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« 落日   尾形龜之助 (附 初出復元) | トップページ | 甲子夜話卷之二 46 有德廟、御鷹野のとき儉易を好せらるゝ事 »

2016/11/13

甲子夜話卷之二 45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事

 

2―45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事

文化丁卯の八月、深川八幡宮恆禮の祭ありたるとき、永代橋陷て、人饒く水死せしことあり。是は橋の絕墜にはあらで、往來群衆の人夥きに因て、其中ばより撓て水中に入たるなり。夫ゆへ前行の陷たるを後なるは知らずして推行ゆへ、前者あれ々々と言へども、後者に推れて、據なく水中に墜ちしと云。此時一人の士、白刃を拔て頭上にかざし振𢌞しければ、後者これを見て驚懼て皆後へ逃行ければ、始て橋の陷りたる形あらはれて、水死の難を脫れたるもの數を知らず。如ㇾ此混雜の時、いかやうの大聲にても人の耳に入らず。力を極めても數百人を推戾すことも出來ざるより、頓知を以て數多の人命を救しは、感賞すべきことなり。因みに云ふ。其時橋より墜たりし者に、後、予遇しことあり。女なりしが云には、前記の如く橋撓たれば、皆々すべり陷たるゆへ、前なる者も是非なく水中に推入られて、其下なるは水中に在るに、中なるは其人の上に乘て、水より半ば出て立てある抔にて、下なる者は上の人に踏まれて溺死せりと云き。此女はいかにして命助りけん。又曰。此時水死の數、世上にては千萬抔云ふらす。予因て町奉行組同心小川某に其實を問たれば、水死百五十二人、百三十人は死骸を引取る。七人は引取らず。十五人は引取て後死す。又數人の中、二十二人は士、二人は僧、十五人は婦女と答ふ。是は實談也。此餘、屍を取り揚るに及ばず、流れ海に入ものは、其數知るべからずと云。又此時、一兩日を經て、其邊の家に夜幽靈出づ。白衣被髮して來るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、家人は溺死の亡魂ならんと駭恐て、皆逃去る。この如きこと度々なれば、人々心づき、其家財を省るに失亡多かりける。奸盜の人を欺し、詭術にてぞ有ける。又此時、堂兄稻垣氏、祭禮を見に往き、樓上に居たるが、何か騷動せし物音なりしが、やがて滿身水に濡たる衣服きし男女の、其下を通りたる體を疑ひ見ゐたる中に、一人銀鼈甲の櫛簪を、手にあまる程一束に握り走り行を、跡より一人追かけ行ける。是はまさしく盜取たる物と覺えしと。かゝる騷擾危難の中にも、盜賊は亦この如く有ける。

■やぶちゃんの呟き

「深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事」(「陷る」は「おちる」)「文化丁卯の八月、深川八幡宮恆禮の祭ありたるとき、永代橋陷て、人饒く水死せしことあり」(「丁卯」「は「ひのとう」、「饒く」は「おほく」)これは有名な文化四年八月十九日(グレゴリオ暦一八〇七年九月二十日)永代橋崩落事件である。「深川八幡宮」は現在の東京都江東区富岡にある富岡八幡宮の別名で、永代橋はその社前から北西に一キロほどの距離にある隅田川に架かる橋。ウィキの「永代橋」の「落橋事故」によれば、『幕府財政が窮地に立った』この百年も前の享保四(一七一九)年の時点んで幕府は既に永代橋の維持管理を諦め、廃橋を決めているのであるが、『町民衆の嘆願により』、『橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、深川富岡八幡宮の』十二年ぶりの祭礼日(深川祭)に『詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こした』。『橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落』、『死傷者・行方不明者を合わせると実に』千四百人を『超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が下記の狂歌や「夢の憂橋」を著している』。

 永代とかけたる橋は落ちにけりけふは祭禮あすは葬禮

『古典落語の「永代橋」という噺もこの落橋事故を元にしている。南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っている。曲亭馬琴は「兎園小説」』で「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引拔きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戾りしとぞ」と書いており、静山も書いているこのエピソードがかなり知られたものであることが判る。実録をプレの状況からよく追って書かれているものとしては、「檜山良昭の閑散余録」の「永代橋の悲劇」(1)(4)がすこぶる、よい。特にこの(2)を読むと、この年の『深川八幡祭には特別に盛り上がる事情があ』ったとする。十二年前に当たる寛政七年の『祭礼のときに、町内同士の大きな喧嘩があった。このために町奉行所が氏子町の山車や練り物を禁止していたの』だが、この文化四年は実に十二年振りにそうした禁制が解かれ、『許可が出たというので、各町内が盛り上がっていたし、見物人の期待も大きかった』。しかも七月末からは出版業者が『「祭り番付」を売り出して、祭りを盛り上げていた。「祭り番付」というのは、一枚の紙にそれぞれの町内の山車や練り物の内容を書き入れた一覧表で』、『祭りに便乗して』、一枚二文で『売り出したので』すあった。祭りは八月十四日に始まり、十五日が「渡御(とぎょ)」と『言って、八幡宮、大神宮、春日宮の三つの神輿が担ぎ出され、氏子町内を練り歩く。また、それぞれの町内の山車や練り物が八幡宮の境内に集結しようと動き出す』という予定であったところが、十五日が雨で、この十九日に延期となり、『この延期がいっそう人々の期待を高めたと』される。また、事件当日十九日早朝には、『本所の撞木橋のたもとで首を掻き切られた』十七、十八歳の『若い女の死体が見つかった。この情報が広まると、ついでに現場を覗いてみたいという野次馬が早朝から深川に集まった』ともある。崩落は午前十時半前後に発生したらしいが、その辺りは是非、檜山氏の精密巧緻な(2)及び(3)のそれをお読みあれ。

