甲子夜話卷之三 4 松平乘邑の爲人幷有德廟老臣の威權を助け玉ふ事
3-4 松平乘邑の爲人幷有德廟老臣の威權を助け玉ふ事
乘邑は剛毅の資質なり。御用部屋にて認物をして居らるゝとき、御取次衆來り、御用のこと候。參らるべしと申せども、返答なく、やはり認物をする故、又押返し、御用にて召され候と云へば、そのとき、我等も御用にて認物を爲て居り候、と申せしとなり。當時御取次衆大に悍ることなりしと也。日日出仕の後、御取次衆御用部屋の入口にて、坊主に、例の笑は出候やと問、例の如く高笑出候と云へば、即入りて御用を申傳ふ。又今朝は未だ笑出申さずと云へば、其儘戾りて、御用部屋へは入らざりしとなり。此人笑癖ありて、常々高聲に笑ふことなりしとなり。御取次衆などの悍るかくの如し。又德廟にも、御取次衆へ、この事かの事、左近承知するかすまじきか、先試に申て見るべしと御諚あることあり。御取次衆御用部屋に來りてその事を云へば、御無用然るべしと云こと折々あり。夫より御取次衆、御前へ出て申上れば、そりや見たことか、それならよしにせよと御諚ありしとなり。これわざと老臣の威權を助けらるゝ御深慮なるべし。誠に君德の大なること、百載の後に聞て仰感に堪へず。
■やぶちゃんの呟き
「松平乘邑」老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。複数既出既注乍ら、本巻初出なれば、再掲しておく。肥前唐津藩第三代藩主・志摩鳥羽藩主・伊勢亀山藩主・山城淀藩主・下総佐倉藩初代藩主。ウィキの「松平乗邑」によれば、元禄三(一六九〇)年、『藩主であった父乗春の死により家督を相続』正徳元(一七一一)年には『近江守山において朝鮮通信使の接待を行って』おり、早くも満三十七歳の享保八(一七二三)年には『老中となり、下総佐倉に転封とな』った。これ以後、足掛け二十年余りに亙って『徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。『水野忠之が老中を辞任したあとは老中首座となり、後期の享保の改革をリード』、元文二(一七三七)年には勝手掛老中となっている。『当時は吉宗が御側御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。『大岡日記』によると』元文三(一七三八)年、『大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を』三年に『渡って実施する件に』就き、七月末日に『御用御側取次の加納久通より許可が出たため、大岡が』八月十日に『勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を一時断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている』。『主要な譜代大名家の酒井忠恭が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外』され、また乗邑は『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の家重が後継となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年の家重の第九代将軍就任直後に老中は解任、加増一万石を没収された上、『隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられ』ている。享年六十一。ともかくも徳川綱吉・家宣・家継・吉宗・家重と五代に亙る将軍に仕えた長老であった。
「爲人」「人と爲り」「ひととなり」。性格。
「有德廟」徳川吉宗。
「御用部屋」江戸城内で大老・老中・若年寄が詰めて政務を執った部屋。ここで幕政の決議が行われた。当初は将軍の居室に近い「中の間」であったが、綱吉の治世の貞享元(一六八四)年八月に若年寄稲葉正休(まさやす)による大老堀田正俊刺殺事件が起きてからは、将軍の居室からは遠いところに移された。
「認物」「したためもの」。公文書の製作。
「御取次衆」将軍の取次としては将軍近習の「側衆」があり、幕府初期には将軍の意向を背景に大きな権力を持つ場合もあったが、後には老中合議制が形成されて将軍専制が弱まると、実権も弱まった。以後の側衆の役割は将軍の身の回りの世話などをする存在となったが、五代将軍徳川綱吉の時代には老中と将軍の間を取次ぐ「側用人」が設置され、ここではそれを指す(乗邑の老中就任は綱吉の治世)。吉宗の治世には一時、廃止されたが、「御側御用取次」が同じ役割を果たしている(ここはウィキの「取次(歴史学)」に拠った)。
「悍る」「はばかる」。「憚る」と同義。ことさらに気を使い、畏れ敬して遠慮をした。
「御取次衆御用部屋の入口にて」「御取次衆」が「御用部屋の入口にて」。
「坊主」茶坊主。特にここではその中でも老中の身の回りの世話を担当した奥坊主を指す。
「笑」「わらひ」。
「出候や」「いでさふらふや」。
「問」「とひ」。
「即」「すなはち」。
「申傳ふ」「まうしつたふ」。
「左近」乗邑。彼の官位は左近衛将監(さこんえしょうげん)。
「先試に申て」「まづこころみにまうして」。
「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」。仰せ。
「御無用然るべし」「その儀はなさらぬが御肝要と存ずる。」。
「そりや見たことか、それならよしにせよ」暴れん坊将軍吉宗のナマの肉声が聴こえてくる、いいシーンではないか。
「わざと老臣の威權を助けらるゝ御深慮なるべし」あえて老臣の威厳を保たれんとする名君吉宗公の御深慮であったに違いない。
「百載の後」百年の後。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年で、百年前は和暦で享保六年、吉宗の将軍就任は享保元(一七一六)年である(将軍職を長男家重に譲ったのは延享二(一七四五)年)。
「仰」「おほせ」。
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