり。それより主理、わづらひ出だし、いろいろ、きくがうらみどもを、くちばしり、七日めに、あひはてられけると也。四代があいだ、いろいろと、きたう、いのりを、せられけれども、そのしるしもなく、あとめのあるじぶんには、きく、來たりて、とりころしける、と也。
[やぶちゃん注:「せめやうがぬるきゆへ、おちぬとみへたり」は鍵括弧なしで改行もないが、かく特異的に変更した。なお、言い添えておくと、最後の四代目主理の代の「お菊」が馬子に彼の屋敷まで送らせておいて、料金を払わずに屋敷の内へと入って行き、馬子がしびれを切らし、「このお宅まで女性を送ったのですが、料金を頂いておりません」と訊ねるというシチュエーション、どっかで聴いたことがないか? こりゃ、実に現代の都市伝説(アーバン・レジェンド)「幽霊を乗せたタクシー」のまさに原型だろ!! 面白!!
本話は恨みの主人公を「お菊」とする怨恨譚であるから、言わずもがな、所謂、「皿屋敷」の比較的正統な一流と考えてよい。「皿屋敷」の流れは裾野が広く多流に及ぶので、詳しくはウィキの「皿屋敷」を参照されたいが、その「概要」によれば、『古い原型に、播州を舞台とする話が室町末期』に播磨国永良荘(現在の兵庫県市川町)の永良竹叟が天正五(一五七七)年に著した「竹叟夜話」に『あるが、皿ではなく盃の話であり、一般通念の皿屋敷とは様々な点で異なる。皿や井戸が関わる怨み話としては』、十八『世紀の初頭頃から、江戸の牛込御門あたりを背景にした話が散見される』。享保五(一七二〇)年、『大坂で歌舞伎の演目とされたことが知られ、そして』、寛保元(一七四一)年にはかの浄瑠璃「播州皿屋敷」が『上演され、お菊と云う名、皿にまつわる処罰、井筒の関わりなど、一般に知られる皿屋敷の要素を備えた物語が成立』した。宝暦八(一七五八)年に講釈師馬場文耕が「弁疑録」に『おいて、江戸の牛込御門内の番町を舞台に書き換え、これが講談ものの「番町皿屋敷」の礎石となっている』。『江戸の番町皿屋敷は、天樹院(千姫)の屋敷跡に住居を構えた火付盗賊改青山主膳(架空の人物)の話として定番化される』。ので、時代は十七世紀中葉以降と新しい時代に設定され直されている。『一方、播州ものでは、戦国時代の事件としている。姫路市の十二所神社内のお菊神社は、江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、戦国時代までは遡れないと考察される』。『お菊虫については、播州で』寛政七(一七九五)年に発生した虫(アゲハチョウ(鱗翅目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae の揚羽蝶類の蛹(さなぎ)。これがシミュラクラとして「女が後ろ手に縛られているような形」に見えことに拠る)の『大発生がお菊の祟りであるという巷間の俗説』化であって、『これもお菊伝説に継ぎ足された部分である』とある。最後の「お菊虫」なら、私の電子テクスト注「耳嚢 巻之五 菊蟲の事」及びその続編である「耳嚢 巻之五 菊蟲再談の事」(こちらには図もある)を参照されるのも一興である。私は「お菊虫」とその巷説は好きだが、異様に肥大増殖してしまった「皿屋敷」譚は、最早、ステロタイプの退屈さが目立ち、私には怪異性が全く失われていて面白くなく、興味がない。
「熊本主理」不詳。一般には「修理」である。他の「皿屋敷」譚を見ても、類似の名は見当たらぬ。但し、このサディスティクな残忍性は概ねの「皿屋敷」主人公に共通するものではある。
「無道心者」仏法を求める心が全くなく、無慈悲で、道理に背いたことをすることが平気か、或いは、それを好む猟奇的で残忍極まりない人間。
「主理が城に奉公せしとき、食(めし)のなかに針のありしを、大いにいかり、下女にきくと云ふもの有り。これをよびつけ」文構造が不全。「きくと云ふもの有り。主理が城に下女として奉公せしとき、ある時、主理が食(めし)のなかに針のありしを、主理、大いにいかり、これをよびつけ」でなくてはおかしい。
「ぜひもなき事に候ふ」「どうにもお詫びもしようもない、とんでもないことを致しました。」。ここでは主理の糺しの主眼である、「誰かに」(自分の心を含む)そそのかされて故意にやったのではないことを打ち消すニュアンスを含めつつも、深く謝罪しているのである。
「きる物をぬい候ひて」「着る物を縫ひ候ひて」。歴史的仮名遣は誤り。
「かみのわげ」「髮の髷(わげ)」。「髷(まげ)」に同じいが、主に関西方面での謂いであるから、この初盤のロケーションはそちらの方に想定してよいかも知れぬ。髪を頭頂で束ねて、折り返したり曲げたりした部分。また、そのような部分を持つ髪形全体を言う。
「をち」「落(お)ち」歴史的仮名遣は誤り。
「ときのあやまち」「時の過ち」。偶然の過失。
「さては、あらがひ申すか。それ、せめてとへ」「さては! 抗ひ申すか! それ! 責めて問へ!」。以下、江戸の私刑(リンチ)のサディズム連発!
