谷の響 四の卷 六 鬼に假裝して市中を騷がす
六 鬼に假裝して市中を騷がす
こも文化の末の頃、紺屋町に飴賣の三太と言へるものあり。七月の盆躍に鬼の形姿(かたち)にいでたゝんとて、身體に紅がらをぬり面をおそろしくいろどり、角をうゑたる髢(かつら)をかむり虎の皮の犢鼻褌(ふんどし)をしめたるが、元より長(たけ)高く肥太りて、眼と口はまことに大きく鼻はひしげたるものなれば、實の鬼とも見られたり。さるに此三太、下土手町の四ツ角にて酒に醉ひ喧嘩をしいだし、やうやうに逃げたれば後より追手の來りせまりて、鍛冶町の桶屋某が檐下(のきした)に有りし荼毘桶の中にかくれて、追ひかけし者はかゝるべしとはしらざれば、たつぬる隈もあらずして手をむなしくして反りけり。
三太はやゝ心落付思はず荼毘桶の中にありて眠りけるが、早くも夜の明はなれてあたりの桶屋ども業をいとなむ音に目をさまし、脱(にげ)出んとしてそと蓋(ふた)をあけ、あたりを見れば往來の人多くして出るによしなし、又しばししてあけて見てもいよいよ往來多ければ、すきをうかゞはんため四五度もふたをあけたりしが、この時向ひなる桶屋の妻小兒にいばりをさせながらふと此方を見れば、荼毘桶のふたおのづとあかりていとおそろしき鬼の首をさし出せるに膽をつぶし、家内の若者どもに斯くと知らすれば、若者ともゝいぶかりながら氣を付けて見て居るに、果して鬼の首の出でたれば皆々おどろき、ひそかに近所の若者どもと示し合せ、手々に棒をひつさげ引出して打殺さんとて、十四五人のものこの荼毘桶を取りかこみ手をおろさんとひしめきけるを、三太は内にて樣子を聞ききてんの才を出し、わつと一聲大音に叫び大手をひろげて出でたれば、さすがの者どもこの一聲に氣を呑まれて思はず後へ逃げされり。
三太は玆ぞと脱出たるに、それが通りの親方町・元寺町にて赤鬼は出にしとて往來何となくさわぎたるに、この鍛冶町の若者ども棒杠木(ちぎりき)にて追ひ來り、鬼や見ざりし赤鬼や來らざりしと口々にわめきたるに、いよいよ大騷ぎとなり大勢つどひて追ひかくれば、鬼はいたく苦しみて寺小路なる叔母がもとに會釋もなくのかのかと入りたるに、叔母も家内も仰天し一步一趹(こけつまろびつ)外面(とのも)へ逃出し、鬼よ鬼よとわなわなしけるに、いよいよ人がむれ來つれば役筋の人押とゝめ、驚く鬼をひつとらへて高手小手にくゝりあげ、元寺町にあづけて吟味をなしたるに、鬼はおそれて有し事ともを聞え上げたるに、役筋の人も腹をかゝへるばかりなり。されどさしたる科もあらざれば、市中をまわして御ゆるしになりしとなり。
[やぶちゃん注:「谷の響」では珍しい徹底した滑稽譚で、まことに市井の人々の姿や声が生き生きと写されていて、素晴らしい話柄となっている。最後にお役人さえ腹を抱えて大笑いするのが目に見えるようではないか。
「文化の末の頃」文化は一八〇四年から一八一八年まで。
「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「飴賣」「あめうり」。
「盆躍」「ぼんをどり」。
「身體」こで「からだ」と訓じておく。
「紅がら」「紅殻」。ベンガラ(オラン語:Bengala)。インドのベンガル地方で産したことから。当て字で、「弁柄」とも書く。赤色顔料の一つ。酸化鉄を主成分とする鉱物顔料。
「面」「おもて」。顔面。
「髢(かつら)」「髢」(音「ダイ・テイ」)は本来は訓で「かもじ」と読み、婦人の髪に副え加える入れ髪を指す。
「鍛冶町」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「荼毘桶」「だびをけ」或いはこれで「かんをけ」と当て読みしているかも知れぬ。死者を入れる座棺の火葬用の棺桶。
「たつぬる隈」ママ。「隈」は「くま」。探すべき暗がり。物蔭。
「反りけり」「かへりけり」。「歸りけり」。
「落付」「おちつき」。
「思はず荼毘桶の中にありて眠りけるが」ここで、しかも棺桶の中で寝るというのが、馬鹿三太でしょうが!
「明はなれて」「あけはなれて」。すっかり明け切って。
「業」「わざ」。仕事。
「脱(にげ)出ん」「にげいでん」。
「そと」そっと。
「いばり」小便。
「此方」「こなた」。
「あかりて」「あがりて」。「上がりて」であろう。
「膽」「きも」。
「きてん」「機轉」。
「玆ぞ」「ここぞ」。
「脱出たるに」「にげいでたるに」。
「それが通りの」そこが通りの並びにある。
「親方町」現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。鍛冶町に接した北側。
「元寺町」現存。親方町に接したさらに北のここ(グーグル・マップ・データ)。
「杠木(ちぎりき)」二字へのルビ。「杠」は「梃(てこ)」や「ゆずりは(ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum)」の訓があるが、それ以外に「旗竿」や「一本橋」の意があるので、ここは普通の棒よりもやや長めのそれを指すものと採る。
「寺小路」現在の弘前市元寺町小路(もとてらまちこうじ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の元寺町の北部の東に接しており、話柄展開上の三太の逃走ルートとしても全く滞りがない。
「一步一趹(こけつまろびつ)」四字へのルビ。
「役筋の人」町同心か、その配下の岡っ引きや辻番の者。
「押とゝめ」「おしとどめ」。押さえつけ。
「高手小手」「たかてこて」。両手を後ろに回して首から肘・手首に繩をかけ、厳重に縛り上げること。
「科」「とが」。
「市中をまわして御ゆるしになりしとなり」ここがダメ押しの大笑いである。鬼の完全装備の恰好で雁字搦めにされた飴売りが、ただただゆっくらと御城下を「見せしめ」に引き回しにされるのである。それが彼への唯一の処罰であって、その後は解き放しとなったのである。弘前の街にこだまする庶民の笑い声が本当に楽しい。このコーダこそが、「谷の響」中の喜劇的特異点、「凸」である。]