「絕墜にはあらで」「たえおつるにはあらで」。老朽化したり、流木などによって損壊して崩落したのではなく。

「中ば」「なかば」。半ば。但し、先の檜山氏の「永代橋の悲劇」(2)によれば、最初は『深川寄りの位置で橋が崩れ落ちた』とある。

「撓て」「わたみて」。先の檜山氏の「永代橋の悲劇」(によれば、『太田南畝の計算では、そのときの永代橋の坪数は』四十八坪、一坪に二十人として、およそ九百九十六人。一人の体重が十貫(三十七・五キログラム)として、九千六百貫(三十六トン)の『重さが橋に懸かっていた』とある。

「推行」「おしゆく」。

「推れて」「おされて」。

「據なく」「よんどころなく」。

「白刃」「はくじん」。

「拔て」「ぬきて」。

「振𢌞し」「ふりまはし」。

「驚懼て」「おどろきおそれて」。

「逃行」「にげゆき」。

「橋の陷りたる形あらはれて」先の檜山氏の「永代橋の悲劇」(2)によれば、崩落直後に実に十二間(二十二メートル弱)もの『長さにわたって横倒しになった。その付近にいた群衆が川に投げ落とされたのはいうまでもないが、後方ではそんなこととは知らない群集が前を押し』た結果、人々は『トコロテンのように押し出されて落ちていった』とし、『橋の中ほどで一人の侍が欄干につかまりながら、右手で刀を振り回した。これをみた周囲の群衆が、「喧嘩だ!」「抜いたぞ!」と叫ぶ、後方に押し戻したので、群衆の流れがやっと止まった。この機転のせいで、犠牲者がさらに増えるのが止められた』。『楽しい祭りは、一転して阿鼻叫喚の地獄と化したので』あった、とあるから、見通しさえあれば、その大崩落の現状は容易に確認出来たのであった。だからこそ、この全容が後続の者らに見えた時点(恐らくは十数分のことであったろうと思われる)でようやく、後ろの人々はそれに気づき、「水死の難を脱れたるもの數を知らず」なのである。この助かった彼らはしかし、助かったかも知れぬ、先行した人々をやたらに押し、結果として墜落させ、溺死させた人々でもあったのである。