「一ばんに水ぜめ、二ばんにてつぼうひしぎ、三ばんに木むまぜめ、四ばんにこぼくぜめ、五ばんには、せなかをたちわり、切りくちへ、しやうゆをせんじていれ」漢字に直し、注を各個に記す。
●「一番に水責め」冷水を浴びせたり、顔面に手拭いを被せて水を流したり、水中に顔を漬けたりする水責めの拷問。
●「二番に鐡棒拉(ひし)ぎ」両手や両足を鉄の棒で縛り、それで押し潰したり、捩じったりする拷問。容易に骨折する。
●「三番に木馬(きむま)責め」背が鋭角になった木馬(もくば)に跨らせた上、両足に重りをぶら下げて股を裂く拷問。男でもそうだが、女性の場合は特に外生殖器が激しく損傷する。
●「四番に古木(こぼく)責め」「古木」は年経た太い大木のこと。木に吊るして殴打して責め立てる拷問。なお、逆さ吊りにしてこれをやると、責められなくても、三~四時間で脳圧が血圧により高まって意識が無くなり、そのまま放置すれば確実に死に至る。そこで、耳や蟀谷(こめかみ)に血抜き用の穴を開けて血抜きをするのは、実は殺さずに永く苦しませる拷問の常套手段であった。これは切支丹を転ばすために行われた「穴吊り」の刑として知られ、そもそもが彼らの弾圧で悪名高い豊後府内藩二代藩主長崎奉行竹中重義(?~寛永一一(一六三四)年)が考案したとされる残虐刑であった。
●「五番には、背中を截ち割り、切り口へ、醬油を煎じて入れ」傷口への塩揉みの拷問の類型で、醬油を熱く濃く煮立てたアツアツを注ぎ掛けるのだから、塩を擦り込む比ではない。
「御いとま」「御暇」ここは解雇の意。
「ぬるき」手緩(てぬる)い。
「おちとみへたりぬ」「白状せぬと見えたわ!」。
「百しやう」「百姓」。
「蛇を二、三千ひきもとりよせ、あなをほり、きくをいれ、かのくちなわを、はなし、せめければ」ここまでくると、ちょっとC級エロ映画糞エンタメ・レベルで不快。
「いとまごひ」「暇乞ひ」。死に際して今生の別れを交わすこと。
「はうばい」「朋輩」。あまりに「ふびん」(不憫)「と思ひ、母をよびよせ、あわせ」て呉れたというのであるから、下女の朋輩の中でも、女中頭のような者であろう。
「天にあこがれ地にふして、なきさけび」「天に焦(あこが)れ、地に伏して、泣き叫び」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に、『身もだえして泣き悲しむさま「あこがれ」は「仰ぎ見る」の意』とし(若干、この説明は乱暴に思われるが、ここでは問題にしない)、「平家物語」の「卷第三」の鬼界が島の赦免で俊寛だけが許されぬシーンを引く。私の好きなシークエンスなので、独自に話が判るように引くことにする。
*
御使は丹左衞門尉基康と云うふ者なり。急ぎ船より上り、
「これに都より流され給ひし平判官(へいはうぐわん)康賴入道、丹波(たんばの)少將殿や、おはす。」
と、聲々にぞ尋ねける。
二人(ににん)の人々は、例の熊野詣でしてな無かりけり。俊寛一人(いちにん)ありけるが、これを聞いて、
「餘りに思へば夢やらん、又、天魔波旬(てんまはじゆん)の、わが心を誑(たぶらか)さむとて云ふやらん。現(うつつ)とも更に覺えぬものかな。」
とて、あはてふためき、走るともなく、倒(たふ)るるともなく、急ぎ、御使(おつかひ)の前に行き向つて、
「これこそ流されたる俊寛よ。」
と名乘り給へば、雜色(ざつしき)が頸(くび)にかけさせたる布袋(ふぶくろ[やぶちゃん注:書状を入れる文袋(ふみぶくろ)。])より、入道相國(にふだうしやうこく)の赦文(ゆるしぶみ)取り出(いだ)いて奉る。これを開いて見給ふに、
「重科(ぢうくわ)は遠流(をんる)に免ず。早く歸洛の思ひをなすべし。今度(こんど)中宮御産の御祈りによつて、非常の赦、行はる。然る間、鬼界が島の流人(るにん)、少將成經、康賴法師、赦免。」
とばかり書かれて、俊寛と云ふ文字はなし。禮紙(らいし[やぶちゃん注:書状を包んで上に重ねた白紙の紙。])にぞあるらんとて、禮紙をみるにも、見えず。奧より端(はし)へよみ、端より奧へ讀みけれども、二人(ににん)と許り書かれて、三人(さんにん)とは書かれず。
さる程に、少將や判官入道も出で來り、少將の取つて見るにも、康賴法師が讀みけるにも、二人と許り書かれて、三人とは、書かれざりけり。夢にこそかかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすれば現(うつつ)なり、現かと思へば又、夢の如し。其の上、二人の人々の許(もと)へは、都より言傳(ことづて)たる文(ふみ)ども、幾らもありけれども、俊寛僧都の許へは、事問ふ文、一つもなし。
「抑(そもそも)われら三人は同じ罪、配所も同じ所なり。如何なれば赦免の時、二人は召し還へされて、一人(いちにん)ここに殘すべき。平家の思ひ忘れかや、執筆(しゆひつ[やぶちゃん注:右筆。書記。])の誤りか。こは如何にしつる事どもぞや。」
と、天に仰(あふ)ぎ地に伏して、泣き悲しめども甲斐ぞなき。
*
この「天魔波旬」は人の生命や善根を絶つ悪魔。他化自在天(第六天)の魔王のこと。「波旬」は、サンスクリット語の「パーピーヤス」の漢音写で、「パーパ」(「悪意」の意)ある者の意。仏典では、仏や仏弟子を悩ます悪魔・魔王として登場し、しばしば魔波旬(マーラ・パーピマント)と呼ばれる。「マーラ」(「魔」)は「殺す者」の意で、個人の心理的な意味合いでは、「悟り」(絶対の安定)に対する「煩悩」(不安定な状態)の、集団心理的には新勢力たる「仏教」に対する、旧勢力たる「バラモン教」の象徴と考えられている。
「武家にみやづかへさするうへは、かねてかくごの事なれども、かやうの、けうがるせめやうや、あるベき。なんぢあひはてなば、ふたゝび、をんりやうとなり來たり、此うらみをなすべし。かまへてわするゝ事なかれ」「武家に宮仕へさする上は、予ねて覺悟の事なれども、斯樣の、興がる責め樣や、あるベき。汝、相ひ果てなば、再び、怨靈と成り來たり、此の恨みを成すべし。構へて忘るること無かれ」。「興がる」惨たらしく猟奇的で、しかもそれを実際には面白がっていることを指す。「恨みを成すべし」「必ず恨みを報いよ!」。
「心やすく、をぼしめせ。」「どうか母上さま、ご危惧なされまするな。」。
「七代」猫も七代祟ると言うが、これが一つ、実は通常の人間に一族が嫡男が生まれなかったり、夭折したりで、自然に衰え、養子を得ないと絶えてしまったスパンとして認識されていたからこその「七代」なのではなかろうか? ちょっとそんなことを考えた。我々でさえも、せいぜい五、六代前までしか、はっきりとは遡れないではないか。
「心もとなくおぼしめさば」「万一、私の覚悟が真実(まこと)かどうかご心配であらせられますならば」。
「わがしゝたるまへに胡麻をまきをき給へ」「我が死したる(塚の)前に胡麻(ごま)を蒔き給へ」。
「三日のうちに、二ばをはやし申すべし」「きっと! 三日の内に双葉を生やしてお目にかけ申し上げましょうぞ!」。ゴマの芽生(めぶ)きは普通は一週間ぐらいはかかるようである。
「しやうこ」「證據」。
「をひ出でたり」「生ひいでたり」。歴史的仮名遣は誤り。
「三日めに、あんのごとく、きく、來たり」ゴマの芽生きの「三日」には、遺恨の霊の襲来の日時も含まれていたのである。というより、それを主理に意識させ、精神に変調をきたさせる効果は心理的も覿面と言える。
「又、まいらん」「……また、参りまするッツ!……」。
「主理、口ばしり、いろいろ、わが身のありさまどもをいひ、物ぐるいのやうにて、七日めに、あひはてけり」まず、訳の分からぬことを口走り、一時的に乱心したかのように見えたが、その後、自身の成した悪行の数々を自ら叫び立て数えて始め、遂には完全なる狂人の如くなって、丁度、七日目(恐らくは「お菊」の自死当日から数えてで、この狂乱から頓死へ至る日数は四日間と見た)に、急に死んでしまったという。また「七」が出た。
「とりころす」「憑り殺す」。
「松平下總守」安土桃山から江戸前期の武将松平忠明(天正一一(一五八三)年~寛永二一(一六四四)年)。江戸幕府の大政参与(幕政上、重要な課題に関与し、主導する臨時職)で奥平松平家の祖であり、三河作手藩・伊勢亀山藩・摂津大坂藩・大和郡山藩・播磨姫路藩主(従五位下下総守への叙任は慶長五(一六〇〇)年)。彼が播磨姫路藩十八万石に加増移封されたのは寛永一六(一六三九)年三月三日であるから、この代の主理の事件は、それ以降から、忠明没年までということになろう。