「如ㇾ此」「かくのごとき」。

「推戾す」「おしもどす」。

「頓知」「とんち」。ここは火急の事態を認知して機転を利かせて抜き身を振り上げたことを指す。

「數多」「あまた」。

「救し」「すくひし」。

「感賞すべき」褒め称えるべき。

「予」「よ」静山。

「遇し」「あひし」。

「推入られて」「おしいれられて」。

「乘て」「のりて」。

「半ば出て立てある抔にて」「なかばいでてたちてあるなどして」。水中の人間ピラミッドの凄惨さが描かれる。次の次の注の檜山氏の引用を参照のこと。

「云ふらす」「いひ觸らす」。

「水死百五十二人」「永代橋の悲劇」(によれば、『実際には千数百人もの人間が川に落下した。先に落ちた人は、後から落ちた人の下敷きになって大部分が助からなかったらしい。幸いなことには、多数の御用船が警備のために付近に浮いていた。事故が起こるや、これらの川舟が橋が崩落した場所に急行して、大勢を救助した。また、自力で岸に這い上がった人も少なくなかった』。『事故直後は怪我人』は五十人ほど『という情報が流れたが、八つ半時』(午後三時頃)には凡そ八十人、夕方には百八十人『くらいと、時が経つに従って数が増えていった』。『救助のために陸から川に飛び込んだ人も』あったとして、具体な種々のケースを詳細に記しておられる。『夕方までに集結した救助船は』百四十四艘、『溺死者を含めて』七百四十五人を『引き上げた』。『祭り見物というので、子連れが多』く、『引き上げられた遺体は哀れを誘うものが少なくなかった』とし、『「小屋のうちに老女がひとり。六、七歳の女子を手をつないだまま揚がり、老女の腹の上に近江屋何のなにがしの娘と書いた手紙が乗せてあったという。また、二十四、五歳の武士の帯を十歳ばかりの男児が右の手で握ったまま引き揚げられたそうである」』とある。『夕方には河口の佃島のほうで』、百人『あまりも投網で引き上げた。その中にはまだ生きている人もいた』。『「同日夜になっても家に帰らない人が多いので、迎えの家族や親類が紙幟(かみのぼり)に町名と氏名を書き、そこここに集まっていた。その数が幾万人ともしらない。また、迎えの二番手、三番手がつぎつぎに重なり、江戸中の騒ぎは人命にかかわるだけにたとえようがないほどであった」』という。『夕方までに引き上げられた遺体は』百九十四人で、その内の八十九人が『家族によって引き取られていった』(静山の同心からの聞き書きより、死者の数は四十二人多く、引き取り手のなかった遺体は四十二人少ない)とある。「永代橋の悲劇」(4)には翌日の惨状が語られ、二十日正午に町奉行所に提出した死者の人数は三百九十一人『に達した。そのころ佃島の方では、小舟を出して捜索に当たった』漁師らが、七十九人を『引き上げていた。この中には一夜を水中で過ごした半死半生の生存者もい』たとある。以下、事後の幕府の対応が載り、生活困窮者に限って、見舞金が下賜されたというものの(金額はリンク先を参照されたい)、『見舞金を受けとったのは一家の稼ぎ手死亡が』八人、負傷が五人、家族の死亡が二十三人、負傷が十人と、『死傷者に比べてあまりに少ないので』ある『が、これは生活困窮者として名乗り出るのを恥とする意識が強かったから』と思われる、とある。当然、幕府は事故の責任も追及、三名の『橋請負人、橋係りの番人、祭礼のさいの橋掛かりと橋周り役の合計』三十四名が『入牢。町奉行所の橋役人と道役人、それに仲町と森下町の名主が預かり処分』されている、とある。

「百三十人は死骸を引取る。七人は引取らず。十五人は引取て後死す」この数値、差し引きがぴったり合っているところが、寧ろ、嘘臭い。

「駭恐て」「おそれて」。

「省るに」「かえりみるに」。戻って点検してみると。

「奸盜」邪まなる悪心に満ち満ちた、非情の盗賊。

「詭術」「きじゆつ」。人を偽り騙す方法・手段。やはり檜山氏の「永代橋の悲劇」(4)にも、事故直後から『遺体が並べられている永代橋の南詰めには、肉親の安否を気遣う家族が大勢押しかけていた。その混雑に紛れて、遺体を確認するふりをして所持品を盗む泥棒が少なくなかったので』、二十日『朝からは身元確認のための検視をしてから、家族に引き渡すことになった』とある。また、『悲劇の中にも笑い話があ』ったとして、『本郷に住む麹屋は祭り見物に出かけたところ、途中でスリに財布をすられてしまった。一文無しでは見物にも行けないと、引き上げて帰り、寝てしまった。翌朝、町奉行所から遺骸を引き取りに来るようにと連絡があったので、不思議に思いながら永代橋まで出かけた。そこですられた財布を見せられたという』。『財布の中に自分の住所と氏名を書いた紙を入れておいたので、スリの遺体を自分とまちがえられたのである』。『神田小川町の猪飼という商家の息子2人は下男と一緒に見物に出かけて事故に遇った。橋が切れるときに兄弟は渡りきろうとしていたので、橋際に飛び跳ねて難を逃れたが、下男が落ちた』。『家に帰って、下男を心配していると、夜遅くずぶぬれになって帰ってきた。「良かった。良かった」と家族全員で喜んでいると、「落ちるときにこんなものを拾いました」と、下男が財布を出して見せた。落ちる瞬間に、隣で倒れている人の胸の上にあるのをとっさに拾ったのだという』。『「自分の命が危ういときに、すばやく他人の財布を拾うとはあきれた奴だ」』ともある。

「堂兄」従兄(いとこ)の意。

「稻垣氏」不詳。

「樓上」茶屋の二階。

「濡たる」「ぬれたる」。

「體」「てい」。

「疑ひ見ゐたる中に」不審なことと見咎めて、よく観察してみたところ。この静山の従兄である稲垣氏がこれを見たのは崩落から間もない頃のことで、永代橋からは少し離れていたのであろう。だから永代橋の崩落の事実を知らないので、濡れ鼠の男女をまず不審がったのである。

「銀鼈甲の櫛簪」「ぎんべつかふ(ぐんべっこう)のくし・かふがひ(こうがい)」。タイマイの甲と銀を素材とした高価な飾り用の櫛(くし)・笄(こうがい)。

「一束」「ひとつかみ」。

「走り行」「はしりゆく」。

「跡より一人追かけ行ける」これは転落しながらも陸(おか)へ辛うじて上って助かった女性で、奪われたことに気づいた、その執念であろう。慌てた盗人(ぬすっと)は足を滑らせ、笄の尖った先で目でも突き刺すがよい。

「盜取たる」「ぬすみとりたる」。

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