「ほうこう」「奉公」。
「はりまのひめぢ」「播磨の姫路」。姫路城には「皿屋敷」系の伝承や話が多く伝わり、ウィキの「皿屋敷」によれば、姫路城の『本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する』。また、『江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作(げさく)」』である、怪談としてかなり脚色された「播州皿屋敷実録」では、戦国時代の姫路城第九代城主小寺則職(のりもと 明応四(一四九五)年~天正四(一五七六)年)の代(永正一六(一五一九)年以降)、『家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る』。『乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四郎は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四郎は、お菊が管理を委任されていた』十『枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた』。以来、『その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという』。『やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その』後、三百年程経って、『城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる』。『このほか、幕末に姫路同心町に在住の福本勇次(村翁)編纂の『村翁夜話集』(安政年間)などに同様の話が記されている』とある。
「二里」七キロメートル弱。
「わき」「脇」。手前。にて、かの菊(きく)、
「からん」「借らん」。「貸してお呉れ。」。馬に乗り、馬子に引かせて行くのである。
「つねの人とこゝろへ」「常の人と心得」。
「日ぐれなれば、かへりもとをし」「日暮れなれば、歸りも遠(とほ)し」馬子が空馬を引いて帰るのがすっかり夜になってしまうので嫌がったのである。
「かきまし」「割き增し」。割増料金のこと。先の「江戸怪談集 下」の脚注に、『駕籠舁(かき)がに対する「舁(かき)増し」(増し駄賃)が原義』とある。
「やくそく」「約束」。後払いがミソ。
「馬よりをりて、をくにいりぬ」「馬より降(お)りて、奥(おく)に入りぬ」歴史的仮名遣は誤り。
「下々のもの」四代目主理の下男や下士。きゝて、
「女らうしう」「女﨟衆」。武家勤めらしい婦人。「衆」は複数の人への敬意を表わす接尾語であるが、古くは単数の人にも用いた。
「せりあひければ」「競り合ひければ」。押し問答になった、すると。
「いづくともなく」どこからともなく。
「主理が家老きゝて、ぜにをはらわせけり」この家老は代々の家老職の家柄なのであろう。先祖が初代熊本修理から二代・三代と続いて家老であって、彼らが皆、妖しい「菊」なる女の亡霊の来て、結局は非業の死を遂げることを知っているのである。だから、変事の出来してからでは最早、手だてはないと知っていても(以下に見る通り)、その駄賃を払わせてその場を収めたのである。
「きくがうらみども」これは菊が憑依したようになって、見知りもせぬ菊の側の恨み言を口走っているのである。ここは作者の芸に捻りがあるとは言える。
「七日め」また「七」である。
「きたう、いのり」「祈禱、祈り」。
「しるし」「驗」。効験(こうげん)。
「あとめのあるじぶん」跡目(嗣子)の決まる時分になると。これだと、嫡男が生まれ、それが元服すれば(継ぐ場合は、江戸時代にはかなりの幼少でも断絶を恐れ、年齢を偽ってそれ以前の童子でも元服させた)――菊は来る。――とすれば、七代など、即、終りそうじゃないか。七代目は是非、嗣子の決まる前に、憑り殺せよ! お菊さん! それで貴女の憂鬱は完成する!]